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  3. Straight No Chaserさんのレビュー一覧

Straight No Chaserさんのレビュー一覧

投稿者:Straight No Chaser

紙の本小説の自由

2005/07/12 02:54

リアル。痛みに敏感であること。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「この連載の中で私は、小説を書く側から他の二つ(=「小説について語ること」と「小説を読むこと」)を、いわば従属させようとしている。理由は、それが最も生産的だと思うからだ。『生産的』とは、小説について考えるべきことが生み出されるという意味だ。私はいまのところ、小説を書く側にふさわしい言葉を全然獲得できてはいないけれど、小説を書くために使っている思考の流れ----それは小説の中に書かれることはない----がどういうものかは読者も少し知ることができるだろう。」
 ここのところ最も強烈な悪口として人口に膾炙している日本語は「痛い」という言葉ではないかと思うのだが、暇つぶしに2chで保坂和志に関するスレッドを覗いてみたところかなりとんでもないことになっており、どうやら保坂批判の言葉というのは、ようするに「あいつは痛い」ということに集約されるように感じた。で、この「痛い」という言葉、たぶん昨今の世相を反映する言葉なのであろうから、安易にそれを批判したり否定したりすると、「おまえこそ、すっげえ痛えよ!」となりかねない。でも、だからこそそこがポイントなのかも、と思ったりもする。
 以前どこかで阿部和重が保坂和志にたいして、「保坂さんは人が悪いからなァ」というふうな発言をしていて、たしかにそんな気がすると思った覚えがある。いま、その過去の印象を自己分析的にまとめてみるなら、それはこんな感じになりそうだ。
1)保坂和志の小説を読みつづけているとだんだん息苦しくなってくることが多い。
2)それは要するに現実のリアルと小説のリアルを取り違えていた自分に気づくということであるらしい。そういう気づきというのは、なかなか受け容れがたいものである。
3)保坂和志の小説の「リアル」が(たぶん意図的に)現実の「リアル」そっくりの外観を呈しているために、(僕は)思い通りにならない現実の「リアル」の代償をその小説に求めてしまう。たとえば「なにも事件が起こらない」ということ、そのことを「実際、人生ってそういうものよね」というふうなこと(諦念?)を再確認するための補強材料として読んでしまう……これが、息苦しさの印象につながっていたのだと思う。
 「息苦しさ」を感じたことは、たぶん間違っていなかったんだろうと思う。その原因と思しきことを考えてみて、「リアル」ということの捉え方が変ったように感じるからだ。でも、リアルっていうのは何か、と今の自分に問いかけても、どうにもうまく答えられそうにない。というか、そもそも「リアル」というのは、(何かが)変ったということに後から気づくというかたちでしか捉えられないものなのかもしれない。というふうなことを思う。そして小説というのは、そういうことを巡って書かれる(或いは読まれる)ものであるようにも思う。
 「それは何かであるが、それが何であるのかは知りえない」、そんな何かをめぐる「書き手と文字として書かれたものとの休みないかけひきの産物」(←「書き手と読者との休みないかけひきの産物」ではなく)こそが小説なのである、と保坂和志は書いている。(これは安易なテクスト論的批評への批判の言葉でもあるのだろう。)
  で、この本が『書きあぐねている人のための小説入門』などに比べて新しい(というか、深い)点の一つは、ラカンの理論を著者なりにしっかり咀嚼したうえで(ラカンについては以前の著書でも触れられてはいたが、本書ではラカン派の新宮一成の言葉などを引用しつつ、より突っ込んだ考察がなされている)、精神分析的なことがらを超えるものとしての小説について考え、書かれていることにあるのだろうと思う。
 「痛み」に敏感であること、それは「痛さ」として批判すべきものではない。僕はそう思います。(蛇足?)

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紙の本星条旗の聞こえない部屋

2005/07/19 01:58

青春!

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「星条旗の聞こえない部屋」「ノベンバー」「仲間」の三篇は、Ben Isaacというアメリカ人少年が60年代後半、学生運動華やかなりし頃の「しんじゅく」で自らの生きる場所(仲間)を見つけるに至るまでを描いた、ひとつづきの(自伝的)青春小説である。
「Isaac」(アイザック)という名前は、信仰心篤い父アブラハムの手によって危うく神の犠牲にされかかったイサク(旧約聖書「創世記」)につながる、“ユダヤ系”の名前だ。
「獲物の中でめずらしい種を発見したという、昂奮した語調で、
『じゃ、あなたはシオニズムについてどう思いますか』と聞いた。
『どうも思っていません』ベンは実際、そんな問題について考えたことはなかった。
『でも、あなたはイスラエルを支持するでしょう』
(中略)
『ぼくはイスラエルの夢を持っていないユダヤ人です』」
 ……つまり、安易な読みはいけない、と。
 横浜のアメリカ総領事館での家族との生活。W大学の日本語コースでの日本人たちとの時間。日本人の閉鎖性に諦めにも似た怒りをくすぶらせている父。“外人”である自分を「かざりもの」としてチヤホヤする日本人たち。
夜の領事館に響く「ゴーホーム」という呪術的・惰性的な日本人たちの声を聴きながら、少年は思う。
「しかしアメリカ人は、家を捨ててまたは家から追い払われたからアメリカ人なのだ。アメリカ人が、さらにそのアメリカにいたたまれなくなってアジアの港町に寄りすがったとき、『ゴーホーム』は、今まで逃亡してきた道を引返せ、ということだ。……特に、領事館の窓に集まった、アイザックという姓を負っている四人は、『ゴーホーム』と言われても、いったいどこへ行けばいいのか。ブルックリンなのか、上海なのか、それとも幻のエルサレムなのか。」
 そして、少年は、自分は「戦争」からの「亡命者」だと語る。しかし理解されない。
「『戦争はあんたたちがやっているんじゃないの』
その『ぼくたち』から亡命しているんだ、とベンは言いたかったが、うまく言えなくて、黙った。」
少年が亡命しようとしている「ぼくたち」とはどんなものなのだろう?
「ノベンバー」のなかに印象的な一節がある。
「何年か後に、ベンは、ある詩人があの日について書いたことばを雑誌で読んだ。あの日、ノベンバーの最後の月曜日だったあの日は、アメリカ人が『公の涙(public tears)を流した最後の日だった』と。」
 あの日とは1963年11月25日、月曜日。22日に亡くなった米国第35代大統領J・F・ケネディの国葬が行なわれた日である。(巻末の年譜によれば、13歳のリービ少年は、アーリントン墓地でその葬列を目の当たりにしたのだという。)しかし、べつにケネディ(若く強かった頃のアメリカ?)を礼賛しているとか、そういうことではない。彼がこだわるのは失われた「パブリック・ティアーズ」である。そして彼が目の当たりにした大統領夫人ジャクリーヌのかすかな「苦笑」と、そこに込めらているように思えたもの(「あなたたちはみんな共犯者でしょう。泣くのはよせば」)である。
 (だから)彼は、いま日本で徹底的に他者に囲まれ、それでも決して寄り掛る心を許すことがない。そもそも言葉が通じないのだ。これぞ「青春小説」の王道である。
 「単行本あとがき」のなかにリービ英雄は書いている。
「ぼくの日本語は、十六、七の頃の居候の中で生まれた。ベン・アイザックのように家出少年が生きのびるために町で拾ったものが、ぼくの日本語の出発点だった。日本語が十六歳の肥沃な内面に根を張り、日本語という膜に濾過されて十六歳の『世界』が何度も生まれ変った。」

