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先月(2017年6月)

analog純さんのレビュー一覧

投稿者:analog純

60 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本江戸川乱歩短篇集

2009/11/01 20:12

恋というものは、不思議なものでございますね。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 こんな本を読んでいると、つくづく僕は何を求めて小説を読んでいるのか、と考えてしまいます。

 いえ、僕なりの答えがまるでないわけではありません。
 つまり、僕は結局のところ、人間とは何か、人生とは何か、生きるとは何かなどといった(このように言葉にしてみるといかにも大上段に構えているようで、とても「恥ずかしい」のですが)、一種、「倫理的」あるいは「宗教的」な概念を、小説に求めているような気がします。

 ただ、僕が小説に求めているものは、決してこれだけではありません。もしこれだけなら、小説なんていうまどろっこしいものを読まず、倫理・哲学の本とか、宗教書、さらには何かの宗教に強く「帰依」すればいいのですから。

 それに、小説の場合には「面白さ」「美しさ」というものが、作品の価値判断の中に加わってきます。
 いえ、もう少し厳密にいうと、「面白さ」と「美しさ」は、かなり違いますね。

 「美しさ」の専売は、言語芸術の場合、「詩」がそれを専らしているような気がします。
 散文芸術は、その「お下がり」をもらっているにすぎないように思います。

 そのかわり「面白さ」の四番バッターは、まさしく「小説」ですね。このフィールドは間違いなく、小説のフランチャイズです。

 そして、この「面白さ」のみに特化した小説があるとすると……、というのが、さて、本書の諸作品であります。

 この短篇集は、乱歩の全短篇からの選りすぐりという感じで、実に「偏差値」の高い短篇ばかりであります。

 全部で十二編が入っていますが、そのうちの幾つかのタイトルを並べてみます。

 『心理試験』・『屋根裏の散歩者』・『人間椅子』・『鏡地獄』・『押絵と旅する男』

 こうして並べてみると、上記に「『面白さ』に特化した」と書きましたが、これらの作品群に書かれているのは、やはり「人間存在の多様性」であり、そしてこれらの小説は、「『人間図鑑』としての小説」に他ならないと、つくづく思います。

 上記五作は、本短篇集の中でもベストだと思いますが、その中でも特に一つとなると、それは多くの人の評価も一致しているそうですが、やはり『押絵と旅する男』になるでしょう。

 そして、この作品をベスト1に挙げる理由は、僕としては、次の二つの視点です。

  (1)「妄想力」の奔流
  (2)乱歩は切ない恋を描く

 (1)については、もはや多くを語る必要を認めません。屋根裏を散歩する……、椅子の中に潜む人間……、立体画である押絵になる夢……などなど、このように作品に語られると、誰もが、そういえば私も幼かった頃にそんなことを考えていたような気がする、と感じざるを得ない実に懐かしい思いばかりであります。
 そして、実際にそれを一つの作品にし遂げてしまう乱歩の小説家的力量は、万感胸に迫るごとき讃美の念を込めて「妄想力」としかいいようがありません。

 そして(2)の「切ない恋」ですが、これが実際に作品の表象に現れていようといまいと(かなり描かれていますが)、乱歩はいつも切ない恋心を描いているのだな、と考えるのがいかにもしっくりとするということに、この度僕は気がつきました。

 「恋というものは、不思議なものでございますね。」とは、『押絵と旅する男』のなかのフレーズでありますが、どうでしょう。
 「乱歩は切ない恋を描く」というのは、僕の勝手な思いこみでしょうか。

 この二つが、一つに重なって、最も高密度な世界を作り上げているのが、『押絵と旅する男』だと僕は思います。
 この作品は極めて完成度が高く、間然とするところを持ちません。

 (『人間椅子』も、「妄想度」については双璧ですが、作品世界を作り上げていくディテールの書き込みの丁寧さで、一歩譲るように僕は思いました。)

 というわけで、今に至るも圧倒的なオリジナリティを誇る江戸川乱歩ですが、僕はやはりこの優れた「大衆小説」に、「普遍性を追求した人間研究の素晴らしい結実」を強く感じるのでありました。

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紙の本珠玉

2010/03/20 11:39

死の直前に筆者の頭の中にあった思いは

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 わたくし事から入っていきますが、私に「文学青年的ものごころ」が付いた頃、時の「文壇アイドル」といえば、大江・開高・石原・三島・安部・倉橋といった作家の方々でありました。

 その中でも一等賞の「アイドル」は、やはり大江健三郎だったですかね。
 そこでとりあえず私は、まず大江健三郎を読み始めました。

 初期の作品からどの辺くらいまででしょう、『洪水はわが魂に及び』あたりでしょうか。このあたりまでの大江の小説には、若き頃は適度な青年的ナルシズム、お子さまがお生まれになってからは、現実に誠実に立ち向かう青年知識人という感じで、「文学青年」がとても感情移入のしやすい設定がありました。

 だから、一概に私のせいではないですよね。
 何がって、今回報告する小説の筆者・開高健の本を、さほど読まなかったことについてであります。
 
 もちろん幾冊かは読みました。
 デビュー作や芥川賞を受賞した作品。『日本三文オペラ』、これは面白かったです。三回くらい読みました。でも、あとは、ぽつりぽつりと長編が一つと中短編を幾つか読んだだけでした。私としては、絶えず気になっていた作家のつもりではありながら、少し手に取りにくかったんですね。

 今回、久しぶりに開高健の小説を読んでみて、その理由が分かりました。(というか、思い出しました。)

 開高健の作品を少しまとめて読んだ人なら、当たり前のように理解していることであると思います。
 それは、この作家の小説は、その風貌や、世界を股にかけて釣りをするアウト・ドア派の報告や、はたまた直接には存じませんがユーモアあふれる話しぶり(『四畳半襖の下張り』猥褻裁判記録での筆者の弁護は、本当に腹を抱えて笑いました)などから想像される、マッチョでタフで荒っぽくて、そして、スケールの大きい生き方・行動力の印象と全く異なって、極めて極めて繊細な文体で書かれているということです。

 その文章への気の配り方は、何というか、全く一文節さえゆるがせにしないという表現そのままで、またそれが(いかにも大阪人的サービス精神のゆえか)、これでもかこれでもかと溢れるばかりの饒舌さで書き綴られます。
 これは、筆者の言語感覚に対する特異な才能を、全く堪能させてはくれますが、読んでいると、時に辛くなることがあります。

 わたくし思うのですが、これだけ精密に言語に拘った仕事をしていると、作者にはかなり強烈な疲労が訪れるのではないか、と。
 その疲労は、我々が読んでいてちょっと疲れる、なんてものとは比較にならない質量のストレスとして、精神の中にほぐしようのない硬い芯となって澱み溜まっていくのではないか、と。

 筆者の釣りやアウト・ドアの仕事は、それとのバランス故に生まれたとは思いますが、それでバランスはとれたのでしょうか。
 開高健の、同時代作家と比べての相対的な「死の早さ」は、これとは無関係なものなのでしょうか。

 さて一方、本作の内容についてですが、文章に息づまるような所があったように、テーマについても同様であります。
 この連作集は、「遺作」なんですね。発表は、筆者の没後であります。本書の、三つの短編連作を貫くテーマを、無理を承知で一言でまとめますと、

  「生きる意味とは何か」

であります。こうして書くと、それだけで食傷気味に思えそうですが、しかしサービス精神旺盛な筆者ですから、十分に面白く、本当に「珠玉」のような作品となっています。
 ただ、その美しい「珠」の底に流れているテーマは、重い「生きる意味」であります。

