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レビューアーランキング
先月(2017年6月)

morijiさんのレビュー一覧

投稿者:moriji

12 件中 1 件~ 12 件を表示

紙の本日本の歴史をよみなおす

2012/04/18 10:02

歴史を検証する試み

15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1991年発行の正、2005年発行の続、をあわせて全一巻とした網野史学の全体像が実に読みやすくまとまった好著です。コンテンツを見ると、「文字について」「貨幣と商業金融」「畏怖と賤視」を始め、女性、天皇、「日本」の国号、日本は農業社会か、悪党海賊、重農主義と重商主義などなど、いずれの章も、著者が日本の歴史感の定説を崩していった問題が満載されています。
 どの章を読んでも非常にスリリングな論考が展開されていて、読み応え十分なのですが、私が特に魅かれたのが「畏怖と賤視」の章です。 
 特に、死穢、産穢など、かつてそれらを「清める」仕事として、ある意味尊敬の対象であった職能集団が、やがて「ケガレ」を扱う賤民として差別されていく変遷の問題。「清め」が「ケガレ」に変化して行く意識の構造の変化。なぜこのような変化が起こってきたのかを、著者は次のように述べます。「ケガレを恐れる、畏怖する意識がしだいに消えて、これを忌避する、汚穢として嫌悪するような意識が、しだいに強くなってきた」そしてそれに伴って、「ケガレを清める仕事に携わる人々に対する、忌避、差別観、賤視の方向が表にあらわれてくるようになったのだと思います」と極めて明快に述べています。
「畏れ」を失った人々。この言葉は現在の「なんでもあり」の風潮に対する、強い批評ともなっています。
 このほか、中世から江戸期にかけての、百姓=農民 という常識をひっくり返す試み。例えば「水呑百姓」という言葉には、「土地を持たなくても生活して行くことのできる」職能人でもあったという指摘。「村」という言葉に含まれるイメージの誤り。女性の活躍、子どもたちの実際、海は文化を隔てるか?という問題などなど、目から鱗の歴史を堪能することが出来ます。
「これまで常識とされて、いまも広く世に流通している日本史像、日本社会のイメージの大きな偏り、あるいは明白な誤りの根はまことに深いものがあり、これを正すことはわれわれが現代を誤りなく生きるためには急務であると考えている」とあります。「歴史を学ばない国は亡びる」とは加藤周一の言葉ですが、常に歴史を検証していく試みもまた、非常に大切なことだと考えます。

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のっぺらぼーの言葉の中で

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

3.11以降におおびただしい数の震災・原発関連の図書が出版されました。そのような状況の中で、私が最も関心を持って待っていたのが辺見 庸の発言でした。塩釜出身の著者がこの、「未曽有」の災害をどのように捉えているのか、また、3.11以降の世界を生きざるを得ない私たちに、どのようなメッセージを発しようとするのか、興味と関心を抱いていたところです。そこにこの本が出版されました。急いで買い求めてたちまち読了。
さすがに凡百の関連図書とは違い、いかにも辺見庸でなければ出てこない深く重い発言の数々に、スリリングな刺激を受ました。
 特に刺激的な発言は、「言葉」に対する著者独自の真摯で根源的な問いかけに見られます。様々な政治家の発言、報道、論説、対談、テレビの画像等々の氾濫の中で、本当にその人自身の心の中からの真に「生きた言葉」が発せられているかという問題。「生きた言葉」というのはとりもなおさず「自由な発想による、その人独自の裡から発せられる言葉」という意味のように思えました。
 例えば震災直後のテレビに執拗に繰り返されたへんてこな歌?「こんにちワン、ありがとウサギ・・・」の不気味な繰り返し、コマーシャルのサブリミナル効果そのものの「言葉」の裡に、どれだけその言葉を発する個人の内発性が担保されているのでしょうか?
 著者はそのような現代にあって、なお、本当の「生きた」言葉の必要性を問い続けています。「言葉」が、全て単なる符牒に過ぎなくなっていく現在、著者はそこに鋭い警告を発しています。例えばかつての広島原爆の時の原民喜「原爆の花」、関東大震災の折口信夫の詩、川端康成の小説などにあったその人ならではの「生きた言葉」が、3.11以降の世界に向けて、一言でも発せられたことがあるだろうか?という問いかけです。そしてこう言います。
「ふと気がつけば、意味の抜け落ちた、芯を失ったノッペラボウの言葉たちに、わたしたちはがんじがらめになっています」
 言葉を発する個人、それとリンクする形で、数値には決して変換されることのない個人個人、そしてその死。その裏にある日本全体を覆う「協調主義的全体主義化」という指摘には、目をさまさせられるものがあります。

