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  3. きゃべつちょうちょさんのレビュー一覧

きゃべつちょうちょさんのレビュー一覧

投稿者:きゃべつちょうちょ

231 件中 1 件~ 15 件を表示

増殖中のジンジャラー。これは、ビギナーの救世主。

16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

テキスト(ハンドブック)について。
体にいいことずくめの生姜。
そうわかってはいても実際に使うとなるとなかなか手ごわい。
生姜を買ってきてみても、すべてを使い切るのが至難のワザ。
以前に料理本で『おろして冷凍しておけばいい』と読んだことがあるが
それならチューブ生姜とどう違うのか・・・ということになってしまう。
この本には、生姜をなまでそのまま冷凍する方法が書いてある。
このように生姜の扱い方はもちろん、効能や分量のめやすなどが
わかりやすく書かれているので、ジンジャラービギナーにも安心である。
レシピは実用性に富んでおり、入手しにくい材料や複雑な手順はいっさいナシ。
6種ののみもの、4種のスープ、8種のおかず(おつまみを含む)のほかに
つくり置きしておくと色々活用できるストックレシピ
(ジンジャーはちみつレモン、梅生姜、ジンジャーマーガリン)が、
活用例と共に紹介されている。
で、早速つくってみた。
〈ホットジンジャーはちみつレモン〉
この飲みもの自体は(お湯のはちみつレモン生姜割り)めずらしくないけれど、
チューブやパウダーではなく、フレッシュな生姜をしぼりたてで頂くのが格別。
香りがまるで違います。あたたまるし、癒される。
〈豚のアップルジンジャー焼き〉
豚肉を焼いてから、生姜とりんごのすりおろしの入っただし汁で煮るのですが、
だし汁の、生姜をやわらげるりんごとのコラボが絶妙です。
レシピにはりんご半分をすりおろす、とあるのですが、
残りの半分を、肉と一緒に焼いて汁にからめて食べてみたらおいしかった。

おろしスプーンについて。
パッケージの写真は原寸大。
ちなみにサイズは幅50×長さ188ミリメートル。素材はステンレス。日本製。
職人の魂が機能美に込められている。
・スプーンを持ったまま少量ずつ生姜をおろせて、(生姜以外にもにんにくや大根など)
おろしたらそのまま鍋やカップに入れてかき混ぜられる。
(5グラム以上の生姜をおろすときは、受け皿を使った)
・スプーンから手を離しても倒れないで自立するので、
おろした生姜をのせてそのまま食卓に薬味皿として出せる。
・柄の部分に穴が空いているので、フックにかけられる。
 (食器棚にしまうと取り出すときが危険なので、かけられるのは便利)

手軽なおろし金を探していたのだけれど、なかなか見つからなかった。
おろし金がコンパクトになり、スプーンになっているなんて、画期的だ。
こんな道具が欲しかった。毎日ちょこっと使いたくなる手軽さと美しさ。
これなら、ブームを超えて生姜生活をつづけられそう。
そして、スプーンに寄り添うようにして、
サイズは小さいけれど、ぎっしり詰まって充実した内容になっているテキスト。
この奥ゆかしさに、著者のスプーンへの愛着が感じられる。

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紙の本容疑者Xの献身

2010/10/13 23:07

これは、いったい、なんのレッスンなんだ!? 湯川学はきっと心で叫んでいたはず!!

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

マイ・ファースト・東野圭吾作品である。
前々から気になってはいたが、
あまりに騒がれすぎていたので
逆に読む気が起こらなかった。
そんな読者もけっこういるのではないか。
ま、それはさておき。

この作品は「オール讀物」連載中のタイトルは
「容疑者X」だったとか。
単行本になるときに、「容疑者Xの献身」と改められたらしい。
作者が考えたのか、編集者が考えたのかはわからないけれど、
まさしくこの絶妙なネーミングがベストセラーへの
鍵を握ったのではないかと思われる。

あまりにも有名なこのミステリーの感想を、
いったいどう書こうか、悩むところだが、
この本を読もうかどうしようか迷っている人がいるなら
ぜひ、読んでみてほしい。
ミステリを精読している人にはもしかしたら
ちょっと物足りない向きもあるかもしれないが、
救いようがないくらいに悲惨なのに
心のどこかがあたたかくなる不思議な話である。

ありえない設定をぐいぐいとひっぱり込む手腕には
本当におどろかされる。
そして、危険を冒してまで貫き通す、容疑者Xの、その「献身」の理由。
これは、相手の人物造形をとおしてもよく描かれている。

本作は「純愛」という言葉で謳われることが多いようだが、
せつなさの視点をずらしてみれば、
男の友情に涙をさそわれる。
名ホームズ役である湯川学と、主人公の石神。
ほんとうに得がたい、「好敵手」という関係にあるふたり。
とくに、湯川がすべてに見当をつけ始めてしまったあたりからは
彼のせつなさに、胸がいたくなる。
彼にとって大事な、ふたりの男(石神と草薙)との
それぞれの友情に挟まれ、
さぞかし苦しかったことだろう。
これはいったい、なんのレッスンなんだ・・・と
きりきり締め付けられるような思いで、いたに違いない。

最後の、すべての告白は、涙腺を刺激する。
安っぽい偽善の匂いがしない、高級なエンタメになっているのは、
物語の端々にみられる、作者の論理的思考が効いているからか。
ひとの心の裏の裏をかく、ということ。
それはひるがえって、純粋、ということになるのだろうか。