 この思考が亡くなる間際の筆者の頭の中にあったのだと、そう考えるだけで、面白いという以上に何ともいえぬ背筋の伸びるようなものを感じます。

 そうして私は、改めて「文学青年的ものごころ」が付いた頃のように、腰を据えてじっくりと開高健を読みたいものだと思うのでありました。

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土 改版

2009/10/04 09:25

苦しいから読めと忠告する漱石もめちゃくちゃだなー。

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本も、以前より何となく気になっていた本です。いつか読んでみたいなと思っていました。

 その理由は幾つかあります。
 まずひとつ目。漱石が推薦していたせいですね(漱石は「『土』に就て」という序文を、本書に書いています)。下記に触れていますが、一種の宣伝文とはいえ、かなり「真面目」に「真剣に」漱石は薦めています。漱石ファンの私としては、気になるところでありました。

 二つ目の理由は、たまたま読んでいた小説に、この本が出ていました。
 不治の病で入院している青年(高校生くらいでしたか)が、ベッドの中でこの本を読んでいるという設定で、小説の主人公(アルコール依存症)は大いに感心し、自らを反省するというお話です。確か、中島らもの小説です。

 ついでに三つ目を挙げると、もうほとんどうろ覚えなんですが、確か丸谷才一がこの小説について触れていたのじゃなかったか、と。
 新幹線でビールを飲みながら読み出したが、悲しい話でとても読んでいられず、ビールだけに専念した、と。違っているかしら。

 というわけで、いかにも「誠実」そうな小説という先入観を勝手に抱いて、私は読み始めたのでありました。

 ところがこのたび読みながら、結構長いものでちょっと休憩を挿みまして、この小説の評価について、ぱらぱらと別の本なんかを読んでいました。
 すると、臼井よしみが、漱石の『土』評は誤っていると書いてある文章に出会いました。

 なるほど漱石は「序文」で、こんな薦め方をしているんですね。

 娘が年頃になって、音楽会がどうだとか、舞踏会に行きたいとか言い出したらこの本を読ませたいと思っている。面白いから読ませるのではない、苦しいから読めと忠告するのだと。

 うーん、確かにちょっと変ですね。
 またこんな言い回しがあります。

 「土」の中に出てくる人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に哀れな百姓の生活である。

 確かにこれって、ちょっとひどいですよね。
 実はこんな所に漱石のねじれがあるのであります。

 漱石は、21世紀の今に至るも、日本人の「師」のごとき評価を受けております。そしてそれに見合う実績も確かにあるのですが、やはり神様ではないわけで、プロレタリアートに対する認識については充分な深みを持っていません。
 (ただし、漱石がもう少し長生きをしたならば、かなり深い認識を持った可能性はあります。絶筆『明暗』中の「小林」という人物の造型にその端緒が見えそうです。)

 というわけで、この小説は「暗い重い長い」の三重苦のような小説です。朝日新聞連載中も読者に不評だったそうですが、たしかに漱石の言うとおり「苦しい」小説であります。

 最後にもう一つ。
 漱石も少し触れていますが、作品中に書かれている茨城県の方言が、僕にもあまり分かりませんでした。地の文が重くって、セリフが理解不能なんだから、とっても大変でありました。

 でも、読後感は悪くないです。そんな本でした。

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紙の本人魚の嘆き・魔術師

2010/08/25 18:33

天才作家の密やかな悩めるデカダンス

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 例えば「美は細部に宿る」と言ったのは、三島由紀夫ではなかったかと思うのですが、このフレーズを初めて読んだ時、私は全くもってその通りだと感心・納得したような気がします。
 しかし、よく考えてみると、具体的にこのフレーズは何を言っているのでしょうか。

 いえ、何となく、感覚的には分かるような気がするんですね。
 しかし、今回のような作品を読むと、「美」は本当に細部に宿るのかということについて、どうも具体的に指摘しきれないような気がします。

  ----------------

 両側に櫛比している見世物小屋は、近づいて行くと更に仰山な、更に殺風景な、奇想的なものでした。極めて荒唐無稽な場面を、けばけばしい絵の具で、忌憚なく描いてある活動写真の看板や、建築毎に独特な、何とも云えない不愉快な色で、強烈に塗りこくられたペンキの匂や、客寄せに使う旗、幟、人形、楽隊、仮装行列の混乱と放埒や、それ等を一々詳細に記述したら、恐らく読者は悄然として眼を覆うかも知れません。私があれを見た時の感じを、一言にして云えば、其処には妙齢の女の顔が、腫物のために膿ただれているような、美しさと醜さとの奇抜な融合があるのです。真直ぐなもの、真ん圓なもの、平なもの、--凡て正しい形を有する物体の世界を、凹面鏡や凸面鏡に映して見るような、不規則と滑稽と胸悪さとが織り交っているのです。正直をいうと、私は其処を歩いているうちに、底知れぬ恐怖と不安とを覚えて、幾度か踵を回そうとしたくらいでした。

  -----------------

 まぁ、改めてこんなことを考えてもあまり意味は無いとも思いつつ、この文章に「美」は宿っているか、と考えてみます。

 当たり前だけれど、「指摘」できないですわね。
 いや、指摘できないんじゃなくて、そもそもこんな文章には「美」なんて宿っていないとも考えられます。
 でもそう言ってしまうと、谷崎の文章自体に美は宿ってはいないのだ、むしろ宿っていそうなのは、例えばそう、森鴎外などの文章ではないか、と。
 なるほどそんな気も、しないではないように思います。

 上記の引用文にも散らばっている「けばけばしい絵の具」「ペンキの匂」「不愉快な色」「奇抜な融合」「不規則と滑稽と胸悪さ」等々の表現、これは単に、お話の中に出てくる「見世物小屋」の描写だけではないのかも知れません。

 しかし、例えば永井荷風によって絶賛された『刺青』、この初期の傑作なんかには、もう少しくっきりとした「美」が宿っていたように思うんですが……。

 晩年の谷崎潤一郎は、過去の自らの作品について、特に中期の作品をかなり嫌っていました。自選全集を作った時も、自分が死んだ後もどうかこれ以上の作品は掘り返さないで欲しいといった主旨の文章を書いていたように思います。
 (ついでの話ですが、もちろん谷崎のこの願いは、死後見事に裏切られてしまいます。コワイもんですねー。)

 こうして読んでみますと、やはり中期の谷崎作品のテーマは、「デカダンスの美」とでもいうものでしょうかね。今回紹介の二作品のテーマも明らかにこれであります。

 しかしこういったデカダンスの美に伴う「頽廃感覚」は、どうも色褪せるのが速いように思えますね。
 そもそもが、感覚の極々表層に漂っているようなものだからでしょうかね。
 あたかも、祭や縁日の夜の喧噪のように、翌日の陽の光の許では、みすぼらしいような淋しい姿を晒してしまいます。
 時代という名の祝祭が終わった時、時代風俗に託して描かれることの多いデカダンスの美は、剥げたメッキのような姿を現してしまいます。

 いえ、それは少し言いすぎでありましょう。
 仮にも谷崎の筆力は、剥げたメッキに喩えられて可とするものではありません。
 現在読んでも、一文一文には筆者の刻苦のあとが見られ、才能の片鱗を充分に伺わせてくれます。しかしただ、その刻まれた絢爛豪華な文章は、私たちの美意識に力強く迫ってくるものとは、微妙に異なっているように思えてしまいます。

 晩年、自らの美意識と作品について大きく軌道修正を果たした筆者は、この先、自らが歴史の名の下に裁かれる「巨人」であることがわかっている故に、この苦渋の時期の作品を継子のように嫌ったのでありましょうか。

