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  3. 狸パンチさんのレビュー一覧

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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

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    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

狸パンチさんのレビュー一覧

投稿者:狸パンチ

20 件中 1 件~ 15 件を表示

親鸞像の変更を迫る刺激的な論考

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私のような仏教の知識が少ない人間でも、ぐいぐいと読ませられました。面白い。まるで探偵小説のように推理を凝らして、これまでの親鸞像を変更しようというのですから、“問題作”と言えるでしょう。

 通説では、親鸞中下級貴族の子として生まれ、幼いころに比叡山で学んだ後、師の慈円を離れ、浄土宗の法然の門に入ります。法然一門の法難で越後に流され、5年で赦免されてからは20年も関東の常陸国で布教をし、京にもどってさらに20年を過ごします。親鸞と言えば「悪人正機説」を唱えたことで知られます。悪人でも「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽浄土に行けると説いたこと、それから初めて僧侶として妻帯をしたということが一般的な親鸞像でしょう。

 そうした通説は、親鸞の曾孫が制作した「親鸞聖人伝絵」をもとにしているそうです。しかし著者は、ほかの分派の「親鸞聖人正明伝」と「親鸞聖人御因縁」という史料を用いて、通説に真っ向から挑んでいます。

 まず「伝絵」では、比叡山での童子時代のことがほとんど書かれていません。9歳で異例の早い得度をしたとされていますが、著者はそうではなく、ほかの童子と同じく扱われていたと史料から読みます。伝絵という“正史”が隠そうとしたのは、童子というのは、師の夜伽もするホモセクシャルな存在なので、聖人伝として消し去ったようです。

 また親鸞の妻は恵信尼ひとりとされていますが、実は恵信尼は側室で、さきに正妻として中央貴族の娘の玉日姫という女性がいたと推理します。親鸞の妻帯については、自分の信念に基づいて戒律を破ったという“革命児”的な印象をもたえれていますが、著者は最初の妻帯は師の法然の命令によるものだったと考えます。一門として平等に往生の機会があるという考えに立てば、妻帯した在家も極楽へ行けることを示すために、親鸞に白羽の矢をたて玉日姫をめとらせたということです。そうであるとすれば親鸞の激しいイメージが薄れていきます。

 親鸞がなぜ関東に20年もいたのか、なぜ帰京したのか、といった謎に著者は正史とは異なる史料を用いて、ずばずばと推理をめぐらします。著者の独創ではないようですが、最も驚いたのは、「悪人正機説」そのものが、親鸞独自の思想ではないことが近年の研究で明らかになってきていることです。既に法然が同様のことを説いていて、親鸞はそれを敷延したに過ぎないそうです。

 そうなると、親鸞はオリジナリティもなく、戒律を破る度胸があったという人物ではないということになってしまいます。本書は親鸞の偶像破壊ともとれるのですが、興味深い視座も提供してくれます。関東での布教は、農民よりも商工業者や海民という「個人」を救済する仏教だということを、親鸞が強く意識していたのではないかということです。近代的な個人とは意味が異なりますが、鎮護国家という天皇や国のための仏教ではなく「個人」を往生させるために布教をし、言説を残したということが親鸞の独自性だと著者は見立てます。

 それにしても親鸞は、これだけ現代の人間に影響を与えていながら、あまりにも謎が多いことを、この本から教わりました。そして「個人」の救済という革命が、まさに鎌倉仏教を特徴づけるものだということが理解できます。浄土真宗のことはよく知らないのですが、西本願寺や東本願寺という主流ではない分派の史料を用いて、かなり断定的に通説に疑問を投げかけた本書は、論争の的になっていくのでしょうか。それとも黙殺されるのでしょうか。今後の成り行きも面白くなりそうな一冊でした。

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紙の本父が子に語る近現代史

2010/01/15 17:17

しなやかな歴史入門

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 父親が自分の高校生の娘に語るというスタイルで好評を博した『父が子に語る日本史』の続編です。前作が近世まででしたが、本書は明治維新前後から第二次大戦までを範囲にしています。高校生へのレクチャーですから、分かりやすいことはもちろんですが、日本史研究者ではなく中国思想史を研究する著者ならではの、ひろく東アジアを見渡す視線があり、入門にとどまらない意欲的な著書になっていると思います。

 まず興味ふかかったのは、近代のはじまりをどの時点と考えるかについての論考です。通常であればペリー来航による開国をもって日本の近代は始まったとされますが、著者は思想史家だけあって、幕府や知識人が国際社会を意識し、日本がすこしずつ国際関係に巻き込まれていく18世紀末から近代が徐々に広がっていくと考えます。

 近代を準備したものとして、松平定信の教育改革に注目します。文武両道だと、武士に学問を奨励することが行われましたが、そこで培われた人材が、明治維新を成し遂げ、日本の近代化に貢献していくということです。説得力のある思想史的な時代区分だと思います。

 著者はこう書いています。「明治維新が成就したのは、それに先立つ人文学的な教育普及があったからです。明治の近代化がすみやかに功をあげたのも、実用技術を身につける学生たちが、中学校や高等学校で人文学の素養を徹底的に仕込まれていたからでした」

 歴史を書くということは、つねに今を考えることとセットになっていますから、明治の総合的な見識をもった人材と現在の専門重視の人材とはまったく違うということが分かります。近代以前は教育とは主に儒学ですが、それは人間形成を主眼とする学問です。漱石は漢詩をよくしましたが、著者は漱石は西洋的近代人というより、近代初期に現れた伝統的文化人だという位置づけもします。

 また、著者は司馬遼太郎さんの歴史観に批判的な立場をとります。司馬史観とは簡単に言ってしまえば、日本は日露戦争まではよい国だったがその後は軍部が台頭してだめになった、それまでの明治はすばらしかった、というものです。「坂の上の雲」がそれを最もよく描いた作品です。

 著者は司馬さんが日露戦争の戦況をくわしく書きながらも、きちんと歴史的な位置づけをしていないと言います。著者によれば、日露戦争もまた日本のアジア侵略への意思の表れであって、戦争の動機を美化できないとします。

 軍部への見方もおもしろいです。軍人たちが能力がなくて中国の戦争へとなだれ込んでいったというより、秀才すぎたため戦争を止めることができなかったと見ています。「一を聞いて十を知る」ということわざがありますが、将校たちは優等生すぎたがゆえに「一を聞いて十を知り、百を忘れる」という集団だったと指摘します。

