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レビューアーランキング
先月(2017年8月)

メル さんのレビュー一覧

投稿者:メル 

10 件中 1 件~ 10 件を表示

他者

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、フーコーの権力論、自由論を分析し、それが法学や政治学といった分野でどのように活かすことが出来るのかということを探っている。フーコーの理論を非常にすっきりと整理してあって、難解な理論を理解するのを助けてくれる良書だと思う。
 本書のキーワードは、フーコーの提示した権力についての新しい概念である「権力関係」ということになるだろう。この「権力関係」という概念は、非常に興味深い。
 本書に従って、「権力関係」という概念をまとめて見ると、そのの特徴として、権力は、人々の間の関係として生じるという。だから「権力関係」として「関係」の部分をフーコーは強調するわけである。したがって、こうした権力関係は、何も国家と国民の間にだけ見出せるものではなく、それは日常の生活の中に常に存在している。
 伝統的な権力のモデルでは、君主が一方的に臣民を権力を持ち、臣民の抵抗はその権力から逃れるための実践としてあったのだが、そのような一方通行的な権力の構図をフーコーは否定した。全体を統括するような権力の中心はいない。常に「関係」として存在する権力は、関係の対象となる対=敵の抵抗を前提にしている行為実践そのものであるという。
 そして、私たちが社会的存在として生きる限りは、この権力関係から逃れられないのだが、それは従来の権力のように抑圧的なものではないために、私たちは権力関係から逃れようと考える必要なないのである。つまり権力関係とは、私たち自身や私たちの日常を形成する場としてある。
 このフーコーの権力関係を支えているのが、自由論である。伝統的な意味の自由は、「静態的自由」と呼ばれ、すなわち抑圧や支配や搾取、強制などが存在しない状態を理想とするものだ。しかし、フーコーの自由は、それとは異なり、「動態的自由」と呼ばれ、対抗する諸力との関係における行動、実践の可能性に見出せる。つまり他者のいない無風状態の自由ではなく、他者との関係において相互に働きかけが可能であるという自由が、権力関係を成り立たせる条件となる。
 このように見てくると、フーコーの権力論では、他者の存在が非常に大きな役割を果たしていると言える。伝統的なモデルでは、「支配」とは完全な服従関係であり、「支配」と対立するものとして「透明なコミュニケーション」の状態、すなわち一切の権力関係を捨象された状態が哲学者などから、理想的な空間として提示されてきた。そこでは、個々人の間には対立や抵抗が存在しない。サブカルチャー的に言えば、この「透明なコミュニケーション」の状態は、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」と似ているのかもしれない。
 一見すると、この状態は争いもなくユートピア的ですばらしく思えるが、エヴァンゲリオンでも最後に拒否したように、この「透明な」状態は、一方で他者への無関心、排除という動きに繋がる。しかしながら、フーコーの提示した権力関係は他者との相互依存が必要だ。他者を一切消滅させるのでもなく、他者を見えなくすることでもなく、常に他者と相互に闘争や衝突を繰り返しながら、しかし他者の存在を不可欠とする「闘技性」という態度は、今現在、もっとも参照すべき概念ではないだろうか。そうした意味で、フーコーの権力論を考えるのは重要であろうし、本書はその際に大いに役立つであろう。

