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yukkiebeerさんのレビュー一覧

投稿者:yukkiebeer

913 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本夕凪の街 桜の国

2005/07/15 07:15

英語・仏語・中国語・露語…、核保有国の言葉に翻訳されることを強く希望します、

25人中、25人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最後のページを閉じたときに、しばらく言葉を失ってしまいました。三つの短編によるこの連作集について、いくばくか気のきいた感想めいた言葉をひねり出そうにも、そんな賢しらな行為を受けつけない力強さがそこにありました。

 核を生産し、いつでも使用可能な状態に置く国々が想像できるのは、自分たちの兵器がおそらく何十万人という「数」の命を瞬時に滅することができるという「能力」や「機能」のことがせいぜいでしょう。
 ですがこの作品の中に描かれているのは「数」にまで落とし込むことができるような命ではありません。ひとりひとり顔があり、喜びや悲しみ、そして歴史を抱えた固有の人々です。
 戦争が本当に切断しているのは人間の手足ではなく、家族の絆なのです。

 そして「ヒロシマ」は1945年の8月6日に「ピカ、ドン」という二言を口にするほどのわずかな時間で完結したわけではありません。今も「ヒロシマ」が終わっていないということを世界の多くの人々は知らなかったり忘れていたり、そして意図的に目をそらしています。
 ですからこの短編集はあえて「あの日」を描かず、1955年から2004年という「『あの日』に続く日々」を描いて、終わりなき悲劇を読者に差し出しているのです。

 「マンガ」は「良識ある」とされた社会との長く激しい葛藤の末にようやく市民権を得ました。そして今やすぐれたメディアとして日本が海外へ情報発信するツールにまで成長しています。
 「ヒロシマ」を「マンガ」で描く。それは、日本だかこそ出来ること、そしてまた日本こそがしなくてはならないこと。そう私は信じます。
 こうの史代という優れた作家と、彼女を後押しした双葉社。メディアに携わる人々の勇気を感じます。

 この作品が外国語に移し替えられて一人でも多くの読者の手に届くようになればと願わずにはいられません。

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奇妙奇天烈な爆笑エピソードの向こうに見えるもの

22人中、21人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 外国人に日本語を教えることが生業(なりわい)である著者と生徒たちの摩訶不思議な爆笑体験談を、プロのイラストレーターがおちゃめな漫画にしたコミックエッセイです。
 いやぁ、笑ったのなんのって。半端じゃないおかしさです。

 日本の任侠映画が大好きというフランス人マダムは、映画のセリフで覚えた珍妙な日本語で、自分のことは「姐(あね)さん」と呼んでくれとのたまいます。
 時代劇大好きのスウェーデン人娘は、人間は一匹、二匹と数えると思い込んでいます。彼女いわく、「だって“男一匹”っていうじゃない」?!
 そんな、噴き出すこと間違いない逸話が満載で、電車の中で読んだりしたら挙動不審者と思われかねないので注意が必要でしょう。

 しかし、抱腹絶倒のエピソードを読みながらやがて気づくのは、著者の生徒たちがいたって勤勉で、実に懸命に日本語をマスターしようとしていること。そしてまた、彼らの使う日本語は、文法的には何も誤りはなく、実際に文法書や教科書に書かれていて、確かに映画やテレビドラマの登場人物たちの中にはそんな日本語を使っている人を見かけることはあるのだけれど、でも言語のTPOという観点からいえばやっぱりおかしくて、それを見極めるのは言語学習上、至難のわざだということです。

 そしてわが身を振り返ると、例えばこの本に書かれている日本語の敬語を、TPOをきちんと見極めて使うことができているかというと、なんとも心もとない気持ちに襲われます。

 時と場所と場合に応じて言語を使いこなすことのむずかしさを、たとえ外国語ではなく、自分が空気のように慣れ親しんできた母語であっても、もっと強く意識したほうがよいのではないか。そうすることで、より豊かな言葉の使い手になれるのではないか。
 「日本人の知らない日本語」というタイトルのこの本が、笑いの中に描こうとしているのはまさにそのことなのではないかと感じた次第です。

