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  3. トグサさんのレビュー一覧

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先月(2017年4月)

トグサさんのレビュー一覧

投稿者:トグサ

21 件中 1 件~ 15 件を表示

就活中の君にこそ読んで欲しいウェブ時代の人生指南書

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは書評ではなくあくまでも内容紹介です。

あとがきで述べられているように、この『ウェブ時代をゆく-いかに働き、いかに学ぶか』は、ウェブ時代の意味を描いた『ウェブ進化論』と対になった「その時代に生まれる新しい生き方の可能性」をテーマとしている。
そして、志さえ持てば、ウェブは「人生のインフラ」として「個」を大いに助けてくれる。そのことを、出来るだけ多くの人たちに伝えたいと思い、本書を執筆したと明かす。
この梅田望夫氏の真摯な思いは、ストレートに私に伝わり、大いに私を勇気付けてくれた。

この梅田望夫氏のオプティミズム(楽天主義)につなれかれた『ウェブ時代をゆく-いかに働き、いかに学ぶか』は、会社人間である、フリーランスである、にかかわらずウェブ時代という「もうひとつの地球」が存在する時代の新しい生き方を実践している/しようとしている人たちへの応援歌であり、私も勇気付けられました。
また、著者である梅田望夫氏は、小見出しの付け方が上手く、文章も論理的に整理してあり、非常に読みやすい。

<目次>
序章 混沌として面白い時代
第一章 グーグルと「もうひとつの地球」
第二章 新しいリーダーシップ
第三章 「高速道路」と「けものみち」
第四章 ロールモデル思考法
第五章 手ぶらの知的生産
第六章 大組織vs.小組織
第七章 新しい職業
終章 ウェブは自ら助くる者を助く
あとがき

<内容紹介>
梅田望夫氏は、ネット空間=「もうひとつの地球」が存在すし、ウェブ進化という「産業革命前夜」のイギリスに匹敵する大変化に直面している我々の生涯は「一身にして二生を経るが如し」だという。
そんな大変化をオプティミズム(楽天主義)を基本姿勢に据えて考えるという。
その理由を5つ、提出しているが、ここでは、その2,3を紹介すると、(1)ネットが「巨大な強者」(国家、大資本・・・)よりも「小さな弱者」(個人、小組織・・・)と親和性の高い技術であること。(2)ネットが善なるものを、集積する可能性を秘めた技術であること。(3)ネットがこれまで「ほんの一部の人たち」にのみ可能だった行為(例:表現、社会貢献)を、すべての人々に開放する技術であること、などを挙げている。

そして、そのネット空間の最大の存在がグーグル(Google)であるという。
また、ネットの登場により、学習プロセスを巡って大きな変化がおきつつあるという。
その変化の本質を梅田望夫氏は、羽生善治二冠の言葉を借りて「学習の高速道路と大渋滞」と呼ぶ。
ネットによって、「学習の高速道路」が、あらゆる分野に敷かれようとしている。
ただ、その「学習の高速道路」を走りきったなと思ったあたり(「その道のプロ」寸前)で大渋滞が起こるのだと羽生善治二冠は言う。
梅田望夫氏は、その大渋滞の先をサバイバルする二つの選択肢を主張する。
大渋滞を抜けようと「高く険しい道」を目指すか、高速道路を降りて道標のない「けものみち」を歩いていくか、である。

また梅田望夫氏は、オープンソースの思想と、それを支える先進国のプログラマーの若者たちに新しい生き方の追求を見る。

僕のブログ記事より、僕のブログ記事では、さらに各章の要約が読めます。

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村上ファンでなくても読む価値大

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この作品は、“世界の終わり”という世界と“ハードボイルド・ワンダーランド”という世界という2つの世界が同時並行に順番に描かれています。
本屋で立ち読みし、そういう物語構成が好きになれなかったので読もうかなあと思いつつも、いつも断念していました。
が、他の長編をほとんど読んでしまったので、えいやと読んでみたのですが、これが面白くて、村上作品で一番、純文学の香りを感じ、今では高く評価している作品です。
“世界の終わり”という世界は(ややこしいですが:;)、それこそ全て生命体が死に絶えた世界で、やみくろという動物のみと門番が存在しています。
その世界に生きる「僕」は、なんとか“世界の終わり”を包んでいる城砦を乗り越えようと計画しています。
一方、“ハードボイルド・ワンダーランド”という世界に住む「私」は、彼しかない特殊な能力を持っており、シャッフリングという数字を扱うこの世界では、とても重要な任務を行っています。
この二つの世界に住む主人公は、最後までなんら干渉しません。
一つ、一つ独立した物語としても面白いですし、一般には、“世界の終わり”という世界を“ハードボイルド・ワンダーランド”という世界に生きる「私」の脳内とも読むそうです。
他の村上作品とは、少し毛色が違いますが読む価値大です。

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紙の本竜馬がゆく 新装版 1

2011/09/21 03:18

僕は、司馬さんの作品から大いに日本史を学んだ。司馬さん、ありがとう。

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

司馬作品ほど日本人によく読まれている作家はいないと思います。
僕は、漱石と並んで、司馬さんは、偉大な国民的作家であると思っています。

が、今は、『この国かたち』の影響でしょうか。
ネットを中心に活動している、にわか保守(保守陣営には、高坂正堯さんはじめ学ぶべき人は大勢いるので、失礼のないように便宜的にこう呼ばせてもらいます。)に、おもちゃか何かのように扱われ、また、ほとんど『この国のかたち』の類の本を、ほんの少しなぞっただけの左翼連中に、心ない攻撃をされている現状は、とてもやるせない気持ちで一杯です。

