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  3. kc1027さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年4月)

kc1027さんのレビュー一覧

投稿者:kc1027

138 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本日本辺境論

2009/11/16 00:52

わからないなりにわかってしまっている日本

22人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今を生き延びることに必死な人間は、世界観なんて持てない。
首を上に持ち上げるのは、空を見るためではなく、電車の中吊りとか
マックのメニューを見たりするときで、この国では働けども楽に
ならないときは星ではなくじっと手を見ることになっている。
世界観のない人間集団は世界の中心にはなりえず、いつまでも
どこかにありそうな世界の中心をキョロキョロ探している。

内田先生は新著で、世界の辺境でキョロキョロする日本人の習性を探る。
中華思想の遠隔地で生まれた辺境である極東日本は、いつも学びの対象を
探している。いつの間にか日本だった日本は、日本であることにいつまで
経っても自信がなく、「国際社会のために何が出来るのか、自らに真剣に
問うたことが一度もない」。

では今この国で効率的な模倣の学びが機能しているかというと、どうも
そういうわけではないようで、師を設定し師から師以上のものを引き出す
ような学びのダイナミズムもどうやら薄まってきているよう。

ということは、世界の端っこにいて国際貢献を真剣に考えもせずに
学ぶ力さえ弱まっているとしたらそれはかなり危ない状況ではないか。
内田先生曰く、学びとはそれをやってどうなるのかもわからない状況で
始まるもので「わからないけど、わかる」状態に辿り着くことだという。
身体をきめ細かく使い、機を見るに敏な身体が出来ていれば、
「わからなくても、わかる」。その意味は、本当に「わからなくても、
わかる」。

今の日本に生きる人々は、なんとなくこの国の行く末をわからないなりに
わかっているように感じる。世界をキョロキョロすれば、繁栄から下山に
向かった国は日本だけではないし。そんな世界で、いまだかたくなに
日本語で話し続け、書き続ける我々は、わかるヒトにしか伝わってない
かもしれないけれど、すでにこの地球上でエッジな存在感を出せているの
かもしれないし。

中心なんてなくなってしまった世界で、エッジな臨場感を感じつつ
そこそこ楽しく生きていくとしたら、今ここにある星空を眺め田畑を
耕し豊穣な日本語で理想郷を描いた岩手県人のように、どこまでも
開かれていてなおかつすごい謙虚にコウベを垂れて歩くような、
そういうものに私もなりたい。

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革命はしなやかな言葉と共に。

14人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読んで、書く。革命はそこから始まる。
人の歴史などまだまだ始まったばかりで、革命は何回だって起きる。
革命の本体は文学であって、暴力などその派生物に過ぎない。
現代世界の枠組みができて1000年あまり、その枠をこしらえたのも
人間なんだから、世界をさらに読み込んで書き換えることは
いつだって出来る。

著者の至高の語りに圧倒されながら、わたしという人間がどうやって
わたしになったのか、なってきたのかを考えれば、それは読んで書いて
きたからだった。読んで書かずに今の自分にはなっておらず、
世界を読む術を本を読むことで体得し、書くことで表現し、
カラダもそれに付き合ってきた。

人は言葉によって現実を紡ぎ出して、それぞれの物語のなかを
生きているのだと思うが、世界は自分の前からあって、自分なしでも
運用されて、己の死は己では確認できず、地球は誕生と滅亡を延々と
繰り返してきて、さらに宇宙は地球みたいなものを何億兆個も包含
しているはずなのだが、それもこれも、読むことで世界を知り、
人類は書くことで昨日の世界を書き換えてきた。
人間がアホみたいに書くことをやめなかったから、今がある。

文学が死んだ、なんてことを言ってる輩はもういらない!と
著者は怒っている。ドストエフスキーは文盲率90%のロシアで
あの小説群を書いたらしい。その戦いの日々たるや、何という
革命的人生であったことだろう。音楽が死んだとのたまう音楽家や
ダンスが死んだというダンサーなんていらないように、
狂おしいほどに読み書くことに賭ける人間だけが、
文学をやるに値し、既存の価値を転覆させるようなシビレル人生を
生きられる。

