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足目さんのレビュー一覧

投稿者:足目

紙の本アンカーコズミカ英和辞典

2008/12/17 02:16

一を見て十を知ったことにして、日本の英語辞典もここまで進化したかと感心する

10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この辞書、最大の特徴は、辞書本体より、巻末付録のDave Telke「appleは『りんご』か」にあるのかも知れません。日本語と英語とで名詞の扱い方がどう違うかを説明しながら、冠詞に関して説得力のある説明が記されているからです(本文の説明も平仄が合っている)。
 とりわけ重要なのは、定冠詞の働きを「修飾する名詞の示す実物について、話し手と聞き手のイメージする個体が『互いに一致する、あるいは一致しないと困る』という情報を話し手から聞き手に送る」(2176頁)と明記していることでしょう。英語文法の本を読みふけったりしないため、断片としてこの種の説明を目にしたことがあったものの(たとえば『謎解きの英文法:冠詞と名詞』第2章)、まとまった説明を目の当りにすると、急に英語力が上ったような気すらしてきます。
 「ネイティヴ」といえども、あまりによく使うことばの使い方や意味がそう簡単に説明できないことは、母語としての日本語を考えてもよくわかるはずです。じっさい第二言語学習者向け英語辞典の代表である『オックスフォード現代英英辞典』第7版の'the'という項目は、最初の説明が'used to refer to sb/sth that has already been mentioned or is easily understood'(p. 1795)となっています。すでに言及されたり、たやすく理解できたりするのならなぜ使えるのか、という説明がじつは欠けているのです。
 ついでながら『ジーニアス現代英和辞典』第4版は、「前後関係で何をさすかわかる名詞の前で」「言語外照応的;その場の状況で何をさすかわかる名詞の前で」(1973頁)とまで記しながら、やはりその状態がなぜ生じているのかに踏みこめていません。
 これに関しての優劣はまったく明らかです。それだけで5点にする価値があるぞ(かなり乱暴な意見ですね)。
 「修飾する名詞の示す実物について、話し手と聞き手のイメージする個体が『互いに一致する、あるいは一致しないと困る』という情報を話し手から聞き手に送る」という特性は、ひょっとしてフランス語の定冠詞に関しても妥当するかも知れない、と感じています。もちろんフランス語の定冠詞(le, la, les)には英語の定冠詞にとどまらない複雑な使い方があるのですが、『ロワイヤル仏和中辞典』第2版は、'le'の説明に「その名詞が既知・周知であることを表す」「総称的」「名詞が補語・関係節などによって特定化されている時」と書き加え、しかも「名詞が補語などを伴っていても,特定化されていなければ不定冠詞を用いる」と念押ししているくらい(1153頁)。やはりその状態はなぜ生じているのか。
 ことほどさように、この説明は威力を発揮しそうなのです。

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紙の本なぜ歴史が書けるか

2008/10/26 13:53

どこを読んでもきわめて明快、頭にすーっと入ってくる歴史入門

7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読む意欲を損っては意味がないので、全体は骨組(目次の詳細は省いた)で。

緒言
序章 歴史家の誕生
第1章 史料と追体験
第2章 カオス、原因と結果
第3章 ドラマ、主体と状況
第4章 伝記研究
第5章 全体と部分、物語
第6章 産業革命、デモスと社会主義
第7章 比較研究とメタヒストリー
第8章 歴史と社会科学