もともと司馬さんが、過去の日本人を躍動感溢れ描いたのは、司馬さんの「敗戦で落ち込んだ日本人を少しでも勇気づけたい」という心意気がありました。

現在、”原発”の是非を中心に、被災者の人々の心とは、無縁な形で、ネット上では心無い無責任な言葉が交わされています。

今後、司馬さんのような心意気を持った作家なり芸術家が果たして現れるでしょうか。

また、司馬さんには直観像資質という特異な才能があり、膨大な資料を読みほぐしてから、作品を構築しています。
直観像資質:自分が読んだ本が映像として頭の中に映り、この資質の持ち主は、この映像をなぞることによって、その本の内容を再現できる。
余談ですが、少年Aもこの特異的才能の持ち主であったらしい。

司馬さんと同じ関西人である僕は、司馬さんと同じく腹黒い徳川家康が大嫌いです。
関西以外の人には、中々理解してもらえないのですが、あの大坂の陣が負けたことを口惜しくて口惜しくて仕方ないという関西人は、少なくないのではないでしょうか。

最近、何か本になりましたね^^

さてはて、肝心の『竜馬がゆく』ですが、何故、本棚に全巻揃っていたのか、今では定かではありませんが、ふとなにげなく第1巻をとってみると、みるみるその世界にはまり込み、面白くて面白くて、全巻、読み通すのに、1週間もかからなかったと思います。

山本周五郎の市井の歴史に埋もれた人を描く作品は、たしかに面白いのですが、僕にとってどうも貧乏臭く感じていました。

吉川英治の『宮本武蔵』は、全て全てそう描いているわけではないだろうが、聖人君子の立派な話を読まされているようで、『宮本武蔵』は半ば義務感で読み終えました。

ところが、司馬さんの作品は違う。
司馬作品の主人公たちには、躍動感溢れ、わくわくさせられ、胸踊るのである。
また、ステロタイプされない人物ばかりです。
豪傑と呼ばれる人物にも、どこかおかしみがあり、人間的かわいらしさを併せ持つのである。
果たして、今盛んに叫ばれている正々堂々とした武士なんて、ほんとに実在したのでしょうか?
司馬作品に登場する武士は、『竜馬がゆく』は、どこな爽やかですが、他の作品では、大抵、抜け目なく、時に卑怯な手も使う一筋縄で行かない手練の者たちばかりでした。
そうじゃないと、彼らは生き残れなかった。

今では、“命”こそ極上の価値で、長生きすることのみが至上命題となっているようですが、我々には、命を賭してでも守らなければならないものがあるはず。

自分の国??
はぁ??
僕にとって、それは名誉や誇りであるかもしれない。

僕の最も尊敬する人物。
真田幸村親子。

今、歴女と呼ばれる人たちが出没し、再び歴史にスポットライトが当たっているようですが、ゲーム上の人物だけではなく、九度山の不遇時代、大名という身分であった幸村が、どんな心情で金の無心をしていたかなどにも思いを馳せて欲しい。

大阪の陣で、幸村が思いを描いていたのは、歴史上に自分の名を残すのだいう想いのみのはず。
それは、あるいは誇りのようなものかも知れない。
話は、大分それますが、ルース・ベネディクト『菊と刀』で一般に流布されている(実際の内容は違うらしいですが)「日本人の恥の文化」。
たしかに、そのような世間様に恥ずかしいという、いわば横のベクトルが働く”恥”の文化を、かつては持っていたように思います。
でも、僕は前々から思っていたのですが、われわれは、ご先祖様に恥ずかしい、末代までの恥という、いわば縦へと連なる“恥”の文化も持つ。
縦へと連なる“恥”の文化は、倫理、人間としての誇りを生み出すのではないでしょうか。
バブル以降、日本人は変質してしまい、こんな事を言ってみても虚しいばかりですが。

これも司馬の作品に詳しいが、真田幸村は、しかし、決して圧倒的不利な状況でも、籠城を主張したり、負けない戦さを主張したのではない。
家康の首を取りに行ったのである。

あの時、秀頼が太閤桐の家紋をつけた旗を掲げて、戦場に、ほんの少し登場していてくれたりしたら・・・。

なにも武人だけではない、わが街にも、命をもって江戸まで出かけ直訴した人々も存在する。

僕は、今の日本史などほとんど解っていないであろう連中が、“日本大好き、日本大好き”と連呼する状況を、とても苦々しく思っています。

日本史を知ろうと思う方には、是非、司馬作品をお勧めします。
面白くて、愉快で、それでいて学べる。

他に、読んだ時の詳しい印象を忘れてしまったのですが、やはり『坂の上の雲』。
『新選組血風録』なんか読むと、戦地で散るよりも内規で粛清されたものの方が圧倒的に多い、この異常集団の特異さが解ると思います。
僕の記憶が確かなら、どこかの作品で「新選組」のことを、司馬は単なる“人斬り集団”と切って捨てていたはずだ。
だが、この集団がおそらく今日の武士のイメージを形作ったのであろう、桜の花のように、儚い命で消えていく彼らは、やはり美しい。
また、乃木のことを司馬は、どうしようもない無能な人と描いていたはずだ。
そういう事を、今日のにわか保守の面々は、知っているのであろうか。

意外なところでは『項羽と劉邦』も、とても面白かったです。
歴史は、なにも武将然とした項羽に傾かなかった。
ほんと歴史は、奥深く、興味が尽きない。
『国盗り物語』で乱世に生きる人々のしたたかさを堪能するのもいい。

