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  2. レビュー
  3. 唐賢士さんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年6月)

唐賢士さんのレビュー一覧

投稿者:唐賢士

11 件中 1 件~ 11 件を表示

紙の本薩南示現流 新装版

2006/12/19 17:31

一撃必殺の神話

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作は、天真正自顕流、後年薩摩に転生して天真正示現流の名を天下に轟かせた希代の豪剣流派と、それにまつわる人々を描きながら、日出づる国の戦闘者の蛮性を最も長く残していた薩摩という国の気風を、そして薩摩隼人という生き物の恐るべき凶暴性、剽悍、暴勇を、奔騰する生命の躍動感をもって見事に描ききった、豪筆とも言うべき作品である。
何と言ってもまず「キャラ」が立っている。いや、立ちすぎている。本編の主役というべき示現流は、左肱切断の構えを命として、雲耀の太刀行きの早さにすべてを賭ける「超」豪剣である。小手先の技数、構えの変化などで目をくらまそうとするすべての他流は、「朝に三千、夕に八千」と称される立ち木打ちの修練で培われた刀勢の下に伏すのだ!この日本人好みの「一撃必殺神話」を極限まで推し進めたがごとき示現流が本作においてタイ捨流や新陰流の使い手を微塵と打ち砕く描写を読んだとき、理屈ぬきの生理的快感を禁じ得ない読者はいないであろう。
そこには間違いなく、プロレスや空手の神話にも通ずる、日本人のやむにやまれぬある心性が発露されているのだ(という事にしよう)。
そして本編のもう一つの大いなるモチーフともいえるのが「薩摩」なのである。これもまた、キャラ立ちなどというレベルではない。本編に活写される錚々たる薩摩隼人の面々、若き次期藩主島津家久をはじめとして下級武士にいたるまで、「盛風力の輩」と称される彼らの蛮性が、何一つ理想化されることもなく弁護されることもなく活写されているのが読者に強烈な印象を残す。作者は一言で「暴勇」と表現しているが、正に暴、正に勇。その中において主人公東郷重位の沈着が、ひときわ鮮やかな存在感を放つ仕組みになっているが、それを差し引いても薩摩隼人の蛮性は凄まじいとしか言いようがない。と同時に、この対比は、以後の示現流が、後年の薩摩の豪気かつ沈着の気風を養うのにどのような役割を果たしたかを読者に想像させる。
この小説は、昨今回顧的、美化的に取り上げられることの多くなった「サムライ」や「武士道」の恐るべき原風景を、土から掘り出したばかりのダイヤモンドの原石で読者の頭をカチ割るがごとくに(笑)描き出した傑作なのである。何も足さない、何も引かない。賛辞も非難も超越したこの生命力の躍動感の中にこそ、「倭」と称されたこの国のある心性である「武士道」の真面目が見て取れるのではないかと思う。

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紙の本夢は荒れ地を

2006/12/16 23:23

夢の跡

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

かつて世界を震撼させたクメール・ルージュによる虐殺の痛手と、その後発生した隣国・ベトナムの介入による内戦と、その傀儡政権による支配から未だ脱することができず苦しみ続けているカンボジアを舞台にした作品。

