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  3. yjisanさんのレビュー一覧

yjisanさんのレビュー一覧

投稿者:yjisan

87 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本日本中枢の崩壊

2011/07/12 15:39

改革派官僚の信念が迸る憂国の書

22人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の古賀茂明氏は経産省きっての改革官僚である。通産省産業政策局総務課産業組織政策室長時代には橋本龍太郎大臣を動かし独禁法の改正にこぎつけ、OECD事務局に出向した際には「発送電分離」の勧告をOECDに出させ、産業政策局取引信用課長に就任すると警察庁・法務省を手玉に取ってクレジットカード偽造を取り締まるための刑法改正を実現させた。

福田政権下では渡辺喜美行政改革担当大臣の推薦を受けて国家公務員制度改革推進本部事務局の審議官に就任し、急進的な公務員制度改革案の策定に取り組み、「霞が関全体を敵に回した男」となった。しかし民主党政権が誕生すると、霞が関の圧力に屈した仙谷由人行政刷新担当大臣(当時)の判断で国家公務員制度改革推進本部事務局を追われ、「経済産業省大臣官房付」という閑職に回された。民主党政権下で自らが手がけた公務員制度改革が次第に後退していくのを見て危機感と焦燥感を抱いた著者は、改革の推進を訴える論文を次々と発表する。

そして著者はついに2010年10月15日の参院予算委員会にみんなの党の参考人として出席、菅政権の「天下り根絶」対策が有名無実であることを指摘したところ、仙谷由人官房長官から「古賀さんの上司として一言先ほどのお話に私から話をさせていただきます…こういうやり方ははなはだ彼の将来を傷つけると思います」との「恫喝」を受けた。


官邸と霞が関を完全に怒らせてしまった著者の役人人生は、今や風前の灯火、「今年の7月15日をもって退職するように」と退職勧奨(肩たたき)すら受けている。それでも著者は自分の信念を決して枉げない。なぜなら財政破綻と経済崩壊が目前に迫った日本を立て直すには、改革の迅速な実行以外にないと確信しているからだ。本書は、腐敗の極みにある霞が関という最大の「抵抗勢力」を相手に孤軍奮闘してきた改革派官僚の戦いの記録であり、また日本再生のための手引き書でもある。更に東日本大震災を受けて、急遽、政府の福島原発事故への対応の評価と東電改革案を追加している。


ただし、著者が示す「日本中枢」の病根と処方箋は、さほど斬新なものではない。凡庸ではないが、ごくごく真っ当なものである(その意味で、本書の帯に書かれた「日本の裏支配者が誰か教えよう」という暴露本的な宣伝文句は大袈裟すぎて、本書のオーソドックスな内容とのギャップを感じる)。たとえば公務員のキャリア制度には法的根拠はなく単なる慣行にすぎないとか、日本国憲法は総理の各省大臣に対する主導権を認めているが各省の役人が所轄の大臣を操り総理の主導権を空洞化しているといった指摘は、政治学者の飯尾潤氏が『日本の統治構造――官僚内閣制から議院内閣制へ』で既に指摘している。TPP推進やゾンビ企業の淘汰が必要という主張は、竹中平蔵氏ら所謂「構造改革派」のそれと基本的に同一だ。「ガラパゴス化」や民主党政権が進める海外インフラビジネスの落とし穴についても経済評論家がしばしば言及している。そして霞が関はマスコミや学者たちに「縦割り行政」「省益あって国益なし」と常々批判されており、「官僚主導」を改めるべきとの認識は国民に広く共有されている。人によっては「何を今更」と感じることだろう。
さすがに著者が最も力を入れている公務員制度改革に関しては、「省庁の幹部は最低5年間は民間に出た人にする」「中央省庁の部長級以上は任期制」「給与は50歳以降は逓減」「役職定年制の導入」「局長・部長・課長の入れ替え制」など、かなり踏み込んだメニューが目立つが、降格人事を可能にし民間から幹部を登用すべしという程度のプランならば多くの論者が提唱している。

実のところ、日本政治の問題点とその解決策は、一定の知識を持っている人々にとっては自明のことである。著者言うところの「官(官僚)・農(農家)・高(高齢者)・小(中小企業経営者)」という過剰に“保護”された特権階級の既得権益を剥奪し、自由で公正な競争社会を作ると共に、“本当の”弱者のためのセーフティネットを構築する。極めてシンプルな話である。奇策は必要ないのだ。


改革のアイディアを提示することは難しくない。本当に難しいのは、改革を現実に遂行することだ。官僚の抵抗を排して実効性のある改革法案を実際に策定し、それを通すことが至難の業なのだ。その証拠に、「脱官僚」「政治主導」を標榜して政権の座に就いた民主党も、結局は霞が関に取り込まれてしまった。彼等とて最初から官僚の言いなりになるつもりはなかっただろう。だが官僚は利権を維持拡大するために、巧妙に大臣を言いくるめ、改革に協力すると見せかけて改革を骨抜きにし、本気で改革を推進しようとする政治家を追い落とす。だから改革を実現しようとしたら、官僚の手練手管を見破り、騙されないことが必須だ。
その点で、現役官僚によって著された本書は非常に有益なものと言える。天下り規制を謳った「退職管理基本方針」が事実上の天下り拡大方針であるということなど、普通の人がパッと見ただけでは絶対に分からないだろう。官僚の姑息な“手口”を熟知している著者だからこそ、美名に覆い隠された陰謀を見抜くことができるのだ。入省以来30年間、守旧派官僚と激闘を繰り広げてきた当事者の口をついて出る「改革」という言葉には、外野の“安全地帯”から評論家的に語られる「改革」とは異なり、非常な重みがある。


本書を読んでいると「ここまで官僚は劣化しているのか」と暗澹たる気持ちになる。しかも著者は「日本を変えるのは総理のリーダーシップだけ」と結論づけており、リーダー不在の政界を思い返して、絶望したくなる。だが警世の書である本書が20万部のベストセラーになっているという事実は、一筋の光明である。著者はリーダーの条件として、発言にぶれがなく一貫性があること、国民から公平であるという信頼感を持たれること、地位にこだわらないこと、の3つを挙げている。悠々自適の生活が保障される天下りポストを蹴って、経産省はおろか霞が関全体から敵視されても持論を譲らない剛直な著者は、まさしく上記の3条件を備えていると思う。

著者は真の「政治主導」を実現するため、総理直結の国家戦略スタッフの創設を提案しているが(改革推進本部時代に国家公務員法改正案に盛り込んだものの民主党の反対で廃案)、著者が経産省をクビにならずにリーダーシップのある“新”総理の下で働くようになれば、日本は確実に変わるだろう。

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紙の本アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

2010/01/07 02:37

人間は他人を傷つける。しかし愛することもできる。

19人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 第3次世界大戦後、放射能灰に汚染された地球。そこでは生きている動物を所有することが地位の象徴となっていた。人工の羊しか持っていない賞金稼ぎリックは、「本物」の羊を手に入れるため、火星から逃亡してきた<奴隷>アンドロイド6体の首にかけられた莫大な懸賞金を狙って、命がけの狩りを始めた!・・・と、粗筋だけ書くと、何やら安っぽいアクションSFのようになってしまう。それが本作である。
 
 映画『ブレードランナー』の原作として有名な作品。相変わらずディック節が爆発していて、読みにくいことこの上ない(ディック作品の中ではマイルドな部類に属するが)。先行SFで使い古された陳腐な小道具。あまりにも嘘っぽく、作り物めいた作品世界。物語の論理的整合性を無視した、勝手気ままで強引な展開。話をまとめることを拒否するかのような、突き放した結末。だが、ディックにプロットの巧みさを求めるのは間違っている。
 ディックの真骨頂はグロテスクな世界が生み出す不気味な迫力と、作品の思索性にあるのだ。「ディックの描く未来世界は我々自身の世界の歪んだ鏡像だ」と言われる所以である。


 本作では外面では見分けのつかない人間とアンドロイドとの識別に感情移入度テストが用いられている。アンドロイドは他者の喜びや痛みに共感することできず、それゆえに残虐であり、自分の生存のためには仲間も平気で裏切る、と言われてきた。しかし感情移入度テストでは判別できないアンドロイドも出てきてしまう。
 
 人間だと思ったらアンドロイドで、アンドロイドだと思ったら人間。そんな経験を続けるうちに、「人類社会の敵」として何の躊躇いもなく逃亡アンドロイドを殺戮してきた主人公リックは、次第に標的アンドロイドに同情し始め、重大な疑問に直面する。自分たち人間と彼らアンドロイドはどこが違うのか?
 