 戦争責任については、軍部や政府、天皇だけに責任があるのかと問いかけます。「常民」、つまり普通の人びとが支持をしたから戦争が泥沼化したと著者は主張します。ここらへんは、大衆の熱狂が戦争をひきおこしたとみる歴史家の半藤一利と見方を共有しています。ただ司馬史観の後継者たる半藤さんよりも著者はやや左寄りというところでしょうか。

 「つくる会」系の自虐史観批判グループには批判は手厳しいです。ちょっと品がないですが「自慰史観」とけなします。つまり、「歴史は一つではない」ということ。右でも左でも一つの歴史観でとらえてはいけないと戒めます。「常民」はいつも「分かりやすい図式」に踊らされます。だから、複眼的に歴史をみようというのが、著者の問いかけです。

 文章がとてもうまく、しなやかな本です。若い人が読むのもいいですが、私たち大人が自分の歴史理解をチェックしてみるためにも役に立つ一冊だと思います。

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魅力的な「日向ぼっこ社会」

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ガンバロー会というのは、大阪府の精神病院を退院し、アパートで生活保護などで暮らしている人びとが集まり、おしゃべりやハイキングを行っているグループです。本書で、そのグループの活動をともにする精神科医の著者が、人びとが共生するような社会とはどのようなものか考察しています。こう書くと、題名も「近代という病いを抜けて」と大仰ですし、なにやら障がい者問題について声高な論文に聞こえますが、まったく違うのです。

 運動系のオルグで演説する人が来ると、会の人たちはみな黙って聞き、反対する人もいません。話が終わるとみな「てんでばらばら」はおしゃべりに戻ってしまうのです。運動系の人は狐につままれたように帰ってしまう。フィールドワークに来た医師は用意してきたアンケートに何も意味がないとさっさと悟り、彼らのペースで共同生活をしてしまう。会の一人が「ヘリコプター発明者」という名刺をつくって配る。みな別段驚かないし、次の日から普通に「ヘリコプターさん」と読んだりする。

 「てんでばらばら」という穏やかさで、精神障がい者の人びとが支え合って生きているので。これはなかなか感動的なグループだと思います。落語にすこしおつむの弱い与太郎というキャラクターがありますが、現代では与太郎はもしかしたら精神病院に入れられるかもしれません。しかし、前近代社会では共同体のなかでなにがしかの役割があります。人に笑いを提供することもその一つです。ガンバロー会は、なにやらそんな与太郎の集まりの観があります。そういう会が現代社会にあるということが、まずうれしい喜びです。

 ガンバロー会という実践のなかで、著者は「近代的個人」というものがいいものなのだろうかと考えます。近代的個人とは、「常に首尾一貫していなければならない」「関係は常に一貫性ある信頼されるものでなければならない、それが責任というものだ」ということです。しかし、著者はそれは絶対的な真理ではないと反論しています。もしかしたら、近代のほうが人間にとっては病いではないかと。これが題名につながる話となります。

 著者はジャン・リュック・ナンシーやレヴィナスなど現代思想を援用しながら、ガンバロー会のような社会は「日向ぼっこ社会」ではないかと名付けます。日向ぼっこしながら、みながてんでばらばらにつながっている。無理にまとめようとすると「本当のばらばら」になってしまうから、無理にまとめない。川の流れや波動のようなもので、人びとがゆるやかにつながっているような、そんな社会像です。

 「今や、私たちは、人間の手を離れた<得たいのしれない巨大なもの>と日常的につき合わざるを得ない状況にる」と著者は書きます。テクノロジーはそれが行き過ぎると<悪>に転化してしまいます。そしていちばんやっかいなのは、「ここから逃げる」ということはできないのです。そこで著者は「ここで自由になる」という道を指し示します。それがまさにガンバロー会の存在というのです。

 社会はますます複雑化し、個人の力ではどうにも手に負えないということは、多くの人が実感していると思います。たしかに「ここ」からは逃げられない。精神障がい者という少数者が照らし出してくれた「てんでばらばら」「日向ぼっこ社会」ということに、とても魅力を感じます。もちろん、社会革命は当分起こりそうにはないですが、少なくとも一人の人間として人間らしく生きていくための心構えのようなものを、本書は教えてくれると思います。

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やはり香山さんに賛成したい

31人中、29人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「勝ち組」の代表として「効率をよくして、努力をして競争に勝ち、成功を収める」というノウハウ本でベストセラーを連発する経済評論家の勝間和代さんに対して、精神科医の香山リカさんが「しがみつかない生き方」で「<勝間和代>を目指さない」と批判して、同書もベストセラーになったのは昨年末の出版界でのちょっとした事件でした。

 その二人の対談を収録したのが本書です。「勝ち組ゴッデス」対「負け組クイーン」というプロレスのような惹句をつけたくなる、とてもエキサイティングな対談でした。はじめに断っておきますが、私は勝間和代さんの本は一冊も読んだことがありません。勝ち組とか金銭的成功を求めることに強迫観念をもっていないので、「カツマー」になる必要がありません。香山さんの本はかなり愛読しています。公に意見を発表できる立場の人間としてきちんと行き過ぎたナショナリズムや弱者の側に立った発言をしているからです。

 香山派である以上、この論争で香山さんにはじめから軍配を上げることになりますが、勝間さんの「ヒール(悪役)」としての受け答えもなかなかに手強いと思いました。

 香山さんはのっけからストレートパンチを打ちます。「いきなりですみませんが、勝間さん、自分と違う人がいるということ、わかります?」「社会には勝間さんのようにポジティブに生きられない人がいるってことも?。これに対し、勝間さんは「わかりますよ」とさらりと答えます。論戦はつねに香山さんが全身の力をこめてストレートを繰り出すのに対し、勝間さんは「あなたの言うことも認めますが、私の言うことは正しいのです」と、かなり余裕の態度で受けます。そのビミョーな対戦の感じが本書を面白くしています。

 香山さんは次々と勝間さんに「努力とか、効率とか、成功だけが生き方ではないですよね」と攻撃をしかけけます。勝間さんは「(私も)頑張り過ぎている状態は何かが異常だから見直してくださいとずっとずっと言ってますけれども」「『ゼロイチ思考』の危険性は指摘しています」、さらには「私がしていることと同じことを、つらくても無理してでも頑張り続けていたら、くたびれてしまうのは当然ですよね」と開き直りまでします。その上、「仕事をバリバリやって子どももいて寄付もするような、多方位的な人物」と自分ぼめまでしています。

