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ばーさんのレビュー一覧

投稿者:ばー

66 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本夜のピクニック

2008/05/25 21:40

恩田陸の名作

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 解説で池上冬樹が述べているけれど、名作と言うのは、それだけで一定のリスクを負う。
 古典となっているのならいざ知らず、「現代の名作」と言うと、なかなか評価が分かれる所である。それだけ現代という時間は捉えにくいとも言えるし、それだけ現代人の価値観が多様化しているとも言える。
 これは私が以前から言っていることで、また同時に、現代という一つの現象を捉える為の重要なセンテンスの一つであると思うのだけれど、つまり、そういった言説空間に言ってしまえるのは、「自分が良いと思うものが名作」というフレーズだと思う。と、いうか、これさえ自分の中で確信してしまえれば(もしくは開き直ってしまえれば)、より良い「自分の読書体験」を構築できる。ベストセラーであろうとなかろうと、受賞作であろうと候補作であろうと、そして、評判の名作であろうとなかろうと、大切なのは自分自身なんだと思う。まあもちろん他人の声もある程度は聞くバランスは必要なんだが。

 本作、『夜のピクニック』は名作と言われているようだ。実際、第二回本屋大賞も取ったし。これ以前の恩田の代表作もあるけれど、直木賞を取らずして本屋大賞を取る、という我々と文壇のひずみ、なんて言ってしまえるけれども、とにかくこの本は良い話だ、というのは聞いていた。

 実際に読んでみて確かにこれは名作かもしれん…、なんて思った。簡単な言葉ばかり使っている=読みやすい=言葉が頭にすいすい入ってくる、というのはもちろん、物語の引っ張り方が読んでて気持ちいい。よく、「中盤はだれる」と、どんなメディアの物でも言われるものだが、『夜のピクニック』は違う。そして、腹違いのきょうだいが同じ高校で夜通し同じイベントに参加して徐々に打ち解けていく、なんて、ちょっと間違えばどろどろした話になりがちなストーリーを爽快な、それでいて感動する話に仕上げているのは、物語の引っ張り方、いくつかのサイドストーリーの挟み、それらを配置するテクニック、いずれも恩田の力量のおかげだ。感情の精緻な流れの描写もポイントの一つだ。流れるような文章には、これも起因している。

 恩田が書いているのは完全に健全な優良物語ではない。腹違いのきょうだい、という設定からして窺えるのだが、人間のちょっとした負の面、負の姿、などを巧みに恩田は操っている。主人公の一人、西脇融を慕う女子生徒の姿など、これは皆さん分かってもらえると思うのだが、本当に嫌なもんだ。そういった要素を織り交ぜて、全部解決するのはもちろん、その合わせ業の過程が上手い。ばら撒いたトランプでタワーを作るかのような、大胆さと精密さが分かりやすく書かれている。どんなカードであろうと全てがタワーの土台なのだ。

 名作というのは人それぞれが決めるもので、いかなる物語でも名作になりうる可能性を秘めている。そういった集積が世に言われる、その世代を代表する名作になるのであり、土台である「人それぞれ」は避けてはいけないものだ。名作に盲目になることも、服従することも必要ではないが、「名作」と聞いて、それは自分にも関係する、自分が投票権を持つ、ということを頭に入れておいた方がいい。

 『夜のピクニック』の名作投票への参政権をやっとばかし、私は手に入れた。とどのつまり私に言えることはただ一つ、この本に出会えて良かった、その一言に尽きる。是非御一読を。

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紙の本時が滲む朝

2008/09/22 22:37

アイ・ラブ・国家。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 久々に文学らしい文学を読んだ気がした。日本のお家芸である自然主義をこんなにも力強く、スパッと書ききったのが中国出身の女性であることは、なんとなく寂しい。とにもかくにも読むのが止まらなかったのは事実。日本の最先端をずばーっと走っていくのもいいが、たまに振り返ってみると、こんなにも良い文学があることに気付く。やっぱり芥川賞、捨てたもんじゃないなあ、と小説を読む楽しさを取り戻した気がする。これだよこれ。こういうのを今の時代に読みたかったんだよ。

 第139回芥川賞受賞の今作の作者は楊逸(ヤン・イー)。第138回の芥川賞候補になり、話題になった。その時は「日本語のレベルが今ひとつ」という批判も受けたが、今作はその課題をクリアしていると言えるだろう。むしろ、拙さという技術を使っているようにも感じる。

 ものすごく気になるのだが、私たちは時代に関わっていると言えるだろうか?
 この小説を読んでいる間、ずっとそんな自己問答を繰り返していた。
 天安門事件から北京五輪までを背景に、中国の民主化を目指す主人公の希望と挫折、回復を描く、この『時が滲む朝』。
 私のような一人の日本人が苦い気持ちで胸に浮かんだ感情は
「なんてうらやましいんだろう」
 の一言に尽きる。
 主人公の浩遠(ハウ・ユェン)はじめ、登場人物は一言で言って「熱い」。今の日本で言う所の「イタイ」と紙一重の熱さ。特に大学時代の頃の彼らの会話は読んでいるこちらまで気恥ずかしくなってくる。その気恥ずかしさを打ち消しているのは彼らの純朴さ。いやらしさが無い。飾り気がない。
 「中国の民主化」への情熱が、浩遠の理想と現実のギャップからの苛立たしさ、絶望を際立せるのはもちろんのこと、この純朴さが、なんともいえない良い味を出しているのである。
 三田誠広『僕って何』、島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』などの作品が思い浮かんだ。どちらも1970年周辺、まだ日本が時代と関わっていた頃だ。つまり、一人ひとりがなにかをしようとしていたし、なにかが出来ると信じていた頃だ(と思う)。
 それらの「行動を起こすという行動」がちょっと辟易されるような、そもそも「行動を起こすという行動」さえも相対化してしまった現代社会の中では、『時が滲む朝』のようなタイプの小説は、古めかしいようにも思えるかもしれない。
 だけど、ええやん、どっちかと言うと今の方がおかしくない?と私は思うのである。

 お国柄、と一言で言ってしまうのは軽すぎるし、それじゃあ日本の寂しさばかりが目立ってしまう。おおい、悔しくないのか、寂しくないのか、日本人。こんなにも自分の国を憂う人種がまだまだ世界にはあるのである(とりあえず暴食経済やら、パクリ文化とかは脇に置いて、この小説だけで考えて)。プチナショナリズムみたいな日本万歳はいらない。(笑)がつく日本万歳もいらない。暴走しない、もっと素直な愛国心が欲しい。
 この文章のような素直で素朴な文学を読むと、無性にうらやましくなるし、なんだが日本文学の将来とかどうのこう言うのが空しくなっちまうんです。嗚呼。もう日本人じゃあこういうのは書けないのかな。

 そんな一冊。是非ご一読を。

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紙の本女王国の城

2007/12/28 14:48

15年ぶりの江神さんを待っていた!

