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Living Yellowさんのレビュー一覧

投稿者:Living Yellow

164 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本カラマーゾフの兄弟 1

2007/05/21 01:50

とにかく読みやすい!なぜ?

22人中、22人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昔から何度もトライして挫折した作品であった。「ロシア人の長台詞が…」などといろいろと自分に言い訳していた。今度も半分あきらめつつ注文して、積んでおいた。
 ある夜、ふと思いついて読み始めた。するする読めるのである。寝る前に少しずつ雑に読んだとは言え、3巻読むのに正味全部で24時間かかってないのではないだろうか。
 何度も挫折した新潮文庫の原卓也氏訳を引っぱり出して、ちょっと比べてみたが、新版を3巻まで読んだ目で見ると、こちらも名訳である。漢字が減ったのかなと思ったのだが、漢字の量が格段に違うわけでもない。新潮版(改版)が全3巻、こちらが全4巻。総ページ数が違うため、活字の密度が違うのかなと思ったが、両方とも(光文社版はエピローグに解説を加えて別巻が刊行される予定だそうなので、正確には全5巻だが)本編のページ数には大きな差は出ないようだ。。
 たしかにレイアウトは柔らかい感じがして、章、節の区切りもわかりやすい。各巻のあとがきに前巻のていねいなあらすじ・物語の背景説明が添えられているのも助けになったのかもしれない。各巻付属のしおりに登場人物一覧表がついているのも便利だった。
 でも、それだけでは説明がつかない気がする。
 本書は本当に登場人物が長々としゃべる。今回の翻訳では、以前何度も悩まされてきた、この登場人物の長台詞にテンポのよいリズムが感じられ、自然に、読者を「ノリ」に巻き込む感じがするのだ。これまでつっかえていたところで、逆に「ノれる」というか。
 本書の内容について評価する資格など私にはありませんが、とにかく、ン十年前から読みたくて挫折してきたのが、このバージョンでは3巻までさーっと楽しく読んでこれたということをお伝えしたくて。失礼しました。

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見たこともないのに。なつかしく。

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

盆休み、今更ながら、「東京タワー」(リリー・フランキー)を読んでみた。小学生の「ボク」は夏休みのたびに、小倉のばあちゃんの家を、訪れる。友達がいるわけでもなく、「帰省」でもない不思議な滞在。「ただ毎日本を読んだりテレビを見ているだけで」(en-taxi連載第二回より)、しかし、当時すでに寂れつつあった「ボク」と「オカン」の住む炭鉱の町「筑豊」と違って、この「小倉の公園には色んな物売りがきた。(中略)この公園には紙芝居が来ていた。(中略)紙芝居の内容はその時代でも「古過ぎるよ、それ」という感じで「赤銅鈴之助」とか「月光仮面」とか」。(同上)
 へえ、と思う。同じく昭和後期世代だが、街角で、生の紙芝居を見た経験はない。「赤胴鈴之助」はアニメで見た。
 ふと「ALWAYS 三丁目の夕日」(原作・西岸良平先生、監督/脚本・山崎貴氏)では紙芝居、どんな題目だったかなと、オタク心が湧いてきた。確かにあったはずなのだ。あの「茶川」さんとこに転がり込んだ子が、タダで遠くからみているシーンが。この前のTV放映の時ホリキタマキの方言を聞いて、あわてて途中から録画したビデオをチェックした。ないのだ。そんなシーンなど。勝手に頭の中で、あの時代を扱う「ノスタルジックな映画」にはそういう紙芝居のシーンがあるはずだと思い込み、疑いもしなかった。マンガと混同したのかもしれない。法事のついでに年嵩の親族に聞いてみた。「紙芝居ってみたことある?」「一回はあるやろけど、なんやしらん気色わるうて、おもろなくて」。
 本当は誰が「紙芝居」をなつかしんでいるのか?栄えていたころの紙芝居とは。実際はどんなものだったのか?
 本書は、実際の紙芝居の歴史を克明に追い、分析した最新の成果である。そして水木しげる先生に代表される現代マンガと紙芝居との切り離しがたい深い関係とその決定的な違いを分析した書物でもある。ノスタルジーとは程遠い、硬質な序章には少し戸惑ったが、文中の「人類学機械」(アガンベン)という初見の概念が心にひっかかった。
 第1部「紙芝居はどこからくるのか」から、ずんずん面白くなってくる。「紙人形芝居」という祭りや縁日の見世物は原型としてあったもの、現在イメージされるスタイルの紙芝居は1930年代初頭、世界大恐慌の最中に金解禁を行なって、とんでもない恐慌に陥った日本、東京有数の貧民窟で生まれたというのだ。
 「赤マント」など、当時の「都市伝説」などとも交錯しつつ、瞬く間に街路に「はびこった」街頭紙芝居とその「黄金バット」などのキャラクターたちは五,六年もしないうちに、戦時体制の元、当局と「良心的」教育者たちの「検閲」「善導」で子どもたちの街路を教育空間に変える「教育媒体」=「教育紙芝居」へと変貌していく。そして敗戦。GHQはアメリカに対応するものがない紙芝居に直面し、相当苦慮しながらも事前検閲を励行する。紙芝居の生産・流通、当時の「紙芝居屋さん」のライフヒストリー、当局・各自治体の対応にわたる細部に渡る、著者の綿密な調査がうかがえる。
 そして第3章「醜いヒーローの形態学」、第4章「絵の声を聞く」は紙芝居作家としての前史をもつ水木しげる先生のファンのみならず、友人の家で「お兄さん」の「蔵六の奇病」(日野日出志先生)、「エコエコアザラク」(古賀新一先生)などを、キャーキャー言って怖がりながらも楽しみ、楽しいながらも、暗い帰り道は本気で怖かった…という経験をお持ちの方に、是非読んでいただけたら。あの「怖さ」の底にあった「マンガ以前」の何かに触れることができるのではないでしょうか。

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紙の本右翼と左翼はどうちがう?