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紙の本ポケット・フェティッシュ

2005/07/18 00:10

肉声が聴こえてくる。凛々しい文章と、ちょっと人前で読むのははばかられる感じの図版から。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 まず最初に、本書で作品などを論じられている少々マニアックなアーティストの名前を列挙しておくと……
女優→リンダ・ブレア(『エクソシスト』など)/漫画家→池上遼一、宮西計三/写真家→カルロ・モリノ、アンリ・マッケローニ、クラウス・ゲーハート、ベッティナ・ランス/画家→ホルスト・ヤンセン
(*ちなみに、ぼくは池上遼一とホルスト・ヤンセンぐらいしか知りませんでした。)
 で、「この『ポケット・フェティッシュ』という本は、私が自分の著作の中でも特に気に入っている物の一つである。」(←「凛々しい!」)と、松浦理英子は「Uブックス版後書き」の最初の一文に書いている。どこかで似たような一節を読んだことがあると思ったら、浅田彰が『ヘルメスの音楽』の短いあとがきを「ぼくはこの小さな美しい本が本当に好きだ」(←「うわっ、キザ!」)と〆ているのだった。
 『ヘルメスの音楽』(1985)が自らの偏愛、その意図せざる固執と逃走の演技(音楽)の爽快感を楽しむ本だとすれば、『ポケット・フェティッシュ』(1994)は徹底して「物」に寄り添い、揺り動かされるばかりな感じが快い。
 「PはVに対するのと同様にAにも、“真にすぐれたAならばPを待ち焦がれるはずだ”と巧妙な脅しをかけて来る。
 確かにAにとってもPは便利な道具ではあるが、次善の道具であってAの本来のパートナーは決してPではないことを、はっきりと教えておかなければならない。」(本書所収「Aの至福」より:「で、そのPとかVとかAっていうのは何なのさ?」「……」)
 松浦理英子の書く性的な事柄は、いやらしくない。中途半端に内側に屈折させたために鬱屈としてしまったようなイヤラシサがない。こういうのを、ほんとうの意味でいやらしいっていうんだろう。本書の言葉を借りるなら、「性器的ではない官能性の豊かさ」「皮膚の官能性」をこちらに伝えてきてくれる……つまり、あの内側からひりひりしてくる感じ……何かに命を預けてしまっていて、終わりの意識みたいなのに取り巻かれて過ぎ越してゆく時間……たとえば(恋愛の)究極のところで、引き裂かれるようにして味わうもののこと……生きてる、そのことが逆説的に腑に落ちる、そんな時間?
『ヘルメスの音楽』の最後にフランシス・ベーコン(哲学者ではなく画家のほう)に関して書かれた文章(「F・Bの肖像のための未完のエスキス」)が収められていて、そのなかにベーコンの言葉が引用されている。
「もちろん、我々は肉だ、潜在的な死骸だ。肉屋に入るといつも思うんだが、牛や豚のかわりに自分がそこにいないのが実に不思議だ。」
 「肉声」が聴こえてくる……これって最近『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ)を読みながら感じていたことでもあるのだけれど、この『ポケット・フェティッシュ』の文章には「肉声」のリアルさが脈打っていて、それが世界のなかに反響してくる。小説じゃなくて、どちらかといえばエッセイというくくりに入る本なのだろうけれど……
 「賭博場の片隅でポーカーをする四人の老人/かれらは三つの頃からゲームを続けている/一人はロイヤル・ストレート・フラッシュを待ち続け/一人は総替えばかり繰り返し/一人は心がよそにあり/フルハウスができても気づかない/一人は何とエースのファイブ・カードを狙っている/いつまでたっても誰も上がれない/四人の老人のゲーム」(本書所収「絵本・いつか見た夢」より)
 たとえば、この文章(或いは夢)を分析的に読んだらつまらないっていうこと、それをさりげなく教えてくれる。そんなところもまた、この本のすばらしさの一つなんだと思います。

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紙の本

2005/07/03 05:33

「小説ってお前、あれは大きな道を歩いて造るものだ。お前は大きな道を歩いておらん。それじゃァ、ピエロになるだけだぞ。」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読み返す毎に、描き出される孤独の色のさらなる深さに驚く。
『百』は僕にとってそんな一冊である。
色川武大といえば、その集大成ともいうべき『狂人日記』という渾身の一作があり、彼特有の世の中の「眺めかた」が万華鏡のように散りばめられた『怪しい来客簿』があり、『生家へ』という彼のフリーランサー(作家)としての出発点が刻み込まれた連作集がある。また阿佐田哲也名義による『麻雀放浪記』『ドサ健ばくち地獄』の二作は、遊び人(ホモ・ルーデンス)のバイブルとして燦然と輝いている。
思えば、はじめて手にした色川さんの小説は『ぼうふら漂流記』で、中学生だった僕はその本を『ファーブル昆虫記』的なものと誤解して買ってしまったのだった(←ジャケ買い)。もちろん、ぼうふらの生態が書かれているわけもなく、友人の細君と二人きりで海外へギャンブル旅行に出かける男、その旅先での顛末を書いた(色気なし)どちらかといえば阿佐田哲也ふうの一冊で、当時恋の病にうかされていたteenager(←自分)がその本をどんなふうに読んだのか、正確なところは覚えていない。が、それまでの僕が読んでいたような学校推薦図書系の本(←それはそれで良い)とはちがって、ふわりとした大人の世界〜ふわりとした大人の文章、そういうものを存分に堪能してしまったのではないか……(閑話休題)
むかし福武書店からハードカバーで出版されていた『狂人日記』の装丁に、有馬忠士さんの絵が使われている。青と黒の強(こわ)い針のような木々が(或いは木のような針)が空間を突き刺すように何本も屹立している。そんな絵である。
「小説の本にあとがきなど無くもがなと承知しているけれど」と書き起こされる、色川さんの文章を少し引用する。
「彼は十数年もの間、幻聴や幻覚に苦しめられ、病院生活を余儀なくされた。そうして、他人に見せるだめでなく、(病院内でも隠しており、弟さんもこれほどの量が溜められてあるとは生前には気づかなかった)まったくのモノローグの作業なのだが、にもかかわらず、言葉にしにくい自己を造形の世界で誰かに伝えたい意志が溢れているところが、ただの病人の絵とちがう。彼の絵には、人間の影がまったく無い。孤絶の深さ、静けさ、その底に含まれる優しさ、私としては他人の作品に思えぬものがあった。」
『百』には、家族を題材とする四つの私小説ふう(色川流)の短篇が収録されている。「連笑」「ぼくの猿 ぼくの猫」「百」「永日」と読み進むにつれて、父子関係という軸(幹)が浮き彫りにされていく、そんな仕掛けになっているように思う。
「連笑」における弟との交流、その寂しいあたたかさ。「ぼくの猿 ぼくの猫」の江口寿史(たしか彼は鰐に喰われるのであった…)或いはカフカを思わせるリアルな幻覚、「百」における父と子の会話、息苦しい、そして「永日」……ここで、家族の閉塞をやわらかく撫でる風のように、賀川という「私」の友人が登場する。彼との会話のなかで「私」はいう。
「ナルシストだから、ただ孤立した絵柄になっているのですが、僕も小さい頃から、いつか必ず行きづまってにっちもさっちもいかなくなり、誰だかわからないけれども衆の前にひきすえられて、内心というものを総括されるときがくると思ってたわけですね。そのとき自分はやっぱり変貌しないだろうけれども、自分の内心というものがあまりに個人的な尺度を持ちすぎていて、他人に通じる言葉にすることができません。僕の恐怖は、自分にこだわるわりには、その自分を他人に主張する術がなくて、絶句して終るしかないということですね。……」
苦悩は深まる一方だ、どうすりゃいい。
で、色川さんがたぶん渾身の力で読者のために書いてくれたのであろう「永日」の最後の一行に一読者として救われた……そんな読後感が残っている。

