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  3. AQUIZさんのレビュー一覧

AQUIZさんのレビュー一覧

投稿者:AQUIZ

15 件中 1 件~ 15 件を表示

ヘタリア!

40人中、38人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者初単行本で、総描き下ろし。
 ある意味ではパロディとも呼べなくはないが、同人的な二次創作ではないオリジナル。
 人気の原作付きでも無いし、話題作のコミカライズでも無い。
 そんな条件で、商業漫画誌的には「突発」な登場となる本作、ウェブ漫画好きなら未知の人がいないんじゃないだろうか? 
 賛否両論の部分もあるとは云え、知名度の高さは圧倒的だ。
 日本名産と云えるかも知れない「擬人化」。万物に神々を見た日本古来の性質は、動物どころか、物体や現象までをも「擬人化」するのが得意。
「ヘタリア」 が「人」と見なしたのは、何と「国家」である。
 ○○人って、こんなタイプだよね…なんて、ステロタイプを笑ったギャグなら、各国にある。ブラックなユーモア好きなイギリス人なんかも得意だ。
 そんな「○○国」を擬人化したのが、「ヘタリア」の登場人物達だ。

 生まれが良くて才能があり、恵まれた資質を備えながら,何故だか「ヘタレ」な主人公イタリアを中心に、各国が繰り広げる「国家擬人化コメディ」。
 キャラクタ=国家、なので歴史的な事実や現代の事件・出来事が、個人の行動のように反映されていますが、世界情勢も歴史も地理も、すべてに疎くても大丈夫。
 世界大戦って、どことどこが戦ったんだっけ? と云うレベルでも、いつの間にか枢軸と連合の各国を暗記しています。見た事ない気さえする国旗が、一瞬で判別できるように。ニュースで聞こえる国家名で、まずキャラクタの顔が浮かんでしまうように…
 
 大量の漫画を無料で、個人で、異様なスピードでアップし続けた著者の本が出ると聞きファンはみんな、サイトの漫画の焼き直し+アルファ、を想像したのに、描き下ろし。
 その修羅場の製作期間中にすら、どんどん新作がアップされる本家サイト。
 漫画にハマって、歴史の教科書を買い込んでみたり、ウィキペディアでヨーロッパ諸国のページに萌えてみたり、国旗モチーフの雑貨がキャラクタグッズに見えちゃったりするファン。
 初単行本でも、面白さ絶対保証!
 サイトを見れば一目瞭然な上に、ウェブ再録本じゃないから欲しくなります。

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恋無く愛、世界は平和だ。

27人中、27人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 彼等は愛に満ちているが、恋でもないし、恋にも繋がらない。
 異世界からの来訪者が主人公になる物語では、テンプレとでも云うべき定番の型がある。
 何らかの使命を携えて、それを遂行するため。その推進力は意欲や好奇心の場合もあるし、罰則的に強制され送り込まれることもある。あるいは、職業的な任務であるか。来訪者が修行と称して人間社会で暮らす姿を描いたものも少なくない。
 本作の主人公達であれば、世を救うための来訪と云うのが普通だろう。漫画的な意外性を打ち出すのなら、有り得ない失態を仕出かして追い出されて来た、と云うのでも良い。
 ところが、彼等は呑気に日本の平凡な町で暮らすことが目的である。
 イエス・キリストと仏陀、などと云う最高峰の聖人が揃いも揃って「休暇」で来日しているのだ。
 故に、達成すべき目標も無ければ、帰還するため必死に頑張ることもない(帰りたくなれば何時でも帰れるわけだから)。悪魔や鬼と戦うことも無いし、何かを集めたり、探したりもしない。
 のんびりと休むために、6畳間の安アパートを借り(有給休暇中の2人の収入は計26万円)、節約生活でニート疑惑を受けつつも楽しく暮らしている日々だ。どこから見ても、勢いで仕事を辞めてしまった、売れないお笑い芸人にしか見えない生活なのだが。「お母さん」から、お米が届いたり、仕送りらしき2万7千円(凄く気になるのだが、詳しい説明が作中に無い謎の振込)する。
 あらゆる「異世界からの来訪者」を核に据えた物語よりも、逆に目的は明確かも知れない。世界征服を目的に訪れた異星人が、ガンプラに夢中で仕事を忘れるような御時世だ(イエスが人気ブロガーだったり、ブッダが手塚治虫信者になりかかったりしているが)。
 意外と彼等は人間社会の暮らし方や常識を知っている。良く考えてみると、彼等は常に人々の暮しを眺めて来ているわけで、しかも人間として生まれ落ちたのだ。数十世紀も前のことだが。
 彼等は、力を失って堕ちて来たわけではないから、「うっかりすると」奇跡を起こしてしまったりする。
 素性を隠して過ごしているのは来訪者の定番とも云えるが、実際、名乗ったところで誰が信じるのだろう。
 もっとも、気付かぬままに彼等に「ありがたみ」を感じて拝んだり、お供えしてしまう人々も少なくはないのだが…
 素性が素性なので、当然とも云えるが、彼等は仲が良いし、相当に互いを気遣ってもいる。主にイエスが「無駄遣い」でブッダを怒らせたりもしているが、恋ではない愛情の形は、こうなのか…とも思う。
 このまま、彼等が長い休暇を楽しんでくれると本当に嬉しい。
 珍妙な共同生活が続けば、それだけ彼等の物語を楽しめるわけだし、彼等がせっかくの休暇を中断してまで緊急に帰還しなければならない一大事ともあれば、僕たちの世界が致命的な危機に襲われると云うことなのだから。