2007/06/24 03:53

雪の中、銀色の、二つの道

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 きちんと定職に就き、社会に地道に関わり、結婚して、子どもを養う。そんな当たりまえだと思われていた人生設計そのものをすること自体が困難になって久しい。
 その一方で、「現実の世の中に矛盾を発見し、それを少しずつでも変えていく」といういう思考・行動が、うまく世の中に受け入れられないこと、あるいは本人を苦しめてしまうこと。たとえば、困っている人の役に立とうと、一生懸命バイトして貯めたお金で、金儲け優先(全部がというわけではない)の専門学校に、下手な大学より高い授業料をおさめ、今新聞を騒がせているような、不安定・低賃金・重労働の介護の現場を耐える、若い人々を目にして、私のような年長世代はもう何も言えなくなってしまう。
 本書は右翼と左翼をそんな「現実の世の中の矛盾」への疑問から出発した二つの思想・行動として統一的に捉えている。その立場には深く共感する。
 確かに連合赤軍事件からオウム真理教に至る、「革命」の妄想は捨て去らねばならない。キアヌ・リーヴスが主演していた十年前の映画「スピード」を思い出してほしい。猛スピードで走るバスを止めて爆発を解除する方法はさらなる爆発を誘発する。バスを走らせながら、ベストを尽くして、完全ではないが、少しでもましに走り続けられるように改良することに挑むこと。
 本書は三部構成になっているといえる。
 第一部は雨宮氏の個人史的政治遍歴の告白ともいうべきであろう。第二部(第2・3章)は日本における左翼・右翼の略史。簡潔ながら丁寧にまとめられている。第三部(第4・5章)は一水会木村三浩氏をはじめとする右翼(新右翼系の方々が多い)の方々へのインタビューと、太田昌国氏をはじめとする左翼(新左翼系の方々が多い)の方々へのインタビューで構成され、終章「矛盾だらけの世の中で」での著者による現状確認にいたる。 「矛盾」をみんなが認識すべきだとは思わない。それが偉いことだとも思わない。しかしいったん感じ始めた「モヤモヤ」はたとえ発言しないにせよ、自分の中では言葉にした方がいいだろう。 本書は少なくとも「世の中」への「モヤモヤ」を言語化する助けになる、読みやすい、心のこもった、一冊である。

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草食系男子の恋愛学

2008/08/06 19:51

おかしい。この本間違っとるよ。

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 読み終えてから、もう5分も経ったのに、まだ女の子から電話一本、メール一通とどかない。金返せ、と言おうにも、本書は、窮状を見かねた、とある知人から貸していただいたものである。「草食性」に見えたのだろうか。ユッケビビンバが大の好物なのだが。ふと、恐ろしいことに気づく。もう「手遅れ」ということだろうか。もう15分も待っている。何も起きない。 

 本書は、しかし、まだ「間に合う」若い読者には、お勧めしておきたい一冊である。

 著者は生命学を専門にする哲学者である。しかし、本書において、「誰それ曰く」などと、大文字の理論に逃げず、自前の言葉でごくごく当たり前の思考・経験を語ってゆく。かといって、露悪的に自分の失敗談を羅列する自虐の誘惑からも逃れている。

 淡々とていねいに、「女(の子)とつきあう」とはどういうことか、「どうすれば、女の子とつきあえるか」、そして「そう思っているあなた(=男(の子))は女(の子)からどう見えているのか」が、分析され、具体的な対案が提示されている。
 いわゆる、富田隆先生の著作をはじめとする、「通俗ハウツー」本の数々も入念に参照し、取り入れるべきは取り入れるという、「高み」から見下ろす快楽からも、「低き」から声を荒げる風潮からも、きちんと距離を置いた姿勢には好感が持てる。

 しかし、本書のメタ・メッセージはシンプルにして的確、残酷にして伝統的な結論である。

 本書前半部で展開される、「FAQ」を踏まえた「恋愛指南」を読み終え、「でも」とモグモグ口ごもる、「草食系男子」に向かって、後半部で著者が説くのは。
 「いったん、恋愛を忘れてごらん」という一言に尽きる。
 
 大昔、『恋愛なんてやめておけ』(松田道雄氏・筑摩書房)というロングセラーが存在した。
 本書では、もう少しソフトであり、むしろ「ふられることが男の」『勲章』(by嶋大輔氏)というような論旨にも読める。

 ああ。もう30分が過ぎた。ブラウン管の向こうで。甲子園でチアリーダーの声援の下、球児たちが尊い汗を流している。勝っても負けても甲子園球児。非モテ、とはなんと遠い光景であろう。

 繰り言になるが、一度でも、「勢い余って」、「はじけすぎ」の失敗経験がおありの諸兄には、年齢を問わず、本書をお勧めしたい。しかし、自分自身で、本家本元「草食系」と自覚しておられる方には。

 そもそも。「草」が当人にとって美味しいか、どうかが問題だ。
 「草」が好きで「草食系男子」を営む男子がいるのか、どうか。
 百歩譲って、キウイとかマスカットとか。「果実食系」なら一つの立ち位置として、美味しくいただき、つつましく、生きていけそうだが。