 香山さんは頑張りすぎて心を病んでしまった人の治療をしているので、勝間さんの人びとへの影響力の強さを心配します。「頑張らなくていいのよ」と言うと「頑張らなくてもいい頑張り方を教えてください」と話す患者さんもいたそうです。努力こそ成功と幸福への道ということを断言し、ある意味では読者を追い詰めている勝間さんが許せないわけです。しかし勝間さんは動じません。「100のうち10でも20でもまねをしてみてくれればいいんです」という。ここで香山さんぶちきれます。「人間は機械じゃないんだから」。

 「ふつうの幸せとは何か」の章が対戦の盛り上がるところです。ここでは勝間さんがジャブを繰り出します。「香山さん、家事は好きですか?」「好きじゃないです、全然」「私、好きなんです。洗濯物がパリッとなったり、お皿がピカピカになったりするプロセスが大好き」と、<勝間和代>も小さな幸せは知っているのだとけん制してきます。けれども、やはり勝間さんらしく「パンを焼くプロセスをより楽しくするために、機能の高いパン焼き器を選んだり、電動パン切り器を買ったりする」と成功によってもたらされた経済力こそが小さな幸福も生むのだと、持論を行間に忍び込ませます。香山さんは、それは結局お金を持っている人のことではないかといっても、勝間さんは常にはぐらかすような受け答えをします。

 「努力論」の章では、血みどろの論戦がはじまります。香山さんは意地になって努力しなくても、目の前の仕事をやればいいではないかといいます。すると勝間さんは「努力をすると、より簡単に幸せになれるということです。私はわりと近道を教えているつもりなんですね」と切り返す。そして「私は、楽しく努力する方法は教えます。しかし、努力をしないで楽しくなる方法は教えません。これが私の本のポリシーです」とカウンターパンチも。香山さんは、ゲームとかプロレスが大好きなことを「空費」の見なされ、「ダメだ! 冷や汗が出てきました」とへたりこみます。

 勝間さんの「努力・成功」と香山さんの「人間の生き方はそんなに簡単に割り切れない」という戦いは、すれちがいにすれちがい、それゆえにすこぶる面白い論戦となっています。二人の対談は人の心の問題からさらに社会全体を語ることへと向かいますが、それは本書を読んで実際に楽しんでください。

 勝間さんが余裕の態度でたじろがないことから、香山さんが惨敗とみる人も多いかもしれません。そのことが、私の気になるところです。これは「人間対サイボーグ」の戦いにみえました。私は人間に無条件に軍配を上げたいのですが、サイボーグが好きで、サイボーグになりたい、けれどなれなくて悩んでいるような人は多いかもしれません。私はそんなことを強要するような社会がいちばん、いやなのですが。

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紙の本超訳ニーチェの言葉 1

2010/01/20 08:39

これこそ自己啓発本では

23人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 若いときには色々な思想家にかぶれるものです。年代が上であれば、まずはマルクスかぶれが筆頭でしょう。その後にサルトルかぶれがあり、ニーチェかぶれは3番手くらいでしょうか。年代がくだると、フーコーやデリダといったポストモダン思想にかぶれた人も多いでしょう。

 ニーチェという思想家はほかの思想家にくらべ、微妙なちがいがあります。思想というのは革命にも結び付くように世界や人々の認識を変えようという意思をもっています。しかし、ニーチェは有名な「神は死んだ」という言葉に代表されるように、<否定>の思想です。言葉の難解さもあって、ナチズムの思想的背景になったとは、ニヒリズムを広めたという誤解を受けやすいので、同じ「かぶれ」でもニーチェかぶれはなかなか肩身が狭かったように感じます。
 
 マルクスで革命を起こすのでもなく、サルトルのようにアンガージュマン(参加)で権力に異議申し立てをするものではありません。19世紀まで欧州を支配していたキリスト教倫理がその力を失い、新しい<物語>を激しい思索によって模索したのがニーチェでした。「ツァラトゥストラ」の主人公は「超人」ですが、神が死んだ後に人間はどう生きていくのかを説くニーチェの分身でした。

 さて、この本ですが、はっきりいって面白いです。上に書いたように、ニーチェをニヒリズムや否定の思想ととらえずに、新しい人間観をつかまえようとしたポジティブなものだととらえ、ニーチェの各著作から抜粋をして、「超訳」しています。

 こういうのはいかがでしょう。「自己表現とは自分の力を表すことでもある。その方法は大きく分けると、次の三つになる。贈る。あざける。破壊する。相手に愛やいつくしみを贈るのも、自分の力の表現だ。相手をけなし、いじめ、だめにしてしまうのも、自分の力の表現だ。あなたはどの方法を取っているのか」

 贈る、あざける、破壊する…。なんだかよく分からないのですが、その分からないところに味があります。

 さらに人をポジティブに追い込む、こういう言葉もあります。長くなりますが、面白いのでお許しください。

 「仕事を終えて、じっくりと反省する。一日が終わって、その一日を振り返って反省する。すると、自分や他人のアラが目について、ついにはウツになる。自分のだめさにも怒りを感じ、あいつは憎たらしいと思ったりする。たいていは不快で暗い結果にたどりつく。なぜかというと、冷静に反省したりしたからなどでは決してない、単に疲れているからだ。疲れきったときにする反省など、すべてウツへの落とし穴でしかない。疲れきっているときは反省をしたり、振り返ったり、ましてや日記など書くべきではない。活発に活動しているとき、何かに夢中になて打ち込んでいるとき、楽しんでいるとき、反省したり、振り返って考えたりはしない。だから、自分をだめだと思ったり人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そういうときはさっさと自分を休ませなければいけない」

 「さっさと休め」とは…なんか、本当に偉大な思想家の発言ですか?と言いたくなりますが、もちろん背景には懺悔を中心としたキリスト教倫理への批判があるのですが、いま読むとミナコ・サイトウもびっくりのポジティブシンキングです。

 相田みつをのテーストもあります。「四つの徳を持て 自分自身と友人に対しては、いつも誠実であれ。敵に対しては勇気を持て。敗者に対しては、寛容さを持て。その他あらゆる場合については、常に礼儀を保て」