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紙の本わたしのいもうと

2004/11/27 09:15

小学生低学年向けとありますが、それだけではもったいない

16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書が生まれたきっかけは、童話作家・松谷みよ子氏のもとへ寄せられたある一通の書簡でした。それは、小学生の時の転校を契機にいじめの標的とされてしまった妹について、ある女性が綴った想い出でした。

 反戦を静かに語る「平和のために」という大きなテーマ設定の絵本シリーズにこのいじめの物語が含まれた理由は、「差別こそが戦争への道を切り拓く」という思いがあったから、とあります。いじめとはまさに差別のもっとも原初的な現れですが、実際にそうした視点でいじめの問題を見つめている人が決して十分に多くはないことを、今更ながらに指摘しているのが本書の重要な点です。

 妹に対して、自室にこもってしまうほどに苛虐の手を加えていた子供たちが、加害者としての自覚もないまま当たり前のようにして中学生、高校生となっていく。自分たちが生きていたことが、他の誰かの人生を大きく左右してしまうということの深刻さには思いが至らないのです。

 この子らに決定的に欠けているのは、「想像力」です。自分以外の誰かの心は見ることができないからこそ、その「目に見えないものに思いを馳せる力」が人間には求められます。犬や猫にはおそらく備わっていない、人間にだけ許されているはずのこの「想像力」が欠落した人間が、いかに容易に容赦なく暴走することが出来るかについて、この絵本は静かに、そして厳しく問うているのです。

 本書は1987年に出版されたものですが、ここに描かれている事柄は残念なことに17年を経ても好転しているとはおよそ言えず、それどころかむしろ苛酷化しているといえます。
 私たちは前に一歩も進んでいない、進むことはもう望むべくもない、ということなのでしょうか。

 少しでも前進できるように、多くの子供たちが本書を手にすることを願うばかりです。

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紙の本牛を屠る

2009/12/05 22:29

屠殺という特殊な世界の物語というよりは、働くということを見つめた書として読んだ

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は1990年から11年間、著者が埼玉県の屠殺場に勤務した日々を振り返った記録です。

 著者は北大を出て出版社に入社するも上司と対立して退社。職安を通じて見つけた転職先が屠殺場であったということです。
 入社初日に古株の先輩に「ここはおめえみたいなヤツが来るところじゃねえ」といきなり怒鳴られ、技術も経験も体力もないまま家畜を屠るという精根尽き果てる業務に携わることになります。
 しかしやがて著者は、先輩の指導を受けながら、少しずつこの仕事に自分なりのやりがいを覚えていくのです。

 少なくとも著者が働いた屠殺の世界の内側は、著者自身も入社前に思っていたような、世間からの差別や偏見に苦しむ慎重を期すべき業界ではなく、どんな労働も理想とすべき、働く喜びを与えてくれる場所であったようです。

 著者はこう記します。
 「誰でも実際に働いてみればわかるように、仕事は選ぶよりも続けるほうが格段に難しい。そして続けられた理由なら私にも答えられる。屠殺が続けるに値する仕事だと信じられたからだ。ナイフの切れ味は喜びであり、私のからだを通り過ぎて、牛の上に奇跡を残す。
 労働とは行為以外のなにものでもなく、共に働く者は、日々の振る舞いによってのみ相手を評価し、自分を証明する。」(115頁)

 著者が屠殺という職業に感じた手ごたえは、家畜に当てたそのナイフにかかる手ごたえのように重く、そしてまた敬意を払うべき対象として心に残ります。
 
 労働を通して喜びを得、さらには人として成長する。著者の暮らした屠殺の現場にはそれがありました。
 そうした貴重な記録として私は本書を読み、そして同時にまたそれは、自らの労働を少し苦い思いと共に振り返る読書ともなりました。

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紙の本英単語イメージハンドブック

2009/05/02 11:14

中高生とその英語の先生たちにぜひ一読をお勧めしたい

16人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 「ハートで感じる英文法―NHK3か月トピック英会話 (語学シリーズ)」の大西泰斗 東洋学園大教授とポール・マクベイ麗澤大教授のコンビによる最新刊(08年10月刊)。ただし巻頭にあるように、これはこれまで著わしてきた、「イメージで英語をとらえる」学習書のダイジェスト版です。基本的にはこれまでの著者の本の焼き直しでしかありません。
 しかし、この二人の著作を未経験の読者には掛け値なしにお勧めできる一冊です。幅広い英語表現についてイメージ図とともに実に巧みに解説してくれます。

