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先月(2017年6月)

poppoさんのレビュー一覧

投稿者:poppo

2 件中 1 件~ 2 件を表示

紙の本海辺のカフカ 下

2005/04/06 04:44

メタファーの物語

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

村上春樹は最も好きな小説家の一人で、三部作から読み漁り、
いわゆる「村上ワールド」にどっぷりと浸かっていた私の熱愛が破られたのは、
「ねじまき鳥クロニクル」の血みどろの表現だった。だって痛そうなんだもの。

それで離れたということは私が村上春樹に求めていたのは、フェミニンな文章、チャーミングな登場人物、知的だけど読みやすく、現実を象徴したような非現実と感傷の物語だったのだなあと十分認識しながら、
久しぶりの村上作品「海辺のカフカ」を読んだ。

文学というものはみな、人の、人生のありようだったり内面の描写だったり、時間的な生長の奇跡だったりと、ある程度表現し伝える対象があるようなものだけれど、この物語は出っ放しの登場人物が多すぎて、始末がうまくついていない。
結論じみたキメの言葉もなく、ある意味で全体が均質で、それでいてぐいぐい読み手を引っ張ってしまう求心力はいつもながら凄いとは思うのだけれど、過去の作品から比べて一層、気持ちのこもった、暖かい湿り気のようなものはなくなってドライさを増した。
依然として登場人物は個々に魅力的だし、長編を感じさせない読みやすさは磨きがかかっているのに、謎は十分な解決を得ず、結末そのものが失われているような気がする。

今まで村上作品に共通していたのは、死の存在を意識することにより突然失なわれたアイデンティティを回復していく「自分探し」というテーマだった。当然私はその続きや別の表現を期待して新しい作品を手に取る。でも今回の「海辺のカフカ」は、そういった延長からの評は難しいのではないかと思う。

ひょっとしてこの作品は、ひとりの人間まるごとが存在しながら持っている「意識」を描き出したのではないだろうか。
実際の人生では、出会う人ごとに意味合いをつける必要はまったくない。つけたかったらどうにでもつけられるし、関連を持たせたければつけられないことはない。ショッキングな記憶や肉親の温かみは当時のリアリズムを失いながらも小さな象徴として心に存在する。さまざまな人の考え方を自分に当てはめてみようとして違和感を感じる。本来的に持っている怒り、悲しみ、業のような感情のしこり。自然との関係、自分と自分との関係の模索。

「現実を見据えて闘っていけ」という示唆的な意味とかはまったくなしに、すべての人がそれぞれに持っている「あるがままの意識」の、過去と未来を含めた「今」の状態を、村上春樹は豊富な複数の物語をもって描き出したのではないだろうか。

巻末の会話にあるように、言葉にできないもの、厳密には言葉にすると逃げて行ってしまうもの、すでにそこにあるのに、突き詰めることによって失われてしまうもの。それをあらん限りの「物語」「メタファー」によって注意深く慎重に囲い込んで、私の前に広げてみせたもの。人の意識。アイデンティティ。

だからこの作品は、読後に不思議な安心感と爽やかさ、よくわからないけど前に進みたくなるような優しい力を与えてくれるのではないだろうか。

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生の醜さと死の美しさ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」、この作品は70年代のミシガンの田舎町を舞台に、すでに大人になった少年が語る失われた美しい少女たちへの思い、という形で綴られていく。五人姉妹の自殺の原因は謎のままで終わる。

若く多感な時期に死への強い衝動や美意識を感じるということを、私は実感していない。美に憧れる自意識の強い女性であればそれはなおのことでもあろうが、私は女性でもない。
この作品には70年代アメリカに内在していた不安感、それ以前の夢の崩壊が描かれていると、主立つ評は語るけれど、日本人である私にはそのようなシンパシィを主体的に感じる術も無い。

むしろ切実に訴えてくるのは、自分の身を守るための環境が緩やかに自分を窒息させていくことへの矛盾感と、その矛盾に際して「勇敢な」死を選び自らの命を絶っていく姉妹たちの美しさ…に、憧れと崇拝のような感情すら抱く、しかし年頃の男の子として、終始彼女たちをある種「特殊な存在」としか見られないこの作品の語り手の「元」少年の気持ちだ。

匂いたつような肉感的な描写は、無垢でけがれのない少女が肉体的に成熟しつつあるゆっくりとしたメタモルフォーゼを思わせる。自我の成熟と共に個の世界から社会性を持つ動物へと進化する運命を自覚した少女たちは、メタモルフォーゼの途中で目を覚まし、自分が醜いヘビトンボになろうとしているのに気がつく。何千何万もの集団をつくり、意思を持たぬような行動に加わり、無価値的な集団的なあっけない死を迎え、街を汚す生ゴミのような屍と成り果てるヘビトンボ。羽毛のような夢とざらざらした現実の狭間。

彼女たちは、目を覚ましたことによる美しさと、目を覚ましたことによる失望を同時に手に入れる。
ヘビトンボのような生に従い街を汚すか、その存在を自ら消し去るか。その時、少女たちの胸には生に勝る死の価値が生まれる。
そうして姉妹たちが闇の世界へ導かれていくことを阻みつつ、結果としてなにもできなかった少年と両親。そして、その死自体は決して美しくはない「いびつな」ものだった。

自殺を肯定するわけでも死を美化するつもりもないが、死に魅入られ崩壊していく姉妹と家族、その過程の描写は、読み進むほど五人の姉妹の美しさを際立たせ、輝かせる。
それはある意味、朽ち落ちて死んでいく大量のヘビトンボの美しさをも裏付けるものではないだろうか。

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