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  3. ばんろくさんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年1月)

ばんろくさんのレビュー一覧

投稿者:ばんろく

14 件中 1 件~ 14 件を表示

著者自身、自分が変わっていると認識している。それが分かるからこそ、安心して読めるのではないだろか。

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

誰でも、日本語の変化について話をしたり、憂いたりすることは結構であるが、このようなどちらも正解が無いようなテーマにおいては、日本語というものに対する自分の立場、いや立場以前の、背景となるものをちゃんと表明出来ていることが、とても大事であると思う。その点、日本語でもって実際に小説を書いている、しかもその生い立ちに関わる部分の私小説的なものを自身で物している著者は、さっぴくべきバックグラウンドが分かるから、純粋にその論理だけを追うことができる。順に章を追っていきたい。

第1章は、「日本語が亡びつつある、しかもそれは英語に圧迫されてである」そう考えるきっかけとなった、アイオワ大学での作家同士の国際交流プログラムの様子が描かれている導入部である。この、日本語という国語が英語という普遍語の存在によって亡びる、というストーリーの舞台となる言語構造のモデルを示すのが、第2章である。その言語の構造とは、普遍語とそれ以外の言葉という言語の非対称性というものである。このモデルの根拠について言及するのが第3章、第4章である。そもそも学問というか真理の探究とでも言うものは、単一の言語で行われるべき性質のものであるとして、歴史の古くから普遍語と非・普遍語(現地語)が存在していたことを述べる。さらに、ベネディクト・アンダーソンを引用し、自分の話す言葉でものを書くというのは昔から行われてきたわけではなく、むしろ特別な条件のもとに成立したことを示し、特に日本が日本語という国語を持つに至った背景を近代の歴史から説明する。このように成立した言語構造において、今、英語の力が変化しつつある、という趣旨の話が展開されるのである。

モデルの妥当性を歴史的変遷から述べて証明となるのかはいささか疑問ではある。またそれはひとまず脇に置くとしても、現在の言語構造が時々刻々と変遷してきた結果であると言ってしまえば、最近(著者の生まれるしばらく前あたりか)成立した国語というものが、さらなる変化で消滅したとしても、理屈の上では全く不思議ではないとも言える。わざわざ僕がこう指摘するのは別に、だから著者の主張が意味がないと言いたいわけでは全くなくて、ただそういう性質の話であるという事であるということである。著者がこの時代の日本語という存在を非常に惜しく思っているということが、この話に意味を与えるということだけは、頭に留めておかなくてはならない。実際としては、著者の述べる言語構造についても、はあはあなるほどと思って、言わんとすることはよく分かるし、この日本文学に対する価値観を理解できている限り、この論旨はとても面白いと思う。

さて第6章では、この近代に出そろった普遍語、現地語に加えて国語というモデルが更に動きだし、日本語が洗練されていく様が、翻訳文化と絡めて描かれている。そしてついに第7章で、日本語が亡びる、亡びつつあるという現状が、英語の跋扈とともに描かれるのである。

実のところ僕はこの、英語によって日本語が亡びるという理屈だけは納得できなかった。「仮に将来夏目漱石のような人が出たときに彼は、果たして日本語でものを書くだろうか」、結局日本語の亡びる理由はこの一文に尽きるようだ。これは明らかに反語文であるから、著者の主張は「いや書くわけはない」である。いや、これは疑問文であってあくまで危惧の範囲だ、とも言えなくはない。だが、それでは折角この本が書かれた意味がなくなってしまう。だからここは完全なNoとして読むわけである。しかし本当にそうなのだろうか。夏目漱石が現れたら明らかに英語で書くであろうか。英語という普遍語で書かれたテキストを理解しうるのは、世界の二重言語者と、英語を母語とする人であり、日本語という国語で書いたテキストを理解しうるのは日本語を母語とする人である。人口という量的な問題をひとまず無視して英語を母語とする人と日本語を母語とする人が等価であるとすれば、差し引きして、普遍語で書くメリットとして確かに世界の二重言語者が残る。しかし実際は日本人の夏目漱石にとっては、日本語を母語とする人と英語を母語とする人が質的に等価であるだろうか。僕は「漱石~」の一文は明らかな反語文にはなり得なくて、その将来の夏目漱石という頭脳明晰な人物の「背景」によって、どちらにでも振れる純粋な疑問文ではないか、と思ってしまうのである。

最後の判断については結局人によるとは思うものの、全体としては非常に面白い読み物だと思う。文章はうまいし(失礼!)、なにより真剣にこういうことを考えている小説家がいると知ることが楽しい。しかもそれを文章という読めるかたちにしてくれたのはとても嬉しい。ちなみにこの本を読むために前著書の『本格小説』を読んだのだが、こちらも小説を書くに至った背景が上巻の半分近くを占めるという、こういうのって僕はむちゃくちゃ好きなんである。


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紙の本旅をする木

2008/07/22 10:55

写真とはこう眺めるものであったか。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

●1952年生まれ、20代にアラスカに渡り、その広大な自然を撮り続けた写真家・星野道夫のエッセイ。初版は1995年、40歳頃の作品で、「母の友」に連載した文章および書き下ろしである●

短編の中でも、夜ふとんにくるまって読み始めて次々と章を追ううち、気がつくと枕元の明かりを煌々と照らしたまま眠り込んでいた、なんてのはいい本だと思っている。そのままずるずるといくうちに、空がしらみはじめてしまった、というのもまたいい。

しかし今回のこの本は、そういうものとはちょっと違った。一つ一つからにじみ出る雰囲気を存分に味わいたいと思うと、一度に幾つもというわけにはいかない。もちろんつぎに読みすすみたい気持ちがないわけではないのだけれど、それよりも、いま読み終えた箇所を、電気を消して目をつぶって反芻することのほうをとりたくなる。そのせいでというか、本の厚さのわりには読みきるのにずいぶんと時間がかかってしまった。できるだけ多くの量を読むことが吉と、ふだん格別に意識しているわけではないが、習慣づいてしまっていた自分に、ほんの数ページを大切に抱えて眠るというスタイルをとらせたこの本は、とても特別なもののように思える。そしておかげさまで本書を読んでいる間は寝不足が解消されたようでもある。