 人間よりも人間らしいアンドロイドがいる。一方でアンドロイドのように無慈悲な人間もいる。アンドロイドであるというだけで、「社会への脅威」として虐殺することは果たして正しいことなのか? 自分の仕事は、この社会は何か間違っていないか? リックはアンドロイド狩りに疑念を持ち始め、あまつさえ自分に協力するアンドロイドを愛してしまうのだ。そんな葛藤の中、リックは……
 
 ここに至っては、神の創造物として自然に生まれてきたか、人工物として造られたかは、本質的な問題ではなくなる。感情移入できれば人間、できなければアンドロイド。逆に言えば、人間して生まれてきたとしても、感情移入能力がない者は真の意味で「人間」とは言えないということである。真の対立軸は人間/アンドロイドではなく、人間性(親切=善)/アンドロイド性(冷酷=悪)なのだ。

 ハインラインやアシモフの作品のような、「よくできたお話」が好きな人には向かないことは確かである。しかし、ぜひ避けずに読んでほしいと思う。それだけの価値がある本であることは間違いない。現実の不条理性と怪物性を縦糸に、人間性を横糸にして織りなす、思索の世界が待っている。

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紙の本虐殺器官

2011/02/20 22:46

いま、ここにある地獄

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 イスラム原理主義テロリストの手作り核爆弾によってサラエボがクレーターと化した近未来。先進諸国ではテロ防止を理由に、人や物の流れをITによって徹底的に管理・追跡する監視体制が構築されていた。今やピザを注文するにも、指紋による個人認証が必要なのだ。その甲斐あってか、先進国ではテロが一掃されたが、その一方で途上国においては、内戦や民族浄化による大規模虐殺が激増していた。

 覇権国家たるアメリカ合衆国は、世界で頻発する大量殺戮に対処すべく、虐殺を指揮している武装勢力の指導者たちを暗殺するための部隊を設立した。それが情報軍特殊検索群i分遣隊だ。彼等は特殊なテクノロジーとカウンセリングのおかげで、感情に左右されることなく冷静に任務を遂行することができる、殺しのプロフェッショナルだ。

 この組織に属するクラヴィス・シェパード大尉は、任務のために世界各地の紛争地域に潜入するうちに、それら全ての虐殺に、謎のアメリカ人、ジョン・ポールが関わっていることを知る。彼はどのようにして虐殺を引き起こしているのか? そして彼の目的はいったい何か? シェパードは虐殺の連鎖を終わらせるため、ジョン・ポールの暗殺に向かう・・・・・・


 現実逃避的なファンタジー作品が氾濫する当今、ここまで徹底して「いま、ここ」に拘った硬質なSFも珍しい。

 作者自らが語ったように「ちょっとだけ未来」を緻密に構築しており、その迫真性は類を見ない。グローバル経済、国際テロリズム、監視社会、特殊部隊、民間軍事会社、国際PR会社、少年兵、新植民地主義・・・・・・本作で描かれる悪夢の近未来世界は、私たちの世界の延長線上に、極めてリアルに存在しているのである。
 それでいて現在の世界情勢を表面的になぞった単なる国際軍事サスペンスではなく、これらの事象を素材に、進化心理学など現代の科学的知見をスパイスとして加え、「自我」や「良心」「実存」といった哲学的な領域にまで主題を掘り下げている。


 戦争小説であるにもかかわらず、一人称のナイーヴな語りという叙述形式を採った点は斬新。作中世界では「戦闘適応感情調整」という〈画期的な〉テクノロジーが生み出されており、作戦行動用にこの調整を施された主人公は、任務のためなら子供であっても何ら躊躇うことなく撃ち殺すことができる。任務終了後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされることもない。
 自己の責任の下に人を殺したという実感を持たない(持てない)主人公は、「罪と罰」を引き受けないが故に、決して成熟しない。内省的でありながら、どこか他人事のような主人公の淡々とした語り口は、悪魔的なテクノロジーの産物なのだ。スペクタクル的な爽快感もなく、悲劇を殊更に強調する反戦色もない、一見無機質で理知的で、それでいて恐怖と緊張と狂気に溢れた、奇妙な戦争アクションである。

 内容と文体とのギャップは作者が最初から意図したものであるという。この巧妙な構成によって、世界の不条理がより露わになったと思う。本作の異質性に違和感を抱くとしたら、それはそのまま、私たちの世界に対する違和感なのである。

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紙の本偽書「東日流外三郡誌」事件

2010/06/04 00:40

真相追究の果てに残された課題と謎

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本列島最北部の寒村、青森県五所川原市飯詰地区に住む和田喜八郎が自宅を改築した際に「天井裏から落ちてきた」門外不出の秘本、との触れ込みで1970年代に忽然と人々の前に姿を現した『東日流外三郡誌』。寛政~文政年間に安東一族に関する歴史と伝承を蒐集した秋田孝季と和田長三郎吉次(和田喜八郎の直接の先祖)によって編纂されたというその大部な歴史書には、倭国(日本国)に滅ぼされるまで津軽地方で繁栄を謳歌した幻の古代東北王朝・荒覇吐王国の歴史が記されていた。

 和田がこの文書群の複写を津軽安東氏ゆかりの地である青森県北津軽郡市浦村に提供し(無償ではなく高額の複写料を取っている)、市浦村は1975年(昭和50年)に刊行した『市浦村史資料編』の中に『東日流外三郡誌』を収録した。
 公的機関のお墨付きとオカルトブームを追い風に、『東日流外三郡誌』は〈勝者である日本国の正史から抹殺・隠蔽された真実の歴史を語る超一級資料〉と全国的に話題を呼び、マスコミで大々的に報じられ、関連書籍も山のように出版された。あのオウム真理教にも影響を与えたという。
 しかし1992年に提起された「自分の著作物が和田に盗作された」という1件の民事訴訟をきっかけに、文書の真贋をめぐって大論争が巻き起こった。江戸時代に書かれたはずなのに近代以降に出版された本からの盗用疑惑が持ち上がるなど、次々と浮かび上がる『東日流外三郡誌』の不審点。内容や語法・文法の分析の結果、『東日流外三郡誌』を昭和中期以降に創作された偽書と推定した「偽書派」は、筆跡鑑定や誤字の特徴も踏まえて偽作の「犯人」を「発見者」である和田喜八郎と特定した・・・!!