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ソングブック

2005/07/24 17:25

シェケナベイベ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『デトロイト・ロック・シティ』というKISSマニアの高校生たちの青春を描いた傑作(おバカ)映画がある。で、『ソングブック』にKISSなんて登場しなし、取り上げられている31曲はヘビメタとかではなくて、あくまでもポップ・チューンである(らしい)。
 「(らしい)」というのは、ぼくはこの本で取り上げられている曲をほとんど聴いたことがないからで、KISSについても「聖飢魔IIの本家的なバンド?」という間抜けな知識しかない。
 で、それでも楽しめてしまうところ、そこが素晴らしいのだとぼくは言いたい。思うにそこがオタク的物言いとの違いである。ちょっと突飛な比較だが、斎藤環のサブ・カルチャー談義にときに漂う神経症的なテイストが、ここには皆無である(斎藤環はたぶん意図的にやっているのだろうが、ときに強圧的な印象がある)。
 音楽について評論家的/分析的に語ったり、あるいは音楽を自分の経験に絡めて語ったり(「あのとき、この曲が流れていた」的な)するのではなく、音楽そのものに寄り添い、音楽そのものになるようにして語る。『デトロイト・ロック・シティ』と『ソングブック』に共通しているのは、そういう部分だ。観客はそれをあたかも音楽そのもののようにして楽しむ。
 ホーンビィは「すべての芸術は常に音楽的状態へとむかっていく」というウォルター・ペイターの言葉を引きながら、(シンガー)ソングライターについて、こんなふうに書いている。
「音楽とはあくまで純粋な自己表現だし、逆に歌詞は、言葉でなりたっている以上、不純なものでしかない。……ソングライターという人々は言葉に裏切られてしまう。……神々しいインスピレーションを感じながら、まったく同時に、あやまちだらけの人間でいるなんて、どれほど奇妙な感じだろうか。イエス様がツイていない日にどんな気分でいるのか、少しでも理解できるのは、たぶんソングライターだけだ。」
 あるいは、こんなことも。
「心のなかの出来事を言葉にするという行為はみんながやっていることだから、言葉はぎこちなさを失って透明になり、そのむこうにくっきりと音楽が浮かびあがってくるようになる。言いかえれば、愛を歌った言葉はもうひとつの楽器のようなものだ。そして愛の歌はなぜだか、純粋な歌になる。」
 これって、そのままホーンビィの出世作『ハイ・フィデリティ』(High Fidelity:要はオーディオテープとかの「ハイファイ」)で、主人公のディープすぎる30代半ばのポップ・ファン=超だめ男くん(「ん、おれか?」)が愛を取り戻していく、あのプロセスそのものって感じがする。音楽のような、でも音楽ではない、小説。
 最後に、この本のなかで、ぼくがいちばん気に入っている一節。
「だが、ときに、ほんのごくたまにではあっても、歌や書物、映画や絵画は、人間というものを完璧に表現してしまう。そしてその表現は、言葉やイメージだけによっておこなわれるものではない。つながりは、それよりずっと繊細で複雑だ。ものを書くことを本気で考えはじめたころ、ぼくは、アン・タイラーの『ここがホームシック・レストラン』を読み、突然、自分がどんな人間であるのか、何になりたいのか、いい部分も悪い部分も理解した。それは、恋に落ちるときに似たプロセスだった。かならずしも最高の相手や、いちばん頭のいい相手や、いちばんきれいな相手を選んだわけじゃないかもしれない。でも、そこには、べつの何かがある。」
Shake it up baby♪

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紙の本レヴィナス・コレクション

2005/07/09 03:40

「他者」「顔」「孤独」……そんな思想家レヴィナスの入門編として。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