実は星野道夫という名前はこれまで全く知らなくて、ただ友人に勧められるがままに読んだ。96年に亡くなったときにはそれなりにニュースになったそうなのだが、当時僕はまだ小学生だったから、写真家という人について何か思うような年頃ではなかったのだ。星野道夫は52年という生まれにして、20代には早くもアラスカに渡っているという一風変わった経歴の持ち主である。アラスカの自然相手に写真を撮るという道に入っていった経緯については、幼少期に映画の中に見た大自然に圧倒されたこと、学生時代古本でみつけたアラスカの写真集、その中の一枚の写真を発端とするアラスカへの第一歩など、本書の中にもいくつか語られているが、それらのきっかけの上でなおその原動力となったのは、大学時代に経験した友人の死であるようだ。中学からの親友で、登山をする仲間であった友人が妙高連山の登山中に噴火に巻き込まれて亡くなる。この出来事に対して、一年後ふと見つけた答えが「好きなことをやっていこう」という強い思いであったという。彼の生き方はこんな背景を持っている。

さて中身はといえば、アラスカの風景やその生活の中で感じたことを書き綴った、と、言ってしまえば何でもないものである。しかし、その一つ一つが、読んでいるものを自然と落ちつかせるようで、我々のものとは比べられないほどゆったりと、大きなスケールで流れている彼らの時間が、じんわり滲み出てくるようなそんな語り口である。アラスカに身を置くことは、広大な自然という空間的な意味だけでなく、時間的な意味で我々の世界とかけ離れた体験であるようで、変わらぬ営みが続く土地で培われた氏の一つの単位は、最後の氷河期が去ってからの一万年前という時間であるという。

写真家の書いたエッセイを、これはまさに写真集である、と評するのではまったく芸がないと思うが、やはりそういうべきなのだろう。読むと言うよりは細部までじっくりと味わうように眺め、目をつぶってその風景を頭の中に思い描いてみる、そんな読み方を自然とさせるような本である。といっても実は僕自身は、未だかつて写真集というものに何か刺激されたことがあまりないものであるから、正直に白状すればこの表現はちょっとかっこつけである。むしろ写真集の読み方は本来こうであろうかと、本書から教わったような次第である。したがってもっと実感に乗っ取った感覚を持ち出すとすれば、(ちょっとなさけないかもしれないが)素敵なカレンダーを手に入れたときの、次の月までのあの我慢の気持ち、というのが一番近いと思う。

どうしても頭から離れない言葉があった。狩猟民について語る『カリブーのスープ』の章、春の渡り鳥の編隊に感動する彼の脇で、土地の人達が鉄砲を片手に舌なめずりをするというようなエピソードを交えながら、「僕たちが生きていくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない選択」。という、その言葉である。日常で聞いたなら相手にもしないようなこの言葉は、星野氏のこの本の中では全く違和感がない。大げさでもなく、軽々しくもない。その重みの計り知れないことを理解しているから、これほど素直に語れるのかもしれない。

本書には「悲しみ」という言葉が多く出てくる。彼がアラスカで出会う人は、みな悲しみを湛えた目をしている。我々はといえば、ヒト同士での奪い合いに突入しつつあるなかで、狩猟という犠牲の概念などとっくに通り越してしまっているようにも思える。我々は、彼の言うところの「悲しみ」をいつか思いだすことがあるのだろうか。それともその代わりに、体に取り込まない血の匂いに対して「悲しみ」を感じるようになるのだろうか。さらにはその「悲しみ」まで忘れるようになるのだろうか。しばし時間をおいて再読したい本である。

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紙の本薄闇シルエット

2007/05/05 16:05

落ち込んでしまった人と這い上がった人、そして落ちたことのない人へ

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 角田光代の作品の主人公はみなとんでもなく甘っちょろいのかもしれない。しかしそれでもなお角田作品には魅力を感ぜずにはいられない。
 作品の舞台はいたって平凡で、37歳にして独身女性のである主人公ハナの仕事や生活、恋愛を描いたものである。ハナは友人のチサトと共同で小さいながらも自分達の好みを反映させた古着屋を経営しており、少なくとも物語が始まる時期までは、苦労はあっても不安とはあまり縁のない人生を送ってきたように見える。たとえ独身であっても自分達の店を築き上げ経営しているという面では成功者であり、実際にハナ自身もチサトの言う「考えてみればわたしたちって一国一城の主よね」という言葉に一緒になって得意になっていた。
 物語は恋人タケダ君の結婚宣言をハナが受け流すところから始まる。それを境に離れていってしまうタケダ君、もっと外から認められたいという欲求から中古ブランド品を扱い始めるチサトなど、今まで一緒になって好きなことだけをやってきた人達がいつの間にか身を固めていく。そんな中で取り残された感に苛まれたり、進むべき道をみつけられない自分に焦ったりと悩む始めるハナの心を描く。言うなれば自己が確立されていないことに伴う悩みであり、10代、20代ならば青春として微笑ましいものを37歳になって始めて味うことになるという、現在の若者の一部にみられる自己決定の引きのばしと、ある時点でのその飽和という心理を非常にうまく描いていると感じる。
 角田作品の良さは、若者(というよりは大人になりきれない人)が抱える未熟や不安定な部分をテーマとして扱いいわゆるフリーター文学と呼ばれるジャンルに分類されながらも、氾濫する他作品から群を抜いて心理描写が素直でまた明瞭である点である。これらの作品に多い半エッセイ的で共感を呼ぶことにのみ長けているものとは一線を画す。むしろ、なんとなくわかると言ったような読み手の想像によって色を変える部分は少なく、各登場人物の描写は頑固ですらある。
 著者が幾つかのインタビューの場で言っているように、納得できることしか書かないという正直さでもって、守備範囲は狭くとも説得力のある描写がなされていることで、どこかのだれかの物語ではなく、実際に相手がいるかのような存在感のある作品になっている。だから角田作品は好き嫌いが大きく分かれるだろう。何故なら登場人物自体を嫌いになってしまえば実在の人物同様に、一緒に居たく無くなってしまうからだ。
 特に、大人になる、一人で生きるという問題に対してシビアな人にとっては、40歳にも手が届こうという主人公ハナがうろうろと人の価値観に流される様子は見るに耐えないかも知れない。しかしできればそういった人にこそ、ひとつ余裕を見せてもらってこの作品を読んでもらいたい。何故ならば、これは今の現実を非常によく反映していると思うからである。こいつはダメだと本を投げ出したくなるとき、それは作品自体(つまり著者の意図)に対してではなく、主人公自体に対して感じる感想であると想像するからである。こんなやつ現実の世界でうんざりするほどつき合ってるから小説の世界でまで出てくるな、という感想をどこかでみたときは思わず笑ってしまった。書いている著者は十分に自分を持っており、それでもなおこの視点を持ってものを書き、かつそれを必要とする読者が(若くない年齢層にも)多数いるという現実に目を向けてほしい。
 いい歳して今まで何をしてきたんだ思う気持ちはわかる。しかしそれを誰よりも強く感じるのはハナ本人である。過去の空っぽを嘆いているうちは自分は変わらない。過去を正面から受け容れ認め、何もないところからでも足を踏み出すから前進が始まる。ハナが遅ばせながら気づくこと、それは今をうまく生きれない人達に共通した問いなのではないだろうか。