 はい、分かりました、とつい答えたくなります。これももちろん既成概念とたたかう思想家としての言葉なのですが、いまとなると人生訓ですね。

 極めつけにこういうのはいかがでしょう。「愛する人は成長する。誰かを愛するようになると、自分の欠点やいやな部分を相手に気づかれないようにとはからう。これは虚栄心からではない。愛する人を傷つけまいとしているのだ。そして、相手がいつかそれに気づいて嫌悪感を抱く前に、なんとか自分で欠点を直そうとする。こうして人は、よい人間へと、あたかも神にも似た完全性に近づきつつある人間へと成長していくことができるのだ」

 愛すると神に近づくとは…。すいません、いま腹を抱えて笑っておりますが、ニーチェ氏は大まじめです。あまたある自己啓発本よりも、この超訳本は、あなたの人生を明るくひらいてくれるかもしれません。あくまで「かもしれません」ですよ。

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勝間和代という仮想敵 混迷する「生き方論」

17人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 香山リカさんの観察では、2000年代に入ったころから、日本人の心のかたちが変わったといいます。まずは「自慢競争」というものが始まりました。企業のなかで社員として生き残るためには、成果主義のために果てしない自己PRを続けなくてはいけない。ところが、というか当然のように社員がばたばたと心を病んでいってしまったというのです。また、外から見れば「ふつうの幸せ」を得ているはずなのに、それがいつまで続くのかと不安になる人が著者の精神科診察室に多く訪れるようになったといいます。

 振り返ると、21世紀初めに象徴的な出来事が起きていました。竹中平蔵氏らの本「経済ってそういうことだったのか会議」を香山さんは例に挙げるのですが、つまり、お金もうけは「クリエーティブ」という宣言がなされました。また。はばかりなく自分は「セレブ」とか「カリスマ」と自己PRする人がメディアに現れてきたのも、この頃です。。

 競争、お金、成功…。硬い言葉で言えば新自由主義的世界がこの20年で広がり、成功できた人はいいが、そうではない人は疲れ果て、「ふつうの幸せ」が何か分からなくなってしまった、というのが香山さんの見立てです。

 新自由主義社会の競争のなかで日本では病んでいく人が増えました。しかし、成功や幸福への強迫観念をあおるメディアの時流はずっと続いています。だから香山さんは、本の帯にあるように「〈勝間和代〉を目指さない」とスローガンを掲げました。「無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法」「成功を呼ぶ7つの法則」といった本の題名でベストセラーを連発する勝間さんを“仮想敵”としたわけです。

 香山さんの舌鋒は鋭いです。勝間さんが「断る力」というが、多くの人にはそんなに依頼があるわけではありません。もっともな意見だと思います。香山さんは不必要なプレッシャーを感じないために、「恋愛」や「仕事」や「子ども」に「しがみつかない」という生き方を勧めます。

 ただ、ちょっと皮肉なのは、書店では、勝間さんの本の横で本書が平積みされ、こちらもベストセラーになりました。毒薬と解毒剤が一緒に売られているような光景で、不思議な光景だと思いましたが、その不思議さ、生き方論の混迷がまた、いまの日本人の心のありようを象徴しているとも感じました。

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紙の本格差社会という不幸

2010/01/19 02:06

このヒドイ社会をどうするか

18人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 冒頭で宮台真司さんが的確にまとめていますが、現在の日本は客観的にみて「ヒドイ社会」です。自殺率は英国の3倍、米国の2倍、労働時間は非常に長く家族や社会活動にあてる時間もない。「経済を回って社会回らず」と宮台さんが表現するように、経済のために人々はさまざまなものを犠牲にしてきました。成長している時代ではまだ納得できる面もありますが、「金の切れ目が縁の切れ目」でおおむね経済の沈み方が激しくなった1997年を切れ目にヒドイ社会はますますヒドイ社会になっていきました。

 宮台さんと神保哲生さんが運営しているインターネット対談番組を活字化したものですが、放送の内容をほぼたっぷり収録しているので、深いところまでの議論を読むことができます。
 年越し派遣村の湯浅誠さんや「婚活」を造語した山田昌弘さんたちがゲストスピーカーに招かれていますが、私がいちばん興味深かったのは労働社会学者の本田由紀さんの回でした。

 本田さんは現代の社会を「ハイパーメリトクラシー」という言葉で分析しています。メリトクラシーとは「業績主義」と訳され、その人が後天的に得た業績や能力を意味します。反対語は「属性主義」で士農工商の身分制度など生まれ持って決まっている属性で人生が決まってしまうことです。「メリトクラシー」であれば、公教育制度のなかで勉強をしたり技術を身につけることで人が評価をされ、一定の開かれた公平な社会となります。ところが現代ではメリトクラシーが斬り捨てられ、「もっと露骨で過酷なメリトクラシーが、社会のいろんなところで姿を現しつつある」ということが「ハイパーメリトクラシー化」であると本田さんは説明します。

 なぜ過酷なのかというと、かつては学歴や仕事上のキャリアを主な要素として人は評価されましたが、現在はそれに加えてコミュニケーション能力や個性、創造性、意欲、問題発見・解決能力など、曖昧で物差しがわかりにくいものが重視されるようになっていると分析します。そして「空気を読む」という若者の傾向は社会全体を覆うっています。

 対談相手の宮台さんは、ハイパーメリトクラシー化の進展について、自己啓発セミナーや企業研修セミナーがそれに対応すると説明します。セミナーはかつては幹部に行われるものでしたが、現在は中間管理職にまで及び、広い範囲がハイパーメリトクラシー化していると観察します。

 ハイパーメリトクラシーを完全に成し遂げるというのは、ある意味では「超人」になることを求められることです。恵まれた家庭環境で生まれ育ち、高い学歴をもち、成績もよく、社交的で、問題が発生すればスマートに解決をする能力があるような人物です。むろん、それは無理な話なのですが、今の社会が多くの人が超人にならなければならないという強迫観念をもたされていると本田さんは見ます。結局90年代後半からどうなったかというと、「空気を読む」というプレッシャーのなかで、異質であったり反逆児であったりすることを恐れる風潮が広まりました。「人間力」という言葉がよく使われますが、実はそれは「空気を読む」ということと同義であって、人々ぬえのようにとらえどころのない「人間力」という評価をめぐって迷走しているというのです。