早々と殺されてしまった被害者に対しては、
本人のそれまでの経緯にかかわらず、少し同情を寄せてしまう。
あまりにも脆弱なかたちでしか、未練を表現できないことに。
そう感じてしまったのは、
容疑者Xの、あまりにも深くて、重い、「献身」に
くらくらと眩暈をおぼえてしまったからかもしれない。

思い悩んだ湯川に、そして彼と同じように胸をいためた読者に、
きっと大きなギフトはあるはずだ、と思いたい。


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紙の本細雪

2011/02/17 18:28

ゆるりと流れる日常に女性特有の毒

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

会話はほぼ関西弁で綴られるが、それ自体はめずらしくはない。
東京出身の谷崎がここまではんなりとしっとりと
関西弁をあやつっていることに、まず驚いた。
この作品は当局から出版妨害を受けており、そのときに
谷崎が関西へ場所を映し、ひそかに書き続けられたとも伝えられる。
四姉妹のモデルは谷崎の妻であった松子とその姉妹であるらしい。

蒔岡家の栄華は父の時代にもう枯れているのに
その残像を忘れられない四姉妹たち。
花見。蛍狩り。観劇や舞い。風流な遊びの情景。
姉妹の、色々なことに対するリアクション。
描写は細やかなのに、呼吸には無理がなく、分厚さを感じさせない。
いってみれば、お嬢さんがたの人生という長い時間の暇つぶし。
それにつき合わせられるだけなのだが、なぜか読むのをやめられない。

おもな語り手は次女の幸子である。
幸子は妹の雪子を溺愛している。(もっとも母親に似ているからだ)
一日もはやく三女の雪子の結婚が決まるように願っている。
雪子だけでなく、四女の妙子の世話も焼き、いい姉であることに努める。
見栄っ張りな幸子の本音が吐露されるのは、
四女妙子の恋人が入院するシーンと、
時がながれてその後に妙子自身が入院するシーンである。
彼女は両方とも見舞いに行くのだが
見舞ったときに幸子が感じた言葉には寒くなる。
自身は誇り高き蒔岡家から出たお嬢さまだと信じているが
心の中にはとてもつめたいものが流れている。
それが谷崎のおそろしい描写力によって暴かれるのだ。
鶴子も雪子もおっとりと描かれているが、
そのつめたいものは共通しているようにも感じられる。
それは彼女たちのふっとした会話の端々とか、
人やモノを見た感想から受け取れる。
いちばんの問題児とされる妙子は、自由奔放で忙しいが
人としての情というか温かさを
姉妹のうちで最も多く持ち合わせているふうに感じられる。
しかし彼女も女性特有の残酷さを持ち合わせている。
「細雪」という英訳できないほどのうつくしいタイトルは
彼女たちが持つつめたさを揶揄しているのだろうか。

物語の大きな柱となるのが、
雪子の婚活のゆくえと妙子の恋のゆくえ。
雪子がまるで人形のように受け身であるのに対し、
妙子は思ったらすぐ行動せずにはいられない。
静と動の鮮やかなコントラストに読者は翻弄させられる。

そして格別魅力的なキャラクターとして映るのが、
幸子の夫である定之助。冷静沈着で判断力にすぐれ、情もある。
これくらいのキレ者で愛情深い夫でなければ、
とても幸子たちには付き合っていられないのだろう。
しかし、幸子のモデルが松子夫人(と伝えられる)だとすると
定之助ってまさか谷崎本人のことなのだろうか。
それともまったく本人とは別のキャラクターを生み出したのか?
このあたりは、松子夫人の書かれた回想録を繙くのもいいかもしれない。
どちらにしろ、この本の中ではいちばんまともな人物であった。

本編を読み終えてもなお、つづきが気になるこの余韻。
これだけ読ませておきながら肩すかし的なラストシーンからは、
作者の意地悪そうな(いやらしそうな!)にやにや笑いが浮かんでくる。

上、中、下巻が一冊になり、田辺聖子の解説がつき、
装丁にはなんともいえない雰囲気があり・・・・・・。
中公文庫の「細雪」はお得である。


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紙の本10月はたそがれの国

2009/03/06 11:25

夢見るような非現実へ

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は、いつかは読みたいとずっとおもっていた。
でも、書店でなかなかみかけなかったし、「幻想文学」と
カテゴライズされていたことに、なかなか手が出せず・・・・・。
たぶんはじめて読んだ「幻想文学」だとおもう。
(ファンタジーとかSFというのはどうも入り込めなくて苦手である。
「ハリポタ」も「スターウォーズ」も観たことなくて珍しがられる。)

これは19の話が入った短編集なのだが、表紙の裏に
「幻想と怪異が息づいている」とあるとおり、すべてが不思議で
物語の中へ《連れて行かれる》という感覚を味わえる。
ほとんどの話が、ラストで、ぞっとする。
私はホラーも苦手で、夜眠れなくなると困るのでなるべく
こわいものに触れないタチなのだけれど、これは大丈夫だった。
ラストでは、たしかにぞっとするのだが、
あとを引くようなおぞましいこわさは残らない。
ジェットコースターのような一瞬の恐怖である。

それはたぶん、文章の中に散りばめられた詩的な美しさと、
流れるような語り口の滑らかさが、恐怖よりも強い印象を残すからだろう。
とはいっても、やはりすべての話には入り込めずに、
どうしても「???」というのが4話ほどあるのだが。
最後の話、「ダットリー・ストーンのふしぎな死」は特に秀逸。
読んだ後に深く考えさせられてしまうが、奇妙な優しさがある。

「人生に必要なのは、想像力と少しのお金」とチャップリンは言ったが、
時間と少しの想像力があれば、この本はきっと
もの哀しくてちょっぴりこわい、幻想に包まれた「10月の国」へ連れて行ってくれる。
ページをめくること自体にときめきをおぼえた、一冊だった。
これは読書ほんらいの楽しみ、だとおもう。

