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  3. 佐吉さんのレビュー一覧

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先月(2017年6月)

佐吉さんのレビュー一覧

投稿者:佐吉

40 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本針の眼

2009/03/25 11:18

スパイ・サスペンスの金字塔

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

《ドイツはほぼ完璧に騙されていた――ただヒトラーのみが正しい推測をしていたのだが、彼は自分の勘を信じることをためらった……》

エピグラフ(題辞)には、A・J・P・テイラー著『英国史1914-1945』の一節が引かれている。

第二次大戦中の1944年6月6日、米英連合軍は、「史上最大の作戦」として知られるノルマンディ上陸作戦を決行し、戦局を決定づける成果を収めた。作戦の準備にあたって連合軍は、ドイツ軍に上陸地点がノルマンディではなくパ・ドゥ・カレーであると思い込ませるための大規模かつ周到な偽装作戦を展開した。中でもとりわけ奏功したのは、ドイツ軍から連合軍に寝返った二重スパイたちの存在だった。連合軍は、ドイツ軍が送り込んだスパイをことごとく摘発し、さらにその一部を指揮下に置き、ドイツに偽の情報を送らせていたのである。

と、ここまでは紛れもない史実である。だが一方で、ごく少数ながら、イギリス情報部の捜査の網を掻い潜ったスパイがいたことも知られている。もしその中に、ドイツに真の情報を伝えた者が一人でもいたなら……。

イギリス名ヘンリー・フェイバーを名乗るその男は、針のように細く鋭いナイフ、スティレットを得物とすることから、コードネーム《針》と呼ばれるドイツ情報部きっての辣腕スパイである。連合軍によるヨーロッパ大陸侵攻の気配が強まるなか、守備隊の配置に頭を悩ませていたヒトラーは、全幅の信頼を寄せる《針》がもたらす情報にすべてをゆだね、彼からの連絡を心待ちにしていた。

ドイツ情報部の指示を受けたフェイバーは、連合軍の機密情報を入手することに成功する。その証拠を収めたフィルムをヒトラーに直接手渡すべく、フェイバーはあらゆる手段を使って祖国を目指す。一方、イギリス軍情報部MI5は、まるで藁の中から一本の針を探し出すように、ほんのわずかな手掛かりからフェイバーの足取りをつかみ、総力を挙げて彼を追跡する。MI5はじわじわとフェイバーを追い詰めてゆくが、フェイバーは巧みにその指のあいだをすり抜け、やがて友軍のUボートが待つ海へ船を出す。ところが激しい嵐に遭遇し、船は難破、フェイバーは荒れ果てた小島に流れ着く。そこは、両足を失った元イギリス軍の戦闘機乗りとその妻、そして幼い息子と老人の4人だけが暮らす島だった……。

スパイ・サスペンスの王道をゆく作品と云ってもいいだろう。片や、冷酷無情にして大胆不敵、常に冷静な判断と俊敏な身のこなしによって、あらゆる窮地を切り抜けてきたスパイのプロフェッショナル。片や、明晰な頭脳でもって緻密な推理を展開する大学教授ゴドリマンと、空襲で妻を亡くし、ドイツ軍への復讐に燃える若き捜査官ブロッグズを擁するMI5。互いに祖国の命運を背負った両者の対決は、ひりひりするような緊張と波乱に満ちた展開の連続で、最後まで1ページたりとも気が抜けない。

ときに、冒険小説においては、ややもするとそのあまりにも波乱万丈な展開に、かえって興が醒めてしまうことも珍しくない。しかしこの作品には、そんな作り物くささが鼻につくところが一切ない。そしてその圧倒的なリアリティを支えているのが、登場人物一人ひとりのこの上なく丁寧な造形だ。主人公フェイバーはもちろんのこと、主要な人物のほとんどが、彼に勝るとも劣らないほどユニークな存在として、実に鮮やかに立ち上がってくる。ほんの一場面にしか登場しない端役でさえそれぞれに印象的で、脳裏にくっきりと像を結ぶ。そんな登場人物一人ひとりの確かな存在感が、物語世界を分厚くし、この歴史の「if」を描いたフィクショナルな冒険小説を、下腹にずしりと響くような読みごたえのあるものにしている。

孤島に漂着したフェイバーは、何も知らない元パイロットの妻ルーシィに助けられる。命を賭した危険の中で絶えず冷徹に自分を律してきた男と、冷えきった夫婦関係に悩み、絶望しかけていた女。二人の出会いは互いの乾いた人生に小さな衝撃を与え、ずっと酷薄な仮面の下に隠されていたフェイバーの素顔さえ見え隠れしはじめる。そしてそれは、物語自体のトーンにも微妙な変化をもたらし、同時に新たな緊張感を産む。そうして物語は、思いも寄らないクライマックスに向かって怒濤のごとく疾走してゆく。そこまで来ればもう、ページを繰る手を止めることはできない。

なお、今回が3度目の文庫化となるこの作品は、1979年にMWA(アメリカ探偵作家クラブ)最優秀長編賞を受賞した、フォレットの代表作とも云える作品である。1981年にはリチャード・マーカンド監督で映画化もされている。主人公のフェイバーを演じているのは、かのドナルド・サザーランド。名脇役として知られる超個性派俳優の往年の怪演とあわせて楽しむのも、また面白いかもしれない。

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紙の本星を継ぐもの

2011/03/03 23:59

超弩級のカタルシス!

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ハードSFの傑作としてつとに有名なこの作品は、本国イギリスでの発表が1977年、邦訳は1980年に刊行され、さまざまなメディアの優れたSF作品に贈られる星雲賞を受賞している。昨年惜しまれつつ世を去ったSF界の巨匠ジェイムズ・P・ホーガンの、デビュー作にして代表作である。

人類が有人惑星探査を始めた近未来、月面に穿たれた洞窟で、宇宙服に身を包んだ一体の死体が発見された。綿密な調査の結果、その死体は現生人類、つまり我々とまったく同じ特徴を有していながら、死後5万年を経過したものであることが判明した。これはいったい何なのか。我々と同じ人類なのか、それとも他の惑星から来た未知の生命体か。あらゆる分野のトップクラスの科学者が謎の究明にあたり、議論百出、百家争鳴、世界中が騒然とする。そんな中、今度は木星の衛星ガニメデで、明らかに地球のものではない巨大宇宙船と、地球上の生物とはまったく系統の異なる生物の死骸が発見された……。

月面で死体が発見される場面は、映画『2001年 宇宙の旅』に登場するモノリスを連想させる。本作の解説によれば、こうした仕掛け自体はSF作品においてさほど珍しいものではないらしい。しかしその謎解きの過程には、SFとして見ても、またミステリと捉えても、思わず興奮せずにはいられない超弩級の読みごたえがある。何がすごいと云って、科学者たちがその「事件」を調査していくプロセスの描写が本格的だ。たとえばこうだ。

「現在わたしどもの進めている化学分析で、チャーリー(月面で発見された死体につけられた愛称:引用者注)の細胞代謝の周期および酵素の作用の量的モデルを作る見通しが立って来ています。遠からず、血液、ならびに体組織中の老廃物および毒素の蓄積の速度が計算できるようになると思いますが、その結果から、自然な状態におけるチャーリーの睡眠時間と起きている時間を割り出せるでしょう。もし、その方法によって一日の長さがわかれば、他の数字もたちどころに量的に理解できるはずです」
「それがわかれば、惑星の公転周期も出るわけですね」誰かが言った。「しかし、惑星の質量はどうかな?」
「それはわかるんじゃないかな。チャーリーの骨格と筋肉の構造を調べてさ、体重と力の比率を出せばいいんだ」別の誰かがすかさず言った。
(中略)
「惑星の質量はチャーリーが携帯していた装置や器具のガラスとか、結晶性の素材からだって求められますよ。結晶構造を見れば、それが冷却した時の重力場の強さがわかるじゃあないですか」

