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  3. 武井啓蔵さんのレビュー一覧

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先月(2017年8月)

武井啓蔵さんのレビュー一覧

投稿者:武井啓蔵

12 件中 1 件~ 12 件を表示

え?こんど農業するってえ?やめときなさい

17人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近胡散臭い「煽り」がマスコミ経由垂れ流されている。いわく「定年後、帰農して農民になりましょう」「田舎に住みましょう」「渋谷系ギャル、稲作に転ず。秋には渋谷米を収穫、販売へ」

おいおい、気は確かか。農業って、そんな簡単なもんなんか。

確かに「稲作は簡単」のようだ。だって農民の80%近くを占める兼業農家だって、週末しか農業していないのだから。

でも、作業が楽なのと、ビジネスとして儲かるのは別の話。

本書いわく、日本の農業(コメ作も、リンゴも、みかんも全部ひっくるめて)の売り上げは8.5兆円(2006年)。これはパナソニックの売上9.1兆円にも及ばない。でもパナソニックの従業員は30万人なのに、日本の百姓=農協の組合員は500万人もいる。これじゃあ、農業に新規参入したって儲かるはずがない。だって日本の農業人口は多すぎるのだからと山下さんは言う。

どうしてこういう馬鹿な言説が巷にあふれるのか。その根底に「農本主義の神話」があると山下さんはいう。農本主義が日本人から農業に関する合理的な判断を奪い、その目を狂わせているのかもしれない。そういえば、昔、日本人は農耕民族でコメを主食とする日本人の小腸は欧米人のより長いなどと言って世界中から笑いものにされた羽田孜などという馬鹿な大臣もいたっけ。しかし昭和の頃から東畑精一、東畑四郎、柳田國男、和田博雄らの農業経済学者は「農本主義の亡霊に捕らわれている限り、日本の農業に明日はない。農業は神事でも祭事でもない。農業は鉄鋼業や造船業と同じ産業なのだ」と戒めていた。

だから諸君、夢夢シブヤ系ギャルに釣られて「ボクもワタクシも農業でもして見よっかな」なんてバカな妄想にとらわれてはいけない。日本では政府を食い物にし、都会に生きるサラリーマンを食い物にする吸血鬼のようなノーミンが、まだまだ多すぎるのだ。ノーミンの数を現在の10分の1以下に激減させ、彼らノーミンの生産性を劇的に向上させない限り、日本の農業に明日はないのである。農業が滅んだって、なーに大したことはない。シンガポールを見よ。彼らは端から食料の自給自足など諦めている。それに農業国は、農産物を輸出しないと生きていけないのだ。だから、そう心配することはない。安易なノーキョーの脅しに屈する必要はない。え、それでも世界的な食糧危機が起きたらどうするのかって。そんときは、そんときよ。我ら日本人、枕を並べて堂々と飢え死にしようじゃないか。ぐわーっはっはっはあのっはっはっは。

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教育論議の迷走を見事に整理しきった好著

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の栗田哲也氏は、言わずと知れたカリスマ数学講師である。彼は数々の「数学天才」を育てたといわれるが、その教育論は見事というほかは無い。今、世間に広まっている学力論議の大半は栗田氏によって「的外れ」と切って捨てられている。なぜ的外れなのかというと、今の教育論議は出来る子も出来ない子も一律に論じたくそみそ一緒の議論ばかりなので、どれもこれも結論としてピントはずれになるからだという。こうした教育論の迷走を正常化すべく、栗田氏は教育を三つのレベルに分けて論じるべきだと提言する。三つの段階とは、(1)読み書きそろばんが不得手な層、(2)読み書きそろばんは出来るが、それ以上の応用問題が不得手な層、(3)読み書きそろばんは当然のごとく出来て、それ以上の面白さを追求する層の三つで、教育方法はそれぞれの段階で全くアプローチが異なると喝破するのである(さすが!)。

例えば諏訪哲二という御仁がいる。埼玉県の新設の底辺校で人生の大半を過ごしたこの「教師」は、陰山英男の百マス計算を口を極めて貶している。「こんなもの幾らやっても高校生は浮かばれない」と。まあ、諏訪が相手にしていた落ちこぼれ高校生なら百マス計算がお似合いのように思えるが、陰山が対象にしているのは教育インフラもままならない山間部の小学生なのである。レベルで言えば「読み書きそろばんの能力が十分に備わっていない層」であって、この層を対象とする限り、陰山の百マス計算は極めて有効なのだと栗田氏は論じるのである(拍手)。悪いのは出版者で、「陰山方式が有効なのは、読み書きそろばんが不得手な層のみ」などと本当のことを言うと商売にならないので、「百マス計算はあらゆる教育上の悩みを解決する万能薬」みたいに喧伝するからいけないのだが、大半の読者は出版社の誇大宣伝を鵜呑みになんかしていない。これを鵜呑みにして、あらぬ喧嘩を仕掛けているのは読解力不足の諏訪哲二くらいのものだ。

