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虚無坊主さんのレビュー一覧

投稿者:虚無坊主

4 件中 1 件~ 4 件を表示

忘れられた亡命者の復権

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ラース・ビハリ・ボースの名は、新宿中村屋からの連想で思い出す人もまだ少なくないであろう。しかし、日中戦争勃発以前に彼が日本論壇のオピニオン・リーダーの一人として活躍したことを、私は本書を読むまで知らなかった。また、日本に帰化してから、帝国議会議員となることを視野に入れて、差別的な国籍法の改正に動いたという事実にも驚かされた。戦後はその足跡も忘れ去られ、発表された論考はゴミ同然に扱われてきたと著者はいう。
本書の白眉は、日本のアジア主義者たちと対比して描かれるボース像であり、当時同じような環境にあった孫文との歴史的・思想的な接点である。1924年の神戸高等女学校で有名な大アジア主義演説を行う三日前、孫文は、ボースの日本での潜伏を主導した頭山満と八年ぶりに会見する。中国に対する二十一か条要求の取り下げと、特殊利権の返還を働きかけるためである。その孫文に対して頭山は先手を打って「…目下オイソレと(特殊権の)還付の要求に応じるが如きは我が国民の大多数が承知しないであらう」と述べたという。この発言をとらえて、著者は「現実主義に名を借りたポピュリズム以外の何ものでもない」と断じ、頭山を内田良平らとともに「思想を構築することを意図的に放棄」した「心情的アジア主義者」であり、「思想的アジア主義者ではなかった」と切って捨てる。短いが適切な評価であると思う。
ボースは日本の中国・朝鮮に対する帝国主義的政策を批判する論文を雑誌に数多く発表していた。日本国籍を既に取得こそしていたが、インド独立を悲願とした革命家として、思想的には孫文にごく近いところを伴走していたのである。発表の場を提供していたひとつが、心情的アジア主義者とは区別されてよい大川周明が主催していた行地社であった。
しかし1926年に開催された全亜細亜民族会議への関与を契機に、日本の帝国主義的姿勢への批判を次第に弱めていってしまう。満州事変勃発後は中国に対する帝国主義的政策批判を完全にやめる。このことに対する違和感こそが、著者のボース研究への衝迫となっていることは間違いない。なぜかという問いを胸に、思想的な系譜をたどっていく道行きの終わりには、しかしながら明確な解答はない。この手の主題を扱った本の通弊といってしまえばそれまでだが、主題そのものがアポリアを抱えているとみるべきなのだろう。
ともあれ、玄洋社・黒龍会系の人物を顕彰する書物の中で、半ば講談調で語られるのみの中村屋譚の中の忘れられた亡命者を、思想的な高みからとらえ直すという地道な作業を行った著者の労を高く評価したい。

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紙の本帝国主義論

2007/02/24 21:49

時は巡り、歴史のゴミ箱に捨てられかけた古典はアクチュアリティを増した

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

訳者は解説の中で少し遠慮がちにこう述べている。
「社会主義経済を意識する必要のなくなった資本主義は、マルクスの描いた資
本主義、つまりレーニンが理解していた資本主義に近づきつつあるようにも見
える」。
「見える」どころではない。
金融資本を取り上げた本書の中に出てくる「金融を操る『天才ども』」はディ
ーラーと名を変えた。「一般の資本家の事業内容に関して個別の正確な情報を
入手」して寡占・独占を推し進める独占資本家はM&Aという、専門職種とし
て確立された。
いずれもマスコミで「勝ち組」として華々しく取り上げられる名士たちだ。
苦労話や教訓をちりばめた記事は、一種の立志伝として少しずつ無害化されて
私たちの脳髄に刻まれていく。
レーニンはこうした見方に対して、別の見方がありうるといっているように思
う。アクチュアリティをまだ失ってはいないのである。
日本の世界に冠たる大企業が半公然と偽装請負を利用し、財界人は解雇要件を
緩和した労働法改正を、政府に実行させた。
日本資本主義は、自らの資本の再生産に欠かせないはずの労働力の再生産さえ、
経済のグローバル化に伴う競争の激化を理由に、かなぐり捨て始めている。
マルクスは、労働者にとって最も過酷であったと思われる資本主義勃興期の経
済を観察してさえ、賃金の構成要素として、労働者の子どもの教育費をも勘定
に入れることができたというのに。
現在その餌食となっているのは、収奪される若者たちだろう。今でこそまだ勤
勉な彼らがいずれ恒常的な犯罪者予備軍に転化していくのは時間の問題である。
いまこの古典から示唆を受け取ってもらいたいと、著者レーニン自身が望むの
は、疑いもなく「階級」という範疇からも漏れてしまったこの層に外ならない。
それが、昼飯を一食我慢すれば買える値段で、マルクスのマの字を知らなくと
も理解できる平易な日本語で読めるのである。