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紙の本屍者の帝国

2015/02/06 20:01

ありがとうの意味。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

伊藤計劃氏、円城塔氏。

いずれも自分にとって、「大好きな作家」であるのに、刊行当初は手に取るのを躊躇った作品でした。
伊藤計劃先生亡き後、彼の残したプロットが存在していようと、永遠に彼自身によって書き上げられることはない、それだけの理由です。
伊藤・円城両先生の、いずれとも違った味の作品にもなっている筈で、これが抵抗感を後押ししたのかも知れません。
新作が出れば(伊藤先生の活躍された期間は短かったのだけれども)、すぐに手に取っていた他の作品と違い、文庫になって、ようやく読み進めることができました。
「全然知らない、未知の作家の作品だと思って読もう」と。

物語の面白さで読み進められたことが、作品の素晴らしさです。
後になってから、ようやく両先生の、どちらの作風とも微妙に違うなといった「観察結果」が生まれたに過ぎません。
歴史改変系の作品らしく、作中の事件に絡められた、多くの史実の出来事や人物。そして「軍医志願の医学生」「M」「フランケンシュタイン」「レット・バトラー」…彼らが実在する世界。そうしたパスティーシュ要素に気を取られ過ぎないよう、一気に読み進めました。

普段、著者の経歴や私的な情報が、作品に対しての感想などを左右することは無いのですが、伊藤先生が遺した「ありがとう」の意味と、これを「屍者の帝国」の中に綿密に折り込んでくれた円城先生の2人が関わったからこそ、こうした結末になったのかも知れません。