独りよがりなプロセスのなかで、開き直りに近いような力が、ふと生まれる。そして無表情だった言葉の連なりが、ひとつの流れとして感じられてくる。
エマニュエル・レヴィナス(1906-95)の短い論考(とくに第二部)を読み、所々ノートに書き写しながら感じるのは「愛」だ。
「あたかも愛する者と愛される者だけが世界に存在するかのように実存すること、それが愛することである。愛にもとづく間主観的関係は社会性の始まりではなく、その否定である。愛の本質に関するひとつの指標がここにあるのは確かであろう。」(「自我と全体性」)
ふたりきりの至福→閉塞……そんな状況を思い浮かべ、気を引き締める。ここに留まっては駄目だ。ふと色川武大「連笑」の一節を思い出す。
「私が一番気にしたのは、顔の傷がいつも弟の眼にさらされていることだった。/この傷がきっかけで、私が心をいれかえ、生き方を変えるというのならまだよい。私はそういうことを考えていない。/お互いに核に触れることを避け合ってすごしてきた。ところがこの傷のために私の実体が隠せなくなった。私が意識しなくても、傷はいつも私の何かを主張している。それが弟を圧迫しないだろうか。」
色川さんはその閉塞からの救いを、同じく『百』所収の「永日」のなかで、こんなふうに見出そうとしている(と僕は感じた)…
「きわだった或る一日のことを記そうと思って出発したが、どうもなかなか段取りがそこに至らない。それは当然のことで、どの日もつながっており、きわだったことである以上、稜線が左右に伸び拡がっていて、すべての日のことが記したくなってくる。そうして、おいおいと、特定の一日が無数の日のところに降りてきて、すでにどの日であろうが同じことだという気分になっている。」
レヴィナスは「現実とその影」のなかで「完成という芸術的生産の消しがたい刻印----それによって作品は本質的に現実離脱(デガジェ)したものにとどまる----」に対する注意を喚起したうえで、その「現実離脱なるものの意味」について、こんなふうに書いている。
「世界から離脱すること、それはつねに彼方に向かうことだろうか。プラトン的イデアの領域へ、世界を司る永遠なるものへと向かうことだろうか。手前への離脱なるものを語ることはできないのだろうか。時間の手前、その『隙間』に向かう運動によって時間の中断を語ることはできないのだろうか」(「現実とその影」)
……なるほど、「永日」のラスト(「いずれにしても永い日が、どうにもこうにも、暮れてこない」)で僕が感じた救いの印象は、「手前への離脱」ということだったのかもしれない。
それにしても、レヴィナスが「芸術」に関して書く言葉は凛々しい。
たとえば「存在論は根源的か」のなかでは…
「芸術とは、事物に顔を付与する営為ではなかろうか」
「芸術においては、リズムの非人称的な働きが魅惑的で魔術的なものと化して、社会性、顔、発語にとって代わるのではないだろうか」
さすがに、「しかし、しばしば私には、哲学のすべてがシェイクスピアについて省察することにほかならないように思えるのだ」(「時間と他なるもの」)と書いている人だけのことはある!
ところで、編訳者の合田正人さんは「解説--ラグタイム」のなかで、ホスピスやカウンセリングの現場で働く人たちが今レヴィナスに注目しているということに言及している。
「あなたが生きているかもしれない八方ふさがりの状況----『なんてこった、また明日も生きなきゃならない』----を、そのまま『グッド・ヒューモア』(ヒューム)たらしめうるような、いぶし銀の言葉が本書にはちりばめられている。」
べつに「弱さ」であり「癒し」であっても構わないやん……さらりと、そんなふうに言ってしまいたい気さえする。

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詩のささげもの

2005/07/02 04:37

「こころの優しさと精神のおおらかさ」を忘れずにいたいものです。いつも。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『詩(うた)のささげもの』には、詩人・宗左近が生活のなかで触れ、親しみ、触発されてきた詩について、歴史的な流れをしっかり押さえつつ、彼独特のやわらかな語り口で書かれています。宗さんの「詩との共存の物語」は、こんなふうにはじまります。
「これより、詩のお話をします。/別に縁遠いことではありません。幸せとは、何だろうか。美しいとは、どういうことだろうか。そういう楽しいことを語りたいのです。」
そして五通りの笑い声を使い分ける黄襟帽子インコのタローの話をまくらのようにして、「原初」という自作の詩が置かれ、その詩にたいする高橋順子(詩人)の言葉が引用されています。「これも贖罪のかたちである。詩人の思いの深さが、原神としての宇宙の涙を見るのである」。で、この言葉を受けて宗左近は書いています、「その原神(=宇宙)の涙を見ること、そして、その涙から見られること、それが、わたしにとっての詩にほかなりません」……「その涙から見られること」、さりげなく付け加えられたそのひとことに、僕は、たんなるやわらかさではない、なにかとてつもない覚悟、あるいは凄みのようなものを感じて、一気に宗左近ワールドへ……
「発信 ゆんゆん 発信 ゆんゆん 発信 ゆんゆん」
(えっと…べつに頭が壊れたわけではなくて)清陵情報高校の校歌(宗左近・作詞)からの抜粋です。「ゆんゆん」が登場するのは一番の歌詞の最後のところで、「受信 よんよん 受信 よんよん 受信 よんよん」……これが二番。そして三番はこう……「交信 やんやん 交信 やんやん 交信 やんやん」……この歌を朝の朝礼で高校生が歌っていたりする……ふむ。
ところで、この歌詞をみて、中原中也の「サーカス」という詩を思い浮かべる人も少なくないでしょう……「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」……僕は高校の頃、「これは、ブランコ(→抜け殻のような自分?)が風に揺れている、その(心の?)音を詩のことばにしたものです」というふうなニュアンスで習った覚えがあります。
残念ながら宗左近が中原中也の「サーカス」に触発されて清陵情報高校校歌(「宇宙の奥の宇宙まで」)をつくったのかどうかは定かではありません。が、手元にある『汚れつちまつた悲しみに』(大和出版)をひらいてみると、「ゆんゆん」(一番)「よんよん」(二番)「やんやん」(三番)に対応するかのように「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」が三回出てくるし……そもそも「サーカス」という詩は、「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」とはじまる中也なりの反戦(という闘い)の詩なわけで(たぶん)、やっぱり、それを踏まえてやっちゃったわけでしょう、宗左近は。そもそも「宗左近」というペンネームは戦争中に彼が思わず吐いた「そうさ、こんちくちょう」というセリフからとったらしいですから。
こんな紹介の仕方では、なんだか「宗左近(あるいは僕)=電波系(←死語!)」と思われかねない気もするので、20世紀を代表する知性の人ロラン・バルト(1915-80)の『表徴の帝国』(訳・宗左近)の訳者あとがきで彼が引用しているバルトの有名な言葉を、最後に孫引きしておきます。
「したがって、こういえるだろうと思うんです。わたし自身の歴史的位置というのは、前衛のなかの後衛だ、と。前衛であるということは、何が死んだかを知っているということです。後衛であるということは、死んだものをなお愛しているということです。わたしは、物語をつくるもの(ロマネスク)を愛しています。しかしわたしは、物語(ロマン)が死んだということを知っているのです。まあ、わたしの書くものの占めている場所は、そういったところですね、正確には……」

