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  3. 稲葉 芳明さんのレビュー一覧

稲葉 芳明さんのレビュー一覧

投稿者:稲葉 芳明

115 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本靖国問題

2005/06/16 20:45

「靖国」=国家の政治的意思の象徴

32人中、31人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小泉氏の、小児的依怙地さとしか思えない靖国参拝への固執——この行為がアジア諸国に及ぼす少なからざる悪影響が、ここ暫くマスコミで取り上げられている。中曽根某がまたぞろ出てきて、「参拝しないという行為も立派な決断だ」と述べたり、現職の議員から「国益を鑑みて参拝を慎んで欲しい」という発言があったりと、現世利益を何より優先させる日本人のメンタリティを反映してか、「喉元過ぎれば・・・」的取り合えず参拝見合わせの発言が多いようだ。
その反面、政教分離に抵触する靖国神社のレーゾンデートル自体を問題にしたり、首相の靖国参拝が何故これ程中国や韓国の国民感情を逆撫でするのかを、的確に且つ分かりやすく分析した言説は非常に少ない。そういう意味では、一般国民は「靖国問題」に関して情報飢餓状態に置かれており、偶々出版のタイミングが合った本書(構想はかなり前からあったようだ)が忽ち版を重ねているのも、或る意味で当然なことである。というのも、本書は、靖国神社がどのようなものであるか、その歴史的経緯を明らかにしているのは勿論、そこから更に一歩踏み込み、「靖国問題とはどのような問題であるのか、どのような筋道で考えていけばよいのかを論理的に明らかにする」(本書「はじめに」より)ことを主眼としているからである。靖国問題の素人である自分自身、非専門家にも分かる言葉を用い、曖昧さの無い論理展開を行なう本書を読み終えて初めて、靖国問題の全体像が見えてきた(気がする)。

首相の靖国参拝が何故斯くも問題になるのかを、本書は「感情」「歴史認識」「宗教」「文化」「国立追悼施設」の五つの観点=章で順に分析していき、「靖国問題」にまとわりつく様々な問題を、それぞれ個別に分けてきちんと分けて説明してくれる。このアプローチは大変有難い。
ぼくがとりわけ唸ったのは、第四章「文化の問題」である。江藤淳の文化論的靖国論を俎上に上げ、この批評家の論(もどき)が歴史的にみて如何に誤謬に満ち、如何に我田引水的論理ねじれ現象を起こし、恣意的なミスリーディングを行なっているかを、逐一検証していく(二昔前、偽ユダヤ人イザヤ・ベンダサン(=山本七平)の詐術が暴かれた時にも似た快感を覚えたのは、ぼくだけではなかろう!)「靖国問題」について語りにくいのは、そこに、文化に根ざした(ただし正確に言えば、古来からそうだったわけでなく、明治以降政治的に新たに造られた)「感情」が纏わりつくからである。それ故、思想と感情がねじれ現象を起こし、靖国に対する視点を混濁させてしまう。
反動的勢力(「新しい歴史教科書を作る会」がその典型的デマゴーク)は、とかく「日本」を、世界史において独自の存在と看做したがる。靖国が象徴する日本人の死生観もその一つだが、本書を読み終えた後は、“靖国神社とは、所詮、富国強兵の錦の御旗を掲げてきた国家の政治的意志による産物”に過ぎないのだと、何か憑き物が落ちたような気分になることだろう。

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紙の本わたしを離さないで

2010/09/12 12:40

もう一つの「アルジャーノンに花束を」

16人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「朝日新聞」8月12日読書面“ゼロ年代の50冊 2000-2009”で取り上げられているので、書評を書いてみます。

 1990年代末のイギリス。31歳の女性キャシーが、ヘールシャムという施設で学んでいた頃のことを回想して語り始める・・・。この小説の粗筋で紹介出来るのはここまででしょう。この本を存分に堪能するためには、これ以上予備知識は持たない方がいい――ということで、物語に触れられない分、他の観点からこの書を紹介してみます。
 主人公を取り巻く<謎>に関しては、回想が進んでいくうちにおいおい明らかになっていきますが、別にミステリではないので、<謎>がこの小説の核になっているわけではありません。ではこの小説世界を成立させている根幹は何かというと、それは、生きること、とりわけ青春期の輝きと美しさと儚さと哀しさだと思います。話の内容は全く違いますが、『アルジャーノンに花束を』の感触に近いところがあって、読み進めていくうちに、キャシーやトミー、ルースの人生がたまらなく切なく感じられてきます。
 また、『日の名残り』で見せたあの小説技術の上手さは、一層磨き上げられています。回想も、時折時間を前後させていて、読み手をぐんぐん物語世界に引っ張っていく筆力は大したものです。私は後に原書でも読んでみましたが、息の長い、非常に精緻に組み立てられた文体は、それ自体が読者を捉えて離さない力と魅力を有しています。
 小説好きな人と存分に読後感を語り合いたくなる、そんな秀作。