この物語を綴じる「ありがとう」の意味を、そのまま「かつて多くの物語をくれた」伊藤先生に。
そして、それを手にする機会を生んでくれた円城先生に捧げます。

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パパラギの国。

10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いつだったか、手にしたことがあるような気もしたが、恐らく紹介文か書評か何かを目にしただけで、実際に読んだことは無かったのらしい。古く、有名な本だったらしいが邦訳が文庫となったのは、これが始めてだとのことだったので。
「パパラギ」と云う、奇妙で理解しがたい風習を持つ人々について、ある身分の高い男性が同胞へ語ろうとした演説をドイツの編者が彼の意志に背く可能性をも冒しながら編纂したのが本書の原典だと云う。
 ツイアビ氏という語り手は、異様な格好を最善のものであると信じて着飾る「パパラギ」達を冷静に観察して同胞へ伝えようとする。不健康で、目的の判らない奇妙な着衣や装身具は、彼らの文化には存在し得ないものであるから、それらを辛うじて似た点を備えた自分たちの社会にあるものに例えて語る。誇張もせず、批難や侮蔑を飾り立てるため歪めることもせず、率直に、ありのままを語る。
 不可解で、矛盾に満ちた「パパラギ」達の慣習や思想をツイアビ氏は観察している。
 ただし、ツイアビ氏は暗く、貧しく、愚かで悲しい「パパラギ」達の生き方を自分たちと同じように変えようとは望んでいない。淡々と彼らの姿を同胞へ語り、「パパラギ」達が信じて求めている幸福や豊かさが、明るい光ではなく忍び寄る闇であることを警告するだけだ。
 まるでSFやファンタジィじみた異界の人々の観察記とも思える本書だが、比喩に満ちた寓話ではなく、素直に見たままを連ねたツイアビ氏の手記が原型である。
 では、この衰退し滅び行くような「パパラギ」達は、60年経過した現在、とうに死に絶えたのだろうか。
 実は、僕たちは「パパラギ」の生き方をツイアビ氏より良く知っている。
 パパラギとは、南海の島の酋長であるツイアビ氏らが白人(ここではヨーロッパ人)を指す言葉である。全身を布や革で無闇に被い尽くし、光も風も与えられない石の箱に住まう人々のこと。
 ツイアビ氏は、実際にヨーロッパの国々を見た。白人達が自分たちに与えようとした、彼らの思い描く机上の空論に過ぎない叡智が、いかに取るに足らないものであるのかを確かめた。
 新しいものを頑なに否定したのではない。未知のものを直感だけで恐れたのでもない。
 良いと勧められたものを無防備に信じることもなかったが、先入観だけで避けて通ることもしなかった。
 パパラギは、60年も前のヨーロッパ人のことであるが、僕たちの生活は今やパパラギと同化を経て、一層の暗闇へと向かっているのかも知れない。当時のパパラギとシャパニ…彼らの言葉で云う日本人…には、かなりの差異があっただろうが。
 パパラギも、シャパニも、あらゆる石の箱に住まう人々も、ツイアビ氏と同じ暮らしを営むことはできないに違いない。一年の半分を雪で覆われる僕の街が、彼らの島と同じく椰子の木に囲まれた、年中とても暖かな土地に変わったとしてもだ。
 仮に僕が、宇宙を隅々まで気軽に旅し、様々な物質を自在に操り、誰も餓えず、病に苦しむ者もない星へ視察に向かったとして、果たして観察すらも満足にできたものだろうか。
 ツイアビ氏たちの島には、両手の指で数え切れるほどの種類の食べ物に、同じ数ほどの道具しか存在せず、家には窓もない。物質量だけを比較すれば、彼らの文化は酷く粗末で貧しい。
 僕たちは、ビルも道路も、携帯電話もインターネットも破棄することはできないだろう。新しい物を得るたびに足りないものが次々に生まれていく。これを豊かさと発展であるのだと信じなければ、辛すぎて生きて来られなかったのかも知れない。
 それでも、大切なものだけは全部持っている南の島の人々のように、捨て場のないガラクタに埋もれながら、石の箱の中から出られなくとも、きっと光を探すこともできると信じたい。
 この1冊の「パパラギ」は、明るい海を渡る小さな舟。通り抜ける風。明日には昇る太陽だ。

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異端の邑

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 異端に指差すのも、目を逸らすのも簡単だ。
 彼らを受け入れることは困難で、自らも異端として生きるのは殊更に厳しい。
 大切な人間が居ようと居まいと、本質的に人は独りで、だからこそ多数派に身を置いて異端に唾を吐いてみせ、だからこそ異端に辿り着くようだ。

 河川敷に住み着くホームレスのコミュニティが、本作の中心となる。ただし、あまりに彼らは自由過ぎて、理想的な村の機能が成立してしまっている。不便や危険の圧迫感が無いのだ。異端者の集落と云うのは、揃いも揃って同じ奇行を取るのではない。個々に自分であり続けるだけだ。
 踏み外す寸前の端に立っているだけに、誰もが他の仲間を異端視しない。彼らは、常識の世界に暮らす人々さえも異端視しない。
 金星人だと名乗る少女は、名乗った以上は絶対的に金星人であり、河童の姿をした男の背にファスナがあろうが無かろうが、彼は河童でしかないのだ。銃器を構えた大男の職業が、教会のシスターであることに、もはや誰も不審を抱かない。まるで、信仰のようだ。