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紙の本なみだふるはな

2012/04/05 17:37

呼吸しあうということ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 「現生はいよいよ 地獄とやいわん 虚無とやいわん
ただ滅亡のせまるを待つのみか ここにおいてわれらなお
地上に開く一輪の花の力を念じて 合掌す」(石牟礼道子「花を奉る」より)
水俣と福島。日本のありように、今、大きな変更を迫っているこの二つの地名。この地名と直接関わってきた著者たちの、深く静かな対談集です。
猫や野菜、草花から海岸、川、農漁村、食事、子どもの時の思い出など、日常的な話題から、いつのまにか現代の抱える複雑な問題へとまるで自然な趣のままに進行して行きます。それは、とりもなおさず、全ての山川草木、いきとし生きるもの全てが、今、まさに起こりつつある衰退の問題とは無縁ではありえないことの証でしょう。
石牟礼道子はこの対談の中で、さまざまな美しい言葉を発しています。たとえば、トカゲやアマガエルやオロチやサルに対する「あの衆たち」という言葉であり、また、さまざまな「草どん」たちに対する「千草百草(ちぐさももくさ)」という言葉であるわけですが、そんな言葉の裡に生きていた万物との共生の世界。それが今や激しく崩壊して行っている事実を、これらの言葉から鮮烈に感じ取ることが出来ます。「近代人としての反省としては、海も大地も呼吸をしている。そこにいるものたちは、動物、植物、全部呼吸をしている。その呼吸を人間の力でできなくさせている。人間しかいたしませんもの。そんなこと」(石牟礼)そこから冒頭の「今や地獄とやいわん、虚無とやいわん」という詩が生まれ出てくると思います。また、藤原新也の「そういった大きな罪を犯した人類は滅亡しても仕方がないと、僕は個人的には思っています」という言葉も、同じ地点に立っての激しい発言であると思います。
そんな中にあって、それでも・・・と藤原は言い、以下のようなルターの詩を掲げます。
 ―たとえ明日世界が滅びようと、
    わたしは今日
     林檎の木を植えるー
フクシマのこと、ミナマタのこと、そして少なくてもジンルイと、そして生きとし生きるもの全てに思いをはせるための、ヒントが横溢した本になっています。

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紙の本日本の文脈

2012/04/19 16:02

スリリングな対談。明日は見えるか?

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 わかりにくい書名に戸惑ったのですが、冒頭にこんな説明がありました。当初予定していたものは「日本の王道」といったものだったようです。(これもまた、わかりにくいのですが)それ以後に3.11が起こった。3.11であらゆる意味での「文脈」が大きく変わってしまったので、急遽変更した。とのことです。
 当時、その予兆はあったのですが、3.11で、あらゆる矛盾がはっきりと露呈されてしまった。あらゆる意味でのパラダイムの変換が言われた。それなのに、政治、経済をはじめとして、いつか旧態依然の姿が「復興」されているというそのような姿に、日本独特の「文脈」という性格があるのではないか、そんな思いがこの書名にあらわれているようにも思います。
そのような意味で、この本は日本の文化全般にわたっての「文脈」をめぐる、実に興味深い対論になっています。特に興味を喚起されたのが、例えば「贈与する人が未来をつくる」という言葉。かつて「民主主義」は、先人の血のにじむような努力をもって獲得されてきた制度なのですが、そこには「民主主義が効果的に機能するには、血を流してこのシステムをつくった人が現にいるのだという切迫感、その人たちから贈与されたものであるという非贈与の感覚があってこそだと思うんです」(内田)とか、「本来は政治の根っこのところに贈与性があります」(中沢)あるいは「医療・教育・宗教はサンクチュアリとして(ビジネス席捲の世から)保全しておかないといけない」(内田)という発言には、“なんでもあり”。教育・福祉・医療でさえも市場原理(金儲主義)に取り込まれた、疑似民主主義(新自由主義)社会への警告となっています。また、人口減少については「行き詰まった民主主義、資本主義に対する、一種のソリューションではないか」という常識を取り払った視点を持ち込んでいます。以上はこの本のごく一部の紹介です。
 対談にはこのほか、武道と呼吸法、チベット仏教からユダヤの思想、レヴィストロースとプリコラージュの思想、今こそ重農主義へという主張、東洋の学び、日本人の自然観などなど、実に多彩な話題をめぐり、それこそ自由閣達な対論が展開されています。
 その、一つ一つの話題が、「これからの日本にほんとうに必要なものは何だろうか」という大きな問題提起に収斂されていきます。基本的な原点に立ち返って、3.11以降の「今」を考えるための格好の書といえましょう。