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紙の本ひべるにあ島紀行

2005/07/24 04:00

アメ太郎。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ぼくはこの本の登場人物ではない。著者ともまるっきりちがう。彼女が書いていることを実際に体験したこともない。なのに、これは心のなかでぼくが感じていることとまったく同じだ。もしぼくに声が見つかったら、きっとぼくの声はこんなふうに響くだろう。」(ニック・ホーンビィ『ソング・ブック』)
『ひべるにあ島紀行』はジョナサン・スイフトの『ガリヴァー旅行記』を読みスイフトの生涯を辿りつつ動いていく小説である。エンデの『はてしない物語』と少しだけ似ているが、正反対のようでもある。「小説」そのものがずぶずぶとそこに(どこに?)巻き込まれていく。そして戻ってはこない、少なくとも同じ場所には。
「……こういう愚にもつかぬ『お話』がアタマのスクリーンにくるくると巻き込まれたリボンが一瞬にしてほどけるようにして走っているが……」
舞台となるのはユーラシア大陸の西と東の果てにあるふたつの国、アイルランドと日本。「わたし」の「アタマ」のなかに展開される「ナパアイ国」の物語は、その間をつなぐようにして、あたかも日本国のスイフト(←Dubliner)的な戯画としても読めるように書かれている。ケルト神話、フィッシャーマン・セーター、ジョイス、キャロル、IRA、天皇制、母なるもの、性的犯罪……そんなことがらが、スイフト流の詩的アイロニーを“つなぎ”にして(そこに井原西鶴流の話芸がブレンドされて)、ひとつの作品に捏ね上げられる。
私的な日常、物語、歴史を攪拌させながら、小説の時空がねじれてゆく……そんな富岡多恵子の方法については、『表現の風景』(講談社文芸文庫版)のあとがきに秋山駿のわかりやすい解説がある。
「つまり、話の起点は二項対立の渦だが、富岡氏の話法は……渦を分析し、一つ一つの潮流に整えるのではなく、むしろそれとは正反対に、一時的な二項対立について述べながら、もう一つ奥の二項対立を引き出し、さらにもう一つ奥の二項対立を導き出すといったふうに……二重三重に二項対立を掛け合わせる、つまりいよいよ渦を激しく回転させる、攪拌する、といった方法になるのだ。」
富岡多恵子は表現の“痛み”に敏感な人である。『表現の風景』を読むと、そのことが“痛い”ほど伝わってくる。たとえば、つげ義春の「日記」について書かれている「私生活と私小説」という文章で、彼女は「つげ氏の病気とほぼ同じと思える病気とつき合ってきたわたしは、その『日記』に見られる記録の態度に驚かされた。わたし自身は……むしろ『書かない』ことによって病気を『日常』に溶かして消そうとした」と書き、つづけて「『私的な日常』の一部である病気のことをどのようなかたちにしろ書くのをなぜわたしは避けたのだろう」と自問する。「小説」とは「日記」(告白、私小説)と「寓話」(虚構)の両極の間で「どちらの極端にもいけずに、その間でたゆたっている」ものである……「書かない」、その引き裂かれるような痛み……『ひべるにあ島紀行』はそこんトコを突き抜けている、たとえば、こんなふうに。
「ハダカであることに、わたしは不思議なほどに羞恥を覚えない。文明国の商品価値から見れば走るわたしのハダカは美しくはないだろうが、野原を走らねばならぬ老いたるイキモノは美でも醜でもない。わたしは叫びながら走っている。ヒトリになった! ヒトリになった!」
そして現実と記憶の混淆、その神話的な霧のなかから、「わたし」の若き日の友人三名がまるで妖精の如く姿を現す。そのリアリティの凄さ。それにしても「アメ太郎」は出色のキャラクターで、思わず「あ、アメ太郎っておれだ」とかワケのわからんハマり方をしてしまいました。
→「アメ太郎----、どうしているだろう。アメ太郎は、飴太郎でも雨太郎でもない。」

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紙の本千々にくだけて

2005/07/20 02:06

「stillness」と「声」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 デビュー作「星条旗の聞こえない部屋」のなかで、リービ英雄は書いている。
「ベンがはじめて日本語というものを意識したのは、八つだったか九つだったか、台中の家で元の家主が床の間の隅に残した古い書物を拾って、どっしりした漢字と漢字の間に『の』というのたくった不均整の異物がはさまれているのを見つけた日だった。」
それは、「仮面の告白」のようにして書かれた、作家自身のことばであるのだろう。ほんのわずかな父との会話を記したのち、ベン・アイザック少年はその記憶を語る。
 「池に浮沈する鯉の音を聴きながら黄ばんだページを右から左へと、『の』と『は』と『む』と『ゑ』、漢字の森に戯れている蝶の形をしたひらがなを魅惑された思いでずっとたどっていたのが記憶に残っていた。」
 そこで彼の関心の中心にあるのは、「声」ではなく「文字」だ。たとえば昨年亡くなったジャック・デリダがそういうことがらを問題にしていたとか、そういうことではない。(*ぼくの読書傾向からいって、たしかにそういうことがらが頭をピカッとよぎったりはしたのだけれど……なんというか、どちらかといえば、リービ英雄の小説はぼくにとってそういう「病」を癒してくれるクスリであるように感じる。)
 ベン・アイザックの変化(それが“成長”であるのかはわからない)は、「ヘレン・ケラー」や「溝口」(『金閣寺』の主人公で、吃りの学僧。「星条旗〜」の続編「仲間」にその名が見える:で、村上春樹『ノルウェイの森』の「突撃隊」の原型のひとつもこいつなのか、と今更のように思ったり…)といった文学的なクリシェを用いつつ、「文字」に重心をおくようにして書かれているように思う。
 それに対して、作家自身の「9.11」体験を扱った『千々にくだけて』では「声」……個人の感情(体)の揺れから生まれる、そして(しかし)ことば自体に根差すもので(も)ある、「声」の調子にたいする敏感さの表現が、張り詰めるような緊張感を伝えてくる。そのことを、なによりも強く感じた。
 「あとがきにかえて----9.11ノート」のなかで、「千々にくだけて」という小説に描かれたことがらを、作家は事実報告というかたちで文章にしている。
「路地の白い灰をカメラがパンして、男のアナウンサーがまるでnuclear winterの景色です、と唱えた。「核の冬」は、冷戦が終わってから耳にしなくなったことばだった。ビルが崩れた瞬間の煙について、また別のチャンネルのアナウンサーがmushroom cloudと描写した。「キノコ雲」とぼくが反射的に頭の中で和訳した瞬間、その比喩の大きさに思わずたじろいだ。アメリカ合衆国はvictimとなったという機長の言い方が耳に甦った。
 現実の壮絶な場面と、それをめぐることばの渦巻が、一致しているようで一致していない。とつぜん『第三国』(*カナダ)で足止めされたホテルの部屋に一人でいて、九月十一日の火曜日の夜に何語で考えればいいのか、分からなくなった。」
 これにつづけて、作家は書く。「しかし、次々と画面に映る現実の白い灰に蔽われている現実の被害者たちの前で、そのような思いも、恥かしくなった。」
「小説」のあとがきとして置かれたその文章を、彼はこう締めくくっている。
 「……不安を隠せない米語の声がこだました。/for what? for what?」
「何のためですか、何になるんですか」、そのように和訳されるこの「声」を、ぼく(たち)はどのように聴くのだろうか、そしてどのように発するのだろうか、その問いかけは、作家自身の切実な問いかけであり、「public tears」へと、もしかしたらつながるのかもしれないような、読む者ひとりひとりの問いかけであるのかもしれない。

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ディープインパクト!