逆に最高レベルの層にしか適用できないはずの教育方法(モンテッソーリやデューイが広めた「新教育論」や、昨今の「ゆとり教育論」で、要するに「型通りの押し付け教育を排撃し、子どもの自主性、子どもの自発性を極端に重視した「子ども中心主義教育」」の欠点も栗田氏は暴いていく。この種の子ども中心の教育は、読み書きそろばんを卒業して学校の授業に退屈気味の最上位層に「のみ」当てはまる特殊な教育方法なのであって、家庭が教育に無関心で、読み書きそろばん「すら」ままならない層には百害あって一理無しの教育なんだという。これは実際に「ゆとり教育」を子どもが経験した親としては「良くぞ言ってくれた」という至言である。公立の小学校は私の住んでいる高級住宅街といえども千差万別で、出来る子もいれば出来ない子もいる。「しらべもの学習」等といっても、そもそも興味の対象が「ゲーム、アニメ」くらいしかなく、社会や理科に興味も関心もない層には「何を調べればよいのか」見当もつかないし、当然「どうやって調べたらよいか」わからない。だから今の小学校で行われている総合学習の時間や生活科の時間は、文字通り「幼稚園教育の延長」に堕してしまうのである。似たようなことは底辺校の中学や高校でも起きていることだろう。人間の学力には厳然とした階層があって、それぞれの発展段階に応じた教育が必要なのだが、「能力別クラス編成」を差別を助長するとして戦後の教員組合は拒否し続け、文部科学省もこれを追認して「全国一律平等」の教育カリキュラムを組んできたので、こういうミスマッチが全国のいたるところで起きてしまっているわけだ。

栗田氏は苅谷剛彦が展開する「学力と階層」の粗雑な議論も一刀のもとに切って捨てている。苅谷氏に見えているのは(1)の低学歴層の学力低下の深刻さと、本来なら(3)に属すべき大学生たちの「教養の低下」で、これをごちゃまぜにしつつ全体を論じるから「あるときは低学力層の学習離れにスポットライトをあてて、階層格差を論じ、あるときは全般的な基礎学力の低下にスポットライトをあてて学力の危機を訴える離れ業が苅谷の論の特徴だという。「教育論壇」では、更にまたあるときは「知性の崩壊」を根拠に「大学生・エリート批判」なんか出来ちゃったりしている。苅谷氏は(1)にスポットライトを当てて論を組み立てる時は「基礎学力の低下は親が低学歴の層に顕著である」と「格差階層論者」が喜びそうな(実は以前から日本にはずっとあるアタリマエの)結論を引き出し、大学の教育関係者としては、教養という見地から見て、いまの大学生が(3)の学習段階にはないことを「知性の崩壊」「教養主義の崩壊」として批判する。そして最後は大雑把に「全般的な基礎学力の低下」をPISAなんかを引用しつつ「動かぬ事実」として括って批判している」と栗田氏は喝破するのである。

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マジック(手品)の要諦はミスダイレクションにある。観衆の注意を、あらぬ方向にそらすことで見えているのに見えてないようにしむけるのがピンポン玉を消したり、コインを隠したりする手品のコツなのだ。1990年代から今日にかけて、我々の見ている目の前で、大学関係者が壮大な規模で、このミスダイレクションを敢行したことが本書を読むと痛切に理解することが出来る。

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

訳知り顔の大学関係者が、したり顔で小泉竹中が推進した「新自由主義」とやらを非難するのが、ひところ流行った。金銭万能主義、競争至上主義の新自由主義こそが諸悪の根源であり、新自由主義を教育に持ち込んだことで学生の学力は崩壊、分数の出来ない大学生、数学を知らない経済学部生、生物学を知らない医学部生が続出。麻生前首相並みに漢字が読めないのは良いほうで、そもそも字が読めない文章がかけない。だからPISAテストの日本の地位は急落し、「教育世界一」のフィンランドの遥か後塵を拝する憂き目にあっただけでなく、格差が拡大し、若者は正社員になれずフリーターに身をやつさざるをえなくなった。大学院に進学しても就職先はなく、「高学歴ワーキングプアー」状態にならざるをえない。これすべて教育に新自由主義を適用したことがもたらした当然の帰結である云々。