こうした記述をたどるうちに、これは実際にあり得る話なんじゃないかとさえ思えてくる。もちろん厳密に科学的な立場から見れば、そこには虚も実もあるだろう。しかし、小説におけるリアリティというのは、それがどれだけ現実に即しているかではなく、読者の脳裏にどれだけリアルなイメージを喚起するかにある。奇想天外な筋立てでありながら、目の前で展開しているようなリアリティを持った作品もあれば、実際にあってもおかしくない話なのに、見るからに作り物臭い作品もある。この作品は、現実と虚構の狭間の虚実皮膜の面白さを見事に形にしている。「とにかくこういうものとして理解してください」などという安易な姿勢は微塵も感じられず、その徹底した主観的リアリズムが、この作品の迫力をいやがうえにも増幅する。

科学者たちによっていくつもの推論が提示され、そのたびにそれに対する反証が見つかる。さまざまな矛盾は一向に解消されず、謎はさらに深まっていく。ところが、複雑に絡み合ったすべての疑問が、最後にあっと驚く結論に収斂する。もちろんそれは、都合のいい辻褄合わせなどではなく、見事なまでに論理的で説得力のある帰結である。読者は、そこに至ってはじめて、それまでにさまざまなヒントが散りばめられていたことに気づく。正直なところ、エンターテインメント小説としての造りには多少の粗がないでもないのだが、とにかくこの、すべてが腑に落ちる瞬間のカタルシスといったら……ない。

科学的な記述は一見難しそうに見えるかもしれないが、定評のある池の訳文は淀みなくなめらかで、理科系の話は苦手という方でも、読むのに苦痛を感じることはないだろう。もちろんそうした話が好きな向きにはこたえられない作品に違いない。SF好き、ミステリ好きな方はもちろん、小説好きなすべての方におすすめしたい。

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紙の本恥辱

2008/03/21 01:07

絶望と狂気の深淵を描き続ける「北欧心理サスペンスの女王」

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

カーリン・アルヴテーゲンは、スウェーデン南部の小さな町に生まれ、ともに教師を務める両親のもと、常に文学が身近にあり、家族の誰もがものを書くという、知的で穏やかな家庭に育ったという。大叔母に『長靴下のピッピ』で知られるアストリッド・リンドグレーンがいて、その国民的児童文学作家の影響を強く受けたとも本人は語っている。しかし、そんな幸福な少女時代とは裏腹に、彼女が創作を始めたのは実に悲痛な動機からだった。

きっかけは仲の良かった兄の事故死だった。折しも第二子の臨月を迎えていた彼女は、その悲しみをきちんと受け止めることができないまま出産と育児に忙殺され、さらに離婚を経験して、深刻な鬱状態に陥り、療養生活を余儀なくされる。そしてその心の痛みを真正面から見つめるため、つまり一種の心理療法として、文章を書き始めたのだという。

デビュー作『罪』で注目を集め、二作目の『喪失』でグラス・キー賞(ベスト北欧推理小説賞)を受賞したアルヴテーゲンは、一躍「北欧ミステリー界の女王」と称されるようになる。しかし彼女の作品の魅力は、謎解きの妙よりむしろ、心の歯車が狂い、絶望と狂気の淵に追い詰められた人間の内奥の描き方にある。

『罪』、『喪失』の二作は、それぞれ心に傷を負った人物が主人公であり、ミステリー仕立てではあるものの、彼らの心理描写が作品全体に通奏低音として響いていた。続く『裏切り』では、ミステリーというプロットの牽引力に頼ることなしに、純粋な心理サスペンスとして、夫婦関係のみならず人生の破局へと向かう男女の心理を、鳥肌が立つような緻密さで描いてみせた。そして四作目となる本作で、アルヴテーゲンはその筆致をさらに尖鋭化させている。

この物語には二人の主人公がいる。一人はクリニックの医局長を務める三十八歳の女医モニカ。傍目には成功者に見える彼女だが、実は子どもの頃に敬愛していた兄を火事で失い、自分だけが助かったことに負い目を感じている。未だ息子の死を悔やむ母のため、兄の代わりとなるべく常に完璧であろうとする一方で、自分には幸せを求める権利さえないと思っている。

そしてもう一人の主人公、一人暮らしで五十代半ばのマイブリットは、ベッドに横たわることもできないほどの肥満に苦しんでいる。彼女にとってはその身体を他人に見られることが最大の恥辱であり、ヘルパーの介護がなければ日常生活すらままならないにも関わらず、ずっとアパートに閉じこもったまま、傲慢な態度をとってはヘルパーたちを追い返してしまう。

互いに何の接点もない彼女たちそれぞれに、忌避し続けてきた過去の記憶と向き合わざるを得ない出来事が起こる。二人の物語が一章ずつ交互に語られ、各々の心のひだが徐々にあらわになってゆく。ひりひりするような緊張感を保ちながら、話は急テンポで展開し、二つの物語は見えざる手に導かれるようにして、その交点へ向かってゆく。

アルヴテーゲンは今も自分のために小説を書くという。自らを救済しようともがき苦しむ彼女の作品の主人公たちには、皆どこかしら彼女自身の姿が投影されている。それだけに、その内面の描き方には鬼気迫るものがある。ただし本作は、これまでの三作と違って宗教的倫理観が一つの主題になっているため、キリスト教に疎い日本人には、登場人物たちの行動や選択に腑に落ちない部分があるかもしれない。しかしそれでもなお、断崖から深淵をのぞき込むような彼女の筆致の生々しさには、しばしば背筋が寒くなる。それと同じものが自分の内側にもあることに気づかされ、その闇の深さに思わず足がすくむのである。

彼女を創作に向かわせる力が何であれ、アルヴテーゲンの心の奥底を見つめる視線が、一作ごとに研ぎ澄まされていっていることは間違いない。本国ではすでに発表されているという第五作の邦訳も、今から待ち遠しい。

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紙の本変愛小説集

2008/06/02 12:03

純粋で切実で、そしてとびきり「変」な恋愛小説集

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

柴田元幸の最新エッセイ集『それは私です』に、『自動翻訳のあけぼの』と題した文章がある。翻訳ソフトが長足の進歩を遂げ、ついにはさまざまな翻訳者のスタイルを再現できるソフトが登場するというSF掌編風の文章である。そのなかに思わず吹きだしそうになる一節がある。

文中で、その画期的なソフトはユーザーから熱烈に歓迎され、驚異的な売り上げを記録する。しかしやがて、ある思いもよらない事件を引き起こす。

『昨年の夏、ディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』の岸本佐知子訳を「新・訳太郎 Ver 4」で作成し、そのプリントアウトをホテルのプールサイドでのんびり読んでいた四十三歳の男性が、突然、無数の機関車が走っている幻覚に襲われたのである。(中略)男性は病院に収容され、一時は生命すら危ぶまれたが、どうにか回復すると、「岸本訳ディケンズを読んでいるうちに胸が苦しくなって幻覚が見えた」と、翻訳と症状のつながりを異様に強調した』