「辺境」の自由に憑りつかれて自衛隊から離脱した日本人を中心に、未だ闘士しての矜持を喪っていないかつてのクメール・ルージュ残党が集結し、辺境における獰猛な資本主義の侵食によってなし崩し的に進行する共同体の破壊(その象徴として「人身売買」の実態が詳しく描かれている)と、隣国ベトナムの傀儡政権によるカンボジアの植民地支配とを、あらゆる非合法な手段を用いてでも粉砕しようとする筋書きは、これまでの船戸文学の中にも数多く見られたストーリーの「型」だが、本作は、「辺境と叛乱と革命」というこれまでの船戸文学の「型」を継承しつつも、作品の質が新たなクオリティを獲得したことを感じさせる。
本作における魅力的な要素は、端的に言って、「辺境」と「等身大のリアルな日本人像」(主人公格の日本人はいずれも団塊前後の世代)と「叛乱と革命のロマン」との見事な結びつきにあるように思う。 それは、「辺境の王」と化した元自衛官に引きずりまわされ、彼の「闘争」に運命的に巻き込まれていくその他二人の日本人(元自衛官を捜索しに来た自衛隊の同僚と、カンボジアで教育ボランティアに携わっているNPO指導者)の思考と行動が変化していく、その軌跡にあった。
二人はいずれも、意識的にせよ無意識的にせよ、「日本」や「日本人」の狭いワクに縛られ、真の意味で辺境に飛び込むことを躊躇しているのだが、その彼らが、辺境闘争への水先案内人とでも言うべき元自衛官に先導され、最終的に辺境の戦士へと変容していくリアルな過程こそが、個人的には本作の醍醐味だったように感じた。
また、本作において見逃してはならない要素として、ベトナム戦争で大いに盛り上がったかつての左翼思想が、「ベトナム解放後」に立て続けに起きた新興社会主義国間における露骨な干渉戦争(本作においては、ベトナムのカンボジアに対する傀儡的支配が主題となっている)と民族間の内戦・虐殺に対する論調の混乱においてその偽善と欺瞞を露呈していく過程の最も重要な「踏み絵」のひとつに、クメール・ルージュのカンボジア虐殺に対して当時どのような態度を選択したかという問題が存在するが、本作は、かつて第三世界の闘争と解放に「夢」を馳せていた人間の側からの、今日的状況を織り込んだ真摯で深刻な「総括」としての側面をも持っている。
クメール・ルージュの虐殺数が過大に言い立てられるほど、その虐殺者を駆逐したベトナムとその傀儡政権によるカンボジア支配が正当化される仕組みになっていること、そしてその植民地支配の枠組みがなし崩し的な市場化とセットになってますます強化されていること、その今日的状況から考えればかつてのクメール・ルージュはカンボジアの民族独立を守護し強化するための尖兵として、国内を粛清する社会主義政策を過激化させていかなければならなかったこと、しかしだからと言って、その結果としての「虐殺」という過去が正当化されはしないということ、そしてそれらすべての歴史と現実を織り込んだ「今日的状況」の象徴として描き出される、依然として続くベトナムによる傀儡政権支配下でのカンボジアの少年少女の人身売買・・・。
以上のような、カンボジアをめぐる複雑な過去と混沌たる今日的状況を、国家と民族にまつわる様々な思考の枠組みをあたかも照明弾のように打上げながらクッキリと描き出してみせた本作は、世界の構図を直撃する船戸文学の「史眼」がますます進化していることを確認させてくれたように思う。