わたしには、革命なんて、と思ってる人間でも、
読み書くことで変化が訪れることを知ってしまった瞬間、
身体と脳は読み書くことを求めて止まなくなる。
読み込んで書き込むことの狂気を恐れず、
読み込んで書き込むことに没頭する勇気を持てば、
世界はまだまだ広い。世界は広くて柔らかい。
革命はしなやかな言葉と共にこの世界にやってくるのだ。

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紙の本一九八四年 新訳版

2010/03/21 16:22

『1984年』は未来なり、と思ってみる

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ユートピアにはユートピアなりの高揚感があるのはわかるけれど、
チャキチャキの未来がすでにセピア色になって久しい現代で、
人々に未来に向けた行動を何か起こすには、ディストピアの方が断然、
強烈だ。本書は、実現しなかった過去の顔をしながら、これからまだまだ
起こりうる現在進行形の書として、いまだ強烈な世界観を持ちえている。

わたしたちはもう、1949年にオーウェルが見通した1984年の風景を
逆の時間軸で吟味できる立場にいる。本書では世界は3つの帝国によって
支配され、そのひとつであるオセアニアのスローガンは、
“戦争は平和なり”
“自由は隷従なり”
“無知は力なり”

本書で二重思考と呼ばれる相矛盾する言葉の共存は、言葉の絶対量の
削減を促し、言葉のループの中で言葉自体への信頼感を薄れさせ、
言葉によって生まれる感情を単純化を通して混沌のなかへと追いやり、
やがて人間を壊し、社会は壊れ、その道筋を作った帝国だけが残る。

それにしてもこのスローガンはある意味魅力に溢れている。
現に石油をめぐる戦争の傍らに平和は実現し、隷従を強いられているかに
見えた地域がかつてない繁栄を謳歌し、知性に溢れているとは言いがたい
テレビによって、なんだかんだ言いつつ政治は動いてしまったりしている。
そこに言葉への信頼を問うのは何だか偽善じみていて恥ずかしい。

恐怖による危機感が人々を行動へと駆り立てるとしたら、本書ほどの
力を持ちうる書物は有史以来そんなにないと言ってしまっていいと思う。
だがその衝撃的結末以上に、付録まで読み通してみると、今こうして
新訳の日本語で『1984年』が読めることは、かなり偶然的幸福の連続の
果てにあり、そういうことを示唆してくれることこそ、本書の根源的な
価値なのだ。だからわたしも稚拙ながら本書に書評として参加し、
この世界がいまこうしてあるのはなんとなしにあるのではなく、
何もせずに維持されるものでもないと、自覚してしまいたい。
本書は実践を伴う読みこそ似合う。オーウェルの叫びは、願いとなって
これからもダークサイドから世界を批評し、人間を鍛え続けていくのだ。

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紙の本きことわ

2011/01/31 23:04

そのひらがなは心かもしれない。

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

時は伸び縮みする。

3分あればカップラーメンだってできるし、かなしくもなるしうれしくもなるし、子どもだって宿ってしまうかもしれない。このお話は、主人公の一人の永遠子-とわこが夢を見ていることに気づきながら夢を見ている場面で始まる。記憶の揺らぎの中にあって25年の時の流れが瞬間でつながる。ひらがなが現れるはずのない場所にひらがなが現れると、そこで急に読むテンポが伸び縮みしてしまうように、25年間会うことがなくとも、会ってしまえばその25年間は何事もなかったかのようにねじれてとけてしまう。

心にとって、時とは何だろう。

時の伸び縮みをとらえるのが心の役割だとしたら、ひらがなは心を表現するために生まれた日本語なのかもしれない。論理の記号としての漢字やカタカナを超えて、ひらがなは、歴史という男どものストーリーをあざ笑うかのように1000年ぐらいのときも軽く超えてしまう。軽く超えて今の時を飲み込んでしまう。数え切れないほどの死の連なりも、決定的に刻印される肉親の死も、今という時は淡々と飲み込んでいて、そんな今に直面する心からはひらがなくらいしか出てこない。思えば、伝わる言葉は心の中でひらがなにして話しているような気がする。