ところがどうだ。本書を読むと、こうした現象はすべて大学じしんに責任があることがわかる。キーポイントは日本の人口動態で、大学学齢人口(19歳から22歳)は1985年には656万人に過ぎなかった。これが次第に増加に向かい、1993年にはピークの816万人に拡大する。しかし、その後は一転して人口が急速に減少し2009年には513万人になってしまう。こうしたことは、かなり以前から多くの大学関係者は熟知していた。80年代後半から90年代初めは大学にとっては「お客さんが毎年自然に増える書き入れ時」「最初で最後のビジネスチャンス」だったわけだが、この時、大学は目先のビジネスチャンスに飛びついて規模拡大に向けて無分別な暴走を始める。主役は私立の大学だった。こうして85年には185万人だった大学生総数が2009年には285万人にまで膨れ上がる。大学進学率はうなぎのぼりで85年には27%程度だったものが、今や50%を越えるまでになってしまった。

まず野放図な大学の規模拡大を正当化するために彼らはOECDの調査結果を引っ張り出す。曰く「これで日本の大学進学率はようやくOECD平均並みになった」と。数字はウソをつかないがウソツキほど数字を良く使うとは良く言ったもので、このOECD数値にはからくりがある。確かに見かけ上我が国の大学進学率は低く、欧米先進国は高く見えた。しかし仔細に見ると、このデータに用いられているのは大学及び大学に準じる高等教育機関とある。何のことは無い。有閑階級と労働者階級の区別が牢固としてある欧州では大学進学者は概ね低いので、労働者階級が通う高等職業訓練学校(日本のものつくり大学みたいなもの)も、この中に紛れ込んでいるのだ。

これだけ急激に大学生を増やせば当然起きるのが「質の低下」である。ところが彼らはミスダイレクションを用いて責任の転嫁を図る。そこで出てきたのが「分数の出来ない大学生」以下の学生の教育レベルの低下論で、本来、大学が招いた自業自得を「受験テクニックばかりを競う高校中学の教育」に話を摩り替えた。こうして受験勉強一辺倒の中等教育への見直し論が勢いを得て、「生きる力」だの「本当の教養を身につける」だのの俗論があふれ出し、「総合学習」「ゆとり教育」という悪名高い教育改悪が文部科学省の手で実践される。返す刀で大学は「真の人材を見極める」という空疎な掛け声のもと、受験テクニック達人以外の人材を発掘するんだとAO入試だの学校推薦だの、入学試験を経なくても大学に入れる学生の枠を大幅に増やす。蓋を開けてみれば、これは学力未到達の学生を大量に入れるための方便であったことが本書によって明らかにされている。勝手にバカを入学させておいて「分数が出来ない」「数学が出来ない」「生物を知らない」も無いわけで、こういうのが出来ない学生を入学試験で振るいにかけて落とせばいいだけの話なのに、目先のビジネス(カネ)に目がくらんだ大学関係者は、なんとかこの「問題の本質」から社会の目をそらせようとしたのだ。

第二のミスダイレクションが「企業が正規社員を採らなくなった結果、20代のフリーターが激増、格差が急拡大した」という「作り話」だ。何度も言うように諸悪の根源は人口動態を無視した大学の野放図な規模拡大にある。今や、かつての高卒、暴走族が堂々と大学に入ってくるご時勢なので、「大学生」が職にあぶれるのは自業自得という面がある。そもそも80年代から底辺大学の学生は就職に四苦八苦していたのである。それに本書で明らかにされているように企業は新規学卒者の正社員採用を過去20年間ほぼ一貫して増やしている。問題は大学生の供給過剰であって企業の採用抑制ではない。20代の非正規雇用の激増も「大学生」のアルバイトで、その大半の説明がついてしまう。ロスジェネだの格差だの妄説が、ここ数年猛威を振るったが、蓋を開けてみれば事実とはかなり違う虚言に近いものであったわけだ。

村上龍が垂れ流した『13歳のハローワーク』も本書ではクソミソに書かれている。その論旨があまりにこの書いた書評と似ているので、私は「もしかして、この人の書評のコピペ」と思ったくらいだ。日本の新卒一括採用、プロとして職種ごとに即戦力を雇うのではなく「総合職」という名の社内再チャレンジ可能な柔軟な雇用形態が雇う側にも雇われる側にも有利な優れたシステムなのに、わざわざこれを投げ捨てろという「就社ではなく就職」をという妄説が一時期垂れ流されたが、これが大間違いであることは本書でもいやと言うほど論じてある。村上は言う。「好きなことを仕事にすれば生涯バラ色」。しかし13歳のときに一生続けられる好きなことを見つけられる人は、この世にほとんど存在しない。それは何歳になっても同じで、死ぬまで自分が好きなことが見つからない人も多い。仮に好きなことが見つかったとしよう。しかし人間には飽きというものがある。十代の時に好きだったことに今や興味も関心もない中高年は吐いて捨てるほどいる。人間と言うものは飽きっぽい動物なのだ。仮に長く好きでいられる仕事が見つかったとしよう。しかし、好きであるということと「その仕事に向いている」ことは別問題で、幾ら好きでも「下手の横好き」で終わる人も山ほどいる。本書では「ボク、雑誌の編集が好きなんです」と応募してくる新卒者の悲惨な末路がリアルに描写されている。好きなことが見つからないモラトリアム人間を許容する社内転職可能な総合職採用は、実は非常に優れた雇用形態なのである。