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 江神さんが帰ってきた!

 『月光ゲーム』、『孤島パズル』、『双頭の悪魔』に続く、「学生アリス」シリーズ待望の第4弾である。おなじみの面々がやっと顔を合わせてくれました。

 著者は有栖川有栖。ミステリ界のベテラン(大御所と言っていいのかもしれない)の一人。メフィスト賞で新しい推理作家が濫立する以前の人です。エラリー・クイーンの作風に大きな影響を受けている人で、「本の中に書いてあることだけで推理する」を忠実に行っている人。特にこの「学生アリス」シリーズ(これとは別に「作家アリス」シリーズがあり、主人公の名前はどちらも「アリス」。微妙に両者のシリーズがリンクしあってます)の中には「読者への挑戦状」が挟み込まれており、エラリー・クイーンに大きな敬意を払っているのが分かります。非常に本格派、そしてフェアな作風の人です。

 と言っても、私が推理して犯人をあてたことは未だに無い。もともとのミステリが「フーダ・ニット(犯人探し)」であるのに、それが出来ないようなミステリが増えてきている中で、この人のミステリへの姿勢は、非常に好感を持てます。

 前置きが長くなってしまった。

 江上部長がいなくなった。英都大学推理小説研究会の面々は、残された手がかりをもとに、江神が今話題の宗教団体・人類協会総本部に向かった事が分かった。江神は何故そこに向かったのか?訝しむアリス達は、困難辛苦の末、やっと江神との再会を果たすが、<城>内で殺人事件が発生。アリス達はまたもや殺人事件に巻き込まれ、軟禁されることになる。自由を求めるために推理を繰り広げる面々。怪しげな協会の内情、連続殺人、UFO。<女王国の城>からは出られない?

 というわけで、今回のテーマは「宗教」。「いやー、めんどくさいのをテーマに選んだなあ…」と当初は心配していたのですが、そこは有栖川有栖!ちゃーんときれいにまとめました。真相を見る限り、やっぱり宗教に対するアプローチってのはそこに落ち着くわけね。うんうん。
 宗教がテーマなので、推理を行う上で様々な障害が立ちふさがります。マリアが、「土台の無い上に家を建てるようなもの」と述懐しますが、まさしくこの言葉がこの作品をよく表現しています。
 トリック自体はいつも通り、江神達が推理していく過程で徐々に解き明かされます。謎明かしで明かされる一番の大きなトリックは、「あー、そこに関連するのか」という感じ。確かに書かれてはいるけど、これは視点を変えなきゃ解けないね。

 あと、15年ぶりということで、当時(バブルに翳りが出始めた頃)はリアルタイムであった懐かしい出来事に「意図的に」多くを割いています。
 ただ、当時の出来事を私は知らない(未体験)ので、多くを割いているトピックが、推理に関係しているのかどうかがちょっとあやふやだった。知ってる人にはノスタルジーなのかもしれないが。

 皆が浮かれていたバブル。カルト宗教も当時流行(?)していたのでしょう。そういう意味でも、この『女王国の城』自体が、過ぎ去った「良き時代」への、有栖川からの長いノスタルジーになっています。明かされる真犯人の屈折ぶりも、なんだか翳り行く時代(今へとつながる下降の兆し)の象徴のように感じた。

 それはそうと、アリスとマリアの恋愛は一体どうなるんだ!全5作品らしく、残された一作で急展開を見せる!?気になるから早く続きを…。また15年待たされたらどうしよう…。

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緻密な画力に太鼓判

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「本の本」というジャンルの中では現時点マイ・ベスト。

 「本の本」という広いジャンルは、一言で言えば本に対する接し方を様々な方法でアプローチする様を表したものだ。本そのものについて、本の流通について、本に関わる人について、本の周辺の環境について、本を受け入れる社会について、本の歴史について、などなど様々な形が「本の本」には含まれている。また、その表現媒体も様々であり、小説、漫画、評論、ノンフ…実に多い。

 『センセイの書斎』が取っている形式は、様々な人物の書斎を見せてもらい、インタビューを行うというものだ。この形式自体はありふれたものだ。書店、図書館の蔵書についてスポットライトを当てているのは珍しい部類に入ると思うが、「書斎を見る」というテーマだけ着眼すれば、それほど目立つものではない。
 
 本著が他の類似「本の本」に比べ、抜群の魅力を持っているのは、文章に添えられたイラストである。
 緻密な手書きイラストが一人(ルポの相手は31人)につき平均1ページ載っている。緻密な画力で書斎の雰囲気を写し取っているのだが、その緻密具合がハンパではない。
 本書のような形式の「本の本」には一般的に、その場の様子を表現するために写真が好んで使われる。なぜなら、大抵の本好きは本が好きであり(当たり前だ)、ということは必然的に蔵書も数多くなるので、写真でその場をパッと撮ってしまうのが手っ取り早くて簡単だからだ(と思う)。
 しかしどうだろう。何でも写真で写せばいいのだろうか?人物を写す余りにビミョウにピントがずれていて、おかげで本の背表紙が見づらくなっているもの。要所要所を抑えたつもりなのだろうか、その場の全体像がはっきりしないしないもの。
 私はかねがね思っていた。なんか物足りん、と。