 しかしいずれそれは、与り知らぬ天才の悩みであります。
 私たち凡人の享受者は、この作者に嫌われた不思議な少し古くさい美意識にも、何ともいえないノスタルジックな魅力を、今でも、そしてきっとこれからも、大いに感じ続けることでありましょう。

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紙の本檸檬 改版

2010/06/27 09:16

漂う透明な安定感

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕が若かった頃、とても好きであった作家が三名いました。

   太宰治・中島敦・梶井基次郎

 この中で、現在でも日本文学史的にメジャーな作家は、やはり太宰治だけですかね。
 というより、よく考えてみれば、後の二名は、生前のリアルタイムにおいても決して「メジャー」な作家ではなかったですね。
 彼らはやはり、あまりに早く亡くなりすぎてしまいました。
 三人の享年を並べるとこうなります。

   太宰治(三十九歳)・中島敦(三十三歳)・梶井基次郎(三十一歳)

 こうして並べてみると、太宰が三十代をなんとか生き抜いたという「差」は、大きいですよねー。
 今調べてみたのですが、太宰の三十一歳の時の主な作品といえば、『駆込み訴え』『走れメロス』なんですね。
 まさに太宰の充実期・豊穣期・収穫期の開始時期ではありませんか。

 さて、その太宰の収穫期の入り口で鬼籍に入ってしまった作家が、梶井基次郎であります。
 実は僕が初めて個人全集を買ったのが、この作家でした。筑摩書房からの三巻本です。
 最後の巻の書簡を読み終えた後、自分でも少し感動したことを今でも覚えています。

 今回、梶井の主な作品について何度か目の読書をして、改めて驚いたことがありました。
 梶井の作品の評価については、伊藤整の説いた、「志賀直哉とボードレール」の影響の指摘が端的に語っていると思いますが、今回驚いたというのは、その「スタイル」を梶井は晩年(若き晩年!)ぎりぎりまで彫心鏤骨、洗練させ続けているということでした。

 例えば、名作と名高い『冬の蠅』。この晩年の作品などは、冒頭から天にも昇らんとする勢いの文章であります。

 ---------------

 冬の蠅とは何か?
 よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼等は一体何処で夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝んで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張切っていた腹は紙撚のように痩せ細っている。そんな彼等がわれわれの気もつかないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍っているのである。
 冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蠅を見たにちがいない。それが冬の蠅である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼等から一篇の小説を書こうとしている。

 ---------------

 梶井の小説の底辺には、ほとんどすべてに疲労・倦怠・不健康などの影が見えます。
 現実に、その延長線上に自らの肉体の滅び(それも遠くない将来)を見つめ続けねばならない筆者の精神が、必ずや少しずつ少しずつ傷ついていったであろうことは我々にも容易に想像がつきます。

 しかし、少なくとも梶井はそれを創作態度に持ち込もうとはしませんでした。
 不健康な日々を行為を描きながら、その描写には、安易さやふて腐れや放り出しやといった、不健康な要素は一行もありませんでした。
 きっとそこに、彼の矜持があったのだと思います。

 そのための「武器」が、ボードレールの妄想や比喩であり、志賀直哉のあの厳格・強靱な文体であったのでしょう。
 そして、それを晩年まで研ぎ澄ませていった筆者の精神力に、今回読んでいて僕は非常に感銘を受けました。

 それともう一つとてもおもしろかったのは、彼の晩年の作品にまで通じている表現要素が、ほぼすべて処女作の『檸檬』に相似形に描かれているということでした。

 それは『檸檬』の表現でいえば、「みすぼらしくて美しいもの」と「錯覚=妄想」です。
 この二つが、彼の描く死を見据えた美意識の中に、最後まできちんと読みとれるということに気がつきました。

 そしてそのことによって、早過ぎた筆者の死を惜しむ気持ちはもちろんあるものの、彼の残した作品群がきれいな円環を閉じていることに、個々の作品に描かれる「不健康」とは全く姿を異にした、透明な安定感のようなものを、ちらりと、僕は感じるのでありました。

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紙の本坊っちゃん 改版

2010/06/06 09:05

痛快な坊ちゃんの見つめている淋しさ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私が大学時代ですからもう四半世紀も前ですが、文学部というところにおりまして、四年生になったら卒業論文を書かねばなりません。
 私の論文のテーマは谷崎潤一郎でしたが、もちろんいろんな作家を、いろんな学生が選んでいました。

 で、やはりそんな中に、漱石を選ぶヤツがいるんですね。
 僕は漱石は大好きでしたが、漱石を卒論に選ぼうとは思いませんでした。なぜなら四年生になるまでに、漱石の研究書は毎年二百冊くらい発行されている、と聞いたからです。
 そんなモン、読めっこないですよね。一年分二百冊だけなら、あるいは腹を据えて読めば読めないこともないでしょうが、いつからその数字になったのかは知りませんが、毎年二百冊なんですから。

 だから僕は漱石は選ばなかったのですが、まー、世間には恐れ知らずなヤカラがいて(しかも結構沢山いて)、漱石卒論という友人達が何人かいました。

 それから四半世紀、はて、今でも漱石研究って盛況なんでしょうか。
 もう、「煮つまって」しまっているんじゃないんでしょうか。新しい発見とか、今でもあるんでしょうかね。
 もはやその世界については、とんとご無沙汰なもので一向に様子が分かりませんが、先日こんな本を読みました。

   『汽車旅放浪記』関川夏央(新潮文庫)

 筆者の関川氏は、私が非常に敬愛し信頼する文学者であります。文学作品を評論していて切り口がとても斬新です。今回のこの本もそうでしたが、中に、『坊っちゃん』について触れた個所がありました。これがまた、ハッとするような切り口であります。
 下記はその一節、坊っちゃんが物理学校に入学する所を取りあげた文章です。

  ---------------

 東京大学仏語物理学科(フランス人教員がフランス語で授業を行った)の卒業生と在学生が、中堅技師養成のために、明治十四年、ボランティアで開校した物理学校は、当初から誰でも無試験で入学させることで知られていた。しかし同時に進級も卒業も楽ではないことも広く知られていた。坊っちゃんと同期入学者は二百八名だが、そのうち規定の三年で卒業した者は二十五名にすぎない。とすれば「いつでも下から勘定する方が便利」な成績であっても入学者の上位二十五番以内十五番目くらいが妥当なところだろう。坊っちゃんは勉強家だったのである。

  ---------------

 と、こう書いてあります。
 こんな視点は斬新ですよねー。そしてさらに私がハッとしたのは、続いてこう書いてあったことでした。

 「このような背景は、当時の小説『坊っちゃん』の読者には諒解されていたことだと私は思う。」

 うーん、まだまだ漱石を巡るテーマは、たくさんあるのかも知れませんねー。

 さてそんな漱石の『坊っちゃん』を、この度何度目になるのか、読み直してみました。
 今回特に気づいたことは、やはりあるものです。それは二つありました。

 一つ目は、冒頭からしばらく続く、坊っちゃんが四国へ行くまでの半生を書いた部分でした。ここの部分は改めて読んでみると、かなり「異常」な坊っちゃんの家族関係が読みとれます。これは多分、今と明治時代の差というものではないと思います。

 それは、坊ちゃんがあまりに両親から愛されなさすぎると言うことです。
 腕白者すぎて近所の人々から爪弾きにされるというのはともかく、本来ならそんな子ほど、肉親は「身びいき」にその子の良いところを探し出して、認めたり愛したりするものですが、坊っちゃんの場合、両親がまず一番になって坊っちゃんを否定しています。