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少なからぬ人が、自分を表現するために他人を批難する。自分を表現できないことのストレスを、他人を安易に批難することで発散しようとする。ほとんど無意識的に。
それはどう考えても間違ってる、根本的に……あの頃田原成貴(たばら・せいき)がターフで、或いはライヴハウスで、それとも文章で、なによりもその生き様で伝えようともがいていたのは、そういうことなのではないかと思う。
『競馬場の風来坊』は、ゴーストライターが書いたものだという噂もある。でも、極端な言い方をすれば、そんなことどうだっていい、だってそれだけの力がこの本には詰まっているのだから。
田原さんがトウカイテイオーで有馬記念を勝った94年、ワンダーパフュームで桜花賞を、そしてマヤノトップガンで菊花賞を勝った95年のエッセイと、小島太との対談(with 塩崎利雄←『極道記者』)、武豊との対談を収めた本『競馬場の風来坊』。
「騎手というものは仕掛けて出る時の勇気より我慢する時の勇気の方が数段重い。その想い胸が締めつけられるがごとし!! それに耐え切れぬ者はゴール前の僅か10メートルに泣く、その苦しさに耐え切れる勇者だけがゴール前の10メートルに笑うことができる。我慢の時間長くて5秒、短くて、手綱を握りし拳に神経を持っていく、時間に表すことのできない僅かな時間、しかしそれが騎手にとっての一生の重さの時間でもある……。」
今、彼からさまざまな事柄を学んだであろう藤田伸二、四位(しい)博文、福永祐一、幸(みゆき)英明、横山典弘……彼らの勝利ジョッキーインタビューで、似たようなフレーズを耳にする。
ちょっと格好つけすぎやな、この文章……たしかにそう思う、でもアル・パチーノが大好きでパチーノ仕様の特製黒眼鏡をいつも手放さない不良少年・田原さんのことだから……
「私とてその勇気を出せなくて泣いたこと数知れず、騎手人生泣いた多さと重たさの分だけ仕掛けの我慢時間は長くなる。」
精神論じゃねえか、うぜーよ。そうかもしれない。
小島→「競馬っていうのはな、手を動かしたから仕掛けたとか、ステッキを叩いたから仕掛けた、というものじゃないんだよ。乗ってる者の気持ちがハッとしたら、それが馬に伝わるんだ。仕掛ける、というのはそういうことなんだよ。」
田原→「……馬の魂を揺さぶるには、自分の魂を限界まで揺さぶらなければならない……」
さらに、うざい? でも田原さんが、こういうことを言葉にするのには、理由がある。
「私は馬乗りとして大きく硬い土台、太い根を作ることを怠った。愚かであった。誰かが助言をしてくれていたら、そう思うこともある。いや、きっと助言はあったのだろう。しかし当時の私の耳には入らなかった。聞いていただけで私の中には入っていなかった。それが真実だろう。そのことが残念でならない。」
(『馬上の風に吹かれて(競馬場の風来坊2)』より)
かっこつけで、寂しがりやで、技術的なことに人一倍こだわりをもち、周囲への、細部への目配りを決して怠らない(怠ろうにも怠ることのできない)遊び人……
100年に一度とも言われる名馬ディープインパクトの三冠挑戦で盛り上がる競馬界。タバラさんはバリバリのギャンブル論者のようですが、べつに馬券とか関係なく熱くなれる競馬っていうのもある、この本を読むと逆にそんな気分になったりもします。
とてもアーティスティックな(ちょっと…いや、かなりおバカな)田原成貴を、僕はいまでも応援しています。そういえば、新しい本を出したんですね、タバラさん!

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なるほど、詩っていうのは、つまりそういうことだったのかもしれない。と思いました。

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フランス文学愛好者の密かな楽しみとして読まれつづけている(らしい)「夢と狂気と幻想の詩人」ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-55)の研究者・翻訳者として、また宮沢賢治の研究者としても名高い詩人・入沢康夫さん。
彼が詩人として自らの創作のための覚え書として書いたものが、この「詩の構造についての覚え書」である。初版は1968年に出版され、ついで1977年に増補版が出され、そして2002年にこの増補改訂版(復刻版)が刊行された。
解説の野村喜和夫さん(詩人…だったと思います)によれば、初版刊行時には、当時のいわゆる文学青年たちにとって、その理論武装のよすがとして「言語にとって美とは何か」(吉本隆明)を選ぶか、それともこの「詩の構造についての覚え書」を選ぶか、というような、そういう“熱い”書物でもあったらしい。
そういえば加藤典洋さんが「テクストから遠く離れて」で吉本さんの言語理論の可能性をソシュール的な(構造主義的な)言語理論と対比しつつ論じていたなぁ……とかいうことは、たぶんどうでもよいので、ようするにこの本のポイントになりそうなところは、僕的にはつぎの二点である。
1)「詩とは、語を素材とする芸術ではなく、言語関係自体を、いや、言語関係自体と作者(または読者)との関係そのものさえをも素材とするといった体の芸術行為である」
2)「詩作品は無時間の亡霊(偽の無時間---物と化した無時間)と無話者(偽の無話者---物と化した無話者)という二重の亡霊によって維持されている無事件の亡霊であると措定できる」
……と、これだけでは我ながら難解な書物に思えてしまうが、そうではない。
僕が思うのは、これは「詩」に興味のある人だけのための本ではなくて、「言葉」に(切実な)興味をもつすべての人のための本だということである。たとえば、こんなフレーズ……
「言葉が事物とことなるのは、それはあくまでも物ではなくて関係だからであり、しかも詩人はそういう関係としての言葉に、物に対するのとほぼ同様に対して(=「言語関係」の素材化)、それでもって作品を構成する(=一個あるいは数個の「言語関係」の関係づけ)のである」
これでもまだ小難しく見えるので、入沢さんが挙げている問いをひとつ引用しておく。
「問26:“書棚”は“作品”であるか」
入沢さんはここでボルヘスや宮沢賢治の名前を挙げていたりするけれど、今ならさしずめ村上春樹やリチャード・ブローティガンを好きな人にとっては、「そうそう、書棚って作品なの…」と小声で囁きたくなる。(あ、おれだけか)
というわけで、最後には入沢さんの詩の一節を引用しておきます。
「広場にとんでいつて/日がな尖塔の上に蹲つてみれば/そこぬけに青い空の下で/市がさびれていくのが たのしいのだ/街がくずれていくのが うれしいのだ……」(「鴉」:詩集「倖せ、それとも不倖せ」)