知らなかったのは農学部や生物学部、生命科学部が就職困難学部であること。化学や建築学科も就職弱者学部だったとは知らなかった。これも応募する学生が激減すると困るので大学関係者はひた隠しにしているそうである。

人口が急増したあと急減に向かうので、人口のピークアウト後、大学は一斉に規模縮小に走らねばならなかったのに、彼らはそうしなかった。むしろ「大学教育はビジネス」と言わんばかりに学費値上げ、国庫補助金の拡大を訴え続け、自らの懐を肥やすことにしか目を向けなかった。つくづく大学関係者と言うものは、度し難い存在である。

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紙の本むかし〈都立高校〉があった

2009/04/16 22:35

都立高校が崩壊した理由がよくわかりました

12人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書を読んで、なぜかつて東大合格者上位校をほぼ独占していた東京都立高校が急速に衰退していったのか、その歴史的背景がよくわかりました。本書に寄せられている書評も一人を除いては、よくそのポイントを押さえてあって、よき読書案内となっていると思います。

問題は「日教組は都立高校潰しに加担していない」などとヒステリックに連呼している書評があることです。本書の書評のいずれにも日教組が都立高校を潰したなどと指弾している書評はありませんし、たとえ当時、直接日教組が都立高校潰しに組織として加担した「事実」がなかったとしても、その構成員の多くが「進歩的知識人」を熱烈に支持していたことを考えると日教組がまるっきり無罪とも思えません。あまり政治的主張を書評に加えるのは好ましくないなと思いました。

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万里の長城が月から見えるって?ウソをついてはいけません

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

中国人は万里の長城のことを「月から見える唯一の建造物」などといいますが、あれはウソです。月どころか人工衛星からでも見えません。万里の長城は建前では渤海の岸辺の老龍頭から天山山脈の祁連山まで総延長6000キロの伽大構造物になっていますが、その実態たるや惨憺たるものです。一般の人は北京郊外の八達嶺の壮麗なる長城が延々6000キロも続いていると連想するはずですが、それがそもそもの間違い。北京から離れ、内モンゴル自治区と山西省の酒井あたりまで行くと、もう長城は溶けてなくなりかけている。ほとんど崩れている。その無残な長城の実態を知ることが出来るだけでも本書を読む価値はあるでしょう。中国が世界第二のGDPを誇る経済大国だなんてうそうそ。実体は数字の操作を積み上げた張り子のトラにすぎません。

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今も昔も生徒の勉強の仕方も教師の教え方もほとんど変わらない

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

東大合格高校の上位に伸し上がる方法は意外と昔から変わらない。一番の秘訣は「優秀な生徒を集めること」。これに尽きる。名門校と呼ばれる学校が、名門校である所以は、そこに優れた文化だとか伝統だとか教育方法があるとかはあまり関係ない。そこに集まってくる生徒のレベルが高いか低いかに大きく依存しているのである。だから、例えば制度を変えたり学区をいじったりすることで名門公立高校は簡単に崩壊してしまった。別に学校に責任があったわけではない。制度の変更を契機に、そこに優秀な生徒が集まらなくなっただけなのである。これは駅前シャッター通り商店街に似ている。別に地域の経済が丸ごと没落したわけではない。単に道路が整備され郊外にある大型店に人が流れ、道路が狭くろくな駐車場も無い駅前商店街を人々が忌避するようになっただけなのである。名門校は、ややもすると勘違いして、「アカデミズム重視」「教養主義」に走りがちになる。かつての名門日比谷高校がそうだった。がり勉は下品とされ、ゲージュツやブンガクに通じた耽美派を尊敬するようになったりするのである。こういう悪しき伝統のせいなのか全盛期の日比谷以下の都立高校で浪人率が結構高いのが目に付く。同じようなことは今の麻布などにも言える。「うちは七年制ですから」などと麻布は言い訳するが、高校二年までに高校の全課程を修了し、最後の1年は完全なる受験準備に時間を割いている私立の中高一貫校にこうした言い訳はいわせたくない。彼らにとっての1浪は実質2浪と同じである。

茨城の土浦一高や愛知の岡崎高校が合格者を伸ばしたのもこれに準じ、要するに学区内に筑波学園都市やトヨタ自動車の関連企業が出来て、優秀な家庭の子弟が大量に出現したことが非常に大きいとのことである。

