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ぶにゃさんのレビュー一覧

投稿者:ぶにゃ

42 件中 1 件~ 15 件を表示

爬虫類の眼ではなく、正視眼で……

18人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 副題は『外務省のラスプーチンと呼ばれて』となっている。
 ラスプーチンとは帝政ロシア末期に現れた祈祷師で、ニコライ皇帝やその家族の寵愛を受けながら政治に口をはさみ、ロシアを破滅に導いた悪しき怪僧としてすこぶる評判の悪い坊さんである。佐藤優は外務省を陰であやつるラスプーチンということになっていたようである。数年前、ポアンカレ予想を解決したロシアの数学者グリゴリー・ペレルマンの顔写真を新聞で見て、「ああ、ロシアにはまだラスプーチンがいる」と、妙な錯覚に陥ったことを思い出す。あの異形の顔付にくらべれば、佐藤優の小肥り顔はまったく愛嬌がありすぎる。
 さて、たいへん面白い本である。拘置所の生活、検事との丁々発止、国策捜査について、諜報活動、鈴木宗男との熱き信頼関係、外務省の実態、裏切り、日本とロシアの行方、等々、もっと早く読んでおいても損はなかったなと思わせるくらい中身が濃い。なにより文章が生き生きとして、描写が正鵠を射ているのである。たとえば、田中真紀子大臣が佐藤優の仕事部屋をぬきうちに訪ねて質問をする場面。「一瞬、私と眼があった。田中女史は、ほほえんでいたが、眼は笑っていなかった。爬虫類のような眼をしていた」とある。そう、たしかにアレは爬虫類の眼だと合点するのは僕だけだろうか。
 しかし一方で、彼は、盟友鈴木宗男の宿敵田中真紀子を「天才」と評価する。この本に貫かれている基底部は、そうした彼の人間に対する平衡感覚である。敵であれ、味方であれ、状況によっては味方にもなり、敵にも変わる。人間とはそういうものであり、決して善か悪かで一方的に決めつけられるものではないという当たり前の感覚、いわば正視眼で人間を捉える姿勢を佐藤優は貫いている。この姿勢があるからこそ、凡百の自画自讃本や暴露本とは一線を画すことができるのである。
 拘置所内での、あるエピソードがいい。ひょんなことから、著者は死刑囚の獄舎にはいることになる。独房で隣り合わせになったひとりの死刑確定囚は、いつも冷静沈着で、看守にも囚人たちにも尊敬されている。ある日、看守が、「面会、お母さんだよ」と言うと、「おふくろ、すぐに行きます」と言って、独房から廊下を小走りに面会場のほうへ向かっていく死刑囚の姿が見えた。その背中にはうれしさがにじみ出ていて、著者も自分の母親を思い出してしまう。そして、この「うれしそうな隣人の後姿を私は一生忘れることはないと思う」と結んでいる。この死刑囚は、連合赤軍の坂口弘である。外交官の佐藤優とは、政治的にまったく相容れない思想の持ち主であることは容易に了解できる。しかし、彼はここでも正視眼で坂口を見ている。保釈後に坂口の獄中手記を読み、その思索の内容が真剣で高い水準のものだと評価するのは、彼自身、大学では神学を学び、キリスト教徒という信仰者として、宗教や哲学に深い造詣を持つからでもあろう。
 
 ロシアのラスプーチンは、結局、暗殺されて生涯を終えたが、このラスプーチンはどうであろうか。現代の日本社会でそんな物騒な事件は起こり得ない、と言い切ることができないほど、日本の社会はどこかで病んでいるのではないか。血を流すことはなくても、社会的抹殺は、いつでも誰にでも起こり得る現代の暗殺である。
 国家の罠に嵌り込んだラスプーチンの戦いは、まだまだ続く。      

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「今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは」(森田必勝)

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1970年11月25日、昼下がり、僕は中学三年で、その時刻なぜか職員室にいたのを記憶している。たしか数学の教師だったと思うが、ひどく興奮した状態で、「三島が!三島が!」と叫んでいた。職員室には僕とその教師以外に誰もいなかったのではなかったろうか。もし他に同僚の教師がいたならあんなにも狼狽した姿を見せることは出来なかったのじゃないかと思う。漫画にしか興味がない一介のしょぼくれた中学生を相手に、狼狽して、逆上して、涙すら浮かべながら三島の事件を語る教師を前に、僕はどう対応して良いか分からず、ただ黙り込むばかりだった。三島由紀夫が楯の会メンバー4人と市ヶ谷の自衛隊に乗り込み、バルコニーで演説をし、腹を切って自決したことを夕方のニュース番組で改めて知った時、僕はこの教師が三島の熱烈なファンであることを確信した。しかし、この頃僕はまだ文学に目覚めてはおらず、この事件が、超克すべき思想の問題として僕の意識に上ったのは、さらに数年経った後のことである。
 
 この時腹を切ったのは三島一人ではない。もう一人、三島を介錯した後、そのかたわらで割腹自決した男がいた。名を森田必勝という。この本は、副題にあるとおり、その男の25年の人生を描いた物語である。長い間、僕は「必勝」をそのまま「ひっしょう」と読んでいた。凄い名前だと思っていたのである。実は読み方が違うとわかったが、僕にとって「必勝」は「ひっしょう」であることに現在も変わりはない。
 そして僕は、三島よりも森田の存在が気にかかっていた。三島はあまりにも有名であり、森田は全くの無名学生である。彼はなぜ三島と共に行動を起こしたのか。なぜ死ななければならなかったのか。なぜ切腹という時代錯誤的な方法を採らなければならなかったのか……。
 当時、胸中に去来したこの疑問は、その後晴らされることなく、深く沈潜した。三島を語る著述は多いが、森田を語る人間はあまりにも少なく、僕はいつしか、三島事件というひとつの歴史的事象の枠組みのなかに森田必勝を閉じ込め、そして蓋をしてきたのだと思う。