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紙の本虹の谷の五月

2006/12/21 02:28

敗北からの出発

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作は、周知のとおり直木賞受賞作品である。
過去の超傑作『砂のクロニクル』や『蝦夷地別件』以来、この二者と比較して後々の作品を下に見る向きもあるが、ああいう超傑作というのは、作家の創作意欲と、それを支え受け入れる世界史・世界情勢のタイミングと、それに応じた読者の盛り上がりという、いわば「天・地・人」の絶妙な相関がきわまって初めて誕生するものであって、それほど簡単に期待できはしない。
その意味で、冷戦が崩壊し、第三世界革命や民族解放の闘争が辺境でのなし崩し的なテロリズムと犯罪の混合物に溶けていき、思想も主義もあったものではなく単なる市場主義万歳のグローバリゼーションだけが謳歌されて久しい現在、ああいう超傑作はもう二度と誕生はしないだろうし、おそらく船戸の作品世界においても、それを踏まえた上での苦しい模索がなされてるのだと思う。
そして、その模索の過程は、『クロニクル』以後に書かれた一連の船戸作品の中に、少しずつ読みとれるような気がする。読者はたぶん、あらかじめ「全的な反逆の不可能性」が確立された金銭ずくの二進法が支配する世界で、それでもなお反抗をつづけていかざるを得ない者たちが背負わされた、「あらかじめ定められた敗北からの出発」の軌跡それ自体を、船戸作品の創作過程の内部に読み込んでいかざるを得ない、そう思うのだ。
そこで『虹の谷の五月』である。本作に終始、流れているのは、徹底した挫折と敗北と諦観が風土病にまで化したかのようなフィリピンの空気である。すでに「反抗」や「反逆」は、馬鹿馬鹿しい三文芝居以下のパロディにまで成り下がっており、それはある者にとっては崩れかけた革命組織を辛うじて維持し、生計をつなぐためだけに握りしめられた古ぼけた護符であり、またある者にとっては、もはや金銭ずくの犯罪行為を飾りたてる見え透いたペンキ絵にすぎない。「組織」は単なる生存のための集団に堕落し、その堕落からも弾き出された者はテロリスト以下の傭兵にまで身を落とす。国家権力までもが、主義主張など投げ棄て、すべて二進法の貸借表のみによって、敵対組織や犯罪者に対する弾圧や裏取引を機会主義的に選択する。
そのような状況において、徹底した反抗は、それがどれだけ滑稽で悲惨に映ろうとも、もはや個人によってしか為し得ない。本作の「たった一人のゲリラ」、虹の谷のホセは、その状況そのものの象徴である。客観的に観て、悲惨で無意味な彼の軌跡は、ある意味では、船戸作品がたどっている苦闘そのものであると言っていいかもしれない。
さらに言えば、本作で起きる闘いは重大事件ではなく、小規模の紛争にすら発展しない。フィリピン辺境で、革命軍くずれと、革命軍くずれの犯罪者が警察の記録にもはっきりと残らないような銃撃戦をして、何人かがゴミのように死に、ほとんどの人間は気にもしない。最後の革命軍兵士ホセの孤独な魂は、主人公のトシオやジミーといったごく少数の人間にのみ受け継がれ記憶されて、その使命を終える。
つまりは、そういうことなのである。もはや、全てを一変させるような大事件は状況のどこにも期待しえず、人間は徹底して個的な闘争を通じて、個人の魂を新たな個人に継承させてゆくことを願うしかない。そこには大仰な仕掛けやスペクタクルは存在しないが、静かでどっしりとした手ごたえは確かにある。
その意味では、本作『虹の谷の五月』から、状況の中で船戸与一自身が闘いつづけ書きつづけてゆくしかないという、作者自身の個的な闘争の軌跡あるいはその方針を、船戸作品の継続的な読者としては受け取るべきなのであろう。

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紙の本蝶舞う館

2006/12/21 02:19

世界史の虚無に舞う胡蝶

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

かつて二度の解放戦争においてフランスと米国という西欧帝国主義大国を打ち破り、第三世界の民族解放闘争の輝かしい勝利によって全世界の左翼陣営に多大な希望を与えたものの、現在は改革開放政策・ドイモイの採用によって、経済成長と同時に、一党独裁の腐敗・少数民族の弾圧・カンボジアに対する内政干渉など、かつての解放闘争の美名に隠されてきた「陰」の部分が急速にクローズアップされつつあるベトナムを舞台にした小説。

物語は、日本のテレビ局がでっちあげた欺瞞に満ちた「ベトナム解放記念番組」の主役としてベトナムを訪れた日米混血の落ち目の女優が突如、ベトナム辺境の少数民族解放戦線を名乗る組織に誘拐される事件に始まる。本作には、その解放戦線を束ねる謎の日本人首領、その日本人の旧友であり、誘拐の交渉人として彼に指名されて辺境へ赴くこととなった半身不随の元カメラマン、残留日本兵である祖父がフランスに対する解放闘争に参加したという因縁を持つ日本人旅行業者、誘拐事件を奇貨として辺境少数民族に関するスクープを狙う日本のテレビクルーなど、「日本」や「日本人」が物語を構成するリアルな「隠し味」として登場するが、ベトナム側にも、改革解放により進展する腐敗に疑問を感じつつも、国家と党に忠誠を誓い、腐敗分子や少数民族を徹底的に弾圧することに使命を感ずる船戸文学的「硬派」の秘密警察指揮官、ドイモイ政策によって土地を奪われ森を焼かれ、追い詰められた結果として否応なく謎の日本人が指揮する解放戦線に参加していく少数民族の若者など、ベトナムの今日的状況を踏まえたリアルで、かつ象徴的な役回りを演ずる魅力的人物が多数登場して、物語をさらなる混沌に向けて動かしていく。