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なぜunixを使うのか。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ここに床屋が使うような真っ直ぐのカミソリと、プラスチックの柄のついたカミソリ(つまり安全かみそりであるが)があるとする。髭を当たろうとプラスチック柄の方を手に取ったとき、「なぜそれをつかうのか」と尋ねられたらなんと答えるか。大抵は「慣れているから」と答えるだろう。たしかに「慣れ」は道具を選ぶとき一番大事だ、これは間違いない。でもここではそれはちょっと脇に置かせてほしい。オペレーティングシステム(OS)の話、つまりunixとかwindowsとか、という話につなげたいのに(他のOSを使う人ごめん)、慣れているからという要素を入れると話が終わってしまうものですから。それ以外なら何と答えるか。「僕は不器用だから。」とか「刃が裸のはちょっと怖い。」となるのではないだろうか。ここで不器用だからという理由でプラ柄を選ぶということは、選ぶ人が「安全」カミソリの特徴を分かっているからで、それを聞いて相手が納得したとすれば、相手も同じくそれが分かっているはずである。そしてこの場合この応答は(そもそもそんなこと聞くか?という疑問を別にすれば)滞りなく、終わる。

なぜwindowsではなくunixなの、という問いも本質的にはこれと同じだ。ただ一つ異なるのが、コンピュータを動かすOSのその性質が、カミソリのそれほどは分かりやすくない、という点である。これがこの問答を混乱させる元となる。カミソリの場合は、刃の上に細い針金が張ってあってちょっと横滑りしたくらいじゃキレテナーイ、これが特徴であり、しかも安全性を求めるというコンセプトが容易に想像できる(だからこそみんなが使うのだ)。しかしOSの場合特徴もよく分からない上に、多少分かって(コマンドラインで操作するんだな)、ある程度使いこなせて便利だと思い始めても、なぜunixがこのカタチをとるのかという理由、つまり元となったコンセプトは、まだ当分(はっきりとは)分からないのである。コンセプトが分からないと、道具そのものは使えても、何がいいのという問いにはうまく答えられない。

unixの特徴を詳細に解説した本はやまほどあり、それはunixを使いこなすために役に立つ。でも本書はそういうのとはちょっと違って、unixというOSがどんなコンセプトの上に成り立っているか、という視点で書かれている。コンセプトの上に成り立っている、なんて難しい言葉じゃなくとも、要は、コンピュータという機械を使うときに、こんなことを優先しようと思いました、そこでコマンドラインで操作するようにつくりました、だからこの目的を確かに果たすためにこのような特徴を持っているのが分かりますか?(安全性を重視しました、だから刃の上に針金を張ってみました、ちょっと滑ったくらいなら平気でしょ?)本書のようなノートはいたって普通の存在のはずなのだが(実際とても簡単で読みやすい)、でもこれがなかなかないんだな。

OSの問答がカミソリの問答ほどスムースにいけば、コンセプトに賛成する人はunixを選ぶかもしれない。その大切な問答がうまくいかない理由の半分は、不幸にも質問されてしまったunix中級者にあるかもしれない。unixの良さを知ってほしいあまりに、unixはこんなことが出来るんだよ、と色々と喋った後で後悔するよりも(適切に応答するのは難しいが、適切に応答できていないと判断するのは比較的容易だ)、例えば、「せっかく高速で作業しているコンピュータの作業の間に人の手が入ると邪魔でしょ?unixのコマンドラインっていうのは、一つのプログラムを通して出てきた結果を、すぐ次の別のプログラムに受け渡すように簡単に命令できるようにできてるんだよ。僕にとってはこれは便利で仕方がない!」とクール(情熱的に?)に決めておくほうがよほどいいかもしれない。この「僕」が喋った内容を見て、さっぱり分からんじゃないかと思った人はやっぱりunixを使わないだろうが、それでも少なくとも問答自体は簡潔に完結している。

道具は使ってみなければ分からないというのが真理であるから、コンピュータ自体をあまり使ったことのない人がこの本を読んでコンセプトを掴もうと思っても、なかなかぴんとこないだろう。逆にunixを少し使ったことがあり、コマンドライン便利だなぁと思い始めたくらいの人ならば、まさにこれ!が便利なんだよ!と読めてコンセプトもすんなりと了解できるはずだ。コンセプトであるから難しいハズはない。設計のコンセプトを理解していることで世界が変わるのは、技術的・知識的にはまだまだ初・中級者でも、ある目的でつくられたシステムにはこんな機能があるはずだ、と確信に近い予想が出来るようになることである(もしも無かった場合だけ自分で作るのだ)。

原著の初版が1996年と古い本である。それでもコンセプトであるから古びれない、どころか、OSの世界が複雑になるほど、もともと何考えてたんだっけ?というのは押さえておくべき重要な点になる。パソコンはもう大分一般的になってきているかもしれないが、それでも一般人にとっては、まだコンピュータをオペレーティングするシステムについて考えることが一般的な世の中ではない。だがコンピュータあくまで道具であって、どのように使うか目的に合わせてそのカタチが違い、目的に合わせて選択するものである、ということが少しでも一般的になるとよいと思う。そのためにも、第一の選択肢、以外の選択肢をとっている人達が、その選択の理由をシンプルに語れると嬉しい。

例えば「オープンソース」という大きなコンセプトがある。これはたぷん大事なことなのだろうが、僕にはまだあまりぴんとこない。一般人に実感できるのはライセンス料の数万円くらいだが、僕なら使い易い方をとる。本書で扱っているのは、上で「僕」が喋ったこととか、移植性とかいった、いかに人間が楽できるようにコンピュータを利用するかという、使い勝手に関するコンセプトである。この考え方はunixに限らずunixベースの多くのOS(一般的に取っつきにくい、残念ながら)に共通していることであり、一方でunixベースでもユーザーインターフェースに重きを置いたOS(一般的に取っつきやすい)はコンセプトとしてずれているから、「unix」という言葉は広すぎない程度に拡大して解釈するのがいいだろう。僕自身はFreeBSDというOSを使って2年弱の中級者と言ったところだ。偶然近くにパワーユーザーがいたから、何とかなった。間違ってもこの本を読みながらunixを使い始めようとは思わない方がいい、と言ったら言い過ぎか。unixに興味を持ったら、まわりの中級者ユーザーにこの本を読ませた上で、改めてunixってなにがいいの?って聞いてみるといいかもしれない。