 その蓋が、この本によって開かれた。
 「いわゆる三島事件の真相は、実は『森田事件』というべきものであった、と書いては言い過ぎであろうか」と著者の中村彰彦は述べる。本当のところ、三島はまだ生きていたかったのではないか。まだ書きたかった作品があったのではなかったか。にもかかわらず、森田の熱情に三島のほうが動かされたのではないか。
 「ここまで来て三島が何もやらなかったら、おれが三島を殺る」
決行数ヶ月前、森田は近い人間にこう漏らしていたそうだ。
 森田は三島に何を見つけ、三島は森田に何を見い出したのか。
 中村は書く。「森田は湿気を吸ってみずから崩れる角砂糖のような人生を拒み、能動的に死ぬことによって雄々しく自信の生を完結させようとする意思を三島と共有していた。」
 人が精神的に成長するきっかけは、おそらく、他者との出会いにある。そして、自己の生をみずから完結させようとする意思の発生も、おのれの情念と交接するに足る他者の発見にあるのではないだろうか。三島と森田の行動は、思想という喪服をまとった心中以外のなにものでもない。しかし、人の行動は、それが社会的であればあるほど、あるいは反社会的であればあるほど、多くの他人と関わり、多くの影響を及ぼすのである。
 著者はこの本で、森田の死後、彼や三島に関わった仲間たちの足跡を丹念に記している。そこが、この作品のすぐれた所以でもある。仲間たちは、すべからく、「無念」を抱いている。どんな無念かは想像するに堅くないが、どんな人生を送ってきたかは、著者の誠実な取材がなければ知ることはできない類のものである。

 石川啄木に「ココアのひと匙」という詩がある。この作品の一番最後に著者が引用している詩である。作品では最初の4行だけだが、ここで全文を掲げておきたい。

   我は知る、テロリストの
   かなしき心を――
   言葉とおこなひとを分ちがたき
   ただひとつの心を、
   奪はれたる言葉のかはりに
   おこなひをもて語らんとする心を、
   われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
   しかして、そは真面目にして熱心なる人の常にもつかなしみなり
   
   はてしなき議論の後の
   冷めたるココアのひと匙を啜りて、
   そのうすにがき舌触りに、
   われは知る、テロリストの
   かなしき、かなしき心を。       
 
 はたして森田の精神に啄木の畏るべきセンチメンタリズムがあったかどうかは僕にはわからない。僕はただ、この文庫本のカバー写真からあふれ出る必勝の満面の笑顔に、伏して瞑目するだけなのである。

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紙の本それでも人生にイエスと言う

2012/02/26 16:25

生きるということは決断することだと僕に教えてくれた良書。

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1905年にウィーンで生まれた精神科医ヴィクトール・フランクルは、第二次大戦の際、ナチスによって強制収容所に入れられ、ほかの多くの人たちと同様、死と隣り合わせの状態で生き抜いた。解放後、彼はその体験を一冊の本に綴り(『夜と霧』)、熾烈な極限状態の中にあって人がなお生きつづけるとはどういうことなのか、人は何故生きることができるのか、死ぬことと生きることへの問いかけを世界中の人々に発信した。そして、精神療法医として、あるいは思想家として、独自のロゴセラピー(実存分析)を展開し、1997年に92歳の天寿を全うして逝去した。

 この書物は、解放の翌年1946年にウィーンで行われた講演の記録である。一頁一頁、一行一行、一言一言に、けっして人生に絶望してはならないというフランクルの熱い思いが込められていて、僕は深い感動を覚えた。

 人生に意味があるかと問うのは間違っている。人生のほうが私たちに意味を問いかけているのだ。私たちはその問いに答えなければならない。生きていくということは、問いに答えることにほかならないとフランクルは語る。過去でもなく、未来でもなく、今この現在この瞬間に、ほかのどこでもないこの場所で、ほかの誰でもない自分自身が、責任を持ち、決断をして、人生からの問いに答えること。「私は人生にまだ何かを期待できるのか」と問うのではなく、「人生は私に何を期待しているのか」と問うこと。そして、人生に意味があるのなら、苦悩にも意味があると、フランクルは穏やかにかつ力強く主張する。人間の苦悩は比較できない。無意味な苦悩と意味のある苦悩との違いは、まったくその人次第で決まるものだと言う。「苦悩が意味をもつかどうかは、その人にかかっているのです。その人だけにかかっているのです。」

 この本の題名『それでも人生にイエスと言う』は、ブーヘンヴァルト強制収容所の囚人たちが作り、その収容所で唄われた歌からとられている。そこはナチスが作った数多の収容所の中でも、残虐で悲惨なところだったらしい。「フランクル著作集第一巻」(みすず書房)には各地の収容所内の思わず目を覆ってしまいたくなるような写真が数頁にわたって収録されているが、唄を歌うという行為がはたして存在できるのかと思わざるを得ないくらい、ひどい光景である。
虐げられ、裏切られ、家畜以下の扱いをされ、呼吸をすることすら辛いなかで、彼らは、解放される日まで歌いつづけた。
<それでも私たちは人生にイエスと言おう。
  なぜなら、その日はいつか来るから。
  そして私たちは、
  自由になる。>

 たとえどんなに悲惨な状況に陥ろうとも、よしんば死がすぐそこに迫ってこようとも、人間は人生にイエスと言うことができる。
 この本を読めば、この本と『夜と霧』を読めば、それが少しも不思議なことではないということがわかってくる。