本作全般に流れる空気は、人間の卑小な思惑など無視して滔滔と流れつづける歴史の「無情さ」に対する恐るべき虚無感と絶望と諦念であり、かつて『蝦夷地別件』においても発揮された、この冷え冷えとした「虚無からの観察眼」とでも言うべき船戸の史眼は、もはや船戸文学が、第三世界の民族解放闘争をダシにした単なる「冒険小説」の域を脱して、ことば本来の意味において「冷徹」、ハードボイルドな「眼」で世界と歴史の構図を狙い撃つ「歴史文学」のレベルに達しつつある事実を示しているようにすら、思える。

本作の主要登場人物は、ほぼすべて破滅の運命をたどる。
謎の日本人が指揮する解放戦線はベトナム秘密警察の圧倒的武力によってあっさりと鎮圧され、カンボジアに逃れた残党もベトナムの傀儡政権によって根こそぎに抹殺されて歴史の舞台から姿を消す。その終局を目撃した日本人数名も、抗いようのないベトナム秘密警察の監視と警告に屈服し、あるいは精神的に、あるいは経済的に、こころが壊死していくように緩慢な、敗北と破滅の道行きをたどることになる。弾圧者である当のベトナム秘密警察の指揮官ですら、自らが疑問視していた改革解放政策がもたらした腐敗の侵食によって、家庭の破産と自らの社会的破滅を迎える。読者のこころには、冷え冷えとした虚無の旋律だけが残される。
もはや、このレベルに達した船戸の「史眼」からは、思想や民族の差異、あるいは弾圧者と抵抗者という役回りすら表面的なものにすぎない。轟々と回転する歴史の歯車は、無数の人間とその想いを巻き込みすり潰しながら、彼らの血肉を糧に「世界史」を無情に展開させつづけていく。カンボジア、ベトナムと、かつて世界の左翼陣営が夢を馳せた第三世界の解放闘争の「陰」と、「その後」の今日的状況を総括しようとした『夢は荒地を』と本作『蝶舞う館』以来、船戸は、世界史を展開する歯車が軋ませる無情の回転音に対し、より冷徹な姿勢で静かに耳を澄まそうとしているように思える。それは、あるいは冒険小説から歴史文学への展開と表現できるのかもしれない。

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薩摩という可能性

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 わが国の幕末において、三百諸侯中、最も古風な「鎌倉以来」の武家文化を誇りつつ(歴史の長さでは、徳川など相手にもならない)、同時に最も先進的な科学技術をも採用しつつあったのが、西南の雄藩・薩摩島津家であったことは今日では周知のことだが、その薩摩に生まれた天才的な狙撃手・砲術研究家・銃器開発者として、帝国陸軍制式採用「村田式」に名を残したのが、村田経芳であり、本書は彼の「薩摩時代」「戊辰戦争」「西欧視察」「西南戦争」に焦点を当てた伝記小説となっている。
幕末に特異な性格を発揮した雄藩である、薩摩島津家を対象とした時代小説は多いが、本書は、デビュー当事より、刀剣類や銃器類に造詣の深い(要するにマニア?)ことで良く知られる東郷隆氏の小説だけあって、幕末薩摩における諸派砲術の比較や、伝統銃器と輸入洋銃との構造や戦術の比較など、当事の薩摩に根を下ろしつつあった「先端科学技術」の観点から、あらためて薩摩の士風や藩組織の性格の「特異性」を浮き彫りにすることに成功している。
いわば、「幕末の薩摩隼人」とは、示現流や薬丸流などの実戦武術によって個人的な心身を鍛錬し、幼少より二才組などの団体組織の中で「最も古風な武士道の練磨」に努めつつ、西欧より輸入した最新鋭の兵器・戦術思想・科学技術で武装することにいち早く適応した戦士集団だったのであって、「最先端の科学で武装した、最も古風な日本武士」と表現することもできるのではないだろうか。その意味で、本書の主人公である村田経芳は、それらの、自身の伝統をバックボーンとしつつ、先端技術を理解し、駆使し、独自の研究と改良すら行うことのできた「薩摩武士」の一つのモデルとして読むことができるように思うし、それはまた、日本人全体にとっての理想的なモデルになり得たようにも思う。
これらの、伝統と変革の狭間の時代に発生した「一つの『理想的な日本人』のモデル」としての薩摩隼人は、その後、薩摩の特異性そのものによって発生した西南戦争によって有能な人材に甚大な被害を受ける結果となり、「『薩摩隼人』という日本人のモデル」は、歴史の一時期に一瞬だけ光を放った「可能性」としてのみ、とどまることになった。
しかし、現在、歴史上において最もその民族の性格が衰弱し、とめどもない「植民地化」に追い込まれてゆきつつある「日本人」が、再び、「独立した国家」「独立した民族」(そもそも、今生きている日本人の「ほとんど」は、日本が独立した国家であり、日本人が独立した民族として行動していた「記憶」を持てないままで成人している。そんな民族が再度「独立」できるだろうか、という深刻な自問こそが、必要である)として世界史上に生存してゆくことを欲するとするならば、強烈な伝統と先端技術の間で、幕末の薩摩藩が挑戦した「試み」についての、深刻な考察と反省が求められているのではないだろうか。
あくまで伝統に根づいた、科学技術の豊かな活用。
たゆまぬ鍛錬に基づいた個人の自強とプライド。
それらの個人に支えられた、開放的でありながら、鍛えられた鋼のような柔軟な強さを持った組織としての地域と国家。
これらの目標を実現するための具体的なヒントを、幕末の薩摩藩の「試み」、その成功と失敗の中から、早急に発見し、自分の身の回りから実践していくこと、それこそが、私がこの伝記小説から得た有意義な思考だったように思う。