 これは漱石の誇張でしょうか。ではなぜこんな誇張を漱石は書くのでしょうか。
 「清」との対比を際だたせるため?
 それもあるかも知れません。しかし、ともかく文庫本で冒頭から十ページほどの坊っちゃんの四国に行くまでの部分は、「リアリズム」の眼で見ますと、少し親からの愛されなかたが「異常」であります。

 そして二つ目に気が附いたことは、多分一つ目と不離の関係にあるんでしょうが、この『坊っちゃん』というお話は、どこか、かなり、淋しいということです。

 この「淋しさ」は、『三四郎』の中にも風のように出てきたり、また絶筆の『明暗』の中にも吹いているものに繋がっていそうです。

 これは、漱石作品に広く遍在するものでありましょうが、特に坊っちゃんについては、肉親から愛されたことがないという少年時の体験が、どこか坊っちゃんの言動や考え方、感じ方の端々に、自分は人からは愛されない存在なのだという「あきらめ」めいたものをもたらしています。

 それが、ストーリー上の必敗者である坊っちゃん、というだけではない「淋しさ」を、作品内に通奏低音のように漂わせていると思いました。

 もちろんそれらを補うべき「清」の存在は、有名なこの作品の結語に集約される形で感動的に描かれはするのですが、さて今回の私の読みは、それを上回る坊っちゃんの淋しさが気になって、我ながらちょっと驚くほどでありました。

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紙の本季節のない街 改版

2009/09/15 22:23

シュール・レアリズムでハード・ボイルド

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 えー、なんというか、かなりびっくりしました。

 山本周五郎という作家は、もう20年以上も前でしょうか、僕は『さぶ』という小説を読みました。ほとんど内容は忘れていますが、うっすらと残る記憶によりますと、人情時代劇であります。

 今年、3ヶ月ほども前でしょうか、『日本婦道記』という短編集を読みました。ちょっと面白かったですが、「人情時代劇」という範疇を越えるものとは思えませんでした。

 で、『季節のない街』です。驚きました。

 シュール・レアリズムでハード・ボイルドであります。

 読みながら、心の中で何度も、

 「なんだなんだなんだなんだ、この展開は、いったい何なんだーーーっ!」

 と、思いましたね。例えばこんな話です。

 増田益男32歳、妻勝子29歳。
 河口初太郎30歳、妻良江25歳。

 こんな二組のカップルが、吹きだまりのような「季節のない街」に住んでいます。
 夫は共に飲んだくれの日雇い作業員。女房はやかましいだけの無教養な女。子供は共にいません。

 ある夜、飲んだくれて夫婦げんかをしてぷいと家を飛び出した益男が、初太郎の家に来ます。もちろん初太郎も飲んだくれています。
 二人はさらに飲みながら、益男がなぜ夫婦げんかをするに至ったかを初太郎に説明すると、初太郎は
 「それは勝子さんが悪い」
といって、勝子に意見をしに一人で益男の家に行ってしまいます。

 初太郎の家に残されたのは、益男と良江。
 その後もぐじゅぐじゅと飲んだくれて、そのまま寝込んでしまいます。一方、初太郎も勝子のいる家に行って、とうとうその夜は帰ってきません。

 次の朝、それぞれ別の家から仕事に出かけた男二人は、夕方、何の不思議もないかのように、前夜を過ごしたお互いの家に帰っていきます。
 4人の男女はまるで今までそうであったように、夫婦を取り替えて、そのまま普通に生活を始めてしまいます。……。(『牧歌調』)

 どうです。読みたくなってきたでしょう。びっくりするでしょう。唖然とするでしょう。

 ユーモアがあって、展開が超現実的で、表現にも芸があってと、極めて一級品の作品集になっています。

 さらに驚くべきは、本短編集は15ほどの作品でまとめられているのですが、全作ことごとくが「ハイレベル」であります。これがまたすごい。

 短編集にはどうしても、できの善し悪しが出るものですが、この本にはほとんどそれが感じられない。ムリヤリ読めば、まー、全く善し悪しがないとは言い難いでしょうが、それはほとんど「趣味」の違い程度でありましょう。

 というわけで、本作は「本気の」、とってもお薦め本であります。
 
 ところで、本作が原作となっている黒澤明の映画『どですかでん』についてです。
 僕は情けない話しながら、映画についてはいっこうに見識を持ちません。しかし、この度の読書の後、見ました。
 案に違わず、やはり先に手を出した方、つまりこの山周の小説の方がずっと良いと思いましたが、この件については、私は決して断言致しません。

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紙の本白い人・黄色い人 改版

2010/07/10 18:54

神に対して異議を唱え続ける精神

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『黄色い人』の冒頭に、前書きのような形で、筆者は短いお話を書いています。
 「童話」と紹介している、神様が人間を作った時のお話です。

 一人でいるのが淋しくなった神様は、パン粉で人間を作ろうとし、竈で焼きました。
 初め、五分で竈を開けた時にできた人間はまだ生焼けで真っ白だったので、「白人」と名付けました。今度はうんと時間を掛けて焼きましたが、時間を掛けすぎて真っ黒に焼けた人間ができあがりました。神様は「黒人」と名付けました。
 最後にほどよい時間で焼いた黄色い人間ができ、「黄色人」と名付けます。そして神様は、「何ごとも中庸がよろしい」と言って、うなずかれました。

 この話は何なのでしょうね。
 『黄色い人』の中に黒人は出てきませんので(『白い人』の中にも出てきません)、白人と黄色人種の比較と考え、そして、何を比較しているのかとさらに考えると、たぶん、「無信仰者の、信仰者に対する相対的優位」って事でしょうかね。
 『黄色い人』のテーマの一つはたぶんそんなところにありましょうか、しかし今更ながら、遠藤周作の純文学小説は、とても重たいです。

 『白い人』と『黄色い人』の二つの小説、どちらの出来がいいでしょうかね。
 一般的な評価がどうであるのか全く知らないですが、僕の感覚的なとらえ方では、うーん、やはり、『黄色い人』かな、……迷いますね。

 『白い人』は第二次世界大戦終盤のフランス(ナチスに占領されていましたが、解放直前のフランス)が舞台です。

 戦争と性的なるものの関係。ナチスドイツの人間性からの「ずり落ち」。そして、キリスト教とサディズムの関係。

 このあたりがテーマでしょうが、どの一つをとっても、とてもとても重苦しいですよねー。そう簡単に見やすい鳥瞰図ができようとは思えませんよねー。

 だから(「だから」かどうかはわかりませんが)、小説としては、少し図式的になったような気がします。
 登場人物が、筆者に操られている人形のような類型的な動きになり、ややリアリティに欠けたように感じます。

 人間が肉体的苦痛によって信念を曲げるということは、たぶん現在では、さほど意味のあるものではありません。そこに倫理的な、あるいは文学的な課題は、たぶんあまり残っていないと思います。
 そういう意味で言いますと、この小説に立てられたテーマは、少々古びかかっているとも思えそうです。

 一方『黄色い人』に描かれる、遠藤周作的宗教的二律背反テーマは、「全面的に神を信じることができないのに神の不在も恐れる」です、たぶん。

 しかし、筆者の持つ「背徳者意識」の強さは、いったい何なのでしょうねー。
 僕は、さほど根を詰めて遠藤周作を読んでいるわけではありませんが、この「自分はいつ神を裏切るかわからない」とでもいえそうな背徳への恐怖、そしてそれに伴う神の裁きへの恐怖(決して許してくれない神)は、とても強い形で、一貫して筆者の小説に流れていると思います。