 本田さんは、そんなハイパーメリトクラシー化の浸透への対抗策をいくつか示しています。ひとつは、大学できちんと勉強ができるようにすることです。企業が大学での勉強をさせないかのように就職活動をさせるような状況はまず改善すべきだと。また、制度としては高校段階から「専門高校」を増やすことを提唱しています。工業高校や商業高校はありますが、それは偏差値の低い生徒たちのためになってしまっており、そうではなく真の意味で「専門性」を身につけさせる高校を増やすべきだと強調します。そうすることによって、若者たちに技能をもっているという安心感を与え、生きやすくさせるといいます。専門性は超人を目指すハイパーメリトクラシー化と相反するようにみえますが、本田さんは「フレキシビリティ」と「スペシャリティ」を組み合わせた「フレクスペシャリティ」、つまり「柔軟な専門性」を培う教育が必要だと述べます。

 それは統計的にも有効のようです。国際的には先進国では専門高校の割合が多く、日本は後進国と同じような比率だということです。人々が安心して人生設計をするには「フレクスペシャリティ」という道が有効だという傍証になっていると思います。

 日本が教育をはじめとする制度を変えなければ、ヒドイ社会、つまり格差が激しく、下降してしまった人々の不幸が増大するという社会へと突き進んでしまいます。本書は、本田さんの回のように、これ以上、ヒドイ社会にならないよういんする処方せんも議論されていて、配慮のきいた内容となっています。例えばアメリカ社会に詳しいエコノミストの小林由美さんの回ですが、たしかにアメリカの格差はものすごいけれど、定収入でも幸福に暮らしている人は多いという感想です。幸福はお金だけで生まれるものではなく、家庭や地域活動、多様なレジャーによってもたらされます。日本人にはそういう余裕すらありません。

 日本の「不幸」の真相を、本書はかなり掘り下げていると思います。そして幸福について、これから多くの人たちが語り、実際に取り組んでいかなければならないと思わせてくれた、よい対談集です。

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日本の教育が招く怖ろしい未来

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私じしんも授業はさぼり、読書したりバイトをしたりの「名ばかり大学生」だったので、本書のタイトルを見たときは、日本の大学では当然のことだろうと思いました。昔から日本の大学は入るのは難しく出るのは簡単、欧米はその逆だと耳にたこができるぐらい聞きました。しかし、本書を読んでみると衝撃の連続でした。昔の名ばかり大学生と今のそれとは、雲泥の差があるのだというのです。

 授業時間を減らした「ゆとり教育」のせいはあるでしょう。しかし、学校でゆとり教育を受けていても、大学受験のためには一流大学を目指す者は塾に通い、相変わらず競争をします。問題は中位以下の子供たちでした。著者が理事長を務める全国学力研究会の調査では、一流進学高校を除いてテストを課したところ、明らかにかつての同年代よりも今の子どもたちの学力低下は著しいそうです。特に数学は惨たんたるもので、「数学の勉強を通じて培われる、多様なものの見方を実践する、あるいは工夫しながら局面を打開するという精神が、現代の子供たちは衰弱しているのではないかという懸念が生じる」と著者は述べます。

 そして、そうした子供たちの多くが大学に入学します。少子化と中位以下の大学の定員増によって、極論すれば誰でも大学には入ることができます。著者はこの現状を「現代の日本は、まったく勉強しないまま大学への入学を許可し、かつ基礎学力を欠いたまま(それゆえおそらくは教育効果がないまま)卒業を許す、世界史上でも極めて稀有な環境を用意していることになる」と定義づけます。つまりは数年後からしばらくは、「工夫して局面を打開」することができない若者たちがどっと社会人になっていくということです。一流大学の学生は制度と関係なく、親からの援助で高い教育を受けていますから、格差もさまざまな局面で広がっていくでしょう。

 ならば、今の制度を改めて、詰め込み型で管理を強化する教育に転換すればいいではないかという意見が出るでしょう。しかし、競争と管理教育を強めることが、中位以下の子供たちを破壊していった歴史を本書はたどっています。愛知県は1970年代末から80年代にかけて徹底した管理教育を行いました。そこでは軍隊式の暴力を教師がふるい、こまごまとして規則で子供たちの生活を拘束しました。

 その結果、何が起こったのか。それは、校内暴力と援助交際だったと著者は指摘します。統計からみると確かに符号するのです。管理教育とは生徒の序列化を含み、そこから落ちこぼれていった者は「荒れる」しかありません。校内暴力は明らかなその現れです。援助交際はといえば、序列から落ちてしまった女子生徒が、自分の唯一の所有物である「体」を金銭に換えることで、自分の価値を取り戻すという歪んだ心性によるものだとみます。
 さらに統計と突き合わせて怖ろしいことが分かりました。管理教育を受けた世代は、児童虐待が増えたというのだ。しかも愛知県をトップでした。暴力は連鎖することの証明かもしれません。

 管理教育も人間性を破壊し、「ゆとり教育」も失敗した。日本の教育システムはどうしたらいいのでしょうか。秋田県が教育プログラムを工夫し、学力向上に成功しました。それは教材やプリントを全県で一律一元化することです。そうすることによって教材が多くの教師の目にふれてバージョンアップしやすくなり、成績の悪い子の指導も他校の事例を参考にして対応しやすくなるという結果を生みました。ところが、秋田という土地柄のために悲しい現実が生じたのです。いくら学力が上がっても一流大学への進学率は大都市圏に及ばないのです。大都市圏では国立大に落ちても、そこそこの私立大があります。しかし秋田では数少ない国立に落ち、地元の残るとなると、低位の私立大しか選択肢がないのです。不況のなかで大都市の大学に通わせる資力のある親は減っているということも背景にあります。

 管理教育も人間性を破壊し、ゆとり教育も失敗し、地方の改革も大きな果実となりませんでした。著者はかろうじて、生徒の個性をみるAO入試や、名著古典の読書を義務づけるなどの教育改革を唱えますが、問題の根はさらに深そうです。

 基礎教養がなく、工夫して局面を打開できない子供たちが、10年、20年後には社会の中核となります。それは怖ろしい未来です。本当に教育はいまのままでいいのか、と強く考えさせられる一冊でした。

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詩人がお経と出合ったとき

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 伊藤比呂美さんという詩人は背負ってしまう人なのでしょう。どうしようもなく背負ってしまう。詩人は本質にじかにふれる人びとだと、誰かが書いたことを思い出しました。人間にとって避けられない生老病死。伊藤さんは50歳をすぎて、それを背負ってしまう。誰もが背負うことだけれども、詩人が背負うことで、詩人は何かを見つけ出し、そして言葉をつむぎます。見つけ出したのは仏教であり、紡ぎ出したのは、やわらかく、それでいて生老病死の無常さに深く分け入っていくような、そんなお経の翻訳でした。