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紙の本中国畸人伝

2006/12/17 18:51

滅亡と隠逸

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

竹林の七賢など、清談を好み隠者の文化が発達した中国の魏晋南北朝を中心に、著者が選んだ隠者の軌跡を切り取ってみせた佳篇集。

暴威をふるう政治の磁場からのがれるために必死の思いで隠遁をよそおった者、神仙にあこがれ、一生を名山探索と著述に費やした者、俗世間の思惑にとらわれず、詩と名馬と酒と美女を豪放に楽しんで一生を送った者、古代の楽にあこがれ、一生を費やして極めつくしたものの誰にも認められなかった者など、本書に登場する「隠者」の様相は様々だが、著者は一様に、自分自身の生き方を貫こうとする奇怪でしかも清新な情熱、運命と権力に対する諦観に支えられた、爽やかで軽みのある出処進退、そして、彼ら隠者を陰で支え、穏やかに包み込んできた中国の広大な大地と人間のつながりを主題にして、かすかな哀感をもって描くことに成功している。

滅亡と四散の時代に、如何に志を貫いて生きるべきか、という点に関して、現在まさに大国に属国化されようとしているこの国の住人としては、時代や民族を超えた「本質的な人間の生き方」について、考えさせられる作品であった。

「道、行われず。われ筏に乗りて海に浮かばんとす」(孔子「論語」)

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「実戦派」の人生訓

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 合気道開祖・植芝盛平の直弟子であり、異色の実戦派として「養神館」を興した合気道家・塩田剛三師範の語録を、子息として生前に親しく教授を受けた泰久氏がまとめたもの。
塩田剛三師範は、自他ともに認めた実戦派として、その技術や武勇伝にまつわる逸話は数多いが(極真空手宗家・大山倍達師と、太気拳開祖・澤井健一師が組んで道場破りをしていた時期に−まあそれ自体、凄い光景だと思うのだが−塩田師の養神館を一度訪問したが、「見学」しただけで大人しく帰ったという説もある)、本書には「実戦派」としての血なまぐさい話の類は一切、書かれておらず、人生の晩年にさしかかった塩田剛三師範の、円熟した人生観や処世訓を泰久氏がまとめた、滋味のある内容となっている。
独特の技法探求で知られる、松声館・甲野善紀師が巻き起こした「古武術ブーム」以来、「精神論を廃して格闘技術や身体論に徹する」武道書・武術書が大いに発行されるようになり、私自身も、それらの技法論・技術研究書から啓発を受けることが多いため、虚飾を廃した技術論の追求は歓迎すべき傾向だとは思うのだが、しかし同時に、ある種の研究書からは、「画一的なマニュアル」に似た空虚さを感じてしまうことが、ないわけではない。