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紙の本90分でわかるデリダ

2002/03/31 20:05

やさしいけれど鋭い1冊

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「90分でわかる」シリーズに「デリダ」が登場。難解なデリダの思想が、非常に小さな本書でどのように解説されているのか、興味があって読んでみた。
 デリダの思想をどこまで正確に捉えているのか、私には判断できないけれど、とりあえず、デリダがこれまでの活動の中でどのようなことを考え行ってきたのか、基本的な事柄を本書によって理解することができると思う。てっとり早くデリダのことを知りたい、デリダの本をこれから読みたい、という時に参照するのが良いと思う。タイトルには90分と書いてあるけれど、実際は1時間ほどで読めてしまうコンパクトな1冊だし。
 本書によると、デリダがこれまでの西洋哲学が「現前性」を基にしてきたということを批判する。つまり絶対的な真理は「すべてが現に目の前にあること」によって、正しさが確証されるという。それに対して、《デリダが示そうとしたのは、「現前性」のような方法で真理を保証しようとしても、やはりアポリアにつきまとわれる、ということである。》
 哲学は、このように真理を保証するような「現前」すなわち絶対的なものを必要としてきたけれど、そんなものは存在しないと。したがって、哲学は不可能なのだということをデリダは訴えたかったのだろうという。しかしながら、このような哲学の自己を破壊するような動きはデリダが初めてであったわけではないとも指摘している。
 「現前性」の哲学に対して、デリダは言葉の意味の決定不可能性とか、あいまいさを持ち出しくる。しかし、言葉の意味の多様性は、文学においても珍しいことではないと、著者は言っている。このように、デリダの思想がデリダによって初めてなされたことではなくてデリダ以前からもあったということを、すなわちデリダの思想が特別なものではなかったということをしばしば指摘しているのが本書の特徴だろう。
 そもそもデリダが哲学がたとえば神のような絶対的なものを基に、構築されてきたことを批判したのだが、しかし科学ではこのことは当然のことであったと言う。科学では、常に修正され進んできたのだからだ。
 そういうわけで、本書は単なるデリダ思想の紹介書、解説書ではなく、少々批判的な解説書であると思う。この批判を、今度は実際にデリダの作品を読みながら考えてみるのが良いだろう。
 本書の最後で、私が気になった一文がある。それは、《本当のことを言えば、脱構築とはいっそう急進的な形態のマルクス主義に他ならない!》という部分だ。これをもう少し詳しく知りたいと思った。

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紙の本暗い時代の人間性について

2002/03/03 17:21

小さな本の大きな可能性

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、1958年9月28日にハンブルクからのレッシング賞の受賞の際にアーレントが述べたものだ。もう40年以上も前のコメントなのに、まるで現代社会を言い当てたような印象を受ける。アーレントの思想の強度を感じる一冊である。
 アーレントは「暗い時代」のことを、次のように説明している。

 《歴史の中には、公共性の空間が暗くなり、世界の永続性が疑わしくなって、その結果、人間たちが、自らの生活の利益と私的自由を適切に考慮に入れてくれることしか政治に求めないことが当たり前になってしまう時代があります。そのような時代を「暗い時代」と呼ぶことには一定の正当性があるでしょう。》

 この文章を読んで、きっと日本の政治のことを思いださずにはいられないのではないだろうか。日本の政治というものが「自らの生活の利益と私的自由を適切に考慮に入れてくれることしか政治に求めないことが当たり前」になっていたことが、改革の中で明らかになっている。まさに「暗い時代」の中に私たちがいたことを気づかされるのである。
 アーレントは、世界は人間と人間の「間」にあるという。そして、この「間」こそ今日の最大の懸念であり、もっとも明白は動揺を与える対象となっているという。この世界を「間」を顕在化するために必要なことは、会話をすることである。
 ここで、「友情」というものが考察される。今、私たちは「友情」というと、友人たちが世界とその要求に煩わされることなく、互いに魂を開示し合える親密性の現象であると認識しているだろう。これは、ルソー的な「友情」である。この「友情」は、人間と人間の「間」がないということを意味するだろう。
 一方、(古代)ギリシア人の「友情」の本質は、会話の内にある。会話を通じて、市民はポリスへと統合するのであると。このような会話は、上のように個人が自分自身について語る親密な会話ではなく、共通の世界について語り合う会話となる。アーレントは、「間」=世界というのは、それが会話の対象となって初めて人間化するのであるという。こうして「友情」の政治的な意味が顕在化するのである。不幸を救ってくれる友人ではなく、幸福を共有する友人の存在が、「友情」の政治的な重要さを認識させてくれる。
 人と人の間に「間」=世界というものが、存在せずにより接近して親密でありたいと思いがちになるかもしれない。しかし、それではいつまでも私たちは「暗い時代」中を生きていくことになるのだろう。この「間」=世界を常に会話を通じて、共有することが大切なのではないか。今、まさに必要とされているのではないか。このアーレントの思想の可能性を改めて考えなくてはならないと思う。