 本書は、この戦後最大の偽書事件を最初から最後まで執拗に追いかけた地元新聞記者が、自らの取材記録を基に事件の全容をドキュメント形式で綴ったノンフィクションである。関係者への丹念な取材によって和田の嘘を1つ1つ暴いていき、天才詐欺師・和田の偽造と演出の全手口を白日の下にさらけ出す展開は臨場感たっぷりで、まさに「なまじの推理小説よりもはるかに面白い」(立花隆談)と言えよう。新聞記者だけあって真贋論争の複雑な内容を平易な語り口で説明してくれるので、畳みかけるような文体の妙もあって、純粋な読み物としても楽しめる。戦前の著名な偽書「竹内文書」との意外な接点など、皮肉たっぷりの和田批判にはニヤリとさせられる。


 しかし本書の射程は「犯人のトリックを明らかにする」に留まっていない。和田が作成した『東日流外三郡誌』は、和田の近所の住民ですら「少し歴史の知識のある人なら、おかしいと思う内容です。逆に、あまりにお粗末すぎるために、だれも取り合わなかったのかもしれません」(本書66頁)と評する程度の稚拙な偽書であった。
 にもかかわらず何故、多くの著名な知識人や大手マスコミまで騙される戦後最大の偽書騒動へと発展したのか。筆者はその背景を丁寧に炙り出す。金銭欲と功名心に煽られた支援者たち、村おこしを目論む地元有力者、前例主義と横並び意識に凝り固まった周辺自治体、「謎の古文書」という甘美な響きに幻惑された郷土史家、売れれば良いという無責任な商業主義に走ったマスコミ・出版関係者、自らの政治的・思想的な主張の裏付けに利用した新左翼、地域的コンプレックスから「自分たちにはかつて栄光の歴史があった」(事件発生当初は三内丸山遺跡は見つかっていなかった)と信じたかった東北の人々・・・・・・その殆どに積極的な悪意はなかった。けれども彼等はこの滑稽かつ深刻な騒動に翻弄され、ある者は被害者に、またある者は結果的に和田の協力者となったのである。
 いやむしろ、彼等は被害者であると同時に加害者であったと言えよう。


 だが日本史を専攻する研究者の端くれとしては、アカデミズムの「不作為の罪」については重く受け止めざるを得ない。本書には『東日流外三郡誌』をはじめとする和田の数々の「作品」の写真が掲載されているが、私のような駆け出しの研究者でも、一見して怪しいと分かる代物ばかりである。学界関係者の殆どが「触れるに値しない」(本書347頁)と判断したのは無理のないことであろう。
 しかし「あれは素人が騒いでいるだけ。学界の人間は誰も信じていないのだから問題ない」と沈黙してしまったのは、如何にも残念だ。性質の違う本だから一概には比較できないが、学界が「つくる会」の教科書を「荒唐無稽」と徹底批判した時の10分の1、いや100分の1のエネルギーでも投入していれば、この問題は早期に収束していたかもしれないのだ。
 これでは世間から「象牙の塔」と批判されても仕方ないのではなかろうか。自省を込めつつ。


 それにしても神社まで自分ででっちあげてしまった(石塔山荒覇吐神社の神官を称した)和田の偽作への執念には恐れ入る。『東日流外三郡誌』公刊後も和田家では次から次へと古文書が「新発見」されたため、『東日流外三郡誌』を含む「和田家文書」の総数は最終的に4817冊に及んだという。個人による偽書作成としてはギネス級の分量ではなかろうか。
 偽作の動機としては、金銭欲や名誉欲、果ては東北人特有の「中央」に対する怨念まで指摘されているが、和田は自分に批判的な者の取材には決して応じぬまま亡くなってしまったため、真相は分からない。虚言癖の愉快犯にも見えるし、嘘をつき続けている内にそれが真実であるという自己暗示にかかってしまった狂気の老人と解することも可能であろう。いずれにせよ、20代から古文書・古物の偽作に手を染めていたという、この怪物じみた希代のトリックスターの生涯は、奇怪な偽書事件と共に、長く語り継がれることだろう。

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紙の本硫黄島栗林中将の最期

2010/09/12 01:57

死者の声なき声に耳を傾けるということ

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小笠原兵団長・栗林忠道中将(大本営は訣別電報を受けて栗林を大将へ昇進させたが、栗林本人にそのことを知る術はなかった)は硫黄島でどのような最期を遂げたのか。妻子を内地に残して硫黄島に渡り小隊長として部下を率いた30代の召集将校たちの苦悩とは。オリンピックの英雄としての奔放な言動で知られるバロン西中佐(戦死後に大佐に特進)の、家庭人としての知られざる素顔。栗林の派遣参謀として父島に着任した堀江芳孝少佐の生涯の心の傷となった「父島人肉事件」の真相。皇室バッシングによって心因性の失語状態となられた美智子皇后が硫黄島慰霊訪問においてお声を取り戻すことができたのは何故か。

前著刊行後の取材と資料によって発掘された新事実を紹介する、『散るぞ悲しき』完結編。著者の初めての硫黄島渡島の思い出を綴った「わたしの硫黄島―あとがきに代えて」も感動的だ。



白眉はやはり第1章の「栗林忠道 その死の真相」であろう。栗林の最期については、最後の総攻撃の陣頭指揮をとった末の戦死(師団長クラスの将官が自決せずに突撃に参加するのは極めて異例)という見方が通説である。しかし硫黄島からの生還者の中には、栗林の死の瞬間を目撃した者がいないため、事実確定は困難であった。
そして近年、ノンフィクション作家の大野芳が雑誌『SAPIO』2006年10月25日号において、栗林がアメリカ軍に降伏しようとして部下に斬殺されたという異説(「栗林中将の『死の真相』異聞」)を発表した。著者はこの大野説を詳細に検討する。大野説の論拠は、防衛庁編纂の『硫黄島作戦について』(昭和37年)に収録された堀江芳孝元少佐の証言である。

著者は堀江証言について、
○堀江は栗林の幕僚ではあったが、硫黄島戦当時は父島を任地としており、栗林の最期を直接見たわけではない。伝聞情報にすぎない。
○堀江は防衛庁防衛研修所戦史室の聞き取り調査(昭和36年)以後にも、(平成に入ってからも)栗林投降説をしばしば語っているが、情報源に関する説明が二転三転している。
○堀江が情報源として掲げた証言や資料は確認されていない(証言者とされた人物が「そんなことを堀江に言った覚えはない」と完全否定、など)。
といった点から、その信憑性を否定する。

また堀江が投降説と共に述べた、“栗林中将は米軍上陸後1週間くらいでノイローゼとなり、高石参謀長、中根参謀、海軍の市丸参謀らが代わりに指揮を取った。訣別電報も中根参謀が書いた”という証言に関しても、
○栗林は玉砕からおよそ20日前の3月7日、長文の戦訓電報を東京に発して、大本営の方針を痛烈に批判している。
○戦訓電報が栗林の陸大時代の教官である蓮沼蕃侍従武官長宛てとなっている。
といった事実に注目し、参謀の代筆ではなく栗林本人が戦訓電報を書いている点から見て、栗林が硫黄島戦の最終局面に至るまで司令官としての役割を果たしていたことを論証している。


著者は、昭和27年2月1日付の毎日新聞に掲載された「栗林が8月15日に2名の幕僚と共に白旗を掲げて米軍に投降してきた」という米軍将校の証言(栗林の後任として第109師団長となった父島の立花芳夫中将の降伏と混同したもの)を紹介したコラムを基に、堀江が証言を捏造した可能性を指摘している。捏造の動機としては、日本の敗戦を見通した結果、戦うことを諦めてしまった堀江の、軍人として名誉の死を遂げた栗林に対する負い目や嫉妬が想定できよう。第4章「父島人肉事件の封印を解く」で明らかにされているように、軍人としての死に場所を得られなかった堀江の“戦後”は決して幸福なものではなかった。

