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安波茶40さんのレビュー一覧

投稿者:安波茶40

紙の本円周率を計算した男

2009/08/14 14:37

江戸の算術家たち

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 表題作は独自の手法で円周率の計算式を求めることに生涯を費やした建部賢弘が主人公。算聖と称された師匠の関孝和との葛藤に苦しみながら、円周率の公式を見出すまでが描かれている。同作は歴史文学賞と日本数学会出版賞を受賞している。
 
 著者の鳴海は、日本数学会出版賞受賞のあいさつで

 人間世界では、誰もが円周率であったり、自然数であったり、虚数といったひと言では説明できない存在だと思います。それらの人間が織りなすドラマは、たとえ千差万別であっても、小説という一つの形になったとき,オイラーの公式のように矛盾がなく美しい物語になっていれば、それは傑作として長く人々に感動を与え続けます。

 と述べている。
 この人間観は、同書の「初夢」の中にも出てくる。
 この作品は貨幣を鋳造する銀座で代々銀座役人を務める家に生まれ、翌年から年寄り役に就任することが決まった平野忠兵衛の大晦日の夜が描かれる。銀座役所の責任者となることを前に、若い頃から志してきた算術家として名を成すという夢をあきらめようとする忠兵衛に、妻のお福はこう言うのだ。

 「馬鹿おいいでないよ。お前さんから算術をとって、いったい何が残るっていうんだい。人の生き方なんて、そろばんだまみたいに、ご破算で願いましては、なんて出来るもんじゃない。人はだれでも、その人の生き方しか出来ないもんさ。そうに決まってるよ」

 なんともすがすがしい言葉。物語りも、最初は夢をあきらめる決意をした忠兵衛の暗い物思いから始まるが、ラストは意外な展開となっている。

 同書にはほかに、「空出」「算子塚」「風狂算法」「やぶつばきの降り敷く」の六篇を収録。

 恥ずかしながら、和算や江戸時代の算術家のこと、まるで知らなかった。そういう意味でも知ることを楽しめた一冊だった。

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情報提供者と、新米記者の関係

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 6月17日はニクソン政権の野党だった民主党本部があるウォーターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、不審者が盗聴器を仕掛けようと侵入し、逮捕された日。
 時の米大統領ニクソンを辞任に追い込んだ直接のきっかけであるウォーターゲート事件発生の日だ。

 ワシントンポストの新米記者だったボブ・ウッドワードに地下駐車場で極秘情報をリークしていた人物、当時のFBI副長官マーク・フェルトが「情報提供者は私だった」と名乗りを上げたのは2005年のこと。
 本書の記述によると、フェルトは晩年、認知症を発症し、事件当時の記憶があいまいになっていたという。そうした事情もあって、ウッドワードはフェルトの死後に公刊する予定でこの本のベースとなる原稿を書いていたのだとか。

 なぜ、フェルトは自身が訴追される可能性を恐れながらも、記者にヒントを与え続けたのか。そのあたりのフェルトの背景などについては、ぜひ本書でご確認を。1つの組織論。組織統治における危機管理についても十分示唆にとんだ本。
 
 それにしても、重要な情報こそ、人間的つながりのなかで生まれてくるのだということが良く分かる。ネット上の議論では、こうした人間的なつながりでもたらす情報があまりにも少ない。公でいえることと、個人的なつながりで非公式にしかいえないこと。その判別をして、記事として伝えることの難しさ。大ベテラン記者のウッドワードのそうした逡巡なども率直に語られていて、興味深い。


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紙の本創作の極意と掟

2016/01/09 18:39

その読書量に圧倒されます

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは評論の部類に入るのだろうか。あるいはエッセイか。
いずれにしても、中学から大学まで夢中になって読んだ作者のひとり。
社会人になってから、なんとなく遠ざかっていたけれど、今読んでも、この人の文章や発想はすごい。
日本SFの黎明期から現在まで、ずっと現役で最前線で活動しているだけあって、各項目の小説作法についての助言は自信満々。
 この語り口が苦手な人は、つらいかも知れないが、昔からの読者としては、「おお筒井節、衰えてないなあ」とうれしく読了。

