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池田晶子さんのレビュー一覧

投稿者:池田晶子

紙の本新・考えるヒント

2004/01/06 13:26

著者コメント

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 小林秀雄が好きである。何というのか、おいしいなあ、小林を味わうことは、すなわち人生を味わうことなのだとは、この歳になって、いよいよ深い実感である。
 で、この「好き」が昂じて、いやむしろ病膏肓に入るというべきか、今回このようなものを書いてみた次第である。『新・考えるヒント』、言うまでもなく彼の『考えるヒント』の向こうを張るものである。いや「向こうを張る」というのは正確ではない。むしろ「上前をはねる」と言うべきか、いっそ堂々たる贋作と言った方がいいかもしれない。全十五篇のタイトルすべてを、彼のそれから拝借したものである。
「常識」から始まり、「言葉」「哲学」「歴史」「物」など、例の素っ気ないタイトルをそのまま、(なんと「還暦」まで入って)おしまい「無私の精神」まで、お借りして書き下ろしたものである。
 タイトルだけではない。文体までそっくり真似たものである。いや真似ようとして真似たわけではない。「無私の精神」、精神(ロゴス)の必然に沿って書いてゆくと、自ずから、彼と我とが判然としない境域に入ってしまうのである。「乗り憑られた」というと誤解があろうが、言葉(ロゴス)とは本来そういうものだろう。むろん創作と言えば創作なのだが、ロゴスそのものは私が創作したものではない。あるいは、人称と非人称の間に文体が現われるのは、まさしくそれが魂だからだと言うこともできる。このへんの案配が、哲学論文ではない哲学の文章を書くことの面白さだとも言えるだろう。
 私は、大学ではいちおう哲学という学問を専攻したけれども、学問としての哲学という形式は、人が、「常識」つまり当たり前なことについて本質的に考える場合、必ずしも必要ではないか、むしろ困難なのではないかと予感していた。ところが、卒業の前後に小林秀雄に出会い、ああやっぱりそうだった、予感は的中し、揺ぎない確信へと変わった。私が、専門用語によらない哲学の文章表現という、ジャンルの定かでないこの文筆の仕事を、確信とともに開始することができたのは、小林秀雄という先達のおかげだと言っていい。彼には、哲学ではなく批評という形式でなければならなかった理由も、今回書いてみて改めてわかった。つまり、彼が何を狙い、何を拒んだのか。
 彼は、哲学そのものよりも、それを考える人間の姿の方を描きたかったのだ。その姿を、この人の世この宇宙に置いてみたとき、それは哲学者が自覚的に語るその哲学よりも、いっそう深い向こう側を語り出すことになる。そのことを彼は知っていたのだ。そして彼はそれを「人生」と呼ぶ。人生は、哲学者だけではなくて、すべての人が生きているところのものだ。いったいこれは、何なのか。
 精神の必然は必ず逆説として現われるが、逆説を逆説として語るためには、自身がその逆説を生きていなければならないという事実に気づいている者は多くない。逆説を生きるとは、逆説を死ぬことである。まさしくソクラテスを見よ。この人物は、逆説がそうであるままに、こともなく毒杯を仰いだのである。語られる逆説は、実はまだ逆説ではない。生きられる逆説こそが、真に驚くべき逆説なのだ。我々の事実なのだ。
 ダイモンに憑かれていない者には、ダイモンのことは語れまい。肉声で哲学を語ることはできはしまい。「ソクラテスには、自分の考えも、他人の考えもない。ただ正しく考えるということだけである」この言葉を、哲学者ではなく批評家から聞くということは、文字通り皮肉なことである。
 さて、自分の考えも他人の考えもない「無私の精神」、「精神の逆説」を語るための文体を、私は彼から学んだけれども、今回の出来は、どうだろう。

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