 この本は良い。実に良いのである。私好み、と言っちゃあおしまいだが、こまかーい、ちまちまー、ぎっしーり、のような擬音語を好む人にとっては、興奮する程の出来。人物画は当然(またこれが巧い)、棚の設置状況、スペース、一冊一冊手書きの書物、所有本のタイトル(全てではない)、それぞれの膨大な書物保存法、部屋の寸法を測ってまで書いた精密さには驚かされる。かゆい所、つまり、本好きが知りたい所にちゃんと手が届くよう配慮しつつ、手書きの手作り感、素朴さのようなものが本の中から匂い立ってくる。プライベートな空間である書斎を、読者が自由に理解する為には、手書きのイラストの形態の方がしっくりくるのかもしれない。際限なく緻密に描かれると、なぜか「知り尽くした!」という感触をじんわりと反芻できる気がする。

 ノンテーマに限りなく近いのは、様々な人の様々な書斎を見せるため。その方が様々な書斎を描くことができる。枠組みを固定してしまうと、違いが楽しめない。全く違う分野、全く違う専門であるからこそ、その違いを描く緻密なイラストが生きてくる。
 この一冊にかけた筆者の時間が、そのまま読書の味わいに直結する、良い本でした。

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紙の本ゲーム的リアリズムの誕生

2008/09/07 13:34

現代文学認識論の最高峰。

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 東は、もとは現代思想の分野の人で、オタク分野まっしぐらの人ではない。講談社べったりのサブカルの権威のようにも見えるけど、東自身の態度は客観的な態度でオタクを扱っている。ポスト東の芽がちらほらと見えているようだけど、先人(大塚英志は正直東をどう思ってるんだろ)からのお墨付きを受けた、現状認識論者の一人としては優れた評論家の一人である。

 前作、『動物化するポストモダン』で東が描いた現在のデータベース社会は以前隆盛を極めている。現在の物語を巡るポストモダン化は拡大の一途を辿っている。この点に即して今著も書かれたのだけど、前作に比べ、より文学の比重が増し、オタク的作品を多く扱うなど、東も言っているように、今作は前作を踏まえての応用編になっている。と言っても、前作読まなくても今作だけで十分理解できますから安心してください。

 私にとってこの本は、本の読み方、捉え方がまるっきり変わってしまうほどのインパクトを持つものだ。
 この本には様々なことが書かれていて、全てを私が紹介するよりも、「とりあえず何も言わずにこの本を読めば良い」レベルにまで達しちゃってるので、あんまここでは書きませんが、その中でも一つ、印象に残ったことを挙げれば、それはつまり、「今までの読み方では対応できない本が出現してきていて、こちらの(読者の)読み方を使い分けなければ、面白さ、すごさ、を全然理解できない」ということ。
 今までの読み方を「自然主義的読み方」(近代から続く一般的な小説)、「ライトノベル的読み方」(そのままずばり)とに分けて読まなくちゃならんよ、って東は言ってる。的確であり、まさしく秀逸。
 その他にも、これら二つを含んだ、ゲーム的リアリズム、読む媒体の如何を問うのではなく、その作品の周囲の環境(読む人間、作られた時代、など)を考える環境分析論、などが散りばめられている。

 まさしく画期的な話ばかりで、「その通り!」と思う箇所(ひぐらしのメタフィクショナルな点など)がバンバン出てきて、久しぶりに読書を通じての気分の高揚を味わった。

 だけどもだけども、オタク的文化には深い記述、多種多様な参考文献などがあるけど、文学の方にはあんまりありませんね。オタク的文化ありきで論を展開しているから、どうしても本格的な文学論にはなってないような。確かにですよ、これだけの読み方の区別化を示した後で、一般文学について論じるとなると、「なんだか意味ねー」感はアリアリだけど。扱う対象を飛躍させなければならないのは分かるけども。

 そこの部分の物足りなさは確かにある。一連のオタクブームはブームでしかないでしょ?と反証することも出来る。ただ、歴史を見ても分かるように、文化の反動運動がまだオタク的文化に対しては生まれてきていないように、どうやらゆるやかと、本当に東が言っている世の中になってきているようにも感じる。近い将来には本の二極化など言わずに、のんべんだらりとオタク的文化が浸透するのかもしれませんね。その是非など問うまでもないような社会に。

 ただ一つ。名著かどうかは各人が評価することなので、もっとも私は「これ傑作だ!」って言えるけど、そこは置いておいて、とりあえず読書人はこれを読まなくちゃいけません。
 前作に比べ、やや偏りが見られるかもしれない。だけども今作はオタク的文化を通した、客観的な、とっても優れた現代文学認識論であると共に、「ライトノベル的読み方」を知らずオタク的文化を毛嫌いしている人にとっては良い入門書にもなる一冊ですので、是非ご一読を。

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紙の本Tokyo style

2008/11/23 17:54

限りなく広がる誰かの部屋が。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人の住む部屋にはその人の個性が滲む出るもので、どんなにステレオタイプな見かけをしていても、その実、一部屋たりとも同じ部屋はない。どこかに違いはあるし、むしろ、だからこそこの本のような本が世に出る証明にもなる。
  
 都築響一の『TOKYO STYLE』は、ページをめくる手が止まらなくなる一冊だった。どこまでも拡がる誰かの部屋、部屋、部屋。それらの部屋には、姿形が簡素でシンプルで、どれだけ非有機的であろうとも、誰かの息吹が必ず感じられたし、どれだけ煩雑で、汚く、足の踏み場が無くても、住んでみたくなる魔力に満ちていた。
 この本の中の部屋に「清潔」という言葉が似合う部屋は少ない。むしろ、作者が触れているように、「カオス」、「混沌」という言葉が似合いすぎる部屋が過半を占める。
 そのような意味で、この本は「インテリア・ブック」、「美術本」というジャンルからは大きく離れる。それはそのまま作者の意図通り、私たちに一般的な美、美術的な美とは違う、汚く、整理されてない美を思い起こさせることに成功している。
 綺麗で整っていて、ソフィスティスケートされた空間だけが、部屋の理想ではない、という一つのアンチ・インテリアを示唆させるこの本の試みは、「少しでも自分の部屋をかっこよく見せたい」という私のような見栄っ張りインテリア初心者だけでなく、資本主義の世の中で自由に着飾る元・猿の私たちを強烈に罵倒しているように思える。かっこいい部屋が部屋の理想なのではなく、理想の部屋は、住みよい部屋=ありのままの部屋なんだ、と最も分かりやすい手段でこちらに伝達してくれる。その意思は猛烈に良い。