 隣の「肉食獣」の貪る「肉」が彼の目に美味しそうに見える時。果たして彼はその時、「草食系」なのだろうか。
 
 「君は僕を忘れるから そうすればもうすぐ君に会いに行ける」(ユニコーン『すばらしい日々』1993年、作詞・作曲:奥田民生・編曲:ユニコーン、より)。

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「気をつけろよベイビー。勝手に逃げろ。それが人生」ピエールは照準を定める。

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

朝日・日経の読者である。喫茶店ではなるべく読売。ネットでは「毎日かあさん」は必ずチェック、単行本でもフォロー。軍事がからむ大事が起きた時は、産経を買う。
 本書は朝日新聞社から出版されている。この事実自体で、手にとるのも…、という方もいるだろう。しかし。本書はかなり朝日新聞自身にとっての「不都合な真実」(特に戦前・戦中・戦後直後)に踏み込んだ、相当なリスクを伴う書物である。まさにそこに朝日的「偽善」を感じ、辟易される方にもある意味で、個人的には共感を覚える。あえていえば。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」というのは古今東西を問わぬ。本書は「意見」を振るい落としても残る多くの貴重なデータが記載されている。立場を問わず、マスコミについて何か納得いかないものを感じている方々には是非お勧めしたい。
 本書著者は71年入社、地方勤務を経て、大阪社会部、東京政治部を経て、東京政治部次長を経て、現在は朝日新聞総合研究本部(現ジャーナリスト学校)主任研究員である。新聞記者として王道のキャリアと言えるだろう。本書は「朝日総研リポートAIR21」(書店では買えない。現在も朝日新聞社からネットなどで直接購入は可能、バックナンバーは不明)にここ2,3年、掲載・連載された「朝日新聞と緒方竹虎」を巡る著者の論考をまとめたものである。
 本書によると。関東大震災(1923年)までは、当時アジアの商業都市として、現在とは比べられないほどの存在感を誇っていた商都大阪では大阪朝日・東京毎日の二大紙による独占が完了(その背景には競争相手同士の両者による販売店との販売協定「あらたな新聞が創刊されても朝日・毎日以外は販売しない」の力もあったことが本書に記されている)。アジア経済との関係が重要だった商都大阪での風潮を受け、両紙とも中国には協調的であった。そして東京では「都新聞」(現在の東京新聞)などのかなり小さな新聞社が群雄割拠している状況であった。そこに大震災。事実上マスコミの中心が新聞だった当時、人々が情報を最も必要としている東京に本社を置く各新聞社は人的にも物理的にも致命的な損害を受ける。そこで大阪に本拠を持ち、安全な大阪で印刷した大量の号外・新聞を廃墟と化した東京に輸送することが可能であった大阪朝日・大阪毎日が、飛躍的に東京でのシェアを伸ばし、現在に至る朝日・毎日二紙による全国制覇が本格化していく。
 しかし、東京でのシェア拡大にはもちろん、猛烈な拡販競争が存在した。東京朝日は軍隊方式で強引な勧誘を繰り広げる。
 「岩月(東京朝日販売店網のトップ)は将校服そっくりの服に長靴を着用し、会話は命令口調、行動は戦闘作戦方式で、拡張業績は「戦果」、報告書は「戦報」と、徹底した軍隊式管理で猪突猛進した。(中略)直配所の主任(所長)には、海軍出身者を多く起用した。」(本書p.77より)
 しかし。当然東京読売も「正力(松太郎社主)は元部下だった警視庁の現職幹部たちを販売幹部にスカウトして、東京下町を中心に猛烈な販売攻勢をかけた」(同上)。
 そして時代の節々で大きな事件となってしまう誤植たち。(例:「社会正義」→「社会主義」)、社主(村山家)と緒方を代表する編集サイドの葛藤。頻発するテロは新聞社も襲う(1924年「虎ノ門事件」を巡るあるレトリックが右翼団体の怒りを買う。緒方自身が襲撃され、頭部に、骨膜に達する重傷を負う)。
 30数年前、フランス文学者桑原武夫氏は著者に語った。「新聞で一番面白いのは、実は下半身(広告)ですよ」。そして今日も朝刊がくる。

