サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 釋眞弌さんのレビュー一覧

釋眞弌さんのレビュー一覧

投稿者:釋眞弌

5 件中 1 件~ 5 件を表示

現代のミリンダパンハ、真剣勝負の対話

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『ミリンダパンハ』では、ギリシア人であるメナンドロス王とインドのナーガセーナ比丘により、仏教教理に関する問答が交わされている。平凡社東洋文庫の邦訳では、『ミリンダ王の問い -インドとギリシアの対決-』 とサブタイトルが付けられているように、これはおそらく人類史上初の西洋と東洋の知的バトルであった。それから2000年の時を経て交わされたパーナドゥラ論戦(1873年にスリランカでなされたキリスト教と仏教の議論)に代表されるように、議論は常に真剣勝負であった。この点、最近のいわゆる「宗教間対話」など、あたりさわりのない話題での世間話、茶飲み話に過ぎない。

それで本書もまた、その類いのぬるま湯的対話かと思って、大した期待もなく読み始めたのだが、私の予想はうれしい方に外れた。ただ、議論の勝ち負けは問題にならない。それでも、取り上げられるテーマは多岐にわたり、かつ知的刺戟に満ちたものばかりである。本書の帯に山折哲雄氏による推薦のことばがあり、これが本書を手短に紹介するには都合が良いので引用する。

二人のすぐれたフランスの知性が奇蹟のような対話を交わした。
片や無宗教で哲学者の父、
片や分子生物学者の殻を脱ぎ捨てて出家しダライ・ラマの弟子になった子、
この稀有の親子が科学と仏教、世界と自己、西洋の精神と東洋の知恵について縦横無尽に議論の火花を散らし、驚くべき洞察の深みにわれわれを誘う。
いま西洋世界で最新のベストセラーになっているのも、むべなるかなだ。
大胆不敵な人間洞察の本書を、推薦する。(1998.9)

私自身はもともと哲学を志向していたし、どちらかというと父であるジャン=フランソワ・ルヴェルのような無神論に立場が近い。その一方で、子のマチウ・リカールは仏教者であるとはいえ、私は輪廻や中有(バルド)を実体的に認めるチベット仏教の教義には納得できない。だから、二人の対話を読みながら、どうしてもジャン=フランソワ・ルヴェルを応援してしまう。が、どちらが理路整然としているかといえば、マチウ・リカールの方である。

訳者の菊池氏によれば、フランスは今哲学ブームなのだそうだ。それも、生きる意味・生きる知恵を求めてのブームであるらしい。近代合理主義を最終段階にまで推し進めてきたヨーロッパの雄であるフランスが、キリスト教では満足できずに仏教を求めている、と聞けば、日本の仏教者のうちには「やはり近代合理主義ではダメなのです」と言い出す人が出てくるだろう。しかし、「人間の知恵ではだめなのです。必要とされるのは仏の智慧です」とか、「日本古来の伝統的信仰形態のよさを見直しましょう」とか、その程度のことを言っている仏教者は、マチウ・リカールの 「信仰は理性と対立する時は迷信となります」という警告をよくよく心得ておく必要がある。

本書は対話であるとはいえ決して読みやすくはない。とくに前半の形而上学に関する議論は難解である。しかし、他の何をさしおいても読む価値があると思う。

最後に、私たちが常に考え続けねばならぬ問題を、二人の対話から引用することで提起しておきたい。

(ジャン=フランソワ)私が思うに、知恵にかんする見方は二つに分けて考えるべきだ。来世や、死後の何か、永遠なるものを信じる見方と、死は存在の完全な消滅であって、その先はないという原則から出発する見方だ。私個人としては、二番目のほうを信じている。こちらの枠組みで言うと、知恵の探求はいつも頼りない、つかの間のもので、現在の生の限界の中でおこなわれる。この生は、人間の知っている唯一の生、実在していると思う唯一の生で、そこにはより高い次元の解決への期待はいっさいない。だから、いつも根本的な区別が立てられることになる。人生の意味の探究、いわば世俗的な意味合いをもった知恵の見方と、宗教的な意味合いをもった見方だ。
(マチウ)その区別は、あなたが言われるほど根本的だとは、私には思えません。いまかりに、この世の生の前と後に一連の生の状態があることを認めるとした場合、それらの異なる生の状態は、本質的に私たちの現在の生と同じ性質をもっています。ですから、この現在の生に意味を与える知恵が見つかるなら、その同じ知恵が私たちの未来の生にも意味を与えることになります。こうして、認識、精神的完成は、人生のどの瞬間にも通用します。この人生が長くとも、短くとも、それが一回だけでも、何回あるとしても、変わりません。生に意味が見つかったなら、その意味を活かすのに、死を待つ必要はありません。(P.344)

この問題をめぐるやりとりはまだ続くのであるが、この「人生の意味の探究」が本書を貫くキーワードである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

人間理性への信頼こそ仏教の土台

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本で出版されているチベット仏教関連の本は、単なる外形的知識の紹介か、でなければ専門書がほとんどで、その本質をつかむのに適した本が少ないのが実情である。もっとも、チベット仏教は相当に難解で、顕教は中観派哲学を継承し、更にその上に密教が構築されているので、複雑極まる様相を呈している。

いっぽう、チベット仏教は、日本ではかつて「ラマ教」と呼ばれて、大乗仏教の亜種くらいの扱いしか受けていなかった時期がある。『チベット死者の書』により、日本でも徐々にチベット仏教に関心が持たれるようになったとはいえ、どちらかといえばエキゾチックな関心ではなかっただろうか。そもそもこれは主流派のゲルク派の書ではない。