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語り継ぐということ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 鮮烈で重い読後感を残し、印象がいつまでも消えることのない本です。戦後世代のわたくしには、著者の思いはとうてい迫ることはできないのですが、秘めた強い怒りには、激しく感応することは出来ます。
 太平洋戦争を主題にした小説やルポルタージュ、戦記などが私たちの前には多数残されているのですが、これほど戦争と日本兵の暴虐の実体を、生々しく著した書をわたくしは知りません。あるいは「和歌」という、僅か31字の文学に凝縮された世界だからこそ、逆に戦争の実体が言葉の壁を遥かに乗り越えて、読者に迫ってくるのかもしれません。
捕虜の中国人を柱にしばりつけ、「勇気をつけさせるため」殺害する、という上官の命令を、著者はキリスト者の立場から拒否します。その後に待っていた凄惨なリンチ、軍隊生活から脱走した逃亡兵の捜索、捕虜虐殺の実体、村の家々への略奪と放火、凌辱と強姦、それらを「平然と」見守る上官たちの目・・・著者はそれら日本軍のなした悪逆非道を一つ一つ短歌の形で残していきました。

 「もの書くは厠と決まる新兵(へい)われに なに指図なきひと時なれば」

 歌は全て唯一プライバシーを保てる、厠で書かれました。そしてこれらの短歌を記したメモを、著者は衣服の襞に縫い付けて大事に日本に持ち帰った、と言います。
著者自身も公開に躊躇し続けた、というこの歌集を、今出版することの意味は非常に大きいと思います。日本人が一体何をしてきたのか。戦争の実体とはどんなものなのか。軍隊という「真空地帯」(野間 宏)の中ではどんなことが行われ得るのか、もう一度しっかりと考えるためにも、この本は貴重な資料としての価値も合わせ持っています。

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紙の本フロスト気質 上

2009/01/22 14:13

フロスト、健在!

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 おなじみのデントン警察署ジャック・フロスト警部の型破りの活躍を描いた長編推理小説。
 しばらくフロストの本が出なかったので、やむなく、ミステリー・チャンネルのテレビ版「お上品な」フロストにもどかしい思いをしながら付き合わされた身としては、まさに久々のフロスト、相変わらずのフロストにめぐり合えて、待ちに待った至福の時間だった。
 ここでのフロストは、まさに「フォルスタッフ」的怪物ぶりを遺憾なく発揮している。
 重層する数々の事件、一見脈絡もないバラバラの事件が次々に起こる。その一つ一つに猪突猛進し、弾き飛ばされ、落ち込み、またまたファイトを取り戻して、周囲の思惑もあらばこそ、直感と場当たり的な幸運を唯一の頼りにして挑んでいく過程は、ハラハラドキドキの連続。いつのまにかこの、猥雑で、スケベで、不潔で、口の悪い男に、いつのまにかすっかりとりこまれてしまうのは、前作のパターンと同じ。
 署長に代表される組織の論理を、あっけなく蹴っ飛ばしてわが道を行くフロストの姿は身だしなみ、減らず口等々にもかかわらず、これがカッコイイのである。
 ダメ、ドジ、マヌケ・・・と言わせながら最後にはきっちりと辻褄をあわせて犯人逮捕に至るというしたたかさには、万雷の拍手を送りたい。