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紙の本スピカ 羽海野チカ初期短編集

2012/04/02 16:54

白く光る星スピカは、白い衣装で踊るバレリーナのイメージ。

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

羽海野チカの初期短篇集。
「ハチミツ」と「ライオン」(7巻よかった!泣)でおなじみの彼女だけれど、
これを読むと、色々と方向性への旅をつづけてきたんだなぁと感じる。

バレエの好きなわたしは、表題作の「スピカ」がいちばん好きだが、
つづく「みどりの仔犬」と「花のゆりかご」もすてきな作品。
やさしい気持ちになれそうな、とてもなごむストーリーだ。

「スピカ」の美園優香は、「ライオン」のひなちゃんの前身ぽいと、作者。
たしかに。ひなちゃんが高校生になるとこんな感じかもしれない。
あのまっすぐな感じ。協調性を持ちながらも、きちんと自分を持っているところが。

本の内容そのものもよかったのだけれど、いちばん買ってよかったと思う点は、
この本を買うだけで、東日本大震災の被災地を少しだけ応援できること。
作者が、被災地と購入者をつないでくれている気がする。
「この単行本の印税は全て東日本大震災により被災された方々と、
被災地のためへの義援金とさせていただきます。
一日も早い復興を心より祈っております」(帯にある作者の言葉より)

タイトルとおなじ名前を持つ、おとめ座の一等星、スピカ。
パリ・オペラ座バレエ団では、プリマバレリーナをエトワールと呼ぶ。
フランス語で、星という意味を持つが(ドガの絵も有名)、かけているのだろう。
白っぽく光るスピカを率いるおとめ座は春の夜空に浮かぶ星座である。

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紙の本最初の、ひとくち

2010/03/18 18:53

懐かしくてあったかい。思わずにんまり。

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 唐突だけれど、益田ミリさんっていい人なんじゃないかな。
 
 例えば、「ピノ」っていうアイスクリームのエッセイマンガ。
 「ピックを使うところがセレブだよね~」と言いながら
 益田さんはピックで食べるときに必ずアイスのまんなかを狙う。
 友人などがそんなことを気にせず食べているのを見ると
 かっこいいって思うんだとか。
 (今の、すっごくはしっこだった!!)
 っていうつぶやきがいいなぁと思う。

 こんなふうなほのぼのとした、食べ物に関するエッセイ集は、
 読むときを選ばない。
 元気がないときやちょっと調子が悪いときでも
 すらすら読めてしまう。
 気持ちと体の両方を癒してくれそう。

 ラーマゴールデンソフトの奥様インタビューとか。
 伝説のマンガ「キャンディ・キャンディ」のアイスキャンディとか。
 知っている世代の人はより楽しめそうだし、
 そうでない人も、このほのぼのワールドは味わえる。

 苺がたっぷりのっかった、優しいタッチのパフェのイラストの
 表紙に引き寄せられ、 思わず、ジャケ買いしてしまった。
 中味の美味しさに満足している。
 


 

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紙の本夏への扉 新装版

2011/05/19 16:27

男(ヒト)と男(猫)の、ホットな友情!!は、ことしも読み継がれていく。

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は、じつは去年の初夏に読もうと思っていたものだったが、
タイミングを逃して夏をとうに過ぎてしまったので
再び巡り来たこの季節に読んでみた。

SFはあまり得意ではないので、
万能家事ロボットを発明した技術屋の主人公が
タイムトラベラーとなり・・・・・・。
という感じのこの話が通読できるか不安だったが、
読み心地のよさに、安心してページを進めることができた。
作中の未来描写もユーモラスで魅力的だった。
主人公ダンがつくったロボットの記述に
自動で掃除をして、自動で充電し、かえってくる・・・
というようなくだりがあり、『ルンバ』という商品名が浮かび
くすっとしてしまった。

そして、ラストが近づく318ページでは涙がこぼれた。
ダンの、真摯な思いが凝縮されたようなシーンだったからだ。
ピートへの、リッキィへの、言葉にならないほどの思いが
伝わってきて、胸の奥がじんとなってしまう。
彼は、たとえ時代が変わろうが世の価値が変わろうが
自分にとっての最優先事項を変えることはない。
それゆえ、彼は強くいられる。

ダンの根底にある健全さから、ふたつの言葉を思い出した。
それは、
自分の幸福を恐れる者は、幸福になれないこと。
最高の復讐とは、自分自身が幸福になること。
のふたつである。
どこで読んだかまたは聞いたのかは忘れてしまったが、
ダンには、これらの点がぶれておらず、
また、その覚悟がしっかりできているように思えた。
だから、彼は過去にしがみつかない。
彼の目線にはいつも未来があり、読む者に爽快感を与える。
334ページで語られる作者の未来賛歌。
この数行に辿りついたとき、読んでよかったと素直に思った。

猫のピートには、助演男優賞をあげたいくらいだ。
彼がいなければ、この物語は成り立たない。
「夏への扉」は、ピートへの友情を軸としたダンの、
ハードボイルドな時間旅行ともいえるのではないか。

男どうしの友情に、ヒトと猫との垣根はない。





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紙の本火星年代記 新版

2010/08/18 20:44

生と死、光と影、がダンスを踊る

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

旧版も持っているのだが、
ブラッドベリに出すお金は惜しくない!
と思い、購入した。

旧版との違いは、カバーと解説だけではない。
冒頭にブラッドベリの序文と
本編に、新たに一話が追加されたことと、
一話が差し替えられたこと。
そして、時間の流れ。
旧版では物語のはじまりが1999年1月だが
新版では2030年1月に変わったこと。