翻訳文学ファンにとっては楽屋落ち的な笑いを誘われる一節だろう。しかしこれは、決して岸本の訳が奇妙奇天烈だということではない。この一節に妙なリアリティがあるのは、この人気翻訳家の訳書には、「小説とはこういうもの」という既成概念を覆すような、破天荒な作品ばかりが並んでいるからである。

本書は、その岸本佐知子が選んだ、恋愛にまつわる現代英米文学のアンソロジーである。だが(もちろん)ただの恋愛小説集ではない。狂おしいまでの恋心を描いていながら、その対象は近所の家の庭の木だったり、妹のバービー人形だったり。不倫相手の男を丸呑みにし、体内で飼いならす人妻の話があるかと思えば、皮膚が次第に宇宙服に変わってゆき、最後には宇宙に飛び立ってしまうという奇病に冒された夫婦の話があったり。さらには自分の母親を「攻略」するためのハウツーものに、飛行船に連れ去られた妻をどこまでも追い続ける男の冒険譚。本書はまさに、岸本ならではの奇想天外な「変愛」小説がぎっしり詰まった一冊なのである。

評者は普段あまり恋愛小説を読まない。だがその貧しい読書経験を根拠に云えば、いわゆる恋愛小説においては、たとえそれがどのような愛の形を描いていようと、恋愛そのものについては大抵、美しいもの、強いもの、尊いものといった、絶対的な肯定が前提にあるように思う。たとえば禁断の愛や背徳の愛を描いていても、愛そのものは紛うかたなく美しい。少なくとも評者は、恋愛小説というものにどこかそんなイメージを抱いているところがある。

然るに本書においては、そうした前提がまったくと云っていいほど成り立たない。なにしろ木に想いを寄せたり、人形にときめいたり、思いあまって相手を丸呑みにしたりする話なのである。これが「恋愛」とよべるのだろうか、と戸惑う読者がいても不思議ではない。

けれど、そうして先入観から自由になれる所為か、これらの作品を読むと、恋愛小説の苦手な評者にも、登場人物たちの純粋で切実な思いが、不思議と生々しく伝わってくるのである。どれもがとびきり常軌を逸した設定なのに、なぜか心の奥深いところを揺らしてゆく。過剰に美化された恋愛があふれる世の中にあって、これらの奇妙な作品たちは、読者に恋愛という感情とニュートラルに向き合うことを可能にしてくれているのではないか、そんな気がする。

本書で取り上げられた作家には、日本ではあまり馴染みのない名前が多い。邦訳がまだ一冊も刊行されていない作家も何人かいる。本書に収められたそれぞれの作品を読むと、いきおい彼らの他の作品も読んでみたくなる。もちろん辞書を片手に原書と格闘するという手もあるのだが、ここはやはりまた岸本訳で読んでみたい。そう思うのはきっと評者一人ではないだろう。仮にそうしたときに、目の前に無数の機関車の幻影が現れるのなら、いいだろう、望むところだ。

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紙の本納棺夫日記 増補改訂版

2008/04/07 22:50

生と死の現場においてこそ生まれる死生観

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、富山県で葬儀社に勤め、遺体を湯灌し納棺する仕事に就いていた著者が、その「納棺夫」としての日々と、それを通して思い巡らせた哲学的論考を、澄明な文章で綴った一冊である。もともと地方出版社から刊行されたものを文庫化した本書には、3つの章から成る本編に加えて「『納棺夫日記』を著して」という後日談が収められている。

第1章「みぞれの季節」には、経営していたスナックが倒産し、糊口を凌ぐため世間から忌み嫌われる仕事に就いた著者の、困惑と葛藤の日々が綴られている。

妻には「穢らわしい」と罵倒され、叔父には「一族の恥」と絶交を云い渡され、自身当惑しながら仕事を続けていた著者は、ある日かつての恋人の父親を納棺することになる。父親の遺体を湯灌する彼に、彼女は目に涙を溜めて額の汗を拭き続けてくれた。その行為に自分のすべてが認められたと感じた著者は、人の死やそれに関わる職業をタブー視する社会通念が、誰より自分の中に根深く巣食っていたことに気づき、まず自分自身の考えを改めなければと、真摯な態度をもって「納棺夫に徹する」ようになる。そんな彼に、次第に、生と死がみぞれの中の雨と雪のように分かちがたいものであるという考えが芽生えてくる。

第2章「人の死いろいろ」では、著者が納棺の仕事を通じて経験した、様々な人の死の様相が描かれる。

轢死体の処理に呼ばれ、蛆の湧いた独居老人の遺体を納棺し、死の直前まで延命装置に囲まれぶよぶよになった死体に触れては現在の末期医療のあり方に思いを致す。そうして毎日死者と接するうち、著者は死者の表情に美しさを見いだすようになり、一方で死を忌避する生者の視線を醜悪と感じるようになる。俗信や迷信がないまぜになった葬送儀礼の矛盾に疑問を抱き、その背後に、もっぱら生者の視点から死を解釈しようとする人間の我執を見て取る。

そしてなにより圧巻なのが、第3章「ひかりといのち」である。

癌で他界した作家の高見順が、あるいは『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』の井上和清医師が、死を受け入れた瞬間、この世のあらゆるものが光り輝いて見えたと記している。そして著者もまた、他者の死を見つめる日々の中で、そうした光の残映のような微光を感じるようになる。

その不思議な光を最も明快に解き明かしてくれたのは親鸞だった。親鸞の思想は、親鸞自身が体験した光現象に基づいた、きわめて実践的なものだった。著者はその親鸞との出会いをとことん掘り下げてゆく。宮沢賢治や金子みすずの詩、分子生物学や量子物理学、そして様々な仏教思想など多様な知見を引き合いに出し、彼自身の生と死を見つめる眼差しを、深く、真摯に、ダイナミックに展開してゆく。生と死が限りなく近づいたときに起こるこの光現象を体験すると、人は生への執着や死への恐怖から解放され、この世のあらゆるものへの感謝の気持ちに包まれる。それは生と死という二分法を越えた視点から「生死」を感得することである、と。

ただし、第3章は一読ですんなり理解できる内容ではない。難解というのではないが、著者が生と死を見つめていった経緯をありのままに綴ったこの章は、一つの結論に向かって理路整然と語るという性格の文章ではない。くだんの後日談にも、この章は難しくてついていけなかったという読者の声が少なくなかったことが記されている。

そもそもここで語られている光現象は、著者本人が云うようにあくまで実体験から感得するものであって、言葉で伝えられるものではない。彼自身それを承知のうえで、理屈ではなく感動によってその残映なりとも伝えようとしたのが本書なのである。だから第1章、第2章から何かを感じ取るだけでも、本書を読む意味はあるはずである。が、評者はやはり第3章こそがもっとも深い洞察に満ちていると記しておきたい。わかりにくければ何度でも読み返せばいい。本書はそうするだけの価値が充分にある一冊である。

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紙の本放浪の天才数学者エルデシュ

2011/10/28 11:36

数学者以上に愛すべき人間として

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 家庭も財産も持たず、わずかな身の回り品を詰めたスーツケースを手に世界中を飛び回り、常に多くの仲間と問題を共有したハンガリーの天才数学者ポール・エルデシュ。本書はそんな彼の破天荒な生涯と彼を取りまく数学者仲間たちのことを綴った一冊である。