また2番手、3番手の学校が合格者数を伸ばす方法も似たり寄ったりだ。要するに徹底した能力主義(能力別クラス編成)と詰め込み教育、後フォローの強化、これに尽きる。要するに学校のカリキュラムを限りなく予備校化したところが成績を伸ばしているのである。これは日比谷に追いつけ追い越せを合言葉にしていた戸山や、東大寺の後続たる西大和、広島の雄広島学院、神奈川の覇者桐蔭学園に共通している手法なのである。

甲子園に優勝して知名度を一気に上げ、それをバネに名門進学校化するビジネスモデルを最初に開発したのは神奈川の桐蔭だとされる。東京都立の星、我が母校東京都立国立高等学校が日比谷、西とならんで都立トップに君臨するようになったのも、元はといえば甲子園出場がばねになっている。

東西とはず、やっていることは似たり寄ったりである。

そして日教組の言いなりになった学校が例外なく没落しているのも、同じく似たり寄ったりである。

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紙の本死の壁

2010/04/05 09:13

全共闘世代に向けられる冷たい視線

9人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「バカの壁」の次は「死の壁」ときた。「バカの壁」は「人間誰しも知的関心の限界というものがあって、関心のないものは知ろうとしないし理解しようとしない。だから話せば分かるというのはオオウソで、人間、いくら話し合っても理解しあえないものである」という趣旨の本だ。これは山本夏彦さんの名台詞「話せば分かるというがこれはうそである。人間、いくら話しても分からない奴と言うのはいるのであって、そいつは話が分からないのではない。分かりたくないのだ」と同じである。

「死の壁」の壁はちょっと違う。この本は、正しくは「人間の死とどう向き合うか」「人間の死とはどういうことか」とでも名付けるべき本である。現代社会は養老さんによれば都市化し、死を社会から排除しているため、田舎では当たり前だった肉親の死、友人の死、もっといえば人間の死そのものが身近でなくなり縁遠いものとなってしまった。忌まわしい死を排除した社会は、しかし結構なようで結構でなく、生老病死と言う人間がもって生まれ逃れることが出来ない定めに対する感覚を麻痺させてしまった。このマイナス面について、そろそろ真剣に向き合う時期ではないかというのが養老さんの主張だ。本書の過半は、だから「人間の死とどうむきあうべきか」に関する養老さんの「問い(答ではない)」が綴られている。ただ「死」の問題について、私は「バカの壁」を張り巡らしているので、興味もないし関心もなかった。だからギャロップで読み飛ばしてしまった。私の両親は、共に存命で二人とも80歳を超えている。こんなに我が家が長寿の家系だったとは知らなかったが、今のところ両親とも健康だ。だが、年が年である。そろそろ私も心の準備をしておかなければならないが、「バカの壁」を越えるのは難しい。

本書で面白かったのは一点だか。「日本社会が生んだ鬼子」「日本社会のガン」「諸悪の根源」たる全共闘世代に対する養老さんのコメントだ。全共闘世代は正義だ、革命だと騒ぎ続け、東京大学を解体し、日本社会を解体して「理想の社会」を打ち立てるんだみたいなことを言っていたが、あれは全部デタラメのオオウソで、全共闘世代が破壊活動を行った本当の狙いは「自分たちの就職活動だった」という。これは目からうろこだ。全共闘世代とは、日本最初で最後のベビーブーム世代で、あの数年間だけ人口が非常に多い。それまで100万人前後だったものが、あの数年間だけ200万人もいる。そんなに多くの人間に就職先を世話しろといったって、出来ることと出来ないことがある。だから全共闘世代の相当数は「職にあぶれる」ことになった。当時、日本経済は絶好調だったが、それでも2000万人の人間をすべて抱えることは日本社会には無理な相談だったのである。それで若者たちはぶちきれた。ぶちきれた若者たちの急先鋒に立ったのが東大医学部の学生(インターン)と日本大学の「学生」というのも象徴的だ。結局奴らは、徹頭徹尾自分のことにしか関心がなく、だからこそ破壊行為を働いたのだった。自分勝手な我侭が動機で、動機が不純だったから、それを続く世代に見透かされ、彼ら全共闘世代の「革命ごっこ」を短命に終わったのだった。哀れな全共闘世代!

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紙の本杉並区立「和田中」の学校改革

2009/09/09 16:02

オツムが悪いのは誰?