かつて、葉山の海辺の別荘にあった親密な時間は、25年の時を経て、別荘の取り壊しと共に記憶の海の中に雲散霧消し、それまで夢を見なかった貴子-きこは夢を見るようになる。そしてその夢も日々の心の移ろいの中に溶け込んでゆく。そういう今があって、更地になった別荘のあとにも雨が降って、新月が出ていて、眺める人がいる。それを読むわたしもいる。

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紙の本経営者の条件

2006/11/19 01:26

実践の書

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 再読に値する本というのは数多い。しかし、毎朝その文章に触れ、常に傍らにおいて、一言一句を血肉化したいと感じる本は人生の中でもそう多くはないはずだ。ピーター・ドラッカーによる経営書の古典『経営者の条件』は私にとってそんな一冊だ。
 読めば読むほど、この本はただの経営指南書ではないことが分かる。冒頭の一行にさらっと書かれた「他の人間をマネジメントできるなどということは証明されていない。しかし、自らをマネジメントすることは常に可能である」という文章にまず打たれた。この一行に代表されるように、本書は企業が支配する現代社会の中で、個人はいかに生きるべきかを問う書なのである。
 ドラッカーは更に、「日常の実践によって、成果を上げる能力は習得できる」と断言する。その意味でこの書の最良の読み方は、絶え間ない実践である。文体は終始読者の実践にコミットするかのようで、それはもう人間の可能性を極限まで信じる人類愛に近いとさえ感じる。
 書店では経営学の書棚で本書をよく見かける。しかし、この本の横に並ぶべき書は、『競争の戦略』や『ビジョナリー・カンパニー』やMBAの本ではなく、『論語』や『武士道』、『プロ論』や山本七平の本だ。成果を上げるには、実践こそが全て。そして本書があれば、成果を上げる能力は、習得できる。

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紙の本世界で一番美しい人体図鑑

2011/09/19 18:47

自然エネルギーとしての人体

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

わたしたちは自分を知らない。
人体の約70%が水で、約100兆個の細胞から出来上がっているわたしは、そんなことまったく知らずにノウノウと生きているが、こうしている瞬間にも約5000万個の細胞が死滅し、新しい細胞へと入れ替わっている。わたしはいつも死にながら産まれている。

とはいえこの図鑑は人体に関する数的知識を学ぶものではなくて、タイトルにもある通り「世界一美しい」人体をただただ眺めるためにある。世界一美しいのが自分でなくても、人体は大概、美しすぎる。

人体を支える骨と筋肉、一瞬も動くことを止めない循環器系と神経系と内分泌系とリンパ系。このシステムの完成度の高さを我ながらどう捉えたらいいのか。そのシステムの維持に「わたし」など絡んでいないかのようだが、絡んでいようがいまいが「わたし」などという自意識を置き去りにしてもシステムは今も稼動している。

人体という一種の発電装置は、意識だけでは動いていない。悠久の時の積み重ねのなかで人体は、きっとツギハギな部分もあろうけれども、しなやかにゆるやかに、内と外を感知して個体を維持し続ける仕組みを練り上げてきた。よく言われるように、赤ん坊が母親の胎内で生命の歴史を通過してこの世界に生まれてくるのだとしたら、今を生きるこの人体は、時の最先端に位置する1つのエネルギーそのものでもある。

本書で彩色された芸術的人体は、ルネサンス期の人体彫刻のように、我々自身への視点を塗り替えてくれる。もう言ってしまおう、わたしたちは、見ようによっては皆、結構美しいのだ。

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紙の本絶望の国の幸福な若者たち

2012/01/09 23:29

注釈のような日常の深み

10人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

巷に溢れるこの国に関する統計資料を適当に3つや5つ選んだら、将来に希望があんまりない国だとするのは簡単で、そんな国に住む「若者」たちは不幸なはずであると、物の分かってそうな「大人」は解釈する。でも、20代くらいの世代は、かつてないほどに「幸福」を感じ、今のここに「満足」している。