歴史上の出来事において、推し量るとき、現代の尺度、価値観でもってすべきでない。
そんな歴史を語る上でのイロハも司馬さんから学びました。

昔の日本人が持っていた判官びいき。
勝者よりも敗者に愛着を感じる心情。
司馬の作品は、確かに誰もが知る英雄たちを扱いながら、そんな心情に彩られている。
ちなみに、判官とは、源義経のことである。

僕自身の興味は、もはや大名や偉大な人物よりも、江戸の粋な町人、歴史自体への流れ、の方へ行っているが、ティーン・エイジャーの頃に、司馬遼太郎に出会えたことに、感謝のしようがない。

歴史に「もし、たら」など存在しないのかも知れない。
しかし、後世の人間が、歴史について、様々な想像を巡らすことほど楽しいものはない。

今は、幸村が九度山で軍略本を一心不乱に読んで耐え忍んでいたような時期なのかも知れない。

なんで、こんな日本になってしまったのやら。

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村上春樹は『1Q84』book2によって、新たなる決意と覚悟と持つに至った、そして僕は、ハルキストとなった

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『1Q84』book1では、延々と続く性描写に少し辟易しましたが、青豆が問題の宗教団体へ潜入へと物語が進行すると、次は次はと読む手が押さえられず、二日くらいで一気に読めました。
結果、この『1Q84』book2の物語の佳境である青豆とオウム真理教を思わせる宗教団体の“リーダー”とのリトル・ピープルの怒りの象徴である激しい雷鳴が轟き渡る夜のホテルの一室での息詰まる会話の攻防は、僕の脳裏にありありと映像が浮かぶようで、まるで僕がこの『1Q84』book2の本の世界に入り込み、青豆と“リーダー”との手に汗握る遣り取りを聞いているような、これまでの読書経験ではかつてなかった“読書体験”を僕にもたらした。

<感想>

「物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。」


僕の読みが浅いのかもしれないが、青豆と天吾の物語としては充分に面白く、楽しめたが、この『1Q84』をオウム真理教の一連の事件を、“べつのかたち” に十分、置き換えたとは僕には思えなかった。

細かなことを言うと、天吾の周辺を探る牛河の登場は唐突に思えた。
ラスト近く、青豆が思わず「天吾君!!」と叫ぶ場面は、究極の恋愛を思わせ、感動的であったが、同時にあまりにも純粋であるがため、その描写は少女マンガのようにも思えましたが。
また、青豆のラストの章は、思いっきり「ハードボイルド小説」のようであった。

<批評のようなもの>
フレイザーの『金枝篇』の王殺しの解釈は、大江健三郎の『同時代ゲーム 』で応用された山口昌男の理論とは全く違っていて、いたって“近代的なもの”であった。

村上春樹の作品の登場人物は、いつだってクールで冷めている。
たとえば、この『1Q84』では、青豆がタマルにピストルの手配を依頼するくだり。
とまどったりするのは主人公だけだ。
それも、物語のはじめだけ。物語の終盤になると、村上春樹作品の主人公たちは、事態をあきらめ受け入れる。
しかし、この『1Q84』では違う!!
主人公である天吾は、青豆という“おもし”(前作『海辺のカフカ 』にも登場したキーワード!!)から目覚め、アクションを起こそうとする。
受動的な(レシヴァ)主人公が、能動的に(パシヴァ)劇的に変わるのである。
僕は、このことに大いに注目し、村上春樹氏の新たなる決意と覚悟を見るのである。

“そう、均衡そのものが善なのだ”


何はともあれ、book2で終わりだと思われていた青豆と天吾の物語が、1Q84 BOOK 3としてどのように展開されるのか非常に楽しみである。
リトル・ピープルとは?ふかえりの未来は?

物語全体からハーモニーのような音楽が流れているようであり、中でも物語の冒頭とラストのタクシーの中で青豆が聴いている ヤナーチェク : シンフォニエッタがとても気になり、思わず購入した。
僕が『1Q84』を読んでいる最中に、このヤナーチェックの「シンフォニエッタ」に思い描いていたイメージと少し違っていたが、今では僕の愛聴盤のひとつである。
また、この『1Q84』を他の人がどのように解読しているか気になり、数ある『1Q84』の解読本の中から、内田樹、加藤典洋、川村湊、四方田犬彦ら多数の著名な執筆人が寄稿している河出書房新社の『村上春樹『1Q84』をどう読むか』を購入した。
この自分の感想を書くまでは、影響されるのが嫌で今まで封印してきたが、book3の予習としても、これからこの『村上春樹『1Q84』をどう読むか』を読みたいと思います。
また、感想記事を投稿できればと思います。

僕のブログ記事

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紙の本博士の愛した数式

2012/01/30 09:14

この「博士の愛した数式」は、「…

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この「博士の愛した数式」は、「本の雑誌」が主催する書店員が選ぶその年のベスト10のグランプリに当たる本屋大賞を1昨年受賞しています。

この「博士の愛する数式」あたりだろうかエンターテイメント小説に数学が扱われることが一つのトレンドみたいになったのは。
直木賞を受賞した(祝!おめでとう!)東野圭吾さんの「容疑者Xの献身」の重要人物にも数学者が登場します。

この「博士の愛した数式」の主人公の一人も数学者です。

<感想>

僕はこの「博士の愛した数式」を読んで久々にほのぼのとした気持ちにさせられ心が洗われました。
それは、博士の持っている人柄、会う度に靴のサイズと電話番号を聞かれながらも、それに丁寧に答える私の優しさとルートと博士の心温まるやり取りによるものにもたらされます。