 伊藤さんは離婚をし、娘たちとカリフォルニアで暮らしています。娘の一人は日本語を話せるが、書くのは苦手で、英語まじりになる。「負うた子に教えられ」。このエッセイが私は好きになりました。娘はすでに家を出て、介護士として心を病んだ人びとのいる施設で働いています。その娘が詩人の母に「般若心経」を教えます。ひらがなの多い、英語まじりの言葉で。

 五蘊、ごーおん。「現実は、いつつのごーおんでできていることがわかりました」「ごーおんというのはね、かていかな。英語だとmodesっていうかも。過程。あ、でもけいたいなのか、かていなのか、よくわかんない」。こんな調子で、般若心経を娘が母に教えていきます。般若心経の教えの中心である「色即是空 空即是色」も、娘が独特の解釈で、やわらかい言葉で説明をする。「クウっていうのはね、あるものは、すべてほんとは別に意味も理由もないんだよってことだと思うの」「ソラとの関連はある?」「あると思う、宇宙ってことだと思う」

 離婚、父母の老い、子育ての後悔、伊藤さんはいろんなものを背負っています。その過程、「ごーおん」のなかで宗教に出合っていく。その出合い方が、この本には書かれています。多くの日本人のように、宗教を強く意識せず、教わってもきませんでした。でも、老いや死に向かい合うとき、やはり人は宗教といやおうなく出合ってしまうのでしょう。伊藤さんにとっては、それが般若心経だったようです。

 こんなふうに翻訳しています。「おしえよう このちえの まじないを。さあ おしえて あげよう こういうのだ ぎゃーてい。ぎゃーてい。はーらー ぎゃーてい。はらそう ぎゃーてい。ぼーじー そわか。般若心経でした。」。テレビドラマの古畑任三郎が「古畑任三郎でした」と終わるように終えたといいます。くすっとさせるユーモアがあります。

 伊藤さんは、ふんわりとお経を現代語訳します。それが、とても心地いいのです。でもお経というのは、苦しみと死にどう向き合うかというものです。伊藤さんは自分の家族との向き合いを、うそまじりなくつづります。そのことが、私の心にじーんとしみいってきました。私じしんも自分の家族のことを思いながら。

 私はまだ宗教とは出合っていません。でも、この本を読んで、いつかどうしようもなく出合うのだろうという予感を持ちました。お経は言葉です。伊藤さんの現代語訳を読みながら、こういった言葉が自分に必要なときがいつかくるかもしれないと思いました。よい本です。

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ドラッグが映しだす時代の推移

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 もう時効なので告白しますが、20年くらい前に悪友にすすめられて一回だけ大麻を吸ったことがあります。車の中でパイプで何回か吸い込んだのですが、そのときに起きた変化というと、カーステレオから流れてくる音楽が実に美しく感じられたのです。本当はうすっぺらい音だったのでしょうが、まるでライブ会場にいて、ギターはギター、ドラムはドラムがそれぞれにびんびんと音が体で感じられるような気がしました。気が弱いので、再び薬を買うようなことはせず、一回こっきりの経験でしたが、なるほど麻薬というものは意識を拡大し、変容させるものだと、わずかな経験ながら知りました。

 本書は麻薬の歴史と文化について書かれた本です。古代から現代までの麻薬の歴史を概観した後に、「コカインとヘロイン」「ドラッグのアメリカ」「覚せい剤と日本」「LSDとヒッピー、エクスタシーとレイブ」と各論に分かれています。資生堂歯磨やイチジク浣腸とともに「眠気と倦怠除去に ヒロポン」という新聞広告があったことなど、日本における覚せい剤について書かれた章も面白かったのですが、もっとも興味を引かれたのはLSD文化とエクスタシー文化について書かれた章でした。

 アレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズといったビートニクを先導として、麻薬文化が花開いたアメリカはLSDの発明によって、ヒッピームーブメントを生みます。そこでは幻覚による異世界の体験を通して、愛やセックスが謳歌されます。LSDとロックは切り離せない関係にあって、ヒッピー音楽の代名詞グレートフルデッドをはじめ、ジミ・ヘンドリクスやビートルズもLSDの影響下で音楽を送り出していました。カリフォルニアのヘイト・アシュベリーという町は、ヒッピーの聖地となり、世界各地から若者たちが集まり、路上に寝込みながらLSDの快感に酔いしれていました。

 60年代のLSDの時代が去り、80年代にはエクスタシーと呼ばれるMDMAという薬物が若者たちの主流となりました。LSDのように意識を変容させるのではなく、多幸感や解放感をもたらすもので、最初は心理セラピーなどに用いられました。これがDJによるクラブ文化とむすびつきます。「(60年代の)強烈なトリップや内的宇宙の冒険よりも、手軽にハッピーでオープンハートになりたかったのだ」という若者の意識の推移が映しだされています。

 「エクスタシーがもたらしたのは、LSDがもたらした幻覚作用やサイケデリックとは逆の、開けっぴろげな他者との一体感や、自分が今ここに生きているという、リアルな生の実感そのものだった」と分析されています。二十世紀末の若者たちは、60、70年代とは違い、「ずっと凶暴で、壊れかかり、窒息しそうな社会や、テロと戦争にまみれた世界」に生きていたがゆえに、エクスタシーという麻薬とともにあるヒップホップやレイブという手段で、自分たちの鬱憤を社会にぶつけていったと見ます。なるほどと思いました。

 日本は麻薬の広がりとは無縁の国なので、あまり麻薬について考えたり議論することが少ないですが、麻薬は古代から宗教と深い関係にありますし、私たちが享受しているアメリカのポピュラー文化を作り上げているひとつの要素でもあります。本書は、そうした文明論や文化論が展開されていて、なかなか読み応えがありました。

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ブルーシート

2010/01/07 18:07

若者たちの「人間宣言」

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 フリーターやニート、貧困や格差の問題を語るとき、われわれはとかく抽象的にとらえがちになってしまいます。彼らは数に還元され、貧困や格差は社会システムに収斂してしまう。しかし、人間はひとひとり顔をもち、個性をもち自分の歴史をもっている。若者の問題を語るときに、そのひとつひとつの顔を忘れてしまったら、しなびた議論になってしまうでしょう。

 著者は超左翼マガジンと銘打った「ロスジェネ」の編集長で、共産党員として労働問題の支援にも現場で当たっているそうです。一方で新潮の新人賞を受けた小説家でもあります。本書は、著者の初めての小説集。登場人物はみな、派遣労働者や心を病んだ、どん底にいる若者たちです。