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「逝きし人々」からの警告

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もう、35年も前に出版された本ですが、今、ますますその価値を高めている本だと思います。地球規模の災害、原発事故、財政の危機、くりかえされる紛争、環境の破壊、貧富の格差拡大、・・・
21世紀の様々な世界規模の問題が凝縮されて起こっている現在、人類は今、これまでの生活様式や考え方の変換を迫られていますが、そんな時、この本はかつての暮らしと思想を考え直すための貴重な資料を提供してくれています。
 「イシ」とは、アメリカインデイアンとして最後に生き残っていた主人公の名前です。インデイアン保護区には保護されたインデイアンが暮らしていますが、「イシ」はまさに野性のままの暮らしを続けていた最後の一人として保護されました。この物語(イシの語ったドキュメンタリーでもあります)は、ヤヒ族の一員として仲間と暮らしていたイシを白人(サルドウー)がどんどんと追いつめ、最後に残った4人(母、伯父、姪)も、次々に「死者の地」に赴いてしまいます。そんな苛酷な日々の出来事を綴ったこの本は、そのまま、文明が野性を駆逐していく物語ともなっています。「どんぐりの窪地」や「月桂樹の村」「緑の洞窟」や「穴熊の川」これら地名にあらわれた人と自然が一体となったすばらしく豊かな世界。そいれが一転、みじめな逃亡生活に変わり果ててしまいます。白人からの追跡を逃れるための様々な智恵と冒険の物語のスピーデイーな展開と、「文明」とは何なのか?という強い思いが充満した本となっています。挿絵(Ruth Robbins)のすばらしさも特筆されます。
 なお、著者 シオドーラ・クーパーの娘さんが、「ゲド戦記」のアーシュラ・ル・グインであることも、グ・インの「アースシー」の世界との繋がりで、理解されるところでしょう。

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このような出版人がいた。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ちょうどこの本を読んだ頃、新聞で中小企業の資金繰りを支援する「国の緊急保証制度」から、出版業が対象外になっている、という記事を読んだ。
国の文化行政の劣悪さを憤るとともに、出版に対する思いがいかなるものなのか、ということをこの本で、具体的に、如実に示された感じがする。
 一見、出版、編集にかかわる専門書とも取れる題名だが、中身はなかなか面白い。シロウトが読んでも十二分に楽しめる内容になっている。巌浩 という大きな人物の魅力もさることながら、一番感動したのは、「資金繰りのことを考えなかった日が、一日もなかった」といった編集者たちが、「金喰い蟲」たる雑誌の出版に、鬼気!迫る執念で立ち向かっていること。また、それをサポートするかたちで、若き、お金のない執筆陣が、良質の論文を提供し続ける、という、素晴らしい関係である。
 このようにして『伝統と現代』のような質の高い雑誌が刊行されていたなどということは、全く知らなかった。(『伝統と現代』の全巻内容も収録されている)。
 著者もいうように、こうした双方ともギリギリの状態で書かれたものと、昨今の、大学や職場に席を置きながら、悠然と書かれたものとは、自ずからその肌合いが違う、ということだが、まさに実感だろうと思う。
 巌浩という、大きな、神話的ともいえる魅力的な人間の航跡を追って、著者は日本の各地を探訪するのだが、その過程で「海」というキーワードを拾い出す展開はなかなかにスリリングである。
 評伝がそのまま出版史になるような一時期。あるいはそれは、出版人である著者の「苦しくも良き時代」へのオマージュなのかも知れない。
 一読をお薦めする。