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

教育を通じて平等を実現しようというのが苅谷君。しかし僕も「教育」と「平等」という社会政策をまぜて論じることははなはだ危険だと思うんですね。そもそも平等というものは、税制(累進課税や相続税)を通じて実現すべきものであって、「教育」は「国民の平等を実現する手段」では、その成り立ちからして全く無い。たとえ戦後の一時期、「教育を通じた平等が達成された」と苅谷君が誤解する時期がごくまれにあったとしても、それは例外中の例外であって、戦前にそんなものはなかったし、今もそんなものはない。教育とは、むしろ差別化の手段であり、教育はすればするほど国民を階層化させるものだと思うんですね。だから、教育を通じて国民の平等を実現したいという苅谷君の妄想は、そもそも実現が無理な話なんだと思う。

あと、書評で気になったのは、「プロ教師の会」と「日教組」を混同している人なんて誰もいないのに「両者を混同しているお粗末なオツムの主」なんて罵声を浴びせている人がいること。これっておかしくないかなあ。

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紙の本英文法解説 改訂3版

2009/10/14 17:11

まあ、辞書ですね

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

受験参考書としては、詳しすぎ、厚すぎて、かえってポイントがつかみにくくなっている。重いので持ち運びも不便。途中で投げ出すのがおち。参考書として使うなら、同じ江川泰一郎による『英文法の活用』(あすとろ出版)のほうが、遥かにコンパクトで分かりやすいが、残念ながら、こちらは廃刊になっている。最近、この手の受験参考書の古典の復刻が盛んだが、まあ、本書は買う前に、書店で実物を手にとって、自分に合うのか合わないのか、じっくり品定めする必要がある。

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読むに耐えない部分多し

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

つっこみどころ満載の本だが、既に大半の論点は他の書評で指摘済みなので、ここでは「指摘されていない論点」について記す。

著者は天下の名門女子進学校桜蔭女子中学校の2006年の国語の試験問題の方が1995年の国立和歌山大学の国語の試験問題より遥かに難しいという事実を示しつつ、「難関大学へのパスポートは12歳の段階で配り終えられている」などと言うが、そんなことはない。まあ、「学べや学べ、やよ学べ」をモットーとする桜蔭は数少ない例外になるが、首都圏の進学校は旧制府立中学以来の根強い伝統「本当に頭の良い奴は勉強しない」というのがあって、入学と同時に「勉強しないごっこ」「ナンパに勤しむごっこ」がはじまるのである。男子校でこの傾向が特に強く麻布や駒場東邦がその筆頭だが、名だたる進学校のどこでもこういう現象は起きている。開成も例外ではない。諸君も一度、開成中学の入試問題を解いてみると良い。こういう問題をスラスラと解いてしまう小学生なら「東京大学に現役合格してアタリマエ」と思うに違いない。ところが現実はそうはなっていない。開成から東大に進学するのは浪人含めて200人に満たない。開成は中学で300人、高校で100人を募集する。そして「開成の合格実績を支えているのは高校入学組」という都市伝説がまことしやかに囁かれている。諸君も一度、「どうして開成から東大に300人進学できないのか」を深く考えてみるとよろしい。女子でいえば名門女子学院や双葉の進学実績はもっと見劣りする。女子学院では、とても恥ずかしくていえないような大学に進学する子も結構いる。パスポートは12歳では配られないのである。せいぜいが予約券程度である。

あと、桜蔭受験の風景を著者は全く知らないようである。自分が知りもしないことを勝手に書くのは自由だが、文字にして出版する以上、少しは桜蔭を受験する12歳の娘たちがどういう子なのかは、調べてから書いたほうがよい。ちなみに私は娘が昨年桜蔭に合格しているので良く知っているが、彼女たちの受験風景は決して「息苦しさ」なんて無い。もちろん彼女たちはSAPIXや日能研といった大手中学受験塾に通う。6年生も後半になると土日含む週の大半を塾で過ごす。土日なんか朝の9時からほとんど休みなしで夕方5時まで塾で勉強である。しかし、しかしである。彼女たちにとって、塾は「楽しくてたのしくて仕方がない息抜きの場」なのである。そもそも彼女たちに勉強は苦痛でない。好奇心旺盛で理解力に優れ習ったことがスッスと頭に入るから塾の勉強が面白い。しかも塾は完全能力別クラス編成になっていて、彼女たちが席を同じくするのは女子なら桜蔭か女子学院、男子なら筑波大附属駒場か開成、麻布を目指している選ばれしトップ中のトップばかりである。だから話が合う。ネタが豊富で飽きない。地元の公立小学校にいるボンクラどもとは雲泥の差である。進学塾は朝から晩まで詰め込み勉強に明け暮れているようにイメージしている人も多いと思うが、トップクラスは違う。中学受験塾は5年生の1月までに受験範囲を学習し終え、6年生の1学期、夏休み、2学期と総復習を3回行うようにプログラムされているが、最上級のトップクラスは4年生、5年生からその全てをほぼ満点で通過してきた子ばかりである。授業をやろうにも過去問は別にして、既に知っていることばかりで飽き始めている。そこで授業といいつつ最高学年のトップクラスは徒党を組んで先生をからかって遊んだりしている。そこへ激励と称して昨年桜蔭に合格した先輩たちが乱入してきて桜蔭の生活や受験の思い出話を語ったりする。こうして笑いの中で進学塾の1日は過ぎていくのである。私はこの様子を娘から聞いて、「これが本当のゆとり教育だな」と思ったりした。そして初めに戻るが、彼女たちは高階秀爾が書いた『日本美術を見る眼』などという文章は難しくもなんとも無いのである。すらすら読めて理解できてしまうのである。これくらいのことは著者も知っておいたほうがよい。