 ともかく、個人的にもこの本は宝物だ。きっと何度も読み返すに違いない。読書中は、感傷のような感情がじっとりと胸にあった。懐かしくも温かい、だけど、私とはなんの関係もない、なんて楽しいことか、他人の部屋。ただ大量の本がある部屋が載っていたから買っただけなのだが、得した気分。
 人の住む部屋は、棲む部屋なのであり、この本の中に出てくる部屋達が、とても懐かしく感じるのは、私にとってはきっと一生知らないであろう、踏み入らないであろう部屋だからなのか、満遍なくどれもが一過性に満ちている。この部屋達は紛れも無く一瞬の部屋達であり、知らない誰かの生活の1ページであり、カメラのシャッターを切ったそのすぐ後に紛れも無くこの部屋達は無くなる。文章も然り、なのだが、写真はそういう意味での「ある瞬間にとどまる瞬間」が限りなく儚い。写真としてモノは残るが、その向こうの対象はすでにない。現に、あとがきにもあるように、書籍化された当時においてすでにこの部屋の住人達は90%が引越しをしてしまっていたらしい。当然と言えば当然、だが、私はますます感傷を覚えた。
 『TOKYO STYLE』と銘打って描かれた生活の一場面が、真実の『TOKYO STYLE』なのだ、と忘れずにいたいと思う。

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紙の本迷路館の殺人

2008/07/27 17:45

傑作入れ子状ミステリ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 綾辻行人の館シリーズ第三作。複雑な構成と様々なトリック、驚愕のどんでん返しが魅せる、傑作。これはすごい。

 奇矯な建築家、中村青司が建てた館、「迷路館」。その迷路館で、パーティが開かれた。主催は、館の主人であり推理文壇の大家、宮垣葉太郎。出席者は、彼と懇意にしていた、推理小説家、評論家、編集者、そして島田潔。中村青司の怨念か、巻き起こる惨劇。密閉された迷路館で次々に起こる事件を島田は解決できるのか。そして、館トリックは。一冊の本を閉じた時、脅威の事実が浮かび上がる、綾辻行人の傑作。

 というのが大まかなあらすじですが、この「綾辻が書いた方の」『迷路館の殺人』は、この事件自体が隠れる程の大仕掛けがあり、実はそちらがこの本の注目点であったりする。
 本を読み始めて分かることだが、この一冊は入れ子状、作中作、劇中劇というような構造になっている(講談社ノベルでお馴染みの扉、奥付がついている)。この入れ子状の形式を綾辻がミステリ本線に絡めようとしているのが分かる。
 物語の冒頭、一冊の本が島田に届けられるところから話が始まる。我々は、綾辻が書いた『迷路館の殺人』を読みつつ、その誰かが(作者も推理しなければならない)書いた『迷路館の殺人』を読むことになる。そして、物語本編へと我々は島田と一緒に入っていくことになる。
 ミステリをそんなにがっつり読んでるわけじゃないけど、これは新鮮だったなあ。深読みさせられる。犯人は誰か、この小説を書いたのは誰か(往年のミステリファンにとっては簡単な謎解きだったらしいですが…)、館トリックは何か、はもちろん。明らかに入れ子状を前面に出してるので、それを使ったトリックは何か気になって仕方なかった。

 さて、肝心の殺人自体はやっぱりの綾辻で、ああ、この人はこういう風に話をまとめるのね、って感じ。だけどもそろそろ館トリックに頼りすぎの島田さんにツッコミを入れたくなってきた。しかも意外と簡単に分かっちゃうのね。殺人が完全に前座のような扱い。
 それはともかく、物語のラストの三回転宙捻りみたいな結末は見事。入れ子状のトリックを使った意味が分かるわけだが、いや本当気が抜けない。本編のおおまかな種明かし、本編の本当の種明かし、そして意外な種明かし。

 入れ子状を上手く有効活用した本作は、読み応えがあるミステリ。是非とも驚いてください。

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紙の本ニッポンの小説 百年の孤独

2008/04/12 13:33

何も出来ない不安と、何かが出来る希望。

6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 高橋源一郎の評論集。

 この本は、おそらく高橋源一郎の評論集大成であろう。様々な紙上で行われてきた評論、書評、雑感から生み出されてきたさまざまなファクターが、大きく収束されて、一冊の本を構成している。
 高橋は何を伝えたかったのか。何を言おうとしていたのか。おぼろげながら、見えてくる気がする。

 幾分漠然とした「問い」や、「答え」が多いのは今までと変わらないが、この一冊が「高橋の集大成」たらしめているのは、本文ラストにおいて述べられている、高橋の悲観的な絶望だ。長いが、引用する。

 【(留置所での生活、失語症の経験に触れる)
  だが、違うのです……わたしには、わかっていました。あの時、わたしは、なにかを話すということが恐ろしくなったのです。誰かになにかを話すというようなことは、ほんらい、不可能なのだと思ったのです。言語を使って、誰かとコミュニケートするということが、異常なものであることに気付いたのです。つまり、わたしは、やっと正常になったのです。そして、世間は、そういうわたしを異常であると見なしたのです。】

 つまり、高橋には「人に対して何も伝えることが出来ないかもしれない、という不安」があった。にも関わらず、「小説を書くことがその不安を打開する可能性になるのではないか」と感じた。
 そして、小説を書いた。今も書き続けている。

 文学の根本的なことを考え続けるのも(ちなみに本作では、「死者」、「近代文学」、「女性のための文学」、「詩に対しての散文、としての小説」などを高橋は考えている)、その根本の言葉、日本語について考えるのも、学生運動で捕まって、失語症になったのも、

 すべてこの不安から派生している、と考えられる。

 高橋にとっては、文学は不安と希望が入り混じった複雑なものなのだ。どこか他の小説家とは違う、調子外れな所がこれで解明されるように思える。おそらく、高橋自身にも明確な答えは出ていない。