そのようなとき、本書のように「噛めば噛むほど味の出る」、達人が武道から生み出した豊かな「人生論」「処世訓」を静かに読み下していくと、
「何のための武道か」
「武道をやって、結局、何がしたいのか」
「その技が出来たから、それで何なのか」
「強くなるって何だ」
「人生のほかの側面と、武道とはどのように共存・協同していったらいいのか」
などなど、たんなる技術論を超えたところで、
「そもそも自分はどうして武道などやりたかったのだろう」
という、自分自身の「根源的な動機」を見つめなおすことができるように思う。
ただし、本書がその他凡百の「武道家の人生論」とは一線を画している点は、やはり、それが「実戦派・塩田剛三」によって語られたという重みであり、一見、「穏やかな好々爺の処世訓」として読める言葉の行間にも、様々な実戦の経験が裏づけされているという点、用心して「裏読み」すれば、読者が得るものはさらに大きいのではないかと思う。

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ププタン

2006/12/16 23:25

日本人という異物

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本刀・銃砲をはじめとする武器に関する造詣が深く、その知識を活用した時代小説の佳作も多い東郷隆氏による、近代以降「海外雄飛した日本人」をモチーフにした奇話集。
東郷氏の著作は、時代小説を中心につい最近になって読み始めたばかりだが、近代以降を扱った本作を読了して、その伝奇的なアイデア、刀剣や銃砲に象徴されるディティールに関する貪欲さ、偶然や運命の奇怪きわまる作用を織り込んだ一種の歴史観、そしてそれらの要素を、遊び心を持って、精密機械を組み立てるように佳篇として書き上げる構想力について、あらためて驚かされた。
表題作の「ププタン」とは、東南アジアの諸島部における宗教的な集団自殺の様相を描いた短編だが、読み進めるに従い、作家の想像力の奇怪な乱反射によって、眩暈を起こすような錯覚にとらわれた一作である。

物語は、日本海軍に職を得ているが、そろそろ本格的な執筆生活に取りかかろうかと考えている作家(後に芥川龍之介と知れる)がふとした偶然で、東京に亡命しているインド人革命家を訪問する機会を得、東南アジアにおいて彼が見聞したという集団自殺について話が及ぶのだが、それにつれて、語り手の視点は突如として、しかも大胆に、このインド人革命家の主観に移り、読者は大正の東京から、オランダ軍侵攻前夜のバリ島の、破滅への静かな予感と狂熱が漂う熱帯夜にいきなり放り込まれることになる。
この間の、物語の語り手と場面の移行における想像力の転換の急激さ、同時にその滑らかさ、しかも、人物と場面に対する全く破綻のないディティールの継続が、読んでいる私自身をして、頭の中の想像力を外部から突然ハッキングされて書き換えられたような、「眩暈」にも近い感覚を起こさせたのである。そして、作家のこの創造の飛躍に、自分自身の狭い想像力のワクを撹乱され、打ち壊されたことは、久々に得た「読書の快楽」であった。
本書には、他にも、粋がって日本を出たものの末は乞食に転落した上海やくざの語り物、少年時代、冥界の鬼官に約束した呪法を守らなかったために汽車上で爆殺される末路となった東北軍閥・張作霖の奇話、地の果てチベットを侵略する清国軍を活仏の導きによって撃退する羽目となった二人の日本人の冒険譚など、「日本人」という主体の行動と想像力のワクを思い切って打ち壊した奇話・奇譚がそろっており、最近、「日本」や「日本人」について考えることが多かった私にとっては、単なる小説というにとどまらず、偶然と必然との間に翻弄されつつ、極めて楽天的に支離滅裂な冒険をやっていくための「指針」のようなものを得たような感すら、しないではない。
海外経験のある日本人や、これから海外雄飛しようと考えている日本人は、興味を持って読むことのできる作品であろうと思う。

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紙の本蟹喰い猿フーガ

2007/01/21 16:04

アメリカ・他民族・アイデンティティと詐欺の絶妙な関係

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作は、『非合法員』以来アメリカを舞台にした船戸の数少ない作品中において、最も抱腹絶倒、かつ支離滅裂、(多分作者にも)何が起こるか分からない辻褄合わせでしかも楽天的極まるストーリー展開が印象に残る愉快な作品である。ルポルタージュ『叛アメリカ史』以来、一貫してアメリカの「陰」を見つめ続けてきた船戸の作風においては、唯一例外的に、(醜さをも織り込んだ)アメリカの長所や美点を描き出そうとしている、あるいは結果的に描き出すことに成功した作品に見える。