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切れ味鋭い敬語論

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

書名からするとよくある実用書のたぐいで、多くの場面で適切な、しかし同時に煩雑でもある敬語の用法を紹介(強要か?)したものと想像してしまうが、本書は全く違う。
敬語の使われる場面を、話者—聞き手、話題の中の行為者(為手=シテ)—受け手というふうに整理してみせ、敬語とは、以下の三つに尽きると喝破する。
・丁寧語……話し手が聞き手を上位とするときに用いられる語。
・尊敬語……話し手が話題の人(為手または受け手)を上位とするときに用いられる語。
・謙譲語……話し手が、話題の中の為手と受け手のあいだの上下関係をとらえたときに用いられる語。
この一見貧弱な武器を引っさげて、国語学者百人百様の敬語論、国語の教科書や辞書の敬語の説明、国語審議会の建議「これからの敬語」(昭和二十七年)をなで斬りにしていくのだが、その切れ味たるや見事というほかはない。あとがきによれば、みずから「萩野式」と呼ぶこの敬語論は、言語過程説で有名な時枝誠記が『國語學原論』のなかで展開した敬語論であり、その正しさは「六十年以上たったいまもいささかもゆら」がないと断言する。時枝言語過程説については、吉本隆明も『言語にとって美とはなにか』で高く評価していたひとりだが、その吉本が新聞に発表したという「ら抜き表現」擁護論の誤りに対しても、著者は反論の余地がないほど的確な批判をしている。敬語の乱れは、つまるところ敬語論の乱れであり、学者先生ならぬ私たちが使い方を間違えるのも無理からぬものがあると、思わず安心してしまうほどである。

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法制史家の明治憲法論

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

条約改正を大きな目標として、岩倉使節団に参加した元勲たち、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らの万国公法(国際法)に対するいじらしいまでの素朴な信頼から話は始まる。その信頼はナショナリズムとリアル・ポリティックスが渦巻く訪問先の欧米各国を目の当たりにしてあえなく崩れ去る。条約改正交渉の失敗から、彼らの目は国内法としての憲法制定に向かう。
約十年後の伊藤の欧州留学は、憲法制定という政治課題について大隈重信や井上毅にリーダーシップを奪われた危機感から、伊藤が打ち出した秘策であったという。だが、伊藤が学んだドイツの憲法学者グナイストは、ブルガリアの例を持ち出して、日本の憲法制定は百年早いと暗にほのめかしたり、これから議会制度を開こうという日本に対して、議会に予算議決権を与えてはならないと助言するなど、伊藤をたびたび失望させた。
内容の紹介はここまでにとどめ、不満をひと言。久野収の『現代日本の思想』は画期的な北一輝論であり、かつ独創的な明治憲法論でもあった。明治憲法のエグゾテリッシュ(顕教的)/エゾテリッシュ(密教的)な両義性が『憲法義解』の著者、伊藤の天才なくしてはありえなかった創造物であると論じた。すなわち、たてまえとしての天皇制絶対主義と、本音としての立憲主義(権限なき君主)の同在。北は明治憲法の秘密を的確に読み解き、逆手にとって『国体論および純正社会主義』を書く。明治憲法に対する見方が、久野以後どのように展開されているのかを期待していた私としては、いささか当てが外れた恰好だ。だが、今まであまり紹介されてこなかった明治憲法に対する当時の欧米の知識人(なんとアメリカの著名な判事ホームズを含む!)の総じて高い評価など、興味深いエピソードが多く紹介されていて、決して飽きない。二〇〇四年、第四回大仏次郎論壇賞受賞。

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