 「序言」で、遺言のつもりで書いたというように、結構書きたい放題な印象もあるが、実作を目指す人にはたくさんのヒントがある。この本読んでいると、何だか自分も小説を書けるような気がしてくるのだった。

 「色気」「破綻」「実験」「異化」などの各章で事例として挙げられている小説が読みたくなる。そんなブックガイドとしての性格も持った本。楽しく読み、かつ勉強にもなった。

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特別な時間の持つ浮遊感

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 なんともとらえどころのない本。
 イラク戦争が始まる直前の5日間に、渋谷のラブホテルに閉じこもってセックスを続けた若い男女が登場する「三月の5日間」。
 かび臭いアパートの一室で、横になりながら、夫の自分への思いを妄想し続ける妻を描いた「わたしの場所の複数」。
 この2つの短編をまとめ、本書のタイトルとなっている。
 まず珍しいのは、表題作がないということ。
 しかし収録2作はまったく連作にはなっていない。
 
 なぜ、このタイトル?
 何が共通して描かれているのか?

 その視点を持って読むと、見えてくるものはある。
 
 ここにあるのは、なんでもなさそうでいて、実は決定的な(それはもちろん小説中の当事者にとって)、「特別」な時間であるということだ。

 その特別さは、決して社会とはかかわらない。同時に登場人物の人生の転換点などでもない。
 でも特別。

 ここにあるのは、世の中の変動や動きから、取り残されていても、それは置き換えが聞かない唯一の時間。

 話者が次々と変化していくので、やや読みづらいが、浮遊する存在感の希薄さがよく伝わる。
 ああ、こういう小説もたまにはいいなあと思いながら読了。

 ちなみに大江健三郎の巻末エッセイも読みごたえあり。
 でも、本編前には読まないほうが得策。大江の読みに引きずられてしまうのは確実だから。

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ことばや文学を信じる人の強さを感じた

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

テレビのインタビュー番組をまとめた本で、非常に読みやすくわかりやすい内容になっている。


 面白かったのは学生時代の話。何でも井上は大江健三郎、筒井康隆と同年なのだとか。

 大学のとき「大江健三郎ショック」を受けたという井上、小説は彼に任せようと感じたと打ち明けている。
また筒井康隆のSFを読み、SFは筒井にと思ったのだとか。

 3人とも、それぞれのジャンルで大きな存在。同年で同じような存在感を持つ3人がいるというのはすごいことだ。


 井上は父親が農地解放運動などに携わったことから、戦中派「アカ」=共産主義者として、一種のいじめにもあっていたようだ。弱者への共感や、国家、特に戦争を遂行しようとする国家の意思、あるいはそうした勢力への疑義が常に井上の底にあった背景に、こうした生い立ちがあったのだ。

 あとこんなエピソードも面白い。

 いったん休んでいた大学に戻ったとき、本や映画に使うお金を稼ごうと「浅草フランス座」の文芸員のバイトを始めた井上青年。同じ時に採用されたのは作家林真理子の叔父さんだったとか。ちょうどそのとき、結核の療養から戻ってきたのが渥美清だったという。

 こんな部分に感銘を受けた。以下に引用する。

 理屈でわかっているようなものを書くと、全然面白くありません。いいものを書くためには、練って練って、これじゃ駄目、あれも駄目、これも駄目と、何度も何度もやってはじめて出てくるものを信じています。僕はその感じを「悪魔が来る」という言い方をしています。(p79)



 初日の幕が開いて、お客さんが拍手をして「いい芝居でした」「感動しました」「笑いました」といってくれるのが何よりの報酬なのです。(p81)