 例えば現在完了形について、私自身も中学の英語授業では「その用法は完了・経験・継続・結果だ」と刷り込まれたものです。しかし、「経験」と「結果」が英語ではなぜ同一の形で示すことが可能なのか、日本語で考えても無理がありました。授業外で手にした参考書で、現在完了形は過去に起こったこと/行ったことが現在になんらかの形で作用していることを示していると学び直したものです。
 本書は、現在完了は「グッと迫ってくる」「手元で感じる」形をイメージせよと薦めます。なるほどそういう簡明平易な教え方があったのかと感心します。

 過去形は「遠く離れているイメージ」。だからこそ、「現実離れした遠いイメージ」を伴って仮定法過去形にもなるし、「強い主張ではなく少し距離をとった」丁寧表現にもなりうると説きます。
 進行形が示すのは「躍動感あふえる行為の真っ最中」。だからマックのCMが言う「I’m loving it.」は文法的に誤りではなく、「これ好きなんだよなー」とハンバーガーにかぶりついているシーンを目に浮かべるべきだと言います。

 なぜ仮定法は過去形を用いるの?英語とはそういうものだと暗記しなさい。そんなやりとりがおそらく私の中学高校の授業でもあったのでしょう。釈然としない思いを抱きながら知識を詰め込むことのむなしさにも思いが至る書でした。

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紙の本アルフォンス・ミュシャ

2005/09/10 21:47

色あせない美しさをたたえた画集

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

16年前、実はこれがテニス・プレイヤーのイワン・レンドルの蒐集作品集だとは知らずに購入しました。なにしろ書店の棚で最初に目に入った背表紙には「アルフォンス・ミュシャ ALPHONSE MUCHA 講談社」としか書かれていませんし、おまけに表紙カバーにも「THE IVAN LENDL COLLECTION」と、さほど自己主張するでもないサイズのアルファベット文字が記されているだけ。どこにもイワン・レンドルの名を借りて売らんかなという下心はさほど見られなかったのです。

 しかしそれにもかかわらず本書を迷うことなくレジへと持っていって2060円(当時の税込み価格)を支払ったのは、やはり掲載されている作品群がまさに傑作ぞろいだからです。見ていて溜息が出るような絵ばかり。
 そして16年たった今も、さすが日本の印刷技術は世界の最先端を行くだけあり、私の手元にある89年版第9刷の図版は全く色あせることなく今に至っています。

 本書は19世紀末から20世紀初頭にかけてミュシャが生み出したおよそ100点のポスターを掲載しています。
_ そよ風の涼やかさをも感じとれる淡い色調。肌のやさしさを感じさせる均整の取れたボディライン。浮世の憂さとは無縁の慈愛に満ちた面立ち。細部まで手を施した装飾的衣装の数々。
 ミュシャの描く若き乙女たちはそのいずれもが、見る者を夢見ごこちにさせてくれるのです。

 大学時代から山のように本を購入してきて、とうとう置き場に困ってその大半を古書店に引き取ってもらいましたが、この画集だけは今も私の手元にあります。手放すには惜しい美しさをたたえた本書を、おそらく私はこの人生が果てるまで所有し続けることでしょう。

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紙の本噓つきアーニャの真っ赤な真実

2006/10/09 08:11

政治に翻弄された少女たちを通じて描く、見事な東欧現代史

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1960年代、マリはプラハのソビエト学校に通う日本人少女だった。同級生の中でもとりわけ仲がよかったのは3人の女の子たち。共産主義者の親とともに亡命してきたギリシア人のリッツァ。ルーマニアの外交官の娘アーニャ。そしてボスニア・ムスリム系ユーゴスラビア人のヤスミンカ。本来ならば無邪気で無垢な少女時代を送るはずの彼女たちは、鉄のカーテンの「向こう側」に身を置く者の宿命として、大人たちの政治的思惑とともに生きざるを得なかった。
 そして90年代、東欧を一気に襲った民主化の大きなうねりの後、マリは3人のその後を訪ねて歩くことにした。3人の旧友たちはどんな大人になっていたのか…。