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 ユダも、もし、あなたの弟子であったならば、そしてまた、その救いのためにあなたが十字架を背おい、鞭うたれ、死なねばならなかった人間の一人であったならば、あなたは、なぜ、彼を見捨てられたのだろう。
「ユダ、私はお前のためにも手をさしのべている。すべて許されぬ罪とは、私にはないのだから。なぜなら、私は無限の愛なのだから」あなたは決してそう言わなかった。聖書にはただ、怖ろしいこのあなたの言葉がしるされてあるだけなのです。
「生れざりしならば、寧ろ彼に取りて善かりしものを」

 キミコは、私にゆさぶられて乱れた髪をなおしながら呟いた。「なぜ、神さまのことや教会のことが忘れられへんの。忘れればええやないの。あんたは教会を捨てなはったんでしょう。ならどうしていつまでもその事ばかり気にかかりますの。なんまいだといえばそれで許してくれる仏さまの方がどれほどいいか、わからへん」

   -----------------------

 別々の二カ所から引用しましたが、後者の台詞などは、まさに日本人的・ほぼ無宗教的「気楽さ」で読めば、大いに納得できてしまいそうです。

 しかし筆者がこだわったもの(それについて僕が十分に理解できているとは思いませんが)、たぶんそれは、日本的宗教観の持つ、「人間の意志力に対する否定的感覚」めいたものではないかと思います。

 神(仏)が人間をすべてを許すとは、結局、神(仏)が人間をすべてを信じていないことに他ならないのではあるまいか。そしてそれに対して、人間として震えながらも「おおそれながら」と異議を唱え続ける精神。
 遠藤周作が最後までこだわったのは、たぶんそういったものであり、だからこそ、遠藤作品はとても重く、そして、いつまでも人を打ち続けるのだと思います。

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「老い」ということの意味と迫力

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 上手なタイトルだなーと、思います。
 特に『われはうたえども……』のタイトルは、まさに迫力満点ですね。この迫力はいったいどこから来るのかというと、もちろん「老人文学」ゆえ、であります。

 「老人文学」という言い方が、確か、あるように思います。
 近年これだけ日本人の平均寿命が延びて、作家も長寿の方が沢山いらっしゃいますから、このジャンルの作品も少なくないですよね。

 私の読んだ小説で、本ジャンルにあたる作品はと考えてみますに、まず耕治人の『天井から降る哀しい音』。だいぶ前に読んだ本なので、内容はほぼ覚えていません。しかしかなり印象的だった記憶があります。

 次に古井由吉の『白髪の唄』。これは朦朧として内容がよくわからなかったところがいかにも「老人文学」っぽくて(?)、よかったですね。

 川上弘美の『センセイの鞄』なんかも一種の老人文学ですよねー。

 「老舗」で言えば、谷崎潤一郎の『鍵』とか『瘋癲老人日記』などもこのジャンルの草分けになるのかも知れません。
 ただこれらの小説は、老人の「性」をテーマに絞り込んでいますから、少し「特殊」な感じもします。

 とにかくそんな「老人文学」の白眉の一冊が、この作品集です。
 ここには4つの小説と1つの詩が入っています。少し異色な感じのする『老いたるえびのうた』という詩が筆者の絶筆だそうですが、この詩がまた絶品であります。

 そしてこの詩も「やぶれかぶれ」なんですが、4つの小説の「やぶれかぶれ」が、とても強烈な迫力を持っています。

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 咳が酷いのでその反射痛が左の背中にあらわれ、物をいうと咳きこんで言葉がきれぎれになった。まるで言葉がまとまらない、私は、ばばばといったりひぃひぃ言ったりするだけで、腰を折り手で畳をささえ、咳のおさまるのを永い間待ったが、その苦しい間に煙草の要求が烈しく起った。ひどい心配事のあるときに煙草がのみたくなる、あの心理なのだ。咳の小止みのあいだにただ一つの救いである煙草を一服やろうと、私は煙草に火をつけた。そんな物をうけつける筈がないのに、それをとおそうとするのだ。馬鹿の骨頂なのだ。間もなく煙にむせ返って咳は巻き返して、のた打ち廻った。(『われはうたえども…』)

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 この小説は、主人公の老作家が排尿のできない病になり、その治療の経緯を語るものですが、まさに全編「やぶれかぶれ」の迫力に満ちています。

 例えば円地文子に、『朱を奪うもの』という老女が自らの半生を語る小説がありますが、その冒頭には、片方の乳房を失い、子宮を取り除き、そして今度は歯をすべて抜き去った主人公の、鬼気迫る語り出しが描かれていました。

 一体に「老い」を語る小説には、どこか一種偽悪的・露悪的な迫力を持つものが多いと私は思います。

 それは言うまでもなく、人生のゴールがさほど遠くない視野の中に見え始め、なにより日々不如意になっていく、加速度的に老化していく肉体を見つめ続ける作家の、強靱な精神が紡ぎ出すものであるからです。
 それに私たちは、迫力を感じずにはいられないわけです。

 さてそんな老化をダイレクトに扱った小説も面白いですが、残りの3作は、直接老化を取り上げたのではなくて、自らの「嗜好」を描いた作品です。

 陶器、金魚など、どれも筆者自身の実際の嗜好を描いたものでしょうが、それが一般的な程度を越えて、まさに「淫する」ように、舐めるように愛する様が描かれます。
 これは、老人のエロスとも関係してくるのだと思いますが、ここにも迫力満点の「やぶれかぶれ」が読みとれます。

 しかしこういった、人生の終盤における「やぶれかぶれ」の生命の炎のようなものを眺めていますと、「老いる」という状況が、まさしく人間精神の一つのありようであり、そしてそこにはやはり、例えば「若さ」と全く同等な豊饒さがあるのだと、つくづく感じます。

 老いることもまた、人生の豊かさの一つの表現であります。

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紙の本ひかりごけ 改版

2009/11/22 08:42

「人肉食」を描くグロテスクなユーモア

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小説家でいて僧侶であるという方は、結構いそうに思うんですが、はて、どんな方がいらっしゃいましたでしょうか。

 かつて、今東光という方がいらっしゃいましたね。あ、寂聴さんがそうですか、瀬戸内寂聴氏。
 あと、少し前に芥川賞を取られた方も、いらっしゃったように思います。

 しかし、小説家で僧侶という方は、たとえば、遠藤周作のようなキリスト教作家に比べると、何か「存在感」が薄いと感じてしまうのは、私の偏見でしょうか。

 もっとも、キリスト教作家は、小説家でいて牧師であるというのではありませんから、比較の仕方が悪いのかも知れませんね。

 さて、筆者・武田泰淳氏は僧侶でいらっしゃいます。(すでにお亡くなりの方ですが。)
 第一次・二次戦後派というところにおそらく分類される方で、小説家としては、かなり高い評価をお受けの方と側聞しますが、僧侶としては如何だったんでしょうか。寡聞にして存じ上げません。

 しかし本書において、まさしく僧侶=宗教家としても非常に質の高い、「文学的=宗教的・哲学的結実」を見せていらっしゃると感じました。
 (もとより私の宗教的な知識は、ほぼ皆無であります。素人判断しかできていないものではありますが、しかし「宗教的結実」は十分あると思います。)

 本書は四つの作品による短篇集ですが、その作品には幾つかの共通項があります。
 まず、閉鎖された空間内での人間関係を描いていると言うこと。
 『異形の者』という作品に於いては、人間関係だけではなく、人間と「絶対者」の関係にまで及ぼうとしていますが、そんな関係が、ことごとく、実に粘り気のある、イメージの分厚い、そして内臓のような存在感と暴力性を持った描写でなされているのも、共通項の一つであります。