 エルデシュは数学以外のことには一切関わろうとせず、1日に19時間数学の問題を解き、83歳でその生涯を閉じるまでに実に1475本の論文を発表した。しかも、そのいずれもが重要な論文であるという。しかし、本書を彼がいかに傑出した天才だったかという話として読むなら、それは単にそういう人物がいたというだけのことにすぎない。本書が読者に強い感銘を与えるのは、そこに、エルデシュがいかに周囲の人々に愛されていたかがありありと描かれているからである。

 エルデシュの残した論文の膨大さもさることながら、そのうちの1000本以上が、485人にも及ぶ他の数学者との共著であることにはさらに驚かされる。数学者たちの間にも他の世界と同じように、いや、それ以上に熾烈な先陣争いがある。『定理を解くのがわしでなければ、だれも解かないほうがましだ』という数学者さえいるほどだ。しかしエルデシュは、発想や洞察を誰とでも寛大に分かちあった。そしてそのことによって、多くの数学者が育てられた。共著論文の連鎖によって彼との協力関係の遠近を示す「エルデシュ数」なるものが存在するのも、単に彼が伝説的な天才だったからだけではあるまい。

 エルデシュは才能あふれる新たな数学者を探し出すことに熱心だったし、何より子どもが好きだった。若い数学者に対しては、相手の実力を本人以上によく見極め、それを伸ばすことのできる適切な問題を出題する能力を持っていた。専門的な技術を必要とせず、それゆえ天才児たちが才能を発揮しやすい初等整数論に終生こだわったのも、そのことと無関係ではない。

 エルデシュの奇矯な行動はしばしば他の数学者たちを困らせた。しかし、それでも誰もが喜んでエルデシュの世話をし、また、したがったのは、云うまでもなく、エルデシュの才能以上にその豊かな人間性を愛したがゆえである。エルデシュは決して禁欲的な生活を送っていたわけではない。ただ数学に対する好奇心に、生涯子どものように素直だったのだ。エルデシュはこの上なく幸福な人生を生き、周囲の人々をもまた幸福にした。

 こうした愛すべき人物が実際にいたことを思うと、純粋数学からはほど遠い世界に生きる評者にも、それがちょっと身近な存在に思えてくる。そして同時に、どこかあたたかい気持ちになれる。

 ちなみに第一回本屋大賞を受賞し、ベストセラーにもなった小川洋子の小説『博士の愛した数式』に登場する「博士」は、しばしばこのエルデシュがモデルではないかと云われる。『博士の愛した数式』も秀作だったが、本書を通じてエルデシュの生涯に触れた読者は、きっとバイロンのかの有名なフレーズを思い出すに違いない。事実は小説より奇なり。

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紙の本冬そして夜

2008/07/11 16:21

アイロニカルで洒落た会話が絶品のハードボイルド・ミステリ

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

11月の深夜、私立探偵ビルは突然の電話に眠りを破られた。電話はニューヨーク市警からで、窃盗の容疑で逮捕された少年が、彼の知り合いだと話しているという。ビルが警察署に赴いてみると、そこには妹の息子ゲイリーがいた。

甥との思わぬ再会を果たしたビルは、保護者としてゲイリーを自宅に連れ帰る。高校でアメフトをやっているという彼に、ビルは家出の理由を尋ねるが、ゲイリーは頑として答えようとしない。のみならず彼は、ビルが目を放した隙に寝室の窓を破って逃げてしまう。

ゲイリーの行方を追う手掛かりを探すため、ビルは妹一家の住む閑静な住宅街、ニュージャージー州ワレンズタウンへ向かった。だが妹にも家出の理由は知らされていなかった。そうして独自に捜査を開始したビルは、めちゃくちゃに荒らされたゲイリーのガールフレンドの家に、少女の死体を発見した……。

本書は、ニューヨークに住む中国人女性リディア・チンと、アイルランド系アメリカ人男性ビル・スミスの二人の私立探偵が、交互に主役を務める「リディア&ビル」シリーズの8作目に当たる。ビルが語り手となる本作は、かのMWA(アメリカ探偵作家クラブ)最優秀長編賞を受賞している。だがミステリとしての面白さもさることながら、本シリーズの最大の魅力は、なんと云っても、それぞれに強烈な個性を持ったこの二人の主人公にある。

チャイナタウンに生まれ育ったリディアは、曲がったことが大嫌いな性格で、小柄な体格に似合わず空手の心得もあるコケティッシュな美女。一方、中年で離婚暦のあるビル・スミスは、大柄な体躯を持ち、若い頃には無茶をして警察の厄介になったこともあるが、反面、ピアノの演奏を趣味とするなど、繊細な側面を持っている。

そんな二人が、互いに惹かれあいながらも、パートナーとしての微妙な距離を保ちつつ、毎回絶妙なコンビネーションで難事件を解決してゆく。作中には、アイロニーの効いた二人の洒落た会話がふんだんに散りばめられていて、それだけでも読んでいて愉しい。ほどよく気障な地の文とも相まって、本シリーズはハードボイルド・ディテクティブ・ストーリーの醍醐味を存分に味わわせてくれる。

さて、本作の舞台となるワレンズタウンはアメフトの盛んな町で、高校にはアメフト部員を頂点とするヒエラルキーが存在している。彼らは校内での支配者であると同時に、町の誇りとして大人たちからも英雄視され、たとえ彼らがいじめや軽犯罪を犯そうとも、それを咎めるものはいない。保守的なワレンズタウンではそのような体質が昔から根強く、ビルはやがて、以前にも、彼が遭遇したのとよく似た事件があったことを知る。さらに彼は、23年前に起きたその事件と、ビルが目撃した少女の死体、そしてゲイリーの失踪との間に、ある接点があることに気付く。

日本人読者には、ともすれば荒唐無稽な設定とも思えるかもしれない。しかしこのように、アメリカの地方都市において、住民が地元の高校のアメフトチームに寄せる過剰な期待は、決して絵空事ではない。こうした歪んだヒエラルキーは、アメリカの学校社会に深く根差しており、それを助長する周囲の大人たちとともに、アメリカ社会の悪しき象徴の一つとして、小説や映画などの題材にしばしば取り上げられている。

しかしローザンの筆致には、そうした問題を傍観者の立場で糾弾するような、ある意味無責任な色調は微塵も感じられない。本作にはむしろ、地域社会の一員たる自分たちの問題として、それに正面から対峙しようという姿勢が見て取れる。そしてその根底にあるのは、身近な人びとを思いやる気持ちである。

ミステリとしての妙味はお墨付き。加えてアメリカ社会の負の側面を克明に描き出し、それでいて決して悲観的ではない。本書に描かれた事件には、読者の誰もがやるせなさを覚えるだろうが、その向こうには小さな光がほの見える。実に読み応えのある一冊である。

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おわりの雪

2008/04/06 23:11

音もなく降り積もる雪のように

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一切の装飾を省いたこの上なくシンプルな物語世界で、マンガレリは、日常のささやかな情景をそっとつぶやくように物語る。かぎられた小さな舞台、最小限の登場人物、大きな事件もなければ余計な説明もない。そのかぎりなく静寂に近い世界には、人生の純粋なエッセンスだけが存在し、そこでは、繰り返される日々の中の小さな変化が、季節の移り変わりとあいまって一つの物語となり、読む者の心に静かに沁み込んでくる。この作品の訳者田久保麻理は、あとがきの中で、マンガレリの作品をこう云い表している。