 今年5月に亡くなった米原万里氏の著作を私が手にするのはこれが初めてではありません。しかし残念ながらこれ以前に触れた書は、どうにも露骨な下ネタが多くて、おもわず引いてしまうようなものが多く、本書も食わず嫌いなままきてしまっていました。

 しかしこの大宅壮一ノンフィクション賞受賞のエッセイは違いました。1960年代にプラハのソビエト学校で机を並べた3人の個性的な同級生たちのその後を通して、現代東欧民衆史を鮮やかに切り出してみせる名エッセイです。「アーニャの嘘」に隠された真実を追う過程は、日常のささいな謎を解き明かしていく北村薫のミステリーを読むような高揚感と、真実の持つ悲しさとを味わわせてくれます。

 ですが、30年近い時を経て知る旧友たちの真実は、それでもまだ確たる真実とはいえないのかもしれません。ひとつのものをある一方向から見たものでしかないのかもしれない、というやりきれなさも感じます。アーニャの一家のその後の経緯をどう見るか、真実はひとつであるはずなのに、兄のミルチャの言い分、アーニャの母の言い分、そしてまたアーニャ自身の言い分はまるで違います。彼ら家族は互いに心にわだかまりを抱えて今を生きています。過去において共産主義とどう向き合ったのか、その度合いによって生まれた心の亀裂は、共産主義が終焉した後も決して埋まりません。

 家族を引き裂いたまま共産主義は去っていったということを、痛ましくも感じさせる少女たちの物語です。
 確かに名著です。

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紙の本教室はまちがうところだ

2004/11/27 09:23

あの頃この詩に出会えた人生に感謝したい

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1974年(昭和49年)4月、私は名古屋の小学校の5年生でした。新しい担任の河井龍雄先生は新学期を迎えるにあたって、長文の詩を書いた横長の模造紙を私たちの教室に貼りました。その詩の題名は、「教室はまちがうところだ」。
 きちんと生きること、正しくあることを日々言われて育った10歳児の私たちにとって、あたかも悪魔のささやきであるかのような題名をもったこの詩はとても大きな驚きを与えるものでした。

 私たちはこの詩を毎日眺めながらその後の2年間を生きました。自分の発言が間違っていたらどうしよう、友達に笑われたらどうしよう、と臆すことばかりが身についてしまっていた私たちは、この詩に勇気づけられるように教室の中で数え切れないほどの<間違い>をしていきました。自分の思ったこと、考えたことを皆が積極的に発言していく中で、他人の考えを尊重するということの意味を知り、そして私たちはほんのちょっぴり成長して小学校を卒業したのです。

 他人の目を気にすることと、出る杭は打たれるということばかりを賢(さか)しらに学びながら生きる日本の子供たちにとって、この詩がもたらす福音は計り知れないのではないでしょうか。
 私も、そしておそらく私のかつての級友の多くも、その後の人生で折りに触れてこの詩が教えてくれた勇気を思い返して生きていると信じます。

 あれから30年。今年、私たちの担任だった河井先生は定年退職をされ、同時に「教室はまちがうところだ」が楽しい絵本になったことを知りました。縁(えにし)というものを感じないではいられません。

 言葉で編み上げた作品が、読者の人生を大きく方向付けることがあります。私たちにとってそうした力をもった作品のひとつがこの「教室はまちがうところだ」です。
 だからこそこの詩と引き合わせてくれた担任の先生と、この詩に巡りあえた自分の人生に感謝をしたいのです。

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確かに「なるほど!」と膝を打つ、英語らしい英語を書くための有益情報が満載

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 日本の大学に留学し、その後この国で家庭を築いて暮らすことになったアメリカ人と、アメリカに留学して英語と英語文化を吸収してきた日本人とが、共同執筆した一冊です。
 日本人の書く英語のどこに“日本人くささ”が残るのか、そして英語のネイティブスピーカーのような英文を書くにはどうするべきか、15項目にわけて綴った指南書です。
 タイトルにある「なるほど!」という言葉が過大表現ではない、まさに「なるほど!」と膝を打ちつつ読み進めました。