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ドゥルーズとスピノザへと誘ってくれる本です。「奴隷」であることよりは「病者」であることをpositiveに選ぶ。

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たとえば尾崎豊は「自由」を求めて足掻きつづけるような、ときに「ちょっと、そこまでいくのはどうか」と突っ込みを入れたくなるような、そういう生を生きつづけたように見える。そして丹生谷貴志は「『帝国』をめぐる演習」(本書所収)のなかで、「絶対の自由」を探求する試みの不可能性を例証するものとしてフランス革命を捉えつつ、「絶対の自由」は自身の「死」においてしか得られないのだから、そこに「外在」としての「帝国」が到来するわけであり、つまり「絶対の自由」を外在化することでその獲得可能性を万人に開き、それによって或る意味では逆に万人を“脱力”させてしまうのが「帝国」というものなのである、というふうなことを書いている(と思う)。で、「重要なのはだいぶ以前から『帝国』がその本質だけを残して完全に裸のものとして君臨しているという事実である」と書きつつ、「帝国」とは「すべてのものが世界を外から眺めている」(=「すべてのものが外から眺められている」)という事態の名称である、とわかりやすく言葉にしてくれている。
で、ようするに、バルーフ・スピノザ(1632-77)とジル・ドルゥーズ(1925-95)etcの思考に深く触発されるようにして丹生谷さんは、そこで三島由紀夫(1925-70)のようにではなく(?)「書く=生きる」ことを、徹底的に(のらりくらりと)実践しているようで、読んでいるととても(体育会系的にではないが)元気になる。あとがきにも書いてあるように、この本は「二項対立的な図式」を前面に押し出して書かれていて、それこそ大学生向けの「演習(ゼミナール)」という風情さえ漂わせながら進行してゆくため、なんだかわかりやすく、すぅーっと腑に落ちてゆく感じが、とても心地よい。(僕にとって)ニブヤさんの本の一番の魅力は、文章というか思考が「唐突に脱力」することで、わかりやすい例をあげれば、ヘーゲル哲学について現代思想的な思弁を独特のミシマふう美文で展開しているところに突如としてくまのプー(byミルン)が現れる、といったことにあるのだと思う。なんというか、僕は丹生谷さんの本を、(思想書とかではなく)小説とか詩みたいなものとして味わっているような気がする。
この本のなかには、「帝国」とか「女(と男)」とかヘルダーリンの狂気(僕には一瞬ヘルダーリンが尾崎豊に見えたりしましたが……あ、錯覚か)のこととかセザンヌのこととか、デュラスとかケルアックとかフィッツジェラルドとか、はたまたルネ・シャールとかポロックとかも出てきて……とにかく、哲学/思想プロパーな人にだけ独占させておくには勿体ないような、すっごくやわやかくて素敵な本。で、美的読書家(?)の丹生谷さんは、各章の冒頭にさまざまな本などからの引用を置いていて、これがまたいいんです。ちょっとロラン・バルトふう、なんでしょうか。最後に、その引用(エピグラフ)からひとつだけ孫引きしておきます。
What does it matter、 a dream of love or dream of lies.
We are all gonna be the same place when we die......
Tom Waits.

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紙の本時間論

2005/06/04 01:36

この本を読みながら、木村敏さんの本のことを思い出したりして

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カントやフッサールやハイデッガーやベルクソンや大森荘蔵や、そんな古来時間について考究しつづけてきた先人の思考を受けるかたちで(基本的にカントの思考を敷衍するような方向で)、「過去中心主義」という独自の時間論が展開されている。時間というものは、人(責任主体)が「純粋持続」(純粋に「自由である」こと)の流れを区切り、「過去」というものを「現在」というものから押し出すことによって生まれる。したがって「時間」の誕生(?)は「過去」の誕生(?)である。
「時間」といえば、「統合失調症=生きられる現象学的還元」という考えを提示したブランケンブルクやヴァイツゼッカーを批判的に継承するようにして、臨床的な哲学/現象学的精神病理学といわれるような分野で、とても刺激的な(でも、下手をすると大きなダメージを受けかねないような)論考を発信しつづける木村敏さんは、たとえば『偶然性の精神病理』という本のなかで、時間(=自己)について三つの次元を区別し(1→メタノエシス的な生命一般の根拠、2→ノエシス的ないしは“こと的”な時間=自己、3→ノエマ的ないしは“もの的”な時間/自己)、「一般に人はノエシス的時間とノエマ的時間の総体を“時間”として(流れるものとして)経験しており、ノエシス的時間(自己)を“窓”にしてメタノエシス的時間(自己)を垣間見る」と書きつつ、精神の病理を「時間(=自己)」にまつわる障害として捉えなおしている。
ところが中島さんは言い切る。「時間は比喩的にすら『流れない』のだ。……このすべては時間を時間における運動と混同するという錯覚に基づいている」。
そういえば木村さんの考察には、その暗黙の前提として「時間は流れるものである」という常識的な物差しが、ほぼ“揺るぎない”感じのものとして置かれているのかもしれない。
「時間なんて流れようが流れまいがどっちでもいい(そもそも、わかるわけないやんけ!)」〜そんなふうに思う人も(数多?)いるでしょうし、それはそれで「こだわりのない心で生きられることは、とても素敵♪」〜でも、そういうことに切実な何かを感じてしまう人も確かにいるはずで、そういう誰かにとっては、この本は生きる=考える“力”を育むきっかけになるかもしれません。