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見張塔から、もっと

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 地味な映画の話で恐縮だが、数年前公開された万田邦敏監督の「UNLOVED」という映画があった。仲村トオル演じる有能かつ性格もいい実業家と、松岡俊介演じるフリーターと同棲している、高学歴・有能らしいのだが、なぜか、松岡との地味な生活をあえて選んだ森口瑶子演じる女性の三角関係を描いた佳作だ。ある日、森口瑶子がアパートに帰ると、松岡俊介はバイトにも行かず、目の前にずらりとマンションの広告を眺めて、ずっと考えている。彼女がなんと行って彼に怒鳴ったのかはわからないが、この映画の中で、唯一、彼を否定する台詞を口走ったシーンだったような気がする。「分をわきまえて」とか何か。
 本書はアメリカ州立大学特別教授およびイギリス:ケント大学教授で犯罪学、社会学を研究し、犯罪問題を中心に社会的にも発言を試みている著者によってイギリスで1999年に刊行された。かなり強い、ブレア前首相(「第三の道」)批判のトーンが感じられる。とはいえ犯罪を専門としているだけあって、データに基づいた、緻密な立論で、左派の理想主義(性善説)、右派の「現実」主義(性悪主義)にもよらない、独自の現代社会と犯罪の分析を展開している。
 大前提として著者が挙げるのが、1960年代後半以降、米英をはじめとする、先進国における犯罪に対する社会(政策)のあり方が包摂型社会から排除型社会へと変化していったということだ。つまり、「衣食足りて礼節を知る」はずだから、再教育して、援助して、防止:社会復帰させようという流れから、犯罪の動機を社会に求めるのを断念し、犯罪は一定の確率で起きざるを得ないものとして(保険統計主義)、厳罰処置などで外からの統制を計り、あるいは犯罪予備軍を規定して都市の表舞台からの排除・隔離を計る、という政策への変化である。
 その前提にある1960年代以降に起きた社会の変化として、カウンターカルチャーの普及による個人主義の進展、グローバル化による文化規範の多様化(多文化主義)、文化雇用の流動化、市場主導への社会構造の変化などを挙げている。
 特に興味深かったのは、この個人主義と文化規範に関わる考察である。
 例えば、「貧しい移民」などの犯罪予備軍達と見なされる人々の行動、ファッション、欲望は、メインストリームにいる中・上流階級とは別の文化規範を形成していて、それが彼らを犯罪に駆り立てるという考察が左派にも右派にも、ベクトルは異なるせよ、共有されているようだ。もっと単純に考えてみよう。彼らは盗んだ金でベンツに乗り、ゴールドのチェーンをぶら下げたがっている。これはTVで流されているメインストリームの成功者たちの姿ではないか。彼らには「欲望を覚えること」の平等が許されていて、その欲望をまっとうに実現する道が閉ざされている、と著者は分析する。
 そして左派も右派も「昔はあたたかな共同体があって良かった」とノスタルジーに流される風潮を、著者は鋭く分析する。さしづめ、日本で言えば右も左もどっちも、実は「北の国から」が好きだったりするというところか。このように「過去」とか「フラノ」とか、「ここではないどこか」に自分の「本質」があると考える「本質主義」を、著者はそれが、反転して、自分の対抗相手にも「本質」をもとめ、そこに「悪魔的な「本質」を「発見」してしまい、敵対関係を悪化させる可能性を示唆している。
 翻訳もこなれていて読みやすい。欲を言えば、米英圏中心の記述なので、日本の現状と対比する現場の研究者による解題がほしかった。買った古本のブックカバーに載っていた結婚相談所の広告に憮然とした者としては。決めつけはいかんよ。決めつけは。

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「風子のいる店」はまだあるのだろうか

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 古代地中海地方、あのアレクサンダー大王の父フィリッポス2世率いるマケドニアが勢いをましていたころ、少年エウメネスはカルディアという地方都市で何不自由なく暮らしていた。無類の本好き。特に歴史書が大好き。といっても、運動神経もよく、人当たりもいい。彼女もいる。ただ夜な夜なある悪夢が彼を悩ませている。
 「寄生獣」で有名な岩明均先生の月刊アフタヌーン連載中の最新作。
 彼の描くストーリーは破天荒だが、緻密に組み立ててられている。絵柄も端整で、ここぞというところまで無理をしないでためているように見える。
 そして彼の主要作品の主人公たちは、彼らの持つ才能、特性、障害にもかかわらず、普通の人間としての感覚を保ち続けている。
 そんな彼らは外界と必死に戦いながらも、普通のままでいる。むしろ普通のために戦うのか。
 ただこの作品ではもしかするとその普通が大きく変容するところを私たちは観ることになるのかもしれない。ちなみにエウメネスは実在の人物であり、ラストは変更不可能だ。
 単行本袖には「彼は記録することをやめる。途端に記録者は「記録される側」となり、歴史の舞台にその姿を見せた」とある。

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廃墟チェルノブイリ

2008/05/28 01:45

コンクリートの暖かさ。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 と表現したら、分かってもらえるだろうか。団地育ちなもので、古い団地の壁の色を見ると、そう言い表したくなる何か、座り込み、頬ずりして、その冷たい「暖かさ」を味わいたい、ノスタルジーに駆られる。「ボール当てし、かの壁。潜り込みし、屋上」。夜のジョギング。アスファルトにぱたぱた足音高く。そんな団地暮らしから郊外の一軒家に移って、ジョギングは夕方にするようになった。車が危なくって。
 ある春の雨の日、親が止めるのを振り切って、ジョギングに出かけた。1986年の4月だったと思う。親が正しい。たしかにあの空とその雨はつながっていたのだから。しかし、あの時は、その雨の下を走りたかった。
 本書は、あの空の下で起きていた、目に見えない、だが最大級の生命への脅威にさらされ、住民を失った、チェルノブイリというウクライナ(旧ソ連)の街、恵まれた人々の住んでいた巨大都市に、20年余りの時を経て。ガイガーカウンターの音を聞きつつ、ウクライナ人ガイドの助けを得て、足を踏み入れた日本人カメラマンの手になる写真集である。
 鉄塔。電線。鳥たち。生い茂る林檎の木。巨大団地の窓。まだ音の出るピアノ。レーニンのポスター、書きかけのノート、壊れた発電所。
 ひんしゅくを恐れずに書こう。『廃墟萌え』、あるいは『工場萌え』の方には、本書を心からお勧めする。あなたの期待は決して裏切られることはないだろう。これ以上の期待をすること。それは、この美しい写真集が、それぞれに、空しく、無人の部屋で読み手を待ち続けることを意味する。
 電気の通わない電線に鳥たちが止まっている。
 レーニン、スターリン、トロツキー。そしてプーチンにとっても電線はソビエト以降のロシア圏の象徴であり、命である。
 ロシアに限らず。電線なしにはあの20世紀は存在しなかった。
 電気をつくるには。水力ならダムを作る。火力なら石油・石炭を掘る。地熱なら、火山を掘る。風力なら風を集めて。波力なら波を止め。太陽光なら太陽を求め。人工の太陽:原子力。地面から掘りだす。
 『不都合な真実』に代表される反温暖化シフトは、結果的に原子力発電の事実上の復活を成し遂げた。地中へのCO2封入技術も喧伝されているが、埋めてなくなるものではない。地面に埋めてなくなるものなど、何もない。
 この廃墟は太陽の光の中で美しくたたずむ。それを本当に見ることのできる人は長らくいなかった。ここには風も吹いているのだろう。
 写真はもとより、日本語・英語両方でのていねいな解説、周辺地図など、撮影者=著者の姿勢が伝わってくる一冊である。