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紙の本必笑小咄のテクニック

2008/07/15 22:06

抱腹絶倒ではない。むしろ緻密な。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小咄集である。小咄を集めてその構造を分析する。趣旨はなかなか面白い。読み心地もよい。しかし読みながらどうしても感じてしまうのは、ここに載っている小咄、ほとんどが別にそんなに面白くない、ということである。いや、面白くないと言うのはちがうか。ただ、思わず笑うというよりは、そうきたかと感心させられてしまうようなものが多い。では米原さん自身はなぜ抱腹絶倒などという言葉を使うのだろうか。一冊の本にするために、玉石混淆を承知で褒めそやしたのだろうか。いや、どうもそうではないらしい。

一つにはネタとなる文化が違うこともあろう。だが、我々の日常では(正直に言ってここでの我々をどこまで一般化できるかは心許ないが)このような「ハナシ」となるほどの比較的長い小咄を使う機会がない、という点に違和感を感じるのではないだろうか。ここに紹介されている小咄は、分析されうるほどに論理的なのである。オチに対して、そのオチが裏切るべき予定調和を演繹するに十分な状況説明がついている。そう、どれも前振りが長いのだ。日常で前振りが長い話は好まれない。

しかしよく考えてみると、長い前振りがなくても理解できる話というのは、そこが浅い、バリエーションが少ないともいえる。といってしまっては語弊を生むだろうが、前振りが少ないということは、オチが裏切るのは常識的な感覚ということになり、ここから逆算すると、互いに常識が共有されていることが前提条件にならないだろうか。

ここで米原さんを信用して(?)、少なくとも彼女にとってはこれが抱腹絶倒ということを真であるとする。これを彼女の職業に結びつけて考えるならば、国際感覚というものが少し見えるような気がする。我々が日常ともにする仲間との会話は、行き着く先を常に常識が想定させるが、互いに常識の異なる者同士が予定調和を生み出すためには(ここでの話題はそれをさらに裏切ることにあるわけだが)、どうしても理屈による話題の方向性の提示が必要となってくる。最初に「我々」という言葉の及ぶ範囲の曖昧さを断ったのは、別に国内にいようと常に異なる立場の者と関わるような環境に身を置く人間は、このような「際」の感覚はわざわざ言及するまでもないであろうと想定するからである。

米原さんはよくシモネタは世界共通ということを言われていた。冗談混じりで、聞いたほうも思わずにやりと笑ってそりゃそうでしょうと受け流しがちだが、必ずしも常識というものに身をあずけられない世界では、シモネタというのは共通の論理帰結を有した安全地帯なのかもしれない。

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今日は水曜日、黒田先生のところ行ってみない?

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルに「外国語の水曜日」、副題に「学習法としての言語学入門」とある。一見何か分からない文学的なタイトルに対して、副題は実に実際的である。この題名のつけ方が本書の特徴をよく表している、と言ってみよう。この意味を以下の紹介から読み取っていただければ幸いである。

著者の黒田龍之助は理系単科大学でロシア語を教える(当時)
言語学の先生である。本書の構成は

第一章 水曜日の外国語研究室
第二章 外国語幻想
第三章 学習法としての言語学入門
第四章 本と映像にみる外国語

となっており、配分は厚さでだいたい2:1:2:0.5。第一章は著者の大学の研究室での日常を描いたもの、第二章は巷の外国語に対する幻想に対して著者が日頃感じている疑問を連ねたエッセイ。そして第三章が、副題に示してある言語学の先生の立場からの外国の学習法であり、第四章は付録的に外国語に関する小話が載っているといった感じだ。研究室に出入りするちょっと変わった理系学生達の日常の描写から始まり、「きっとこの人と喋ったらすんごく楽しいだろうなぁ」と思わせるような軽快なタッチが、すこぶる面白い。実際の文章ついては、極楽蜻蛉さんがまさにと思う箇所を引かれているのでここでは触れないけれど、全章を通じてこのタッチが続き、とても読みやすい。この読み物として非常に面白いということ自体で十分かもしれないが、ここはわざわざ副題がつけられている、学習法としての言語学入門、について触れてみたい。

何かを本当に勉強したくなった時、人は時間やお金その他諸々の都合を考えながら自分自身で最善の方法を模索するものである。が、独習において具体的な計画を立ててみると、これはなかなか面白難しい。計画がディテイルに及べば及ぶ程、自己流よりもっといいアイディアがないだろうかと気を配るようになり、これは気分によっては、自分の方法が実はずいぶんと大回りなのではないかという不安となって現れる。何にせよ着実にこなすことがまず大事ではあるのだが、方法論については先人の知恵が拝借できるに越したことはない。語学に関して言えばその知識の宝庫が言語学であり、私自身、とある第二外国語の勉強をするなかで本書を手に取ったように、そこにわが学習に役に立つものがあるならば、ぜひそれを自分のために役立てたいと思うわけである。

ところでこの内容であるが、章立てを上に書いた通り、言ってみれば副題で示されているテーマは全体の三分の一しかない。しかしそれでもこの分量が必要十分なのではないかと思わずにはいられない、これが本書の構成の妙なのである。

文章というのはどんなに詳しく書いたとしても、表にはあらわれない行間というものがある。方法論というのも特にこの行間が大事なことこの上ない種の文章であり、知らない人の書いた文章はただ箇条書きに見えることでも、知っていれば文脈の浮き出てくるということがある。読んだ結果納得するかは別として、それを書いた人物を知っていることが内容の理解に大きく影響し、逆に言えばよく分かるからこそ好き嫌いも明確になるとも言える。本書はこの点で、著者の黒田龍之助さんを知る機会が、本論に入る前に十分に用意されているなぁというのが、通して読んだ感想である。第三章にたどり着く前に、彼を自分の先生として選ぶ機会が与えられるようなものだ。学習法自体については結論から言えば、言語学の見地に立とうが何しようが、目から鱗、お手軽にして効果抜群というものはない(そんなもの無いのは当たり前だが)。しかし、音声学から発音について触れたり、音韻学から聞き取りに関して言及したりといった、言語学を核として展開される内容は非常に分かりやすく興味深い。何よりこれらを通して得られる、よく知ったる言語学者がやっぱりそう言うのならば自分も愚直にやるしかないな、という安心感は、
この本全体の持つ文脈なくして得られるものではない。読後感は「黒田氏が書いていたから」というよりも「黒田先生が言ってたから」というのに近い。これほど「先生」を近く感じられる本はなかなか無いだろう。