著者は本書で、若者に関する論考の歴史を探りつつ、若者そのものを定義付けすることを周到に避ける。「若者」という言葉は、大雑把に若年層の価値観を総括してしまいがちだが、ナントカ系がたくさん溢れている2010年代の日本では、若者という括りで代表される塊などもはや存在しない。適当にバラバラでそれなりに孤独だけど小さく繋がってはいる小集団は、いまこの国に住む人間の在り方そのもので、だから著者は終章近くで「一億総若者化時代」なんて言ってみたりする。

怒れる若者などいないこの国では、デモは起きても派手さはなく長くも続かないし、ナショナリズムが沸騰しているように見えるワールドカップでも、ただ単に非日常を盛り上がりたいだけだったりする。詳しいことは分からずともなんとなくこの国の行く末を分かってしまっている90年代以降に生まれた者たちは、いま、ここを楽しむ。それが階級を固定し、将来の希望を捨てることになろうとも、不確かな未来を夢見たり、「あの頃」に戻りたいなんて考えるより(戻りたいあの頃なんてむしろない)、今を肯定する。そんな社会を著者もどちらかというと肯定する。わたしもどちらかというとそうである。

本書は誰に向けて、なんで書かれたのか。
著者は、「自分」のこと、「自分のまわり」のことを少しでもまともに知りたかったからだと言う。思えば文系の本はみんなそんなものだと思う。知ることは意外と楽しい。知って分かった世界は、小市民がそこそこ限定された空間を行きつ戻りつ紡いでいくような世界。そんなミスチル的世界観。

小さな詩のようでもありつつ、柔らかいジャーナリズムでもあるような本書は(注釈が深くてとても良い)、国民国家というフィクションにだって対抗できてしまうかもしれない。そんな大袈裟なものに対抗することなんか目指してないからこそ、生温かいこの論考はきっと、モワッとした深みを醸し出し続けると思う。

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戦争と珈琲と平和

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

世界の貿易全体の中で輸出総額が最も大きい商品は石油であるが、
では第2位の商品は何か?答えはコーヒー。生活に必須なわけでもない
このコーヒーという嗜好品の来歴を通して見えてくるのは、コーヒーと
言う摩訶不思議な飲み物に操られるようにして形作られた近代市民社会の
成り立ちであり、人間の活力の源泉を探る人類学的探求である。

最初に飲んだときにおいしいと感じる人は少数派のはずのコーヒーは
アルコールと違って飲んですぐに高揚感があるわけでもなく、
見た目が美しいわけでもなく、何でこんなに世界中に広まったのか
まったく持って不思議な飲み物で、その起源はイスラムのスーフィーと
呼ばれる人々のとある宗教的な儀式に端を発している、と言われている。
起源は謎めいていて、それはそれで神話的な感じで、今もわたしたちは
コーヒーマジックにはまっているのかもしれないと考えても
悪い気はしない。

コーヒーの起源を巡る諸説は様々なのだが、いまやコーヒー産業に携わる
人は1億人以上でその産業人口は世界一とも言われ、その実態は、
そのまんま近代の人間の所業の写し絵であって、作る人と飲む人の生活の
差はそのまんま世界経済の最重要課題の1つでもある。

本書はコーヒーを巡る文明の興隆と革命の勃発のめくるめくエピソードが
満載で、タイトルに偽りなく、コーヒーというモノはもしかしたら銃や
病原菌や鉄に匹敵するくらい世界史を廻すのに主要な役割を演じてきたの
かもしれないと感じさせてくれる。

人間にとって最も悲惨な場所の典型が血で血を洗う戦場だとしたら、
その反対語はカフェではないかと、わたしはひそかに思っている。
わたしたちが今飲んでいるコーヒーとその産業構造は、旧植民地での
奴隷的労働が出発点となっていることは確かなのだが、エコ的地球的な
課題を抱えることになった地球市民が、これからの正義について
考えるには、コーヒーでも飲みつつ、自由で醒めた市民として、
この「商品」が通ってきた時間と空間に思いを馳せるだけでも、
価値がある。