 まずは何といっても英文の主語の選択ひとつで“日本人くささ”が出るか出ないかが決まります。日本語に引きずられてどうしても生物だけを主語にしたがる日本人が書く英語は、無生物を主語にすることが頻繁にある英語の文章とはかけ離れてしまいがちです。
 「ここから市役所まで車で5分です。」という文章を英訳する際、日本人の多くが「It takes」と始めがちでしょう。「A five-minute drive will take you to City Hall.」といった英文が書けるかどうか、それが分かれ道というわけです。

 また、自分に都合のよい知らせは一人称を主語に、都合の悪い情報を伝える場合は第三者を主語にするというのも、言われてみればとても頷けます。
 「Thirty-minute pizza delivery may not be possible due to heavy traffic.」などはまさに都合の悪い情報を伝えるために第三者を主語にして書いた“英語らしい”文章です。

 否定の意味を持つ文章をnotを使わずに書くと、短くて自然な英文になるというのも納得です。
 not likelyと書くかわりに unlikelyと、また not satisfied ではなくdissatisfiedとするほうが英語らしいというのです。did not provide よりもfailed to provide、 did not stayではなく leftとする、というのも同様に自然な英語に聞こえるといいます。

 仮主語のItも使わないほうが無難とのこと。It is thought that~ とするよりもThe brain is thought to have~というほうが良いというのも有益なアドバイスです。

 書かれていることはどれもみな、これなら自分でも出来そうだというものばかり。 
 明日から本書に書かれていることをぜひとも実践していきたいと強く思いました。

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そして日本はアメリカとどう向き合うべきかを今一度考えるべき一冊

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 アメリカという善がナチスという悪を倒した---歴史教科書が与えるそういう勧善懲悪の構図をひっくり返す一冊です。政治スリラーを読むような知的興奮を覚える書ですが、心胆を寒からしめる国際政治経済の現実を見せつけられます。

 本書によればそもそもは第一次世界大戦後、戦場とならなかったアメリカの余剰農産物の受け入れ市場としてヨーロッパが大きな意味を持っていて、イギリスの保護貿易主義、あるいはソビエトの共産主義への対抗策としてドイツの存在が重要であったということです。政財界が足並みをそろえてナチズムを必要としていて、まさに敵の敵は味方の言葉の通り。国益のためにはアメリカは独裁政権だろうが全体主義だろうが貪欲に味方につけていくというプラグマティズムに則って行動していた様子がひとつひとつ明らかになっていきます。
 アメリカ国内の平和反戦グループにも、ドイツが戦場となることを避けたいと考えるヒトラーに近いドイツ経済界から資金援助がされていたなど、驚愕の事実がいくつも出てきます。

 こうしたナチスを国益のために利用するというアメリカのプラグマティズム的手法は、第二次大戦後も反米的な国々での工作活動を行なう上で大いに活用されたこともつまびらかにされます。中南米政策や、イスラム圏における反ソ政策などにおいて、イランやビン・ラディン、ムジャヒディンという今やアメリカの大きな敵となった勢力に当時アメリカから経済的な支援活動が行なわれていたのです。

 著者自身が最後に語るように、本書を読む上でもっとも重要なのは、アメリカの汚れた手を糾弾することではなく、そうした現実外交をずっと続ける巨大な国家を日本は相手にしているということを認識すべきだということでしょう。
 日米は緊密な同盟関係にあると無邪気に安心している場合ではない。新たな危機意識が真に必要とされているという警告の書として読みました。

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「葉桜」のいわんとするところに気づいたとき、書の中に自分の姿を見た気がする

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

元私立探偵の成瀬将虎は、フィットネスクラブ仲間の愛子から調査を依頼される。「うちのおじいさんの交通事故死は、高額商品を売りつける悪徳商業集団の仕業かもしれない」と話す愛子。その謎を追って奔走する成瀬…。

 開巻一番、「射精したあとは動きたくない」という鋭く突き刺さすような文章が待っています。主人公・成瀬は悪びれることなくセックスにあけくれる日々を描きながら、人生を大いに楽しみつくすという意気込みをもって毎日を生きている、まさにバイタリティ溢れる男です。
 そんな彼が一人称で語るお話の筆致はやんちゃで猪突猛進的。その勢いにぐいぐい牽引されるようにページを繰ってしまいました。読み進める間一度として飽きることなく時間を過ごすことのできた書です。