練達の歴史家である著者が、手の内……というか、頭の中でどう考えているか明らかにしたものだ。歴史がどのように書かれるのか、たっぷり「史料」を引用して記してゆく。
 近現代日本の政治史を叙述した一連の著作もそうである通り、「じゃんじゃんコピーをとって鋏で切り取って原稿に貼りつけ」てあり(28頁)、本書もじつに引用が多い。それはここぞとえらんだ部分であり、読んで楽しいし、なるほどと思わせてくれる。
 もちろん著者の洞察もあちこちにちりばめられている。たとえば第1章で歴史とは何かに関する諸家の文章を紹介したあと、第2章冒頭で、「散乱し流動する史実は、本来原因でも結果でもないが、歴史家がこれを原因または結果とみなし、その因果関係を整理し、カオスに秩序を与える。どれを原因とし、どれを結果とみなすかは、歴史家の判断の選択次第である」(57頁)という。
 そして「結果を知っている歴史家は、気楽である」という著者の自戒は、「進行中の歴史のなかでいきている人々は[この今のまっただ中にある点でわれわれすべても、ということになる]、結果を知らない。いくつもの因果過程が錯綜するなか、大小無数の偶然に見舞われる。期待や不安にいらだち、予言や謀略にまどわされながら、それぞれの可能性をねらって競い合う。とくに激動の時代には、可能性の起伏や振幅が大きい。そしてついに結末がきたとき、大多数の可能性は潰れ、わずかな可能性だけが現実となる」(111頁)とも記す。
 いずれも、全編を貫く考え方だ。
 目次からもわかるように、ツキュディデス、ポリュビオス、ギボン、ピレンヌ、トクヴィル、トインビーといったあたり(序章)は取り上げて当然のメンツであろう。第2章に入ると、ローレンス・オリヴィエ、世阿彌、本居宣長などなどまで登場する。しかし奇をてらったところはなく、追体験とは何かを説明するかっこうの素材であることが読み進むと納得できる。
 引用したような立場の著者がマキアヴェリにきびしいのは当然として、「歴史とは何か」を考えるに当ってプラトンを呼び出すのは、大した工夫でなかろうか。
 いやこれも、「なぜ歴史が書けるか」の答の中に、「歴史家は、常識にしたがって行為や出来事の多元的因果過程の中から最も関心のある数少ない因果過程を選択抽出し、それを軸として因果過程を単純化する。歴史は、単純化した筋書に沿って叙述される。いかに選択的単純化を行い、簡潔に叙述するかは、歴史家の資質であり、彼の腕のみせどころである」(69頁)があることからすれば、当然かも知れない。巧妙きわまりない語り手としてプラトンに着目しているのだが、その説明じたいもなかなか巧妙だ。プラトン学者も、同じ程度に書いて欲しいものである。
 そうして第4章からは、著者による歴史叙述の見本という体をなしてくる。つまり歴史を書くことの意味と書かれた歴史とその両方が、この一冊で味わえるという寸法だ。ひやー、お得お得。
 事実は小説よりも奇なり……といっても、史実は簡単に事実として扱えない。しかしたいがい史実は小説より奇であるし、本書くらいになると歴史小説よりわくわくしながら読み進むことになるのだ。かつて風呂に入ろうとして読みかけの本書を手にして、まるまる一つの章を読んでしまったことがある。

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紙の本グーグーだって猫である 2

2008/10/09 02:34

どう読んでもおもしろいけれど、とりあえず闘病記としておもしろがる

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ぼくは猫好きじゃありません。猫嫌いの母親に育てられたせいでしょうか。でもあれは猫嫌いというより、猫を怖がってたという方がいいかなぁ。
それなのに休みの日、久しぶりに雨戸を開けると、日だまりにごろんと猫がねころがり、しっしっと追い払うのを相手にしません。仕事から帰ってくると、手のひらに乗るような小猫が門のところでこっちを見ていたかと思うや、さーっと走り去り、暗がりを見ると親猫らしいのが威嚇してくるじゃありませんか。
けっ、ここはおまえのうちか!
大島弓子のかなり長い読者ですけど、よい読者でもありません。選集もどこへおいたのやら。
でもおもしろい。猫好きが、こんなに野良と心を通わせようとしていたなんて。猫って、こんなにそれぞれが違うのか。今度追っ払う時は、きっと「シャーッ」っていってやる。
じゃあなぜこの第2巻をぼくはわざわざえらんだのか。第1巻でさらっとふれてあった闘病生活がかなり詳しく描かれています。がんと闘わない者にとってこの病気は、生死をかけたきわめて深刻なものです(この遅れてきた書評の数日前にも、有名な俳優が5年もがんと闘いながら仕事を続け、亡くなったばかり)。「が ん」が頭の中に隙間なくはりつけられてるようなもんだ、と想像してしまいます。でもこの闘病生活を読んで笑わずにすませられる人がいるでしょうか。はい、っと元気よく手を上げてくれても無視しますからね。
深刻でなければいけないっていう読者の思い込みとの微妙な食い違い、ていえばいいのかな。がんではなく、抗がん剤こそ恐ろしい。病室のほこりや窓の外に積った鳩の糞がやだ。そんな的外れなこと思ってる場合か、でもきっとそうなんだろうな。
がんもその闘病も知らず、猫と暮してもいないぼくがよく知っているのは、全身麻酔の経験だけです。それがほんとにうなずけるように描かれていることもあって、ほとんど感覚を描写しているようなこの本は、ついつい身をゆだねるように読みふけることができるのでしょう。
しかしおもしろいから読めよと貸したが最後、回し読みをされているようで、もはやだれの手にあるかも不明。気分が乗れば毎回新鮮な気持で一日に何度も、読み返すことも今はできません。