 表題作の「ブルーシート」は、体も心もぼろぼろになりながら、病気の母の介護と、精神を壊した兄をケアする若者の心情がとつとつと描かれています。過酷な労働現場を転々とし、派遣切りにあい、まったくの貧困のなかにあります。著者は主人公とその家族や友人に寄り添い、貧困の本当の姿を示したいという気持ちが伝わってきます。

 ポケットのなかにはいったコインは「労働」と表現されています。その表現に、労働者として数や記号でしかない自己への切なさがにじみます。瀕死の母、「壊れ者」の兄と恋人。これ以上の悲惨さはないという状況のなかで、著者は主人公の誠実さとひたむきさのフィルターを通して、現代の悲劇の渦中にある人びとの「顔」を描こうとしています。

 そしてそれは文学として成功していると思います。ある場面で「人間とは、こういう世界で生きているんだ!」と主人公の心のなかでの叫びが抱えています。「こういう世界」は矛盾と不平等にみちています。でも人間ひとりひとりは生きていて、悲惨のなかにもすこしの希望、すこしゆえに愛おしく大きな希望の芽があるのだと、著者は訴えたいのだと思いました。

 この作品は若者たちの「人間宣言」ではないでしょうか。政治や社会問題としてでは数や抽象的な議論に終わってしまうことを、文学だけが人間に「顔」を与えられるということでしょう。多くの労働問題に立ち会ってきた著者にしか書けないであろうリアリティーもあります。社会の矛盾をつき、人間らしさをとりもどす営為が文学にはまだあるのだと思いました。傑作だといってよいと思います。

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天衣無縫な虚人の自伝

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 確かに戦後の日本のなかで、これほど天衣無縫な活動をしてきた人はほとんどいないでしょう。最大の「功績」はムハマド・アリ対アントニオ猪木戦を実現させたことです。試合は猪木が上半身では敵わないと思い、寝転がってアリの足をキックするだけの駄目試合だったのですが、そんな突飛な事件を実現させただけでも、想像を絶することです。

 本書はそんな康芳夫さんの自伝的な著書です。アリと猪木戦はかなり多くの裏話が書かれています。資金もコネもなにもない。しかし、思いついてしまったら、どんな手段でもとるのが康さんという人です。アリに接近するには、アリは当時マルコムXに傾倒してイスラム教徒になっていたので、康さんはそのラインに目をつけます。なんと自分もイスラム教に入信して、とうとうアリにまでたどりつくのでした。

 ほかにもネス湖の怪獣を探す「ネッシー探検隊」(隊長は石原慎太郎!)や、人間に近いと騒がれた「オリバー君」などを仕掛けます。イベンターとして次から次に奇想天外なアイデアを思いつき、しかもそれを実現してしまう人です。

 面白いのは、興業の世界の人ですから、その筋のような体臭があると思うとまったく逆で、非常に知性あふれる人なのです。康さんの「虚人とは何か」についての定義を引用しましょう。

 「ポストモダン思想とは、簡単に言えば西欧を近代まで支えてきた「知」や「科学」といったものに与えられた絶対主義を相対化してみせる思想的営為である。しかし、私の「究極の相対主義」にはそもそも前段階からして根拠も目的すらもない。つまり出発点からして相対化するべき何の根拠もなければ、目的も私にはないのだ」

 「だから、私の相対的な感覚には、底がスポンと抜けていてそこからブラックホールのような穴が顔をのぞかせている。虚人という人種はそこを自由に行き来できるのである。どんなものに対しても根拠なく受け入れ、そこに立つことができるのが虚人の強味なのだ。これはいわゆるニヒリズムとは似て非なるものである」

 現代思想史のなかに自分を位置づけています。これは凡百の書き手にはいえないことでしょう。だって、その通りの「実績」に基づいてポストモダンすら超えてしまっているのですから。

 でもやはり興業の人なので、お金にかんするエピソードはシビアなものもあります。一銭もないのに契約料の何千万を用意したり、あるいは大赤字で逃げてみたり、波瀾万丈です。もうかった興業のエピソードで面白かったのは、インドの奇術師をあつめて、なぜか「アラビア魔法団」とイベントを銘打って、客がわんさかときたことです。このテキトー感も、虚人の虚人たるゆえんなのでしょう。すばらしいと思います。

 康さんは「カオスを生き抜け」と言います。確かに、現在は安定や安全、安心が崩壊しつつある時代かもしれません。康さんはこの本で、明日が見えないのであれば、自分で世界をつくってしまえと現代人に発破をかけているように思いました。

 ちなみに、いまはノアの方舟を探すプロジェクトを温めているそうです。「なぜそんな変なことばかりするのか?」と問われると、「退屈しのぎ」とのこと。憧れますね、虚人の生き方。

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テレビ作家たちの50年

2010/01/05 21:54

テレビの「本来のパワー」とは

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 いまテレビをめぐって語られるたびに、「かつてのテレビは…」という言葉がでてきてしまうのはないでしょうか。かつての番組は面白かった、かつてのテレビは元気があった、などなど。視聴率でも内容のおもしろさでも、テレビはかつての勢いを失っているようです。

 たしかに「昨日のあの番組見た?」というような会話は今は成立しないでしょう。理由はさまざますぎて、いちいち挙げるのは無理ですが、一言でいってしまえばメディアや娯楽が多様化してしまった上、スターという存在がいなくなったと同様に、人気番組というものがなくなってしまったからでしょう。多チャンネル化で自分だけの趣味の番組がかつてのように苦労せずに見られるし、ユーチューブで好きなコンテンツを見続けることもできます。映画好きならば録画しておき、休日にごろんとソファに寝転がって、大画面で鑑賞することもできます。

 この本はテレビの黎明期から現在まで時代を沿いながら、放送作家たちが何を考え、何をしていたのかを本人たちが振り返る回想集です。まさに「かつて」のテレビが輝いていた時代をつくってきた人たちの証言です。

 テレビに夢中になるのはやはり10代のころでしょうか。私は40代なので、はり70-80年代の番組の裏側についての証言がおもしろかったです。テレビ黎明期の「おとなの漫画」「シャボン玉ホリデー」ですと、歴史としか感じられないので、そこらへんはとばし読みしてしまいました。