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紙の本マクルーハン

2002/01/09 00:02

メディアは何を変えたのか

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 ウッディ・アレンの映画を見ていたとき、「マクルーハン」が登場した。そのときは、マクルーハンが一体何なのか分からずに笑っていた。その後、メディアについて調べ始めて、ようやくマクルーハンがメディアの思想家で、一時期は一世風靡するほどの影響力を持った人物であったということを知った。
 しかしながら、今現在、マクルーハンが大きく取り上げられることは少ない。かつては大きな話題になったマクルーハンがどうしてあまり注目されなくなってしまったのだろうか、と気になっていた。一体、マクルーハンの思想とはどんなものだったのだろうと。
 本書は、マクルーハンのメディア研究の要点をコンパクトにまとめたものだ。マンガのようなイラストがあり、学術書というより、一般書のような体裁のマクルーハン入門書である。
 マクルーハンの研究は、簡単に言ってしまえば、メディアが私たちに与える影響は何か、ということだろう。あるメディアが新しく登場したとき、何が可能になって何が消滅したのか、私たちの精神や身体がどのような影響を受けるのか、そういうことを探索した思想家と言ってよい。
 冒頭に「マクルーハンのものの見方とは」ということが書かれてある。それによると、マクルーハンは固定した視点を拒否したのだという。ものごとを理解するには、多様な視点から見つめることが必要であると主張していた。それゆえ、彼の著作は、大規模な論文の体裁を取らなかった。一つの視点で一つの解釈を出すことを拒否したので、その著作はモザイク風なアプローチとなり、従来の固定した視点の人々を戸惑わせたという。マクルーハンの著作で、《読書は従来的な書物の「線的構造」から解放されたのだ!》という。
 それにしても、この「線的構造」はどのように生まれたのだろうか。マクルーハンによれば、アルファベット発明以前は、人々のコミュニケーションは身振り手振りなど全感覚が必要とされたが、アルファベットによって抽象的な視覚的記号に縮小された。書き言葉はが広まるまでは、人々は「聴覚空間」にいた。ここは、無限で方向もなく、地平線もない空間だが、書き言葉がこの空間に秩序を持ち込み、有限で線的で構造的な合理的な空間へ変えたのだという。マクルーハンは言う、《グーテンベルクの活字の発明は、線的で画一的で連続的、継続的な理解の仕方を人間に強制したのである。》
 マクルーハンにとっては、アルファベットもメディアである。彼にとって、メディアとは《私たちの身体、精神、存在そのものの、あらゆる「拡張」を意味した。》アルファベットは、私たちが肺、声帯、舌、歯、唇などを使って言語音に作り変えられ、そして音が思考を外在化するから、身体と精神の拡張となる。また、アルファベットには何かと何かの「あいだを行く」と同時に「出会わせている」感覚があるという。何かとは、音と意味である。このようなアルファベットの発明が、線的構造を生み出し、ナショナリズム、組み立てラインといったあらゆるものが西洋文明にもたらされたと考えている。
 このあたりの問題には興味があるので、マクルーハンの言語観あたりはもっと調べてみたいと思う。
 本書は、マクルーハンの有名な言葉、「メディアはメッセージである」とか「地球村」など分かりやすく解説しているので、マクルーハンの著作を読む時に役に立つと思う。また最後には著作一覧や関連文献の一覧が詳細に付されているので、マクルーハン研究にも役に立つと思われる。