この「博士の愛した数式」には友愛数、完全数、双子素数、三角数など数字がが多く登場します。
その数字が大変、美しいです。意味など解らなくていいのです。その美しさを分かりさえすれば。
それが著者、小川洋子さんがつたえたかったことであるはずだから。

また、その数字の単純な美しさを表現するためか、小川洋子さんの文体は簡素でさりげない会話が心に染み入ります。

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紙の本小説の技巧

2011/09/17 17:19

小説をもう一歩、踏み込んで読み込みたいあなたへ。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小説内で用いられているテクニックを、50ほどのテーマで、どういう効果を期待してそのテクニックを使われているか、具体的なテクストを最初に提示し、非常に解り易く解説されてある。

また、具体例と挙げられている小説のテクストも適切。

訳者は、今をときめく柴田元幸さん。

もう少し深く小説を読みほぐしたいんだけどという読者にとっては、まずは読むべき必読の書。

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僕にも「あの頃の俺たち」と呼べる奴等との青春時代があった。

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

首相暗殺の濡れ衣を着せられた男の話なので、スリリングな話かと思えば青春小説の趣であった。また、監視社会と首相テロの話ということで『魔王』のような不気味な話を期待しながら読んだが、それとも違っていた。
最後まで読んでも、全ては明らかにされないのだが、セキュリティポッドで携帯電話の盗聴、盗撮できる監視システムが完備している時代としては、主人公・青柳雅春をはめる手段はアナログであった。
ただ、読後感は良かったです。

「ゴールデンスランバー」とは、ビートルズの最後のスタジオ録音のアルバム「アビィ・ロード」の中の短い曲のことなのですが、ある程度、ビートルズのことを知っていれば、実際は、この『ゴールデンスランバー』に出てくるような録音時の美しい話は全くなく、事実は真逆である。

ご存知のとおり、ビートルズのメンバーは4人ですが、この『ゴールデンスランバー』に出てくる主人公たちも4人である。
しかし、それぞれジョン、ポールなどそれぞれの性格やポジションを反映しているわけではない。

この『ゴールデンスランバー』には、ビートルズの「ゴールデンスランバー」の一節、「Once there was a way to get back homeward」(昔は故郷へ続く道があった)が繰り返し、出てくる。
「帰るべき故郷」を、主人公らの青春時代「あの頃の俺たち」と繰り返し、振り返っている。
僕にも「あの頃の俺たち」と呼べる奴等との青春時代があった。
そんなことを思い出させてくれる作品であった。

この本は、昨年の本屋大賞を受賞している作品であるが、僕はそれほど高く評価しないが読んで損はない作品であった。

そして僕は、今、久し振りにビートルズを聴いている。

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紙の本太陽を曳く馬 上

2010/03/16 03:52

下巻で展開される「宗教とは」をめぐる対話を期待して

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作『太陽を曳く馬』は、『晴子情歌 』、『新リア王 』に続く三部作の第三作目です。
『晴子情歌』、『新リア王』はいずれも読んでいないのですが、『太陽を曳く馬』には『レディ・ジョーカー 』や『マークスの山 』の主要人物である合田雄一郎刑事が登場し、高村薫女史がオウム真理教を受けての宗教的対決のようなことを描いているということとあって、9・11テロよりもオウム真理教の一連の事件にショックを受けて、未だにどのように整理していいかわからず、そのことを引きずっている僕は、とにもかくにも『太陽を曳く馬』を手に取った。

<感想>
『太陽を曳く馬』(上)の物語の構成
本書『太陽を曳く馬』は、通常の警察小説のように、犯人を追う刑事、対するその捜査網から逃れようとする犯人という描写は、全くといっていいほどありません。
なぜなら、一つの事件である殺人事件の犯人・福澤秋道はすでに捕まって死刑が確定されており、もう一つの事件である死刑囚(これは、前期の殺人事件で死刑が確定した加害者の)の父・福澤彰之が主宰する禅寺・永劫寺の施錠を問われる事件の当該者である僧侶たちは、逃げも隠れもしていないから。

禅寺の施錠を問われる事件というのは、禅寺と契約を交わして入信した末永和哉という修行僧(てんかん持ちである)が、周囲の注意を振り払って、禅寺・永劫寺から飛び出し、交通事故死した事件をその末永和哉の両親が永劫寺の管理不行届きだと刑事告訴した事件のことを指す。

本書『太陽を曳く馬』の物語は、まず刑事告訴された交通事故のその告訴状が冒頭を飾ります。
そして、合田雄一郎刑事が告訴された当該の禅寺・永劫寺の主宰者である福澤彰之に会い、福澤彰之の名目上の息子・福澤秋道が、98年に起こした同棲中の女性とその嬰児を含む三人のを殺害した凄惨な事件の公判記録を読むところから、ゆっくりと物語は進む。

よってこの『太陽を曳く馬』は、
・福澤秋道が起こした殺人事件の公判記録
・獄中にいるその福澤秋道へ宛てた名目上の父・福澤彰之の殺人事件のアパートに福澤秋道が描いていた抽象絵画のようなものをめぐる非常に観念的な手紙
・実際に合田雄一郎刑事が傍聴した福澤秋道の殺人事件の公判の様子
で構成されており、そして「第三章 桜坂へ」へと物語が進行すると、やっと禅寺・永劫寺のサンガにに勤める修行僧らへの聴取が始まる。
この聴取での修行僧らの受答えも、禅僧らしくとても観念的、哲学的で難しいです。