混沌としてきた世界で、人間だけで出来ることなんてたかが知れている。
人間以外の動物は、植物に使われたりしながら持ちつ持たれつな関係を
今も続けたりしている。人間が最も商品化してきたコーヒーと言う植物は、
人間が今後も世界の一員であり続けるための鍵をいくつか握っている。
鍵はきっと、コーヒーの側がしたたかに握っている。

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この国の体

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ルソーは、「戦争とは相手の国の憲法を書き換えるもの」と言った。
憲法とは、ある国が最も大切にしている社会の基本秩序・基本原理を
成文化したものだとすると、戦争とはその社会を成り立たせている
秩序なり原理なりを巡る攻防ということになる。
ということは、戦争を生み出すのは、憲法に代表される「言葉」なのか?

今年の小林秀雄賞を受賞した本書は、日清戦争から太平洋戦争まで、
大国の狭間で日本人が選択してきた戦争の歴史をつづっている。
それは、憲法を持ったばかりの極東の国家が、「天皇を中心とした
日本」という国体をなんとか生き長らえさせようとする物語で、
歴史という物語に固定化されそうな人物たちを、生きた世界の
生きた人間として紡ぎ直す試みでもある。

本書でもっとも印象に残ったのは、国際連盟脱退に至る経緯を巡る章。
満州事変後、国際連盟によって日本と中国の和解案が模索されている
最中、日本は中国熱河地方に軍を侵攻させた。連盟が解決に努めている
ときに新たな戦争に訴えた国は、すべての連盟国の敵とされる。
この作戦はきちんとしたルートで閣議決定され裁可されたもので、
陸軍としては満州防衛のための作戦の1つ、くらいの認識であったが、
結果は全ての連盟国を敵に回す事態であった。事の重大さに気が付いた
天皇や首相は作戦命令を取り下げようとするが、前言を翻すことによって
天皇の権威が下がることを恐れる元老や侍従武官はそれを認めないよう
天皇にアドバイスする。その後、日本は連盟を脱退せざるを得なくなる。

天皇を中心とする国体を維持するための判断が、やがてその国体
そのものを書き換えられる結果を呼び込んでしまった。あとから来る
人間にはその結果がわかっているため何とでも言えるが、主権者の
判断を主権者が修正できなかった国家の歴史は、多大なる犠牲の上に
他国によってリセットされることになってしまったわけである。

果たして現代に生きる我々は、主権者である我々の選択は、
今の国体を維持・向上させる選択をしているだろうか?
誤った選択には修正を加えることが出来ているだろうか?
小林秀雄は、「勇ましいものはいつでも滑稽だ」と喝破したが、
為政者の勇ましい言葉の裏に隠された真の意図を読み取ることが
出来ているだろうか?

そう考えると、今の宰相が唱える最小不幸社会というのは、ぜんぜん
勇ましくない。流血なしに、しかも改憲の可能性もかなり低い憲法も
書き換えることなしで、不幸じゃない社会を築き上げるには、
言葉の肉体性とでもいうような、生きた人間による洗練されたライブな
言葉が必要なんではなかろうか?高校生への講義をベースにした本書は、
勇ましくなくたって若者を魅了する生の言葉に溢れていて、知性の
闘争である人間の歴史に、自分が飛び込む勇気まで、与えてくれる。

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紙の本恥辱

2010/02/21 22:00

今世紀初頭西欧知識人的堕落論

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

西欧知識人が人類を牽引しているかのような世界観は、いわゆる先進国の
人々の間では、地動説以前の天動説や、ダーウィン以前のキリスト史観の
ように、それがないと思考しがたいほどに脳みそのベースになってしまって
いるけれど、きっと今は人類の思考の軸が拡散してきていて、良くも
悪くも何をどう考えるのが「良い」のか、よくわからない世界に
なってきている。