本国での初の単行本化が1950年。
いわばファンサービスというかたちで
「21世紀を迎える読者にむけて、
 ブラッドベリ自身が改訂した」
この版は、1997年に発刊、定本とされた。

27編から成る、「火星移住」のオムニバス。
時を追って、色々な人たちの人生が語られる。
火星に移住するにあたって、
時期をずらして探検隊が送り込まれるが、
第1探検隊から第3探検隊までが
なぜか地球に戻ってこなかった。
厳重な体制でさらに第4探検隊が臨み、
民族大移動がはじまる。
火星で初めてのホットドック屋をひらく男。
樹木を植えて酸素と緑を供給しようとする男。
教会を建てようと、やって来た神父たち。
地球からはなれた彼らが、火星ですることは、
やはり地球でおこなわれていることばかりだった。
そして
たまに現れる火星人たちとのシュールなやりとり。
火星はいったいどうなっていくのだろうか。

翻訳がとてもすばらしいのだろうと思うが、
まるで1枚の長いCDを聴いているみたいだ。
詩のような絵画のような美しさを持つそれぞれの曲が
しずかに、問いかけるように、歌っている。

火星と地球が敵対し派手な戦いを繰り広げる話ではない。
淡々と個人の暮らしが綴られる。
そこに、人生の悲哀、文明への皮肉や警鐘が込められる。
どれだけ時が過ぎようとも、人が生きるかぎり
普遍である生への執着、死への恐怖。
それは愛への執着であり、孤独への恐怖ともいえるだろう。
生まれた星をはなれて暮らすことは
じぶん自身への疑問という絶望がつきまとう。
そんなかなしさが伝わってくる。

27編のうち特に印象的だったのは
「夜の邂逅」と「火の玉」である。
「夜の邂逅」でトマスは考える。時間の色とは、音とは、匂いとは。
あたりまえに存在するものに対しての問い。
これも本編でブラッドベリが伝えてくるテーマのひとつだと思う。
そして時間に対する問いとはじぶんの人生に対する問いでもある。
生きているかぎり時間を消費するわけだけれど、
それはいろんなことを選択したりしなかったりの連続だ。
その瞬間は、正しい選択をしているかどうかわからない。
後になってわかるせつなさ。

「火の玉」では人の獣性がえぐり出される。
人を見下すエゴ。自己顕示欲。偽善。
無欲というステージはあまりにも高いところにある。

美しい表現が散りばめられる中にも
深い哲学が内在している。
きっと何年も何年も読み継がれる本だと思う。





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紙の本嵐が丘

2010/07/09 17:12

多くの人々が、取りつかれてしまう理由。少しわかった気がします。

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最後のページを読み終えたときに、鳥肌が立った。
もう一度読みたい、と思った。
そして、とても後悔した。
なんでもっと早く読まなかったのか、と。
出会ったのは、ずいぶん前だったというのに。

「嵐が丘」を読んでいたこの一週間というもの、
他のことをしていても、続きが気になって仕方がなかった。
読み始めたころは、時代があまりにも違いすぎて
小説の世界に入り込むのに少し手間取ったが、
「ディーンおばさん」が登場し、語り始めるところから
がぜん、面白くなってきた。

しばらくは、これは完璧なエンタメなのだと理解していた。
昼メロと犯罪系2時間ドラマを足して、2で割ったような。
しかし、読み進めていくうちに、
物語に徐々に深みが増していった。
これは単なるメロドラマじゃない。
復讐の狂気を描いているだけの話じゃない。
「人間が本来持っているもの」が書かれている。
そして、それらを際立たせるために色んな工夫がしてあるのだ。
二世代間をとおし、ふたつの対立する「名家」をめぐって、
人間の持つ、崇高な美しさと醜い獣性が語られていく。

孤児で蔑まれてきたヒースクリフの
心の一番の拠り所は、キャサリンだった。
しかし愛するキャサリンはエドガーと結婚してしまう。
ヒースクリフは、失望してしばらくの間姿を消す。
そして、富と成功を手にしてから復讐の鬼と化し
悪魔のような行動に出る。
ここでわたしが思い浮かべたのは
タロットカードの「悪魔」という札である。
ヤギのような角を生やし、コウモリのような羽をひろげた悪魔と、
鎖で繋がれた恋人たちの絵。
解釈は色々あるが、「囚われる」というのが大きなキーワードである。
ヒースクリフは、じぶんの支配欲の赴くままに、
復讐劇を繰り広げていくが、
他人を抑圧すればするほど、じぶんのことも苦しめることになるのだ。
「捕えよう」とすれば「囚われて」しまうパラドックス。

復讐するために、社会という枠組みの中で、
力をつけ財を得るという戦いを開始したその時点で、
ヒースクリフは、すでに囚われの身になっているのだ。
現代ではおそらく(小説とか、実生活以外のところでも)、
ここまで人生のすべてをかけて復讐に燃える人物など、
めったに見当たらないのではないだろうか。
(現代人には)そこまで暇も余裕もないというのは承知した上で、
ヒースクリフの、「相手を倒す前にじぶんに力をつける」という
スタンスは、評価したい。それはひとつの美学だと思う。
ヒースクリフのように、ここまで極端ではなくても、
悔しさが、何かを開花させるというのはよく聞く話である。