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「押しつけ」なんて当り前じゃん、でもイラク戦争の戦後に応用するのはむつかしい

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は、国際秩序を破壊した大きな戦争のあと、秩序の回復……とゆーか、新たな秩序の形成(戦後構築)がどのような論理でなされたか、その説明を試みています。理論編・事例研究編・まとめで構成してあり、1815年・1918年・1945年の西欧・米国からなる国際関係が事例です。
 訳者がいうように、事例編からまとめへと読み進めるのがわかりやすいかも知れません。しかしさまざまな概念を提示する理論編を回避するのは、もったいない。
 著者は、戦後構築が今までのところ、立憲型によってもっとも確実に達成された、と見ています。立憲というのはconstitution(al)でしょうが、狭義の「憲法」にとどまらず、広義の「政治制度」も考慮すれば、「制度構築型」とする方が誤解を招きにくいのでないかしら。
 戦後構築の担い手は主として「主導国」「追随国」にわけられ、双方の間で「パワーの分布」が大きく異なります。利害も異なるでしょう。にもかかわらず、戦後構築が一種の協同事業として達成されました。つまり主導国が強大(時に圧倒的)なのにパワーの抑制を選び、追随国も戦後構築を受け容れるのは、なぜか。
 異なる利害の享受を可能にする秩序を制度として構築することは、「戦後」ゆえに不平等なパワーの分布でも可能であり、安定して機能してきた、という著者のもくろみはなかなか説得力があると思いました。
 そして著者は、戦後構築に「押しつけ」が避けられないことも見て取っています。押しつけの有無で右往左往を余儀なくされている人にも、示唆するところが多いはずです。
 最後にあえて望蜀を。敗戦国がいかにして戦後構築へ復帰する(追随国になる)かも、新たな秩序の安定・耐久性の点で重要なのでないか。日本やドイツも今は戦後構築に組み入れられています。
 不完全・未成熟ゆえに、ソ連・共産圏の戦後構築に著者は冷淡なのでしょう。しかし世界が分割されたことは、米国主導の戦後構築をさまざまな点で進めたはずです。しかも西側の戦後構築と異なり、域内でも武力行使があり、「民主主義」度にも差異がある。
 冷戦終了後も1945年の戦後構築が崩れていないと見る著者には、好都合の論点でないでしょうか。

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紙の本江戸演劇史 上

2010/05/31 17:41

長いけれど、上手く乗りこめばいつしかあれよあれよと幕末へ

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

上下巻合せて千頁にもなる『江戸演劇史』は、ややもすれば古典に祭り上げられて遺産と化した芸能に見える日本古典演劇が、激しく興亡を繰り返していたと語っている。その正否・当否を判定する力は小生にないものの(知らないことが次から次へと語られていく)、なぜそのように語らねばならなかったか。

一つは(と著者の論法をまねてみよう)、興業という上演形態の重視が大きそうだ。興業は、演劇活動への資本の投下という経済活動であり(大坂の没落はじつに興味深い)、風俗への影響という点で政治権力の介入をも引きおこす。できるだけ多くの観客を集めて資本を回収するという目的からしても、演劇の評価が人気投票に左右されるやすくなることは避けられない。

もう一つはパフォーマンスへの強い関心があろう。著者の本職あるいは本分は、実演を言語化して評価するという意味で劇評にある、と思う。しかも残された絵図のみならず、言語化された方からパフォーマンスに迫ろうという関心も強そうである。たえずどのように上演されたかという観点から演劇を描こうとしているのは、もうほとんど潔いくらいだ。