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紙の本セーラー服とエッフェル塔

2006/04/27 20:38

日本国憲法を考える一助に・・・憲法記念日を前にして

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本は、数年前単行本で初めて読んだ折、相当な知的興奮を感じました。文庫版で出たのを機に再度読み直してみて、改めて面白く感じたのは言うまでもありませんが、実は「前回読んだ時はさほど思わなかったが、今度読み直してみたら、その示唆することの余りの大きさと重さに更なる衝撃を受けた一篇」を是非とも紹介したくて、レヴューさせて頂きます。
 その一篇とは、「由緒正しい戦争」です。この書に収められた二十数篇は、著者の博覧強記振りを駆使して古今東西の歴史に<仮説>をたて新たな角度から考察するという、あくまで薀蓄を楽しむ知的ライトエッセイです。勿論「由緒正しい戦争」も、そのような観点から書かれているし、著者自身戦争論を書いているつもりはなかったと思いますが、結果として、極めて重大なシリアスな問題を提起しています。
 十頁に満たない短いものですから、是非全文をお読みいただきたいのですが、内容をかいつまんで言いますと・・・、
「太平洋戦争中、もし負けたら、相手は何せ鬼畜米英だから全国民は虐殺・強姦されるものと慄いていた。ところがいざ占領軍が来てみたら、極めて平和的で、<敗戦>とはこんなものかと大いなる誤解を抱いた。しかし、満州に送り込まれていた開拓民の人たちは、日ソ不可侵条約を破棄して雪崩れ込んだ赤軍に蹂躙され、文字通り男は虐殺・女は強姦の憂き目にあった。では、ソ連軍だけが例外的に残虐な行動を行ったのかというと、そうではなく、十字軍以来ヨーロッパに連綿と伝わる<由緒正しい戦争>の則ったものであったようだ・・・。」
 そして、次のような作者の言葉で締めくくられています:
「日本がアメリカに占領されて、民主主義を「押し付けられた」ことを憤っている人たちが多いようだが、それなら、彼らは、ソ連式の「由緒正しい」戦争・占領の方の選択肢を選びたかったとでもいうのだろうか?一度、このことを彼らに尋ねてみたいものである。」
 よく、日本国憲法は押し付けられたものあって、自前の憲法ではないという<暴論>を耳にしますが、敗戦後に作った「自前の憲法」が大日本帝国憲法と本質的に何ら変わらぬ国体護持を第一にした前近代的なものだったからこそ、平和主義・国民主権を柱とした新憲法をGHQは提示したのです。自前の極右的憲法と、押し付け平和憲法のどちらがいいかは、考えるまでもありません。我々が恥ずかしいと思うべき点は、憲法を押し付けられたことではなく、自前で優れた憲法を作れなかった国の前近代的体質です。そして、<敗戦>を<終戦>と言い張り、第九条を骨抜きにして海外派兵をゴリ押しした人たちが問われねばならぬのは、「ではあなたたちは、平和憲法を押し付けるような『例外的占領』ではなく、虐殺と強姦を繰り返す『由緒正しい占領』をして欲しかったのか?」ということです。
 これ以上は、問題が大きくなり過ぎてとてもぼくの手には余りますが、アメリカの侵略といい、ロシアの悲惨な小学校テロといい、「戦争」というもの本質を考えるきっかけになる優れた一篇だと思い、此処にお奨めします。

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デイヴィッド・コパフィールドmeets爆笑感動音楽ドラマ

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昨年その存在を初めて知って以来、私がすっかり夢中になってしまった漫画があります——それは、二ノ宮知子著「のだめカンタービレ」。
現在コミックスが第11巻まで刊行されていて累計部数が何と400万部を突破し、本の紹介誌「ダ・ヴィンチ」が本年4月号で特集を組み、お堅い事で有名なクラッシク専門誌「レコード芸術」までが本年5月号で取り上げるなど、一大ブームを巻き起こしている作品です。書く云う私もこの作品にハマッタ一人で、音楽好きであればある程一層夢中になる、そんな不思議な魅力と面白さを秘めた漫画です。
 天才ピアニストの息子であるエリート指揮者千秋真一(ちあきしんいち)と、ゴミの中で生活するおちこぼれピアニスト野田惠(通称「のだめ」)が繰り広げる爆笑感動音楽ドラマは、多彩な登場人物に笑わせられながら、二つのテーマを提起しています。
 一つは、のだめと千秋の成長の過程に垣間見られる、「青春」の清々しいまでの美しさです。精神的に未だ幼くて脆さを秘めた若者が、様々な人物や事件と遭遇しながら、次第に成長していく——ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」に代表されるようなこのビルドゥングス・ロマンが、この作品の根底にはあります。これが功成り名を遂げた成年が主人公だと、こんな風に誰しも共感を呼ぶまではいかないでしょう。その真っ只中にいる人も、私のように遠い過去のものになりつつある人間も共に巻き込むのは、「青春」という時期を扱っているからです。
 もう一つは、「音楽」の素晴らしさです。スポーツを舞台にした青春物語は枚挙に暇が無い程溢れていますが、「音楽」の素晴らしさを斯くも見事に伝えた漫画は空前絶後でしょう。漫画を読みながら、思わずその音楽をCDを劇伴にしてしまった読者は多いはずです(私もその一人)。
 天衣無縫ののだめの成長を、爆笑しながらハラハラしながら見守り、そして思いもよらぬ時と場合に音楽に酔いしれるこの傑作コメディ。音楽好きなら、絶対必読!