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紙の本歳月 新装版 上

2007/07/11 22:25

歳月人を待たず

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ある夜、ケータイをいじっていた高二の娘が僕の読んでいる本の表紙を横目で見て、「歳月人を待たず…」とつぶやいた。思わずその顔を見やったが、だるそうにケータイをいじり続けている。さて漢詩の一節であることはわかるが誰の作だったか、娘に聞くと、知らないという返答。あとで調べたら陶淵明の作とわかった。そのうんちくを娘に語った。「きっと君は学校で、この詩の内容を、若いときは二度と戻らないのだから、今のうちに寸暇を惜しんで勉強しなさいということだと習っただろう。だけど違うのだよ。本当は、若い時代は二度と来ないのだから、今のうちに大いに楽しみなさい、歳月は君を待たない、という意味なのだ」との説明に、我が意を得たりと彼女は破顔一笑した。まずいことを言ったろうか。
 この「歳月」の主人公は初代司法卿江藤新平である。江藤新平の佐賀藩脱藩から、反乱の首謀者として晒し首になるまでを描いたもので、陶淵明は関係ないかも知れない。もともと日本の司法制度の黎明期を知りたくてこの本を手に取ったのだが、明治初期の司法の成り立ちに関する詳しい記述はほとんどなく、当初の目的はあまり果たされなかった。そのかわり、「日本史上稀代の雄弁家」江藤新平という人間の、宿命的ともいえる生き方をまざまざと見せつけられて、じつに興味深かった。僕は司馬遼太郎の愛読者とはいえないかも知れないが、これは文学なのだなと率直に思った。歴史の教科書ではないのだ。豊富な歴史的資料を渉猟して、しかもかなりの知識を記述から捨てているのを感じた。きっと僕は、この捨てられた部分を求めていたのだろう。危うく大事なものをつかみ損なうところだった。
 江藤新平の晒し首の写真が残されている。司法卿として仇討ち禁止令を作ったり、残虐な刑罰を廃止したりした当の本人が、すでに廃止されたはずの惨酷な刑で人生を終える。江藤のまるい生首は、さびしげであり、かなしげであり、何かを問いたげである。この4年後、江藤討伐を限りない憎しみを込めて推進した大久保利通は、不平氏族に恨まれ憎まれ暗殺される。江藤も大久保もたしかに明治を作った。しかし、歳月は決して人を待つことはなく過ぎ去っていくようである。

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紙の本ともだち刑

2010/07/10 19:16

ともだちとは何だろう。何だったのだろう……

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 思想家雨宮処凛の活動と発言には、時折ネット上で接することもあるが、小説家雨宮処凛を知るのは、この作品が初めてである。彼女の紡ぐ言葉と表現は、彼女が自分の思想を語るときと同じように、小説においても等身大であり、自分の思いを自分の掴んだ言葉だけで語ろうとしている。この、しっかりと自分で握りしめた言葉のみによって小説を成り立たせようとするのは、作家にとっては当然な営為のようにも思えるが、しかしたいへん難しい作業なのではないかと素人ながらに考える。レトリックのためには、借り物の言葉だって必要なのだ。雨宮はこのレトリックによる装飾を極力排除し、ゴツゴツとしたむき出しの言葉で世界を語る。
 語られる世界は、人間関係であり、その救いようのないひずみとして現れ、人の心を蝕んでゆく「いじめ」である。そして、蝕まれた心にひろがってゆく暗闇である。

 7年前の中学2年だった自分と、予備校生の現在の自分をオーバーラップさせながら「私」の物語は展開する。登場人物に非凡な人間はいない。いじめられる「私」。いじめる「あなた」。あなたと一緒になって私をいじめ、あるいは傍観するだけの生徒たち。無能を通り越して愚劣でしかない教師。子供がいじめに遭っていることを気づくことができない平凡な両親。――今現在、この瞬間にも、日本のあちこちの学校で繰り広げられているであろう悲惨な日常の、その当事者たちと寸分違わぬ登場人物たちである。
    
 「殺してやればいいのに。自分を傷つける者に殺意を持って何が悪い?悪いのは弱い自分なんかじゃない。弱いと思い込まされている自分なんかじゃない。……」
 
 中学校のバレー部の、その小さな空間の中で、ともだちに裏切られ、ともだちを裏切りながら、いつしか「私」はこころの中に黒い闇を懐胎する。「あなた」と自分の立場が逆転した姿を夢み、決してそうはならないことを思い知らされながら、こころの闇を育ててゆく。やがて二十歳になった「私」は、成人式の案内通知を手に、ふるさとの実家へ帰省する。そして雪深い北海道の元日の朝、「私」のこころの黒い闇は強固な意志を持って実体化する。

 「ともだち刑」とは何であろうか。
 作者は作品の中で、この題名の意味を語ることはない。この言葉すら出ては来ない。だから読者である僕たちが個々に考えるしかこの刑罰の内容を理解する手だてはないのである。
 今、刑罰と書いたが、むろん、刑法のどこを探しても「ともだち刑」という用語は見つからない。そして当然ながら、この刑罰に対応する犯罪も刑法には、ない。「法律なければ犯罪なく、法律なければ刑罰なし」という原則を罪刑法定主義と呼ぶが、法律にない刑罰を、作者はなぜ創ったのだろうか。
 想像に過ぎないが、作者は「いじめ罪」という犯罪をこそ創りたかったのではないか。いじめは犯罪であるのに、法律にその罪がない。法律なければ犯罪なしで、いじめを裁くことは誰にもできない。だから雨宮処凛は、先ず、刑罰を創ったのだ。もし人間が互いに尊厳すべきもの尊厳されるべきものとして平等であるならば、いじめが犯罪と認められなくとも、いじめた人間は罰せられるべきである。
 そして、法律に「ともだち刑」がない以上、この刑罰を執行する者が如何なる者であるかは明瞭である。
  
 最初は何の意味かなと思った程度の題名だったが、今こうして考えてみると、ずいぶん深く、拡がりのある題名であることに気づいた。
 読む者に黙考を強いる稀な小説である。
 

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「人は自分でつちかってきたやり方によってのみ、困難な時の自分を支えることができる」(本書21頁)

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本の書名は、石川啄木の短歌から採られている。

   友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
   花を買ひ来て
   妻としたしむ           (『一握の砂』所収)

 そしてこの本は、書名が示すとおり、ひとりぽっちの哀しみにあふれている。
 
 哀しみと、しかし決して人生を捨てようとしない強靱さに満ちている。

 14人あまりの、それぞれの人生の断片が端正な文章で綴られている。

 酔っぱらってアパートの5階から墜落し、両眼を失明した著者の友人。
 
 その容貌のせいで、46歳まで独身のままの女性。

 以前は大手建設会社の社員だった50歳のホームレス。
 
 漫画を描くことによって、自己を恢復させようとしている定時制の高校生。

 うつ病のために、希望していた職業に就くことを断念せざるを得なかった若者。

 結婚相手が女たらしだとか、泥棒だとか、男運が悪かったタクシードライバーの中年女性。

 洗濯をせず、風呂にも入らず、週に一度、下着を使い捨てにする離婚男性。

 学歴を捨て、妻子を捨て、仕事を捨て、有名であることを捨てた芥川賞作家。

 ……等々。

 フィクションではない。

 いずれも著者がその目で視、耳で聴いた話をその通りに書き綴った作品である。

 「その通りに書く」という作業はかなり困難な作業であるはずだが……。

 人の一生とは何であろうかと、ふと想うときがある。

 しかし、答えはどこからもあらわれてこない。

 友がみな我よりえらく見える日は、

 僕はいったい何をするだろう。

 何をしただろう。

 有名であることを捨てた芥川賞作家が、カタカタと自転車を押しながら言った言葉が忘れられない。

 「自分で歩く自分の道は自分独自のもので、ひとりで歩くしかない」(101頁)      