 そして物語の最後に待ち受けていた、あっと驚く真相を前に、私は言葉を失いました。
 良く似た展開に乾くるみの『イニシエーション・ラブ』(原書房)がありますが、あれに比すれば本書「葉桜の季節に…」のほうが私自身の思い込みや偏見といったものをものの見事に突きつけられた気がします。頭をかきながら自らの不明を恥じる思いをしました。

 そしてまたタイトルにある「葉桜」の意味するところ---読んでいる最中には特段気に留めることもなく、せいぜい気取った書名だなという程度にしか思いが至らなかったのです---が最後に明かされて、書を閉じた後に自身の来し方と行く末に思いを馳せずにはいられません。
 私はどんな「葉桜」の季節を迎えるのだろうか。
 書の中に自身の今の姿や今後の人生における指針を見出したとき、読書の楽しみはこの上もなく高まるものです。本書はまさにそんな喜びをいっとき与えてくれた愉快な書といえる一冊です。

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誰かにプレゼントしたくなるハードカバーマンガです。

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 スペインのマンガ家パコ・ロカの長編『皺』と中編『灯台』の2編を収録した書です。

 『皺』はアルツハイマーを病み、息子夫婦に施設に入所させられたエミリオと、その施設で同室となる老人ミゲルを中心とした物語です。
 現役時代は銀行員としてならしたエミリオが周囲も自分自身も理解できなくなり、大切な記憶すら拭ったように失って行く…。

 激しいアクションがあるわけでも、心躍るロマンスが描かれるわけでもありません。強い意欲とたぎる闘志が迫ってくることもありません。老いと病という、避けがたい人間の常を淡々と描く作品といえるでしょう。
 傘寿に近い親を持つ私にとっては、やがて来るかもしれない両親の姿を重ねながら、気が重くなる恐怖のようなものを覚えるとともに、裏寂しく悲しい気持ちを強く感じる物語です。

 『灯台』はスペイン内戦時代が舞台の物語です。
 共和国軍青年兵フランシスコは敗走中に灯台守の老人テルモに助けられる。テルモはラピュータ島という平和の地を目指して船を作っている。フランシスコは不思議なテルモにひかれ、一緒に島を目指すことにするのだが…。

 国を二分し、友人同士が銃を向け合い、肉親同士が骨肉相食む争いを繰り広げた内戦。ファシズムの勝利を止めることができず、共和国派が夢と希望を失った時代にあって、それでもテルモとフランシスコは一種荒唐無稽ともいえる平和島ラピュータを目指して力をあわせます。それは何かを信じなければ生きていけないあの頃にあって作り出した妄想の世界なのか、それとも…。
 結末がなんとも悲しいと同時に、とてもイカしているという、相反するふたつの感覚を与えてくれる不思議な作品です。生きる上で何かを信じることが欠かせないことをこんな粋な形で見せてくれるとは。

 これほど素敵なマンガがヨーロッパ大陸の西のはずれの国で息づいていたとは思いもよりませんでした。

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紙の本虐殺器官

2010/08/08 18:41

読了直後、言葉が出ないほどの衝動を受けた。作者の夭折が惜しまれる傑作。

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 米軍大尉クラヴィス・シェパードはある男の暗殺を命じられていた。インドやアフリカといった内戦地域で大規模虐殺の種子を蒔いている米国人ジョン・ポールだ。当該地域の人々に憎悪と殺戮の念を植えつける上でポールが利用するのは、人間が持つ“虐殺器官”であった…。