高村薫女史が書く文章は硬質でありますが、この『太陽を曳く馬』はフランス現代思想もちりばめられ、内容も観念的で難しく読む人を選ぶでしょう。

『太陽を曳く馬』の題名を意味するもは
題名の「太陽を曳く馬」とは、バイキングの太古の祖先がスカンジナビアの海岸に刻んだ岩絵の、有名な図形の一つで、四つ足のような蛇のような図形。
この図形のカラーコピー1枚が、福澤秋道が同居人の女性らを殺害したアパートの部屋に埋もれていた。

この『太陽を曳く馬』上巻は、NHKの「週刊ブックレビュー」で高村薫女史が語ったことを参考にすると「音が邪魔だから」絵筆が進まなくなり、、カッとなって音がする“頭”を金鎚で殴ったという動機不明で意志薄弱の福澤秋道の事件とその福澤秋道が描いていた一般人には理解不能な絵を、なんとかして言語化し、我々、一般人にも理解可能な形として提出しようとする試みである。

公判で弁護士や検事らの証人尋問で執拗に福澤秋道に、絵の事を尋ねるくだりは、抽象絵画の内容を理解できない、意味を解きほぐすことができない僕は、モダンジャズからフリージャズに移行した時期のマイルス・デイヴィスの電子音楽のことを思いこさせた。
また、主人公の一人である合田雄一郎刑事を“おまえ”と呼ぶ語り手は一体どこにいるのだろうかと気になった。

僕は下巻で繰り広げられるという、書評で池澤夏樹氏 に“深い”と言わしめた「宗教とは?」とのような根源的な対話を期待しつつ上巻のページを閉じた。

僕のブログ記事より。

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文科系の人に是非!!

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の池内了さんは、毎日か読売の書評で、興味深い書評を書かれていたので、名前は知ってましたが、本を読むのは初めてです。
扱ってる内容は、アルキメデスの原理等もあるので、小学生から高校物理まで。
高校物理を選択した僕でも、多くの理系出身者と同じく、理論としては頭で理解できても、どういう世界像か全く理解不能な不確定性原理などについては、それほど触れられていないのでご安心を。

池内さんは、一般の人にも読み易いようにと、物語絵巻のような感じで書かれているのですが、理系出身の僕らにとっては、数式がないと、少しピンと来なかったりしますが、文系の方々には読みやすくとっつきやすいのでは。

このPHPサイエンス・ワールド新書というのは、まだ創刊まもないのですが、サイエンス新書といえば、老舗の講談社ブルーバックスがあるのですが、この1冊のみで、講談社ブルーバックスと比べると、PHPサイエンス・ワールド新書は、図や写真が少なく、文字で理解させようとしているように見受けられるのですが、やはり一読者としては、図、イラスト、写真があった方が理解しやすいです。

店頭に並んでいるPHPサイエンス・ワールド新書の題名だけは、時折チェックしているのですが、想定している読者は、主に文科系の人々のようです。
その辺、まだ理科系よりとはいえ、最近、基礎系に重きを置いている講談社ブルーバックスと、読者層が重なるのかも知れません。

財政難の中、事業仕分けが顕著な例として、富に「科学の社会の貢献」が謳われています。
確かに物理学は、門外漢ですが特に、粒子などを分析する加速器など、宇宙物理にしても、物理学は気が遠くなるほどのお金が掛かります。
その点、僕が関わっていたバイオ、ライフサイエンスは、医療は別にして、それほどお金が掛かる訳ではありません。
桁が全然、違います。
まぁ、これは余談ですが。

しかし、我々、人類は「なぜ?」という疑問から大きく発展してきました。
少年時代、不思議に思い、「なぜ?」という素朴な疑問を抱かなかった人は少ないでしょう。
村上陽一郎氏の言うように、一見、「何の役に立つのかわからない」素朴な疑問から発した知的好奇心にも、「科学」は応えていかねばならないのも、また事実です。

昨年、新書大賞を取り、ベストセラーとなった村山 斉著『宇宙は何でできているのか』(幻冬舎新書) は、決して易しい内容を扱っているわけではありません。
サイエンスを扱う編集部は、[解りやすさ]が至上命題のようになっている昨今ですが、そういう人間が尽きない知的好奇心に、もっと応えてるように努力すべきであろう。
読者におもねってばかりでは、やがてネタが尽き、先細りになるのは目に見えている。

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紙の本モダンタイムス

2009/04/25 06:00

「実家に忘れてきました。何を?勇気を。」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「実家に忘れてきました。何を?勇気を。」

システムエンジニアである渡辺拓海は、失踪した先輩・五反田の仕事を無理矢理、引き受けさせられることに。
それは、ごく簡単な案件のようだったが・・・・。

いきなり拷問シーンで始まるのだが、これが妻が夫である渡辺拓海の浮気を疑って、雇われたその道の人によるものというのは、意表を突いていて面白い!!
ある検索ワードで検索した人物が皆、危険な目に遭うのだが、mixiなど顔を合わしたこともない人たちが結構、密なネット上の付き合いをしているのだが、それらがなんだかとても恐ろしい事のように思えた。
作中に出てくる重要人物の一人、作家・井坂好太郎の言っていることは作者の本音であるのかどうか、とても気になった。
曰く、「自身の映画化作品は、大事なところをすっぽかしている。」「俺は、世界を変えようとし、小説を書いている。」
主人公・渡辺拓海の妻・佳代子のキャラクターは、なんだか強面の不二子ちゃんを連想させ、楽しかった。