「嵐が丘」は、たしかに復讐譚であることは間違いないし、
いやな気分になるような残酷シーンもあった。
しかし、わたしには、泥くさいまでの人間劇に映った。
そこまでやるかと思わせる、あの執念。
それは、
徹底的な「生への姿勢」ということではないか、と。
相手をすぐに殺害したり、じぶんが(あてつけに)自殺したりといった
安易な方法ではなく、
両方とも生きたまま復讐をつづけるには
ものすごい根気と熱意と労力がいる。
とにかく相当なエネルギーを要するだろう。

最後に。
新訳の鴻巣さんのアイディアで
「嵐が丘」に対抗する「スラッシュクロス屋敷」が
「鶫の辻」という、なんとも絶妙な呼び名に変わった。
名訳だと、記しておきたい。




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紙の本ちいさいモモちゃん

2011/12/06 16:47

モモちゃんに、万感を込めて、『おかえりなさい!』

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

なにげなく立ち寄った書店で、ふっと目に飛び込んできた、たった二冊の平積み。
はるか昔に出た版はとっくにどこかへ行ってしまい、
いつかまた文庫で出してくれないだろうかと願っていた「ちいさいモモちゃん」。
幼いときに単行本をよく繰り返して読んでいて、
文庫が出たときもまっさきに買ったのだった。そういえばあのときは
寺村輝夫の「王さま」シリーズも大人むけの文庫版で出ており、購入した記憶がある。

ああ、モモちゃんだっ。少女向けじゃなく大人むけの文庫のほう、復刊したんだ!!
しかもこんなシックでかわいらしい装丁(酒井駒子)で生まれ変わったなんて。
本をみつけたその瞬間。嬉しいおどろきに包まれた。
ひさしぶりだね、モモちゃん。うちへおいで。
そんな気持ちで抱きしめながらレジへ。
帰り道も、バッグのなかにモモちゃんがいるのだと思うとわくわくした。

うちへ帰ってあけてみると、さらに嬉しいことにこの文庫には、
「ちいさいモモちゃん」と「モモちゃんとプー」が収録されていた。
ああ。プー。あのまっくろくろすけの、クーだったプー。
やさしくて、勇敢で、ちょっとやきもちやきの、黒猫プー。
昔お世話になった人に、ばったりと出会ったような気分であった。
モモちゃんも、プーも、心の奥のほうの引き出しに、たしかに息づいていたから。
そこには寺村輝夫の「王さま」も、リンドグレーンの「ピッピ」も住んでいる。
お気に入りで、何度も読み返した、幼いときの記憶たち。

モモちゃんの日常にはリアルとファンタジーが混在している。
自然に暮らすいきものはもちろん、家の中にある無機質なものたちにも、
著者の松谷みよ子はことばを与え、生きていることをかがやかせる。
ものにも気持ちがある。
いっしょうけんめい今まで役に立っていてくれたのだから、
粗末に扱ってはかわいそうだし、大事に扱えばここいちばんに威力を発揮してくれる。
スプーンがしゃべったり、牛乳瓶が走ったりする描写に懐かしくなりながらも、
いまだに、ものや動物の気持ちが見えるような気がすることがあるのは、
もしかしたらモモちゃんを読んだ影響が大きいのかもしれないなと苦笑いした。

今回読み返してみたのはなん十年ぶりなのに、
あいかわらずわたしは、ママの気持ちではなくモモちゃんの気持ちで読んだのだ。
おそらくわたしはモモちゃんのママよりはるかに年上のはずだろうに。
でもこの本にはそういう魅力がある。
松谷みよ子があくまでも子どもの目線で書いているから。
子どもの目に見えること、耳に聞こえることをそのまま書いているからだ。
もぐらやねずみはもちろん本当にしゃべるわけではないのだけれど、
(それに、いまの都内ではめったに見かけなくなってしまったけれど)
子どもの敏感な感性は、生そのものをとてもつよく感じ取ることだろう。

幼いときには、多かれ少なかれ、ものの声が聞こえたりするのではないだろうか。
いつから聞こえなくなってしまうのだろう。
スプーンは、食器棚の引き出しに仕舞い込まれ、人間が取り出さないかぎり、
そこから出てくることはない。ましてや、しゃべるなんて。
そういうふうに思い始めるのは、いったい、いつからだっただろう。
そして大人になって小説を読むときは、
口をきかないものが口をきくとき、比喩として意味を探るようになるわけだ。
けれども、モモちゃんの世界はあまりにもストレートで、
わたしは書いてあることばどおりに、そのまま受け取ってしまうのだ。
いまも昔も。

この本は、モモちゃんが生まれてから、六歳(小学一年生)になるまでのお話。
ちいさいモモちゃんはいつの間にかおねえちゃんになっていて、
喜びも大きいけれど、ママをひとりじめできないせつなさも味わうようになる。
そんなシーンを読んでいると、ふっと涙が出そうになるのだった。

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紙の本もうすぐ絶滅するという紙の書物について

2011/06/27 21:32

本(と、本を集めること)を愛するすべての人へ。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

題名に惹かれて、手にとったのだが、
最初の序文を数行読むだけでてごわさを感じた。
ん?これはわたしに読み通せるだろうか、と。
たしかにある程度の根気は必要だったが、
読み進むうち、納得できる場面もいくつか登場し、
そんなに気負うことなく読了できた。
ただ、ここに書かれているすべてのことを理解できたとか
そんなことはつゆほども思っていないし、またそうである必要もない。
意外にも、まぁ気楽に読んでくださいよ、と語りかけてくるような
親しみやすささえ持つ本だった。