それにだ。日本の大学生が一般に勉強しないのはその通りだと思うが、それは日本の大学の社会的位置付けが欧米その他とは異なるということが大きいのであって、日本の受験システムに欠陥があるからでもなんでもない。早い話、日本の大学は「役に立たない」授業ばかりしている。簿記会計を勉強するならTACや大原簿記学校のほうが丁寧に教えてくれる。数百ページもあって学生に理解を促すより、ただこけおどしのためにのみ作られたような簿記会計の本の、なんと多いことか。法律学だってそうである。法科大学院を経て司法試験突破を目指す学生の多くが東京リーガルマインドや辰巳法律研究所のような司法試験予備校へ通っている。世に言うダブルスクールである。この傾向は東大を筆頭とする名門校ほど顕著となる。これは会計学科や法律学科の指導法が破綻している何よりの証左である。それにだ。こうした資格試験突破を志さない一般の学生がなぜ勉強しないかといえば、就職の際、企業サイドが大学の成績をあまり問わないからだ。せいぜいが優の数を見る程度で、そこでは体育の優も法学部債権各論の優も同列に扱われる。問われるのは「英語力」くらいである。だから勉強なんかしないのだ。むしろ勉強ばかりして妙なプライドをもって周囲を見下す社会性のない学士様を企業は厭う風潮さえある。

それに日本の文部科学省は莫大な助成金を盛大に全国の私立大学にばら撒いている。日本の私立と国立の学費はいまや東大と早稲田、慶應で大差が無くなっている。東大含む国立の学費は60万円弱。早稲田は90万円弱だ。私の頃の国立は年間学費が17万円だったが、いまや国立大学といっても苦学生は寄り付けないくらい、その学費は高騰している。要するに全国のゾンビ私学に助成金をばら撒いたつけが国立大学の学費高騰となって現れているのだ。ここもきちんと指摘しないと、河本くん、片手落ちだな。

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数字はウソをつかないが、うそつきほど数字をよく使う。教育の機会均等を求める教育論者の主張が最近暴走を始めている。今のうちに彼ら過激派の芽をつまねば、取り返しのつかないことになるかも?!

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最近、「日本に教育に公的資金を使っていない」などというオオウソが新聞紙面他をにぎわしている。しかし、これが如何に教育予算引き上げを狙う文部科学省、文教族、教員らがでっちあげたオオウソであるかを、天下の秀才が集うエリート集団・財務省主計局が、昨年の10月15日に開催された財政制度等審議会・財政構造改革部会(10月15日付)で木っ端微塵に論破しきっている。詳しくはこの資料を見て欲しいが、その要旨はこうだ。1)確かにGDP比で見ると、我が国の公財政教育支出は少ないが、それはかなりの部分、日本の子供の数がOECD諸国中飛びぬけて少ないからだ。日本の公財政教育支出はOECD平均の7割だが、日本の総人口に占める子供の割合もOECD平均の7割である。教育費、中でも初等中等教育費8割が人件費であることを考えると、子供の数が減れば、教員の数も減り、従って公財政教育支出も減るというロジックが導き出される。2)このロジックが妥当である何よりの証拠は、子供一人当たりにかけている公財政教育支出の一人当たりGDP比を見ると、日本は英国よりも多くドイツと同一でG5平均値にほぼ等しいことからも理解することが出来る。3)また、日本は消費税が先進国中飛びぬけて低い5%であることから、そもそも政府の歳出規模がGDP比でみると先進国中非常に小さい「小さい政府」なのである。「消費税は弱者を痛めつける逆進税=悪税だ」などと他の先進国のどこでも主張されていないジャパンローカルなトンでも理論を日本社会党=社民党、日本共産党、日教組が主張して、いまだに消費税が5%に留まっているツケが教育にも響いているだけなのだ(それでも少ない税収の中で、日本政府は他の先進国と遜色ない予算を教育につけているのである、生徒一人当たりで見ると。日本って、つくづく教育熱心な国だよね、国も、国民も!)。4)これを更に明らかにするのが「生徒一人当たり公財政教育支出/総人口一人当たり一般政府総支出」で、要するにそもそも少ない政府予算の中で日本が一人当たりの生徒にどれだけカネをかけているかという「国家の教育熱心度」を計る指標でみると日本はアメリカと並んでダントツなのである。「消費税反対」を叫ぶドけちなスーダラフリーライダー国民が多い中で、日本がどれだけ乏しい予算を国民に振り向けているかが、これで明らかであろう。5)しかも平成に入ってから児童数は3割も減っているのに、公教育費は総額で6%も増えている。つまり生徒一人当たりの公教育費は51%も増えているのだ!(なんと、豪気な!!)。6)それに事実関係を何も知らない馬鹿が「我が国の教育にかかる私的負担は重い」などとウソ八百を並べるが、これも国民負担率がそもそもOECD諸国中でも日本が非常に低いこともあって、私的教育費負担を合わせても、合計の国民負担率は日本は非常に低いのである。以上より、日本は公教育にカネをかけていないどころか少ない税収の中でやりくりして非常に教育にカネをかけていることが明らかになったと思うし、私的教育負担も国民負担と合算すれば非常に低いことがお分かりいただけたと思う(そもそもの負担が低いから、地価が高く物価の高い首都圏在住者の大半は、子供を進学塾に通わせ、私立の中高一貫校に通わせることが出来るんだなあ!)。