本作は、国籍不詳民族不詳年齢不詳の謎の詐欺師「エル・ドゥロ」と、南米漫遊を夢見てアメリカで貯めてきた金をエルドゥロに騙し取られて一文無しになった日本人青年とを中核に、エルドゥロと因縁浅からぬ美女レスラー二人組みや、天涯孤独の黒人少年などなど、まっとうな社会の眼から見れば何ともいかがわしく、どうしようもないような連中が筋を追うごとにうじゃうじゃと寄り集まり、最後は大同団結してマフィア相手に危険な大博打を仕掛け、狙うは一攫千金という、まずはハリウッド映画仕立てな筋書きである。

その点、筋書きだけで言えばありふれた映画の脚本にでもありそうな本作なのだが(また実際、それくらい気軽に楽しく読了させてくれるのだが)、民族と国家について独自の考察を重ねてきた船戸の炯眼は、本作のような純エンターテインメント仕立ての作品においても遺憾なく発揮されており、アメリカという多民族国家における差別と偏見とアイデンティティの「ゆらぎ」が交差する微妙な一点に的をしぼって、本作の主役であるエル・ドゥロが展開する華麗な詐欺術が仕掛けられていく展開になっている。
ある時はメキシコ人、またある時はベネズエラ人などなどと、詐欺の筋書きにあわせて次々とアイデンティティを取り替えてみせるエル・ドゥロの変装術の要点は、騙そうとする相手が持っている他民族に対する蔑視や偏見を訂正せずにまんまと利用させていただくわけで、しかもその術を使って一攫千金というわけだから、これはまさに「多民族・アイデンティティ・ビジネス(金儲け)」を骨組みに構成されているアメリカという国家そのものの体質を「裏返し」になぞってみせたかたちになっているところが本作の絶妙な点である。
このような点にも、船戸が持続してきた民族と国家との関係に対する考察が陰に陽に働いていることが感じられてならないのだが、しかし初期作『非合法員』などと比較すると、同じくアメリカを舞台にした作品でも「思えば遠くへ来たもんだ」との感慨をもよおさずにはいられぬ一作ではある(同型の作品として『夜のオデッセイア』『炎流れる彼方』があるが、これらは微妙だが政治的な趣が濃い)。
また、アメリカを構成する重要な祭典としての「スポーツ」を題材にした近年の短編連作集に『蝕みの果実』があり、船戸作品におけるアメリカ観の変遷を見るには重要な作品である。

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紙の本降臨の群れ

2007/01/21 16:01

復讐者としての「歴史」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作は、東南アジア最大のイスラム教徒を抱える多民族国家であり、オランダによるかつての植民地支配の残滓である無根拠な国境設定が今なお傷跡として残り、その結果としての諸島部における相次ぐ独立闘争と国内の宗教対立による絶え間のない小規模紛争とを、宿命的な「病」として抱え込んだインドネシアを舞台とした作品。

端的に言って本作の妙味は、アンボン島周辺を舞台として、多民族国家インドネシアを代表する複数の宗教・民族に焦点をしぼり、多民族が共存してきた穏やかな東南アジアの風景が、小事件を積み重ねつつ社会が少しずつ崩壊していく微かな違和感を増幅させながら、誰もがなぜそうなったかハッキリとは説明できないままに、「いつの間にか」血で血を洗う凄まじい殺戮抗争へと日常生活が変容していく、その「過程」をたんねんに描ききった「他集団同時進行」(イスラム・キリスト教・華人の三集団)のストーリーテリングにあるのではないかと感じた。

本作を読了することで読者は、これまで数多くの紛争地帯を取材し、その歴史を学び、多くの作品を仕上げてきた作家・船戸与一の想像力を借りながら、なぜこのような凄惨な他民族間・宗教間の紛争が起こるのか、それも時として外部からは「突如として」勃発したかのように見えるのかについて、このような紛争の経験をほとんど持ってこなかった日本人には分かりにくいであろう、多民族社会の日常とその崩壊のディティールにまでわたって、多少の理解を得ることができるように思う。