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紙の本テヘランでロリータを読む

2007/01/04 20:40

読者は生まれながらに自由であり、自由のままでいるべきである

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 まず恥を忍んで白状すると、この書が刊行された時、各紙誌で相当いい批評が出ているのには気付いていた。しかしイスラム文化圏に殆んど知識・興味が無く、しかも『ロリータ』を未読というせいもあって、さほど食指が動かなかった。ただ何となく、これは<読むべき>書だという感じがしていて、今度思い切って購入してみたが・・・食わず嫌いをしなくて良かった!これは2006年に読んだ書物の中でも一、二を争う感銘を与えてくれる書だった。
 イスラム革命後のイラン。ホメイニによる新政権が全体主義的度合いを強める中、女性は黒いコートとヴェールの着用を義務付けられ、西欧的価値観を持つものは悉く退嬰的と見做され批判される。英文学を教える著者も大学を追われたが、女子学生7人と、禁じられた英米文学を読む「読書会」を密かに開く・・・。
 概略だけ紹介すると、何やら<『1984年』現代イラン(テヘラン)版>のように思えてくるが、こちらは紛れも無いノンフィクション=現実である。著者は1950年にテヘランで生まれ、13歳から欧米で教育を受け、1979年に帰国後テヘラン大学の教員となる。結局1997年にはアメリカに移住することになるのだが、本書は筆者が大学で教鞭をとっていた頃を中心にした回想録である。
 著者が学生と読む作家は、ナボコフ、フィッツジェラルド、ヘンリー・ジェイムズ、オースティンなどだが、この書は単なる文学論ではない。いや、勿論個々の作家や作品についての批評もふんだんに盛り込まれているのだが、ぼくが最も感銘を受けたのは、個々の作家/作品を学生と共に読み、批評/討論し合う際の筆者の姿勢である。
 例えば、第1部14から少し引用する:「あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど過酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。作者は現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である」。
 このような文学に対する卓見に、読者はそこかしこで出会うことになる。繰り返すが、これはフィクションではなく、戒厳令下のイランで<自由>を限りなく束縛されながら、密かに禁書を読む筆者の実体験に裏打ちされており、極限状況において<文学>は何が出来るのか?そもそも必要なのか?という命題に対する筆者なりの答えでもある。
 文学とは、人間の精神に無限の自由を与えてくれるものであり、文学/想像力によって創り出された世界は、人が人として生きる時に必要不可欠なものであることを、読者は痛切に思い知らされる。第1部で引かれる、ナボコフの「読者は生まれながらに自由であり、自由のままでいるべきである」という言葉を、今の日本で文学を読む自分自身に重ね合わせることこそ、本書が読者に求めていることだと思う。

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紙の本ひとがた流し

2006/08/28 07:27

叶えられた祈り

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 その全著作を読んでいるファンの一人として率直に感想を言わせて頂くと、この新作は北村氏の最高傑作の一つだと思う。
 学生時代から仲が良く、それぞれ社会人となって(家庭を持つようになって)も親密な友人関係を保っている、三人の女性を中心に物語は進む。北村氏の小説・エッセイは概して、話が一直線に進むというよりは、あちらこちらとたっぷり寄り道をしながら展開していくことが多いが、本書も正にそうで、随所に挿入される個々のエピソードや会話が実に味わい深く、小説を読むことの楽しさを味わわせてくれる。

 物語は次第に、女性アナウンサーである千波(ちなみ)に絞られてくるのだが、そこからの展開は、胸をしめつけるような切なさに溢れている。
 とは言っても、北村氏の作品は凡百のメロドラマとは格が違う。作中人物が感情を垂れ流しにしたり、強引な設定で読者に感動を押し付けるような真似はしない。「セカチュー」に代表される、呆れるほどの単純さと初心な世界観の対極であり、個々の人物のストイックな描写によって、生きることのせつなさと哀しさと美しさを語っていく。各々の登場人物が歩んできた人生の重さと尊さを感じ取らせる。円紫さんシリーズの『秋の花』や、『スキップ』に感銘を受けた読者なら、必ずやこの物語にも没入することと思う。
 第十章で、作中人物がこんな言葉を述べている:「人が生きていく時、力になるのは何かっていうと、——《自分が生きていることを、切実に願う誰かが、いるかどうか》だと思うんだ。——人間は風船みたいで、誰かのそういう願いが、やっと自分を地上に繋ぎ止めてくれる」 「人が生きる」ということ、例え思い半ばにして何かを断念しなければならない場合であっても、「人が生きること」には大きな、美しい意味がある——この一見手垢にまみれたようなテーゼを、北村氏は実に瑞々しく語ってくれている。
 シリアスで、切ない物語ではあるけれど、読後感はとても清々しい。それは——カポーティのタイトルを拝借すれば——『叶えられた祈り』の物語に昇華しているからであろう。

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紙の本モモレンジャー@秋葉原

2005/07/28 07:10

知のアクロバット=鹿島ワールドへようこそ!