なお、最近、フェミニストが過激化してラディカルフェミニストを生んだように、教育学者も過激化してきていることに私は心を痛めている。その最大の特徴は「国民の教育に関する機会均等」の主張に現れていて、彼らは「機会均等」の定義をグロテスクに拡大解釈しているのである。ラディカル教育論者は二言目には「機会均等」を持ち出すが、教育基本法第3条 (教育の機会均等)「 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」に定めて在るとおりなのであって、特に「経済的地位」の格差による教育の機会均等の問題は「育英会事業」によってカバーされるべきものとされているのである。ここで気をつけねばならないのは、機会均等とは「どんな貧乏人でも慶応大学医学部に進学できる権利」や「開成中学から東大法学部」に進学する権利までは保障していないという点だ。あくまで「教育を受ける権利」なのであって、教育とは私立の名門校や公立の名門校もあれば、定時制や通信制の高校も入るし、大学だって一部もあれば二部(夜間)もあるのだ。奨学金制度をフル活用して「このうちのどれか」に入れれば国は十分その義務を果たしているのである。ミソは「能力に応じ」で能力には経済的能力も考慮されると見るのが妥当だろう。平たく言えば、日本のどの法律も、憲法含め「機会の平等=入り口で差別しない」はうたっていても、「結果の平等」なんかだれもどこでも保障なんかしていないのである(すればそれは専制主義=共産主義になってしまい、民主主義とは相容れない!)。ところが最近、「進学格差は、家ごとの資産の違いだけでなく、住んでいる地域、或いは親の持つ文化資本など、さまざまな要素によって作られている。機会均等という民主主義の基本理念からしても、そうした格差に分析のメスを入れるのは当たり前のこと」という主張が過激化し、特に格差の主たる要素である「家ごとの資産の違い」と「親の持つ文化資本格差」こそが「格差の元凶」だとして「すべての児童を全寮制の国公立の寄宿舎学校(小中高)で育てなければ、『真の教育の機会均等は保障されない』などという主張が一部の教育学者と、これに和す文部科学省官僚の間で主張され始めているのだ。これは恐ろしいことである。今は彼らも「まあ、言っていることは大失敗に終わったポルポトの教育論とほとんど同じなんですけどね」等と殊勝な自己卑下をしたりはしているが、私は油断は出来ないと思っている。こういうのを軽く受け止めて流しているうちに、だんだんと勢いがついて、そのうち彼らは拳を振り上げて狂ったように主張し始めかねないからだ。この手の「狂った主張」は今のうちに潰しておかねばならない。そうしないと本当に「1Q84」の世界が現実のものとなってしまうかもしれない。

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紙の本英文標準問題精講 新装5訂版

2009/10/14 18:40

時代遅れのカビが生えた参考書

13人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近のトレンドは問題文の長文化である。上智の外国語学部や国際基督教大学は別格としても、3000字くらいの問題文はざらである。こういう長大な長文を前にして、物怖じするようじゃ、その時点で受験は失敗である。超長文を前にして「どんとこい」と思えるくらいでないと試験は覚束ないのである。

こういう現実を前にして、前世紀のカビの生えたような英「文学」者の「名文」を集めた本書は、まあ、博物館行きのシロモノだ。三行や15行の英文をいくら読んでもものの役には立たない。こんなもの、やるだけ時間のムダのように思えるのだが。。。

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