 
 緻密に構築した近未来の世界を舞台に著者が描くのは、人間社会を大きく突き動かしていく力を持った言語の姿です。
 作者はサピア=ウォーフの法則や、チョムスキーの生成変形文法を模したかのような「脳に刻まれた言語フォーマットのなかに隠された混沌を示す文法」などの言語学風言辞を駆使しながら、人類を戦争へと駆り立てる駆動力を言語の中に見出そうとしています。
 思えばオーウェルの「1984年」もニュースピークなる綿密に操作された言語が近未来の人間の思考の筋肉を弛緩させていく様をグロテスクに描いていましたし、事実ナチスドイツがいかに言語を緊縛しながら国民を戦争に駆り立てていったかについてはヴィクトール クレムペラーが「第三帝国の言語「LTI」―ある言語学者のノート」で明らかにしています。
 私は「虐殺器官」を、オーウェル的な言語と戦争の系譜を新しい形で受け継いだ小説として大変興味深く読みました。

 しかしこうした戦争を生む力を孕む言語はまた一方で、だからこそ戦争を抑止する力もあわせ持つはず。そんな希望に満ちた信念が作者・伊藤計劃の脳裏にはあったと私は感じるのです。

 「文明は、良心は、殺したり犯したり盗んだり裏切ったりする本能と争いながらも、それでもより他愛的に、より利他的になるよう進んでいるのだろう」(382頁)。

 シェパードの胸に灯るこの希望を支えるのが言葉であり、畏敬の念をもってその言葉と対峙することが出来るとき人は真に平和を実現できるのではないか。
 テロの時代に生きる私たちにとって、この小説が提示する理念に心震える思いがしたのです。

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紙の本ルリボシカミキリの青

2010/05/30 12:47

読み急ぐことが惜しまれる日本語に触れられるエッセイ集

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 週刊文春に連載されたエッセイ70本を再構成した一冊です。文春誌はたまにしか手にすることがありませんが、手にする機会があれば必ず読むのが福岡ハカセの連載エッセイでしたから、こうした形でまとめて読むことが出来るのは大変うれしいことです。

 『生物と無生物のあいだ』、『世界は分けてもわからない』とハカセの二つの前著を手にしたとき、その美しい文章に大変感銘を受けたものです。この『ルリボシカミキリ』は短い随筆文を集めたものですから一編一編は短時間で読めるものですが、読み急ぐことが惜しまれる歯ごたえとコクのある日本語に私は、またしても魅了されました。

 昆虫少年であった頃、長じて生物学を修めるにいたった若き研究者時代といったハカセ自らの思い出や、2000年代後期の社会事象(臓器移植法の改正、相次ぐ日本人のノーベル賞受賞、ハイブリッドカー、狂牛病、洞爺湖サミットなどなど)を、生命を見つめ続ける学者の視点から綴っています。その興味と好奇心の幅の広さに驚き、そしてそれぞれの事象を見るにあたって提供される思いもよらない新鮮な視点にもまた魅せられるのです。

 私がもっとも強い共感とともに読んだのは「一九七〇年のノスタルジー」。
 私はハカセよりもわずかに年齢が下がりますが、それでもかろうじてあの年に大阪で開催された万国博覧会に出かけた思い出があります。
 ハカセはこの一編で「懐かしく思う」ことの正体を自己愛であると看破し、そしてその思いが人を慰撫することもあれば、時にひとの足をすくうこともあると綴ります。ハカセの冷静な平衡感覚に、『生物と無生物のあいだ』にあった「動的平衡」というキーワードの片鱗を見た思いがします。

 週刊文春の連載はまだ続くようです。また時期がきたところで続編の刊行がされることを楽しみに待ちたいと思います。

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紙の本運命のボタン

2010/05/29 10:06

リチャード・マシスンの紡いできた二つの恐怖

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 1950年代から70年代にかけて書かれたリチャード・マシスンの幻想的ホラーの中短編を13作品集めた日本独自のアンソロジーです。
 
 まずなんといっても喜ばしいのは、表題作(原題Button, Button)が邦訳で読めること。
 本書巻末の解説で編訳者の尾之上浩司氏が記すように、マシスンの短編集『激突!』(ハヤカワ文庫 NV)の巻末解説の中で「(編者の)小鷹信光氏がこの内容を凄みたっぷりに紹介して」いた作品です。私も中学生のときに小鷹信光氏の紹介だけで震撼させられたことを強く記憶しています。
 1979年に日本版≪プレイボーイ≫に邦訳が掲載されていたとはいえ、---今回本書に収められた翻訳は、この≪プレイボーイ≫掲載版の転用だとか---中学生が手にすることなどかなわず、全編を読んでみたいと悶々とした思いを味わったこともまた、よく覚えています。