『そっけないほど淡々とした、やさしい言葉でつづられる作品は、読みこむほどに重みをましてゆく。それはまちがっても眉に皺をよせて深刻に考えこんでしまうような重みではなく、たとえるなら、人生の美しさと哀しみが凝縮した小さな雪の結晶が、すこしずつ大地に降り積もっていくような重み、とでもいったらいいだろうか。』

舞台はフランスあるいはイタリアと思われる雪深い小さな町。時代は明確には示されないが、自動車や鉄道が登場するから、そんなに昔の話ではない。主人公の「ぼく」は、古道具屋の露店で鳥籠に入れられた一羽のトビを見かけ、それがどうしてもほしいと思うようになる。少年には寝たきりの父親がいて、少年とその両親の三人家族は、父親が受け取る年金と、少年が養老院で老人の散歩の付き添いをして得る収入によって暮らしている。少年はトビを手に入れることを夢見て、そのわずかな収入からトビの購入資金を貯めはじめる。

ある夜、少年は街で見かけたトビを獲る男の物語を父に話して聞かせる。父親はそれがなかば創作であることに気づきながらもその話が気に入り、以来毎晩のように息子が繰り返す物語に聞き入るようになる。それは父と子のほとんど唯一の触れあいであり、父子はその物語を共有することによって絆を深めてゆく。

しかしトビの購入資金はなかなか貯まらない。季節は秋から冬へと移り、古道具屋のもと、ぞんざいな扱いを受けているトビは早く買ってやらないと凍え死んでしまう。少年はトビを買うため、つらく悲しい仕事を引き受けることを決意する。その一方で病床の父親には死期が迫っていた……。

語り手である「ぼく」は、その「雪がたくさんふった年」の記憶をゆっくりとなぞるように回想する。それは一つの心象風景のようでもあり、その風景は哀しみそのものを映していながら、どこまでも澄みきっていて美しい。

そしてそこにさまざまな具体的なイメージが、ときに淡く、ときに鮮やかに浮かんでくる。父と子の慈愛に満ちた心の交歓、おそらくは少年が初めて経験したであろう、生と死の鮮烈なコントラスト、やりきれない人生の哀しみに小さな明かりを灯す空想の暖かさ。空想は少年と父親とをつなぎ、少年と世界とを結びつけるものであり、それはやがて記憶の中の原風景となって、現在の「ぼく」と少年の日々をもつないでいる。

人の心をも凍えさせるような冷たい雪。しかしそれは、静かに降り積もり、あらゆるものをやさしく包み込んでくれるものでもある。この作品はまさにそうした雪のような物語である。深い哀しみを描いていながら、その読後感は切ないというよりむしろ清々しい。それはこの物語が、哀しみと同時に、大人へと一歩近づいてゆく少年の姿をも映し出しているからかもしれない。

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紙の本あなたに不利な証拠として

2008/03/16 00:43

元警察官が描く、理不尽な現実と対峙し懊悩する、生身の人間の姿

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

五人の女性警察官を主人公に据え、(一編を除いて)その一人ひとりを語り手に、日常と呼ぶにはあまりにも過酷な、彼女たちの警察官としての日々を、内省的に、しかし冷徹に綴った連作短編集である。

著者のローリー・リン・ドラモンドは、かつて実際にルイジアナ州バトンルージュ市警に勤務した元警察官である。ドラモンドは交通事故によって職を辞した後、大学でクリエイティブ・ライティングを学び、十二年の歳月をかけ、この処女短編集を書き上げたという。この中の一編『傷痕』によって、彼女はMWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞最優秀短篇賞を受賞している。

原題を『Anything You Say Can and Will Be Used Against You』という。アメリカで法執行官が被疑者を逮捕する際、被疑者に通告することが義務付けられている「ミランダ警告」という条文の一節である。映画やドラマなどで耳にしたことのある方も多いだろう、被疑者の権利の保護を謳ったこの文言は、アメリカの警察官にとって、それを告知することを「Miranda-ize(本書では「ミランダする」と訳されている)」と一語で言い表すほど日常的かつ形式的な、云わばお約束である。この杓子定規なフレーズが、絶対的で融通のきかない組織の建前と、凄惨な事件現場、凶悪な犯罪者、そしてときに自らの生命の危機に直面する生身の人間の心情とのジレンマを象徴するかのように、作品全体に低く、重く、アイロニカルに響いている。

警察小説としてハヤカワ・ミステリ文庫から刊行されているが、本書は謎解きの妙を楽しむミステリでもなければ、スリリングなサスペンスに満ちたアクション小説でもない。そういった期待を抱いて、つまり何らかのカタルシスを得ることを期待して本書を開いた読者は、きっと肩透かしを喰らうだろう。この作品には、難事件を解決する名刑事も、超人的な活躍をするスーパーヒーローも登場しない。あるのはただ困難で過酷な、ときに理不尽な現実と対峙し懊悩する、生身の人間の姿のみである。

職務中に襲いかかってきた強盗犯を射殺したキャサリン。同じ警察官である夫の殉職に立会いながら気丈に職務を遂行するその後の彼女。交通課の警察官として様々な事故現場に遭遇し、自らもまた職務中の事故によって辞職したリズ。家庭を省みなかった父と同じ職場に就き、緊迫した状況の最中、彼に殺意を抱くモナ。暴漢に刺されながら自作自演の疑いをかけられた被害者に胸を痛めるキャシー。そして事件現場での思わぬ出来事によって職務放棄してしまうサラ。

ドラモンドは、抑制の効いた端正な筆致で、圧倒的なリアリズムをもって、警察官の日常を精緻に描く。そしてそれは執拗なまでに読者の五感を刺激する。周囲には胸が悪くなるような死臭が漂い、読者は我が身に直接痛みを感じるに違いない。彼女らが独白する苦痛や恐怖や葛藤は、そうして積み重ねられるディテールによってさらに鮮烈なものとなり、読む者の心に深く共鳴する。読者はいつしか、自分自身が彼女たちと同じ場所に立っていることに気づくだろう。

余談になるが、かつて本書が単行本で出版された際、その帯には書評家池上冬樹氏の「読みながら何度も心が震えた」というコメントが踊っていた。朝日新聞に掲載された彼の書評からの引用である。この作品が、比較的読者層の限られた「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の一冊として上梓されながら、広範な読者を獲得したのは、池上氏をはじめ多数の評論家がこの作品を絶賛したことに多くを負っていると聞く。そうして本書がジャンル小説の枠にとどまらず、数多の読者の目にとまったことは、本書にとってはもちろん、それぞれの読者にとっても幸いなことだったといえるだろう。

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誰にも「使われなかった人生」がある

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

雑誌『暮らしの手帖』に連載された映画評30篇に、書き下ろしのエッセイ2篇を加えて一冊としたもの。

人は誰でも、大なり小なりいくつかの分岐点を経て今に至っている。そしてときに、分岐のこちら側でなくあちら側を選んでいたらどうなっていただろうと夢想することがある。分岐の向こう側の「ありえたかもしれない人生」は、もう手が届かないがゆえに甘美ではあるが夢でしかない。しかし、分岐のあちら側にはもう一つ、「使われなかった人生」がある。「使われなかった人生」は「使わなかった人生」でもあり、そこには具体的な可能性があったという近さがある。自分にとっての「使われなかった人生」とは何か。映画はそれを考えさせてくれると沢木は語る。