要所を絞り増長になるの避けながら、方法論だけの冊子にせずに、その背景に贅沢に紙面を割く、このバランスがうまいなぁと思うのである。著者の本はこの一冊しか読んでないにも関わらず、彼の人格が掴めるのが本書の特徴である。個性という意味で文学を持ちながら要所としては副題の通りの内容を持つという、これが一冊でカタチをなしている。そんなことで褒められてもと言われればそれまでであるが、なかなか出来ることではないと感心してしまうのである。エッセンスだけが抽出され過ぎていると、一般人には(大抵我々は一般人なわけであるが)どう判断して良いのだか見当がつかないし、ただ言語学者のエッセイでは「個々人が感じ入ったところだけ汲み取る方式」とでも言えるような、体系的でない内容になってしまう。始めに述べたようにタイトルになぞらえるならば、副題を本題が補うような構造と言えるかもしれない。一冊で著者の人格が伝わってくるこのこの本は、ただ「研究者」というだけでなく、たしかに「先生」が書いた本であると感じられる。こんなのを読んでしまうと、大学ってちょっと行ってみたいかなぁ、なんて思ってしまうのである。

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紙の本生麦事件 上巻

2007/10/04 18:08

歴史書と小説の間

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「歴史小説」を読んだことがない、と言う人はいないと思うので、試しに今まで読んだ物をざっと思い出してみてほしい。それはどんなタイプの小説だっただろうか。歴史上のある一点に焦点を絞って人間ドラマや政治的策謀を描き出すものか、それとも幾多の事件を有機的に結びつけていくことで歴史の流れを浮かび上がらせるものであっただろうか。前者は歴史を舞台としているが小説に近く逆に後者は歴史書に寄っているといったように、歴史小説は歴史と小説との間にあってその位置取りが作品の一つの重要な性格となる。さらには人物に魅せられてこの両立を図ろうするとこれがたちまち大長編に編み上がってしまうようでもある。勿論これは一つの見方であって、またこれには括られないものもあるかもしれないが、今回はこの観点で紹介していきたいと思う。

ペリー初来航から9年、日米修好通商条約締結から4年後、神奈川の生麦で起こった薩摩藩士による外国人商人殺傷事件すなわち生麦事件から明治維新までを詳細に綴る。英国・幕府・薩摩藩の三角関係を生む生麦事件を発端に据えることが幕末期各人がいかに対等に交渉を繰り広げたか、言い換えれば幕府がいかに権威を失っていたかを象徴し、時代に追随できない幕府を尻目に薩長をはじめとした雄藩が、列国との直接接触を通して攘夷から開国へと世論を変化させていく姿が見事に描かれている。

年数にすれば約6年であるが、この濃密な時期を俯瞰する形で描ききる本作は、緊迫や狼狽、安堵といった雰囲気を文学的な表現でよりも書き込む事象の密度や配列、つまり構成によって生み出している点が大きな特徴である。各人の思惑がぶつかり合う中での苦悩、葛藤といった時代転換期の熱気は確かに伝わってくるのに、心理的な描写はと見てみるといたってシンプルで、淡々とした形容詞を用いるのみのことが多い。場の緊迫感をひしひしと感じさせるのは次から次へと舞い込んでくる情報によってで、例えば事件の直後や英国への賠償問題の回答期限が迫る場面などでメモなぞ取ろうとすれば、ノートには全てのページ番号が振られてしまうなんて事になりかねない。

これだけの収集され整理された情報を目の当たりにするだけで著者の執着力を感じさせるが、これを冷静に並べていく事の出来る事が驚異である。これだけの材料が揃えればその一部だけでも十分にものを書くことができるはずだが、もし一つ一つを自分の言葉で表せば最終的な全体像は膨れあがったうどんのようになってしまうだろう。自国商人の憤怒を押さえながら冷徹な外交を繰り出す英外交官、薩摩藩の横柄な態度とそれに厳然とした態度で臨む現場職の神奈川奉行、挟まれた幕府の閣僚の狼狽、押し黙る閣議の空気といった、もとより我々が想像・共感しうることは書かないという程の姿勢が、この作品を洗練されたものにしている。別の言い方をすれば日本人はこの作品を読んで満足するが、思考の異なる外国人は行間が読めず全く面白くないのでは、と思わせるような書き方である。

歴史という非常に長いスパンのものを書くに当たって個々の事象よりその繋がりで興奮を呼び起こせるというのは、まさにその手法としてふさわしいように思える。歴史を生で小説にする構成力はすばらしい。

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紙の本人間の檻 新装版

2007/09/04 14:08

日常に湧いてくる文章

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栃木の三春に「ほうらく焼き」なる名物がある。三角形をした揚げで厚さは厚揚げ程もあるのだが、皮はうすく豆腐はやわらかく、しかも上等の油を使っているらしく、味は舌の上でとろけるようだった。普段食う百円で五枚の油揚げとは雲泥の差である。

大学時代の一人旅で初めて食べたこれほど旨い揚げに最初に浮かんだのが、本書の主人公立花登がおあきの嫁ぎ先の豆腐屋の店先で食わせてもらう油揚げに醤油の一滴が垂れた瞬間である。一時は不良娘だったおあきの行く末を少々心配してもいた登は、おあきに向って、あんたの旦那は豆腐作りの名人のようだなと目を細めるのである。今でも三春の味とおあきの店先は記憶の同じ所にしまわれている。

藤沢周平が亡くなったときは美しい日本語を書く最後の作家がいなくなったと言われた。近年は相次ぐ映画化に見られるように一般の”まじめな”評価が十分定着しているので、安心して少々変わった面から注目することができる。

藤沢周平は食べ物が巧い。もちろんここで彼が描いたのは栃木でもなければ三角でもない
もっと庶民的な(ほうらく焼きだって十分庶民的だが)豆腐屋の店先の変哲もない揚げであるから、小説の追体験をしたなどというものではない。しかしこういう瞬間は非常に愉快である。私自身の言葉では表せないうまさは、この作者によって確かに表現されたのであって、これを発見したときの喜びはひとしおであった。

実は藤沢周平が描く味覚については『よろずや平四郎活人剣(下)』で村上博基氏が触れているのでぜひ上下読んだ後に目を通して頂きたいが、本当に彼の描くものはおでんの大根、串に刺さったたまこんにゃくからしなびた菜っぱを刻んだ雑炊に至るまで涎の垂れんばかりである。特にひとたびこの様な経験をしてしまうと食い物の段落を読む集中力が変わるから面白い。読むとどこか思い出し、また読み直して、といったことに文字通り味をしめてしまうのである。