受身に見える観客も、人気として現れることで興業・演劇の双方にも影響する。遺産の列挙でなく、演劇各ジャンルがどのような状況にあり、どう対応していったか(あるいはできなかったか)という興亡として、この三者関係が描かれている、ともいえそうだ。著者の言による限りまさしく僥倖によって、演劇の論理と興業の論理とがかみあう演劇史が書かれたことになる。急いで読み進める必要はないのに先へ進むのは止めがたく、次第に終りが近づいてくるという書物の醍醐味を味わいながら、最後は二日間で下巻のほとんどを読み上げた。

本書がわかりやすいかどうかは、読者によって違って当然だ。それにしても、年表と索引とは本書を読み進める上で不可欠だ、といわねばならない。著者に釈明させないですむよう、出版社は何が何でも用意すべきであった。

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エロを味わう(そそられる)には出版社の気合不足が残念(努力が足りないってことですよん)

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ヌード」(裸体でなく、そう呼ばれる「衣装」を身につけた状態)を描いた絵画・彫刻の優れものを紹介しようという本です(『誘惑美術 別冊宝島「感じるヌード」の謎を解く!』の改訂版といったところ)。

大きくわけると、まず美術史の傍流に押しやられた作品からとりわけエロチックな作品を取り上げ、その姿形や肌触りなどに注目して紹介・評価を試みています。じつにエロい。ついで美術史お墨付きの大家の作品からそうしたエロっぽい部分を拾い上げ、その意味を考えてゆきます。

西岡美術鑑賞の肝は、逸話をあれこれ披露しながら「通説」を覆してゆく語り口にありますから、話がどうしても散漫になりがちです(意図しない繰返しや変換ミスも見受けられます)。それに「ヌード」がどれほどポルノグラフィとして扱われたか、というようなもっとエロな(つっこんだ)関心にあまり関心がないらしいのは残念。

何よりも、美術全集などであまり着目されてこなかった作品へ目を向けようとするには、図版が貧弱でしょう、巻頭のカラー図版もあまり多くないし(たとえば思わせぶりの流し目もカバーで何とかわかる程度)、白黒図版は小さかったり説明を確認する上で充分でなかったり。

全体として仕上りが安っぽいくて(購入しやすい値段設定のため、と解するにせよ)、内容を明らかに損なっています。著者独壇場の分野ともいえるだけに惜しいことです。

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かなりわかりやすく語っているのに、読みづらい日本語版となった「政治学」の本

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まず目次を紹介しておきましょう。

 序論
1 歓待について:カントのコスモポリタン的権利の再読
2 「権利をもつ権利」:国民国家の矛盾をめぐるハンナ・アレント
3 〈諸国民の法〉、配分的正義、移住
4 市民的資格の変容:ヨーロッパ連合
5 民主的反復:ローカルなもの、国家的なもの、グローバルなもの
結論:コスモポリタン的連邦主義

たとえば著者は、結論のように「すべての民主的な囲い込み[ある共同体の成員たりえたかも知れない人を、外部者・非市民などとして排除してしまうこと]は、異議申し立て、再意味化、制度の解体に、潜在的に開かれている」(15頁)といいます。これを「民主的反復」と呼び、「自由民主主義体制の法的および政治的制度とその公共圏をつうじて、普遍主義的な権利要求が議論され、文脈化される、公論、熟議、学習の複雑なプロセスであ」り、「政体における既存の了解を変更するだけでなく、権威的な慣例を変形することもある。民主的反復は『法生成的政治』を開始するものとみなされる。民主的な国民はそうしたプロセスをつうじて、自らが法の従属者であるだけでなく、その起草者でもあることを明らかにする」(17頁)。わかりづらい漢語の羅列ですね。

著者は、現代のデモクラシーと国際関係とに関心を限定しているものの、ランシエールの『不和あるいは了解なき了解』にいう「政治の発生・創設」に、たまたまであろうけれど、「民主的反復」はきわめて接近しています。「普遍的人権、すなわち生命、自由、財産への理想的な忠誠のもとで表明された民主制の先行的な公約は、民主的な志向をもった現実の政体のなかで繰り返し実現され、繰り返し交渉されなければならない」(41頁)過程として、民主的反復はとらえていることになるでしょう。

さて先行するとか反復とかいう表現からわかるように、この過程には始まりと終りとがあります。著者は、ある国家の外部にあってアレントのいう「権利をもつ権利」を持たない者のことをさらに先へと考えながら、政治がいかに始まるかという意味で「政治とは何か」を探究する隠し絵も描いている(そうしてしまった)はなはだ興味深い本です。

