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野あざみさんのレビュー一覧

投稿者:野あざみ

13 件中 1 件~ 13 件を表示

生活者・中村哲の半生記

11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アフガニスタンに向けたはずの援助の眼差しは、いつの間にか、日本に向けていた。

 「医師・中村哲」や「ペシャワール会」の響きは、何となく聞き覚えがある程度だった。アフガニスタンで農業指導に取り組むNGOぐらい。テレビや新聞が報じる通り一遍の印象を超えない。作家、澤地久枝さんが聞き手となって引き出す、中村さんの数珠の言葉に期待した。
 
 テーマは豊富、読み方は幾重にも分類できそうだ。アフガニスタンやタリバンの見方、ボランティア観、同会に向ける日本の政治家やマスコミの反応まで。表現に回りくどさがない分、考えるヒントとして即効性がある。

 「ボランティアとして残せるものがあるとすれば」として、2つ挙げる。一つは「命の水路」と呼ぶ農業用水路。もう一つは「生きていく上での水と同じように比重が重たい」と感じたマドラッサだ。

 マドラッサは、モスクを中心に据えた部族の寺子屋であり、長老会議の場であり、鎮守の森のような存在という。米軍により破壊されたマドラッサを建設することで、「地域共同体の要」を再創造しようとしている。
 
 破壊する側の米軍は当然、その重要性を理解しない。だからこそ、攻撃対象とするのだし、国連や欧米、日本の団体も「タリバンを生み出すところ」と見て、援助項目から除外しているという。代わりにモスクを排除した国民学校を押し付ける。
 
 マドラッサ再建は「奪われた自主性を取り戻すよすがとなり得る」と強調する。中村さんのぶれない徹底的な生活者目線は傾聴に値する。

 しかし、日本の政治家やマスコミはあまり関心がないようだ。「伊藤さん事件」では、中村さんの「見通しの甘さ」を炙り出そうと躍起になった。アフガン政策では、相変わらずの米国追従。本気で疑義を差し挟もうとしない。
 
 「テロの温床は先進国の病理。自分たちのなかにある。それを外に転嫁して、タリバン掃討だとか言っている」
 
 本書のアフガン情勢は、あくまでも中村さんの一人語り。信ずるに足るか。しかし、現地から信頼と尊敬をかちえた事実が、彼の見立ては的を射ている証となる。一方で、アフガニスタン情勢や中村さんの活動を、日本に居ながら評論する人たちの説得力や信ぴょう性は、いかがなものか。精度の差は、火を見るより明らかだ。


 澤地さんの卓越したインタビュー力も読みどころ。クリスチャンとして感じたイスラム文化圏、おじ火野葦平の影響、妻子との関係など、立ち入ったエピソードもふんだんに盛り込まれている。人間中村さんの奥深さが、随所に感じられる。
 

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災害時代を生き抜く指南書

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大雨の中、臆病者の私は目前で起こる道路冠水に行く手を阻まれ、脇の空き地へ避難した。直後、水たまり程度の水位が、ほんの数秒で大人の腰辺りまで上昇。100メートル先の対向車は突破を試み、タイヤが飲まれた。車を捨て、ぼう然と歩く運転者の表情が脳裏に焼き付いている。
 事無きを得た私の行動に、本書で答えを見つけられた。不運が迫っている現実を受け入れただけのことだった。しかし、その受容が、運命の分かれ道となるという。事例規模の大小、特異性は一切関係なく、本質は同じだ。
 本書で扱われる事例は、海外で起きた大災害やテロだ。米タイム誌ライターの著者が、生存者の証言から探る。生存へと向かう道筋は3つの段階を経ると説く。まさか自分には降りかかるまいとの「否認」、遭遇したショックから舞い戻る「思考」、生死を分ける行動に移る「決定的瞬間」だ。
 中でも「否認」は、身につまされた。「9.11」で、世界貿易センタービルにいる人たちはパニックにならなかったという。衝撃を受けても、デスクの私物をまとめたり、連絡を取ったり、しばらくとどまり、「驚くほど従順に」階段を降りていた。発生当初における事態把握の困難さをつぶさに物語っている。1993年の同ビル爆破事件の経験者は、その経験により「ビル崩壊」という想像力を奪われ、余計に矮小化させてしまったようだ。
 2005年にニューオーリンズを襲ったハリケーン「カトリーナ」も、同じ構図。数多くのハリケーンを潜り抜けた高齢者の経験が、「避難する」選択肢を脇に追いやった。過去とは違い、複雑に発展した町並みが、想像を絶する甚大な被害をもたらした。移動手段を持てない貧困さが、被害拡大の要因とばかり思っていた。それだけに、家族と資力に恵まれた一老人の「避難せず、自らの経験に賭けた」事実は、頭をガツンとやられるような衝撃だった。
 冠水している道路に危険を察し、停車させた私の判断は、ささやかな行動だ。だが災害の大小に関わらず、回避するためのプロセスの根底に、同じ論理がある。「メッカ巡礼者の圧死」の事例は、通勤ラッシュの電車内やホーム、「カトリーナ」は台風と置き換えて読めるだろう。
 常に災害と隣り合わせに生きていると、改めて気付く。
 一方、著者は、災害から身を守るマニュアルや情報提供の在り方に警鐘を鳴らす。行政や企業は、大衆をパニックに陥る「愚か者」と見て、マニュアルは安全管理者向け、情報提供は最小限に止めようとする。しかし、実際は「故なきもの」で、「恐怖の対象を知れば知るほど、恐怖を覚えずにすむ」という。また、感覚麻痺やパニックなどは「必ずしもマイナスではない」とし、人間の行動科学の書としても読める。
 生きる術と勇気が、余すところなく詰め込まれた良書だ。
 退屈だった避難訓練、錆びて交換を指摘された家の避難ハシゴに、関心を持たざるを得なくなった。