降伏証言が創作され、それがある程度の広がりを持って信じられるようになった(何と現役の自衛官の中にすら信じた人がいる)社会的背景として、著者は戦後的価値観の浸透を挙げている。
昭和27年頃になると、あの戦争は間違いだった、駆り出された兵士達は犬死だった、という言説が盛んになり、その結果「どうして栗林中将は投降して部下たちの生命を救ってくれなかったのか」という怨嗟と、「兵士思いだった栗林中将なら投降を考えたこともあったかもしれない」という期待とがない交ぜになった空気の中で、降伏伝説が生まれたのではないか、というのだ。


現実の栗林は単なるヒューマニストではなく、一兵卒にも親身に声をかける一方で「最後の一兵となっても(投降せずに)ゲリラによって敵を苦しめよ」「負傷しても捕虜とならず敵と刺し違えよ」と部下に命令する峻厳な軍人であった。降伏を絶対に許さない栗林の非情さを、人命尊重第一という現代の価値観によって指弾するのはたやすい。だが硫黄島が米軍の手に落ちれば本土が空襲を受け、多くの民間人が犠牲になるであろうことを、栗林は知っていた。大本営に対米和平を進言しても容れられなかった栗林には、どんなに戦死者を出そうとも、徹底抗戦してアメリカ国民の厭戦気分を喚起する以外の方法はなかったのである。栗林は戦略的・戦術的制約の多い中、現地の最高指揮官として最善を尽くしたと言えよう。

著者は言う。「現代の私たちの感覚で戦場を語ろうとするとき、多くのものがこぼれ落ちてしまうことを忘れてはならない」と。「英霊」やら「無駄死」やらと、彼等の死に手前勝手な“意味”を付与するのではなく、死者の声なき声に謙虚に耳を傾け、ひたすらに善かれと祈ること。それこそが平和な戦後日本に生まれた我々の責務ではないだろうか。


栗林の有名な辞世の句がある。

国の為 重きつとめを 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

これに対し平成6年の硫黄島訪問時の天皇陛下の御製は、

精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

そして皇后陛下の御歌は、

銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき


著者は御製と御歌を、「四十九年の時をへだてた、栗林への返歌」と評した。日本国のために死んでいった兵士たちの“悲しみ”にそっと寄り添う両陛下の佇まいは、まさしく理想的な「慰霊」のあり方だと、僭越ながら思うのである。

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庶民の哀歓が、湯気のように立ち上る

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作は2009年秋に小林薫主演でドラマ化され、深夜ドラマとしては異例のギャラクシー賞を授賞した。そんな同作の新シリーズ(第2部)の制作が決まり、今年の10月からTBS・MBSで放送されるという。


新宿歌舞伎町の外れに午前0時~7時の間だけ営業する店がある。
のれんには単に「めしや」と書かれているが、常連客からは「深夜食堂」と呼ばれている。
顔にキズのある、いろいろ過去がありそうな朴訥なマスターが経営していて、
正規の「お品書き」は豚汁定食のみ。
しかし客が注文する料理は、材料があれば、だいたい作ってくれる。

場所柄もあって、やってくる客はヤクザやストリッパー、ホステス、オカマ、AV男優など如何にも訳ありげな人たちが多い。他にも落語家や大学教授も常連と、なかなかに多士済々。彼等はそれぞれ思い出のメニュー、好物の料理を注文する。そして、ある時には、その食べ物にまつわる思い出話をポツリポツリと語り出し、またある時には、その注文をきっかけに、ちょっとしたドラマが始まるのだ・・・・・・



登場するのはタコさんウィンナーやバターライスなど、技巧を凝らした「究極の料理」とは程遠い、他愛もない料理ばかりなのだが、これが妙に美味そうで、無性に食べたくなるのだ。そして、その料理に絡んで進行する人間ドラマも地味でありがちなものだが、これまた妙に味わい深い。凡庸な料理に凡庸なドラマ。しかし、そこにこそ庶民のつつましくもささやかな人生の喜びが染み込んでいるのだ。



深夜食堂は現代人の心を癒すユートピア。「実在するなら、絶対に通い詰める」と思わせる温もりがある。

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東日本大震災という「自然との戦争」で再び露呈した日本型組織の欠陥

11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

池田信夫氏が福島原発事故との絡みで本書を紹介したこともあって、この古典的名著の売れ行きが最近、急激に伸びているらしい。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51692957.html
(この文庫版はネット書店では、現在売り切れになっているようだ)



本書はノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦という、日本軍の著名な失敗作戦を主要な事例として、(日米の物量差ではなく)日本軍の組織的欠陥というアプローチから日本の敗因を分析したもの。戦史研究と組織論を組み合わせた点が斬新であり、軍事組織に限らず全ての組織が心得ておくべき普遍的な教訓を導き出している。


第1章「失敗の事例研究」における個々の作戦の検証も具体的かつ詳細で勉強になるが、やはり圧巻は、第1章での個別検討を踏まえた第2章「失敗の本質」以降であろう。第2章では6つのケースから共通して見られる作戦の性格から、日本軍の組織文化を浮き彫りにする。

すなわち「戦略上の失敗要因分析」として、
・あいまいな戦略目的(作戦に二重の目的が与えられたりするため、中央の意思が現場に十分に伝わらず、作戦の遂行に際して混乱が生じる)
・短期決戦の戦略志向(当初のシナリオが破綻し戦闘・戦争が長期化した場合を想定していないため、その場しのぎの近視眼的作戦ばかりが立案され、戦力の逐次投入という最悪の結果を招く)
・主観的で「帰納的」な戦略策定(科学的検討ではなく情緒や空気によって作戦が決定されるため、楽観論に傾き人情論・精神論に陥りがち)
・狭くて進化のない戦略オプション(奇襲戦法一本槍で、前線部隊の勇気・技量に依存しているため、現場に過重な負担がかかる。また情勢が変化した場合、初期作戦が失敗した場合の計画変更ができない)
・アンバランスな戦闘技術体系(零戦や戦艦大和に見られるように、一点豪華主義の上、その操作に名人芸が要求される特殊な兵器を好んで開発し、標準化による大量生産を軽視)
の5点を、

「組織上の失敗要因分析」として、
・人的ネットワーク偏重の組織構造(硬直的な年功序列型人事、人間関係や情実に左右される集団主義的意思決定のため、人的資源が効率的に配分されない上、公式の命令系統が重視されず、意思決定が不透明かつ不合理で時間ばかりかかる)
・属人的な組織の統合(縦割りで連携が取りにくく、組織間の調整は個人が制度に依拠せずに行うので、原理・原則を欠いた組織運営を助長し作戦の統一性・一貫性が失われる)
・学習を軽視した組織(失敗から学ばず、過去の成功体験に根差した教条的戦法を墨守したため、情報の収集・分析を怠り同じ失敗を何度も繰り返す)
・プロセスや動機を重視した評価(信賞必罰が貫徹されず、軍紀違反よりも敢闘精神が重んじられるため、無謀な突撃作戦が横行)
の4点を挙げている。


第3章「失敗の教訓」では、日本軍が環境に適応する形で極限まで効率化・特殊化した結果、いったん完成された形態を維持する力が強く働くようになり、外部環境が激変する中で自己革新に失敗したことが詳細に論じられる。歴史教育などの影響からか、一般的には日本軍は好戦的だったと思われているが、現実には「平和ボケ」していたことが指摘されており、頗る興味深い。まさに日本軍は、平時には有効に機能しても有事には非常に脆弱という、守旧的・閉鎖的な日本型組織の典型である。