本書の主人公、初老の文学部准教授のデイビッド・ラウリーは、物語が
始まると結構すぐにセクハラ疑惑で職を失い、「百姓」を目指す娘・
ルーシーのところへ転がり込む。西欧中心主義の幻想が解けたリアルな
南アフリカでは、元准教授のおじさんは、本当にただの老いたおじさんで、
多すぎる犬を安楽死させる仕事くらいしかすることがない。

本書中盤以降で描かれる南アフリカの情景は過酷ではあるのだが、
それが過酷であろうとなかろうとアパルトヘイト以降の人種間の問題は
あぶり出され、そんな現実の中でこれまでの西欧の所業に対する贖罪を
全て負うかのようなルーシーの行動は、今後の「アフリカの白人」たちの
苦難と光明を体現するようでいて、尊い。

西欧的知的エリートは本書で何段も何段も堕ちていくのだが、そこで
犬の安楽死の処理をしながら初老の男は、老いてゆく自らと向き合い、
人種を超えて共有すべき大地と向き合い、望まれずに生まれ来る命と
向き合い、まさに「犬のように」犬を葬り去るときに胸に迫り来る想いと
向き合う。そんな想いに、遠からず我らも生きながら対面せねばならない。
堕ちようが過酷であろうが、生きねばならない。

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紙の本文章読本 改版

2009/09/20 23:32

最適な言葉はひとつしかない。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

文章の調子というものは、その人の精神の流動であり、血管のリズムで
あると谷崎潤一郎は言う。いまこのわたしの考えを分かってもらうには、
記憶に留まるような文章を書くことが必要で、記憶に留まるのは感覚に
訴えるもので、自らの感覚が未熟であるならば、なるべく多くの作品を
繰り返し読み、かつ自分で実際に書くことで感覚を研いでいくしかない。


文章を書く人は、どこかで自らを知りたいがために、書いている。
書いた文章は、自分から離れた自分自身であり、繰り返し読んだ
文章は自分になっていく。言葉では全ては了解しあえないと自覚しつつ、
でも言葉でしか表現できないものを探ることが、これからの社会を
つくっていくのかもしれず、そんなとき谷崎潤一郎の文章の心得は
社会を創る一助にだってなる。

翁曰く、
名文とは長く記憶に留まり、繰り返し読むほど滋味の出るもの。
あるいは翁曰く、
ある場所に最適な言葉は一つしかなく、いずれでも同じだと思う場合は、
考え方が緻密ではないのであります。
更に翁曰く、
文章の上で礼儀を保つには、
一 饒舌を慎むこと 
二 言葉遣いを粗略にせぬこと
三 敬語や尊称を疎かにせぬこと

滋味が出そうなので繰り返し読むことにします。

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ダークナイトを継ぐものは?

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

援助が期待出来ないときは自力で踏ん張るしかない。自治という理想は統治の手段というよりも統治する側に全体を見渡す余裕がないときに求められ、だから明治維新直後や関東大震災の後や大戦後すぐの時期には、自治が広く求められた。そして現在もしかり。中央が地方を手厚く慮るなどということは到底期待出来ず、自治は最早必然となる。その今に繋がる近代の自治の源流にいたのは、かの山縣有朋卿。本書は山縣有朋が目指した自治の理想と挫折に迫る。

山縣有朋にまつわるイメージはとにかくダークで、昭和陸軍の祖となったことで日本近代史上最大の悪人のように扱われることも多々ある。権謀術数に長けた陰湿な権力者として山縣像を決定づけた『坂の上の雲』での嫌われっぷりは半端ない。だがしかし、山縣がのさばった明治前期から大正にかけて日本は坂を駆け上り続けた。なぜか。

明治維新後の地方自治を推進するにあたり、山縣はまず当時無謀とも思われた廃藩置県を推し進め、西郷隆盛の度量をテコにしてそれを実現した。そして西郷失脚後に徴兵制を整備し、軍人訓戒を発し、地方から中央への反乱者・西郷を討った。大久保亡き後に町村制を導入し、地方自治の基盤を創った。その後宰相として地租増徴の引き上げをなし、日露戦争の遂行のための財務基盤を整備し、軍事費を捻出、ロシアに勝った。戦後も地方税や義務教育の基盤整備に努めるが、戦費負担による財政難によって地方自治の推進は潰える。坂の上の雲の先の挫折を味わった山縣は、近代日本人のジレンマを誰よりも先に体現したと言っても過言ではない。