藤沢周平の描く人の内面は勿論素晴らしいけれども、それは確かな巧さに裏打ちされたものである。味覚だけでなく風景、仕草、表情ないたる箇所に見られる味わい深い表現、もしも映像でしか知らなかったら、是非その日本語を読んでみるとよいと思う。日常でぽっと湧く言葉に幸せを噛みしめる瞬間が増えるだろう。

注)本書『人間の檻』は獄医立花登手控全四巻のうちの最終巻。

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紙の本告白

2007/07/04 10:32

後戻りできないと思い込む

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1995年夏、大和銀行ニューヨーク支店で発覚したたった一人の行員による巨額の損失隠蔽。 2007年現在から見ると、もはや一昔前の話になるのだろうか。少なくとも私自身は当時まだ十歳で事件についての記憶はない。したがって現実に青ざめたであろう多くの大人達とは捉え方も異なってくるかもしれない。第一の当事者である著者、井口俊英による「告白」は、未熟な組織のつくり出したエアポケットにはまり込んだ人間の感情の推移がよく読み取れる貴重な回想録である。
高校卒業後に単身赴任していた父の誘いで渡米した時から、井口氏の長年の米国滞在が始まる。ニューヨークの自由な空気に感化された彼はそのまま大学時代を米国で過ごし、卒業後父の勤める大和銀行のニューヨーク支店に入行した。1976年入行時の持ち場は証券管理係だったが、 1979年インフレ抑制政策による短期金利の上昇により大和の保有する債券の価値が暴落するのを目の当りする中で金利変動など経済に関する知識を深め、投資等に関して幹部に対しても積極的に提言を行うようになった。
経済動向に精通する若手として証券運用をも任されるようになったこの時期に、事の発端が起こるのである。1983年のある日、当日に売りさばく予定で買い込んだ変動金利債の値が予期に反して下落、半年で稼いだ5万ドルをふいにする含み損を抱えることになる。これ自体は投資をする以上当然有りうることであるが、ここに精神的な材料が加わる。この半期の儲けがすでに仮決済に含まれてしっている状況で、認められつつあるのに信頼を反古にしたくないという感情が、トレーダーの二、三日で回復するという希望的観測に身を任せ、購入は当日に報告という内規に目をつむる理由となる。しかし日を経ても値は回復するどころか逆に落ち始め、来期への無断持ち越しから偽装、偽装の転落が始まるのである。
井口氏自身も述べているように、彼は結局は市場全体から見れば素人であったのであろう。投資に勝てなかったのは彼の能力と運が足りなかったかもしれないが、その損失が隠され得ることはまた別の話である。トレーディング業務の一大原則「売買担当者に損を隠す手段を与えない」とは、一見当り前のように見えるが実際に全ての手段を断ち切るのは難しい。それはルールを作る側は精神状態が安定であるからで、追い詰められた者には屁理屈ともとれる無数の正当な」言い訳と抜道が存在しうる。本書を興味深く読めたのは、この異常な精神状態をよく回想しているからである。発覚後全てが終わった後もはやその精神状態に無い中で、よく当時の状況を回想し綴っている。
人がいかに判断を誤るか。その判断が他人から、あるいは後から見たらいかに常軌を逸していても、その瞬間は必ず善意のもとになされていること。後戻りが出来ないと感じたときに必ず浮かぶ ”死”という誘惑。これらが感情的でなくしかし刻銘に語られており、回想録としてのバランス感覚は非常によい。
例えばセキュリティについて学ぶにしても、守る側の体系的な論理より、攻める側からの方が学ぶことが多い場合もある。本事件の一つ一つの不備も当然潰されるべきと認知されている教科書的なものかもしれないが、それに人がはまり込んだ時に自分に対してどのような言い訳が生み出されるかを知る上で貴重な記録である。これだけ大それた事をした人物である、彼がその経験を伝え我々はそれを利用しなければ、それこそ丸損である。後の生活を米国で送る井口氏があと何冊日本語で文献を書くのか、よく見ていたいと思う。

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堀り起したひと、掘り起こされたもの

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最前線の小隊タイガーフォースによる七ヶ月間に渡る民間人虐殺。21世紀になって初めて明るみに出たベトナム戦争中の事件は、米地方紙の連載記事として発表された。記事の著者(本書著者)らは2004年ピュリッツァー賞を受賞。30年以上前の記録を丹念に掘り起こした気力、根性は、巻末の取材源に関する記述からも目を見張るものがある。

本文は事件自体を描いた前半と、事件後の捜査を描いた後半の大きく2つに分かれる。67年の小隊タイガーフォースの戦争犯罪に対する捜査は、米国がベトナム戦争から手を引く間際の72年に始まり、75年に担当捜査官の突然の異動という形で幕を閉じている。その資料が2002年になって掘り起こされ、著者らの綿密な取材活動によって見事に肉付けをされた上で、白日の下にさらされたという案配である。

しかし本書の評価について言うならば、著者らの取材活動に対する評価と、内容に関する評価とを、分けて考えることが大切かもしれない。テーマそのものに関して言えば、今更明らかにされたところで何だという感は拭えないのである。許されざる話ではあるが、戦時中の残虐行為は珍しいことではなく、その様子を描くという点だけに関して言えば、書籍・映像ともにより臨場感のある作品は他に存在する。

敢えて本事件で注目すべき特異な点は、本文中でも強調されるように、行為が兵個人の錯乱によるものでは済まされず、45人程の小隊単位で約7ヶ月間も続き得たという、組織としての構造上の問題である。作品中でも残虐行為を上層部へ告発するシーンが描かれてい
るが、隊の成果への必要性からその告発をもみ消すような、軍としてのモラルと、それを維持するための仕組みが問題にされるべきなのである。しかしこの点への具体的な追求はほとんどなされていない。これは本書の著者らが言及しなかったというよりも、当時の捜査が妨害・中断されていることに大きな原因があるように思える。そのため特に前半部については、悪く言えば小隊と敵ゲリラという言葉だけでも読み通せるほど、一般的な戦争物語でしかないということになる。兵士達の視野は実際にそれほど狭かったのだろう、そして結局それ以上広い視野で問題を追及する機会はなかったということである。