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紙の本ある昭和史 自分史の試み 改版

2012/03/23 11:35

「ある昭和史ー自分史の試みー」

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は冒頭で、昭和を生きた庶民を「歴史の急流の中で翻弄されてきた一艘の小舟のような存在」として捉えます。まさに急流であった昭和の歴史の中で、著者を含む庶民は、翻弄され、破壊され、遺棄され、放置され、あるいは弄ばれてきたわけですが、そのような中にあった著者を含めた庶民のありかたを、実に明瞭な形で描き出しています。
 それは、ひとえに、著者の言う「自分史」が、単なる個人の歴史ではなく、個人はすべからく時の政治、経済、文化、社会の影響を色濃く受け続けている存在である、という基本的な認識に支えられているためだと思われます。
 「庶民生活の五十年」「十五年戦争を生きる」「ある常民の足跡」「昭和史の天皇像」からなるこの著作に一貫して流れているのは、著者のそういった姿勢です。この姿勢を確保するために、著者はあらゆる資料からの引用を試みます。それは例えば時の流行歌の文句であったり、新聞投稿の記事であったり、あるいは「文化住宅」の見取り図であったり、識者の論文であったりするわけですが、そのような具体的なところにあらわれた庶民の生活、そして心情、感性、思想、怒り、悩み、哀しみ、喜び等々を通じて、私たちは昭和史の真っただ中で生きてきた人々の心に迫ることが出来るのです。
大きく捉えれば、「世界に冠たる」軍事大国であった日本帝国の奢りと滅亡、それを唱導、放置あるいは見過ごしてきた政界、軍部、財界、思想界の体制への悲痛な告発、そしていまだに残るかつての「無責任体制」への警告まで、実に幅広い昭和史を書き続けていきます。
 ここには、単なる「事項の羅列」にとどまらない、生きた「歴史」がビビッドに息づいていますが、著者は昭和を振り返り、こんな言葉を残しています。
 「美しい日本の海は死に絶え、企業によって奇形にされた棄民の呪詛を鋭く背中に受けながら、スモッグに覆われた都会の空をふりあおいで、来し方ゆくすえを考える、かれらの無量の吐息がきこえるようである」
 3.11以降の日本に生きる私たちは、常にこの本に戻り、再度昭和史とそこに生きた庶民の「国民的体験」の意味を考える必要があると思います。

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新しい「夢」は可能か?

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 冒頭にこんな言葉が記されています。「筆者はこれから夢を語ろうと思う。それは未来社会についての夢だ」。いまどき「夢を語る」などというと、とんでもない時代錯誤、あるいは、現実遊離したロマンチスト、果ては言語感覚ゼロの数多いる無節操な政治家を連想してしまいますが、実は著者はこの言葉を大真面目で語っているのです。その謂いは、現実の世界を席捲している「政治不信」をいかにして打破して行くか、という全く新しい「夢」の提言にあります。
 先日の朝日新聞に「政治不信2.0」という論説が載りました。(ザ・コラム 大野博人)。大意は、かつての政治不信(1.0)が、政治、政府の施策への不信として顕われていたが、現在は2.0つまり政策政権への不信ではなく、政治制度そのものに対する不信にバージョンアップしている、というものです。
 この本の著者の立脚点もまさにその位置にあります。政権交代を繰り返しても一向に進展しない現状。著者は大胆にそこからの離脱を提示します。それを著者は「夢」と呼んでいます。その夢の立脚点に位置するのが、ルソーの「一般意志」(バージョンで言えば1.0)になります。
 18世紀のフランスの政治思想家ルソーが唱えた『社会契約論』の中の「一般意志」(これが著者の言うバージョン1.0になります)。この「一般意志」を新たな社会の基盤に据えようというのが「一般意志2.0」の主張です。ここで述べられているルソーの思想の体系を整理してみると、社会を構成する個人個人の意志―「特殊意志」―を合算した総計―「全体意思」(今の世論のようなもの)-から、「差異の和」つまり+と-を相殺したものが「一般意志」ということになります。ルソーの『社会契約論』ではこの「一般意志」が、国の施策のトップに置かれるべきであり、政治とはこの「一般意志」により、数値的、モノ的に顕われた施策を代行して運営する単なる機関でしかありえない、とするものです。
 この主張は特に現代においてなかなか新鮮なものがあります。著者はこのルソーの思想を現代に敷衍する一つの方法として、今後のユビキタス・コンピユーテイングの世界、あるいはツイッターやブログ、ミキシーをはじめとするコンピュータ・ネットワーキングの進展に「夢」を託しています。 具体的には、「一般意志」(情報)を広く収集し、それを「全体意思」(データベース)化する。そしてそれらを「一般意志」に止揚させるための、仕掛け―たとえば「ニコニコ動画」に見られるような個人の意見の反映を通してー「総合意志」を止揚し、「一般意志」を抽出するという様々な「しかけ」を施す必要があると説いています。
 「特殊意志」が果たして本当に個人の裡に育った意志なのか?たとえばその中に微妙に、あるいは大幅にマスコミや世間の風潮に流された「意志」が無意識のうちに流入してはいないか?「総合意志」がどのように「一般意志」として顕われるのか・・・それがポピュリズム(衆愚政治)に陥る危険性はないのか?・・・などなど、検証すべき問題は多々ありますが、著者が一つの現状打破の「夢」として、提示した意義は大きいと思います。