 この世界は広過ぎ、人間は多過ぎると物語は告げた。
 誰もが独りで、距離の測り方が判らない。距離の要らない相手を見つけられないと。

 本作は基本的にギャグであり、だからこその描写もある。が、自分のままに生きる人の姿は滑稽で、神々しい。

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ぼくと1ルピーの神様

2009/03/03 01:07

奇跡的な必然。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「不幸な境遇の少年」などと云う、もはや泣ける話の題材に散々使い古されて、擦り切れたような主人公を掲げての、予想外な快作。
出自で差別があり、宗教で対立があり、誰にも保護されないばかりか搾取され、虐待される孤児たちの居る国で、無知で教養がないのが当然だとされる少年。
事実、主人公である少年も、真っ当な教育を受ける機会は得られず、天賦の才で世界のすべてを見通せるわけはなくて。それでも、難問の並ぶクイズ番組で、10億ルピーと云う莫大な賞金を獲得してしまった。
そこから事件が始まるかに思える幕開けだが、物語は彼が出会った「正解」の出所を追っていく…
…作中の年度が明確に示されていないが、おおよそ現代。20億円近くもの破格の賞金。
無学な孤児には、決して答えることのできない筈のクイズに、少年は絶対の確信を持ち、次々と正解を告げていく。彼は、クイズの問題を知っていたわけではないし、その答えを知らされていたわけでもない。
ただ奇跡的な偶然で、少年はそれらの「正解」に巡り会い生きてきた。
では、彼の人生は降って涌いた奇跡の積み重ねに過ぎなかったのか。
そうではない。
考えることを放棄した善良さでもなく、懸命でさえあれば報われると信じる甘さでもなく、彼自身の知恵と機転で生き延びたことこそが奇跡で、それほどの人生の中には、誰にでもクイズの正解程度の拾いものがある筈なのだと考えさせられた。
主人公は、闇雲に正義を貫くことで自己防衛をせず、欲しいものを欲しいと願い、誰かのための道ではなくて、自分で拓いた道を転びながら(時には狡い近道をしながら)、生き抜いた。
ご都合主義的に起こった出来事が、カチリと必然であったのだと判る後半に至っては、幸運が確率や運勢で得られるのではないと語る。
彼に贈られるべき喝采は、もはや10億ルピー程度では足りない。

(ひとつ残念なことは、クライマックスに至って、この重要な「10億」と云う単語に、繰り返し繰り返し…作品の要になる単語である以上、たったひとつでも相当に間抜けだが…誤植が重なっている点。無論、作品自体の欠点ではない。重版時での早急な修正を願う)

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それしか描けないんだろ?

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 少々非現実的な学園、命懸けで漫画を描く少年。今度はバレーボールだ。
 暑苦しい熱気は、一歩踏み外すと「マンガ」であるだけに、虚構だからと白々しく、魔法の世界ほどには現実との相違が無いことが、余計に大人を萎えさせる。
 ヨヲコ漫画で描かれる少年少女には、もっと楽で安全な道がいくらでもある。安っぽい剣を握らされて、魔王を倒して来いと送り出される勇者たちと違う。
 例えば、主張せず、こだわらず、無難に日々を過ごすことだけに邁進すれば良い。
 なのに、少年少女は必死に生き抜かなくてはいけない道を進む。立ち止まったり、脇に逸れたり、逆戻りすれば命が終ってしまうように。実際、そこで彼らの生涯は終るのだ、多分。
 後は抜け殻のように(一見すれば解放され楽に)生きていくだけ。
 少女たちの前にあるのは、バレーボールじゃなくても構わなかっただろう。
 この世にある、何だって良かった。
 どんなことでも、気楽に接することは安全で簡単だ。成功者だけを称えるのも、揚げつらうのも極めて簡単だ。しかし、ヨヲコ漫画の少年少女は、闇雲に熱く必死だ。
 有り得ない、馬鹿らしい、と、嘲笑する隙も与えないほどに。
 学園物、青春物、と括るのは容易いし、強ち間違ってさえもいない。
 日本橋ヨヲコという作家は、結局のところ「それ」しか描けないのでは無いかとも思う。
 例え、老人やロボットを主人公に据えたって、同じ「それ」しか描けない。
 日本橋ヨヲコの漫画は、どれもこれも、みんな同じだ。
 なあ、「面白い漫画」しか、描けないんだろ?