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紙の本M2われらの時代に

2002/03/01 21:37

言いたい放題の果てに

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 「われらの時代に」ということで、1999年から2001年の間に起きた出来事について、二人が言いたい放題に語る、そんな本だ。読後の印象として、始めの方に比べて、最後のほうになると、二人が馴れ合いはじめたのか、緊張感もなく、かなり議論の質が落ちてしまったように思える。それは非常に残念だと思う。
 そのためか、本書を読んでいくと途中からだんだんと気分が重くなっていく。憂鬱になる。とりわけ、自分たちを高みの場所において、他者を啓蒙してやる、という態度があからさまになるにつれて、うんざりしてくる。それに、どのテーマを選んでも、結局話す内容は似たり寄ったり。まるで発展がない。
 最終回に宮台氏は、二人は仲が良いのか、という質問に対してこんな発言をしている。
 《コンパニオン(同胞)意識はあるよね。それは、いちいち説明しなくても同じ前提を共有しながら喋れる相手ということだな。ある種の共同性です。もちろん前提を共有しない人にもわかるように、M2ではちゃんと工夫して対談してきましたよ。》
 共同体といったものに、一番批判的であり目の敵にしているその張本人が、二人の間にある種の共同性を作ってしまう。これが、本書を読んでうんざりさせられる原因なのだと思う。二人は互いに甘えあっているのだ。宮台氏が目指す公共性の姿は、ここには存在しない。弛緩しきった関係に、鋭い議論を求めて無駄なのであろう。

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紙の本日蝕

2002/02/17 16:02

或る得体の知れぬ抗し難い魅力が有るから

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 魅力的な物語だと思う。
 この小説の何に魅力を感じたかと言えば、やはりその文体、エクリチュールであると言いたい。この小説の特徴として、たとえば文語的な語り口だとか、普段目にしないような難解な漢字とルビの表記などが、指摘されていると思う。解説の四方田氏も日本の文学におけるルビ表記の魅力を述べていた。このような表記に関する特徴によって、本作品は非常に視覚に訴える作品となったと思う。
 きわめて、視覚的であり、物語中もっとも美しいと思える場面。それは両性具有者が魔女として刑を受け、その処刑の最中に日蝕が起こる場面だ。ここでは、すべてが一体と化していく。太陽が月と一体になり、霊は肉と一体化し、「私」と世界も一体となる。そしてすべてが、光に包まれる。文庫本なら、182ページから183ページ、および次の白紙のページが特に圧巻の場面であると思う。このエクリチュールには魅力を感じる。主人公が世界と一体となるこの場面において、主人公と同様に、この物語世界と読者は一体となる。それが視覚的に行われるところに、この小説の完成度の高さを感じた。
 この作品は、独創的ではなく、これまでの先行する物語の反復、引用であるとか、はたまたサブカルチャーの物語の枠を引用したにすぎないというのは、確かなことだと思う。だが、それゆえに否定されるような作品ではない。主人公は、錬金術師のピエェルの理論に対して、ある戸惑いを抱く。
 《私の戸惑は、喩えば、比類無く美しい一幅の邪神の像を眼にした者のそれであった。(略)慥かにそれは、怪しからぬものであるに違いない。然りとて、完く否定してしまうには惜しい気もする。それには猶、或る得体の知れぬ抗し難い魅力が有るからである。》
 この言葉は、そのまま本作品に当てはまるように思う。