 もちろん、「これは後から継ぎ足した言い訳」、「己の行動を辻褄合わせているだけに過ぎない」という意見もあるだろう。高橋の言動からそう疑われても仕方が無い。

 だがどうだろう。このような行動をしている人は珍しいのではないだろうか。私は小説家では保坂和志ぐらいしか思いつかない。

 高橋の姿勢は嘘であるに本当であるにせよ、高橋の提起する問題は、まさしく「早急に考えなければならない」ものだ。

 私たちは、高橋個人について言及するよりも、高橋が必死に考えている事柄に目を向けなければならない。

 高橋が今も求めているように、「小説とは何か」「文学とは何か」という解決し得ない問題に、漸進的に対処していくことが現在は求められているのではないだろうか。
 高度資本主義社会、大衆社会となった今、小説のありようはなんらかの変化を求められている。人々が分散し、個人の在り方に明確なもの求められにくい今の時代に、こういう「ムズカシイ」問題を考えることこそが大事なのであり、それは必然だったのだろう、と私は感じる。

 デビュー作でもはや絶望していた、というスタンスは太宰治を思い浮かばせる。読み終わった後、思わず「死なないで、げんちゃん!」なんて考えてしまった私は、考えすぎだろうか。

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紙の本プールサイド小景・静物 改版

2008/03/14 13:35

何にもない良さを語るのはとてもたいへんである。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 庄野は、昭和29年(1954年)に本収録作『プールサイド小景』で第32回芥川賞を受賞。
 
 収録作は、表題『プールサイド小景』、『静物』をはじめ、他に『舞踏』、『相客』、『五人の男』、『イタリア風』、『蟹』、など計七編。

 庄野潤三というと、続けて小島信夫、安岡章太郎、吉岡淳之介、と続けて連鎖が私の中では形成されていて、ああいいなあ、ここらへんの時代の小説は、たまらん、などとついつい気づけばこの時代の人達の小説に還っていて、その還りからまた新しい読書のリズムを刻みだすきっかけになるのですが、「なんで私はこんなにもこの人たちに惹かれるのだろう」などと前々から思っていて、ノスタルジーでもないし(私がまだ生まれてない)、個人的にその作家が好きというわけでもないのに、なぜか惹かれてしまう。好む理由がいつまでたっても分からない。

 七編の短編が収められているが、それらの作品の特徴として考えられるのが、よく言われているが「平穏な日常の危うさ」がまず一つ。これは全ての作品に共通していると言っていい。『舞踏』での夫の浮気、『プールサイド小景』での夫の突然の解雇、そして告げられる愛人の存在。
 なんでもない日常を、あくまでも私小説的に描きながらも、「すこし」壊す。絵画の青空にサッとグレイで曇り空を表現するように。庄野の描く不安の影は、本当に、ほんの少し。主観的で申し訳ないのだが、その不安の広がり方は、「じわじわ」でもなく、「ずん」でもなく、「サッ」なのである。平穏で、それこそ模範的な文章の中に、不安が一瞬、ある。そしてそれでいて、文章全体の不安と平穏のバランスはどちらにも揺るがない。

 もう一つ。

 先程、「私小説」と書いたが、庄野の作品は、おそらく彼の体験、彼の歴史を下敷きにしている。だから、この一冊に収められている全ての作品は、それぞれが関連している(ように見える)。頭から順番に読んでいき、最後の『静物』という断片で形成された小説を読むと、『静物』が、それまでの作品全てを補っているように感じる。つまり、『静物』にはそれまでの短編のエピソードが「すこし」変えられて含まれている。意図的かどうかは分からないが、なんだか、この一冊で、一つの物語が浮かんでくるようで、面白く感じた(まあ、気のせいかもしれないが)。

 最後にもう一つ。

 物語の視点が物語外の第三者に任されていることからも、庄野の描く小説の世界は、常に客観的であることが求められている。だから平穏も不安もそれほど深刻にならないのかもしれない。
 だから安全であり、読みやすい、とも言える。客観を創り出すことで、静寂さを作っている。
 だけども、なんでもない事柄(事件、家庭など)を自身から突き放すことで生まれる、なんでもないけどちょっと影のある物語に、なぜか惹かれてしまう。
 これが本当になんでもない物語で、本当にさらっと読んですぐ忘れてしまうような物語だったらこうまで惹かれない。

 最近では、保坂和志を読んでもこういう感情が湧くのだけれど、安全な物語であるのに、それだけでは済まされない何かがあるように思えて仕方ない。
 自分でも説明できないことを文章化するのは至極困難だけど、なんだろうなあ。静寂だから良いでもなく、静寂なのに良いでもなく、文章がきれいだからでもなく…。ほぼ出来事がゼロに等しい「なんにもない良さ」なのかな。こういうジャンルは確実に存在しているのは確かだと思う。

 ものすごく良いんだけど、説得力のある言葉を書けないのが残念。庄野潤三、グッドです。

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紙の本天帝のはしたなき果実

2008/02/28 13:57

圧倒される優雅な「舞台」。絢爛豪華な「本格」世界。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

第35回メフィスト賞受賞。

すごいのである。ものすごいんである。

 有栖川有栖が述べているように、今作は、中井英夫の『虚無への供物』の影響が見られる本格推理物。また、「読者への挑戦」に近い、「劇場より」(作者は、この物語を一つの舞台として扱っている)があることからも、有栖川有栖などの本格推理に強い影響を受けていることが分かる。つまり、読者参加型完全本格推理。つまりつまり、私が大好きなフェアプレイ精神溢れる推理物。

 音楽神(ミューズ)を捉まえるために――
 主人公、古野まほろは、県立勁草館高等学校吹奏学部の第一(ファースト)ホルン。全国大会に出場するために、個性豊かな仲間たちと練習にあけくれる毎日。光輝く青春時代の毎日の中、突然行われる殺人という凶行。犯行声明文の中には、彼らの課題曲『天帝のはしたなき果実』に関連する言葉が並ぶ。次々と行われる殺人。学園の七不思議。軍部と警察の暗躍。淡い恋。浪漫的であり、ペダンティック、そして優雅で独特な筆跡(テンポ)で描かれる、青春群像本格ミステリ。

