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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

淺野卓夫さんのレビュー一覧

投稿者:淺野卓夫

3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本本の狩人 読書年代記

2008/12/15 20:19

本という扉をひらいて、その背後にひろがる〈無限〉の世界を幻視してきたひとりの思想家による愉楽のクリティカル・レビュー集

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アフリカ人類学者、道化論の思想家、そして稀代の読書家として知られる山口昌男による書評集。単行本未収録の書評・文庫本解説・エッセイをあつめたもの、という本としてはオリジナルな構成がなによりもうれしい。タイトルは「本の狩人」。本という扉をひらいて、その背後にひろがる知の〈無限〉の世界を幻視してきたひとりの思想家による、およそ40年にわたる振り幅の大きい歩行と渉猟の記録がぎっしりつまっている。本文426頁、そして編集者の渾身の作である巻末の索引・山口昌男著作目録・関連書誌一覧が56頁の充実ぶり。だが、装丁が白地のカバーをかぶせた軽やかな並製ペーパーバック風ということもあって、外見も中身もけっして重々しい本ではない。カバーと表紙にはマルクス兄弟、なかには『ナンセンスの本』のエドワード・リアの絵をはじめとする遊び心あふれる図があちこちにさしはさまれていて、この本、なんとも可愛らしい。
 取り上げられる本の種類は、民族誌、マンガ、評伝、文化史、芸術、イコノロジー、音楽、風俗史、民俗芸能、前衛文学、古典、地方史、建築、山岳、批評となんでもござれ。対象となる場は、アフリカ、東欧、フランス、ロシア、英国、インド、オランダ、中世あるいは明治大正の日本と縦横無尽。本の内容がどんなジャンル、どんな歴史・地域性に属するものであれ、ひとたび書物が隠しもつ愉しき知につながれば思考が高速回転し始める著者のスピーディで快楽的な語り口につられて、一気に読み終えてしまった。ああ、ほんとうに楽しかった!
 ちなみに本書の副題は、「読書年代記」。書評行為を通じた、ひとりの思想家の知的自叙伝としても読むことができる。文章は年代順に並んでいて、各年代のはじめには、そのころの山口昌男の年齢や肩書き、主要な社会的出来事などが附記されている。各書評を巻末の著作目録と照らし合わせたりしながら、特定の時代背景のなかでそれぞれの代表的な著作が書かれる前後に、著者がどこに知のアンテナを受けていたかを探るという、そんなふうにして本書を楽しむこともできそうだ。もちろんそれだけではなく、この本自体を、山口昌男という、20世紀後半において類い稀な〈知的暴飲暴食〉を敢行した頭脳の現在を映し出す、ひとつの書棚の風景と見立てて、そこから気の向くまま面白そうな本を手にとるようにあちこちの頁から書評をつまみぐいすることも、じゅうぶん可能だ。
 著者が論壇に登場する以前の、まだ大学院生だったころに寄稿していた書評も収録されている。それを読むと、山口昌男が無名時代に早々とかれ独特の〈クリティカル・レビュー〉の方法論を確立していたことを知って、舌をまいた。山口流のクリティカル・レビューというのは、本の内容を批評的に吟味しつつその限界と可能性を正確に抽出するとともに、註釈や図版など書物の周縁的な情報、タイトルや訳語の選択などにもこだわることで、〈世界としての書物〉をトータルにうけとめようとするやり方だ。悪口や罵詈雑言も、多い。書評と言っても著者と出版社と評者のなれあいによる凡庸な宣伝紹介ばかりが多い日本の論壇書評にあって、敵を作ることも辞さないこのクリティカル・レビューという挑発の方法は、きわめてオリジナルなものだ。
 批評という軸がぶれないからこそ、特定の本や著者に関して悪口をいっているときでも、陰気なイヤミにはぜんぜん聞こえない。しかもそれが、書評というスタイルを思想の営みに昇華させた『本の神話学』(中公文庫)という大作をもつ著者による、人類史的な広がりと深みをもつ知と本の世界への愛から発せられた言葉だと思えば、なおさらである。どこを読んでも、後味はすっきりしている。そして著者は、いつも訳知り顔の書斎の読書人に徹しているわけではない。世界としての書物のあり方を夢みるかれのまざなしは、時として国家言語や文字文化の支配や強制に抗する——つまり、いわゆる「本の世界」から遠く離れたインドの部族やアイヌの口承世界にもそそがれて、とても貴重だ。
 ともかく本書を読んでいると、山口昌男のクリティカル・レビューの手つきには、よい意味でまったく成長がないということもわかる。それぐらい、本について語るときのかれの愛と思想と方法論は終始一貫していて、40年という時間をあっというまに駆け抜けた、ということなのだろう。