翻って日本の「原子力ムラ」(原発利権によって結びついた政官産学のインフォーマルな人的ネットワークを指す)のことを考えてみると、「常勝不敗」を自負していた日本軍と同様の問題点を抱えていると言えよう。彼等は「日本の原発は世界一安全」「万全の地震対策」と豪語しながら、安全対策はおざなりで、全電源喪失という最悪の事態を想定すらしていなかった。事故発生後も、希望的観測にすがり状況を楽観視、官邸・保安院・原子力安全委員会・東電といった組織間の連絡・調整も不十分で、ベント・海水注入といった意思決定は遅れに遅れた。放水作戦でも、指揮系統の一元化を図らぬままに菅政権が場当たり的な指示を連発し、現場をいたずらに混乱させた。http://news.livedoor.com/article/detail/5443995/ 挙げ句の果てには、後処理について考慮しないまま冷却水を注水し続けた結果、大量の「高濃度汚染水」の移設先に窮することとなり、漁業関係者や諸外国への事前通知無しに「低濃度汚染水」を海洋に流すという暴挙に出た。
結局、後先考えずに目の前の懸案だけを応急的に処理していくから、次から次へと「想定外の事態」が発生してしまうのである。
そして縦割りの弊害は改善されるどころか、対策本部や会議が乱立することで権限と責任の所在がますます不明確になっていき、枝野官房長官の孤軍奮闘ぶりが突出するというイビツな組織構造を呈するに至っている。

本書は次のように述べている。
「軍事組織は、他の組織と比較して組織内外にたえず緊張が発生し、不安定な組織であると考えられるかもしれないが、それは戦時だけのことである。それは、平時には、企業組織のように常時市場とつながりを持ち、そこでの競争にさらされ、結果のフィードバックを頻繁に受けるという、開放体制の組織ではないのである。だからこそ、軍事組織は平時にいかに組織内に緊張を創造し、多様性を保持して高度に不確実な戦時に備えるかが課題になるのである・・・(中略)・・・軍事組織は、平時から戦時への転換を瞬時にして行えるシステムを有していなければならない」

この提言は、「核」を扱う原子力行政にそのまま当てはまる。「日本の原子力技術は世界最先端」などという根拠の無い驕りを捨て、日本の原子力政策はゼロから作り直す必要があるだろう。

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「史実」を超えた「真実」の利休

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 古田織部を主役に据える時点で充分異色の作品だが、出てくる人物のキャラが凄すぎる。バイタリティ溢れる彼等の生き方と死に様は、山田芳裕独特の誇張された表情描写と相俟って、途方もない迫力を生んでいる(しかしスポーツ漫画ならともかく、あの荒々しいタッチで「茶の湯」を描くとは・・・)。

 縄文茶会をはじめストーリー展開は荒唐無稽なのだが、歴史上の人物たちの魂を史実以上にリアルに伝えていると思う。実物よりもリアル、という矛盾した表現でしか形容できない、その圧倒的熱量。



 で、9巻は千利休が切腹する巻。ターミネーターばりに強い利休に爆笑。切腹に至る顛末もフィクションだらけだが、それでいて利休の本質に迫っている気がする。狂気の芸術至上主義者の「最後のおもてなし」には滂沱の涙。

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「純文学」と闘った「ショートショートの神様」の苦難

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 資料の徹底的な博捜と、関係者への綿密な取材によって、「ショートショートの第一人者」星新一の実像に迫った力作。小学校時代から調査するという念の入れようで (星は長い作文が書けずに先生から「その時の気持ちも書きましょう」などと注意されていたらしい)、飄々・恬淡・奇矯といった表面的なイメージの奥に隠された人気作家の焦燥と苦悩を炙り出している。

 星新一の家族関係や特殊な境遇は『人民は弱し 官吏は強し』やエッセイなどで彼自身がしばしば語ってきたが、その中で明かされなかった、異母兄との関係や星製薬の内情などの「秘密」を本書は容赦なく暴いている。

 そして「星製薬の御曹司」という肩書きは良きにつけ悪きにつけ、星新一の文筆活動に大きな影響を与えたことを明らかにしている。星製薬を潰したという負い目、社長時代に多くの人間に裏切られたことから生じた人間不信が、星の性格に暗い影を落とし、感情表現を省いた独特のクールな文体を生み出した(この点は星自身もある程度、認めていたが)。
 逆に、固有名詞を排した無個性の登場人物を描くことで知られる星新一が、実は自分をモデルとした人物を作中に登場させていた、という指摘は新鮮である。星製薬社長としての過去を振り払おうとすればするほど、その影は執拗にまとわりついてくる。そんな皮肉に星新一本人も気がついていたのだろうか。
 一方で、彼の毛並みの良さが、キワモノ扱いされていた黎明期の日本SFの地位向上に役立ったという。当時におけるSFの社会的評価を考える上で貴重な事実発掘と言える。

 また戦後日本のSFの創始者である星新一を通じて、本書が日本SF発展史を語っているところも興味深い。従来、この種の「日本SF史」は専ら、黎明期を支えた当事者たちの回顧録によって占められていたので、第三者が複数関係者の証言を突き合わせて客観的に分析した点には大きな意義がある。



 しかし何と言っても、本書の白眉は、星新一に対する社会的評価の変化を具体的に明らかにした部分であろう。今では信じられないことだが、デビュー当時の星新一は安部公房と並び称される文壇の新星であった。文壇の長老たちからは「人物が描けていない」などの酷評を受けたものの、若い世代からは、無駄を削ぎ落とした都会的で洗練された文体と核心を衝く卓抜な文明批評が斬新なものとして受け止められた。人間関係の描写に終始する泥臭い旧来の日本文学とは一線を画した、「科学の時代」に相応しい新しい文学として認識されたのである。そして星自身も当初はショートショート専門の作家で終わるつもりは毛頭なかった。

 ところがSFの大衆化、量産に伴うマンネリ化(ただし量産は星本人の本意ではなく、ショートショート依頼の殺到と、原稿料の安さが原因)、読者層の低年齢化に伴い、文壇での星新一の評価は下落する。時代の寵児は一転して、文学賞から無縁の存在になった。SF界においてすら「天皇」と祭り上げられつつも、中心的存在ではなくなっていく。酷使された星はアイディアの枯渇に悩まされるが、「ショートショートの第一人者」としての地位を守るため、「ショートショート1001編」を目指して、それでも書き続ける。だが、ようやく達成した空前絶後の偉業も、文壇的には全く評価されなかった。


 本名「親一」の由来である「親切第一」というサービス精神ゆえに「ショートショートの第一人者」という肩書きに生涯縛られ続けた点に、筆者は手塚治虫との共通点を指摘する。しかし本書を読む限り、手塚との共通点はそれだけに止まらない。ジャンル創始者としての自負、「子供相手の商売」と見下されることへの不満と反発、神格化されつつも人気面で後輩に抜かれていくことへの焦り(星の場合は小松左京・筒井康隆、手塚の場合は石ノ森章太郎・水木しげるなど)・・・・・・筒井への嫉妬、晩年になっても「どうして自分は直木賞をもらえないのか」と愚痴をこぼした、「文学的評価よりも売り上げ」と自己を卑下した、などのエピソードには意外の観があったが、偉大な功績に比して報われるところが少なかった作家であった証左とも言えよう。