超級のインテリ(こんな言い方が適当かどうかわからないが)ふたりが、
本をめぐるありとあらゆるものごとを語り合っているのだから、
やすやすとページをめくっていけるものではなかった。
知らないことについて多分に割かれたページの意味を、
そんなに深く探ろうとしないことが、読了のポイントのひとつかもしれない。
と、なかばひらきなおったところもある。
だって立ち止まったらきりがない。果てしない知のシャワーを浴びっぱなしなのだから。
でも大丈夫。
本が好き、本を読むことが好き、という気持ちをすこしでも持つ読者なら、
対談者たちの本に対する愛情を必ず汲むことができるだろう。
思わず、うん、あるある、と顔がにやけてしまうかもしれない。

この本は決して電子書籍を危惧するものでも批判するものでもないし、
時代に警鐘を鳴らすものでもない。
そんな堅苦しいものではなく、
わたしたちが呼吸しているこの現代を
色々な角度から過去の鏡に映して切り取り、
書物の持つ特性を浮かび上がらせてくれる一冊なのだ。
本、インターネット、出版や印刷の事情まで絡めながら
ふたりの投げる言葉のボールは多方向へ飛んでいく。
それはとてもスリリングである。
でも彼らの語りのレベルがみごとに互角で、
(どちらかの力に圧倒されてしまう対談は成り立たない)
対談という形式を壊さずにいながら、波打つように展開していく。
読者は彼らのおしゃべりに、はっとしながらも
全面的には安心して身をまかせることができるのだろう。

いちばんおもしろかったのは「我々が読まなかったすべての本」という章。
進行役がふたりに衝撃的な質問を投げかける。
おふたりはじつに様々な書物について語られていますが、
それらは、実際に読まれたものなのですか。
教養人というのは、知るべきとされる書物を必ず読んでいるものなのですか。
なんとも素朴にしてぶしつけな質問だろう!
これに対して、インテリジェンスあふれるふたりが
どのように答えていったか、ぜひ読んで確かめていただきたいと思う。

対談の最後のページをめくり、訳者のあとがきに辿り着いたとき、
読者はこれまでの長い旅路を反芻し、なにか達成感のようなものを感じる。
あとがきにはまれに、今まで読んできた本文を台無しにしてしまうものがあるが、
このあとがきは、本文の内容と読了した時間をさらに充実したものにしてくれる。
明晰な訳者の言葉にまるでねぎらわれているような、
そんなあたたかさが胸におりてきて、ほっとした気持ちで
この分厚い本を閉じることができるのだ。
わたしはこのあとがきを、本文の最初と最後に二度読んだ。
興味を持ってこの本を手にしたら、まずあとがきを捲るのもいいだろう。
ここにはこの本の魅力が端的に詰め込まれている。

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読む人に、観た美味しさを分けてくれる映画エッセイ。

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この人はどうして
こんなにわかりやすいのに
心に深く残る文章が書けるのだろう。

この本を読んで、
まったく知らなかった映画を二本、観たくなった。
著者の程よい説明で、未知の映画の世界の入り口に立つことができ、
映画に寄せる思いを読むうちに、その世界を実感したくなるのだ。
観たことのある作品については、記憶がふんわりと蘇り、
ああ、こういうとらえかたもあるのかと新鮮さを感じることもある。
どちらにしろ、発見があるのだ。

考えさせられてしまったのは
「ペイ・フォワード 可能の王国」の評である。
著者は最初から真剣に注意深く語りかけてくる。
思いも寄らない不幸に見舞われて、悲しみを背負っている人に対して
なぜそうなったのかと原因を追求するのは意味のないことだ、と。
彼らにとっていま必要なのは、
背負っているものをどのようにして耐えていくか、
(負荷をどれだけ軽くできるか)
ということなのだから、と。

傍観者が当事者を少しでも理解するには、
WHYではなくHOWの視点に立つことが必要なのかもしれない。
先日見たテレビ番組で、偶然〈HOW力〉という言葉に出会い、そう思った。

「ペイ・フォワード 可能の王国」には、
予想外の悲しみを背負ってしまった人が何人か登場する。
そのうちのひとりである少年が、
通っている学校の授業で教師から問いかけられる。
世の中を変えたいと思ったら、自分になにができるか、と。
そして少年はペイ・フォワードという言葉を考えつく。
人から親切にしてもらったら、
その人にペイ・バック(過去のつけの返済)をしなくていい。
そのかわり、今度は新しく誰かに善意を返す。
それを少年はペイ・フォワードと呼ぶことにしたのだ。
仮に、ひとりから親切にしてもらった人が三人に善意を返すとしたら
つぎは九人がペイ・フォワードされることになり、
世の中に少しずついい空気が流れ始めるのではないか。
少年は地道にペイ・フォワードをつづけていく。
しかし、親切はあだになることさえあり、現実は厳しい。
でも、蒔かれた種はきちんと深く植わっていて
芽を出す準備をしていた・・・・・・。

評されたタイトルは三十本。
この本で取り上げられた映画は、ハリウッド系よりも
単館ロードショーをしていたような、地味でじわじわくるものが多い。
現在だと入手しにくいDVDもあるかもしれないが、
もしお気に入りの一本が見つかったら本当にお得である。
もちろん、映画を観る観ないを別にして
エッセイを読むだけでも、じゅうぶんに味わいがある。

あとがきによれば、
本書は雑誌『暮しの手帖』の連載をまとめたものだが、
最初、著者は連載の依頼を断っていたらしい。
映画は仕事抜きでたのしみたかったからだ。(著者は映画好きだから)
しかし編集者の熱意により、ついに単行本化されるに至った。
そして幻冬舎の編集者の熱意により、単行本が文庫化された。
結果的に、読者のもとへすばらしい本を届けてくれた編集魂にも、
感謝したいと思う。