 思想的自叙伝としての本書について、あえてひとつ指摘するとすれば、1985年前後で、山口昌男の本をめぐる語り口、あるいはかれにとっての本のイメージに多少の変化がみられる、ということはあるかもしれない。85年あたりまでは、先ほども言ったように、本の叙述のみならず本の形態的な要素をめぐる微視的な読解を通じて、一冊の書物が内部にかかえる無限の可能性をみようとする求心的な読みの傾向が強い。それに対して、1985年以降は、図書館や古書店など本を取り囲む外部の場のイメージに言及することが多くなり、無数の書物のならぶひろびろとした空間に、一冊の書物を位置づけるような大らかな書評が多くなる。著者が『本の神話学』で論じているアルゼンチンの幻視の作家にして書物論の思想家、J・L・ボルヘスにならっていえば、山口にとっての本のメタファーが「砂の本」から「バベルの図書館」に移行した、ということだろうか。ちなみに、「砂の本」というのは、砂のようにさらさらと崩れる無尽蔵のページをもつ一冊の本をめぐる話で、「バベルの図書館」はその名の通り、すべての言語で書かれたすべての本を収めた終わりのない空間を舞台にした話。
 ボルヘスと言えば、グルグルどこまで行っても終わりのない迷宮世界を好んで作品の主題にした作家。それに掛けていえば、日本民俗学とアフリカ史の分野に関する大学院時代の書評群からはじまり、紆余曲折をへて最後は、少年時代に出会った石田英一郎『一寸法師』とアフリカ民族学者レオ・フロベニウスをめぐる回顧録でおわる本書の円環的・循環的な構造が、じつに心憎いではないか。最後のエッセイのタイトルは、「読書論のサイクル」。アフリカ人類学にはじまり、アフリカ人類学で終わる本の旅——と決まればかっこいいのだが、「『こちらの気配を察して本が呼ぶのです……』とさしずめ女性であればドン・ファンの口調であるが、相手が本であるからホン・ファン」などと言って、ぼくのような生真面目な山口ファンをズッコケさせる知の道化師・山口昌男の貪欲な本の旅は、螺旋状のサイクルを描くようにして、ふたたびあらたな〈はじまり〉の地点に立ち返ったということなのだろう。そう、本の世界をめぐる山口昌男の旅に、終わりはない。
 
 最後に、「本の狩人」というタイトルがやっぱりいい。これを書いていて、著者がむかし、「本当に出したい本の題名は『本の狩人』というにつきる」と告白していたことを、ぼくは思い出した。編集者は、著者が「本当に出したい本の題名」で本をつくりあげた。知の迷宮としての無限の世界にみせられて本を愛し、また本に愛されたものたちの、無私の愉楽と愛にあふれた共同作業がここにある。幸福な読後感に、今ぼくはつつまれている。

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紙の本サンパウロへのサウダージ

2008/11/26 19:19

都市の時間を舞台にした、美しい歩行とまなざしの重ね書き

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ここにあるのは、都市の時間を舞台にした、美しい歩行とまなざしの重ね書きだ。