 各作品に十分読み所はあるのですが、やはり圧巻は、総題にもなっている『ひかりごけ』でしょうか。
 60ページほどの短篇でありながら、人間存在の苦悩について、小説的物語性と象徴性の共に高い、極めて優れた作品となっています。

 それは、一言で言うと「人肉食」の話です。

 第二次世界大戦末期、北海道の端・羅臼で難破した軍用船が、人跡の絶えた漂流地に辿り着き、二ヶ月間、極寒期の食料皆無の中で実際に起こった惨劇を、モデルとしたものであります。
 
 筆者は、この状況を実に巧妙に描いています。
 紀行文のようにその地の風土から描き始め、そして村の校長と共に見に行った、洞窟内に生える珍しい「ひかりごけ」の話、さらに彼から聞いた話として、「人肉食」の話題に入っていきます。

 この時点で、「私」は「人肉食」について「殺人」と絡めながら様々な考察をします。
 例えばこんな具合です。

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 殺人の利器は堂々とその大量生産の実情を、ニュース映画にまで公開して文明の威力を誇ります。人肉料理の道具の方は、デパートの食器部にも、博物館の特別室にももはや見かけられない。二種の犯罪用具の片方だけは、うまうまと大衆化して日進月歩していますが、片方は想い出すさえゾッとする秘器として忘れ去られようとしている。この二つの犯罪行為に対する人気投票が、前者は依然として上昇ぎみであるのに、後者がガタ落ちしているのは、要するに、前者の選挙ポスター、宣伝カー、政治綱領がすみずみまで行きわたっているのに、後者の候補者の方は、選挙以前から検束されてしまっているがためにすぎないのです。

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 どうですか。このグロテスクなユーモアを伴った、殺人と人肉食の比較検討は。
 そして、このグロテスクなユーモアは、後半の戯曲形式に於いて、俄然効果を発揮していきます。

 いよいよ最後、戯曲第二幕の、人肉食をした「船長」の裁判の場面において、「私は我慢しているが不幸ではない」と言い張る「船長」が、人肉を食べたものの首の後ろは「ひかりごけ」のようにうっすらと光るが、それは人肉を食べていないものにしか見えない、と発言した後の場面は圧巻です。

 舞台の照明を落とした中、首の後ろが光っている者は、いつの間にか登場人物全員であり、互いにそんなひかりごけなどは見えないと話し合っている。
 「そんなはずはない。私をもっと真剣に、もっとよく見てください」と叫ぶ「船長」の姿、そして彼を取り囲む者達の姿が、闇の中、しだいにゴルゴダの丘のキリストと見物人達に重なっていく……。

 見事なものですね。
 ここを読んだだけでも、筆者が、終盤を戯曲形式にした狙いがはっきりと読み取れます。
 武田泰淳が骨太な作家として高い評価を受けているわけが、この一作からでも分かるようですね。

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紙の本出家とその弟子

2009/11/01 20:28

素直に、やー、いい本だなー、と思える本です。

7人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 えー、今、私の手元に、上記の文庫本が二冊あります。同じ本です。……うーむ。

 はは、はははは。
 でも、こういう事ってよくあることですよねー。
 読書好きのお方なら、必ずや、そんな体験、私にもあるあると、おっしゃってくださると思いますがー、そんなことってないですか?

 私の場合、「本」はまだましな方です。同じ本を買ってしまうケースが少なからずあるとしても、買った本の総量に対するパーセンテージで考えれば、(きっと)少ないです。(かな。)

 同種の誤謬で、最近、私にとって看過できなくなりつつあるのが、CDであります。
 これも、まー、安くなりましたからねー、昔のレコードに比べますと。

 えー、話題を、少し元に戻します(放っておけば、戻りませんから)。
 『出家とその弟子』が手元に二冊あるということです。

 しかし、この本のケースは、わたくし、思いますに、「微罪」だな、と。

 「なにが微罪やねん!」と、お怒りの方もいらっしゃろうかとは思いますが、この本の場合は、本棚を探して、無いことを確認して新たに買ったのに、後で思わぬ場所から以前買った本が出てきてしまったというケースですから、罪は軽いですよね。
 ほとんど「正当防衛」と紙一重であります。(なんのこっちゃ。)

 えー、というわけで、同じ本が二冊ある謎が解けたところで(どこに謎が解けたんやー)、この本の書評ですね。(まっとうな書評になるのかしら。)

 私が最初にこの文庫本を買ったのは、おそらく私が高校3年生くらいの時だと思います。(そして読んでいなかったんですね。)

 二冊目の本は、ここ一年ほどの間に買ったものです。

 この度読んでみて、改めて、
 「やー、いい本だなー。」
と、思いました。難しいところの全然ない、とても遠くまで見通しの効く、本当に良い本だなーと思いました。

 そして、なぜ私は今までこの本を読んでこなかったのだろうかと考え、さらに、もしもっと若い時にこの本を読んでいたら(まさに高校時代に)、どうであったろうと思いました。

 なぜなら、この本には、恋愛と性欲について、極めて繊細に、誠実に触れられてあるからです。

 このテーマは、さすがに現在の「人生の黄昏時」に読むと、少し「他人事」になってしまいます。
 でももしも、せめて僕が二十歳の時に読んでいたら、きっと別の感じ方をしただろうなと考えると、何というか、少し残念なような、そうでもないような、そんな少し切ない感じがします。

 もちろん本書は、優れた古典的作品として、定まった評価を持つ本ですから、今更私がびっくりしたように褒めたところで、どうということもないんですが、とても「爽やかな」、まさに「良書」という言葉に相応しい本でありました。

 いやー、読書って、本当におもしろいですねー。

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紙の本日蝕・一月物語

2011/08/12 18:13

純文学作家は死ぬまで「未完成」です

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この『日蝕』で芥川賞を受賞した作家ですね。つい最近と思っていたら、もう10年以上も前になるんですね。『日蝕』が芥川賞を取った時のことを少し覚えていますが、三島由紀夫の再来と騒がれていたように思います。

 まずその『日蝕』を読みました。この筆者の作品としては初めて読むものでした。わずか一作を読んだだけですから、充分なことは分からないのですが、分からないなりに感じたのは、失礼ながら「三島由紀夫の再来は、ちょっと三島由紀夫に気の毒じゃないかしら」というものでした。
 うーん、私は何か読み違えているんでしょうかねー。

 三島由紀夫に比べたら、少々小振りの「張り子の虎」と思えてしまうんですけれどねー。少し前にマイブームだった、エンタテインメント系の「ファンタジーノベル大賞」の小説群の方がいいようにも思えるかなー。(ちょっと言い過ぎかなー。)

 で、続いて『一月物語』を読みました。『日蝕』の次に書かれた小説だそうで、なるほど「姉妹編」という感じの小説ですね。でもこの小説についても、なんといいますか、「本物の小説のうねり」の様な物はあまり感じられませんでした。泉鏡花のパロディ、なのかな。
 で、一読者として、私も色々考えたんですけれどね。一つ思った事は、「文体の発見」という事であります。この作品は、例えばこんな文体なんですね。明治三十年、主人公である二十四歳の青年詩人・真拆が奈良の山中を彷徨っている場面です。

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 地に積もる幾年を経たとも知れぬ腐葉土が、甘酸の微妙に溶け合う湿った臭気と、虚しく逆らおうとする弾力とを伴って、踏み締める度に、死肉を下に敷くような、不快な錯覚を催させる。うねるような起伏に足を取られて、不如意な力が加えられる時には、殊に、朽ち遣らぬ条枝が、蹂躙される骨子のような音を真拆の蹠に響かせる。