最後に訳者が日本語に鋭敏でないことを指摘せざるをえません。英語やフランス語では、名詞を頻用して文体の抽象度を高めています。しかしそのまま日本語にするとかなりまぬけな感じになるはずです。たとえば「秘密裏の行政的決定や帝国主義的操作をつうじた市民の同意という理想の破壊。」(48頁)はどうでしょう。原文はわかりませんが、「秘密裏の行政的決定や帝国主義的操作をつうじて市民から同意をえるという理想本来の意義を破壊した」としてはいけないのでしょうか。
 しかもここではアレントが、19世紀さらに第一次大戦後の経験を取り上げたのを述べるのに、「一九九〇年代半ばの旧ユーゴスラヴィアの内戦後、その現代的展開への重要性が残念ながら明白になった分析をつうじて、アレントは[え、1975年に死んだのでは?]第一次大戦後に生じた〈……〉問題に引きつづき目を向けている」(48-49頁)と読者を混乱させて笑わせてくれます(小生は大阪人ですが、笑わせたらそれだけでよいとは思っていませんので減点)。

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死は突然やってくる

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もともとフラナリー・オコナーの友人が集めた手紙から選び出したものを、訳者がさらに選んで日本語にしたものです(巻末の「編訳者あとがき」)。
自分の作品への反応に対する作者の反応がずいぶん書かれていて、興味を惹きます。小説家の蔵書を調べた本もあるようですが、どんな本を読み、どう思ったかも書き送っています。
何より最後の手紙、ついに出されることなく死んだのちに見つけられた手紙を読むと、胸がしめつけられる。だからといって最後の手紙だけ読むより、順番に読んでフラナリーの人となりを知ってゆくからこそ、なおいっそうという感を深くします。
「死を見つめながらも」(帯)この手紙を書いたら死ぬのだ、なんて思いながら手紙を書いていたのでないのは明らかです。手紙が宛先をもつ限り、生きつづけるという習慣の中で書かれるのでしょう。
それだけに、遺された手紙すべてをどうして訳してくれなかったのか。他にも読者への不親切が見えるので、その分減点。
たとえば固有名詞が、通常と違う表記になっていたりします。あるいはサリンジャーの出世作が、二通りのタイトルになっていました。もちろん今では野崎訳・村上訳で、日本語版のタイトルも違っていますが、たった二箇所にしか登場しないのにそれが別のタイトルというのはいかがでしょうか。

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紙の本一六世紀文化革命 1

2007/06/09 13:25

図式が先立ってモノへの執念が不足か

3人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 読み始めたものの、なぜすいすい読めないのか思案してしまいました。いけない紹介の典型になりそうです。
と断れば何でもいえるってもんじゃありませんが、通説を打破しようという意気ごみと表裏をなすように、図式が前面に出ています。教養人対職人、芸術対技術、書くことば対話することば、普遍語対俗語、……
 最後のはもちろん、ラテン語かのちに「国語」となるような各地のことばか、という対比です。そこにはラテン語から俗語へという単純な方向の図式も見出せます。美しいが死んだことば、「野蛮」だけれど生きたことば、そんな対比も。
 いくら16世紀にいなかったような「大学者」でないにせよ、巨大なライブニッツ全集をのぞけば、「ラテン語」で書いたあふれんばかりの「手紙」があります。今なら「英語」で書かれた「メール」に当りそうな研究者のメディアかも(何せ読めないもので、揣摩臆測です)。
 古代ギリシャ語文献が、中世末ころ俗語(古フランス語)に訳され、さらにラテン語へ、ということもありました。権力のためのことば(法や行政文書)として酷使されたからこそ、古代ラテン語から乱れっちまい、中世ラテン語の文法書が日本でも出版されるのでないのか。
 こんなところに引っかかっちゃうんです。
 単純に割り切ろう(つまり図式を成り立たせ支えるここぞ)という地点で、著者は、だれそれがいっていたですませ、職人の書いた芸術論などを読んではるかにきちんと紹介するところと際立っています。どうせ読む奴なんかいない、と割愛しちゃったのかしら。
とことんモノにこだわって通説・俗説を粉砕しちまった『誰も読まなかったコペルニクス』と較べちゃ気の毒ってもんでしょう。

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