 1935年、若き社会学教授としてブラジル・サンパウロ大学に赴任したクロード・レヴィ=・ストロース。かれが、南北アメリカ先住民神話に題材を得た『神話論理』全四巻に結実する、「構造人類学」という未曾有の方法論を創造した二十世紀最大の知の巨人であることはいうまでもない。そのレヴィ=ストロースがみずからの学問の生誕地であるブラジル奥地のフィールドを記録した写真集、『ブラジルへの郷愁』であれば、しばらく前からすでにぼくらの手のとどく場所にあった。レヴィ=ストロースの撮影した写真といえば、ほかにも、消失しつつある先住民世界での最初の調査行から二十年後に書かれた旅の省察録『悲しき熱帯』におさめられた図版資料としても知られていた。けれども、かれがブラジルの大学での講義やフィールドワークのあいまに新大陸の新興都市として躍動するサンパウロを遊歩して、路上の風景を活写したもう一冊の写真集、『サンパウロへのサウダージ』は、ブラジル・ポルトガル語版のみで刊行されていた事情もあって、これまで長いあいだ幻の書物だった。
 今年百歳を迎える世紀の人類学者による幻の書物が、日本語の汀にとうとう流れ着いた。そして本としての具体のすがたが、遠き島の読者にも親しみのあるものになったことが、なによりも幸福なことだとぼくは思う。原著『サンパウロへのサウダージ』におさめられたレヴィ=ストロースのエッセイのみならず、日本語版の付録としてル・モンド紙でのインタビュー「ブラジルから遠く離れて」が訳出されていて、レヴィ=ストロースにとっての「ブラジルの真実」が何かを知るうえでとても貴重だ。
 日本語への橋渡しをしたのは、熱帯クレオーリストの人類学者・今福龍太。巻末には、通常の訳者解説の枠組みにはおさまらない、今福による重厚な思索エッセイもある。そしてかれ自身がレヴィ=ストロースに遅れること六十五年ののちにサンパウロに渡り、敬愛してやまない人類学の先人がかつて立ちつくしたおなじサンパウロの場所を訪ね、おなじ路上の、しかし別の時の風景を再撮影した興味深い写真が収録されている。
 今福龍太のエッセイ「時の地峡をわたって」は、レヴィ=ストロースが1935年あたりに撮影したサンパウロの写真と、かれ自身が2000年に撮影したサンパウロ写真のディテールのちがいを手掛かりにして、二つの時間の連続と断絶を深く問う感動的な作品だ。『サンパウロへのサウダージ』と『悲しき熱帯』を精密に読み解きながら、人間の記憶と忘却、過去と未来、建設と崩壊、文明と未開、南と北、まなざすテクノロジーとみられる身体といった人類学的・写真論なテーマを真摯に粘り強く考察しながら、「時そのものの謎」の深淵に迫ろうとする今福の思考の歩行のみぶりは、じつにスリリングだと言える。まるで、ポーの推理小説を読んでいるような興奮。そして最後、レヴィ=ストロースにとってのサンパウロが、ついに、学問もふくめたかれの現実生活の「不器用さ(レヴィ=ストロースの調査に同行したブラジル民族学者カストロ・ファリアの証言)」が、神話思考における知の緻密な「器用仕事(ブリコラージュ)」の探求へと反転する場として描き出され、そこにおなじラテンアメリカを出発点として思考を深めてきた今福自身のヴィジョンと感情がしずかに重ね書きされる……。
 原著であるブラジル版『サンパウロへのサウダージ』は、生まれの地から遠く離れ、こうして今福龍太の手を借りて美しく成長した。そして半世紀の時を隔てて同じ都市に悲嘆と憧憬のまなざしをむけた二人の人類学者によるユニークな共著として、本書は第二の詩と思考の生命の時間を生きはじめることになったのだ。

  *

 じっくりながめる重々しい写真集というよりは、共著者ふたりのテクストとテクスト、写真と写真のあいだを行ったり来たりして楽しむべき、軽快な本でもある。そして同じみすず書房から出ているレヴィ=ストロースの『野生の思考』や『構造人類学』と比べると天地がちょっと小さめのA5版変形サイズ、片手でもつのにちょうどよい軽やかな質感、厚さが、都市の時間をめぐる町歩きにぼくらを誘い出そうとしてやまない。
 と同時に、本書『サンパウロへのサウダージ』は、この本自体が翳ある都市のパサージュとしてある、とぼくは直観した。目次や、今福龍太の写真ページにある、手書きのスクラッチのデザインが効いている。編集者とブックデザイナーのすばらしい機知。これによって、本のページが、路地をゆく歩行者によってひっかき瑕がつけられた「壁」にみえるのだ。ソトの歴史が無数の歩行者によって刻みこまれると同時に、もっとも家族的なウチの記憶が滲み出すような、時の境界線としての都市の壁。そう考えれば、レヴィ=ストロースのページも今福龍太のページも、サンパウロの街路の壁に書き刻まれた、あ
るいは滲み出して来た、1935年と2000年とが永遠に反転する不思議な時のメッセージとして、ぼくは眺めていたような気がする。