タイガーフォースの活動が67年、75年の捜査の終結(中断)からでも25年余の歳月が経過している。今明らかになったからと言って、隠蔽した者が勝利したという事実は変わらない。戦争経験者を始め、地雷、枯れ葉剤とベトナム戦争による被害は終わってはいない。しかし本の内容に関して言えば、否応なく過去の出来事になりつつあるということを感じずにはいられない。内容が平凡であるにもかかわらず、若い記者の”時代をこえた”取材能力に対して賞が与えられたことからも、それは一層強く感じられる。本書をベトナム戦争について書かれた書物というにはあまりふさわしくないかもしれない。あくまで現代の新聞の連載記事として、今とこれからの出来事に政治的に結びつくことによって意味を持つものであろう。書籍化され、さらに訳書となった姿を見ると、随分と遠くまで来てしまったように感じられるが、もともとの姿は、米国民が世界各地の掃討作戦へ関心を示すのに
大きく貢献したのかもしれない。

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必要とする人ためだけの、読むのではなく使う本

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本屋でみる自己啓発もの山積みの図は大したものである。テレビの占いのように軽く読むという意味では何があっても構わないが、大真面目な話をするならば本当に必要とする人にとってこの胡散臭さは半端ではない。欝という病名付くかどうかはどうでもいいが、なにしろ自分とうまくやっていけないことに気がついて悩み始めた人は、恥ずかしいのどうのというのは度外視して本人は本当に困っているはずだ。本の言葉で一時的に悩みを晴らすのもまずは必要かもしれないが、悩みを受け入れて自分一人でやっていくことを考えな
いといつまでたっても情緒不安定である。

 著者ナサニエル・ブランデン氏は臨床の心理学者として自己評価(self esteem)に関する理論書を書いており、本書はその反響「それで結局私達はどうしたらいいの?」という声を踏まえクライエントを想定して書かれた実践書である。この理論と実践との区別がはっきりしている点は今まさに困っているという人間にとっては非常にありがたい話である。この本に書かれていることは氏が実際にクライエントに対して行っているカウンセリングを書き起こしたものと言える。

 中心となっている考え方は自分と向き合うことと、自分の欲していることに目をそむけないことである。著者は次のように記している。「わたしは開業したての頃(中略)その人がもっと積極的に生きるためにできるようなことを教えました。しかし、だんだん経験を積んでいくうちに、教える必要がないことに気づきました。」著者は未完成文完成法という穴埋め文を与え、それにクライエントが本気で取り組んだときに「彼らが自分がほんとうはよくわかっていることに気づく」という手法を用いる。この何も与えないということはカウンセリングの大原則であり、しかし一番難しい点でもある。これを忠実に守って節度ある作りになっているのが本書の特徴である。

 本書のエクササイズも未完成文が中心になっていて、著者はその都度、読むだけでは意味がありません、真剣に取り組んでみてください、そうすれば今までなかったような体験をするでしょう、とは言うが確かに彼は機会を与えるだけである。こういう考え方をするといい、というのは今まで知らなかった目からウロコの解決法を与えることだが、本書で読者が取り組むかもしれない未完成文は、それ自体では読者に何も与えない。

 未完成文を通して自分が本当に何を欲しているか洗い出すことで、自分を縛っている鎖が一つ一つ解れていくのがわかる。あなた自身は悪くない、 あなたはこんなにも自由なのに何故自分でその状態を選んでいるのでいるのか。なぜ自分を責めるのか。そう「自分で」感じ始めるのは、責任を曖昧にしていることを認めることでもあってつらい。しかし私自身はこの本を通して自分と向き合って大切にするようになった。自身に欠陥があるかもしれないと思ってもカウンセリングには行きづらい。その変わりにより敷居が低い本書を手に取る、という以上に、この本を読むこと自体が一流のカウンセリングであると薦められる。何故ならカウンセリングの基本は結局自分自身で解決することであるからである。

 何か好転するといいなぁ程度に思っている人はむしろ読まない方がいい。これ以上心を擦り減らして回りに気を遣い、探りながら歩くような人生正直疲れたと自分が悲鳴をあげていることに気がついた時に、こんな本があったなと思い出してもらえればよい。

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紙の本トラッシュ

2007/07/10 13:50

こころのひだが目の前に現れる

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感嘆、読み終わってしみじみと本に見入ってしまった。三分の二も読んだころから溜息は出はじめていたが。しかし具体的にどこがと掴みようがなく、これでは評も書けない。では書かずに置くかというと勿体ない。これこそ誰かの目に触れてほしい。そこで中身にはあまり触れずに私自身のこの本に出会った背景から始めて、全体像として書いてみようと思った。個人的過ぎるということに恐さはあるが、実際私が驚いたのは作品の在り様自体のようであるし、そう的外れではないのではないかと思っている。

本との出会いは人それぞれであるが、私はこの半年ほど作者に出会うということを主眼として本を選んできた。たいてい現代女流作家と呼ばれる人達。はじまりは、ちょっとばかりまいっていた自分自身が共感できる作品を求めていたこと。そこから、日常の漠然とした心情や恋愛を言葉に紡いでいくだけで支持され続け得るのだろうかといった興味を持ち始め、常に店頭の一角を占める作者のそれぞれに触れてみたいと思い始めた。

「女流」ということに偏ったのは、男性よりも正直である(かっこつけないといった意味で)ように感じられたから。この一連の読書はとても面白く、大きなイヴェントない身近な日常や恋愛が多い中、各々が書き方は当然ではあるが違う。それは例えば、強い共感と同時にここは私とは違うと安心して感じさせるような正直さというかたちで、または作品全体にただよう雰囲気この人は優しい、結末も絶対優しいと疑いなく思わせてくれたりといったように。ただ多くの作家に共通していたのは作品を通してその作家特有の方向性、見方のようなものが感じられた点である。もちろん私自身がそういうものを求めたということが大きな影響を与えているとは思うが、少し大袈裟に言えば、今の私にはこの人の作品が必要だ、といったようなそれぞれのベクトルを持ち合わせているように感じられ、それが彼女達の売れる理由の一つなのかなどと考えていた。

ここで、しかし山田詠美はそういう作家の一人では無かった、と言いきるつもりはないが、少なくともこのようなスタンスで作品に当たることに慣れてきていた私にとってはこの「トラッシュ」は衝撃だった。なぜなら本作品には作者の姿が見えない。作者の見方、読者がよるべとなるそれが無いのである。あるのは意図になる前のこころそのものである。

本書は恋愛小説であると言えばあるが、もっと根本のただ人同士の関係を描いているように思える。登場人物はカラフルな人種とジェンダーによって構成されているが、それはそれぞれ個々の抱える問題によってよりは、むしろその複雑さによってなされている。そして複数の人間の接触を通して、全てが一人の心の中に還元されるように感じられる。それは、物語が基本的には主人公ココを中心に語られるのに、必要とあらば他の人物の感情も自然に書いてしまうという少し変わった書き方からそう思うのかもしれない。相手の心が読めない事実よりも、描写に興味が向けられていると。