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想像力の系譜たどる野心作

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本SFが、源流を幕末まで遡れる事実に驚いた。あのころの未来は、どんな将来予測を立てたのか。明治、大正、昭和と時代と共に変遷していく「精神史」、つまりSFする心は、何を伝えようとしたのか。本書にびっしり詰め込まれている。
 
 文明開化の下、明治15年発表の貫名駿一「星世界旅行」は、広がる世界観を描く。話者は「腕力」「智力」「文明」と3世界を訪れ、地球より、進んだ世界もあれば、遅れた世界も示した。道徳的成長を遂げ、政府も法律もない「文明世界」は、理想郷として描かれている。根本には無政府主義思想より、「身分制度からの解放が、一つのユートピアだった」と著者は指摘する。また同時代の特徴に、話者は乗り物で移動するのではなく、「魂」だけが飛んで行き、見聞を広めるスタイルも興味深い。

 明治時代は他に、民権から国権へと、政治的啓発を扱った作品が多かった。参政権、憲法といった政治参加の意識醸成から、国力の強さを前面に覇権主義を示唆する作品へと移る。

 異彩を放ったのが、村井弦斎だ。「発明と恋愛による社会改良」を主題に、男女間の平等な結婚やアイデア品発明、食生活改良を多く扱った。いささか楽観主義ではあるが、著者は、「民権でも国権でも達成できない真のユートピア建設への近道と考えていた」と解説する。
 
 著者によると、胸のすくような一発逆転や救世主の登場を描くことで、「そんなことはありえない」現実の空しさを表すのも、日本SFの特色という。昭和7年発表の海野十三「空襲葬送曲」は、東京が大空襲に見舞われ、新兵器による逆転勝利で幕を引く。勝ったとはいえ、取ってつけたような展開だった。軍部から発禁処分を受けたことから、当時の状況について的を射ていたと推測される。

 SF界に金字塔を建てた昭和48年出版の小松左京「日本沈没」も、同様の意味合いが込められていた。危機に瀕し、国民の生命を守るため奔走する国家像が描かれていた。保守的で復古調の作風と受け取った識者もいたという。しかし、実際、そこまで腹をくくる政治家はいるのか。ましてや当時の田中角栄首相が唱えた「日本列島改造論」による本土破壊と同時代だった。慈しみ、守る政治家など、幻想に過ぎない。

 時代に根ざして未来を見すえる力と、体制になびかない批評精神をこれからも読み続けたい。本書の熱き思いに触れ、あらためて思った。

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紙の本リハビリの夜

2010/06/13 06:02

脳性マヒに感覚から肉迫

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 脳性マヒ当事者の官能的な体感描写に、グイグイと引き込まれた。

 強張った身体がリハビリトレーニングの絶対的な力に屈し、ほぐされる瞬間。そして夜、厳しいトレーニングから解放され、床と重力に、ぺとりと身体を任せる。快感が訪れる。

 生まれつき随意運動に障害がある著者。身体に動かしづらさはあるが、言語機能に障害はない。ひとくちに脳性マヒといっても、障害の種類や程度は千差万別という。

 著者の場合、認知は有効に機能する。少年時代までは、「目指せ、健常者」を強いられた。身体を健常者のようにイメージ通り動かせないのは、「心の問題」と決め付けられためだ。「回復目標は青天井だった」と苦しさを明かす。

 身体が機能するには、適度の緊張とあそびのバランスが大事という。また、各部位に出される指示は、脳への一極集中を避けるため、ある程度は部位間で出される構造になっている。脳性マヒになると、その構造が常に緊張した状態。コップを持ったり、歩いたりといった日常生活の何気ない動作に大変な困難が生じる。