 「笑い」については、こう書いている。

 人は、放っておかれると、悲しんだり、寂しがったり、苦しんだりします。そこで腹を抱えて笑うなんていうのはない。それは、外から与えられるものがあってはじめて笑いが生まれるからです。しかもそれは、送る側、受け取る側で共有しないと機能しないのです。
 笑いは共同作業です。落語やお笑いが変わらず人気があるのも、結局、人が外側で笑いを作って、みんなで分け合っているからなのです。その間だけは、つらさとか悲しみというのは消えてしまいます。(p91)


 本についても、本好きには心強い発言がある。


 本とは、人類がたどり着いた最高の装置のひとつだと思います。それを簡単に手放すのはどうかと思うのです。やっぱりそれを大事にしたいという思いと、じつはどこかでまだパソコンを信用していない自分がいます。やっと集めたものが、ある朝一気にどこかにいなくなっちゃうような気がしているのです。(p113)

やっぱり、すごい人です。実に説得力のある発言です。

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紙の本神器 軍艦「橿原」殺人事件 上

2012/01/19 00:12

奇妙な後味。文体の魅力。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 奇妙な小説。あらすじも何も知らずに、この作品を読み始めて真っ先に感じたのは、その感覚。

 奥泉光といえば、実験的な文体でエンターテイメント性の高い小説を書く手だれの作家という位置づけだろうか。
読者が小説に抱くイメージを巧みにはぐらかしながら、精緻な作品世界を作る手法が個人的には好きだ。

 で、この「神器」である。

 時は太平洋戦争末期。現実の日本とは少しずれた架空の世界が舞台になっている。

 探偵小説好きの語り手・石目は軍艦「蘆原」に着任する。謎に包まれたその任務と、軍艦で立て続けに起きた殺人事件

 上巻ではさまざまな謎が提示され、下巻ではその謎が現代と過去(小説中の時制で行くと、現在と未来)を行き来するなかで解き明かされていくという内容だ。

 とくに下巻。太平洋戦争の中で、国のためとして絶望的な環境で戦い、死んでいった人々の無念な様が描かれる部分が印象的だ。

 戦争で傷つき人生をぼろぼろにされてしまう兵士たちの様が、小説の中で読む者の感情の中に響いてくる。

例えば亡霊(?)となった根木少尉と福金という水兵の会話

福金 死んだ人たちはどこへ行ったんですかね?
根木 少なくともヤスクニには帰っていない。きっと帰ってこられないんだろう。
福金 何故です?
根木 負けた国のヤスクニにどうして帰ってこられる? 彼らは勝った国のヤスクニに帰ってくる積もりだったんだからな。実際、ヤスクニには勝った戦で亡くなった英霊しか祀られていない。日清、日露、然り、戊辰戦争だってヤスクニにまつられているのは官軍側の将兵だけだ。負けた連中は入れてもらえない。負けた戦で死んだ英霊はヤスクニへは入れないのさ。というか、負けた戦で死んだものは英霊にはなれない。実際、靖国神社へ行ってみて、おれは直感した。あそこは死体の入っていない棺だ。蜘蛛の巣だらけで、鼠だけがやたら走り回る、がらんとした棺にすぎない。
福金 だったら、みんな、どこに居るんです?
根木 まだ戦地にいるんだろう。彼らは―
 飢えに苛まれつつ棒杭みたいになった脚を動かし、
 湿熱のジャングルで自分の血を吸った蛭を食っている。
 マラリア、赤痢、熱帯潰瘍―
 あらゆる病原虫菌の巣窟になった体を熱帯スコールに打たせては、
 壕の暗がりで身動きできぬまま糞便にまみれ、深夜になると、
 傷口に湧いた蛆がきしきしと一斉に鳴声をあげるのを聞く。
 群がる蠅のせいで水瓜の種で造った人形のようになり、
 丸太さながら膨らんだ壊疽の脚を虚無の眼で眺めている。
 重油で真っ黒に汚れた体で冷たい海を漂い、
 無明の海底にあって、足りない酸素を求め、瀕死の鯉さながら口をぱくぱくさせる。
 真っ赤な叫びを口から迸らせて飛行機の操縦桿にしがみつき、
 万歳、万歳と、繰り返し唱えながら、
 満身に思う存分機銃弾を浴びている。
 飛来した爆裂弾が手足を四散させれば、
 どことも知れぬ原野や路傍で白い骨をさらしている。
 それでもなお彼らは戦場にいる。
 戦地にいまだとどまっている。絶望的な状況のなかで。
 なお戦い続けている。果てしのない苦痛のなかで。
 手榴弾一つを抱えて己の死すべき場所を探して歩くことが戦うことだとすれば。
 餓死寸前の体を異国の草叢に横たえることが戦うことだとすれば。
 暗い海底で魚の餌になることが戦うことだとすれば―