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悲しきねじれ。

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は日本に留学、日本文学を専攻し、夏目漱石、大江健三郎、柄谷行人、各氏の韓国語訳などに携わってきた著者により、まず韓国において韓国語で出版され、祖国で彼女は相当のバッシングにあっているという。
彼女の本書での作業はまっとうなものだ。教科書問題(現在の韓国の歴史教科書も相当に「愛国」的なものであること)、慰安婦問題(慰安婦となった日本人女性も韓国人女性も共に当時の男性中心社会の犠牲者であること、そして米軍相手の娼婦や現在の娼婦を慰安婦よりもおとしめる韓国の活動家たちの倫理観はゆがんいるということ)、靖国問題(韓国国立墓地に於けるベトナム戦争従軍戦死者の護国英霊たち)、竹島(そもそも19世紀に日本人・韓国人が共住していたなど、あいまいだった境界線を韓国は伝説的歴史にまで遡り、日本は対米関係など国際関係を軸に、ともに無理矢理引こうとしていること)をていねいに指摘していく。
 無論、日本にも手厳しい批判はなされている。しかし韓国の民族主義の強い流れの中で本書の誠実さは本国で強い反発を買ってしまったようだ。そして日本の左派からの彼女への援護もどうやら乏しい。(本書解説は上野千鶴子氏執筆)
 以下のような、「みんながうすうす、かんづいていたこと」を本書で彼女が指摘してしまったからであろう。
「日本のいわゆる「良心的知識人」と韓国との連帯は、共通の価値をめざしているかのようにみえながら、韓国からの批判が民族主義にもとづく本質主義的なものであり、日本の側はみずからの問題を問おうとする脱民族主義的批判であった点では、アイロニーに満ちた連帯であった」(本書p.221-222より)
 例えば日本の「基金」からの見舞金を受けた元「慰安婦」たちが、「親日派」として韓国内でさらなる差別に苦しんでいること、日本の左派の一部が過激な主張を唱えて(元「慰安婦」たち全員の意向も確認せず)「基金」への「理論攻撃」に終始したことを、本当に勇気を振るって取り上げているのだ。
 きちんとした事実関係の再定義、日本の左派と韓国の民族主義者という、難儀な組み合わせの指摘、などまさに「火中の栗」をあえて韓国で韓国語で出版した彼女の誠実さを、なんとか受け止めたい。そう切に思った。
 「はじめから「売春」婦だった女性はいない。」(本書p.102より)

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修学旅行、臨海学校。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昔、子どもたちは、機会を見つけては、いろんなところに、自分の好きな雑誌やマンガをどかんと持ち込んで、自己主張を計ったものだ。ある修学旅行の時など、誰かが、十数冊の『ムー』(学研)を新幹線車中で、回し読みの輪に乗せる事に成功し、一車両まるごと、非常に不気味きわまりないムードに包み込まれて、数時間が過ぎていったこともあった。 『風と木の詩』(竹宮恵子先生)を知ったのもそんなノリの中だった。雨が降って、暇を持てあましていた臨海学校、だったか。当方が『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ先生)あたりを回し読みしていると、のぞき見ながら、「こっちの方が面白いよぉ。Hだけど」とか、話しかけてきた、同級生女子。彼女のその手にあったのが。『風と木の詩』だった。「こっちもスゲーぞ」と言い返してそれきりだったのだが。してみると彼女たちの『密やかな教育』はもう始まっていたのか。
 巻末の竹宮恵子先生、竹宮恵子先生のプロデューサーであり、同伴者とも呼ぶべき増山法恵氏、『JUNE』初代編集長佐川俊彦氏への『JUNE』的な」ものの草創期に関わる、重要な三つのロング・インタビューだけでも、十二分に楽しめる本書であるが。
 第一章における、(昭和)24年組(竹宮恵子先生、萩尾望都先生、そして大島弓子先生を筆頭とする、現在の少女マンガのベースとなる表現内容、吹き出し、コマ割りなどの意味を大きく変容させた、表現技法を生み出した「世代」の少女マンガ家たち)と文学との相互影響の発見。いや、むしろ、ヘルマン・ヘッセを代表格とする、欧州文学が彼女たちの表現内容のみならず、技法をも強く先導したという、具体例を踏まえた、詳細かつ明晰な分析には文字通り、蒙を啓かれた。「文学が少女マンガに乗りこえられた」という、いまや、一個の常識になってしまった見方が、それこそ、文学を主軸にした勝手な「受け」:「攻め」の見立てに基づく物語にすぎない訳である。
 第2章においては、雑誌『血と薔薇』への関与で、『JUNE』的なものの魁とみなされるがちであった、澁澤龍彦氏、三島由紀夫氏との、例えば「政治」、あるいは「身体」を境界線にした微妙な、しかし決定的な温度差の存在。しかし稲垣足穂氏を補助線に結ばれていた、『血と薔薇』、『JUNE』両者の危うい共犯関係を描き出していく。そして『地獄に墜ちた勇者ども』など「耽美系作品」をメインに語られてしまうが、その実、硬派、ネオ・リアリズモの雄でもあった、ルキノ・ヴィスコンティ監督とその作品の日本に於ける受容のひずみの見直し、などを踏まえつつ、描かれる、「少年」への「男たち」と「女たち」の眼差しの絡み合いは、スリリングである。
 そして、第三章における、一人称「ぼく」を駆使する小説家・批評家、栗本薫氏のデビュー当時の同時代における、「表現技法」、「戦略」への周到な分析を経て、第四章、栗本氏がキーパーソンを務めた、『JUNE』の誕生と現在へと続く、長く緩やかな流れの描写。
 とはいえ。引用箇所を改めて読んで。『JUNE』を開く勇気がなかった、あの頃。やはり、開かなかったのは正解だったのかもしれない。
 そう。本書の注意深く、かつ、思いの詰まった、分析を楽しんだあとでも、やはり、わからないものはわからない。しかし、本書はまた。その「わからない」、当方のような読者をも受容してくれる、寛容さに満ちているのだ。
 あの時、覗き見た、「密やかな教育」現場。そっちも魅力的だったが。
 そのころ、当方は。『ドーベルマン刑事』(70年代中期~末、週刊少年ジャンプ連載、武論尊先生・平松伸二先生)の元で猛特訓の最中だったのだから。