 まず、独特な文章。
様々な雑学、専門知識で埋め尽くされている。それに伴うたくさんのルビ(創作的で面白いのも多い)。しかし、たとえその知識が些細で込み入ったものであろうとも、そこにはこちらを押しつぶすような圧迫感、いやらしさがない。つまり、知識の出し方、書き方が巧い。読み始めは慣れるまで少ししんどいかもしれないが、独特のテンポは、貴族調であり、優雅であり、高等遊民的であり、浮世離れしている。「ふん、なんだよ、お高くとまりやがってさ!」まあ、確かにそう思う人もいるかもしれないが、その超越的な嫌らしさは、思春期というハードルを取っ払っても十分に許容範囲だろう(私だけかなあ)。

 物語自身の内容はどうか。
 登場人物の独特の経歴、性格は、「すわ、これもキャラ小説か!?」うーん、どうだろう。だけどこれだけ(800頁を使って)有効的に消化されて、織り交ぜているのなら、おーるおっけー?後半に向かうにつれて様々な事実が表れてきて、「いや、ちょっとそれは推理というよりエンタメじゃん」と思う「かも」しれないが、本当に自由に生き生きと人物が踊っている。演じている。
 推理は本格物、しかも読者参加型のため、古典的だが面白いトリックが並ぶ。ガジェットは幾度も使われてきた物たちばかりだが、うん、ある意味冒険活劇。トム・ソーヤー?スタンド・バイ・ミー?
 なによりも見物は、種明かしの場面での、「関係者ほぼ全員」での推理披露会。推理に次ぐ推理。否定に次ぐ否定。「これでQEDなのね」いやいや、実はそれも打ち消し。『虚無への供物』はアンチ・ミステリらしいけど、こういう「物語内での推理否定(のようなもの)」がそれへのオマージュなのかな?でもそれは、驚きの真実で覆われるけど。その真実の部分がアンチ・ミステリなのか?どこかで見たことある手法だけどさすがに言えません。

 推理小説にリアルを求める人は嫌うかもしれないが(「こんなのありえないよ。本格の癖に」)(…私自身、本格の定義はおぼろげですが)、「超常、異能、エリートの人間らによる、本格推理」という優雅で雄大な「舞台」。殺人の非人間性がかすんでしまいかねない超越性。青春という舞台装置で描かれる殺人劇。ペダンティック、ペダンティック、ペダンティック。「芸術至上主義者」の私も、さすがにこう思う。

 「舞台で繰り広げられる演劇に目を瞑って応えるのは無作法だろう」

 やられました。超おもしろい。おススメです。

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紙の本容疑者Xの献身

2012/04/15 00:34

ミステリ小説は読書の同感覚性を持ち得るか?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

第134回直木賞受賞作。

個人的には、ミステリで直木賞受賞はめずらしいなあ、という感想が一つ。
これって確かミステリかどうかで議論されてる作品だよなあ、という感想がもう一つ。

なんというか有名すぎて食わず嫌いしてたというのが正直なところであり、一方で、東野作品だから、面白くないことはないから、と楽しみを後に残していたことも事実。

読んでみるまで感動する話とは想像できなかった。

ガリレオこと湯川学の、事件の犯人であり旧友の石神への友情にも感動させられるが、ともかくというか、やっぱりというか、石神の靖子への稀有な清純で完璧とも言える愛情がすばらしい。

ある理由から、隣人である靖子母娘の犯罪の隠蔽を手伝うことを決めた石神は、大学時代の旧友であるガリレオ・湯川学に「天才」と言わしめたほどの頭脳を使い、論理的にその計画を遂行していく。
また、数少ない好敵手とも言える石神の犯罪に気づいた湯川は独自に推理を展開していく。

ミステリ小説の登場人物として、この石神のような人物に、私は初めて出会った。

彼の行動およびその行動原理である、靖子への愛は、彼自身の破滅を招くものであり、極端な言い方をすれば、婉曲的な自殺である。

一般的な小説の登場人物として、彼のような行動原理を持つ者は少なくはない。

だが、ミステリでは多くはないと思う。

その上、なによりこのミステリ小説に心魅かれたことは、彼の行動原理に基づいた彼の行動および犯罪に対して、読者が「すべては石神から靖子への愛情がなせる自己犠牲であり、明らかなフェイク」と「完全に」理解したうえで(虚偽の種明かしも含めて)、それでいてミステリ小説が成り立っていることである。

ミスリード無しに読者の読みをある一つの解決に(おそらく)「完全に」一致させることは、しかも論理的かつ(おそらく)感情的に誘導させることは、相当稀有なのではないだろうか。

なんというか、たぶんこの件を読んでいる人は絶対にこういう思いを抱くんだろう、こういう解に導かれるんだろう、と読んでいる当事者が感じられること。
皆が同じステージにいることをリアルタイムで感じられること。

読書の同感覚性というか、そういう感覚をミステリで描いた東野さんはすげえなあ、なんて勝手に思ってしまった。

思わず興奮しましたが、そういう文学性抜きにしても、この小説は感動できるのでおすすめ。

ラストの靖子の「申し訳ございません」にはうるっと来たなあ…。


聖者とも言うべき天才の犯罪にページを繰る手が止まりませんでした。

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故郷を遠く離れた人へのバイブル

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 一番は原田宗典の『しょうがない人』であった。
 何がというと、「読んで泣いた本」の順位だ。
 今回の読書で、『東京タワー』は文句無しのトップに躍り出た。正直な話(恥ずかしい話でもあるのだが)、「ずっと」、冗談ではなく「ずっと」、涙が止まらなかった。「このまま読んでいったら間違いなく涙が出るのでもう読みたくない」なんて、大げさだが思ったりもした。