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 鹿島茂氏の専門は19世紀仏文学だが、古今東西を遍くカヴァーする博覧強記ぶりには本当に感心させられる。学者というのは、一般人の数十倍物事を知らないと就けない職だと分かってはいるが、イカサマ似非教授も多いこの御時世、氏のような本物の「学者」の存在に触れると、感心を通り越して感動すら覚えるほど。
 ぼくは、そんな博学な鹿島氏の著作を愛読している一人だが、この最新刊も実に楽しく、勉強しながら読ませて頂いた。腰巻に「鹿島教授の奇想天外、なるほど納得のユニーク社会論」と書かれている通り、一見詰まらなさそうな事柄(=トリビア)から話が始まって、これでもかこれでもかと多様な薀蓄が繰り出され、そして発端からは予想もしない結論に辿り着く。このアクロバット的論理展開が、「鹿島マジック」の醍醐味である。例えば、身の上相談の話が、「負け犬」編集者との秋葉原探検の話になり、メイド・カフェとモモレンジャーが共存出来ない結論へと至る・・・。こういう論理展開が出来る人は、象牙の塔に籠もるどころか、俗世間の卑近で猥雑な部分を日頃からよく観察・参加し、尚且つそれを論理的にインテグラル出来る「学者」なんだなと思う。
 これはほんの一例で、「性」「社会」「文化」「動物/食物」の四つの観点から「鹿島マジック」が存分に味わえるが、この中でぼくの一番のお勧めは、「文学の最後の楽園」と題する一品である。小説的想像力から話が始まって、近年のSF文学の衰退、その原因はSF文学を成立させる必要十分条件<仮想敵>の消滅であると分析し、では文学的想像力とは一体何かを論じる。そして最後に、タイトルのように文学にとっての「最後の楽園」とはどこか、という結論が提示されるのだが、ぼくはアッと驚き、次の瞬間ウ〜ンと唸りました。この結論は読んでのお楽しみにしておくが、これはもう薀蓄=トリビアの域を遥かに凌駕している。
 と、笑ったり、感心したり、ニヤッとしたりして全27篇を読み進めていくと、最後の「あとがき」にこうあった。筆者は、トリビアという概念は好きではない、それはトリビアには体系性が無いからだと述べ、こう続ける:「瑣末な細部が輝きを帯びるのは、体系から切り離されたときではなく、体系へと接続され、さらに、その体系を通って別の細部とつながった瞬間だ。それも、思ってもみなかったような回路を通って」。
 成る程、と此処でぼくは納得した。鹿島氏は、細部=トリビア=薀蓄自体が好きというよりも、それをより大きなコンセプト=枠組みの中に一つのピースとして当てはめる知的探索が好きなのだと。だからこそ、その作品は、オタク的な閉鎖領域にとどまらず、ある種の普遍性を帯びた<論>として成立していたのだと。
 「無知の知」の快感を存分に味わえる会心作。あなたも鹿島ワールドへ、ようこそ!

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紙の本吉里吉里人 上巻

2011/03/29 09:02

井上ひさし全著作レヴュー51

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1973年から74年にかけ、『終末から』(筑摩書房)創刊号~第8号に一部が連載。未完で終わった後、『小説新潮』1978年5月~1980年9月に連載され完結。
 「ある(註:物語中には明記されていないが、本文の記述から換算すると1971年)六月上旬の早朝五時四十一分、十二両編成の急行列車が仙台駅のひとつ上野寄りの長町駅から北へ向かって、糠雨のなかをゆっくりと動き始めた」ところから、物語は始まる。三流小説家の古橋健二は、奥州藤原氏が隠匿したとされる黄金探しに熱中している元高校教師を取材するため、雑誌編集者とこの夜行列車『十和田3号』に乗り合わせていた。ところが、一ノ関手前で列車は急停車し、そこから古橋は「吉里吉里国」独立運動に否応なく巻き込まれていく・・・。
 井上ひさし一世一代畢生の大作であり、日本文学史上に燦然と輝く金字塔である。そのスケールの大きさと斬新さ、革新性は、音楽で言えばマーラー『千人の交響曲』、映画で言えばコッポラ『地獄の黙示録』に匹敵し、作品の出現が新たなジャンルを創出した超野心作として屹立している。これくらいの大作・傑作になると寸評を書くのも至難の業だが、自分なりにこの破天荒な長編の面白さを解読してみる。
 まず、本作は<シミュレーション小説>としてすこぶる面白い。東北の一つの村が突然独立を宣言し、日本はおろか世界中を相手に虚虚実実の駆け引きをするプロセスは、24時間生中継で実況放送を見ているかのような臨場感に溢れている。無論、日本政府がそう簡単に吉里吉里国独立を承認するはずもなく、最初は搦め手で後には実力行使で独立を潰しにかかるのだが、これに対して幾つもの「切札(ちりふんだ)」を順次出して丁々発止と対抗するこの遣り取りが、実にスリリングである。「農政栄えて農業滅ぶ」日本vs.食糧・エネルギーを自給自足する吉里吉里国、(当時は)脳死による臓器移植を認めない日本vs.ノーベル賞クラスの医師たちが最先端の医療技術を駆使して「医は仁術」の理念を実践する吉里吉里国、円を通貨とする日本vs.「イエン」を通貨単位として独自の金本位制とタックス・ヘイヴンを運用する吉里吉里国、地方から労働力を吸い上げてがむしゃらに高度経済成長を図った日本vs.地方独自の風土に根ざした生活様式を確立する吉里吉里国――。
 陰画としての日本が抱える様々な「負」の遺産を全て「正」に替えてしまうコペルニクス的発想の大転換、そしてそれを達成するための現実的方策・データの裏づけが、これでもかこれでもかと事細かく提示されていく。読者は読み進むにつれ、最初は呆気にとられたこの途方も無い法螺話=吉里吉里国の独立が、実は我々日本国民が目指すべき理想郷=イーハトーボの出現なのではないかと次第に納得させられ、同調し、遂には熱烈に支持している自分に気づく。しかし、ただ単に情報をてんこ盛りにしてプロットを動かすために登場人物が奉仕する凡百の「シミュレーション小説」とはモノが違う。一人一人の登場人物(善玉も悪玉も主役級も脇役も)が丁寧に肉付けされ、皆生き生きしているのが流石である。
 次に<実験小説>としての面白さ。本作は2500枚全28章から成る大作だが、実は吉里吉里国の独立戦争は僅か1日半の出来事である。数十年数百年にわたる攻防を描くのならいざ知らず、たった40時間弱のプロセスを描くのにこれだけ紙数を費やしたというのは空前絶後である。しかもここには、SF・スラップスティック・推理小説・パロディ等々近代小説のありとあらゆる技法が投入され、互いに異化作用を起こしながら巨大な坩堝の中でグツグツと煮えたぎっているかのような、異様な迫力と途方もないカオス感を放出している。
 例えば、主人公(というか正確には狂言回し)古橋の生涯を、物語の流れ(=独立戦争)を完全に無視して延々と語る。記録係(その正体は最後の最後に明かされる)がしょっちゅう物語の中に介在し、神の視点で物語を展開し、読者を好きなように翻弄する。井上ひさしならではの言葉遊びが輪をかけて激しくなり、もはや暴走の域に達している――等々、とても一口では言い表せないが、吉里吉里国同様、井上ひさしも手の内に在るありったけの「切札(ちりふんだ)」を全て曝け出して、この物語の大伽藍を構築している。
 最後に<メタ小説>としての面白さ。独立により、吉里吉里国は所謂ズーズー弁を母体とする吉里吉里語を「国語」とするわけだが、作者は第二章から第三章にかけて『吉里吉里語四時間・吉日、日吉辞典つき』という小冊子を紹介する。この小冊子において、吉里吉里語の音韻・文法体系・語彙を学術的に紹介していくわけだが、これだけでも優に一冊の本にまとまるくらい微に入り細をうがち詳述していく。ちなみにこの冊子には練習問題まで含まれているが、中には「米国英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を吉里吉里文に翻訳せよというものまであり(勿論模範解答付き)、作者の凝り症というか徹底ぶりにはもう降参である。
 正直、物語を読みつつ、吉里吉里語に対するこの余りの拘り・執着ぶりに、辟易・うんざりさせられることも往々にしてある。しかし、この吉里吉里語の成立こそが、破天荒な大作を成立させている基盤・大前提である。即ち、日本語を捨てて吉里吉里語を選んだ瞬間、人は、食糧・エネルギーを自給自足する吉里吉里国民となれる。最先端の医療技術で「医は仁術」の理念を実践する吉里吉里国民となれる。「イエン」を通貨単位とし独自の金本位制とタックス・ヘイヴンを運用する吉里吉里国民となれる。地方独自の風土に根ざした生活様式を確立する吉里吉里国民となれるのである。悪人正機説ではないが、南無阿弥陀仏と唱えたら極楽浄土に往生できる如く、一旦「日本語」を捨てて「吉里吉里語」を母語として選んだ瞬間、ヒトは吉里吉里人として吉里吉里国=現代日本版イーハトーボに生きることが可能になるのである。これぞ、ヒトの数十倍数百倍も言葉に徹底的に拘ってきた井上ひさしにしか到達し得なかった究極の「言語小説」と言えるのではないだろうか。
 他にも記したいことは山ほどあるが、この小説の面白さ・凄さは今なおちっとも色褪せていない。というか、久方ぶりに読み返してみて、こんなに凄い小説だったのかと改めて井上ひさしの偉大さに平伏すのみである。