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紙の本パリでメシを食う。

2011/02/04 21:23

グルメのガイドブックではありません。色々な人生のア・ラ・カルト。

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生き方に、正解とかレシピというものは存在しないのだなぁと
改めて思う。
幸せとか成功とかいう言葉の意味も
個人によってそれぞれ違うものなのだろう。

この本は、パリで働きパリに生きる人々のレポート。
フローリスト、カメラマン、テーラー、スタイリスト、
鍼灸師、漫画喫茶のオーナーなど、10人の日本人のお話。

著者が各自にインタビューして綴ったものだが、
シーンの切り取り方や感情の掬い上げ方にぐっとくる。
著者は、取材した人と同じ位置に立ちながらも
着かず離れずの絶妙な緊張感をキープしている。
そこから伝わってくるのは、
話を聞かせてくれた人に対する誠実さだ。

はっきりいってこの10人の話を知ったからどうということはない。
ましてや参考になどならないし、著者はそれを望んでいない。
なんのお手本もなしに、自分自身の内面の声だけを頼りに
パリへ渡り、できることを見つけて生きている。
ただ、そのことに感動するのだ。

登場する10人は、みんなどこかゆったりとしている。
もちろん仕事は忙しいのだろうし、
外国で仕事をするところに行き着くまで紆余曲折。
「パリでメシを食う」ことは生半可なことじゃないだろう。
いろんなことに失望し、試され、迷い、自分しか頼れない。
それでも、ガツガツ、キュウキュウとしたところがないのだ。
大切なものがわかっていて、それを本当に大切にしているのだろう。
がむしゃらにではなく、パリという街でごく自然に呼吸ができる人たち。
彼らの物語はまた明日へと続いていく。

著者の、いい意味での気負いのなさが魅力だ。
淡々とした中にもぬくもりの感じられる文章に
惹き込まれ、ほろりとさせられる。

読み終わったあとのあの素敵な感じは、うまく表現できない。




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「塩一トンの読書」

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この春から、就寝前に読む本は「須賀敦子全集」と決めている。
ほんとうに目を閉じるまでの、短い時間に
少しずつ少しずつ、ページをめくるのは
贅沢で幸せな時間に思える。
いや、正直にいえば、もったいなくて一気に読めないのだ。

マルグリット・ユルスナールというフランスの作家に
対する、須賀さんのひたむきな情熱に引き寄せられて
第三巻から手に取り、読み始めた。

第三巻に収められているのは、
須賀さんの敬愛する作家の作品とその作家論を語る、
「ユルスナールの靴」
ヨーロッパの建築をめぐる歴史に対する深い洞察、
「時のかけらたち」
いずれも、主題をとおして著者の過去へ回帰するという
かたちをとっている。そして、
ローマのゲットを実際に目にして、ひろがっていく思いから
イタリアの中でも格別の、ヴェネツィアで過ごした日々、
「地図のない道」
以上の三冊の単行本の内容のほかに
1993年から1996年のエッセイが入っている。

とくに「時のかけらたち」で感じたことだが、
描写がすばらしい。
古びた大きな教会や、階段や、橋が、そこに構えられていて、
その近くで語らう人々の様子さえ浮かんでくる。
いくつかの歴史的事実が、その建築物をさらに重厚にする。
著者の深い洞察が、あたらしい発見をもたらしてくれる。

須賀さんの文章は、読みやすいのに、
ときどきとても鋭くてはっとさせられることが多々あるが
なかでも、須賀さんが生前の夫と暮らしたミラノのアパートの話。
廊下の突き当たりにある小部屋は、もともと物置だった。
そこに、夫の両親が昔、ユダヤ人を匿っていたことがあった。
小部屋には外からは見れない、小さな窓がついている。
「夫がいない昼間、天井の高いキッチンでアイロンをかけたり、
 夕食の支度をしたりしながら、その窓を見上げると、
 背筋に寒いものが走った。ゲットも、戦時のユダヤ人の話も、
 私にとって遠い出来事ではなかった」(本文より引用)
の一文は、衝撃的だった。

エッセイでは、ぐっと文章の全体がやわらくなり、
微笑ましい印象をうける。
わたしがいちばん好きだったのは「塩一トンの読書」だ。
新婚のころ、須賀さんは姑から言われた。
「ひとりの人を理解するには、すくなくとも塩一トンを舐めなければ。」
その言葉の意味するところは、嬉しいことや哀しいことなど、
色々なことを相手と共に経験すること。
塩一トンというのは莫大な量だから、舐め尽すには時間がかかる。
それだけの長大な時間をかけても、一人の人を理解することは
とても難しいことなのだ、と。
その対人の部分を、須賀さんは読書に置き換えて考える。
「すみからすみまで理解し尽すことの難しさにおいてなら、
 本、とくに古典との付き合いは人間どうしの関係に
 似ているのかもしれない。
 読むたびに、それまで気が付かなかった、あたらしい面が
 そういった本には隠されていて、
 ああ、こんなことが書いてあったのか、
 と、新鮮な驚きに出会いつづける。」

わたしにとって、須賀さんのこの全集はきっと、
そういった存在でありつづけるのだろう。
まだまだ、この本の魅力は語り尽くせない。





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旅の終わりに。

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災難つづきの新婚生活が過ぎ、ふたりは果たしてどうなったのか。
「はじめの四年間」の、その後のローラの日記。シリーズ番外編。
本書はローラの遺稿から見つかった、彼女の旅日記に、
娘のローズが最初と最後の章を書き加えて出版されたものである。