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 これはやはり、筆者にかなりの力がある文章であることは確かですよね。この文は『一月物語』からの引用ですが、デビュー作『日蝕』も同種の文体です。
 そもそもどんな文体でデビュー作を書くかは、案外に、さほど難しい話ではないのかも知れません。そんなに選択肢がないだろうこともありますが、迷ったところで、その時の筆者自身の「身の丈」以上のものは、結局選べないからであります。とすると、文体を選んだのか、文体に選ばれたのか、なかなか微妙なところがありますね。

 そして、この筆者はこの文体でデビューしました。ただ、この文体を選んだ(文体に選ばれた)ことについては、きっと思いの外に筆者の今後の方向性に強く絡んできます。特に、際だった特徴を持つ文体などでデビューしてしまうとそうです。
 (宇野浩二の小説を読んだ時に、私はそんな事を考えたんですが、あの小説家も極めて特徴的な文体でデビューし、そして彼はそのこと自体と「格闘」しましたね。)

 で、そんな作家の後の経過ですが、その文体では書けないものがある事に、作家は次に気づきますね、必ず。そこで、フォームの改造をします。そしてその時期は、いずれそう遠くありません。
 しかしその前に、もう一度だけ、デビュー時の文体の力を計っておきたい。それが、この作品ですね。

 例えば、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』の前の『海の向こうで戦争が始まる』。
 例えば、村上春樹の『羊をめぐる冒険』の前の『1973年のピンボール』。
 いずれも、そんな文脈の中ででも読む事のできる作品だったと思います。

 さて、この筆者は、少し前に立て続けに話題作を発表なさっていたと思います。一つはインターネットをテーマにした作品で、もう一つは、私は寡聞にして内容すら知らないのですが、「ドゥマゴ文学賞」を受賞なさった作品がありましたね。
 存命中の純文学作家の面白いのは、「力作」から次の「力作」まで、たとえかなり長い雌伏期間を経ていても十分許されるところではないかと、私は思っています。

 現存純文学作家は死ぬまで「未完成」です。

 すべての現存純文学作家同様、いよいよ平野氏の文学の開花期の始まりなのか、それとも文体も含めてまだまだ迷走・雌伏期間なのか、全く予断を許さないのがとても面白いところですよね。

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紙の本近代日本人の発想の諸形式 他4篇

2011/02/05 10:11

マルチな才の文学者の実力

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 えーっと、この本は文芸評論ですかね。それとも日本文化論ですかね。
 文学作品や文学者を取り上げながら、タイトルのようなテーマを述べていらっしゃいます。
 しかしテーマもさることながら、私としては、例として取り上げられた文学作品や文学者の話がとっても面白かったです。

 さてこの本には、五つの評論文が収録されています。これです。

 『近代日本人の発想の諸形式』(昭和二十八年)
 『近代日本の作家の生活』(昭和二十八年)
 『近代日本の作家の創作方法』(昭和二十九年)
 『昭和文学の死滅したものと生きているもの』(昭和二十八年)
 『近代日本における「愛」の虚偽』(昭和三十三年)

 このうち、総題にもなっている一つ目の評論が最も長く、全体の分量のほぼ半分の長さを締めています。
 というより、実はこの一つ目の評論を、各パートに分けて小出しにしたのが残りの四つの文章という感じの構造になっています。そして私としては、「バラ売り」されたうちの、特に文学に関連した部分が、とても興味深かったです。

 例えば二つ目の評論ですが、ここには江戸末期から明治維新を経て、大体白樺派あたりに至るまでの作家たちの「生活」についてが書かれてあります。
 その時期ごとに様々な集団が主張する「文学的信条」とか「文体」に至るまでのこと、つまり普通「文学的な思弁」と思われているものが、実は極めて「形而下」的な事情や都合によって形成され主張されていったということが、手品の種明かしのように書いてあってとっても面白かったです。

 「形而下」的事情の一番手といえば、想像がつきますように、やはり「金銭」のことですね。経済問題は火急の用件であります。
 例えば江戸時代は、作家が原稿料だけで生活できるということはほとんど考えられなかったそうです。こんなふうに本文には書いてあります。

 「山東京伝は、銀座一丁目の東側で店を開いて売薬を営んだ。読書丸、小児無病丸などが彼の売った薬である。また彼は煙管や煙草入れなどを売った。銀座と言うと、その当時は場末であって、木賃宿や大衆食堂などの並んでいるような町であった。」

 江戸時代、作家の副業といえば伝統的に売薬業が有名であったそうですが、それ以外にも作家が実に様々なアルバイトをしていたかが書かれてあります。
 そしてそのような文人達の生活にも、明治維新は大きな変化をもたらしていきます。
 その変化こそが、実は各流派の文学的立場や主張を形作っていったのだと、以下書いてあるんですが、とっても面白そうでしょ? はい、とっても面白いんです。

 でもみんなを紹介できませんので、キーワードだけ書いておきますね。
 キーワードを結ぶ内容を想像してみてください。

  西洋文明紹介--新聞の誕生--鹿鳴館風俗の反動--
  文壇の形成(文壇徒弟制度の残存)--出版資本の成立--
  新進作家の登場--国家経済の発展--出版商業主義の隆盛--
  さらなる新人作家の発掘

 とまー、ここまでが、大体芥川などの「新思潮派」や武者小路・志賀などの「白樺派」の出現くらいまでの「形而下」的事情ですかね。
 何となく、このキーワードだけで、流れが分かりそうな気もしますね。
 ただ、この「形而下」的事情によって「言文一致運動」の担い手までが決定されていったと説く伊藤整の論理展開は、なかなかアクロバティックに面白いです。

 さて伊藤整といえば、そもそも詩人としてデビューした後、翻訳をしたり小説を発表し、ベストセラーも書きつつ、かつ裁判被告にまでなって、そしてさらに名著『小説の方法』では、日本文壇を「逃亡奴隷」と「仮面紳士」というふたつのキーワードを用いて、見事に解体説明しきった、極めてマルチな才を示した文学者であります。

 かつて私も、その名著を読んで大いに啓蒙されたのでありますが、今回取り上げた評論からも、そのカミソリの如き切れ味のよい分析と、一種対象を放り投げたようなクールで明晰な文体は十分に味わうことができ、私としては改めて、この亡くなって既に久しい文学者に、「フェイヴァレット」の信仰告白をするのでありました。

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紙の本夜叉ケ池・天守物語

2010/05/30 07:01

人間と妖怪の微妙な愛憎関係

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『ゲゲゲの鬼太郎』って、とっても面白いですね。
 何度もテレビアニメ化されたり、近年は実写で劇場映画化されたりもしていましたね。きっと根強い人気があるんですよね。

 そんなに深く入れ込んでいたわけでもありませんが、僕も割と古くからの鬼太郎ファンです。少年マガジンに『墓場の鬼太郎』というタイトルで連載していた頃から知っています。

 鬼太郎漫画の魅力はなんと言っても、バラエティー豊かな、次々と現れる妖怪の魅力でしょうか。
 日本人は妖怪が好きですね。
 でも、これって日本だけの現象なんでしょうかね。うーん、よくわかりませんが、そうだとしたら、それは日本の特殊な文化傾向なのか、それともずばり水木しげる作品の魅力ゆえなのか、こんなあたりも研究すればいろいろ面白いでしょうね。

 ともあれ、「人間は妖怪が好きですね」という言い方に変えた方がいいのかもしれませんが、とにかくそんな状況分析がある、と。(って、人ごとみたいに書きましたが、もちろんこれは僕が勝手にアバウトに状況分析したわけであります。)