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紙の本物は言いよう

2005/04/10 08:34

フェミニズム論実践(実戦)篇

8人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

5年前(2000年)に、遥洋子著『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』という書が筑摩書房から刊行された。
中身は、大阪を中心に活躍するタレントの遥氏が、東大の上野ゼミでフェミニズム・ジェンダー論を学んだ三年間を綴った勉学苦闘記である。関西のタレントが、東大の大学院というアカデミズムの頂点=異界に身を投じ、そこで悪戦苦闘(という比喩ですら生ぬるい超猛勉強)を強いられる、ドキュメンタリーとしての面白さ。その中で、遥氏が自分を鍛え上げ、遂にはかつて受験して門前払いを喰らった大学で講座を持つに至るまでの青春小説的成長譚。そして、フェミニズムという理念の根本を噛み砕いて教授してくれる、入門書(啓蒙書)としての価値——等々の面から、この書は20万分を越える異例のベストセラーとなったのだろう。
昨年暮れ、この書は文庫化されてちくま文庫から刊行されたのだが、解説を書いているのは斎藤美奈子氏。その斎藤氏の最新刊『物は言いよう』が、この『東大で』と正にぴったりリンクする。『東大で』でフェミニズムの基礎理論を習得した後は、この書で<演習>を行ってみよう——というわけである。
元々は(今は無き)月刊誌『噂の真相』で連載されていたコラム「性差万別」だが、これに大幅加筆を施して読み応えたっぷりの一冊となった(勿論ぼくも、雑誌連載時に愛読してました)。著書はまず、性や性差別についての望ましくない言動を検討するための基準として<FC(フェミコード)>という概念を提唱する。そして、このFCの対象となる素材=生きた実例として、無自覚なままに、あるいは確信犯的に女性蔑視発言を行った公人達(=政治家、作家等の文化人)の、1999年〜2004年までの新聞・雑誌・書籍に掲載されたコメントを俎上に乗せ、各事例に「★思わず失笑をさそう天真爛漫なご発言、★★ついつい納得させられる粉飾上手なご発言、★★★いっけん進んで見える油断大敵」という難易度をつけた上で、分析・解説・糾弾を行っていく。
いや〜、快刀乱麻というか何と言うか、実に鮮やかですね。元々舌鋒鮮やかな人ですけど、この書では一段と冴えてます。既刊『文壇アイドル論』に匹敵する、斎藤氏の最高傑作の一つでしょう。日本人の深層心理に潜む性差別のパラダイムを、一つ一つ具体的にきちんと説明してくれるのですが、曖昧なところを残さぬ明晰な分析振りにまず惚れ惚れします。かといって、お堅い人文学書というのでもなく、60の実例を、あたかも抱腹絶倒コント集のように読ませるのですから、その筆力は凄いですね。
例えば、「女性らしいことば遣いが退化しつつある」という山川静夫氏の小言を取り上げて、筆者はこう切って返します:
「女性の言葉づかいが厳しく叱責される一方で、男性の言葉づかいに言及されることが少ないのはなぜなのか。おそらくそれが乱暴とも不穏当とも特に認識されていないためと思われる。(中略)
(こういう言語的暴力に無自覚な男性と)女性は日夜、接触しているのである。対抗上、言葉づかいが多少男性化してもいたしかたない。女言葉に奥ゆかしさを求めるなら、両性を完全に隔離するか、男言葉を改造するか、ともかく原因を元から絶たなきゃダメだろう。(中略)
女性らしい言葉づかいを聞きたければ、ちゃんとお金を払ってゲイバーに行くといい。巷では絶滅の危機にある生粋の女言葉も、重要無形文化財として、そこではきちんと保存されている」
御見事!