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評伝観世榮夫

2008/02/15 18:56

真に受けつづけるひと

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大昔、父の本棚から盗み読んだ、マンガ文庫本(『周平番外地』西沢周平先生だと思う)に確か、こんなのがあった。天狗の面を着けた犬が街角を歩いている。半裸の女の人が走り出てきて。オチは看板に書かれた「ヌード能」だったような。成人するころには、天狗の面→ストリップという連想は当然のものとして受け入れていたものの、そのころのストリップ劇場はもうAV業界と結びついた、もっと明るく、難儀な場所に変わっていた。 観世氏の「異端の証」である「ヌード能」に天狗そのものの面が使われたことは、ネット上で検索する限り、ないように思われる。そこには別の「物理的」=「興行的」必要と、あるいは、みうらじゅん先生が探索しておられる「とんまつり」系統の、しかしリアルに実在した祭事民俗におけるセックスの伝統があるのかもしれない。
 推測にしか過ぎないのだが、「ヌード能」という単語を聞いた時の、当時の人々の反応も大なり小なり、この記憶のような、切実かつ生臭い「エロ」だったのではないか。そして観世氏はその「エロ」にも武智鉄二氏などとともにきちんと向きあう覚悟をしていたのではなかろうか。
 武智氏については本書にも詳述されている。戦中に能・狂言などの庇護者として私財を投入、戦後、松竹と組み、日本古来の身体伝統を踏まえた伝説的「武智歌舞伎」の演出で知られる。その後1963年、石原慎太郎氏(現都知事)・浅利慶太氏(現在『CATS』の劇団四季のトップ)が取締役を勤めた日生劇場の初代プロデューサーを千田是也氏(ブレヒト劇の日本への本格的導入者)、福田恒存氏(シェイクスピア研究者、思想家、三百人劇場創設者)と共に勤めた。ある一定の年代の方には『白日夢』という、初めて「本番行為」を公に撮影した一般公開映画の監督として有名である。
 観世氏。武智氏。共に「異端」である。しかし、ただ「異端者」のままでいようという自己限定は、両氏ともにされていなかったはずである。現在放映中のNHK連続ドラマ『ちりとてちん』に狂言回しとして、実際の狂言師が出演することが、抵抗なくするりと世間に受け入れられる土壌。それは観世氏をはじめとする、「戦中の屈辱」(戦時中の当局と関係者による数百年前の既存の能作品にまで及ぶ自主検閲、『皇軍艦』などの「国策能」等の形での「動員」)と「焼け跡の開放感」を味わい、ジャンルを超えた表現者たちと共に「芸能」の本質を追究した、本書に活写されている若き能・狂言・歌舞伎演者たちの耕したものであろう。また、功罪・是非は問わず。現在の日本の性の中で、「本番」が「わいせつ」の単なる一ジャンルになってしまったのも、武智氏の挑戦抜きには語れないはずである。彼らの「異端」は現在の「常識」になり、「コラボ」も「チョコボール」のような軽い響きしかもたなくなった。
 しかし、『森永チョコボール』が、斬新なパッケージと今なお親しまれている「キョロちゃん」と共に市場に投入された時、それは賭けであり、全ての新商品がそうであるように、負けてはならない賭けであった。
 明治維新後、江戸幕府からのあてがい扶持を失い、文字通り野原に放り出された能楽師たちの歴史はそんな賭けの連続であったことも、本書では観世氏の前史として、きちんと詳述している。観世氏の賭けは「大衆消費社会」の中で「能」を「生かす」ことであったと言えよう。氏は。「大衆の欲望」と「芸術の理想」を真に受けつづける。今この「生」でその両者を一致させようと。
 「真情あふるる軽薄さ」(69年。清水邦夫氏作・蜷川幸雄氏演出、蟹江敬三氏出演)!