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紙の本光の雨

2002/01/03 14:10

この今を生きている君たちの夢は何か

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 あの連合赤軍の事件を取り上げた小説。どうして同志を次々と殺していくような陰惨な出来事が起きてしまったのか。事件の意味を問い直す小説だ。
 時は2030年。法律の改正によって、死刑囚であった玉井潔は、釈放された。しかしながら、玉井潔の命は今や消えようとしている。玉井は自分が犯してしまった過去の事件に付きまとわれ、苦しまされている。そしてふとしたことから出会った若者、阿南満也と高取美奈に事件を語り始める。
 ここで、語られるのは、<革命>に取り付かれた若者たちだ。<革命>が必ず起こることを信じている。自分たちが来る<革命>で先頭になって突き進もうと考えている若者たちだ。
 しかし、彼らの語ることはすべて空回りしているように思える。<革命><権力><自己批判><総括>などのコトバがあふれている。しかし、それらのコトバに重みがないというか、つまりリアリティがない。観念に取り付かれていて身動きが取れなくなっているのだ。
 たとえば<総括>など、頻繁に出てくるのだが、一体何をどのように<総括>したら真の革命戦士になるのか、といったことを問うことが一切ない。とにかく<総括>をせよ、と命じられすべて否定され、粛清されていく。
 このように観念の中に閉じこもっていくのは、おそらく他者に出会っていないからだろう。おそらく、自分たちの共同生活から出て、現実の社会に向き合えば、そのような出会いがなければ、<革命>というコトバにも重みが出たのではないだろうか。
 この小説で、一番気になるのは、やはり作者、立松和平の位置だ。小説を読んで感じるのは、連合赤軍の事件を完全に批判するのではなく、人間の普遍的な問題として捉えている。しかし、作者はどこかロマンチシズムを感じているのかもしれないという印象も受ける。
《あの時代に生きたものも、死んだものも、みなごく普通の子供だったよ。本当はみんないい子だったとぼくは思いたい。赤子のように震えて裸で生きていた。君たち二人とどんな違いもない。この今を生きている君たちの夢は何か。ぼくらは革命の夢を見ていた。》
 玉井潔の最後の言葉だ。一体、夢を持って生きることと、夢が持てずに生きることのどちらが良いのだろうか?

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近代?ポストモダン?

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 東浩紀が新鮮なのは、現代思想とオタク、サブカルチャーをリンクさせたことにあると思う。従来の学問世界ならば、思いつかない組み合わせだろう。一見すると、皮相な低俗であると思われるサブカルチャー、オタク文化を現代思想というツールを用いて分析する。そして、オタク文化も現代思想でいうポストモダンの状況を見事に現しているんだよ、ということを示すのが、本書の目的だと思う。
 本書による、現在のオタク文化、サブカルチャーの分析を簡単に、まとめてみると、まず近代は「ツリー型世界」でここでは、表層と深層、小さな物語と大きな物語は、相似関係でつながっており、表面に現れている小さな物語は大きな物語によって意味付けされていたということになる。一つの小さな物語は一つの大きな物語へとつながっていく。世界を理解するということは、小さな物語を通して大きな物語を理解するということだ。
 一方、世界の意味付けの役目を果たしていた大きな物語が、やがて機能不全に陥ってしまったポストモダンの世界は、東浩紀によると「データベース型世界」と呼ばれ、ここでは、小さな物語と大きな物語は直接的につながることはない。ポストモダンでは、大きな物語に代わってもはや物語に見えない、大きな非物語=データベースから適当に抜き出して組み合わせた小さな物語が生まれる。したがって、同じ大きな非物語からでも、いくつもの異なる小さな物語が出来てしまう。同じものでも、解釈次第で多様なあり方を示してしまう。世界全体が共感できるような大きな物語はもう消滅してしまう。
 このようなことを、「データベース」「動物的」「大きな非物語」「過視的」などのキータームを使って論じているのだが、本書全体を通読してみると、これまで作り上げた東浩紀自身の「データベース」から使えそうな用語などを取り出して適当に組み合わせたら書けた、という印象を受ける。ポストモダン的というか、オタク的と言ったらよいだろうか。
 もうひとつ気になる点は、これは「大きな物語」の終焉というポストモダン論の批判にも言われることだけど、本書でいう「データベース型世界」というモデルも一種の「大きな物語」になるのではないだろうか。結局、いまだ近代は終っていないのではないか、と思わせる。本書では、近代とポストモダンのモデルを図を使って説明しているが、二つがそれほど異なっていないのではないか、という印象を与えるのだ。
 最後に『YU−NO』というギャルゲーの分析をしているのだが、このゲームを東浩紀は「しかし筆者には、その空想こそが、大きな物語の凋落のあと、世界の意味を再建しようと試みて果たせず、結局はただ小さな感情移入を積み重ねることしかできない私たちの時代のリアリティを、独特の手触りで伝えているように思われる」と意味付けしてしまう。この意味付けする行為は、まさに「大きな物語」へと繋げる行為なのではないだろうか。要するに、ポストモダンを論じながら、実際の行為は「近代」的なのではないだろうか、ということだ。この点をどう処理したらよいのか、考えてしまう。
 そういうわけで、本書はまだまだ未完成という印象は拭えない。しかし、本書には論じ尽くされていない問題がたくさん残っていたので、今後を期待してみたい。