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紙の本グラスホッパー

2010/11/13 23:53

伊坂幸太郎。やるな、おぬし。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この作家の最新刊が、なんでも東北新幹線を舞台にした殺し屋たちの物語だと新聞広告で知り、おやおや面白そうだなと思った。たまに東北新幹線を利用しているからなのだが、どんな話なのかと興味が湧く。しかし、その前に、同じく殺し屋たちの物語である本書を読まねばならない。いや、「ねばならない」と義務づける筋合はないのだが、「殺し屋、第2弾!」とか広告で見ると、やっぱり第1弾を先に読みたくなる。こっちのほうは文庫化されているようだし、ひょっとしたら古本屋の棚に見つけることが出来るかも知れない。いつか読んだ『永遠のフール』が面白かったので、期待感は大きい。もしハズれたら、第2弾を開くこともないだろう。
 
 で、読んでみた。
 なかなか面白い。
 
 登場する殺し屋たちがユニークである。大男の<鯨>は、依頼人に頼まれた標的を、特異な能力を用いて自殺させる。彼に見つめられると、皆、首を吊ったり飛び降りたくなったりするようである。今のところ、僕にとってはまだ実際に出会いたくはない人物だ。若い<蝉>は、ナイフを使って、冷酷に人を殺す。女性であろうが、赤ん坊であろうが関係ない。ただ、殺すだけである。こういう人間にも出会いたくない。殺し屋ではないが、<鈴木>という元教師は、殺された妻の復讐のためにあぶない組織に潜入する。この元教師が物語を引っ張ってゆくのだが、そこに<押し屋>と呼ばれる殺し屋や、殺しを補助する<劇団>なる存在が絡んできて、どこに落ち着くのか想像できない展開となる。むろん、そういう展開がなければ、たぶん、つまらない小説で終わる。

 しかし、この作家の描く世界は、そうそう単純なものではない。洒脱というか軽妙というか、そういう登場人物たちの会話群の中から紡ぎ出される世界は、ストーリーとはまた別の、人間の持つ暗闇を主人公にした物語である。そしてまた、不思議なことに、その中では希望という輝きも垣間見ることが出来るのである。絶望の中にあって、尚かつ己れを見詰めることの出来る殺し屋たち。というより、自分自身を見詰めてしまう殺し屋たち。自分を知ろうとすることは、不幸なことであると同時に、幸福なことなのではないだろうか。
 
 もうひとつ、付け加えておきたいのは、この小説は夫婦愛の物語であり、家族の絆の物語であるということだ。伊坂幸太郎という作家は、最近稀なユマニストであると感じた。
 
 さらにもうひとつ。この作品には、ドストエフスキーの小説とか、ジャズミュージシャン、映画監督、ロックシンガーなどが登場するけれど、みんなそれぞれ味わいがあって小気味がよい。知らない名前があれば調べてみるのも一興である。(僕はググってみたが、大変楽しかった。「ググる」という言葉は、つい最近娘に教えられた。面白い日本語である。)
 
 さて、最新作の『マリアビートル』、どうしようか。
 文庫化するまで待つか。古本屋の棚に並ぶまで待つか。それとも図書館に行くか……。

 よし、僕はこの作家を気に入ったのだ。

 では、この作家の、処女作から読み始めることにしよう。

 さてはいざ、『オーデュポンの祈り』を!
  

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紙の本ゲーテさんこんばんは

2010/02/01 22:06

こんにちは ゲーテさん

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 こんにちは、ゲーテさん
 
 はじめて手紙を差し上げます。池内紀という日本のドイツ文学のセンセイが、ゲーテさんについて大変おもしろい本を出していますので、それを是非ご紹介したいと思い、筆を執りました。(日本語には、尊敬語だの丁寧語だの謙譲語だのというややこやしいコトバの使い分けがありますが、一切無視しますのでご勘弁願います。)
 私の国で、ゲーテさんの名前を知らない者は少ないと思います。世界的な大文豪とか大科学者などの名前はたいがい学校で習うからです。しかし、ゲーテさんがどういう人であったかを知っている人は、そう多くはないでしょう。学校では学ばないからです。習ったとしても、試験に出ることはないので、すぐに忘れるからです。ああ、そういえば、百年くらい前に、斎藤緑雨という文士が、「ギョエテとはおれのことかとゲーテ云い」という戯れ詩を作っていましたけれど、気にしないでください。洋の東西を問わず、外国語の発音は難しいものです。
 