 印象深い証言がありました。「八〇年代はテレビが本来もつメディアのパワーを発揮しはじめたときである」と、「オレたちひょうきん族」や「笑っていいとも!」などを手がけた横澤彪さんは振り返っています。信頼性では新聞・出版に劣り、完成度において映画に圧倒されてきたなかで、フジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズでメディアに殴り込みをかけました。つまり、テレビがみずから「軽薄短小」であることを自覚をし、「軽チャー」を追い求めていくという、現在まで続く路線をはっきりさせたというのが80年代だったわけです。

 「ひょうきん族」の作家の大岩賞介さんや、「笑っていいとも」の高平哲郎さん、そして「夕やけにゃんにゃん」の秋元康さんの回想を読むと、とにかく現場に活気があったことが伝わってきます。一生懸命におもしろがって、みんなでネタをつくりあげていく。成功することのはじまりは、どんな世界でもいつもそうですね。

 興味深く重なり合うのは、そういう時代の85年にまったく新しいスタイルのニュース番組「ニュースステーション」がはじまったことです。旧来のインテリジャーナリストではなくタレントの久米宏さんがキャスターとなって、バラエティ色が注入されたことです。担当の鵜沢茂郎さんによると、政治ニュースを面白く伝えるために、自民党総裁選の派閥の人数は久米さんが積み木を積んで示したところ、大受けだったそうです。いまではニュースをビジュアルで伝えるのは当然ですが、わずか30年前で、それは画期的なことだったのです。

 考えてみると、テレビが総バラエティとなり隆盛したはじまりであり、現在は皮肉にも総バラエティであることによって、人びとがテレビ離れをしているのではないでしょうか。最近BPOが提言しましたが、テレビがお笑い芸人の内輪話などばかりで公共性をうしなっていることが問題とされています。かつての「ひょうきん族」もある意味では内輪受けをあえて見せることで視聴者と一体感をもったのですが、いまは逆に乖離してしまっている。

 テレビ全体の視聴率は落ちてしまい、次になにをするかが分からないというのが現在のテレビ状況ではないでしょうか。時代は循環し、揺り戻しがあることはテレビも同じようで、最近はまじめさと教養を前面に出す番組が増えているそうです。それが視聴者を取り戻すことになるかは、まだ分かりません。

 ニーチェにならって「テレビは死んだ」と言うべきなのか、それともそうではないのか。本書の記録された時代時代の証言を読みながら、ふとそんなことを考えました。

 10代のころはザ・ベストテンの順位とか、夕焼けにゃんにゃんの誰がかわいいとか、本気で友達と語ったことも思い出しました。テレビがまたそういう存在になるとは思えませんが、少なくともメディアとして、横澤さんが言うように「本来のパワー」が何であるかが模索されている時代なのだと思います。

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楽しむことこそよかりけり

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 時代小説家の著者が、80歳をすぎた自分にひきつけながら、貝原益軒の「楽訓」を心にまかせて解説をした本です。私は自己啓発本は憎むものですが、古典から人生訓を教わるのは好んでいます。「養生訓」で知られる益軒ですが、「養生訓」は83歳の時に書かれたもので、この「楽訓」は80歳の時のものだそうです。益軒は主君に恵まれ、京都、長崎などを遊学し、全国各地を旅をし、ひたすら学問を楽しんだという、うらやましい人生を送った人です。

 この本から「清福」という言葉を教わりました。なかなかよい言葉だと思います。その意味は童門さんの注釈によると、まず心を静かにして、「読書・、詩作・月花すなわち自然を愛する・四季の移り変わりを楽しむ」、そして「食事についても。ゼイタクなことをいわずに国になれた粗食でも結構たのしめる」といいます。

 「楽訓」というくらいですから「楽しみ」をといた書であります。もちろん、それは快楽という下卑なものではなく、書にしたしみ、自分を磨き、人によい行いをし、自然を愛で、心安らかにすることです。

 こういう本を読むと、なぜ人々は欲深いのだろうかと思います。そこそこでいいではないかと。このあいだ、ある人と「来年も、食べるだけのお金があって、友達や家族と楽しくくらしていて、楽しいねっていえたら、お互いいいね」と話をしました。それでいいんです。

 童門さんの語り口は、都庁のお役人で苦労したこともあってなのか、とても含蓄に富んでいて、そして分かりやすいです。
 中国や日本の古典には、当たり前のことが書いてあります。当たり前と感じるのは私たちが、それを当たり前だと感じるような世の中に生きているからです。それは儒教的だといえるのですが、儒教的なものにも「楽」があります。孔子をしてからして、学ぶこと自体が楽しくて楽しくて仕方がなかったようにみえます。

 心静かに、楽しみましょう。楽しむことこそよかりけり。世に俗物は多いですけれど。

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紙の本夜にはずっと深い夜を

2010/01/13 05:37

文学的クオリティ高い

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 妄想系というか、引きこもり系というか、ぶっ飛んだパフォーマンスで知られる鳥居みゆきさんの初めての小説集「です。活字でも?カルト女芸人?の名にふさわしい、奇妙な味わいの世界を作り出しています。

 いくつかの掌編からなっていますが、華子、葉子、のり子といった、いずれもいびつな感情や過剰なこだわりにとらわれる人物たちが、不条理な一人語りをするというお話です。怖いテーストでもあるのですが、独自のユーモアも怪しく輝いています。

 「だんごむし」という小説は、自身の自画像のようです。

「ゆりちゃん わたしが石の下にいるのは 陽があたらない為なの 御天道様に あてて貰う陽が勿体ないから ゆりちゃん あたしの体が黒いのは 闇に紛れる為なの ゆりちゃん こんなわたしが生きているのは 人間共が人間として生きていく為なの 見える世界がでかすぎるから けれどもわたしのような存在が あなたの天使のような無邪気さを 破壊したいと思うのは いけないことでしょうか」

 なかなか太宰治的な怨念のテーストがはいっていて、結構な書き手だと思います。ゴミ屋敷の女のつぶやき、地獄の記事を依頼され狂っていくライターの独白など、設定もこったものが多いです。

 劇団ひとりさんの「陰日向に咲く」もそうですが、いまは表現をみてもらいたいという人たちは、お笑いを入り口にするようですね。お笑いで認知してもらって、本当に自分がやりたいことをやる、と。お笑いができない表現者には受難の時代でしょうか?

 いずれにせよ鳥居さんは相当の書き手と見ました読むの暗い気分になりながら、じわじわとユーモアを理解して、笑いがこみあげてくるという作品たちです。

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