物語にぐいぐい引っ張られ、途中で読むのを止められないくらい面白かったです。
『魔王』の50年後くらいの話ですが、『魔王』を読んでいなくても十分、楽しめます。

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紙の本自己啓発の名著30

2012/05/17 20:06

人間形成にとって必読の本が紹介されています。

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自己啓発とタイトルはなっていますが、今流行のHOWTO本が紹介されているわけではありません。
「夜と霧」などが紹介されているように人間形成にとって必読の本が紹介されています。
この名著30シリーズは、僕の愛読書の一つですが、今までのシリーズは、政治学、社会学など、少しとっつきにくい書籍が紹介されていたのですが、この本は、まだ気軽に読める本が紹介されています。
福翁自伝などの自伝なども紹介されています。

あなたが、知性的で人間味あふれる人間になりたいという願望があるなら、この本で紹介されている本を手に取るべきです。
僕は、40を超え、人生を新たにリセットし、今までと違う人生を歩みたいと常々、考えていたので、大変ためになりました。

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この本を僕は読んでいない。だけど、興味がある人は、是非、読むべきだ。

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小学生以下の40代以前。
中学生のような40代。
いまだに、反抗期の全共闘ジュニア。
AKBを、追いかけっこし、少し自分らの懐から、お金を取られると思ったら、1番、恵まれてる世代にもかかわらず、年甲斐もなく「俺達を殺す気か。」と嘯く老年世代。
誰もがどこかでつぶやけるソーシャルという時代。

”リトル・ピープル”どもが、喧しいの。

少し叩くと、反論できず、すぐ折れる人気者。
僕のあこがれの国、フランス。
ジャン・ポール=ベルモンドがまだ生き、カトリーヌがい、麗しきシャンソンの国。
だけど、単なる人気者芸能人が普通に生活でき、僕が、アタッチした日本びいきのフランスの若き女性らは、恐ろしく幼稚だった。
どうも、もしかして、実際の国は、ずっと以前から、幼稚園の国だったかもしれない。

狼少年は、時々、嘘を言う、だけど、オオカミが来る前に、その危険を知らしめてくれたのは、狼少年だった。
浜 矩子は、それを、「自分さえ良ければ病が蔓延している。」と言った。

もしかして、植民地化の危険もあった内紛をはらんだ江戸末期。
双方の知恵で、それを回避した。
その底には、洋蒙なんかに、この国を穢されてたまるかという気概があったかもしれない。
フランス革命の時代から自由のために闘ってきた人は、決して、こんな連中のために、命を賭したのではないのだ。

オオカミ少年は、時折、嘘をつく。
だけど、真実をついたのもオオカミ少年だった。

この本は、僕は読んでません。もう、この手の本はもう読まないことにしてます。
なにか受けを狙ったタイトルだが、中身は、精神科医が、正攻法にいまの日本を論じた硬派な本だ。

”リトル・ピープル”どもが、喧しいの。
どうせ、どこへ行っても汚染されてしまうのだ。
窒息してしまう。いや、本当に自殺したくなってしまう。

Good Bye! Social! Good bye Google+!
Sometime thank you Google+.
Good Bye Fuckin ' Japanese!! 

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紙の本教養のためのブックガイド

2012/01/30 09:08

「教養」なき時代に、それでも読んでおくべき本を東京大学教養学部の教授らが推薦している書籍

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

かつて”教養”と呼ばれる学生にとって読んでおかねばなあ、という本があった。
しかし、80年代のニュー・アカらの”知と戯れる”から、何が”教養”がわからなくなり、人々は自分が読みたい本を追い求め、”教養”と呼ばれる共通の土台が無くなった。
この『教養のためのブックガイド』は、”教養”というものが存在しない時代に、元教養学部長・東京大学総長でもあった蓮實重彦の『君等が自明視している教養とは、一体何だね?』というような発言に応えるような形で、東京大学教養学部に設置されている教材開発事業の一環として編集され、「現在の教養」として、押さえておくべき本を推薦している。

僕にとって、この『教養のためのブックガイド』にラインアップされている書籍に、一般の”教養”の印象と違って、自然科学の本が沢山、取り上げられているのは嬉しいのだが、かつてあれだけ、ニュー・アカらが取り上げて大騒ぎしていた哲学の概念そのものを変えてしまうような力のあったフランス現代思想が、全くといっていいほど取り上げられていないのは、非常に残念だ。

だが、柄谷行人らの『必読書150』よりも読むよりも、より有益だろう。

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紙の本日本辺境論

2010/03/09 23:32

新書大賞受賞 内田樹 「日本辺境論」の内容紹介

5人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

専門はフランス現代思想ですが、専門にとらわれず教育論など多くの著作がある内田樹(たつる)氏であるが、この度、この『日本辺境論』で新書大賞を受賞したようです。

「はじめに」で内田樹(たつる)氏は、この『日本辺境論』は「辺境人の性格論」は丸山真男からの、「辺境人の時間論は澤庵禅師(たくあんぜんじ)からの、「辺境人の言語論」は養老孟司先生からの受け売りであり、ほとんど新味がないとしています。
しかし、僕にとって丸山眞男 は馴染み深いものでありますが、澤庵禅師(たくあんぜんじ)や養老孟司氏 の言語論に疎い僕にとっては十分、新味のある論であった。
そして何故、そんな新味のないと言う日本人論を繰り返すのかというと、内田樹(たつる)氏はごみ掃除に例えています。
また、多くの先人たちが、その骨身を削って築いた日本人論を私たちは、まだ内面化していないのではないかと内田樹(たつる)氏は語っています。