 さて、私は、池内センセのこの本によってゲーテさんのことを少し知ることができました。『ファウスト』は若い頃パラパラとめくったことがありますが、あくまでもパラパラなので、内容は頭に入っていません。じっくり読んでも理解できるかどうか……。ま、それはともかく、ゲーテさん、あなたはなんて風変わりな人なのでしょう。
 常人ならざる「石」の蒐集癖。あなたが几帳面に蒐集分類した石が現代にも一万九千点余り残っているそうですよ。すごいですね。
 常人ならざる「骨」への愛着。ほね、ホネ、骨。いえ、けっしてあなたの邸宅の裏庭にごっそりと人骨が埋まっていると考えているわけではありません。骨、というより「骨学」ですか。なんと、それまで人間にはないとされていた骨を発見されたそうで。たいへんなことです。やっぱり骨が好きなのですね。
 常人ならざる「光」への執着。あるいは「色彩」。つまりは、目玉への執着でしょうか。
 常人ならざる「雲」への関心。池内センセはゲーテさんのことを気象予報士第一期生と称えていますよ。
 常人ならざる「酒」の呑みっぷり。あなたはドイツ文学史上最大の酒豪だそうですね。 
 そして、
 常人ならざる「恋」への熱情。
 すみません。こう書くと、なんだか、ゲーテさんは色キチガイだと言っているようですね。でも、この本を読むと、生涯にわたって恋をしてきたあなたが、たいへんうらやましく思えます。
 恋をすると、相手が人妻であろうが、自分に妻があろうが関係ない。
 恋をすると、相手の年齢など眼中にない。
 恋をすると、とにかく詩を書きまくる。
20代は当然のこととして、50代、60代、70代と、いつも別な女性に恋をしてきたようですね。70代半ばで、まだ二十歳前の若い娘さんにプロポーズしたとは……。はてさて、ゲーテさん、あなたという人は。
 日本にも、一休さんというトンチ好きの破戒僧が、八十歳近くになって20代の盲目の娘さんと熱烈な恋愛をしたという話もありますが、いやあ、なかなか……。 
 
 しかも、あなたは、日本でいえば総理大臣にまでなったお方とか。
 知らなかったです。
 池内センセのこの本には、こうしたあなたの過去がふんわりと展開されています。「伝記」というような堅苦しいコトバは似つかわしくありません。ふんわりと柔らかく、あなたの歴史をなぞっています。
 機会があれば、読んでみてください。
 私も、機会があれば、いや、ぜひとも機会を作って、池内訳『ファウスト』を読んでみたいと思います。
 あ、書き忘れていました。この本の題名は『ゲーテさん こんばんは』といいます。なかなかイイと思いませんか。
 
 では、いつかお目にかかる日まで。
 
 さようなら、ゲーテさん  

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紙の本ハツカネズミと人間

2010/02/08 21:41

すばらしい作品は、やはり、人にすすめたくなります。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 忘れられない小説、というものがある。
 内容を細かくおぼえているわけではなく、むしろぼんやりとした輪郭しか記憶の中には残っていないのに、ただ感動だけはしっかりと心の奥深く存在し続けている小説、というものがある。
 ジョン・スタインベックのこの作品も、僕にとって決して多くはないそういう小説のひとつであった。近所の書店の片隅にこの文庫本を見つけたとき、今も胸中に残り続けているあの感動が果たして本物であるのかどうか、それを知りたくてレジに向かった。いや、それはウソである。そんな理屈めいた衝動ではなく、ただあの感動をもう一度心にしみこませたかったまでのことである。「ハツカネズミ」という文字は、確か昔読んだときは「二十日鼠」という漢字であったはずだが……という疑問も湧いたけれど、これが新訳だとわかってそうなんだなと納得した。そういえば、訳者の名前も違っている。40年も経てば、いろいろ変化もあるのだろう。
 そう、40年ぶりの対面である。
 ドキドキしながら、読み始めた。

 貧しい渡り労働者、ジョージとレニーの物語。
 ジョージとレニーの、夢と、希望と、友情の物語。
 夢と、希望と、友情と、救いようのない哀しみの物語。 
 救いようのない、哀しい時代のひとつの哀しい物語。
 
憶えていた。
 感動は本物であった。
僕は40年前の自分を思い出す。そのときの自分の読書体験を思い出す。最初から結末が悲劇的なものである予感がし、ページをめくるごとに、その予感が的中するであろうことを確信し、最後の一行まで、立ち止まりつつゆっくりと読み進み、とうとうこらえきれずに声を上げて泣いてしまった自分を思い出す。そして、本を閉じることができずに、しばらく呆然としていた自分を思い出す。
 
 同じことがいまも起こった。

 10代の時の感動が、50代になっても、色あせることなく蘇ってくる。これはどういうことだろう。僕がまったく成長していないということであるか?そうかも知れないし、そうでないかも知れない。ただひとつ判ることは、読む者がどんな年齢になったとしても、変わることのない感動を与えてくれる作品は、永遠に生き続けるであろうということである。

 スタインベックには、『怒りの葡萄』という名作がある。監督ジョン・フォード、主演ヘンリー・フォンダというキャストによって映画化されたこの作品は、往年の銀幕ファンにも懐かしいものであろう。1930年代の、世界恐慌の影響がアメリカ全土に吹き荒れ、失業者があふれかえり、あちこちの農園を日雇い労働者として渡り歩かざるを得ない「渡り農民」が多数存在した時期の物語である。
 『怒りの葡萄』は、当時の社会に対する批判が、ひとつの家族を通して色濃く重層的に語られている作品である。しかし、その2年前に発表されているこの『ハツカネズミと人間』は、時代の状況は同じながらも、静かに、ただひたすら静かに、社会と、その中でしか生きざるを得ない人間たちの、友情と不信、希望と挫折、夢と現実を、僕たちの「感性」という舞台に乗せて、描ききっている。作者は読む者一人一人に尋ねる。僕たちの感性がまともであるならば、悲劇は未然に防げたであろうか、と。

 傑作である。
 ぜひ、読んでほしい。
 とくに10代の若い人たちに。  

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紙の本終末のフール

2009/09/13 16:09

やがて、いつかは……

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 五島勉の『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになったのは昭和48年のことで、当時高校生だった僕はむさぼるようにその新書本を読んでいた。人類が滅亡するのは1999年7月だから、その時僕は44歳になっているはず。しかし僕はその頃、中原中也や立原道造など、夭逝した詩人たちに夢中になっていたので、自分もまた彼らと同じように早死にすると信じ込んでいた。だから44歳というのはまったく実感がわかず想像のできない年齢であったが、もしもおめおめと30過ぎてもこの世に存在していたなら、人類が滅亡する時まで生き抜いて、しっかりとこの眼でその終末のありさまを眺めてやろうという思いもあった。
 やがて、おめおめと歳を重ねてきたが、ノストラダムスは僕の心の中からも世の中からも消え失せ、予言の年に「恐怖の大王」はどこからも現れず、21世紀の現在、まだ人類は滅亡せず、あちこちと病んではいるが地球は回転し続けている。
     