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紙の本ナチュラル・ウーマン

2005/07/30 00:18

Naturalな愛

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「私に異存がなければって、その一歩引いた言いかたは何なの?」
(『親指Pの修業時代』)
恋愛さえも、あるいは恋愛だからこそ、「世間の標準」(「ままごと」)に頼ってしまうことに気づかされることがある。そんなとき、信じるしかないということは、とても辛いことだ。信じるということにおいてしか持続しえないように思えることも。
(「ナチュラル・ウーマン」→)
「いちばん好きなこと以外はやらない方がいいわ。強いてやったらままごとになってしまうから」と花世はいう。
「ひょっとすると私たちはままごとかそうでないかを云々する以前の段階の抱擁、未だ性行為とは呼ぶに値しない段階の抱擁しかやっていないのではないか、とも思う。別にかまわないのだが、何かやり残していることがあるのかも知れないという気がするのである」と容子は考える。
ふたりの友人である圭以子によると、花世は「女房」で容子は「小僧」ということらしい「一般的な性別には属さない」「夕暮れに家に帰りそこねた」「小僧」。
こんな言いかたは失礼きわまりないし、明らかに作品とは何の関係もないが、松浦理英子さんには(文庫本の写真で見るかぎり)、たしかに「小僧」感がある。男友達に性的なことがらをあけすけに訊いたりしてしまう、好奇心旺盛な「小僧」だ。
「それはいいけど、なぜ小僧なの?」
「家に帰りそこねても生きて行けるしたたかさがあるのは小僧に決まっているからよ。ただの子供じゃ飢えるか凍えるかして死んでしまうわ。」
(「いちばん長い午後」→)
「自己満足したがってるとかいい人ぶってると言ってるんじゃないわよ。愛他主義や慈悲心を高級なものと考えて他人に奉仕することでもって安息を得る、というタイプの人々ほどあなたはナイーヴじゃないんだから。あなたは人に奉仕しているというスタイルをとりたいといういやらしい性的欲望からあなたは汚れ物を洗うんだわ。あなたが優しいだなんて思わない」と夕記子はいう。
「わかっていますとも」と容子はいう、そして「私は人様の寛大な了解を得て好き勝手に振舞わせていただいてるんです。感謝してます」と。
(「微熱休暇」→)
「男は愉快そうに耳を傾けていた。ありふれた冗談だった。だが、若い女がしょっちゅう言うこうした類の冗談を私は喋ったことがなかった」と、容子は気づく。
行為がうまくいかずに部屋を抜け出した容子と、(ゆっくりと、やわらかく)追いかけてきた由梨子。迷い込んだ夜の調理場で、水槽のなかに、うねうねしている大きな蛸。ぬぼーっとあらわれた調理師の気さくなおっさん、包丁いっぽん♪
「いずれは辛くなくなる」ってわけには、いかない。でも、「辛いまま生きて行けばいい」……どうやって?……そんなことを訊くのは野暮ってものだ。
やりたいこと、そして、できることを、ときには冗談かましながら……そんなふうにして「意志を裏切って欲望が満ちてくること」「いざという時に欲望が思いを越えられず萎えてしまうこと」の辛さ、「体などなくなってしまえばいい。それとも、心の方がなくなってしまえばいいのだろうか」という果てることのない疑問を追求していけばいいじゃないか。
とっても素敵な小説である。「異性よりも、同性との愛を求める若い女性たちの、虚無的な生を赤裸々に描いた異色の連作長篇」という文庫カバーの惹句を読んで(かつてのぼくのように?)「あー、レズ物ね」とか片づけてしまうのは勿体ない……というか、ここに描かれてることのどこが「虚無的」だというんじゃい!
(ぼくは、同性愛者とかではありません。ほら、いちおう、ことわっとかないと……あ、そうそう、四方田犬彦さんの解説を読みながら、中上健次を読み直したくなりました。中上健次と松浦理英子……つながってくるものがあるように思います。)

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「田バチャン、アル・パチーノを一瞬超えてたぜ、おめでとう」

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田原成貴が騎手として大きな一歩を刻み込んだふたつのレース。
93年12月26日の有馬記念。トウカイテイオーでの劇的な勝利。
そしてこの『馬上の風に吹かれて』で語られる、97年4月27日の天皇賞(春)。マヤノトップガンでの勝利。
前作『競馬場の風来坊』にくらべて、かなり筆が乱れている。書き手の不安定な心が、じかに伝わってくる。「おれは、いったい、なにをやっているんだろう?」
田原成貴は『競馬場の風来坊』のなかで言っていた。
「馬の魂を揺さぶるには、自分の魂を限界まで揺さぶらなければならない。」
ある人はそれを甘えの表現と見るのかもしれない。あのような事件を起してしまった以上は。
でも、あの頃、田原成貴が少なからぬ人に勇気や感動を与えたのは確かなのだ。
で、自分の魂を限界まで揺さぶること……そのことの辛さがより深く刻み込まれている、そういう意味では前作『競馬場の風来坊』よりも、この『馬上の風に吹かれて』のほうが上であるかもしれない。
「阪神大賞典が終わってから天皇賞までの数週間、何度彼の出演しているビデオテープを見ただろう。時間にして述べ30〜40時間は見ただろう。/なぜアル・パチーノなのか、私にも明確な答えがあった訳ではない。しかしそれが、天皇賞でマヤノトップガンに騎乗して、サクラローレルやマーベラスサンデーを相手に、優勝する答えを見つけることが出来る唯一の方法ではないかと、思ったからだ。」
……ある意味、狂っている。アル・パチーノのように、しかもアル・パチーノを上回るような演技を馬上で見せることができれば勝てるかもしれない。大真面目に、そこまで思いつめているわけだ。おいおい、そんなわけないだろ、と突っ込みたくもなる。
そして彼が導き出した答は
「意識を消すことだ。これが全てだ、と。」
「演じる=演じない=演じる。」
無の境地?……たぶん、人々が揶揄するような口調でひねくりだす、そんなものとは違うのだ。どうして、わかる? それを端的に示しているのは、この箇所だ。
「内回りの4コーナーを少し回った所に綺麗な百合の花が置かれていた。/その地点でスイ(四位洋文)と私は両手を合わせ、数十秒の間黙祷した。/『成貴さん、あの花、誰が置いたんスかね……?』/『あいつの友達だよ……』/『でもうれしいスよね……本当うれしいっスよ……』/調整ルームへと向かう私の後ろでスイは何度か、花の置かれている所を振り返ってそうつぶやいた。/『潤ちゃん見てるかな、俺達のこと……』/『どうかな……でも何処に行くのかな……スイどう思う……』」
岡潤一郎。平成5年に24歳の若さで落馬事故で亡くなった彼のことを、田原成貴は、いつまでも忘れずにいる。(田原さんの本には、必ずといっていいくらい岡潤一郎=潤ぺーが登場する。ちなみに、百合の花を置いたのは、武豊らしい。)
巻末に収められた騎手・松永幹夫(落馬事故で腎臓を摘出、復帰後の時期)との対談のなかの言葉が印象に残っている。
田原→「幹夫が突き抜けるには、マイナスの部分がまだ少なすぎると思うんだ。」
松永→「マイナス……ですか?」
田原→「そう。競馬の上でのいい意味でのマイナス。豊や岡部さんにはそれが沢山ある。高く跳ぼうと思ったら、突っ立ったままジャンプするより、いったんグッとしゃがみこんだほうがいいのと同じ。でも、そこでしゃがみすぎたら駄目なんだけどね。……」
しがらみだらけの競馬サークルで破天荒に熱く生きる田原成貴の言葉は、いま読んでも(いま読むからこそ?)大いに力をもつと思います。『競馬場の風来坊』&『馬上の風に吹かれて』。競馬なんか知らなくても楽しめる、熱くなれる、おすすめのエッセイ集です。

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