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紙の本思想家の自伝を読む

2010/12/30 07:59

「自分探し」の蔓延する時代に、あえて「他なるもの」を注視しつづけること、それは今日に必要な「ラディカルな意志のスタイル」だ

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 権力と市場の番犬たるマスメディアの喧伝する同じ「自分らしさ」を、息せき切って万人が求めるという倒錯的なゲーム。そのゲームから降りること、他人とはちがった道をゆくことを極端におそれる不穏な空気が蔓延している。そして、似たような顔つきをした無数の「私たち」が、自分のつぶやきを聴いてほしい、反応してほしいと、空虚で絶望的な叫びをネットで発している。誰もが「自分探し」のあやうい罠に気づきながら、「私」という殻に閉じこもってゆく暴走をとめられない。

 そんな息の詰まりそうな状況に対して、著者はいう。「自分探しなんてするな」。そう、「むしろ自分が出会った他者やモノに徹底してこだわれ」と。

 現代思想や文化批評の前衛を果敢にさまよいながらも、専門分野化された流行の「文化研究」からの自己破門をあっさり宣言したりする「不良中年」。そんな著者が紹介するのは、11人の思想家の自伝。サルトルとかアルチセールとか難しそうな哲学にいきなりチャレンジするのはハードルが高いように感じられても、思想家がどのような人生から言葉を紡いでいるのか、ということなら、多くの人にとって興味がもちやすい。

 解説のことばは分かりやすく、しかし現代思想のコンパクトな解説であろうとする以上に著者が伝えたいのは、自己と他者、同時代と様々な時代、自文化と異文化、そのボーダーに立ち、考えるというスタイル=生き様の意味だろう。

 「私」を「私ではないもの」におそれることなく近づけ、「私が私でなくなる」という危機に身をさらしながら、「私」を織りなす他人のことばやモノ(音楽やアート、旅や野生の土地)の関係性をめぐる地図を深く読み解くこと。「自分探し」の蔓延する時代に、あえて「他なるもの」を注視しつづけること、それは今日に必要な「ラディカルな意志のスタイル」だ。

 その地図をユダヤ系ドイツ人の批評家、ベンヤミンは「知合いの原型」と呼んだそうだ。この本が面白いのは、まさに著者の「知合いの原型」として、思想家の自伝が選ばれていること。学問的で客観的な基準ではなく、あくまで著者の好みというか、これまでの著者の生き方や旅、具体的で身体的な経験をとおして、あるテクストがセレクトされている。

 近代日本の思想家としてあげられるのは、きだみのる、大杉栄、林達夫、谷川雁。なんとも渋いし、魅力的だ。民族誌的シュルレアリスト、アナキスト、精神史家、工作者。このステキな並びに、著者に固有の思考のクセや曲げ=スイングが、豊かに聴こえてくる。

 谷川雁が書き留めた「こどもが……遺伝子の群島にちらばる舟着き場の一つになり変わる」という詩的なフレーズから、谷川の思想を群島論的な想像力から読み解く部分など、この著者にしかなしえない新鮮な発見にみちみちていてじつにスリリングだ。また、「死に至る病」とともに旅に生き、エグザイルの哲学をねりあげた批評家エドワード・サイードの思想と人柄との出会いを語る場面は、感動的である。巻末の文献案内もかなり充実していて、それ自体、ひとつの作品として楽しむことができる。

 それにしても、簡単に時流に染まったりしない反骨の思想家の人生は、やっぱりおもしろい。勇気づけられる。他者の自伝は、自分がいる「いまここ」ではない外の世界、「遠い場所」への冒険に、想像力を連れ出してくれる。個人的には、きだみのるの破天荒な人生をたどって、奄美・台湾から、シュルレアリスムのフランス、モロッコまでいつか旅してみたい。

 でもまずは、せめて自宅の外に出て、近所の川や湖、ちょとした木立を散策しながら、ポケットに忍ばせた本書の一章でも読んでみよう。せせらぎや木々をわたる風の音、小鳥たちの歌、そんな野にひそむモノの声と思想家のことばがひそかに呼び交す中で、まだ見ぬ知の沃野への最初の扉が、きっとひらかれるにちがいない。

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