 しかしあと8年経ったなら、小惑星が地球に衝突し、確実に人類の最期がおとずれる。そんな状況に陥った世界をまず空想してみよう。そしてパニックが一段落し、地球滅亡まで残り3年という状況を想像してみよう。自分が住んでいるのは地方都市の郊外である。まじめな労働者かも知れないし、ちょっとズレた学生であるかも知れない。しかしすでに会社はないであろうし、学校は閉鎖されているかも知れない。荒らされたコンビニやショーウィンドウが割られた衣料品店などが建ち並ぶ廃墟の街中で、それでも一軒くらい開いているスーパーがあるかも知れない。本屋もあるかも知れないし、ひょっとしてレンタルビデオ屋さんも営業しているかも知れない。そしてそうすると、そこで働く人、買う人、借りる人たちも存在しているかも知れない……。

 では、その人たちは何を思って余命3年と確定された時間を生きているのだろう。伊坂幸太郎は、この作品で8通りの人間模様を描き出している。小惑星の衝突という設定はSF的であるが、誰にも必ず死が訪れるという事実はSFではない。そういう事実を虚構の世界に横たわらせ、人は死を前にしてこういうふうでありたいという思いの一端を、作者は読む者に吐露する。
 最期まで頑固者の夫を許さなくとも良いではないか。最期までサッカーボールを蹴り続けていても良いではないか。最期まで警察を右往左往させていても良いではないか。最期までボクシングのトレーニングをやり続けていても良いではないか。最期まで赤ちゃんの成長を見守っていても良いではないか。最期まで家族ごっこを続けていても良いではないか。最期まで恋人を求め続けても良いではないか。最期の最期まで、とにかく生き続けても良いではないか。とにかく生き続けることが大切ではないか。
 たとえ、
 奇跡が、
 起こらずとも。

 その、心のひだに沁みいるような平明な語り口は、重松清に似て、すばらしい。 

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紙の本田村隆一詩集

2011/07/18 10:45

新たなる現代詩の誕生をねがいつつ

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 この詩人の「帰途」は、こんなふうに始まる。

       言葉なんかおぼえるんじゃなかった
        言葉のない世界
       意味が意味にならない世界に生きてたら
        どんなによかったか

 僕はときおり、畏れに満ちた想いでこの詩を反芻している。意図的にせよ、ついうっかりにせよ、いちど自分の口から吐き出された言葉は、最早自分の思惑などにお構いなく、一人歩きする。後悔しても遅い。僕はこうした後悔をするたびにこの詩の冒頭をつぶやいてしまうのだ。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と。
 ただ、この詩の凄いところは、後半にかかる三行の詩句である。

       あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
       きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
       ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 センチメンタリズムを極度に排除したこの叙情は、中也ばかり読んできた若い僕にとって衝撃的であった。こうして現代詩というものに関心を持ち始めたきっかけが田村隆一だったのである。もっとも、この詩人、最初は詩を書いている人だとは思わなかった。高校時代に読んでいたアガサ・クリスティのほとんどは田村の訳だったし、ダールの『あなたに似た人』も田村隆一訳である。詩人とミステリーの翻訳家という組み合わせは、どうにも僕の頭のなかでは、うまく像を結びつけることができなかったようである。(後に、鮎川信夫や加島祥造などがみんな同人誌『荒地』の仲間だと知り、そのからくりがわかったような気がしたのだけれども。)

 現代詩はまた、戦後詩とも呼ばれる。田村たちが創刊した『荒地』発刊は1947年であり、まだ戦争の傷痕が生々しく残っていた時期であった。そういう意味で、現代詩は、廃墟と空洞から生まれ出てきた詩人たちの生き様であるとも言えようか。人間の存在そのものを暗い地底から抉り出すような田村の「立棺」は「帰途」よりもなおいっそう僕には衝撃的であり、否応もなく沈黙させられた。

       わたしの屍体に手を触れるな
       おまえたちの手は
       「死」に触れることができない
       わたしの屍体は
       群衆のなかにまじえて
       雨にうたせよ

 80行になんなんとするこの「立棺」を書いたとき、田村はまだ30歳に満たない青年だった。そうした青年が織りなす言葉のアラベスクは、いかにも同時代的であり、そして、反時代的でもあった。

       わたしの屍体を地に寝かすな
       おまえたちの死は
       地に休むことができない

 戦争というかつてない出来事から戦後詩が生まれたように、震災という未曾有の事態から、また新たな現代詩が生まれてくるのだろうか。そして、詩人は詩人なりの言葉の世界の構築によって、この荒涼とした地平になにかしら展望を開くことができるのだろうか。

       地上にはわれわれの墓がない
       地上にはわれわれの屍体を入れる墓がない

 それとも言葉なんか、やっぱりおぼえるべきではなかったのだろうか。

       われわれには火がない
       われわれには屍体を焼くべき火がない

 たぶん、詩で語られた言葉の世界が現実の世界にかさなり、かぶさったとき、希望は絶望に変わり、また、絶望は希望に変わりうるだろう。詩人の言葉にはそういう力があるし、そのままでは記号でしかない言葉に生命を吹き込み、心の眼で視た世界を語るのが詩人であると僕は思っている。しかし、今このときはどうなのだろう。繰り返すが、今このときに、「立棺」に匹敵する新たな現代詩は現れるのだろうか。いや、そもそも詩は書かれているのだろうか。絶望と憤怒のなか、涙でぐしゃぐしゃになりながら、それでも人は生きていくように、そんなふうに、はたして詩は書かれつづけるのだろうか。

        われわれには愛がない
       われわれには病めるものの愛だけしかない   (田村隆一「立棺」より)

 はたして詩は、読まれつづけるのだろうか。 

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すぐれた作品を描く漫画家は、同時にすぐれた画家であるということの証左。

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 今まで、画集らしい画集など買ったことがなかった。思い起こせばずいぶん昔に、新潮美術文庫版の『ムンク』を、しかも古本屋で買ったきりである。およそ美術系には金をかけないそんな男が、なぜこういう本格的な装幀の画集を購入したのか。自分でも不可解な行為だと思うが、その謎を解く鍵は、もちろん、この画集の中にある。