山縣有朋の精神の源流は奇兵隊にあり、権力の源泉は西郷から引き継いだ軍部にあった訳だが、負けることのまずなかった山縣の洞察力の源は、当時としては異様とも言えるほどに冷静で的確な世界の情勢判断にあった。パワーバランスを見通す眼力は国内では並ぶものがいなかったと言ってもいい。そんな山縣にとっての地方自治は、世界にあって日本が生き抜くための国民の教育だったのだろう。わたしたちの祖先は、山縣に鍛えられたのだ。

多分に中央統制的で、政党や普通選挙を死ぬまで毛嫌いした姿勢は陰険に見られても仕方がないが、山縣没の100年後の日本から歴史を鳥瞰すると、山縣没後の日本で急速に地方自治が崩れ、政党中心の普通選挙の結果混乱が増し、軍部に隙をつかれて中央統制が極まったことが見て取れる。大衆迎合を排し、体制そのものとも言えた山縣有朋を見直す動きが最近活発だ。山縣有朋はど真ん中の仕事から逃げることをしなかった。今後もダークなイメージの払拭とまではいかないだろうが、近代の行き詰まりにある今から山縣を振り返ると、彼は言わばダークナイトだ。世間はダークナイトがいないと秩序を保てない。自治の理想は、ダークナイトによってダークサイドから鍛えられる。果たして今、悪を背負えるのは、誰なのだろう。

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わからない。でも嬉しい。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

わたしは自分が生きるこの世界をもっと知りたいと思う。
それは理屈ではなくて自らの身体のどこかから生まれ来る欲望みたいなものだ。頭で考えるまでもなく、わたしは世界を勝手に知りたい。

ではどうやって世界とか地球とか宇宙を知るのか。
ハッブル宇宙望遠鏡に携わる人みたいに愚直に宇宙の果てまでも追い求めるのも、それはそれで人生をかけるに値するとは思う。でもそれと同じ位、この星になぜか生まれてしまった人間という動物が、きっとやむにやまれず紡ぎ上げてしまった物語に追従することも、この世界を知る有効な術であると思う。

世界文学をリミックスする。しかも独りで。
そういう試みがこの星でどれだけ試みられているのか知らないが、浴びるように妄想を浴びる環境を得られるのは、きっとユートピアというものに近いんだと思う。トマス・ピンチョンの妄想を、言語を超えて全て味わえること。ラテンのクレイジーを、親子の代に渡って浴びられること。世界の覇権を得たむき出しなアメリカの先端を受け止められること。壁なしの東西を超えた、ヨーロッパの憂鬱という成熟(あるいは成熟という憂鬱)を少しだけ先取りできること。その幸運。


本書は、池澤夏樹さんという個人が、20世紀来の人類の妄想を編んでみて、その隙間で考えた日々の雑多な記録だ。でも雑多で些細だからこそ、日常に浸透する世界の愉楽を体感しやすい。21世紀の世界はきっと狭い。人々の思いも、読めばわかってしまうほどにコンパクトかもしれない。でも、それでも、人の思いは時空を超えてどこまでも飛翔する。簡単にはわからない幸福が、池澤氏の書評には満ちている。自分ごときにはわかりえない世界。全集を編んだ池澤氏を追いかけつつ、わかりえない世界の愉楽を、堪能したい。

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紙の本人類最古の哲学

2011/01/23 18:21

神話を生き直す

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書の序章にこうある。
「あらゆる神話には、ひとつの目指していることがあります。
それは空間や時間の中に拡がっておおもとのつながりを失ってしまって
いるように見えるものに、失われたつながりを回復することであり、
互いの関係があまりにバランスを欠いてしまっているものに、対称性を
取り戻そうとつとめることであり、現実の世界では両立することが
不可能になっているものに、共生の可能性を論理的に探り出そうと
することです。」

