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レビューアーランキング
先月(2017年8月)

トシ さんのレビュー一覧

投稿者:トシ 

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本将棋の子

2002/02/11 18:42

敗れ去った夢は何をもたらすか

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 将棋に青春の全てを賭けそして挫折していく若者を取材したノンフィクション。講談社ノンフィクション賞を受賞している。僕はそのテーマに個人的に興味があった。10代から20代のほとんどを将棋に打ち込んだ若者たちがプロになれず、20代後半に社会に身一つで投げ出される。将棋に青春のほとんどを奪われた彼らの心の中で、将棋はいったいどのようなものとしてその痕跡を残すのだろうか。苦々しい記憶としてか、それとも懐かしい思い出としてか。その答えはこの本の終わりあたりに書かれているが、そこから感じられるのは、生きていく人間の気高さ、とでもいったものだろう。「将棋はそれをやるものに何かを与え続けるだけで、決して何も奪いはしない」という著者の言葉が印象的。決して心の強いとはいえない優しい青年が、過酷なばんえい競馬が好きだったというエピソードも何ともいえず共感できる。夢を追うという行為がどれほど人を鍛え、気高い精神をもたらすかということ、もちろんそんなものは客観的にはたいした価値のないものと見なされてしまいがちなのだが、それを描いたこの本はいい本だと思う。

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紙の本1973年のピンボール

2002/01/15 00:07

双子の女の子とピンボール

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 村上春樹の初期3部作の2作目(他は『風の歌を聴け』、『羊をめぐる冒険』)。3部作の中では印象の薄い作品だったが、改めて読み返してみて、その構成といいモチーフの使い方といい、とてもうまいと思った。双子の女の子や、ピンボールなどの素材が主人公の心の状態を表すのにうまく使われている。とくにピンボール研究書の引用などはとても面白い。もともと村上春樹はそのものずばりをストレートに表現するのではなく、ちょっと奇妙とも思われる素材を使って暗喩的にそれを浮き彫りにしていくような書きかたをする。この小説ではそのような表現によって主人公の心の深い欠落感をうまく描かれているように思う。

 二十歳過ぎのころに3部作を読んだとき、僕は作品に漂う虚無感をクールでかっこいいと思った。主人公の生き方をスマートだと思った。しかし勿論、これらの作品に描かれているのはそんな底の浅いニヒリズムではない。「人間はみんな腐っていく」といった考えは時には(若いときには)かっこよく響くが、それを本当に実感した者には恐怖であろう。ユーモアとは、解決できぬ問題を抱えて生きていかなければならないときに、自分自身との距離をとることによりダメージを防ぎ、スルリとかわしながら付き合っていく技術である。この小説にも村上春樹独特の比喩表現が多数でてくるが、実際あまり面白くない。面白くないけれども、そのような喩えやユーモアはこの小説の中心にある暗闇を間接的に浮き彫りにしている。

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8歳児のことば

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 脳障害の8歳児が一字一字文字盤を指差してつづった本。この本を読んで驚かされるのは、8歳児が書いたとはとても思えないような文章だ。少なくとも大学生レベルのボキャブラリを駆使しており、古文調の詩や、仏教的な達観した思想をも語っている。いったいどうして8歳児がこの文章をかけたのか。この日木流奈という子供への興味で僕はこの本を読んだ。

 日木流奈は、生まれながらに言葉が話せず這うこともできない。それだけならまだしも、「てんかん」や白内障などを併発して苦痛にさいなまれ、また薬の副作用により意識が朦朧とするなど、通常に考える身体障害者の域を超えている。言葉によっても行動や態度によっても自分の意思を示せないという状況。自分という存在を認識されないという苦痛。この本にはそのような存在の不安や、「私を見て」という心の叫びが綴られている。普通の子供なら経験しないようなこんな試練が、この子を老成させたようだ。それは次の詩によく現れている。「私は花になりたい/蝶が蜜を吸いに来てもだまって吸わせ/人が切りに来てもだまって持って行かせ/静かな気持ちでいきてゆきたい(後略)」

 この境地が、彼の境遇の中で彼自身が獲得したものであることは、この本を読めば納得できる。初めの初めから沢山のものをあきらめなければならなかった彼は、彼なりに本当に大切なものが何なのかを身にしみて理解したのだろう。普通はそれは人生の半ばで挫折を経験して獲得するものなのだろうが。
 彼がそうできたのには、ご両親の存在が大きかったようだ。生まれたばかりで苦痛にさいなまれていたころ、母に抱かれている間だけ辛くなかった、と彼は言っている。「母の来ない日は、再び私を感じることが出来なくなり、ただ辛く孤独だった」 体が不自由だったために逆に純粋な愛情を注がれたかれは、普通の子供よりある意味で幸せだったし、そのことを知っていた。

 日木流奈は、この本で大人のエゴや環境問題、無償の愛についても語っているが、一見「ませた」と思われるこれらの文章も、この本を通してよめば、真実の言葉として響いてくる。

 彼がこれからどのような大人になっていくのか。5年後、10年後に書く文章を僕はぜひとも読んで見たいと思った。

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紙の本流しのしたの骨

2002/01/27 19:04

江國的(?)視線と感性にあふれた作品

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 女の人の書いた小説をあまり読まないせいだろうけれども、江國香織の小説は僕にはとても新鮮な感覚を与えてくれる。ものごとを見る視線というのがとにかく僕はもっていない視線なのだ。女の作家でも、柳美里や田口ランディなどはどちらかというと観念的に書く部分があるので僕としては馴染みやすい。しかし江國香織は観念ではなくもっと感覚的なところで書いていて僕の感覚とのズレというのがとても面白いのだ。
 たとえばこの本では母親と子供たちが午後にお茶を飲むシーンがたくさんでてくる。「母の入れるコーヒーはとても濃い。だから私はすこしずつ、ゆっくり時間をかけて飲む」などという描写。お昼にゆっくりお茶を飲むなんて僕はいつからしていないのだろうか。しててもそんなこと僕には心に残らないような気がする。でも江國香織はこういうところから描いていくのだ。僕にはそういうところが新鮮で、それでいて少し懐かしいような好ましい気分にさせてくれる。

 この本は、ある家族におこったいくつかの出来事を描いたものだが、全体としてのストーリー展開が明確にあるわけではなく、それぞれの人物とその家族のありようそのものを描いている。この家族は母親も、子供たちもそれぞれ少し変わっている。でもそれは決してエキセントリックなものでも、屈折したものでもなく、とても自然なものだ。外から見れば変わっているが、本人たちにしてみれば当たり前のことなのだ。そういう人たちの素直なありようや、そんな個性的な人たちが衝突することもなく互いに認め合って暮らしているこの家族のありようの面白さ、好ましさ、さらにはそういう人達に対する江國香織の暖かい視線がこの小説の面白さだろう。

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