 浅田弘幸という漫画家は、知人に教えられて知った。その人から『テガミバチ』を貸してもらい、家族で読んだ。妻も娘も、そして僕もすっかりファンになり、『I'll~アイル』『眠兎』『蓮華』など、浅田作品は全部その知人から借りた。あまつさえ、第一画集『骨の尖』、テガミバチのイラストを集めた『Shine』、そしてこの『Water』すらも。

 誤って母親を殺してしまった若者の、傷ついた心の葛藤と回復までを描いた『眠兎』は、その章ごとに中原中也の詩の一節を引用して、忘れることの出来ない作品である。撰ばれた中也の詩は作品の本筋とは関係ないのだが、作品の底を流れる鋭くてしかも心優しい感性と同化して読む者に感動を与える。僕がこの作品を好きなのは、かつて僕が中也にのめり込んでいた時期があるということと無縁ではない。

 そして、この画集を、いつものように借りたままで終わらせずに、みずから買い求めたのも、ひとえに中原中也の存在をこの中に認めたからによる。厚い表紙をめくると、黒色の見返しがある。それをめくると黒地に白抜きの題字が現れる。そしてその次の頁には、数年前に集英社文庫版中也詩集のカバーを飾った中原のイメージキャラが待ち受ける。暗く、愁いに満ち、孤高をひっさげてこっちを振り返った立ち姿である。そしてさらに頁をめくると、

 見開きいっぱい、中也が地面にうずくまっていた。まん丸いソフト帽を放り出し、下駄履きの中也が、黒マントを抱え込むようにして地面に倒れ込んでいた。口をへの字に曲げ、両眼はあいかわらず自身の心の暗渠を見つめているようである。しかしどこかしら微笑んでいるように見えるのは何故なのか。宵闇に、ぼんやりと薄あかりが灯る中、うずくまった中也の上に雪が降りかかる。「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる/」
     
    汚れつちまつた悲しみは
    なにのぞむなくねがふなく
    汚れつちまつた悲しみは
    倦怠のうちに死を夢む  (汚れつちまつた悲しみに……)

 去年、山口県の中原中也記念館に依頼されて描いたというこの絵に、僕の目は釘付けになった。「私の上に降る雪は/熱い額に落ちもくる/涙のやうでありました」(生ひ立ちの歌)。浅田弘幸と中原中也の結びつきがこんなにも深いものだったのかと初めて知り、感動した。作品『I'll~アイル』は、バスケットボールに青春を燃やす若者たちの姿を描いた漫画だが、たぶん、この画家は、この作品に筆を入れながら中也の詩を口ずさんでいたはずだ。   

     朝、鈍い日が照つてて
         風がある。
     千の天使が
   バスケットボールする。   (宿酔)

 むろん、中也への思い入れは僕の個人的なものであって、この画集のすばらしさはそれだけではない。やはり集英社文庫のカバーに描いた『銀河鉄道の夜』は、青を基調にしたじつに静かな作品であり、心が洗われる思いがする。ゆっくりと頁をめくりながら、僕は浅田ワールドを堪能した。突然現れた裸体の少女の仄かなエロティシズムに胸をときめかせ、雑誌に連載したという名作物語の数々のイラストの、救いようのない暗闇にしばし沈黙した。

 そうしてまた、画集を閉じて表紙を眺める。表紙の絵は、どこかの八幡宮を背景に、番傘を差したマント姿の若い男が、赤子を抱いて立っている姿である。時代はいつの頃か判然としない。ずっとずっと昔かも知れないし、あるいは近未来かも知れない。若い男はくわえ煙草で虚空を睨んでいる。目の前に何があるのか。目の前には、きっと、何ものかに破壊され尽くした悲惨な光景が広がっているに違いない。男の眼は、絶望を越えて怒りを湛えている。
 
 しかし、若い男が抱いているトサカ頭の赤ん坊の眼は、凛々しく輝いている。親子なのだろうか。それとも赤の他人同士だろうか。いや、そんなことはどうでもいい。トサカ頭の赤ん坊はきっとこう言っている。大丈夫だよ、未来はちゃんとあるよ。人間は意外と強いものなんだ。破壊されることはあっても、負けることはないんだよ。希望は自ら捨てない限り、必ずこころの中にあり続けるものなのだから――。

 僕はこの画集で、こころの空白を、少し、埋めることが出来た。   

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紙の本死ねばいいのに

2010/07/25 18:19

オソロシイ題名だけど、深い内容です

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 「あ、京極だ。」とつぶやいて、娘は平積みになった本の前でしばらく立ち止まり、「やっぱり買おう。」とその一冊を手に取ってレジへ向かった。その後ろ姿を見送るあいだ、僕は親としていささか複雑な気持ちを味わっていた。「タイトルがなあ……、どうもなあ……、若い娘が読むようななあ……、でももっとどぎつくて赤面するようなタイトルの本だってあるんだし……、京極だからまあイイかなあ……、読み終わったら貸してもらえるし……」
 
 というわけで、この本、娘から借りて読んだ。なかなか面白い作品である。死んだ女性のことを教えてくれと関係者を訪ね歩く謎の若者。一人目、二人目、三人目、……六人目と、全体が6つの章に分かれている。それぞれの章では、謎の若者に訪問された人間たちの心の葛藤が描かれる。その表現のきわめて通俗的なのとは逆に、その方法はソクラテス的であり、その内容は哲学的である。自分ははたして何を知っているのか。何を知っていたのか。謎の若者との問答の中で、人はおのれの無知を知り、汝自身を知ることとなる。
 
 また、興味深かったのは、作品の中で刑事政策の問題が語られたところである。犯罪、刑罰、そして量刑。語られている部分はさほど長くはないが、ウイスキーをラッパ呑みした時のような、濃く、深く、そして乱暴な味わいがした。さすが、京極である。