ところが、今や世界中を見渡してみると、最も注目を集めているのはチベット仏教、次いでテーラワーダ仏教であり、禅仏教はかつてほどの勢いはないようだ。チベット仏教の盛況の理由は、チベット仏教そのものが持つ理論的性格にくわえ、なんといってもダライ・ラマ14世の活躍ぶりにある。上田紀之氏によれば、次の三点が指摘されうる。(以下、引用は『増補 チベット密教』(ちくま学芸文庫)解説文による)

「(ダライ・ラマ14世との対談を通じて)驚かされたのは、その徹底した論理的思考であった。チベット仏教は、その教理も論理的に構築され、修行においても僧侶同士の問答を重視する、きわめて論理的なものなのである。さらに、それは明晰な論理でありながら、慈悲-「愛と思いやり」の実践に常に支えられた、大きな温かさに満ちたものであった。
ダライ・ラマは常々、密教を学ぶためには、その前に上座部の経典を、そして大乗教典を徹底的に学び、その後に初めて密教に進んでいくという、三段階の学習の階梯を強調するが、それはゲルク派の宗祖ツォンカパの主張そのものであり、顕教と密教の統合を重んじる、バランスのとれた見方を提示している。
(中国政府による弾圧により)チベット仏教は国境を越え、教理的にもより現代性を強めて、世界仏教化することになった。チベットという閉じた世界の中で、それを伝統として保持する内部の人間にのみ理解可能であればよかったチベット仏教には、1959年のダライ・ラマのチベット脱出と亡命政府の樹立のあと、外部の人々に自らを説明する必要性が求められることになる。そもそも論理的なチベット仏教とはいえ、それを世界に通用するものとして提示することは容易なことではない。それを可能にしたのは、ダライ・ラマ14世の類い稀な「編集能力」であった。」

こういうわけで、それまでツォンカパの著作をどうしても読破しきれなかった私は、ダライ・ラマ14世の著作を読むことにしたのであった。その中でもいちばん読みやすいのは、(講演録だから当然ではあるが)本書『未来への希望』である。本書のもとになったのは、2007年に来日した折の講演6本である。講演のはじめにはナーガールジュナ(龍樹)の帰敬偈が唱えられる。このことからしても、ダライ・ラマ14世がいかに中観派の空の思想を重要視しているかが分かる。

『未来への希望』という書名は、ダライ・ラマ14世の世界観と人間観を端的に表しているようだ。20世紀という時代がどうであったのか。私は大谷派の僧侶であるが、大谷派の研修会では必ずといっていいほど、「近代的知性の闇」「人間性の喪失」が語られる。「人間の知性ではもはやダメなんです」というわけである。しかし、ダライ・ラマ14世は言う、「一世紀の間に、実に多くの悲惨な出来事が起こったにもかかわらず、一般的には、人間はより成熟してきたのです。ですから、世界はより良くなっていると私は思いますし、これを理由に、未来への望みがあると言えるのです」と。私はダライ・ラマ14世の意見に賛成だし、何よりも温かみを感じる。自らは厳しい苦難にさらされながら、冷静に現実を把握している人の発言には重みがある。

私はチベット仏教を信奉するものではない。とりわけ、その中有(バルド)論=実体的輪廻転生説にはどうしても納得できないし、無上ヨーガタントラが導入されねばならぬ必要性もまったく理解できない。しかしながら、納得できない・理解できないことは多々あるにせよ、ダライ・ラマ14世の仏教の本質的部分にはあまり関係ないように思われる。本質とは、知恵(智慧、空・縁起の理解)と慈悲(利他行の実践)、である。人間がドグマに従属するのではなく、人間のために仏教がある。私がダライ・ラマ14世に教えられたのはかくの如くである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本寛容論

2013/10/19 14:36

私たちは寛容か?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

カラス事件を契機として、フランスカトリックの狂信的態度を徹底的に批判している。私も本書ではじめて知り得たのだが、かくも残酷な虐殺がまかり通っていた事に驚きを禁じ得ない。ヴォルテール自身は理神論者であり、その立場からの透徹した批判精神は当代随一であったろうが、今日的基準からすれば不徹底な部分も否めない。さて、今日の社会は「寛容」が当然の事となっているだろうか?事態は少しは改善されたようだが、あくまでも「少し」に過ぎないのではないか。まだまだ不寛容な精神が世の中に渦巻いているように思われる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

アヴァダーナとしての無量寿経

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本巻のうち、第3章「『無量寿経』の性格」は、この経を仏教当初からの文学形式の一つアヴァダーナ(過去世物語)とおさえることにより、阿弥陀仏=浄土教信仰を仏教の必然的展開ととらえるものである。従来、浄土教の発生をミトラ教やゾロアスター教の影響によると理解する説、あるいは浄土往生を在家に対する生天思想の発展形と理解する説が有力であった。もちろん無関係とはいえないにしても、前田博士の論は、浄土教理解に新機軸をもたらすものといえる。『無量寿経』作者は、これを釈尊に仮託しつつも、衆生済度のためにどのような作品を創作し、しかもその作品に経典としての権威を保たせようとしたと、テキストを分析しながら結論づけているが、説得力がある。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本アメリカを占拠せよ!

2013/10/18 15:47

知の巨人による社会変革への励まし

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「文化論における巨魁」「世界最高の論客」「現代言語学の父」等々と評されるチョムスキーによる、オキュパイ運動に関する講演およびインタビューの記録である。齢84にして、このようなエネルギッシュな活動を可能にする源泉はなんだろうか。彼の幼い頃の大恐慌時代の思い出について示唆するくだりがあるが、アメリカという国は、日本人の私たちが想像するような民主主義の国ではないことがよく分かる。この国の実態について知れば知るほど、9.11がアメリカ当局による自作自演であるとの説が、あながち荒唐無稽ではないような気がしてくる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

5 件中 1 件~ 5 件を表示