 私の父はかつて、星新一にサインをもらったことがある。そのサインの言葉は「想像力を失えば、思想の自由も無意味となる」であった。
 本書では「SFなんて文学じゃない」と言う編集者に対して星新一が、
「文学が想像力を否定するものとは知らなかった」と反駁するエピソードが紹介されているが(370頁)、
こうした「純文学」の側からの無理解に、まさしく己の想像力ひとつを武器に立ち向かっていった作家が、星新一だったのである。

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情報を軽視する日本

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つい先日、8月6日に放送されたNHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報 」は、日本陸軍の諜報部隊が米軍の特殊任務機の存在を突き止めて上申していたにもかかわらず、陸軍上層部がその情報の重大性を見抜けなかったために、広島への原爆投下を防げなかったことを指摘するものだった。

コールサイン(発信元を識別するための呼出符号)の分析から、テニアン島を拠点に活動する謎のB-29部隊の動向を追い、原爆投下阻止まであと一歩の所まで辿り着いたのが、陸軍中央特種情報部と、大本営陸軍部第2部第6課米国班所属の参謀、堀栄三であった。

本書は、太平洋戦争時、卓越した情報分析能力によって米軍の作戦(上陸時期・上陸地点、上陸部隊の戦力など)を次々と正確に予測し、「マッカーサー参謀」と渾名された堀栄三(以下、著者)が、戦時中の大本営参謀~戦後の自衛隊統幕情報室長の時代を回顧しつつ、今なお情報戦略を持たずに国際政治の中で漂流している日本の現状に警鐘を鳴らしたものである。


著者は昭和18年10月1日付で陸軍第2部(情報部)第16課(ドイツ課)に着任したが、15日には第16課は第5課(ソ連課)に吸収されてしまう。さらに著者は11月には第6課(米英課)に移され、第6課長の杉田一次大佐の命令で米軍の戦法を研究することになる。逆に言えば、開戦から2年近く経っているのに、対戦国であるアメリカの戦法を研究していなかったことになる。著者の言葉を借りれば「野球の試合が中盤以後になって、相手の攻撃にてこずりだして、『さあ、データーを調べよう』というのと同じ」であり、しかも若干30歳の新米情報参謀が一から研究するというのだから、泥縄もいいところである。

しかし著者は、開戦以来の米軍の太平洋における島嶼部攻略の情報を詳細に解析し、米軍の作戦行動に一定の法則性(パターン)があることを発見した(いわゆる「飛び石作戦」の内実の解明)。そして、その戦法を戦例に基づいて5タイプに分類し(レンドバ型・タラワ型・グンビ型・タロキナ型・サイパン型)、米軍の艦砲射撃の威力、破壊効力、軍艦の所有弾量、上陸直前の砲爆撃の日数・程度・目標、米軍上陸部隊の上陸行程などを解説した『敵軍戦法早わかり』を作成した。

著者が米軍戦法への対策を提示したことが、ペリリューやフィリピンでの日本軍の奮戦に繋がったわけだが、自らの能力の限界を率直に認めているところもあり、単なる自慢話にはなっていない。「堀は」という三人称的語り口に象徴されるように、予断を排して情報を分析する情報参謀出身ならではの客観的な記述が印象的である。


著者の情報分析の手法が具体的に紹介されているのも興味深い。「情報戦」というと、一般的には暗号解読やスパイを連想しがちだが、当時の日本軍は米軍の暗号を解読できなかったし、スパイを送り込むこともできなかった。著者は秘密情報を盗み出そうとするのではなく、何の変哲もない公開情報に隠された意味を読み取ることに注力した。アメリカ国内のラジオ放送で発表される缶詰会社と製薬会社の株価の動きから、米軍の作戦開始時期を推測する(上陸作戦に備えて米軍が缶詰や薬品を発注するため、株価が上がる)というテクニックは著者の慧眼を示す好例だろう。暗号が解読できなくても、電信のコールサインと宛先、通信量の増減から米軍の作戦行動はある程度読み解けるというのだから、驚嘆するほかない。


しかし、著者の情報分析を、日本陸軍は十分に活用しなかった。象徴的なのが、台湾沖航空戦誤報事件だろう。大本営陸軍部(参謀本部)の作戦部作戦課は「台湾沖航空戦の戦果は信用できない」という著者の緊急電報を握りつぶし、現場からの過大な戦果報告を盲信して無謀な捷号作戦に突き進んでしまう。陸軍のエリート中のエリートたちによって構成される作戦課は、情報部の敵情判断を無視して、独りよがりな作戦を立て続け、作戦が失敗すると実行部隊に責任を転嫁した。外部からの意見を一切拒絶して机上の空論で現場を振り回した作戦課を、著者は「大本営の奥の院」と批判している。作戦と情報が全く隔離していたのだから、日本軍の作戦が支離滅裂だったのは当然だろう。日本軍のインテリジェンス軽視を具体的かつ的確に指摘し、本質的・構造的な問題点を炙り出す筆者の深い識見に舌を巻くと共に、敵も知らず己も知らずに空想的な作戦を立て続けた作戦参謀たちの無能ぶりには怒りを通り越して呆れかえる。

今回の福島原発事故でも、以前から津波の危険性が指摘されていたにもかかわらず何ら措置を講じず、事故発生後も緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)を活用しないなど、日本の指導者たちの情報軽視は相変わらずである。ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマ。日本はいつになったら「不都合な真実」に目を向けられるようになるのだろうか。

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紙の本坂の上の雲 新装版 1

2011/12/21 01:25

一身独立して一国独立す

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NHKでドラマ化されたことを契機に、再び話題を呼んでいるようだ。
戦争賛美の作品と誤解される恐れから、生前の作者は本作の映像化・ドラマ化等の2次使用を許諾しないという立場をとっていた。
そのためかドラマ化にあたっては種々の「政治的配慮」が見られるので、ドラマから入った人は、ぜひ原作も読んで、比較していただきたい。色々な発見があって、より楽しめると思う。


明治維新と相前後して伊予松山に生を享けた正岡子規と秋山真之。そして真之の兄の好古。
本作は、この3人の明治人を軸に、明治という時代の精神を描いた大河小説である。
ただし正岡子規死後の日露戦争の記述が非常に詳細で、「小説日露戦争」の趣がある。
おそらく作者自身が執筆しているうちにノッてきてしまい、当初の構想よりも拡大したのだろう。
そういう意味では、日露戦争の描写を圧縮して3人の青年期を丁寧に描いたドラマ版の方が、全体としてのバランスは良いかもしれない。


本作の主題は日露戦争ではなく、あくまで明治の時代精神である。
作者は、近代国家日本の揺籃期と己の青春期が重なった、すなわち国家の勃興と自らの栄達が何の葛藤もなく共存し得た幸運な時代を駆け抜けた男たちの楽天的な刻苦勉励を通して、ひたすら前のみを見て上昇し続ける明治日本の「明るさ」を感動的に叙述している。


自主独立、立身出世主義、無邪気な愛国心、武士道精神。
これらを手放しに称揚するのはノスタルジーに傾斜しすぎている、という批判はもちろん成り立つとは思う。
しかしそれでもなお、私は本作に限りない共感を寄せるのである。

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紙の本自壊する帝国

2010/08/14 02:36

官僚主義国家の末路

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ビックコミックで漫画「憂国のラスプーチン」の連載が始まった。作家で元外務省主任分析官である佐藤優の「国策捜査」体験を基にした“フィクション”のようだ(主人公は憂木衛。もちろんモデルは佐藤優)。ついに漫画にまでなったか、と驚く。論壇デビュー後の佐藤優の快進撃は止まらない。