 それにしても、ときおり妻にそう思われているのはうすうす感じているのだけれど、我が娘にだけは言われたくないな。
 「死ねばいいのに」
だなんて……。

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紙の本永遠のとなり

2010/07/18 22:38

イイ題名です

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 題名に惹かれて古本屋で購入した。奥付を見ると、「2010年3月10日 第1刷」となっている。数えてみると文庫化されてまだ4ヶ月しか経っていない。速いものである。ホントに欲しい本はなかなか古本の市場に出回らないのだが……。
 白石一文という作家がいるということは知っていた。その著作のタイトルが僕の好みに一致していて興味深く感じていた。『私という運命について』『この世の全部を敵に回して』『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』等々。題名だけ眺めているとなぜかわくわくしてくるのである。
 しかし、一冊も読んだことはない。内容が表題通りであるのなら、おそらく読み通すには少々うっとうしい筈だ。好きだからこそわかるのである。いま僕はこんな小説など読みたくはないよ、と。気にはなったが敬遠してきた。そういうわけだからこの作家が今年直木賞を受賞していたことも知らなかった。たぶん新聞記事で目にしていたとは思うが、一緒に受賞した佐々木譲のほうに意識を持って行かれ、この作家は心に残っていなかったのではないかと思う。申し訳ない。
 
 さて、『永遠のとなり』。
 お互いに、あっちゃん、せいちゃんと呼び合う、50間近の二人の中年男の友情の物語。舞台は二人のふるさと、博多。せいちゃんは、部下の自殺をひきがねにうつ病を患って、家族と離縁し、故郷に帰って療養する。幼なじみで親友のあっちゃんは、肺癌を患い、何度も結婚離婚を繰り返し、やはり故郷で暮らしている。せいちゃんはあっちゃんの奥さんから夫の不倫の相談を持ちかけられ、あっちゃんの不倫相手と一緒に食事をしながら、生きるということの意味を自分に問いかける。あっちゃんも、あっちゃんの奥さんも、あっちゃんの不倫相手も、ただ自分のためだけでなく、相手を思いやりながら、しかし、なかなかうまく行動できず、でも、自分なりに生きようとしている。せいちゃんは、そんな人たちの中で、自分を見いだそうとしている。
 
 やはり、そうだ。
 この本は、内省の書物である。この作家は内省の作家である。
 乱暴なことを言えば、物語の内容などどうでもいいとさえ思う。
 ヒトは、生きるということがどういうことであるかを考えることによって初めて人になり、どう生きるかということを考えることによって初めて人間として生きるのだ。そしてやはり、人間として生きるためには、人と自分との関係、自分と自分との関係を知ることが重要な課題となる。
 せいちゃんは、精神科の病室の中で、自分の意外な内面の真実に突き当たる。
 「私は、私という人間のことが本当に嫌いだったのである。」
 そしてその自覚から、彼は自分なりの回復の道を歩き始める。
 
 いま現在、おそらくは何万人もの人間が、自分のことを嫌ってなお生き続け、あるいは、自死の一歩手前で葛藤しながら血の涙を流しているに違いない。僕もまたその何万人かの一人であったし、いまもなおそうあり続けている。
 人生は、永遠であろうか。
 あるいは、僕たちは、永遠のとなりで、日々たゆまぬ苦労をし、永遠のとなりで死すべき運命しか持たないのだろうか。
 でも、
 永遠のとなりとは何だろう。
 永遠のとなりもまた、
 限りなく永遠なのではないだろうか。
 

     

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紙の本鳥山石燕画図百鬼夜行全画集

2010/05/18 22:28

人間のような妖怪と、妖怪のような人間と、はたして、どっちが怖いのだろう……

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 とりたてて言うほど妖怪が好きというわけではない。むしろ、一生出喰わさずに済ませたい。妖怪を好きなのはやがて成人式を迎える我が家の一人娘のほうで、ぜひとも本物に会ってみたいと、石燕の画集に眼を輝かせている。ひょっとすると娘はすでに妖怪の境地に達しているのかも知れない。最近、娘の容貌が、……いや、いかん。これ以上は語るまい。

 鳥山石燕という名前は、京極夏彦のシリーズ本によって知った。娘も同様であり、以前、画集を見てみたいと言うので、県立図書館に連れて行った。図書館ならば、しかも県立なのだから、ない書物はないであろうとたかをくくっていた。国会図書館ではないのだから、あらゆる出版物を置いているはずがないのは当然なのだけれど、書架にそれらしきものは見あたらず、館内のシステムで何度蔵書検索してみても「鳥山石燕」や「画図百鬼夜行全画集」がヒットしなかったのには、愕然するというより驚きであった。この図書館、極めてまともなのか、それとも偏向しているのか、いまだによく理解できない。

 でも、文庫本を手に入れた。文庫になっているとは思いもよらなかったので、娘と二人で大喜び。しかも、千円出して釣り銭が来た。すごいことである。全頁妖怪だらけというのも、凄まじいことであるが。

 たくさんのたくさんの妖怪がいる。まさに百鬼夜行である。少年ジャンプに『ぬらりひょんの孫』という連載漫画があるのをご存じだろうか。東西の妖怪たちの国盗り物語というか、縄張り争いというか、陰陽師も絡んでワクワクドキドキ大変面白い漫画なのだが、その総大将ぬらりひょんを筆頭に、有象無象の妖怪たちが、ことごとく石燕の画から抜け出して暴れている。もちろん漫画のほうは現代的であり、擬人化が進んでいるけれども。

 石燕という絵師はどういう人物だったのか、調べてみれば、たぶんいろいろと面白い逸話が出てきそうな気がするが、それは、江戸の研究者あたりに任せておこう。僕は想像するだけなのだが、石燕は極めて真面目に、そして心の底から楽しんでこれら妖怪たちの姿を描き続けたのだと思う。彼は妖怪に取り憑かれたのではない。彼のほうが妖怪たちに取り憑いて、「ほら、そこ動かないで!」「顔、もっとあっちに向けて!」「笑っちゃ駄目だよ!」などと怒鳴ったりなだめたりしながらおのれ自身の妖怪と向き合って生き抜いたのだろう。彼は跋文に書く。「詩は人心の物に感じて声を発するところ、画はまた無声の詩とかや。形ありて声なし。――」

 死後200年経た後の世で、自分の慈しんだ妖怪たちが小説本によみがえり、漫画本で大活躍する様を、石燕は想像し得ただろうか。
 たぶん、彼は知っていたに違いない。
 妖怪でさえ恐れおののく世の中が来るということも。       

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