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デヴィ夫人を見つめ直すこと。

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 赤坂の高級クラブの華だった一日本人女性が、インドネシア独立のカリスマ、スカルノ大統領に見初められ、彼の第三夫人となる。デヴィ夫人の誕生である。事実上のファーストレディとなった彼女は、しかし、1965年9月30日のクーデターによって、その地位を失う。在インドネシア日本大使館は彼女の亡命を受け入れず、彼女はフランスに亡命、長い間、インドネシアに帰れず、おそらくは隠し資産を元手に、ニューヨークなどを転々としたそうだ。
 そして私はついこないだまで、城島をあきれさせ、武内アナの眉をひそめさせる彼女の手料理を「愛エプ」で見ていた。今では結構上達したそうだが。
 彼女と全く違った形ではあるが、同じ日に大きく運命を変えられてしまったのが、本書の語り手、ベネディクト・アンダーソン氏である。アイルランド出身で、幼き日を中国で過ごした彼は、アメリカで教育を受け、人類学者として1962年から2年半の間インドネシアに滞在、彼の地に深い愛着を覚え、残りの人生全てをインドネシア専門家として生きるつもりだった。クーデターと、彼がそのクーデターについての詳細な分析論文を執筆したことにより、彼は長期にわたる国外退去処分を受けてしまう。そして彼はタイ、フィリピンへとフィールドを広げざるをえなくなる。そして「比較」の魅力にとりつかれてゆき、あの名著「想像の共同体」の著者となったのだ。
 本書は第一部、第二部+付録という構成になっている。
 第一部は2005年4月早稲田大学で行われた二回にわたるアンダーソン氏の講演からなる。第一回講義「『想像の共同体』を振り返る」では、自らの複雑な来歴を淡々と語りおこし、「小説・新聞・国民の物語との間の基本的構造関係」、「時間認識と空間認識の共有」を近代ナショナリズム成立の起点におく画期的な名著「想像の共同体」の執筆にいたるまでの研究遍歴、当時の状況、先行研究との関係、当初の反響、そして「想像の共同体」という書物が著者を離れて機能していく様を平易に語り、現在からみた、ジェンダーをはじめとする、その書物における盲点について率直に語っている。
 第二回講義「アジアの初期ナショナリズムのグローバルな基盤」においては、19世紀末、電信・郵便制度・交通機関の整備により、ある種のグローバルな基盤が成立していたことを指摘、当時執筆中だった「Under Three Flags」のための研究成果を披露し、キューバ:フィリピン:中国:日本:ヨーロッパと、広範に、ナショナリスト(孫文、ホセ・リサール、末広鉄腸をはじめとする民族主義者たち)と普通は彼らと敵対するように考えられがちなアナーキストたちが織りなすグローバルな交流と闘争のネットワークを活写してみせている。
 第二部「アンダーソン事始」は本書の編者、梅森直之氏によるアンダーソン入門である。非常にわかりやすく、かつ根源的な問題にせまった文章なので、「想像の共同体」をお読みでない方もこの第二部を読めば、本書をより楽しく読めるだろう。
 巻末付録として講義当日の聴講者とアンダーソン氏の質疑応答から選りすぐった十四の対話がまとめられている。
 本書から浮かび上がってくるのは、アンダーソン氏の、ナショナリストたちへの深い共感と、その彼らがもたらしてしまう流血の悲劇への悲しみの狭間で、地道な研究を続ける誠実な姿勢である。その常人を超えた穏やかなねばり強さに深い感銘を受けた。

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紙の本若者たちはなぜ自殺するのか

2007/06/13 22:02

ネットの樹海の中、細い糸をたぐりよせる。

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 最近、私的な外出のときはなるべくJRを避ける。「人身事故」のアナウンスにいらだつ人々を見るのが不快だから。お互い忙しいけど、人が死んだんだよ。本書では「人身事故」=「飛び込み自殺」のケースはない。
 本書は、著者が2000年からおそらく5年以上、自ら、足を使い、ネットも駆使して取材を重ねた、10代後半から30代までの、5人の自殺者・8人の自殺未遂者の記録とその考察である。
 自殺者と書いた5人は第2章「自殺した若者たち」を構成する5人の女性たち。ネット・自助グループを通して、リストカット・摂食障害・自傷癖・薬物依存などと闘っていた彼女たちを、著者は見守っていたのだが、突然、彼女たちの死をネットなどを介して間接的に知ることになる。あとがきで著者自身が吐露しているように、多くが女性である取材対象との関係において、冷静さを保つため、適切な距離を保つことにしている著者にとって、彼女たちの死を止められなかった痛みは深いものだろう。
 しかし、彼自身が取材を通して認識しているように「深い関係」の存在が自殺を止めることができるわけではない。例えば第2章に登場している自殺した女性は、信頼できる彼氏を得たことで、かえって「いつか見捨てられるのではないか」という不安にさいなまれ、自分を追い込んでしまった。あるいは自分の所属するサイト・自助グループの中などで「話して(カキコして)すっきりしたら」、そのグループのなかで、「私の方がもっと苦しい」などと負の競争が起きてしまって、事態を一層悪化させてしまう例も挙げられている。
 第1章「若者たちはなぜ自殺するのか」で「いじめ自殺」を競って報じるマスコミなどの姿勢に疑問を呈し、ネットと自殺・自傷行為の関係や自殺の原因を個人の人格に求める「心理主義」など、現代の若者の自殺を総合的に分析している。そこに浮かびがってくるのは、この社会に蔓延する「生きづらさ」の意識である。
 最終章「試行錯誤と(人間関係の)選び直し」は、主に当事者を念頭に置いて書かれたのだろう。色々試みて、どうしてもだめだったら、親も教師も捨てて、「人間関係」を選び直すことを、著者は提起する。
 第2章と第3章「自殺したい若者たち」で登場する13人のケースはさまざまだ。いじめられ経験、性的虐待・児童虐待の経験、親の過剰な管理、学校社会での過剰な競争など、共通することが多い要素もある。しかし。スカウトされてすぐ死んでしまう少女、ゴスロリ少女、剣道少女、フーゾク嬢。失恋青年、マッチョな公務員。優等生。ラフィン・ノーズが好きだった女性。それぞれを、外見でくくれる共通点はない。みんなきちんと演じていたから。表であれ裏であれ、社会がそれぞれに求める役割を。
 あとがきで、著者が述べているように、また本書を通読しても感じたことだが、自殺の原因でもっとも多いのは、やはり経済問題である。「生きづらい」社会構造とリンクした集団・家族の構造の問題もきりはなせない。当事者への単純な「呼びかけ」で減らせることはないだろう。
 著者は、多くの死に接しながら、本書の最後まで、上から自殺を禁じる「神」の視点に立とうとはしない。その姿勢に深い感銘を受けた。