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紙の本灰色の季節をこえて

2012/11/06 10:49

ペストの猛威と因習の中で、希望はあるか。

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偶然手に取った本ですが、当たり!でした。やみくもに本を読んでいるとたまにこのような出会いがあります。(外れももちろん多い。むしろそのほうが多いかも)
 16世紀のイギリス中部の田舎が舞台です。中世のイギリス、というだけでそこには様々なイメージが湧いてきます。例えば宗教の対立であったり(清教徒とイギリス国教の)因習がまだ現実に息づいている社会であったり、貧しさと封建制であったり、身分制度の固定と差別であったり、呪術と野性が生きて活動している社会であったりがそれですが、この小説にはたっぷりとそんな要素が盛り込まれています。
 この、中世の田舎村にペスト禍が襲ってきます。それまでは、いろいろな問題を含みつつもなんとか美しい農村と牧畜と信仰と心の素朴な形が保たれていたのですが、ペストの襲来により、それらすべてのものが破壊されて行きます。それはまずは村人たちの生活であり、習慣であり、信仰そのものでもあるのですが、人々がどんどんペストにより亡くなっていくなかで、主人公の女性と国教会の神父、その妻を中心して、なんとかこの災禍を逃れようとする必死の行動を中心にして描かれます。これ以上ペスト禍を広げないために、村は完全に他の都市との交流を断ちます。その、閉鎖された小社会の中で生起する問題、蔓延する死、重篤な病状、拡がる呪術による治療と慰め、その中で、宗教を中心に据えた牧師たちの必死の抵抗など、息もつかせぬ展開がページを閉じることを許しません。
ペストという野性が猛威をふるう中で、人はどのように正気を保ちつつ、次の展望を抱いていくことが出来るのか、宗教の持つ意義は?そんな大きな問題をも提起しています。

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紙の本本の透視図 その過去と未来

2013/03/06 09:07

過去、未来をつなぐ「本」とは・・・

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「本の透視図」(菅原孝雄著・国書刊行会・2012年刊)

 本に関する歴史や文化の過去から未来までをまさに「透視」したもの。
 いわゆる教科書的な事実の羅列とはまったくおもむきを異にする。
 著者はかつて編集者だったらしいのだが、本に関するの古今東西のうんちく が実に豊富。その基本には「本(ペーパーの)」に対する深い信頼と期待があ ることが分かる。
 そこからの発想が実にユニーク。
 たとえば、本の歴史ではグーテンベルグがいつでも取り上げられるのだがあれはいわば後世の粗製乱造の始まり(一冊一冊を手書きしていた当時の人には、第2級の本として認識しかなかった)ことや、現在のブックオフ。 本が今や大根なみに一冊100円均一で売られているスーパーマーケット状況とをリンクさせる。

  かつて、出版という行為には文化を担うという大きな自負がその原動力として あったと思われるのだが、今や「売れ筋」と「軽量化」「軽薄化」による利益ばか り先行した、まさにスーパー商品となんら変わらない状況を嘆いている。

 また、著者は最近のコンピューター技術を母胎とした電子ブックにも詳しく言及する。 出版社がこれらの新しい媒体に期待するところは大きいのだろうが、実はその背景には出版界の不況。 本が売れない、という現状とスマートフォンを始めとする新しい動きが、本の世界を駆逐す ることに対する懸念が底に流れている、という。
 いわば遅まきながらあわてて参入したという趣が強い。
  それが、本(ペーパー)と電子ブックをはじめとするハイパー・テキストで生成されたものとの本質的な違いを、しっかりと認識してからの活動であるのか?その決定的な違いをはっきりと意識しているのか?という問いかけもスルドイものを持っている。
 本の世界がユートピアからデストピアになる恐れを指摘したこのような本は時に、現在のような出版状況の中では貴重なものと思われる。

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