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紙の本英語リーディングの探究

2012/05/28 20:17

英語構文解析術極意秘伝書

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

細かい点をゴチャゴチャ文法的に説明しているから/拘るから、日本人はいつまで経っても読めない/書けない/聞けない/話せないままなのだ・・・と、今の「こみゅにけーしょん」英語絶対主義の風潮の中では、「英文法」を槍玉悪玉A級戦犯極悪人諸悪の根源にしておけば、全て丸く収まり波風立たなくなるようだ。しかし、本当にそうか?英文をじっくりと、それこそ眼光紙背に徹して読み、筆者の意図を納得がいくまで正確に理解する「精読」が出来なければ、己の英語力を一段高い域に引き上げることなど、どう考えても到底不可能なのである。そう心の底で確信している人にとって「福音の書」となりそうなのが、本書である。
 本書は、2006年に週刊英字新聞『朝日ウィークリー』で連載された「上級をめざす英文精読講座」に大幅に加筆されたものである(連載時、筆者は毎回記事を切り抜いて保存していて、単行本としてまとまるのを待っていたが、ようやく一冊の書として刊行された)。サマセット・モームやT.S.エリオット、ジョン・スチュアート・ミルといった名だたる著述家の作品を素材にして、論理的思考力を鍛えるのを主眼としている。
 恥をしのんで白状するが、そこそこ英文読解には自信があったつもりの筆者は、この書を読み進めていくうちに、英語というのはここまで緻密に、深く、分析的に、論理的に明晰に読まないと、真に読んだことにはならないのかと、自信過剰をあっけなく打ち砕かれ、己の浅学菲才を嫌というほど思い知らされることとなった。
 正直、センター試験や国公立二次試験が解ける程度では、この書を完全に読みこなすことは無理だろう。個々の単語にこだわりながら、きめ細かい構文解析術の極意を披露する本書は、とにかく密度が濃い。筆者は刊行されてすぐ購入して読み始めたものの、そのレベルの高さと密度の濃さに阻まれて三度挫折。四度目の挑戦にしてやっと読み通すことが出来た(勿論、完全に理解したとは言い難いが)。
 後半はNewsweekから抜粋した、がん抑制遺伝子に関する科学記事と、O.J.シンプソンの裁判を扱った社会記事を素材にした演習。最高難度の英文を、一点の曇りもないこの上なく論理的解釈を施していくプロセスは、正に匠の技を見ているかのよう。本書を読んだだけで、英文解釈力が薬袋氏の域に達する筈もないが、英文解釈の神髄および極意のさわりに触れられるだけでも、本書を読む価値は十二分にある。

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紙の本ペインティッド・バード

2012/03/14 18:43

ホロコースト版「地獄の黙示録」

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 1939年秋、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したのを機に、6歳の男の子が一人で東に疎開させられる。それから4年間、少年は何とか生きのびるべくたった一人で村から村へと彷徨するが、その間に彼が目撃した/体験した言語に絶する地獄絵図を、一人称で記したのが本書である。

 衝撃的な書だった。アゴタ・クリストフ『悪童日記』(1986年)を読んだときにも似た、横っ面を張り飛ばされるような強烈なショックを受けた。
 とにかく全篇暴力のオンパレードである。少年は、外見がジプシーに見えるというだけの理由で、偏見に満ちた村人から徹底的に冷笑、差別、迫害、虐待を受ける。殺されそうになる寸前に逃げ出し、次の村でどうにか雨露をしのぐ住処を見つけるものの、遅かれ早かれそこでも又迫害を受ける。暴力は、別に少年に対してだけ起きるのではない。寝起きしている村の中では、少年と無関係に生じる暴力、異常性愛、幼児虐待にしょっちゅう遭遇する。とそのうち、カルムイク人がある村を徹底的に蹂躙する事態に巻き込まれる。女性という女性は全て陵辱され、全村人が凄まじい暴力に晒され虐殺される――。少年が途中出会った人と、再び遭うことは無い。一度訪れた村を再訪することも無い。映画『地獄の黙示録』のように、少年は地獄巡りをしながら、旅を続けるだけである。
 本書はフィクションである。しかし、そんじょそこらのノンフィクションと比べ物にならぬほど凄惨な迫力に満ちている。恐らく著者の実体験/見聞がかなりの程度反映されているのだろうが、読みながら目を背けたくなうような残虐な場面の数々が、少年の目を通して淡々と、殆ど感傷を交えずに描かれているが故に、余計その凄惨さが際立つ。喉元に匕首を突きつけてくるようなこの恐怖感と生々しさは、只事では無い。本書「解題」で訳者の西氏は、「ホロコーストの現場に立ち会うということが、まさにポルノ映像につきあわされるのと同じ刺激に身をさらし、それをなんとか否認しようとする自制心とともに映像を前にするという事態に他ならない」と記しているが、直視したくない醜悪な現実を真正面から直視することこそ、ホロコースト認識には必要不可欠なのだと、この小説は静かに語りかけているようだ。
 1933年、ポーランドのユダヤ人家庭に生まれたコシンスキは、カトリックの洗礼を受けたことが幸いし、辛うじてゲットーやガス室送りを逃れたという。その後、24歳の時に渡米してアカデミックなキャリアを築きながら、32歳で英語で本書を書き下ろし、一大センセーションを巻き起こす(ベストセラーになって絶賛を浴びるものの、それと同じくらい強い批判罵声を浴びた経緯に関しては、コシンスキによるやや長めの「後記」で詳らかにされている)。
 フィクションの手法で描いたが故に、ノンフィクションの限界を超え、ホロコースト、ひいては全ての人間の内に潜む途方も無い残忍さに肉薄した、20世紀世界文学のマイルストーンの一つだと思う。