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紙の本しゃばけ

2008/09/11 13:53

置き去りの哀しさ

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 江戸が舞台の時代物であり、出自通りに人ならぬ妖達が罷り通る和製ファンタジィであり、広義の安楽椅子探偵ものである(実質は、椅子に座るも侭ならぬ病床探偵であるが)。
 古典推理小説の様式を雛形とすれば、あらかた規格外揃いとなりそうな近年のミステリの体裁に近い構造となっている。
 しかし、当シリーズの本質は「置き去りの哀しさ」ではないのだろうか。
 探偵役たる主人公、一太郎は、両親始め、現代社会に置き換えれば大企業である店の一同、揃いも揃っての溺愛が過ぎ、布団に沈んでいるような少年である。
 幼時の一太郎は、今と変わらず寝付いてばかりで、家の回りで友だちと遊ぶにも不自由する有様。家族は誰も優しく、その気になれば贅沢三昧もできる裕福さ。しかし、どこへも行けない。大人になれず死ぬのだろうと、もはや絶望も恐怖も薄い。寝床の中に置き去りにされて、明日の無い一太郎。
 計らいあって、虚弱ながらも長らえた一太郎は、彼を愛する多勢の妖の助力を得る。
 まず、大方の人間に妖の存在は認識されない。
 この構図は、事実とは異なるが多重人格者の物語と重なって見えるのだ。
 水夫を従え、家業を取り仕切ることができる偉丈夫。
 容姿端麗で博学、彼に任せられた店である薬種商を切り盛りできる才覚。
 時に人をからかい、皮肉も云えば、良き同居人とも云える派手好みの男。
 好き放題に、自由に、転げ回ることのできる身体。
 布団に押さえ込まれたまま、一太郎は妖らに逆恨みもしない。自分の一部であるかのように。そうあれば、と思う力や特質が彼らにはあって、しかし、すべてが自分に都合良く運びはしない。
 出会いと別れは、自室から離れられない一太郎ばかりが受け身になって起こるように感じられてしまう。置き去りの哀しさ。手足となり、目となり、耳となる妖らは、決して彼の道具ではないが、心の支えでもある。
 そして、置き去りが約束されているのは、一太郎では実はない。
 いずれ彼が、亡き祖父のように一切を棄てても良いと思えるものに出会い、病も切り抜けて天寿をまっとうしたとして。
 彼を取り巻く妖らは、百年も千年も生き続けるのだ。
 積み重ねるほどに散らばった時の残骸は広がることを知っているのに、こぞって一太郎との関わりを積んでしまう妖ら。
 人外の威力ではない。あっけなく失うことを知り、それでもなお彼を愛そうとした妖らこそが強いのだ。

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金髪碧眼の火の鳥

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 キャラクタは当然のことながら、個々のエピソードも直接的な関連は無いのに、この短編群からは手塚治虫の「火の鳥」の血脈を感じます。
「不思議〜」は、世界の傍観者である謎の少年が、様々な土地・時代に現れて人々の人生を眺めます。友人のように話しかけたり、超常的な力をもって対象となった人物に影響を与えることもありますが、スタンスは傍観者に過ぎません。
 少年は、人々の一点に興味を持っていることが多く、単純に善悪を見極めて罰するということはしませんし、絶対的な力で彼らの選択肢を絞ったりもしません。
 金髪碧眼の、美しい白人少年の姿で現れ、時によっては不審がられたり、異様な状況下にありながら受け入れられたりもします。
 古代、現代、未来を垣根無く認識し、見渡せる傍観者は、人々にとって神でしかないはずですが、この神は救いをもたらすものではありません。
 手を差し伸べない傍観者であるからこそ、どこにでも存在できるのかも知れません。
 少年は、人々の崇拝物にこそなってはいませんが、あの火の鳥のように人々を眺め続けていくのでしょう。

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ご飯を食べようinダンジョン

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

舞台背景は、至って凡庸な「剣と魔法」の世界。
初期のウィザードリィを思い出させるようなダンジョンに、選ばれし勇者だけではなく、多数の冒険者が次々にアタック中。

ドラゴンに喰われた仲間を救うための探索行…といった状況設定までは、ごくごく普通のファンタジーだが、主題となっているのは、モンスターの徘徊する地下迷宮で「美味しいご飯を食べよう」である。
素材はもちろん、モンスター。…モンスターです。
二足歩行するキノコ、食「人」植物、スライム…

異様な光景の筈ですが、必死で拒絶し、眉を顰める仲間たちが、嬉々として「モンスター食」を推進する仲間に引きずられ、次々に美味しいご飯に陥落していきます。
TRPGの愛好者であれば「うん、良く同じこと考えてた」と「共感」する場面も多いのでは。

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そして、少年達の旅は終わる。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

実在した少年十字軍が題材であり、歴史の中の彼らの運命を考えれば、この物語が多いに想像を加え描かれているだろうことも予想はつくが、しかし、こうした旅はあったに違いない。
残酷な未来が約束された少年達の旅のも物語である。