 リリー・フランキーという人は、今では充分知名度があるけれど、おそらく、普通の人は(私含む)、この本が売れに売れて、本屋大賞を受賞して、初めて知った、のではないだろうか。特別テレビドラマ化、テレビドラマ化、映画化までもされ、以降は順当により多くの人の涙を誘っていった。私は先に大泉洋主演の特別テレビドラマを見て(その時もおおいに泣いた)この作品を味わうことになった。大泉洋の好演はもちろん(オダギリももこみちもなんだかイメージが違いすぎる)、ビギンが歌う主題歌『東京』は、頭の中でしばらくリフレインしていた。ドラマなんて滅多に見ない私だけど、あのドラマは良かった。

 私はいわゆる「家族もの」に弱い。泣いてしまう。それも、「家族全体」よりも、「父と子」、「母と子」などの方が涙腺を刺激する。
 『東京タワー』はまさしくそういうタイプだ。「家族全体」よりも、「父と子」、「母と子」。さらに、「父と子」よりも、「母と子」。タイトル通り、中心にはオカンとぼくの関係があり、それに多くを割き、その二人だけの話に時々オトンが顔を出す。だから、原田宗典、志賀直哉のように「父越え」の話ではなく、水上勉のような「母執着」の類型に入る。家族という、どうしようもない程自分が付き合っていかねばならないものに素直に向き合い、ストレートに接した家族小説だ。

 東京にはどうやらより多くの悲喜こもごもがあり、それはそれでどうしてなかなかタイヘンな土地だと伝え聞く。私のような田舎者には、いつまでたっても永遠の憧れみたいになってて、「いつか東京で一旗挙げてやるぜ!」思想は、この先多分無くならないだろう。田舎がある限りそれはずっとであり、日本だけでなく、世界中のあちこちで、東京のような憧れの土地は存在し続ける。人間が人間である限りは、そういう羨望のような胸のもやもやは無くならない。
 だからかどうか知らないが、そんな「国の中心」を描いた都会小説は今までたくさん生産されてきた。そこは書きやすいし、選ばれやすい土地だ。本当に昔の小説の舞台が京の都であり続けたように。そして、いつの時代でも都会者、田舎者は二極として存在し続けるように、都会「側」、田舎「側」は存在し続ける。

 『東京タワー』は、舞台は東京でありながら、視点は明らかに田舎側だ。郷里の母という田舎者が、東京という都会側で生活する所にどうしようもないノスタルジーがある。母と子という関係が、都会というあやふやで怖い所に至っても崩されないイメージに広がる夢がある。
 母と子は最後まで母と子であり、どこまでいっても田舎側。都会的なウィットもソフィスティケートもドライもないけれど、スノッブなんかじゃない。
 都会で繰り広げられるこの夢物語は、ありがちのようでありがちじゃなく、すごく、「ええなあ」って思う。
 
 リリーさんの渋い声がずっと頭の中で音読してくれていて、それと同じくしてビギンの『東京』がエンドレスに流れる。私のような田舎者、それでいて故郷を離れた者は、郷愁にむせび泣くしかなかった。

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一瞬、という尊さ。

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 私はしばらくスポーツから離れていて、今ではすっかり読書人間になっている。スポーツに触れるのはブラウン管(とはもう言わないのか)だけの生活を送るような典型的な文科系だ。
 とかいう私も中高はちゃんと部活をやって、体を動かしていた。良い思い出もあれば、悪い思い出もある。しっかり練習して良いとこまで行った年もあれば、さぼりまくってダメな年もあった。仲が良かった年もあったし、常にぎすぎすしていた年もあった。私自身、誇りに思える活躍ができた年があれば、今でも思い出すような失態もある。
 経験している、経験していない、という区別はできるだけすべきでないが、スポーツだけはやってみないと分からない。他の経験に比べ、直接に、肉体に関わるからであろうか。身体全体を酷使したあの痛み、痛みを乗り越えた達成感、それらは各人それぞれの大事なものになる。思い出すのが辛い思い出の方が多い私だが、それでもやっぱり良い思い出もあるし、何よりもあの達成感は辛い思い出を吹き飛ばしてくれる。スポーツやってて良かった、あの仲間がいて良かった、って思える瞬間は確実にある。

 『一瞬の風になれ』。
 もう随分と有名になった作品だ。有名過ぎて手を出していなかったが、本当に勿体ない事をしていたと思う。もっと早く読めば良かった。頁を繰る手が止まらず、このまま読み続けていたい、読み終えたくない、と心底思った。やはり良いものは良い、のではなく、この本は良い、そう自信を持って言える。

 一人の高校生の、陸上でのサクセス・ストーリーを描いた今作での一番の特色は、「爽やかさ」だ。否定的な「ありえない」ではなく、「ありえない」ほどの爽やかさがこの作品にはある。そしてそれが抜群に良い。
 文章が読みやすい、文体に気を使ってる、というような創作上の爽やかさではない。この物語の爽やかさは、そのままずばりのスポーツをする爽やかさである。この作品全てでそれを表現している。ただそれだけの為にこの三部作がある。それだけ凝縮されている。
 出てくるキャラクターも、私としては思わず懐かしくなるような性格を持った人物ばかり。こういう奴確かにいたよなあ、めちゃんこ強い奴とか、スポーツ一家とか。
 二巻ラストで語られる主人公神谷新二の葛藤と挫折に私の心は強く揺れた。そう、私も辛いことがあって逃げ出した奴の一人なのだ。新二のように逃げて、仲間に心配かけて、そしてそれが嫌ってほど分かり、そんな自分に嫌悪する。私の悩みは新二と比べると小さい悩みだったが、新二の行動は理解できる。事情は違っても、その心理は分かる。スポーツに青春を注いでいたからこそ、分かる。

 一見すると、夢物語や非現実的な物語に取られがちだが、似たようなことはあり得るし(かつて私がいた地区の状況に似ている)、無かったとしても、まさに小説の力というか、読む楽しさを与えてくれる、そしてスポーツをやりたくさせる、良い小説であるのには違いない。