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他者との関係のなかで生きること

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 さまざまな<ホスピタブルな光景>と出会う旅。この旅を通じて、鷲田氏が見たのは、<弱さ>をもった人が逆に強い者を癒しているという、反転した関係だ。支えられなければ生きていけない人が、逆に支えている人を癒している。そんなケアとは何だろう、<弱さ>とは何だろうか。
  <弱さ>はそれを前ににすると関心をよびおこさずにはいられないという。
 「いまにも倒れかけているひとがいると、それを眼にした人の関心を引きだす。弱さが、あるいは脆さが、他者の力を吸い込むブラックホールのようなものとしてある。」
 こうして、人は<弱さ>を前にして他者の中に巻き込まれて(インヴォルブ)する。すると否応なく「じぶん」は他者に乱されてしまう。こうしてじぶんをほぐしていく。ガチガチに固まったじぶんをほぐすことができるという。だが、それが生きる力にどのように結びつくのか。
 他者との関係を見る時、じぶんは誰にとって他者であるのか、考えなくてならないという。他者の中でじぶんがどのような位置であるのか、それが確認できれば生きる力となるだろうという。このようなことはすごく納得できた。思うに、生きるということ、あるいはここにいるということは、それだけで他者を巻き込むことになるのではないだろうか。あるいは、他者と共にここにいるということは、他者に巻き込まれることにもなるだろう。しかし人は、そうしないと生きていけないのかもしれない。このような関係は、時に傷つけあうこともあるだろうし、へとへとに疲れてしまうこともあるだろう。これを本書では<まみれ>と言っているのだが、こうした<まみれ>から逃げないで、ここにいること。そうすることによって、「良い加減」とか「塩梅」「潮時」「融通」「適当」といった勘とかコツといったものを知るという。
 はっきり言って、本書に登場する<ホスピタブルな光景>に感動してしまった。いや感動というのは、相応しい言葉ではないかもしれない。何かに出会った時に咄嗟にでる「ああ」という感じ。それをとりあえず、感動とすると、それによって自分自身が揺さぶられていることを感じる。これも一種の他者との関係なのだろうか。

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ダメなものはダメなのだ

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 中原昌也の映画評論集。普通の映画評論集と違うのは、この本の中で取り上げられる映画は、ほとんどが陽の目を見ないと思われるものばかり。言ってみれば、どうしようもない出来損ないの映画かもしれない。
 それにしても、よくまあ変な映画を見ているなあと思う。だけど、どうしよもないダメな映画を語る中原昌也はすごく饒舌だ。その語り口が面白い。たとえば、ナスターシャ・キンスキーについて、個人的な思い入れをこんな風に語る。
 「話はそれるが、『ターミナル・ベロシティ』のナスターシャ・キンスキー、略称ナタキンは本当に素晴らしい。本当にぼくはナタキンが好きだ。ナタキンという略語自体も好きだ。何度書いても飽きない。ナタキン、ナタキン、ナタキン。そうするとナタキンの美しい笑顔がはっきり浮かんでくる。」
 こんなふうにして、何度も「ナタキン」という言葉が出て来る。本当に好きなんだな、ということが分かる。でも「ナタキン、ナタキン、ナタキン」と略称を何度も続けて書いているのを見ると、なんだか可笑しくなってくる。
 他にもいろいろ語られる、中原昌也自身のエピソードが実は映画よりも面白い。ダメな映画を語りながら、そのダメな映画を見ている自分を語っているのだ。この本は、そんな中原昌也を楽しむのが一番かもしれない。

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