自らあとがきで『心地よい眠りのあとで楽しかった夢を反芻するようなもの』と云い、『その夢がどのようなものだったかを上手に説明することができれば、それが楽しさを説明することになると思っていた』と云っているように、決してマニアックな薀蓄を傾けるでもなく、難解な芸術論を展開するでもなく、はたまた自らの思い入れを熱く語るでもなく、それがどういう映画だったか、彼がそこに何を見たかを、簡潔に平明に語ってゆく。それでいて、それぞれが充分に咀嚼され、明確な手ざわりのある言葉で語られている。

これを、それぞれの映画をモチーフにしたエッセイと捉えることもできるだろう。が、もちろん映画評としての結構も失っておらず、それらが絶妙なバランスの上に成り立っていて、しかもさりげない。ちょうど旅行記を読むような感覚で読める映画評である。それを読むことで、自らその土地を旅しているような気分に浸ることもできるし、行ったことのある土地なら、自分の感じたことと比較しながら読んでも楽しい。また強く惹かれるものがある未知の土地なら、実際に行ってみようとも思うだろう。しかもそれは、引き出しの奥の小銭までかき集めてバックパッカーにならずとも経験できる、小さく手軽な旅だ。

専門の映画評論家には書き得ない、ノンフィクション作家の沢木だからこそ書き得た映画評だろう。単に映画を紹介し批評するだけにとどまらず、銀幕の向こう側にある人生を見つめ、さらにその奥に自らの人生を見つめ直そうとする視線が感じられる。映画や小説について気の利いたレビューを書きたいという方には、その一つの手本ともなり得るだろう。何を隠そう評者自身、かつてこの本に触発されて、こうして書評などを書き始めたのである。

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紙の本つなみ

2008/09/21 23:15

60年の時を越えて蘇る、日本人の死生観

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

パール・バックは、1892年ウェスト・ヴァージニア州に生まれ、生後間もなく宣教師の両親とともに中国に渡り、幼少期を江蘇省鎮江に過ごした。その後アメリカの大学を卒業し、南京大学で英文学を教えるかたわら執筆活動を始め、1931年、のちに彼女の代表作となる『大地』でピュリツァー賞を受賞し、1938年にはアメリカ人女性として初めてノーベル文学賞を受賞している。

パール・バックは日本に滞在していたこともあり、本作はその際に彼女がじかに見た日本の印象をもとに書かれた作品である。津波によって家族を失った少年が、悲しみの淵から自身の生き方を模索する過程を通して、当時の日本人の自然観や死生観を鮮烈に描いている。1947年に刊行された原書には、アメリカ人読者に日本の美しさと日本人の心性を伝えるべく、北斎と広重の版画が挿入されていたという。本書では、それに代わって黒井健のカラーイラストが、ときに美しくときに過酷な日本の自然と、そこに生きる人々の暮らしぶりを、やさしくやわらかなタッチで再現している。

海に面した山の斜面で段々畑を耕す農家の息子キノと、浜辺に住む漁師の息子ジヤ。ともに貧しい家に生まれた二人は、幼い頃から家の仕事を手伝いつつも、夏には一緒に海を泳ぎ、冬には学校に机を並べ、と、まるで兄弟のように仲良く幸せな日々を過ごしていた。しかし、浜辺の村は常に津波の危険にさらされており、また陸の暮らしも、いつ噴火するとも知れぬ火山を見据えながらの毎日だった。

ある夏、大津波が村を襲い、浜辺の集落は跡形もなく流されてしまう。何もかも失い独りぼっちになったジヤをキノの両親が引き取るが、ジヤは来る日も来る日も悲嘆に暮れている。親友のことが気掛かりでたまらないキノをよそに、おおらかで気丈な父親は辛抱強くジヤを見守る。『自分から両親のことを思い出そうとした時こそ、ジヤはまた幸せになれるんじゃ。』と父親は云う。危険と隣り合わせで生きる自分たちの暮らしを振り返って、『日本で生まれて損したと思わんか?』と不安げに問うキノに、父親はさらに毅然として答える。

『人は死に直面することでたくましくなるんじゃ。だから、わしらは死を恐れんのじゃ。死は珍しいことじゃないから恐れんのじゃ。ちょっとぐらい遅う死のうが、早う死のうが、大した違いはねえ。だがな、生きる限りはいさましく生きること、命を大事にすること、木や山や、そうじゃ、海でさえどれほど綺麗か分かること、仕事を楽しんですること、生きる為の糧を産み出すんじゃからな。そういう意味では、わしら日本人は幸せじゃ。わしらは危険の中で生きとるから命を大事にするんじゃ。わしらは、死を恐れたりはせん。それは、死があって生があると分かっておるからじゃ。』

我々現代の日本人読者の視点は、むしろ当時のアメリカ人読者のそれに近いかもしれない。安全と快適さと合理性を求め、新大陸を切り拓いていったアメリカの歴史は、見方を変えれば、死を身近から遠ざけよう、死から目を背けようとしてきた歴史でもある。が、もちろんそれでも、近しい人にも自分自身にも死は訪れる。決して避けることのできない人の死に直面したとき、人はそれをどう受け止め、悲しみや絶望とどう向き合えばいいのか。父親の言葉は終始やさしい。しかしそれは、60年の時を越えて我々に一つの問いを突きつけているようでもある。

キノの父親の云う『死を恐れない』とは、決して命を軽んじるということではない。ましてや自然災害の前に人は無力だなどと云っているのではない。ジヤの住んでいた浜辺の漁村では、それまで家の海側には窓を設けないのが習いだった。しかし一家の主として新たに浜辺に居を構えたジヤは、壁の窓板を力いっぱい押し開けて云う。

『おれ、海の方に家を開けたんじゃ。もし津波がまたやって来ても、ちゃんと備えができる。おれ、海に立ち向かって生きる。恐がったりなどせん。』

ジヤの双眸はまっすぐに未来を見つめている。その視線の先に、我々は立っているだろうか。

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紙の本家守綺譚

2008/02/09 17:59

愛着を持たずにはいられない一冊

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 「文明の進歩とやらに今ひとつ棹さしかねてる」駆け出しの物書き綿貫征四郎は、若くして亡くなった学友高堂の実家に、ひとり家守として起臥している。時代はおよそ百年前の明治の末、場所は登場する地名から京都周辺と察せられるが、いずれもはっきりとは示されていない。

 とある嵐の晩、征四郎が布団を引っかぶって寝ようとすると、床の間の掛け軸から何やら音が聞こえてくる。

 『布団から頭だけそろりと出して、床の間を見ると、掛け軸の中のサギが慌てて脇へ逃げ出す様子、いつの間にか掛け軸の中の風景は雨、その向こうからボートが一艘近づいてくる。漕ぎ手はまだ若い……高堂であった。近づいてきた。
 ――どうした高堂。
 私は思わず声をかけた。
 ――逝ってしまったのではなかったのか。
 ――なに、雨に紛れて漕いできたのだ。
 高堂は、こともなげに云う。』

 のみならず高堂は、征四郎に「庭のサルスベリの木がおまえに懸想している」と告げ、征四郎は征四郎で、その言葉に「実は思い当たるところがある」と得心する。そうして「家守」征四郎の「綺譚」は始まる。河童、仔竜、人魚、小鬼、桜鬼……さまざまな怪異が、まるで季節の風物がごとく、征四郎の周辺に現れては消えてゆく。