そして中華または世界に対して辺境人である日本人をマイナスとして捕らえるのではなく、とことん辺境で行こうではないかという提案を内田樹(たつる)氏はしています。

<目次>
1 日本人は辺境人である
2 辺境人の「学び」は効率がいい
3 「機(き)」の思想
4 辺境人は日本語と共に

<内容紹介>
1 日本人は辺境人である
内田樹(たつる)氏は、「大きな物語」が失効した事を嘆き、本書『日本辺境論』を執筆した動機も、そんな「大きな物語」を語る知識人が減った事への異議申し立てだという。
そんな「大きな物語」が失効した主因は、内田樹(たつる)氏によるとマルクス主義の凋落だと言う。
僕はマルクス主義の凋落だけが「大きな物語」が失効した原因とは考えないが、日本の現代思想の期待の星である東浩紀などが、『動物化するポストモダン 』などで「おたく」などミニマムな素材にして「小さな物語」を語るのには、それはそれで意味があるだろうが、何だかイライラさせられてしまいます。

梅棹忠夫の『文明の生態史観』を引いて、本書の主張を内田樹(たつる)氏は「ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識に」に日本人が取り憑かれているとしています。
ただ、このことを内田樹(たつる)氏はマイナスばかりではなく、日本人のしたたかさも生み出していると主張します。
旧来のマルクス主義者に見られるように、このことを後進性とかいったような捉え方ではなく、古来からの日本人の基本的特性であるとした点に、この内田樹(たつる)氏の『日本辺境論』の新しさというものがあります。
外来思想を受け入れる時の、その変容のパターンには驚くほどある共通した態度がみられるとし、私たちはたえず新しいものを外なる世界に求めていると丸山真男の言葉を借りて表現しています。

また、私たち日本人は他国との比較「よその国はこうこうであるが、わが国はこうこうである。だからわが国のありようはよその国を基準にして正さねばならない。」という文型でしか語れないと内田樹(たつる)氏は指摘します。
最近の保守派の論客が語る「よその国はどうであろうと」とかや日本文化特殊論もやはり他国の比較で自国のことを考えるという点では同じかもしれませんね。
また、我が国のいわゆる現実主義者は既成事実しか見ておらず、自らが「現実」を作り出そうとしないことを、先の第二次世界大戦中の出来事を引いて興味深く語っておられます。

僕は無性にもう一度、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」が収められている『〔新装版〕 現代政治の思想と行動』を読み直したくなりました。
憲法九条と自衛隊の矛盾についても、日本人が採用した「思考停止」についても内田樹(たつる)氏は日本人の狡知の一つだと位置づけます。

2 辺境人の「学び」は効率がいい
我々、日本人が「ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるもの」であると太古の昔から無意識下に考えて、その「ほんとうの文化」を学ぼうと考えていたらどういうことが起こるでしょうか?
そうです。聡い人は、もうお気付きですね。我々、辺境人は「学び」の効率がいいのです。
このことは、本書『日本辺境論』で初めて僕は気づかされました。
このことを、内田樹(たつる)氏は「優れた学習装置」である“道”について考察しています。
武士道、茶道などの指定と弟子らが織り成す“道”です。
また、学びへの過剰適応と呼ぶ、我々が「立場が上とされる人」への過剰適応についても。

3 「機(き)」の思想
ここで内田樹(たつる)氏は、「機(き)」という概念を手がかりにして、「時間意識の再編」という哲学的課題に宗教者たちがどう答えたかについて澤庵禅師(たくあんぜんじ)の考え方を引用し、我々、辺境人の主体について考察しています。
そして、そのように研ぎ澄まされてきた主体は、外来から受け入れるべきものとそうでないものについて先駆的に(アプリオリに)知っていると内田樹(たつる)氏は言うのです。

4 辺境人は日本語と共に
そして内田樹(たつる)氏は、日本の辺境性をかたちづくっているのは日本語という言語そのものであるという仮説を、ここで吟味します。
英語のIを日本語では、私、僕、俺とかいうふうに幾つもの人称代名詞が存在することを指摘することから始まり、日本語は、表意文字である漢字と表音文字であるかなを併用する特殊な言語であり、漢字と仮名は日本人の脳内の違う部位で処理されており、そのことが日本において「マンガ」という表現手段が特異的に発展した理由であると、養老孟司氏の指摘を借りて主張されています。
また、教養書において、時々見られる一般読書に解り易いように、難解な欧米等の哲学書の引用とかを噛み砕いて話法も、ここ日本だけに見られるものだそうです。

内田樹(たつる)氏自身が「あとがき」や「はじめに」で何度も繰り返されているように、この『日本辺境論』は大風呂敷で、議論もあちらこちらに飛び火するので、読んでいる時は、「まとまった意見」というようなものが見えず、面白みにかけているように感じたのですけれども、大風呂敷だからこそ、この『日本辺境論』内の議論は、大いに発展させるべきものが沢山あると思います。

僕のブログ記事より。

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紙の本ヘヴン

2010/02/07 23:43

美しくて哀しい切ない物語

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

僕のブログ記事より抜粋して引用。

川上未映子さんの本は初めてだったのですが、書評などでの評判がよく手に取りました。
結果、率直に読んでよかったと思いました。
イジメが主題の物語ですが、美しい文章で綴られ、切ない物語となっています。