そもそも十字軍は、異なる宗教との戦いに赴く兵隊である。聖都奪還の行軍であり、参拝のみを目的とした旅ではない。
だが、物語序盤の少年達に、戦争へ行くのだという覚悟、意志は薄く見える。
大人達をも含め、事実、多くはそうだったのではないか。
純粋に聖地を目指すこと。その偉業を達成することで恩恵が受けられる、幸福が約束されると信じたからこそ膨大な数の人々が行列に加わったように思う。
迷信により自殺に追い込まれた母の魂を救済すること、不治とされた病を治すこと。騎士、旅、遠い場所への憧れ。日常の仕事から逃避すること。名誉。私欲。
唯一、明確に異教徒への恨みを持つニコラも、父の仇であるという根拠に沿ったものだ。

少年達を傷つけ、命を奪ったのは、その大半が「悪しき異教徒」ではなかった。
同じ神の印を掲げる大人達であり、自らの手で仲間を殺すに至った子らを追いつめたのも同じ大人達だった。

少年にすら成りきれていない幼いこども達が、社会に人間だと認識されなかった時代。
ともすれば、白人が黒人に対して行った例だけを思い浮かべかねないが、彼らのような「白いこども」が、様々な用途の奴隷として、いくらでも「収穫」できる商品であった時代。
神を崇拝の対象ではなく、身近に実在するものとして信じ、なおかつ神の名を騙り命や富を奪うことが行われていた時代。
純真さが彼らを幻の聖都へ向かわせ、信じ抜く無関心さが目隠しで断崖を歩く危うさになり、彼らを殺した。

奇蹟は、惨たらしい少年達の行く末を救わない。
純真だが愚かな無防備さにも、残忍な汚い強さにも、一瞥をもくれず死に行くままに委せ、気まぐれに道端の盲者を病人を救うだけだ。
人の決めた善悪や美醜を計って救済するのは奇蹟ではない。
誰にも等しく降り掛かる天災のように、ただ、稀に起こる喜ばしい出来事を奇蹟と呼ぶ。

そして、少年達の旅は終わる。
インノサン=無垢を失い、奪われた子らが、旅と同時に短い人生をも終えて。

最後に、奇蹟の子・エティエンヌの名はギリシャ語の「冠」に由来する。
史実において少年十字軍を率いた少年の名で、彼らの旅路の道標であり災厄でもあった宗教の、最初の殉教者の名でもある。
冠は、象徴であり王ではない。奇蹟や栄光を表現した偶像であり、救い手ではないのだ。

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紙の本アダムス・ファミリー全集

2012/01/24 19:36

「普通」の棘と、毒々しい幸福の日々

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

愛する夫と可愛いこどもたち。
好みの植物が生い茂る庭からは、父に縁の大木が見守ってくれている。
居間の窓からの眺めは素晴らしく、古い屋敷は隅々まで家族の趣味に合わせ、手入れされている。
バスタブに模型の船を浮かべ、ドールハウスに花を飾る兄妹。
祖母の焼いてくれるクッキーを楽しみに待つこどもたち。
休日には、家族揃ってランチ持参のピクニックへ…
最高に幸せそうな(ちょっと変わった)ファミリー!

実写映画で有名になった「アダムス・ファミリー」の原作は、アニメやテレビドラマにもなっているアメリカのカートゥンである。一場面に、わずかなキャプションを添えた1コマ漫画だから、映画となった際には、多少の脚色がされた。
その原典であるカートゥンの書籍は、長く入手が難しかったのだ、特に日本で。

不吉で不気味な一家は、決して「おばけ」や悪魔ではないことを知っているだろうか。
彼らは、「普通の善良な隣人」を呪ったりはしない。
明るい朝の陽よりも月光を好み、可愛らしい小鳥の代わりにハゲタカを招く餌台を設えているだけだ。
喩えるなら、少々風変わりな慣習のある外国人のようなものである。
むしろ、彼ら家族を奇異なものを見るようにして遠巻きにする「普通の人々」にさえも、友好的に、寛容に接してさえいる。

映画にも採用されていたエピソードになるが、こども達が道路脇でジューススタンドを開いている。
アメリカの小学生は、実際にレモネードなどを売る小さな店を開くことがある。
アダムス家のこどもたちは、致死性の劇薬を並べているわけだが、単に家の中で日常的に使われているものをキッチンから持ち出しただけだし、通りすがりの近隣住人を殺そうとしているのでもない。こっそりとレモネードに砒素を混ぜるような悪意はないのだ。