(下巻、p75~76)

 戦場で、無念の死を遂げていった人々の姿を、ここまで具体的に、そして文学的な表現として描い記述を読むのはつらい。でもこれはあくまでも文字だ。実際には、この文字からは読め取れない、痛みや苦悩や絶望や悲しみや無念さを抱えて死んでいった膨大な人々が存在した。戦地の兵士だけではない、民間人も含めて。

 特定の国の名前を上げ、危機感をあおる勇ましい言論の徒たちの脳内の戦争像は、きっときれいでヒーロー映画のようなものなのだろう。そんなイメージを持っている人に読んでほしい描写。でもそんな人たちは、こんな本は手に取らないだろうなあ。

 無残な戦場の描写をもう一つ

 事実、熱帯雨林には大勢の日本兵がいた。最初に福金鼠が見たのは水辺で動く少数だけで、気付いてみれば、樹林の奥には無数といってよい数の日本兵がいるのだった。彼らのほとんどは湿った地面に踞り、あるいは横たわったまま動かない。大半は死んでいるらしく、瓦斯風船みたいに膨らんだ死骸や、骸骨に蝋紙を貼り付けたようになった死骸もある。そうして生者死者の別なく真っ黒に蠅がたかっているのだ。
 「行くぞ」福金鼠が号令すると、毛抜け鼠は声が聞こえなかったように、鉄管に巻いた尻尾を硬くしていった。
 「なんで、あんなに死んでるわけ? なんかあったわけ?」
 「戦争で死んだに決まっている」
 「戦争って、こういう風なわけ? なんか違うっしょ。なんであんなに死んでるわけ?」
 「彼らは飢えて死んだ。飢えて病気になったんだろう」
 「なんで飢えるわけ? なんで飢えなきゃなんないわけ。ここって、もしかしてアフリカ? あれってアフリカの子供たち?
 なぜ彼らは飢えなければならぬのか?なぜ飢えた挙句に朽ち果てねばならぬのか。その問いが頭を過ぎれば、福金鼠の腹中に鬱勃とした怒りの熱塊が湧き上がった。この世界には、人を人とも思わずに殴りつけ、踏みつけ、殺す連中があるのだ。鼠を駆除するみたいに殺し、実験動物と同じ扱いをしたあげく、そこらへ平然と放り投げる連中があるのだ!

   (下巻、p149)
 

 現代の、社会の下層に生きている若者が、なぜか物語の途中から登場するが、この若者は物語のラストで、もっとも説得力のある言葉を発する。それはとにかく生きるということ、偽物でもなんでも生き抜こうという決意が大切だということ。「悠久の大義に殉じた」あるいは「殉じることを強要された」人々への問いかけだ。

 ラストはやや急ぎすぎの感じもあったけど、とにかく面白く読めた作品でした。
 
 小説の持つ可能性。読むこと、書くことの意味。さまざまな思念を誘う小説。

 そのうえ、一級のエンタテインメントになっているところがスゴイ!

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