 この作品は、そうした云わば怪異を描いているからこそ「綺譚」なのだが、だからといって、不思議でしょう? 怖いでしょう? 奇想天外でしょう? というのではない。はたまたそうした怪異が当たり前の、独自の空想の世界を創出しているのでもない。物語は、主人公の身辺雑記か日記のように淡々と語られ、そこに自然のスピリット(気、魂、精霊)とでもいうべきそれらの怪異が、なんの気負いも衒いもなく、それこそ日常茶飯事のように描かれている。四季折々の風景の細やかな描写とともに、端正な筆致で綴られるそれらの怪異譚に浸っていると、実際にそんなことがあっても不思議ではない気がしてくる。

 物語の舞台は、今でもその名残が残っているんじゃないか、と思えるくらいのちょっと昔。ただし、現代のさまざまな喧騒とは無縁に、時間がゆったりと流れていて、人がもっと自然に近い場所で暮らしていた時代である。だから読者は、昔はきっと夜になるとこの辺りは真っ暗だったんだろう、夏にはこの川で泳ぐこともできたんだろう、この近くにも狐や狸が棲んでいたかもしれない、というのと同じ感覚で、河童はこんな具合に暮らしていたのか、狐や狸が人を化かしたりもしたのか、なるほど桜の散り際には桜鬼が暇乞いに現れたのか、と納得できてしまう。時代や場所が明確でないだけに、そうした世界がことさら近しく感じられる。かつては自然の気がそんなふうに感じられ、人はそんなふうに自然と交流していたのだということが、すとんと腑に落ちるのである。

 それにしても、この物語世界の居心地の良さはどうだろう。人が天地自然のスピリットとおおらかに交歓し、しかもそれがちっとも特別なことではなかった時代。もちろん佐吉は、この物語に描かれているような時代や場所に暮らした経験はないが、なのになぜか懐かしいと感じてしまう。あるいはそれは、多くの日本人の記憶にある、ひとつの原風景とも云うべき心象風景なのかもしれない。

 明治期の小説を思わせる小気味好い文章、居心地の良い物語世界、そして何より、そこに描かれた人と自然との交流ののびやかさ。『家守綺譚』は、どれをとっても上質な、まさに読書らしい読書が愉しめる一冊である。煩瑣な日常を忘れさせ、しばしの至福の時間を与えてくれる、愛着を持たずにはいられない一冊である。

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ぼくと1ルピーの神様

2009/03/05 14:21

混沌の中に自らの人生をつかみ取った少年の、悲しくも痛快な物語

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

映画『スラムドッグ$ミリオネア』の原作(ただし設定やストーリーは、映画とは若干異なる)。

ムンバイ(旧ボンベイ)のスラム街に暮らす18歳のウェイター、ラム・ムハンマド・トーマスは、クイズ番組に出場し、みごと全問正解、10億ルピーという史上最高額の賞金を獲得する。けれど賞金の支払いをしぶる番組制作会社は、孤児として育ち、ろくに教育も受けていないラムがすべての問題に答えられるはずがない、不正があったに違いないと云いがかりをつけ、ラムを訴える。

しかし、ラムの全問正解にはちゃんと理由があった。出題された問題は、彼がこれまでの人生において図らずも知り得たことばかりだったのである。ラムは制作会社に買収された警察の拷問を受け、嘘の供述書にサインさせられそうになるが、間一髪、そこに現れた見知らぬ女性弁護士に救い出される。事情が呑み込めないまま弁護士の自宅に保護されたラムは、「幸運の1ルピーコイン」を投げて彼女を信じることに決め、それぞれの難問の答えをどうして知っていたのかを、順に彼女に語りはじめる。

そうして明かされてゆくエピソードの一つひとつに、インド社会の最底辺を必死に生き抜いてきたラムの、波乱に満ちた人生が映し出される。そしてそこに、現代のインドが抱えるさまざまな負の側面が浮き彫りにされてゆく。階級差別、宗教対立、児童虐待、暴力、強盗、売春、そしてあまりにも悲惨な貧困層の生活。

しかしこの物語は、素直で純真な少年が、持ち前の明るさと正直さで幾多の苦難を乗り越え……などといったぬるい話ではない。そもそも彼のラッキーアイテムは、母の形見のペンダントなどではなく、胡散臭い占い師にもらった怪しげな1ルピー硬貨なのである。その混沌に満ちた世界の只中にあって、何度も災厄に巻き込まれ、さまざまな困苦にあえぎながらも、ラムは自身の機知と機転だけを頼りに、自らの人生を切り拓いてゆく。その姿は、ときに狡猾とも云えるほど、したたかでたくましい。どのエピソードも悲しい情景を描いていながら、ラムの立ち回りはすこぶる痛快で、読後にはむしろ清々しい印象を残す。

ときに、ラム・ムハンマド・トーマスの、ラムはヒンドゥー教徒の、ムハンマドはイスラム教徒の、そしてトーマスはキリスト教徒の名前である。出自のわからない孤児ゆえのなんとも風変わりな命名だが、その冗談のような名前に、さまざまな民族が暮らし、いくつもの宗教が混在するインドの多様性がうかがえるように、ラム自身の生き様にも、インドという国の姿がしばしば重なって見える。

作中に何度か登場するからというわけではないが、この作品にはどこか、いわゆるマサラムービーを連想させるところがある。歌あり踊りあり、ロマンスあり、コメディあり、アクションありと、合理的なリアリティなどお構いなしに、娯楽映画のあらゆる要素をごった煮にしたマサラムービーの、あのわけのわからない圧倒的なパワーに似たものが、この作品からもひしひしと伝わってくる。それはつまり、いずれもがとことんインド的な作品だということだろうか。混沌を混沌のままに受け容れる懐の深さ。自らの困窮さえも笑い飛ばしてしまう強靭な精神。転んでもただでは起きないしたたかさ。絶望の淵にあっても、なんとか活路を見出し生き抜こうとするたくましい生命力。そんな途方もないエネルギーにこそ、インドの真のリアリティが映し出されているようにも思える。この物語の本当の主役は、あるいはインドそのものなのかもしれない。

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紙の本きのこ文学大全

2009/01/17 22:41

文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。

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なんとも風変わりなタイトルだが、決して奇を衒っているわけではない。冒頭の「きのこ文学宣言」で飯沢は云う。

『図書館などに行くと、きのこについての本はたいてい自然科学のコーナーに分類されている。かねがね、人文系のきのこ図書がまったくないことに大きな不満を抱いていた。後で詳しく見るように、きのこのイメージは文学作品の中で見過ごすことのできないユニークな場所を占めている。』

どういうことか。

きのこは実に多彩で奇妙な生き物だ。地球上には50万種以上のきのこが存在すると推定され、その色も形も大きさも千差万別。食用として珍重されるものもあれば、深刻な中毒症状をもたらす毒きのこもある。およそきのこほど変異体の多い生き物は他になく、極言すれば、その一本一本が独立種だということさえできる。きのこについてはまだまだわからないことが多く、その存在自体がなんとも謎めいていて蠱惑的である。

実は我々が普段「きのこ」と呼んでいるのは、胞子を散布するため地上に現れた子実体にすぎず、本体である菌糸の大部分は地下にあって目には見えない。地上のきのこを手がかりに、地下の菌糸の森に想像を広げてゆくことは、我々の目に映る世界を出発点に、「心」や「無意識」といった不可視の世界を描こうとする文学の営みを、メタフォリカルにさし示しているようでもある。

また、きのこは中間性を具現した生き物である。植物が光合成によって無機物から有機物を作り出す生産者であり、動物がそれを食べる消費者だとすれば、きのこのような菌類は有機物を無機物に還元する分解者である。その意味できのこは、生物と無生物とを媒介するものだということができる。