また、本作のもう一つのポイントとして、本作が単純にイスラム・キリスト教間の紛争を作品としてたんねんに追跡・再構築したというだけであれば、ただの「よく出来たルポルタージュ」の域を脱していない「現実の後追い」小説に終わりかねないところではあるのだが、歴史と叛乱と暴力についてこれまで自作を通じて独自の考察を展開してきた船戸は、イスラム過激派のカリスマ的指導者を装いながら実際にはいかなる宗教・信条も持たず、純粋な「テロのためのテロ」を画策することで紛争を次々に拡大させていくテロリスト・ファウジを、「民族も宗教も越えたひたすらなる破壊への渇望」の象徴として活躍させることで、冷戦後に頻発してきた宗教・民族紛争の「次の段階」としての、犯罪と破壊活動が混淆し、もはやそれ自体が目的と化した「テロルの日常化」という事態に対する予言となっている点は注目すべきであろう。

本作を読了して最後に感じたのは、決して物語の主役でも本筋でもないのだが、日本人である読者に興味を持続させる「隠し味」としての日本・日本人が東南アジアに落とす影の絶妙なリアルさであり、本作に登場する、インドネシアに派遣された老齢の漁業指導者でありながら現地の少女と出来心の関係を持ってしまったばかりに、何の主体性も意志も発揮できないままインドネシア情報機関とCIAにひたすら利用され続ける準主役の日本人などは、かつての船戸作品に登場してきた超人的な破壊工作者であった日本人像に比べて、日本人として読んでいて実に腑に落ちる絶妙な「不甲斐なさ」であると同時に、人物造詣の完成度という点で言えば高まっていることは否定できないであろう。
今後も、船戸作品における日本人像の変遷には注目していきたいところである。

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紙の本小説秦の始皇帝

2006/12/17 18:53

虚無感に支えられた権力史観

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 剣豪小説で主に知られる津本陽氏が、中国の歴史上、最初にして最大の独裁者である始皇帝について、諸資料からエピソードを綴りあわせるようにして描き出した、コンパクトではあるが珠玉の中篇である。

 本領である剣豪小説や日本の歴史小説についても言えることだが、津本氏の描写はつねに感情を抑えた淡々とした筆致でありつつ、しかも地を這うような着実な視点と構成力をもって、人物の心理と行動、話の起承転結をガッチリと破綻なく運んでいくところに作風の特徴があるように思われるが(同様の題材で小説を書いても、例えば、司馬良太郎氏の時として天空を飛翔するような想像力と視点とは好対照である)、その津本氏の淡々として剛的な筆力はしかし、時として、戦慄すべき冷徹・冷酷きわまる観察眼をもって、人の生と死、あるいは、巨大な権力と人間の関係について、その実態と虚無を、乾ききった描写で暴き出さずにはおかない(津本氏が時として見せる、この恐るべき「虚無からの観察眼」というべき感性は、エッセイや小説で窺うかぎり、戦時中の空襲体験などに基づくようだ)。

 上に述べたような津本氏の、ある種の虚無感に鍛えられた、しかも同時に、地を這うがごとき着実な描写は、殺戮の技術から精神の高みへの昇華を目指した剣豪たちの道程や、おびただしい人の死を呑み込みながら興亡を経ていった戦国武将らの人生を描き出した数々の小説でも発揮されたが、氏の乾ききった描写力の凄みは、むしろ、本作『秦の始皇帝』のごとき、中華の巨大な王朝にまつわる、「権力史小説」とでも言うべき、ごく少ない作品において、最も発揮されたように思える(津本氏の少ない中国小説のもうひとつの傑作が、「中華ファシズム革命への道程」とでも言うべき、『則天武后』である)。

 基本的に、本書にあらわれてくるエピソードや人物群像、それに関する解釈などは、ほとんどが古典や先行資料から「そのまま」引用されたものであり、なぞ解きのような歴史の斬新な解釈や、奇をてらった心理描写などは努めて書かれていない。
 しかし、津本氏の剛的な筆力によって、それら既知のエピソードや人物群像が、石版に彫り刻むように重たく語られていくにつれ、想像もつかぬ中華の権力の巨大さ、それにまつわるおびただしい人の死と破滅、独裁者の恐るべき虚無など、活きた姿で行間から立ち現れてくるのを読者は感じるであろう。シンプル・イズ・ベスト、まさに「練達」の筆力であろうと思う。

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