 青春というのは、長い人生の中では、本当に一瞬のことであり、その貴重な青春時代にスポーツを経験する人は多いだろう。大事な思春期がスポーツで埋められてしまうのである。
 でも、だからこそ、何かに夢中になることはとても大事で尊い。例え一瞬であろうとも、その一瞬は、人生における輝く一瞬である。
 擬似体験であろうと、いや、だからこそ、小説でしか分からないその尊い一瞬が、この小説の中には詰まっている。そして、たとえスポーツをしていなくても、この極上の小説を読めば、すぐにでもその尊さを味わうことができる。本を読むことはこんなにも素晴らしいのだ、と気付かされる小説でもあると、私は思う。

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ビブリアシリーズ3巻目。様々な絆をめぐる物語。

14人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ビブリア古書堂シリーズ第3巻。今回も前巻から引き続き、サブタイトルに匂わされていますが、栞子さんとそのお母さんの話。しばらくこのテーマが続くのかな。

 収録「作品」は、『王様の耳はロバの耳』、『たんぽぽ娘(ロバート・F・ヤング)』、『タヌキとワニと犬が出てくる、絵本みたいなの』、『春と修羅(宮澤賢治)』の4つ。3作目の『タヌキと~』はタイトルそのままではありません。その本が出てくる話のテーマが本探しですので、ここでは省略します。

 五浦さんがアルバイトを辞めてしまうんじゃないかと未だひやひやしているのですが、今回ではまだ辞めていません。一度前科があるから、というのも理由の一つですが、何より、栞子さんのその性格の特異性がいつ五浦さんに襲いかかるか、これが怖いです。今回もちらっとそういう疑いが出てきますが、上手く解消されています。お互いの関係性はますます親密になってきていますが(今回は二人で呑みに行っています)、古本+ラブコメのラノベなので、そういうものには別れ、つまりはすったもんだがつきもので、なんだかいやーなすったもんだがありそうで、それにはやっぱり栞子さんの残酷さが原因になっちゃうんじゃないか、と愚考する私。いやほんと、永遠に続いてほしい程好きなシリーズなので、そこはあれ、頼むよ、五浦さん、栞子さん。

 漫画の『金魚屋古書店』もそうだけど、常連さんが頻繁に話に絡んでくるのは良いですね。古本を通して人と人との繋がりが深まり、拡がっていく。これは、ある意味読書という個人的な行為とは真逆の現象であり、それでいて読書と関連性が強い現象であり、読書人誰もの、願いなのではないでしょうか。そういうものを描写してくれる作品が一つでも顕れてくれることは、うれしい限りです。

 栞子さんのお母さんの謎が少しずつ解き明かされていく今作ですが、相変わらず本探偵・栞子さんの頭のキレは抜群です。繋ぐ絆、再生した絆、切れない絆、大切な絆、いろいろな絆が出てきます。望むらくは、栞子さんとお母さんの絆の復活を祈るばかりです。

 残念なことは、今回の3つの作品、どれも読んだことが無い…。いかんなあ、と思いつつ、いやだからこそか、この中で語られていることが有名な事実なのかどうかも分からない。無知な私にしてみれば、作者さん、勉強熱心だなあ、と頭が下がるばかりでございます。

 次巻も期待。次は冬頃で、収録作品も決まっているそうですよ。楽しみですね。

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イチ若者として。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新書ブームだった頃に大いに売れた本の一つ。
 私はどうにもこういう社会系に疎いので未読であったが、100円だったので読んでみた。的確ではない書評、しかも時期を逸した書評になるので、若干の今更感を自分でも感じるが。

 この本のテーマは、「若年層の離職」というよりも、「年功序列制度」なのだろう。
 筆者は、年功序列制度が既に崩壊し、それによる不利益、負担が若者に負の影響を与えていると説く。成果主義を導入しても抜本的に変わっていないので、非正規雇用の増員、新卒採用減などを繰り返しても、負の連鎖は止まらない。
 そこで、我々は現在の昭和的価値観を見つめなおし、自分の本当の仕事の動機を見つけてはどうか、と婉曲的に最後を締めている。筆者は年功序列制度を完全否定するわけではない、と文中で断っているが、幾分操作的な文章である感は否めない。「仕事は根性と気合だ」的な体育会系のビジネス書とは真反対である。
 もとより上記のような主旨であるので、根源的な原因である不況への視点はほぼ無い。が、今の状態を大雑把に再確認し、更に若年層の離職率という卑近なタームへと目をつける点は優れていると思う。私のような門外漢で非常識的な人間にとっては、「なるほどね」と納得する場面が多かった。

 じゃあ実際はどうなのだろうか。
 私は80年代生まれで、徐々に景気が回復していると「された」時に就職した公務員だ。
 同期は前後の年を比べると多く、公務員を志望していた学生も多かったように思う。
 また、私の友人も公務員が多く、彼らの性格、私の交友関係にもよるが、民間に就職した友人よりも公務員の彼らの方が苦労が絶えないようだ。まああまり役には立たない情報だな、これは。
 入社(もしくは入庁)して2・3年足らずだから当たり前かもしれないが(というのが昭和的価値観なのだろうか)、彼らのモチベーションは低い。「仕事だから」という理由で毎日ひいひい言いながら、欝になりかけながらも職務に専念している。
 既に転職した人間もいるにはいるが、ごく少数のようだ。
 彼等(私も含めた)の願いは、「仕事をもっと早くできるようになりたい」、「今の仕事が嫌だ」、「人間関係が嫌だ」など。少なくとも本書で筆者が書いているようなことは誰も言っていない(腹の中は分からないが)。少なくとも、「仕事は嫌だけどやんなきゃならん」である。
 職場の上司も概ね、「仕事はしたくない」派である。ケースバイケースに偏るので恐縮だが、「この仕事は天職だ」という人間は本当に少ないように思える。

 これらの事実から何が見えてくるのか、私には分からない。
 
 ただ、私自身は筆者の主張に概ね賛成だ。だからこの本を読んだ。そして、満足した。
 
 自分をどの程度のレベルに持っていくか、また、その努力をするか。そして、自分がどれだけのレベルであるか「自分で」分かるか。個々人の問題とはいえ、皆が皆そうではないとはいえ、不断の努力は必要だと私は感じる。

 筆者の言うとおり、年功序列システムはもう限界なのだろう。だが、それを立て直す地力が、国にも、人にもあるのだろうか。普通の若者の一人である私は疑問に思う。

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