 さて冒頭の二つの戯曲ですが、いやー、実に見事な戯曲であります。
 なるほど、かつて漱石が天才であるといい、芥川や志賀直哉や並みいる文豪がその魅力を大いに語ってやまない泉鏡花ですが、さすがに凄いですよねー。ト書きにまで気合いが入っていますよ。例えばこのト書き、クライマックスのシーンのものなんですが。

 学円  (沈思の後)うむ、打つな、お百合さんのために、打つな。
 晃   (鎌を上げ、はた、と切る。瞠と撞木落つ。)
途端にもの凄き響きあり。……地震だ。……山鳴だ。……夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。真暗な雲が出た、……と叫び呼わるほどこそあれ、閃電来り、瞬く間も歇まず。衆は立つ足もなくあわて惑う、牛あれて一蹴りに駈け散らして飛び行く。
 鉱蔵  鐘を、鐘を……
 嘉伝次 助けて下され、鐘を撞いて下されのう。
 宅膳  救わせたまえ。助けたまえ。    (『夜叉ヶ池』)

 二作品共に見られる絢爛豪華な音楽的な台詞回しが、まず見事であります。
 それに加え、『夜叉ヶ池』ならば、上記に引用したあたりがそうですが、大洪水の起こる場面のカタストロフィーの見事さ。
 まさに勧善懲悪、観劇の楽しさを存分に味わえる作りになっています。

 一方『天守物語』においては、ドラマツルギーが見事ですねぇ。
 舞台は姫路城の天守閣のみで、階下に起こる事件を天守の人物が実況報告しつつ物語が進んでいくという、なんか「飛び道具」のような展開は、いかにも舞台芸術の象徴性を見事に具現化した、小憎らしいばかりの作劇と演出になっています。

 さてそこに主人公となって現れるのが、二作品共に妖怪であります。
 いえ、厳密に言いますと、二作品の主人公の「姫」は、過去に人間によって無念の死を遂げさせられた女性が妖怪へと生まれ変わり、その恨みを晴らす(それも、そのきっかけはどちらも人間側の裏切りや非道にあって)、という形のものです。

 醜い人間世界と、美しく誇り高い妖怪世界というこの構図は、いったい何なのでしょうか。
 冒頭にふれました、妖怪好きの人間という分析とあわせ、ほんの覚え書き程度の事柄を最後に二つ、まとめておきたいと思います。

 ひとつは、妖怪と人間の力関係が、その分析には重要なのじゃないかということです。『天守物語』の時代設定は封建時代となっていますが、『夜叉ヶ池』は現代、つまりこの劇が書かれた大正期であります。
 この時代、妖怪は一般的に恐れられていた存在なのでしょうか。
 そんなことを考えると、その先には、明治の文明開化以前の古い日本からの、現代(明治・大正時代)を照射する文明批判的な光を読み取ることができそうな気がします。

 そしてもうひとつ、人はなぜ妖怪を愛するのかということですが、それは妖怪が、自然を我々が感情移入できるような形に擬人化したものであるからということです。
 だとすれば、妖怪とは、全く日本の八百万の神やギリシャの神々と相似形に重なる自然への親近感であり、さらに、妖怪への嗜好とは詰まるところ、流行りの環境問題なのではあるまいか、と。

 なるほど、時に煩瑣な環境問題の先に、例えば「一反木綿」が「ぬりかべ」が、そして『夜叉ヶ池』の「白雪姫」がいると考えると、何ともいえぬ親しみとリラックス=脱力感が感じられて、怠け者の僕なんかは、とってもうれしいんですがねー……。

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紙の本猫町 他十七篇

2010/05/15 06:46

さて、日本一の詩人の小説は。

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 朔太郎と猫といえば、もちろん『青猫』という日本文学史上五指に入るような詩集のタイトルがありますが、(そもそも猫は朔太郎に霊感を与える動物のようですが)『月に吠える』の「猫」の詩が僕にはとても印象的です。有名な詩なんでちょっと抜き出してみますね。

    猫

  まつくろけの猫が二匹
  なやましいよるの家根のうへで、
  ぴんとたてた尻尾のさきから、
  糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
  『おわあ、こんばんは』
  『おわあ、こんばんは』
  『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
  『おわああ、ここの家の主人は病気です』

 ……この家の主人は病気ですって、あんたが病気なんでしょうが、って初めて読んだときは思わずつっこみを入れてしまいました。

 特に『月に吠える』の詩はほとんどがそうですが、我々鑑賞者としては、そのままに読んでそのままに「すごがる」(って表現は、違反ですかね。ひたすらすごいナーと思い続けるって事ですが)しかないように、最近僕は思っています。

 もう少し若かった頃は、この凄さの秘密は一体どこにあるのかと、少しはあれこれ詩の解説文章なんかを読んでみましたが、(当たり前なのかどうかは知りませんが)結局言葉の置き換え以上に納得できたものはなかったです。

 そういうことで言いますと、詩の鑑賞を文字に表すというのは、絵画(例えば抽象画でも)とか音楽の鑑賞を文字に表すよりもっと難しいように思います。
 文字で描かれていない芸術の方が、返って文字媒体にした時に少しは掬い取れる物があるような気がします。

 文字媒体の芸術は、別の文字に置き換えたところで、その本物の表現より良くなりっこありません(良くなるんならその本物の芸術の出来が悪いんですよね)。

 そこで僕は数年前より、すごい詩を読んでは阿呆のように「すごいなーすごいなー」だけ言ってきました。「白痴読み」ですね。

 さて本短篇集は三つのパートから成り立っています。
 一部・小説、二部・散文詩あるいはアフォリズム、三部・随想、と、こういう構成です。

 こうして各パートの作品にとりあえず「レッテル」を張ってしまいましたが、そのように考えたらそんな気もする以上の意味は、実はありません。
 そもそも僕は「散文詩」というものがよくわかりません。
 そんなこと言っちゃうと「小説」と「詩」だって、その国境線はよくわからなくなってきます。
 (朔太郎は『詩の原理』の中で、「小説は文学に於ける詩の逆説である」と言っているそうですが、無知・不勉強で何のことかよくわかりません。)

 ただ本書の中では「散文詩」的な第二部に面白い話が多かったと僕は思いました。

 「自殺の恐ろしさ」自殺の恐ろしさとは、死へ向かってのその決行から、死の完成までの間の、ごく短いタイムラグの間に取り返しのつかない己の行動への後悔が出現することが恐ろしいのであるという、いかにも朔太郎的なオリジナリティと穿った発想が面白かったです。

 「詩人の死ぬや悲し」芥川とニーチェのエピソードが悲しくもどこか懐かしさを伴って哀切。詩人の、持って生まれた才能に対する存在論的な不幸を描いて余りあります。

 「虫」これこそ詩人による詩人自身の内面描写。「鉄筋コンクリート」という言葉の「謎」に取り憑かれた詩人を巧まぬユーモアを交えて描き出します。そして言葉の秘密を知った詩人の快哉。詩と美と言葉とそして狂気の、綱渡りのような緊迫感が実にスリリングで、読後、スポーツ観戦のような爽やかさが感じられます。

 とまぁ、細切れに書いてみました。
 第一部の「猫町」を中心とする小説は、芥川と宮沢賢治と梶井基次郎とそして江戸川乱歩を足して割ったような作品でしたが、小説としてみると、もう一歩展開に「キック」が足りないように思いました。
 だって筆者は小説家ではなく、しかし日本一の詩人なんですものね。

 ということで、私事ながら、詩の批評はやはりなかなかできるものではないなという感想に、もうしばらく落ち着きそうであります。

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