人の心は本人にも理解できない幾重にも折り重なった多次元の世界であり、普段はその中を迷いながらその時に把握できる面の上で考え、意志を生む。イエスの層のすぐ下にはノーの層がありそのまた下にはイエス…といった具合であるが、それ以上の複雑さはもはやうまく言い表せない。しかし、その心の感じを目の前に起こしてみたいとしたら。その結果がまさにこの「トラッシュ」、この作品は絵のようだ。こころのひだをそのまま描いてみたくて出来上がったのがこの作品であるという印象だ。思いをのせて発信するのではなく、その前のものをかたちにするという才能。私がうけたのはたぶんそういう衝撃だと思う。

解説の宮本輝氏の言葉、一部しか引用できないが「(前略)どの糸口からそれをたぐり寄せればいいのかは、作者である山田詠美にもわからない。それこそが、「トラッシュ」という小説のすぐれている所以とも言える。名作とは、いつの世でも、シンプルで、寡黙で、猥雑さに満ちている」。まったく解説者とは一言で語ってくれる。

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紙の本テヘランでロリータを読む

2007/10/15 08:27

古典が切望される瞬間

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古典を単に現代とは異なる時代に書かれたものと考えるなら、自分の時代の書物よりも格段に読みにくいこと間違いない。それでも一握りの文学は時代に風化せず確固たる存在感を示す。

とは言うものの実際に過去の名作を読んで何か特別に感じたということがどれだけあるだろうか。古典自体を読んでみたいという程度の動機ではせっかく手に取っても大抵は、何やらよくわからんといったまま中断してしまったりするのではないか。

本書ではその古典が切望され、その時代を越えてたしかに光輝く姿を見せられる。1979年イラン革命直後と著者がイランを去る直前の1990年代半ばのテヘランを文学者としての視点から記した書。著者はテヘランの知識層に生まれ13歳から欧米に留学し、オクラホマ大学を卒業した文学研究者である。イラン革命直後に帰国、体制による、思想を中心とした人としてのあらゆる尊厳への抑圧を文学を通した視点から描く。構成は4章からなり、それぞれにロリータ、ギャツビー、ジェイムズ、オースティンという欧米古典文学の題、著者の名が冠されている。1章が本書題名になっている「テヘランでロリータを読む」章であり、大学を退いてから再渡米までの2年弱の間の自宅で7人の学生と座を囲んだ隠密の読書会の様子を描く。2章は帰国直後、これは革命直後でもあるわけだが、欧米から来た教師として大学でのある意味場違いな、しかしだからこそ学生を引きつけた講義の光景を描いている。3章は主に1980年から始まった戦争の経過とその終焉、ホメイニ師の死などを回想し、4章で再び読書会に戻ってくる。

イラン革命。それはシャー王制主導の西洋化が押し勧められるなかで民衆が望んだものあった。しかし実際に革命が起きてみるとそれは果たして彼らが望んだ世界であったか?大学時代に違和感を持ちつつもデモに参加し革命を叫んでいた点では著者も同等であったが、テヘラン空港に降り立った瞬間から国の異様をすぐに察知する。当惑の中、あらゆる問題を革命が未だ正しい形で成し遂げられていないことに帰結させる急進イスラム派の学生や左翼学生の中で、新任の大学教師はフィツジェラルドのグレイト・ギャツビーを引く。理想を正直に忠実に追ったギャツビーの、その夢はいつのまにか彼の後ろ側にあったこと、この小説が決して西欧の物質主義を賞賛するためのものではなく、むしろ革命の理想を追い求める彼ら自身の姿に重ならないかと。

「フィクションを現実の複製と見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私達がフィクションの中に求めているのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である。」著者の用いる警句が、ある種の古典が長い年月を越える理由を示しているように思える。本書はこれら古典に惹かれる彼女たち、の世界に興味をもつ我々、へ向けて著されたものであり、彼女たちが古典を通して自分たちの世界を見つめた変わりに、我々は彼女たちが想うことから彼女たちの世界を見つめることになる。本書で豊富に引用される作家も自然に手に取りたい衝動に駆られるだろう。水面をつつくように文学への意欲を波立たせ、文学について考えさせられる書である。

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賛成できかねる。

11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

学校時代に全く勉強できなかった宮本君が23歳にして始めて勉強したいと思えたことを描いた体験談。それを実行して名大の理学部物理に入ったのには敬服する。しかし。

無性に勉強をしたくなったというスイッチが入った時のことについて十分に表現できていないし、周囲の人達が自分を応援してくれていることに関しては、自分がいかに回りを良い意味で巻き込める人間に変わったか (多分そういうことが起こったんだと思うのだけれど) ほとんど書けていない。唯一の描写は、土木の職場でもいじめられてついに一週間家に閉じ籠った時の回想。もしも自分が1年後に確実に死ぬとしたら自分は今何をするだろうか、 10年、30年だったら…、と言ったことを考えて真剣にノートに書き綴ったことを書いており、それがこの人の転機だったのだと僕は想像する。けれどそれが精細に描かれているわけでもないから、結局「特別な集中力が発揮されたから人生が変わった」というただの成功談にしかなっていない。

宮本さん個人は純粋に、自分もこんなだったけれど成功することも必ずできるんだという励ましを与えたい気持があったのではないのか。確かに実際教師として生徒と接する環境にあるなら、自分に起こった体験を必要な相手に必要なだけ伝えることができるだろう。それだけでもたぶんものすごく難しいとは思うけれど、少なくとも一対一で向き合うという責任を持てる。しかしこれをマスメディアにのせることは、全く別のことだ。これは絶対に励ましにならない。なぜなら会ったことのない世の中に自分よりすごい人の像を感じることは簡単にできるし、むしろそれに圧迫されて苦しむ人が多いのだから。宮本さんに会ったことのない人にとって、この本はその像を一つ増やす手伝いしかしないと思う。

著者を責めているのではなく、むしろこういう本が世に出ることを止めなかった編集者がおかしいと思う。自分が這い上がった経験を生かして他の人を救いたいという気持は多くの人に起こるものだと思う。それは悪いことではないが、難しいはずだ。編集者というのはプロなのだから、技術がない人に対して「あなたの言いたいこと、やりたいことは分かるが、このままの形ではこれを他人として読む人には伝わりませんよ。」と言うことこそが仕事なのではないか。それで出版を諦めるのではなく、そこを良くして行く作業が編集だと思う。

編集者の立場として美談として売りに出そうという魂胆だったなら、賛成は出来ないが理解はできる。しかしもし、編集者も純粋な目を輝かせてこの本を出版したというなら、むしろその方が怖い。

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