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脱亜入欧

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「Jポップ」なる名称はいつ生まれたか?——本書はこの問いかけから始まる。
1988年10月に開局したFM局「J-WAVE」は、放送時間の8割が音楽(既存のFM局は5割)で、しかも洋楽しか流さないという特異の編成を行なっていた。そのJ-WAVEでも邦楽をかけて貰おう、洋楽しか流さない局からオンエアされるような曲(邦楽)はクオリティが高いと看做される筈だ——というレコード会社の思惑から「Jポップ」(=「日本のポップス」の呼称)という言葉が生まれたのが88年暮頃のことらしい。
CDプレイヤーの爆発的普及に伴い、音楽業界はレコードからCDに移行し、百万単位で売れるメガヒット(アルバム)が連発される。Jポップは、この音楽バブル期に丁度乗っかる形で人口に膾炙する。この辺の経緯は、具体的数字・データを出して経済誌ばりに詳細に分析していて、読み応え充分。
しかし、本書の最大の面白さはその先、つまり、「Jポップ」産業を支えた若者の心理的変化・社会的背景を探る章にある。80年代、中流意識が広がった結果訪れた「自己表現が大衆化する時代」との関連を論考している箇所は、社会学的分析としてとても読み応えがあった。
ぼくが一番唸ったのは、宇多田ヒカルの音楽を何故斯くも日本人が愛するのかという<問>に対する<解>である。詳しくは本書第4章を参照して頂きたいが、「日本のポピュラー音楽が外国と肩を並べた」というファンタジーが重要な要素の一つであり、それがひいては、「(英語ネイティヴが聴いて自然な歌として鑑賞に堪えるレベルの物は皆無の)擬似英語を日本人相手に歌うという奇妙な現象」を引き起こしている——と筆者は解く。ぼくなりに言い換えれば、<脱亜入欧>という呪文に、依然として日本の音楽界およびリスナー(ユーザー)は縛られているということになる。一向に国際化しないJポップのアキレス腱を、鮮やかに論じてみせて秀逸である。

Jポップ好きの人の中には不快感を覚えるかもしれないが、この音楽を客観的に捉えられる人なら、本書が提起している論題の深さと広がりを把握出切る事と思う。

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紙の本アメリカン・チョイス

2005/05/22 10:35

文学者、米国を語る

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20年以上ニューヨークに在住している新元良一(にいもと りょういち)氏が、2004年夏から冬にかけ、20人のアメリカ人作家に「現在のアメリカの方向性」についてインタビューし、それを一冊にまとめたのが本書。インタビューを受けた作家には、ドン・デリーロ(『アンダーワールド』)、ジョナサン・フランゼン(『コレクションズ』)、スティーヴ・エリクソン(『Xのアーチ』)等々、現代アメリカ文学を語るにおいて欠かせないVIPクラスの作家が含まれていて、アメリカ文学好きなら顔ぶれを見ただけで、本書を読みたくなるだろう。
作家達は、9・11が起こった時何処で何をしていたかや、大統領選挙についての意見(選挙結果が出る前にインタビューされた作家と、選挙後にインタビューを受けた作家が大体半々である)など、アメリカ社会の変化についての見解を雄弁に語る。
殆んどの作家はリベラル的スタンスを持ち、当然ブッシュに対しても歯に衣着せぬ批判を投げかける。と同時に、アメリカ国民に「恐怖」を抱かせて選挙戦をリードした共和党や、それに対抗すべき民主党の選挙戦術の稚拙さ、更にはアメリカ国民の保守化についても、作家達は皆異口同音に言及している。
本書を読み進めていくうちに、雄弁に語る個々の作家たちが、如何に真摯にアメリカという国及びその政治に向き合い、誠実な姿勢で向かい合っているかに感銘を覚える。そして、日本では——「憲法第九条を守る会」のような少数の例外があるにせよ——アメリカ追随政権を恥じてやまず、小児的頑迷さで靖国参拝を止めない某首相に物申せる文学者がどれ位いるのだろうと、思わず溜息をつく。
しかし実は、ぼくが読了後抱いた感想は、アメリカはいいが日本はダメだ式の単純なものではなかった。これだけ、アメリカを代表する文学者たちが口を揃えてブッシュ政権の欠点と怖さを弾劾し、アメリカ国民自身に内在する盲目的保守化を指摘しているにも関わらず、ブッシュは再選され、中東政策にも何ら変化は無いという、「論壇」と「現実」の落差の大きさに愕然としたのだ。作家達は機会を得られる度に(つまり作品を発表したり、新聞や雑誌に文章を書いたり、ネットで呼びかけたりして)、アメリカ社会をより健全な方向に向かわせようとそれぞれのやり方で努力しているにも関わらず、結果的にアメリカは——少なくとも今の時点では——ブッシュの思うとおりの方向に向かっている。
これが「言論」の敗北だなどと決め付けるつもりは毛頭無いが、アメリカ社会における「言論」の力と在り様は、明らかにベトナム戦争の時とは変わっている。それに気づいているからこそ、作家たちの発言の端々に苦渋が滲んでいる。それが感じ取れるから、読後感が重くなる。

陳腐な言い回しだが、アメリカ人の「良心」が目覚めるのは、一体何時になるのであろうか。

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「SF映画」で「哲学」が解る!?