鈴木宗男の懐刀として活躍し「外務省のラスプーチン」と呼ばれた異能の外交官、佐藤優。その栄光と挫折については、前著『国家の罠』に詳しい。本書は『国家の罠』の続篇と言えるが、扱っている時代は『国家の罠』よりも前である。


佐藤は外交官として駆け出しの頃、在ソ連日本大使館二等書記官として、ソビエト連邦崩壊という現代史に残る歴史的大事件に立ち会った。本書は、当時モスクワに駐在していた若き日本人外交官の視点からソ連解体の過程を克明に描いた迫真のドキュメントである。まさに彼は「歴史の目撃者」であり、類い希なる観察力と分析力をもって、史上空前の帝国であったソ連が内側から崩れていく様相を活写する。


一方で本書は、日本外務省きってのロシア通外交官としての佐藤優が形成される過程を綴った成長物語でもある。国費でチェコに留学して自分の専門であるチェコ神学研究を行う目論見で外務省に入省した佐藤は、国際政治が激動する現場であるモスクワに放り込まれたことで、外交官としての素質を開花させる。

ロシア語研修のためにモスクワ大学言語学部に留学した佐藤は、自分の学問的関心から哲学部科学的無神論学科の扉を叩いた。そこでラトビア出身で反体制派の学生「サーシャ」と出会ったことが、彼の人生を大きく変えた。彼は図らずもサーシャを通じてロシアのインテリたちと知り合っていくことになる。

研修終了後、モスクワ勤務となった佐藤は、豊富なキリスト教神学の知識と卓越したインテリジェンス能力を武器に、ロシアの保守派・改革派やバルト三国の連邦維持派・独立派といった立場を異にする様々な重要人物に食い込んでいき、他の追随を許さない特異な人脈を築いていく。この人脈はソ連崩壊後も彼の外交官としての貴重な財産として機能する。すなわち『国家の罠』に見える佐藤優の誕生である。


ヒトラーをも退けた軍事大国ソ連は内側から崩壊した。硬直した官僚主義こそが最大の要因であると佐藤は見抜いた。信念を持たず筋を通さない官僚は、いかに優秀であっても結局は保身に走り、国を滅ぼす。組織防衛を絶対の正義と考える“生真面目な”秀才官僚ほど危うい(皮肉にも、その恐ろしさは佐藤自身が体感することになるわけだが)。
佐藤は「あとがき」で、『国家の罠』の読者からモスクワ時代の活動を知りたいという要望が多かったので本書を書いた、と述べている。だが、これは一種の韜晦であって、やはり本書には母国日本への警鐘の意味合いが濃厚に込められている。「省益あって国益なし」と揶揄される霞ヶ関が依然として絶大な影響力を持つ「官僚主導」国家・日本が、ソ連のように雲散霧消する可能性は決して低くはない。


そうならないためにも、我々はこの異才の能力をもっと活用しなくてはならない。

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紙の本大いなる助走 新装版

2010/07/17 00:23

究極の私怨小説

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第143回芥川賞・直木賞受賞作品が発表された。両賞はかつてほどの権威はないにせよ、依然として日本で最も重みのある文学賞であり、小説家にとっては垂涎の的であろう。知名度が飛躍的に上がり、受賞作はもちろん他の本の売り上げも伸び、作家仲間からも尊敬される。逆に、候補まで行ったのに落選すれば、意気消沈することだろう。

さて本作は、自分の作品がたびたび直木賞候補に挙がりながらも(1967年『ベトナム観光公社』、1968年『アフリカの爆弾』、1972年『家族八景』)、選考委員にボロクソに罵倒され落とされ続けた筒井康隆が、その怨みを笑いへと昇華させ、もって選考委員たちへの復讐を図った、文壇諷刺小説である。


文学に憧れるエリート会社員の市谷京二は、『燒畑文芸』という同人誌に参加する。「一流企業に勤めているという個性を活かさぬ手はない」と主催者の保叉にアドバイスを受けた市谷は、自分が勤める県下随一の大企業、大徳産業の不正を告発する企業小説「大企業の群狼」を寄稿。そのリアリティ溢れる内容が注目を集め、『燒畑文芸』から中央の文芸雑誌『文学海』(『文學界』がモデル)に転載され、ついには直廾賞候補作にまでなってしまう。

だが市谷は会社の悪事を暴露したため馘首され、会社の顧問を務めていた父親からは勘当される。同人仲間からも嫉妬され、爪弾きにされる。自分の中にある面白いネタを全て出し切ってしまった市谷に、処女作を超える作品を今後創り出せる可能性はない。残された道はただ1つ。直廾賞を受賞して、文壇に仲間入りすることだ。

かくして市谷は、あらゆる裏工作を駆使して直廾賞獲得を目指すのだが・・・・・・



本書に登場する選考委員たちは、当時の直木賞選考委員(海音寺潮五郎、川口松太郎、源氏鶏太、松本清張など)を筒井康隆が徹底的に戯画化したものである。「文章が生硬」「人物が描けていない」といった、主人公・市谷の作品「大企業の群狼」に対する選考委員たちの辛辣な選評も、実際に筒井康隆が蒙った酷評が元になっている。

新しい作品に無理解な選考委員(長老作家)。売れてはいるが文学的評価は低く、そのことにコンプレックスを持っている流行作家(筒井の自嘲を含む)。大物作家に媚びる一方で同人誌を見下す編集者。職業作家の商業主義を揶揄することで、誰も読まない作品を書き続ける惨めな自分を正当化する同人作家。
筒井一流のドダバタナンセンスが爽快なまでに炸裂、文壇世界を容赦なく笑い飛ばし、その権威を叩き落とす、抱腹絶倒の快作である。


現在の文壇には昔ほどの権威はない。「文学者」と呼ばれるような人もいなくなり、現代の「文学作品」の大半はただただ消費されるだけだ。「文学」に権威があるからこそ諷刺の対象になり得るわけで、権威のなくなったものを笑っても仕方がない。それでは単なる“弱い者いじめ”である。そういう意味では、本作のような小説が現れることは2度とないだろう。

直木賞も新人賞的な性格を失っており、本作が発表された頃とは様々な意味で状況が異なる。
しかし強烈な反骨精神を宿すこの小説は、今読んでも十分面白い。

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紙の本昭和史の決定的瞬間

2010/01/02 13:02

当時の言論を「史料」として活用して結果論的解釈を排除

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昭和30年代は、議会政治が軍部によって圧殺され、民主主義が軍国主義に屈服する「暗黒の時代」として叙述されることが多い。しかし著者は、先入観を排し当時の知識人たちの議論を読み込むことで「同時代的認識」に肉薄し、その認識を基に、満州事変から太平洋戦争に至る「戦前昭和」を「テロ」と「戦争」によってのみ説明しようとする「十五年戦争史観」に疑義を呈す。

その要点は2つある。1つは「戦争か平和か」「軍部と協調的か敵対的か」という対立軸だけで政治勢力を色分けしない、という点である。もう1つは「戦争勢力が一方的に平和勢力を圧倒していく」という直線的な理解を否定し、両者の熾烈な鬩ぎ合いと歴史の偶発性を重視する点である。