 以来、30年以上の歳月を経て、こうして中学生でも手軽に手にできる文庫の形で邦訳が読める日が来るとは思いもよりませんでした。キャメロン・ディアス主演で映画化されたことの副産物とはいえ、大変うれしいことです。

 そしてくだんの「小鷹信光氏の紹介」によってあらましストーリーは分かっていたとはいえ、『運命のボタン』の、実にマシスンらしい強烈な恐怖を伴う結末に、今の私はやはり震えあがったのです。

 ディアス主演の映画は見ていませんが、本書解説にある80年代のテレビシリーズ『新・トワイライトゾーン』で映像化された際のものを手元にあるアメリカ製DVDで見直してみました。
 原作者マシスンはそのオチの違いに対して「製作スタジオには、他人の脚本をいじってダメにする連中がいる」と嘆いたといいます。確かにテレビドラマ版の結末はマシスンがどういう作品世界を紡いできたかについて全く理解していない人たちが作ったものであることを如実に表しています。

 小説とテレビドラマ版との結末の違いをここでつまびらかにすることは避けますが、マシスンの描いてきた恐怖には二種類があり、そのひとつは<他人(ひと)を完全に理解することはかなわない>という絶対的孤独が与える恐怖です。テレビドラマ版ではその恐怖が描かれることはありませんでした。小説『運命のボタン』の結末が人々を凍りつかせるのは、まさにこの<理解できているはずの他人を理解できていない>という現実をつきつけられるところにあるにもかかわらず。

 本書の最後に収められた『二万フィートの悪夢』もまた同じ部類の恐怖を描いた物語といえるでしょう。
 この短編が与える恐怖のみなもとは、飛行中の航空機を墜落させようとするグロテスクな怪物の存在そのものよりも、その怪物を目撃した主人公の言葉を乗客や乗務員が誰ひとりとして信じてくれないという孤独感です。理解の力が届かないことの恐怖がここでも描かれているといえます。

 『死の部屋の中で』の主人公の妻が味わう恐怖もまた同類のものです。

 他人を理解することが絶対的にかなわない世界とは、他者との間に理解という名の温もりを絶たれた絶対零度の世界ともいえるでしょう。そこに震えあがる恐怖を感じない読者はいないはずです。

 そしてマシスンが与えるもうひとつの恐怖は、<自分が誰であるか、実は本当は理解できていない>というもの。自らが拠って立つと強く信じてきた足場が突如として崩れ、底なしの穴へと落下していく恐怖です。
 本書所収作品でいえば『針』、そして『帰還』の二編がこの恐怖に貫かれた作品といえるでしょう。
 足場の崩れは、単なるアイデンティティー・クライシスといったものとは質が異なります。自分探しの旅などで再度確かめることが可能なレベルの危機ではなく、それは自分の存在意義がこの世界で絶対的な無に帰すかのような恐怖です。自らが積み上げてきたものが消失する恐怖です。

 そうしたマシスンの<自分が誰であるかが分からない恐怖>を突き詰めた傑作ホラー作品が『アイ・アム・レジェンド』でした。
 しかしその映画化作品は、興行的にはヒットしたとはいえ、残念ながらマシスンの真意を映像化することには失敗していました。そもそもこの小説の題名は、伝説の怪物である吸血鬼たちと対峙する地球最後のノーマルな人間だと思っていた自分こそが、吸血鬼中心の世界では伝説の怪物(レジェンド)といえるアブノーマルな存在と化してしまっているという視点の逆転を示したものです。しかし映画は、吸血鬼退治アドベンチャー映画に終始していました。

 マシスンの作品は近年日本での再刊が相次いでいます。どれもが手ごろな文庫で読むことができるものばかりです。
 その一方で、上述した『激突!』(ハヤカワ文庫 NV)が絶版となって久しいのは大変残念です。巻末の小鷹信光氏の解説に突き動かされてこの30年、マシスン作品を収集し読み返してきた私としては、より多くの読者にマシスンの魅力を知ってもらう原点ともいえるこの『激突!』の復刊を願ってやみません。

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