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本を読むのは昔から大好きで、時には小難しい人文科学の書に手を出すこともある。けれど、哲学書だけは苦手。というのも、小難しい言葉の遣り取りが続き、抽象的な概念が抽象的に説明されるうちに、結局何の話がどう進んでいるのか皆目見当がつかなくなるから——というぼくが、この本を読んでみようと思ったきっかけは、やはり副題ですね。だって“『マトリックス』でデカルトが解る”ですもん。
で、目次を見てみると、『フランケンシュタイン』(ちなみに、ボリスカーロフ主演のものではなく、デニーロ主演、K・ブラナー監督のほう)で実存主義が、『トータル・リコール』でアイデンティティ論が、『スター・ウォーズ』でニーチェが・・・「解る」というのですから、まずは映画論目当て、事のついでに哲学の片鱗でも分かれば(そのつもりになれば)イイヤという軽い気持ちで読み始めた。
“なぜ、SFなのか?”という、読者の誰もが抱く疑問に対して著者はこう答える——SFものは人間とは異質なものとの遭遇を中心に展開する。これらの遭遇は、我々の姿を映し出す鏡のようなものであり、他者を通すことで自分自身がよりはっきり見えるようになる。ウ〜ン、分かったような分からぬような。でも、「序文」では懐疑的だったぼくも、実際に第1章から順に読み進めていくうち、ぐんぐん内容に引き込まれていった。
つまりですね。抽象的な概念を、よりとっつき易い、具体的なイメージを生じさせる方法論としてSF映画を用いているのですよ。論が抽象的な方向へかなり走っても、折々に個々のSF映画の場面や登場人物を挿入してくれるので、読者としては哲学のラビリンスの中で、迷わないようにその都度見つけやすい道標を辿っている感じ。勿論全部が全部分かりやすいわけではない。“『マイノリティ・リポート』で自由意志が解る”などは、映画の比喩をもってしても相当難解だった。
その一方で、『マトリックス』を素材としたデカルト論は面白かったなあー。「我思う、故に我在り」の真の正確な解釈を、『マトリックス』を通して学べるなんて予想だにしなかったもの。“『スター・ウォーズ』でニーチェが解る”も、目から鱗落ちまくり。『スター・ウォーズ』を通してニーチェの思想に触れると同時に、こんな風に『スター・ウォーズ』を読み解くことが出来るのかと、映画論としても新鮮味があった。そして、この章の結びで、何故ダース・ベイダーは(ニーチェが言うところの)「超人」になれなかったのかに言及し、ダース・ベイダーとは何者なのかを分析してみせる。
いや〜、鮮やか!哲学に興味はあれどなかなか人に訊けない映画好きの貴方/貴女にイチオシ!

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紙の本組曲虐殺

2010/12/11 08:31

井上ひさし 白鳥の歌

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 初出は『すばる』2010年1月号。こまつ座&ホリプロ公演、演出:栗山民也、音楽:小曽根真、出演:井上芳雄、高畑淳子、石原さとみ、神野三鈴、山本龍二、山崎一のスタッフ・キャストで2009年10月3日~25日に天王洲銀河劇場で上演。この後兵庫公演と山形公演も行われる。
 結果的に井上ひさしの最後の戯曲となってしまった本作を、筆者は10月17日(土)夜の部で観た。観た時点では、著者が体調不良で「憲法九条の会」講演を幾つかキャンセルしたことは知っていたが、まさか死に至るほど深刻な病状だとは夢にも思わなかった。
 『蟹工船』で一躍名を挙げ、最後は特高に虐殺されたプロレタリア作家小林多喜二(1930-1933)。彼(井上)の短い生涯を、自伝的事実を踏襲しながら主として晩年三年間に焦点を当て、姉(高畑)、妻(神野)、恋人(石原)、特高刑事二人(山本、山崎)の6人が織りなす物語として再構成した作劇がまず見事。しかもこれを、荘重深刻な悲劇ではなく、絶えずピアノが割って唄になるコミカルな音楽劇として描くのだから恐れ入る。
 特に二幕は、彼の理念が(特高刑事も含めた)周りの人々も同化させていく過程をじっくり描きこみ、貧困や弾圧の中、迷ったり転んだり自暴自棄になったりしながらもささやかな幸福を希求して生きていく<人間>に対する、祈りにも似た、純化された<愛>が観客の胸にもしっとりと染み入ってくる。第二幕第八場で作者は多喜二にこう語らせる:「世の中にモノを書くひとはたくさんいますね。でも、そのたいていが、手の先か、体のどこか一部分で書いている。体だけはちゃんと大事にしまっておいて、頭だけちょっと突っ込んで書く。それではいけない。体ぜんたいでぶつかっていかなきゃねえ。(中略)体ごとぶつかって行くと、このあたりにある映写機のようなものが、カタカタと動き出して、そのひとにとって、かけがえのない光景を、原稿用紙の上に、銀のように燃えあがらせるんです。ぼくはそのようにしてしか書けない。モノを考えることさえできません」
 生涯、生きるとは何か、何故全ての人が幸福になれないのかという――宮澤賢治に相通ずる――大きな問いを市井の人々の視線で考え続け、それを文学という形で表してきた井上ひさし。正にこれは、彼の<白鳥の唄>である。

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