まず筆者は美濃部礼賛に疑問を投げかける。「天皇機関説」を主張した美濃部達吉は一方で議会に基礎を置く政党内閣制を否定し「円卓巨頭会議」構想を提唱していた。美濃部理論は、軍に対する内閣の権限を強化するものであったが、他方、議会を軽視するものでもあった。
その意味で政友会の「機関説排撃、責任政治の確立」という新方針にも一理はあり、絶対的に美濃部が正しく政友会が間違っていたとばかりは言えない、とする。
美濃部憲法学は、政党や議会の頭越しに社会政策を実行したいと考えていた「新官僚」や陸軍統制派、社会大衆党にとって好都合であり、彼等の攻勢を受けて陸軍皇道派・政友会・平沼系右翼は「機関説排撃」を旗印として提携したのである。しかし岡田内閣・民政党・「重臣」も反政友会に回ったため、皇道派・政友会の劣勢は明白なものとなった。昭和11年2月20日の総選挙で政友会は大敗した。岡田内閣は陸軍内の極右勢力を押さえ込んだという意味では「平和勢力」と言えるが、議会で過半数を占める政友会を無視し抑圧したという点では「憲政の常道」に反する非民主的な政治体制であった。

追い込まれた皇道派将校は2・26事件を起こし、「重臣」の殺害に成功するが、最終的には鎮圧される。一般には以後、軍部の政治への進出が進む、とされているが、筆者は、総選挙での大勝を受けて民政党が軍部批判を強めていったことにも注意を促す。有名な斎藤隆夫の粛軍演説は、実は2・26事件の3ヶ月後に行われたものである。
だが筆者は更に、斎藤隆夫=善、軍部=悪、という従来の単純な見方を糾す。輸出依存の資本家を支持層に持つ民政党は緊縮財政を求め、軍拡に反対したが、それと同時に福祉政策や失業対策にも反対だった。
こうした民政党の態度を攻撃したのが、同じく先の総選挙で躍進した無産政党、社会大衆党であった。社会大衆党書記長の麻生久は、一部特権階級の利益だけを守り、国民大衆に背を向ける「既成政党」を批判し、陸軍と提携して「社会改革」を実現しようとした。

皮肉なことに、「軍縮」を求める平和勢力たる民政党よりも「軍拡」に賛成する戦争勢力たる社大党の方が、「民主的」な政策を唱えるという、「平和」と「改革」のねじれ現象が招来したのである。すなわち、昭和11年の政治的対立軸は「戦争か平和か」という単純なものではなく、「反軍・親資本主義か親軍・反資本主義か」というものだった。戦争と軍ファシズムに反対する「日本版人民戦線」が成立しなかったのは、保守的な政友会・民政党と社会民主主義的な社大党との間に大きな溝があったからに他ならない。


だが、ともあれ政友会・民政党の二大政党は、軍部の台頭に対する危機感から、反ファシズムという共通の目的の下に〈大連立〉することに成功する。「割腹問答」として有名な政友会の浜田国松の陸軍批判は、意図的に寺内寿一陸相を挑発し、広田内閣を総辞職に追い込もうとしたものだと、著者は説く。首尾良く広田内閣を総辞職させた政友会・民政党は陸軍長老で反戦派の宇垣一成を後継首相に擁立しようとするが、石原莞爾ら陸軍中堅層の反対と内大臣湯浅倉平の弱腰によって失敗に終わる。結果的に日本の平和勢力は、戦争勢力をあと一歩のところまで追い込んでおきながら、戦争回避の最大のチャンスを逃すことになった。

二大政党の連立政権=「協力内閣」たる宇垣内閣が流産した後に成立したのは「軍部独裁」政権たる林銑十郎内閣であった。この内閣の下で、重化学工業の振興が決定され、これを契機として、反目し合っていた陸軍と財界が「狭義国防論」を媒介に接近する。これに対し「広義国防論」を提唱し親陸軍の立場を取ってきた社大党は、陸軍の裏切りに憤り、反陸軍に転換して「軍拡よりも国民生活の安定を優先すべき」と説く。

林内閣解散後の昭和12年の総選挙では、社大党は大躍進を遂げた。旧来、同党の躍進は「国家社会主義」=「ファシズム」の勢力増大と解釈されてきたが、筆者はそれを「国民的支持をある程度得るのに成功した勢力」を「すべて戦争協力者として糾弾する」結果論的解釈として斥ける。同時代の少なからぬ言論人は社大党の台頭を、ファシズムでも共産主義でも「古きリベラリズム」でもない社会民主主義が日本に登場したものとして歓迎し、社大党を反戦・反軍の新たな旗手として期待する向きさえあったという。


筆者によれば、戦前日本の民主主義の盛り上がりが最高潮に達してから僅か二ヶ月後に蘆溝橋事件が勃発し、日本は一挙に戦時色を強めていくという。 1930 年代のファシズムの延長線上に日中戦争が勃発したのではなく、偶発的に発生した蘆溝橋事件が日本を民主主義から軍国主義へと転換させたという筆者の結論は、かえって恐ろしい。
筆者の思想はかなりリベラルなものと想像されるが、その研究じたいは、民主主義は戦争を防止すると嘯く戦後民主主義の欺瞞を図らずも暴いており、その学問的誠実さと勇気には頭が下がる。1937年総選挙における日本無産党の大敗を説明する際、2003年総選挙における社会民主党の惨敗に言及して「『反戦平和』だけでは、平成15年にも昭和12年にも、社民政党は選挙に勝てないのである」と揶揄するところなんぞは、実に痛快であり、その現実的な視点に「空想的平和主義者」たちは見習うべきであろう。


ただ政友会も民政党も、その内部は必ずしも一枚岩ではなかった。二・二六事件以降の二大政党が一丸となって反軍的姿勢を取ったわけではなく、党内にはファッショ・親軍路線を目指すグループもいた。たとえば近年、井上敬介氏は、「流産内閣」となってしまう宇垣擁立工作は民政党主流派ではなく反主流派の一部によって推進されたものであり、その目的も「政民連携」ではなく、むしろ政友会・民政党という既存二大政党を「親軍的政党」へと発展的に解消することにあった、と論じている。この井上説が正しいとすると、仮に宇垣内閣が成立していたとしても、戦争回避は困難であったことになろう。

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紙の本すばらしい新世界

2011/10/16 15:42

実兄への警告

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人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、幼年時代から受けた巧妙な洗脳により、自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たず、生活に完全に満足している。親子関係もなく、家族関係もなく、夫婦関係もなく、性交渉は完全に自由である。全ての欲望は満たされ、不満や不安を抱く要素は全くない。万が一、ストレスが溜まった場合は「ソーマ」なる薬によって副作用なしに快楽を味わえる。人々は激情に駆られることなく常に安定した精神状態であるため、社会は完全に安定している。まさに楽園であり、「すばらしい世界」である・・・・・・一見したところでは。

しかし鼻持ちならぬ階級意識と人間の尊厳性を踏みにじる管理統制によって作られた楽園の欺瞞は、保存地区=<野蛮>からの来訪者、ジョン青年によって暴かれるのであった・・・・・!!

背筋の凍り付くような戦慄のユートピア社会を描き、救いのない結末を提示することで圧倒的な迫力と衝撃を持たせることに成功した反ユートピア小説の金字塔。実兄ジュリアン・ハックスリーらの優生学思想の危険性(現実に、ナチスのホロコーストの理論的根拠として機能することになった)に警鐘を鳴らすに留まらず、人間社会の進路をも鋭く問うた問題作。T型フォードの大量生産で名を馳せた自動車王フォードが神様になっているという皮肉はちょっと笑える。


バイオ・テクノロジーが進展し、精子バンクが(主にアメリカで)隆盛を極める現在、オルダス・ハックスリーの80年前の懸念はより一層、切実なものとなっている。

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