『そしてここでやや強引に結びつけてしまえば、文学とは本来そのような「中間性」の領域で働くべきものなのではないだろうか。分類され、定義づけられ、がんじがらめに固定された世界の隙間に入り込み、思ってもみなかったもの同士を結びつけ、そこに見えない流れを作り出していく。生と死を媒介し、生の中に死を、死の中に生を育てあげていく。それはまさしく、自然界におけるきのこたちの役割と同じなのではないか。となると、ここになんとも奇妙な結論が導き出されてくる。すなわち――文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。』

そう「宣言」したうえで飯沢は、古今東西の小説や詩や戯曲、またエッセイ、漫画、絵本などから、何らかのかたちできのこをテーマにしている作品を小事典形式で紹介してゆく。

そこでまず驚かされるのは、その渉猟範囲の広さだ。本書に取り上げられた執筆者たちをざっと眺めてみただけでも、その広範さにめまいがしそうだ。宮澤賢治、夢野久作、稲垣足穂、渋澤龍彦、筒井康隆、小川洋子、川上弘美、エドガー・アラン・ポー、ウラジーミル・ナボコフ、ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、レイ・ブラッドベリ、イタロ・カルヴィーノ……。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの古典にも目を向け、映画『マタンゴ』や松本零士『男おいどん』に登場する「サルマタケ」に言及し、さらには筋肉少女帯の「キノコパワー」へと、旺盛に視野を広げてゆく。

だがそれ以上に驚くべきは、それぞれのコメントから窺える飯沢の文学に対する造詣の深さだ。たとえば泉鏡花の『茸の舞姫』を、飯沢は「古今東西の「きのこ文学」の白眉」と称え、「きのこの妖しさとエロティシズムが、鮮やかなイメージとして脳裏に焼き付く傑作」と評したうえで、鏡花の小説に現れるきのこのイメージは「懐かしくも哀切な女性の記憶と結びついて」いると分析し、鏡花にとってそれは「母なるものの化身」だったのかもしれないと語る。あるいは『ピーターラビット』シリーズの作者ビアトリクス・ポターについては、彼女がかつてきのこ学者を志しながら、夢破れて童話作家の道に進んだエピソードを紹介し、その後の彼女の作品に、若い頃に打ち込んだきのこ研究の成果が活かされていることを見て取る。

飯沢の文章は端正で品がよく、これだけ蘊蓄を傾けながらも、衒学的な印象をまったく感じさせない。広範な知識と高い文学的素養に裏打ちされた知的な面白さと、彼がきのこに寄せる愛情の深さが気持ちよく伝わってくる。「きのこ」という切り口から、こんなにも深遠で複雑な「曼荼羅図」が見えてこようとは、いったい誰が想像し得ただろう。上に紹介した「きのこ文学宣言」を、飯沢は「ややトリッキーなマニフェスト」と自嘲するが、評者はむしろ、その言葉に目からうろこが落ちる思いがした。「文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。」こんなにも端的で明解な文学の定義がかつてあっただろうか、と。

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紙の本目くらましの道 上

2008/06/22 13:57

シリーズ最高傑作

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背骨や頭部を斧で叩き割り、さらに被害者の頭皮を剥ぎ取るという、常軌を逸した連続殺人事件。その犯人がわずか14歳の少年だとしたら、それはかなりショッキングな結末と云えるだろう。しかしこの作品では、そのことがはじめから読者に明かされている。物語の冒頭、最初の殺害の場面が、犯人と被害者の視点で描かれるのである。舞台はスウェーデン南部の小都市イースタ。少年は自宅の地下室で、神聖な儀式と入念な化粧によってアメリカ先住民に「変身」すると、フルフェイスのヘルメットに顔を包み、モペットで現場に向かう。そして周到に準備された「任務」を、淡々と「遂行」するのである。

このように最初に犯人の側から犯行の様子を描き、その後、捜査陣が真相を究明する過程を綴ってゆく推理小説の形式は、一般に「倒叙(とうじょ)」と呼ばれ、マンケルの得意とする手法の一つである。マンケルは、サイコスリラーさながらの身の毛もよだつ殺害シーンの描写によって、読者をいきなり物語世界に引きずり込み、同時に犯人の異常な性格を強烈に印象づける。少年はなぜそんな犯行を重ねるのか、捜査陣はどうやってこの思いも寄らない結論に辿り着くのか。そう思った瞬間、読者はマンケルの術中にはまっている。あとは彼の巧みなストーリーテリングに導かれるまま、最後まで一気にページを繰り続けるしかない。

本書は、風采の上がらない中年刑事クルト・ヴァランダーを主人公にした、マンケルの警察小説シリーズの5作目にあたる。CWA(英国推理作家協会)ゴールドダガー賞を受賞し、スウェーデン人作家マンケルの名を、一躍ヨーロッパ全土に知らしめた作品でもある。ヴァランダー・シリーズは、1991年から1999年にかけて9作が発表され、うち本作までの5作が邦訳されているが、この『目くらましの道』をもってシリーズの最高傑作とする声が高い。

美しい初夏の訪れに、夏の休暇を心待ちにしているイースタ署の面々。と、そこに、ある老農夫から自宅の畑に不審な人物がいるとの通報が入る。どうせ思い過ごしだろうと高を括っていたヴァランダーだったが、現場に着いてみると、確かに菜の花畑に一人の少女が立っている。何かにおびえている様子のその少女に、ヴァランダーは声をかけながら近づいてゆく。すると少女は、やおら頭からガソリンをかぶり、手にしたライターで自らに火をつけ、焼身自殺を遂げてしまう。

そうして平和な夏が一瞬にして悪夢に変わる。署員たちはすぐさま少女の身元を調べはじめるが、目の前で事件を目撃したヴァランダーはショックを隠せない。するとそこへ、署員たちの動揺に追い討ちをかけるように、殺人事件の一報が入る。政界を引退し、今は隠遁生活を送っている元法務大臣が、何者かによって惨殺されたというのである。イースタ署に戦慄が走る。しかしそれは、さらなる惨劇の序章にすぎなかった……。

犯人が最初からわかっている倒叙小説においては、多くの場合、いわゆる神の目線で見た主人公の推理の冴えと、追う側と追われる側の心理的駆け引きが大きな見どころになる。本書はもちろん、その点において一級品である。加えて本書には、すべての手がかりを読者にフェアに提示し、読者が主人公と平行して推理を進めてゆくことのできる本格ミステリの興趣がある。決して、犯人の些細なミスから足がつくなどといったチャチな捕り物ではない。自身到底信じられない結論にヴァランダーが辿り着くとき、読者は、そこに仕掛けられた伏線の巧妙さに思わず唸らされるに違いない。

マンケルは、あくまで警察小説のプロットにおいて、普遍的な人間の懊悩と現代スウェーデン社会の暗部とを鮮明に提示してみせる作家である。身辺にさまざまな悩みを抱え、捜査の過程においても、凶悪犯罪に我がことのように心を痛めるヴァランダーの姿は、シリーズを通じて読者の共感を誘ってきた。本書ではさらに、殺人者たる少年の背負った十字架も激しく胸を打つ。二人の息詰まる対決は、最後まで読者を惹きつけつつ、哀しい余韻を残してゆく。本書は、警察小説というジャンルを超えて、永く記憶されるべき一冊である。

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