このアダムス一家の「悪意の無さ」は、映画版では余計に判りやすい形に翻案されて、たくさんの場面へと置き換えられている。
主に「普通」で「良い人々」が無邪気にしでかす残酷な言動を受け入れて見せてくれる。

彼らに攻撃的な意思は無い。
自分たちの信じるものだけが真実で善だと疑わない「普通の」隣人達こそが、幸せな家族に向かい、「普通」という名前の棘を逆立てるのだ。

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社会科の教科書に落書きした事ある奴は読め。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 どこに行きたいのだ。
 雑多な作品群の、いわゆる短編集的な単行本であるが、恐らく主軸であると思われる「飛鳥」と「細道」だけを念頭に置いてみることにする。
 前者は聖徳太子と小野妹子、後者は松尾芭蕉と河合曾良(例え読んだ事は無くとも、誰でも知っていそうな紀行文、「おくのほそ道」の随行者である、念のため)をモデルとした一連のシリーズだ。
 どちらも日本の神々と並べられるような偉人と、その傍に居た者が題材だが、扱いは粗末で酷い劣化コピィのような人物像が描かれる。ギャグ漫画だから(タイトルに明言されている)といえば、それまでだが、完全な別物という印象では無いのだ。あくまでも、「劣化コピィ」で納まっている。
 太子は、あくまでも摂政であるし(本作を読んでいる限りに於いて、その身分は「馬鹿なのに王様だから困る」的な印象)、同行者の弟子に駄作以下の俳句を寸断なく破り捨てられる芭蕉も、やはり数々の名句を発している俳聖であるのだ。俳句が三十一文字で構成されていることすらも、しばしば忘れている本作の翁ではあるが(これも、字余りの作が多々見られることのパロディと取れないことも無い)。
 彼らが偉人であることを、この作品は決して否定していない。その上で、いかに駄目な人物かを描いているように見える。
 いずれ歴史に名を残すだろう自分が、格好良く描かれるかを懸念する太子や、師を仰がない弟子に脅され、俳句の体さえ成していない駄文を苦し紛れに記してみせる芭蕉。
 だが、史実の彼らと、私たちは直接の面識など無い。捏造されているかも知れない、ドキュメンタリ映像さえも無いのだ。
 斬新な施政を編んだ太子は、奇人との境界線上に居たのでは無いのか。
 奔放な芭蕉は、俳句の才能さえ無ければ単なる変人に過ぎなかったのでは無いのか。
 そうした「劣化コピィ」であるがゆえに、単なるギャグとして描かれた本作を読んで、実在していた(筈)の人物であったことさえ忘れて笑った後で、ふと、誇張されただけの実話なのではないかと過ることが、少しある。
「細道」の旅の終りで、連載の終りを飾る(かも知れない)という著者の記述がある。
「飛鳥」での随への旅は、既に片付いているが、「細道」の旅は元禄二年で止まったきりなので。冒険漫画のような、旅の目的は無い。もちろん、史実の通りの終いがあるはずだが、彼らは一体、どこへ行きたいのだ。
 終着点となる土地では無くて、これらの他の何にも似ていない作品群の、いつかは訪れる行き先のことである。

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おかえりなさい、オデッセイ!

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

帰って来てくれないと困る本が、無事に帰って来てくれました。
「出版:復刊ドットコム」をご覧頂ければ、本作品を初めて目にされた方も経緯を想像できるのでは。残念ながら、一度は絶版になってしまった作品でした。
1995〜1999年に連載されていた、物凄く古いのでもなく、最近の…とは云えない時期の作品です。あまりに古くて入手困難と云う性質でもないわけで、残念ながら、埋もれて消えてしまったのです。
これが復刊された、と云う意味。
内容を知っているのは、当時の読者と、今でも繰り返し読み続けている永野のりこファン=「ナガノ者」が大半でしょう。旧版の単行本を当然ながら持っている(自分を含めた)人間です。
例え持っていようとも、この作品は新たな読者の手に届く場所にあって欲しいのです。
この作品中で描かれた、深刻な虐待やいじめ、主には少年少女の身に起こる様々な社会問題は、悲しい暗い出来事です。
こうしたテーマを感動的な悲劇として、当事者では「ない」読み手が上から見下ろして同情を振りまくためだけの作品を、永野先生は描かれません。
正に今、辛い場所、「みんな」から阻害された場所にいる当人が。
そして、そこから何とか抜け出したけれど、いつも「あの時」が背後にいる人々が、締め切った暗い部屋のドアを「ほんの少し」開けてみるだけの勇気を持てるような作品です。
本作や、永野先生のギャグが主体である他の作品さえも、長年、心の支えにしてきた「ナガノ者」が大勢居ると思います。どこか遠くの「暗い部屋の誰か」に届けたくて、この作品は帰ってきたのでしょう。