ローズは世界を飛び回ったジャーナリストであり、作家であった。
そして、ローラの編集者でもあったのだ。
ローラがインガルス一家の物語を書き始める前に、
ローズは文筆業で世にひろく知られていた。
ローズの存在なくしてはこのシリーズは生まれなかっただろうといわれている。
ローズはローラの文才をいちはやく見抜き、励まし、指導し、支えてきた。
それに応えてローラも出版社からの締め切りを守り、
「大きな森の小さな家」から「この輝かしい日々」まで、8冊の本を書き切ったのだ。

しかし、本書でローズの書いた最終章を読んで、すこし残念に感じたことがある。
一家の永住の地をついに見つけて土地の契約に行こうとしたその日のこと。
ローラ、アルマンゾ、ローズのワイルダー親子3人にちょっとした事件が起きた。
大事にしまっていた100ドル札がなぜか出てこない。
動揺した母のローラが、ローズに訊ねる。
『うちがお金を持っていること、よその人に喋ったりしなかった?』と。
馬車での長旅の食事はいつもキャンプで、他の移民予定者たちとの接触も多かったからだ。
みなが条件のいい土地を求めて旅をしていた時代だった。
両親はよもやローズが隠しているとは思わなかっただろうが、
小さいなりにそのお金がどれだけ重大な意味を持つのか、ローズはわかっていた。
もちろん誰にも喋ったりはしない。そのあと結局お札は見つかった。
ローズとしてはとくに母親に傷つけられたという心情が書き込まれている。
7歳のローズの気持ちを推し量ってみると、たしかにこういった思い出は
多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。絶対的弱者である子どもが、親に感じる恐怖。
少女の、息苦しいような締め付けられるような思いは、じゅうぶん理解できる。
けれども、ローズはもう7歳の少女ではない。
りっぱにプロの文筆家として、母親とすばらしい仕事を成し遂げているのだ。
ローラの死後、娘のローズにローラの物語のつづきが読みたいという手紙が殺到した。
不動産のセールスマンとして、宣伝文も書いていた経験を持つローズは、
人の心をすばやく読み、何を望んでいるかをつかむことに長けていたはずだ。
母に傷つけられたという思いは、何もここで語らなくてもよかったのではないか。
ローラのファンに、娘としての余裕を見せてほしかったというのは、贅沢だろうか。
「はじめの四年間」にあるが、ローズは生まれる半年前に名前が決まっていた。
安定期に入ったローラが、アルマンゾと一緒に馬車でドライブに出かけた草原には
色とりどりの野ばらが咲き乱れていた。ローラは野ばらが好きだった。
その甘いにおいを嗅ぎながら、お腹の子は女の子だとローラは確信したのだ。
予想どおりに女の子を出産してまもなく、『12月のバラは、6月のバラより貴重』と
さりげなく娘への愛情を込めた、ウィットのある一行を書きつけている。
ローズの誕生が「はじめの四年間」のなかでどれだけ希望を与えていたかが伺える。

ローラの日記は、絵のように細やかな描写が光る。風景が浮かんでくるようだ。
事物や人に対しての観察眼にはおどろかされるが、感情は書かれない。
日記がこうなのだから、これがローラの本来のスタイルなのだろう。
現代、ブログ文化が栄えているが、当時の人々もよく日記をつけていたらしい。
開拓移民だったインガルス一家の娘であったローラにとって旅は日常だったが、
新しいことを発見する興味は尽きなかった。
ワイルダー一家としての旅でも、見知らぬ土地で見聞きするすべてに興奮していた。
夜はキャンプの焚火のそばで、アルマンゾの助けを借りながら、
どんな小さなことも洩らさないようにローラはノートに記していた。
青い罫線の一行に、ローラはこまかい字で三行ぶんを書き、ページを節約していた。
そしてこの日記をとても大切にしていたそうである。
インガルスのとうさんが言っていたように、大きくアメリカが変る時代だったので、
そのときの暮らしを克明に書いておけば、
歴史的に貴重な資料になるのではないかと考えていたためだ。
「わが家への道」には当時の写真も何枚か添えられていて、
馬車でぎっしりの大通りなど、現代とは異なった生活様式を伝えている。

晩年、ローラとアルマンゾは馬車ではなく自動車で、西部へむけて旅に出た。
ローラが物語に書いた、ふたりにとっての思い出の詰まった大草原へも行った。
このころにはすでに、とうさんもかあさんも姉のメアリーも永眠。
結婚した妹ふたりのそれぞれの家に立ち寄って思い出を噛みしめたという。
旅から戻って数年後に、デトロイト公共図書館の分館が設立され、
ローラ・インガルス・ワイルダー分館と名付けられた。
ローラは開館式に招待され、アルマンゾもこのことをたいへん喜んだが
92歳という高齢の彼の体調を気遣い、ローラは出席しなかった。
まもなくしてアルマンゾは心臓発作を起こし、二度と目覚めることはなかった。
ふたりが結婚してから60数年の時間が経っていた。
その後ローラは寂しいけれども穏やかな日々を淡々と過ごす。
ローラが90歳の誕生日をローズと一緒に迎えると、たくさんのお祝いの品や手紙が届いた。
アメリカのあちこちで、ローラの誕生祝いが計画されていたのだ。
それから3日後に、ローラはアルマンゾのもとへ旅立った。人生に終わりを告げる旅へ。

シリーズを読み、関連本にも目を通してローラ自身に触れてみて思ったことは、
豊かな人生、ということだった。
1日は24時間、ひとりの人間に体はひとつ。これは絶対に変えられない。
自分がなにを持っているのかに気づき、工夫し、持っているものを味わい尽くす。
物質的なことにかぎらずに。
そんなローラの生き方は、この先もずっとわたしを魅了しつづけるだろう。

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