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死をやりなおすということ。

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 若き日のドストエフスキーは政治犯として死刑宣告を受け、執行直前に中止された経験を持っている。それは執行者にはあらかじめ分かっていたことだった。しかし当事者である彼には例えようもない「死」であった。飛行機に少し詳しい人ならばご了解頂けるだろうが、平常時でさえ飛行機の製造・整備には多大なマンパワーを要する。特攻が立案・実行された戦争末期の日本の状況(生産体制、整備体制、保有機数、燃料事情、パイロットの熟練度など)を考えると、特攻そのものを否定するにせよ肯定するにせよ我々がTVなどで見る出撃映像のその前後にすさまじい困難があったことは明らかだ。つまり大西中将はじめ上層部がたとえどんなに悲壮な決意で決定した作戦にせよ、人間的な感情を抜きにしても、無理のある作戦だった。
 天候不良、機体の故障、技量不足などで「軍神」とあがめられて飛び立った特攻機のうち一定数のものが不時着・帰還せざるを得ないこともその一つである。本書はその帰還者たち(厳密にはその一部が)がどのように特攻に臨んだか、どうして還ってきたか、どう扱われたかを、陸軍福岡第六航空軍の参謀、その麾下の振武隊の隊員たち、素人同然の技量で全力で機体を組み立て、整備し、隊員を見送った女学生たちなどへの綿密な聞き取りのもとに、描きだした。このタイプのルポルタージュに欠けがちな軍事的背景、飛行機・兵器の構造について比較的まともな目配りがなされているのも好感が持てる。軍記としても読むに耐えるノンフィクションである。
 私は特攻に命を散らした方々を「犬死に」と呼ぶことには単純に怒りを覚える。しかし本書に描かれる帰還者の方々への扱いには、より深い怒りを覚えた。さまざまな物理的な事情で帰還してきた彼らを面罵し、幽閉し(「軍神」は生きていてはいけないから)、軍人勅諭を清書させる。そして再出撃のプレッシャーを強いる。
 たとえ、強い決意で臨んだとしてもニ度やれることとやれないことがある。
 そして「結局、死に損なった人間には共通の話題というものがない。」(本書p.221)
 しかしその現場責任者・帰還者からひどく憎まれた参謀自身(彼への聞き取りの成功が本書の深みを増している)さえも、本来海上目標(艦船)への攻撃を目的としていない陸軍の特攻隊の訓練体制整備・部隊編成に奔走する中で飛行機事故にあい、頭部重傷を負った身体で指揮を執り、帰還者からの復讐を恐れて戦後50年近く80歳までピストルと軍刀を手放せなかった。彼は参謀の中で唯一の現場パイロット出身者だった。
 IWGP。キングはあの時、一度、本当に何かを見たはずだ。今、彼に読んでほしい一冊である。

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紙の本大衆の反逆

2007/05/18 23:29

TVの前の皆さんって誰?

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 本書は著者の祖国スペインの日刊新聞で1929年に連載された評論をまとめたものだ。まさに世界大恐慌の年。その前年には、イタリアではムッソリーニがファシスト独裁を確立、ソ連の独裁者スターリンはライバル、トロツキーを国外追放、5カ年計画を開始していた。そんなファシズムとロシア共産主義の脅威の中で、「大衆」を批判し「貴族」的精神を称揚する本書は当時でも「反動的」に見えたかもしれない。もちろん著者も、実際の貴族には「腐った」ものが多いし、労働者にも「貴族」の心を持ったものが多いと指摘している。しかし、街頭の雑踏から書き起こし、19世紀の急激な人口増加に何度か言及しているところをみると、結局は現実の大衆に対する批判として、本書は機能しただろう。
 本書での大衆の定義とは「人と同じであることを喜び、凡庸なままな(そのままの)自分を肯定し、基本的人権以上の特権を非難し、自分たちを匿名の全能の支配者だと考えているもの」とまとめることができるだろうか。著者は「民主主義」と「科学」と「工業化社会」が彼ら「大衆」を生み出したとしている。ここで特筆しておきたいのは、著者が、この大衆が支配者として彼らを生み出した「基本的人権と市民権を承認している制度(=「民主主義」を踏みにじる」可能性を指摘し、また大衆の生活のインフラを保証する「工業化社会」の基本になる「科学」が大衆自身の「科学」への無関心、敬意の欠如によって衰退する可能性を示唆していることだ。前者は、ナチズムの猛威を的確に予言したといえる。後者はもしかすると、今の社会が直面している問題かもしれない。今読む価値はあったと思う。
 新聞連載論文なので、基本的に長めのエッセイ集に近く、読みやすい。
 ヨーロッパの将来を考察した第2部も興味深い。ここでは彼は、全能感を持った大衆(第1部ではこの全能感を「満足しきったお坊ちゃん」と批判していたのだが)が「フランス」「ドイツ」という国を自分にはもはや小さい器と考えはじめ、「ヨーロッパ統合」という、困難な事業に取り組み、大衆であることを乗り越える可能性を見いだしている。
 本書が様々な大衆論、ひいては今流行の下流社会論の元ネタになっているのでは、という気もする。やはりお勧めしたい。

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