「机も花瓶も、傷はついても、傷つかないんだよ、たぶん」
とコジマはつぶやくように言った。
「うん」と僕は肯いた。
「でも人間は、見た目に傷がつかなくても、とても傷つ思う、たぶん」
とコジマはさっきにくらべてもっと小さくなった声で言い、それきり黙ってしまった。

舞台
携帯も存在しない、ネット世界も介在しない1991年の中学校

登場人物
僕:斜視であり、毎日のように二ノ宮、百瀬たちにひどいイジメを受けている。
コジマ:家が貧乏であること、不潔だということでクラスの女子から苛められている女子生徒
二ノ宮:僕をいじめる中心的な生徒。「彼が冗談を言うとそこにいる誰もが笑った。」
百瀬:二ノ宮たちとともに僕を苛める生徒

物語のはじまり
ある日、僕のふで箱の中に、<わたしたちは仲間です>と書かれた紙が入っていた。
数通、手紙が送られて来た後、「会いたいです」と。
僕が会いに行くと、それはコジマであった。
「友達になってほしいの」とコジマ。
コジマと僕は、こそっり手紙をやり取りするが、教室の中では、コジマと僕は言葉も交わさず、目も合わさない。

題名のヘヴンとは
コジマがいちばんすきな絵のこと。

「その部屋はね、ちょっと見るだけだとふつうの家のふつうの部屋に見えるんだけど、そこはね、じつはヘヴンなの」
「天国ってこと?」
「ノー。ヘヴン」
(中略)
「その恋人たちはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったの、ものすごく。でもね、それをちゃんと乗り越えることができたふたりなんだね。だからいまふたりは、ふたりにとって最高のしあわせのなかに住むことができているって、こういうわけなの。ふたりが乗り越えてたどりついた、なんでもないように見えるあの部屋がじつはヘヴンなの」
コジマはそう言うとためいきをついて目をこすった。

おそらくコジマは、このヘヴンの絵に描かれる恋人たちに、将来のコジマと僕の未来を重ね合わせているのだろうが、その心情を察すると、とても切ない。
このコジマが一番好きな絵であるヘヴンは、コジマの口から語られるのみで、僕は実際には目にしない。
このことは、この『ヘヴン』という物語の結末に暗示的である。

コジマがとてもすきだという僕の斜視に関して
引用すると
右目はだらりと目じりに流れて、あいかわらずどこを見ているのかわからなかった。不気味だった。

コジマが不潔にしている理由が好きな父親を忘れないためのシルシであり、それはコジマの意思によりわざとそうしているのであり、清潔にしようとすれば出来るのに対して、僕の斜視は幼い頃から存在し、僕は簡単には治せるとは思っていないのは、非常に対照的である。

そして、コジマは言う。
「わたしは、君の目がとてもすき」

苛めに対する三者の受け取り様またはその世界観、そして批評のようなもの

コジマ 「大事なのは、こんなふうな苦しみや悲しみにはかならず意味があるってことなのよ。」
「あの子たちにも、きっとわかるときが来る。いつかぜったいに色んなことが大丈夫になるときが来るから」
「あの子たちにも、いつかわかるときが来る」と何度も繰り返すコジマ。

百瀬
「権利があるから、人って何かするわけじゃないだろ。したいからするんだよ。」と僕を苛めている理由を”たまたま”であることを繰り返す百瀬。
「だからさ、そういう阿呆みたいな嘘をたよらないでさ、自分の身は自分で守るしかないよね」

そう最近、読んだ宇野常寛の『ゼロ年代の想像力 』から僕なりに引用、解釈し、この『ヘヴン』という物語に応用するとしたなら、僕、コジマ、百瀬たちが生活しているこの1991年の中学校は、敵が誰で味方が誰でと割り振られた世界に安住しているわけではなく、“たまたま”選ばれた者がターゲットにされる、そして、次のターゲットは自分かもしれないバトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界に生きているのである。

次の百瀬の言葉は、相対主義が深く浸透した刹那的なポストモダン状況に我々が生きていることを意味する。

「弱いやつらは本当のことには耐えられないんだよ。苦しみとか悲しみとかに、それこそ人生なんてものにそもそも意味がないなんてそんなあたりまえのことにも耐えられないんだよ」
(中略)
「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」

一方、僕はといえば

僕は引きずりこみたくもないし、引きずりこまれたくもないんだよ。

この「僕の想像力」は、「世界から引きこもることによって、誰も傷つけたくない」という「九十年代の想像力」と呼ばれるものなのだ。
宇野常寛が指摘するように、バトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界に対しては、この「引きこもり」の態度は通用しないのだ。
「頑張ればなんとかなる、我慢していれば、明るい未来がきっと来る」というコジマの想像力は、「昭和の想像力」と呼べるかもしれない。
ラスト近く、コジマが二ノ宮、百瀬らいじめっ子に対して取った態度は、立派であるし、感動的であり、神々しいのだが、それはやはり、それはいくつかの物語で見てきたものと変わらぬ「昭和の想像力」の限界ではなかろうか?

僕の「九十年代の想像力」とコジマの「昭和の想像力」、百瀬の「ゼロ年代の想像力」による世界観は、結局、交わらずのまま物語を閉じる。
確かに、爽やかな終わり方であったが、ここには宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で模索したバトル・ロワイヤル的なサヴァイヴァの世界を終わらせようとする想像力はなかった。

僕の批評のようなものに少しでも興味をもたれた方がいれば、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力 』を手にとって欲しい。
なんだか厳しいようなことを言いましたが、この川上未映子さんの『ヘヴン』は美しい文体で書かれた読んで損は絶対にない物語となっています。

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