蛇足ながら、「ナガノ者」仲間の方々へ付け加えるとすれば、描き下ろしは何と12ページ。旧版をお持ちでも、ぜひ手に取りましょう。

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紙の本オイアウエ漂流記

2012/02/10 12:40

あなたも今、漂流している。

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漂流、遭難ものが好きだ。
ミステリやSF、ファンタジィといった括りよりは極めて狭いが、サバイバルと言い換えれば頻繁に目にする題材であるし、非日常的な冒険譚であるのに、かなりの割合で実話だということは特異な点だろう(戦記もの程度に)。
とりわけ、実話を題材としたものでは、「笑える」という意味合いにはならないものの、多くの本を面白く読んだ。フィクションなら、可笑しい、楽しいという笑いさえ少なくはない。

著者は「荻原浩」である。サバイバルには必須ともいえる、グロテスクな死者達の惨状や、それすら平穏に映る程の惨たらしい諍いは、彼の物語に登場しないだろう(僕は、生きるために捕らえた獣を殺して食べることには、不快感も抵抗も覚えない)。
無論、この漂流記はフィクションであるが。

自分の中では、海外に移住した生活エッセイや、異世界へ飛ぶファンタジィと、これらの漂流ものは同じ軸に刺さっている。文化や習慣の違う外国や、遠い時代で起こる大事件よりも、そこでの食事や身の回りの些細なことに、とても惹かれるせいだろう。
もし小説を書くことがあるのだとしたら、漂流ものを書きたい(本当に書く気が無いからこそ云えることだが)。
著者は好きな作家の1人で、しかし、そうでなくともタイトル買いした。とにかく漂流、遭難ものが好きなのだ。

この物語の漂流した人々は、いくつかの幸運を備えている。
生き残った者にとって、目前に肉片と化した仲間が居ないことが、どれだけの救いだろう。
帰還、あるいは救出の可能性が絶望視される状況でも無い(彼らはツアー中の旅行者なのだ)。
しかし、これこそが彼らの辿った「漂流」の原因では無かったか。
確かに彼らは、思いもよらぬ能力を披露してみせた。釣りだとか、鶏を捌けるなんてことだ。
それは元から携えていた力で、極限に達した凄惨な場では無いから、持てる力以上のものを絞り出すのではなく、少しの我慢だとか、少しの決心で実行できた。
浮き世離れした金持ちは、まるで空気を読まないし、利己的な者は利己的に振る舞う。
伝説的な英雄になろうと誰もがしないし、そんな奇跡が「自分の身の回り」に起こらないということを彼らは無意識に備えていたのだろう。
「漂流」という大事件に際しても、大多数の人間は、その人で有り続ける。
物語でなら簡単に生み出せる筈の、英雄や勇者や独裁者や殺人鬼は、彼らからは生まれなかった。
その「大多数」は、皆が違うステイタスを持っている。そうした物語を描ける作家は意外と稀だ。
淡々と彼らは生き延びてゆく。毎日、会社に通い上手くはいかない仕事をこなしたり、理不尽な上司の発言に喰いかかったりもせず。完璧ではない結婚相手に妥協してみたり、非現実的な空想を描いてみたり。宿題を、化粧を気にして。
食料の調達に日々の大半を費やす孤島の暮らしは、実のところ、スーパーマーケットで気軽に買える食べ物を得る手段と、本質的には変わらない。手製の槍を持つか、キィボードを叩くか。

飛行機にも船にも乗らず、嵐に巻かれることも無いまま、わたしたちは遭難し、漂流している。
どこに辿り着くのかを、今、人生のどこにいるのか、明確に断言できる英雄はわずかだから。
そして、救助船は多くの人に来ないだろう。今の自分から脱出する手段も見つけられず、生き延びるために飲み、食い、身を守って生き延びるだけだ。
場所は座標も知れぬ名も無き孤島では無いかも知れない。
地下鉄の走る街で、オフィスビルの6階で、コンビニエンスストアで、あなたも今、漂流している。

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