神話は、常に現実との接点において人々の生活の中に太古から存在して
きたものであるが、熱狂のうちに理想的な始原の状態が「ありうる」とする
宗教と違って、あらゆる区別がなくなることなど「ありえない」という
前提の下に、それでもそういう状態を思い浮かべることを願って、
神話的夢は紡ぎ出されてきた。

感覚を離れた観念的論理が一人歩きする宗教やイデオロギーは、
異なるものとの対立の中に接点を見出せずに袋小路に陥ってしまい、
現実の日々が理想から離れすぎて凄惨なものとなって、にっちもさっちも
行かなくなってしまうのだが、神話は、そんな現実に苛まれる生きた
五感を、再び日々の生命の中に解き放つための論理を再構築しようとする。

シンデレラやオイディプス王のような古典的神話の雛形が広い範囲で
残っているのは、人類がその身体感覚において同じ類であることの証で、
話の筋が微妙に違ったりするのは、ある地域での暮らしが他の地域とは
やっぱり違うということで、それはつまり人間が自然や天や冥界と
どんな距離感で持って生きてきたかの証である。その価値はこれから
薄まるどころか、知恵の宝庫として今後ますます発掘が進むことに
なるのだろう。人類の神話は、まだ始まったばかりなのだ。

神話を読むということは、神話の中に語られていることを五感で
感じ取ることで、だから神話の最良の読み方は、それを己の感覚として
生きることである。天地とのつながりの中に己の居場所を見出すこと、
見出そうとするうちに、己の神話は駆動しているのだ。

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紙の本贈与論

2011/01/16 21:25

すべてが与えられたのだとすれば

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「幸運にも今はまだ、すべてが売買という観点から評価されているわけ
ではない。金銭面での価値しか持たないものも存在するが、物には
金銭的価値に加えて感情的価値がある。」

1920年代に本書でモースはこう書いた。今をときめくマーケティングの
手法の本を読めば、商品企画に必要なのは機能的価値の付加に加えて
情緒的価値の醸成である、などと書かれている。物と人間を巡る「思い」の
やりとりは、産業革命を経て、本書によって再び、神話の時代へと結び
付けられたといって過言ではない。人類の些細な歴史の流れを根本から
覆すような力を秘めた書物、それが本書『贈与論』だ。

贈与とは物を介して己を差し出すことであり、その贈与を受けた者は
返礼の義務が生ずる。モースは20世紀初頭の先進国において「未開社会」と
されていた北米原住民や太平洋の島々の贈与・交換の習慣の中に、今に
連なる経済の発芽を見出す。古代ローマやインドの法体系においても、
物を誰かにあげるという行為は、単なる受け渡しに留まらない人間の
文化的行為であって、特に物を受け取った側の義務は至るところで
見受けられる。貨幣による市場が発達する前の人間社会では贈与という
行いに一定のルールがあり、物に付随する感情的価値を重視しており、
それはつまり、その感情的価値というものが人間を人間たらしめている
何かなのだ。

とりわけ印象的なのが、古典ヒンドゥー法に見られる物の扱われ方。
土地、食物、贈られる物には全て人格が与えられており、それらは人と
話し、契約にも参加する生命を持つ存在であり、贈られたいと望んでいる。
そこでは己と物とが対称であり、扱うことは扱われることでもある。
その法は、道具が人体の延長であるという考え方を更に超えて、人という
物がやがて緩やかに地球につながり、己のエネルギーの源に気づくような
力を持ちえている。

レヴィ=ストロースやバタイユ、岡本太郎にも影響を与えたといわれる
モースの思想は、贈与という軸を通じて、「やがて自分が返すべき物」を
喚起してやまない。否、いま自分に出来ることはなんで自分は出来る
ようになったのか、まで考えさせてくれる。すべては与えられたのかも
しれない。それはどこかで精一杯返さないといけないのだ。

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