 訓練による克服を課せられた著者は、動作に健常者基準を求められた。トレーナーが準備体操的に身体を解ききってくれる時間は、すべてを預けた身体が柔らか味を増し、しばし甘美な感覚に耽れる。

 しかし、次の段階でつまずく。動作イメージはできても、常に限界の壁にぶち当たる。トレーナーの期待に応えられないと、焦りが生じ、さらに動作が逸脱し、また焦りがこみ上げ、終いには「自壊」する。

 「自分にあう動作イメージがあってもいいのではないか」

 訓練の末、生き方のパラダイム転換に至り、大学入学を機にひとり暮らし。ドアの鍵の開け方、段差の越え方、そして最も大切なトイレとの付き合い方は試行錯誤の連続だった。自らを取り巻く「モノ」との間に独自の関係性を築き、次いで「ヒト」に援用していった。
 
 身体を動かし、社会に生きる上で、いかに違和感を取り除けるか。もちろん健常者とは異なる手法があって当然。「触れるように触れられたい」と、心境を説く。読み手の心へ、寄せてはかえす波のように、じわりと染み渡る。

 イラストは笹部紀成氏。真面目さの中に微量の可笑しさを湛えている。深刻なテーマにもかかわらず、淡々とした著者の筆致にマッチしている。

 本書は、脳性マヒで発声機能に難しさがある人たちの身体性まで含め、つぶさに代弁している。人間の重厚な身体世界を目の当たりにでき、「よくぞ語ってくれた」に尽きる。欲を言えば、次回は小児科医として生きる世界観に、焦点を当てた告白を期待したい。

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普遍の介護論

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ホッとさせてくれる一冊だ。
 重い病を持つ親族に、一瞬でも抱いてしまう「もう逝ってくれ」との気持ちは「アリなんだ」と思えたから。
 本書の著者はもちろん、難病に苦しむ母を最期まで看取る。しかし、介護の苦しみに耐えかね、さじを投げたい真情も触れ、素直に共感できる。
 副題は「ALS的日常を生きる」。神経が壊れ、筋肉が衰えていく母の身体。運動機能に加え、徐々に意思表示まで失われる。「病気の希少さ」ゆえに、あきらめたくなる母の命。向き合うことで、著者の五感が豊かに広がっていくあたり、逆の意味で成長物語だ。
 病床の母との対話は、時には激情に駆られながらも、声にならない本音を聞く心境に至る。そう、まるで「花を育てる」ように。逝って然るべきだった身体が長らえることで、縁を取り持ち、視界を開いてくれる。母はいつまでも、母だった。
 ALS発症者は10万人に3、4人とわずかだ。けれども本書に描かれる当事者や介護者を通して見える人間像は、万人に教訓を与えてくれる。患者のわずかな言葉に対し、家族は自らに都合のいいように解釈してしまう、と。

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蝕まれる沖縄への処方せん

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 米軍普天間飛行場の移設問題が、連日のようにニュースを賑わす。関係閣僚のかみ合わない発言や米国の反応から、鳩山首相の「最低でも県外移設」「5月末までに結論」は空しく聞こえる。だが、今の百家争鳴状態は、日本人の沖縄に対する語られなかった本音が、垣間見えて興味深い。
 本書は沖縄における米軍駐留を縦糸に、政治・経済・環境・社会分野の沖縄県内外研究者10人による提言書。県民性の清濁合わせ飲んだ上で、道筋を示した点に説得力を見た。
 基地に侵食、脅かされた生活を送りながらも、国による巧みな軍用地代引き上げで骨抜きされた地主たち。基地受け入れの見返りに得た高補助率の振興策で、せっせと箱物を造った挙句、国依存体質から抜け出せない自治体財政。この悪循環を断ち切るには、対米追従外交に疑問を持つことから始めるしかないようだ。
 沖縄国際大学の佐藤学教授が担当した第2章「米軍再編と沖縄」は、移設問題が混迷の度合いを増す理由を明確に示している。政治生命を絶たれかねない「米国の恫喝」を恐れる外相や防衛相。さらに、米国国務省や国防総省の「知日派」とされる人物のコメントを多用するマスコミが、米軍再編を沖縄に押し込めようとする構図だ。
 だれだって「現状維持」が、波風立たず楽だ。しかし、日本全体が米国との関係に、もっと疑問を持つ余地がありそうなのだが。その声が、米国の外交政策に変化を与える可能性を、佐藤教授は指摘している。
 例え、仮に広大な普天間飛行場が返還されたとしても、理念なき跡地利用では覚束ない。第6章では、米軍住宅地が返還され、現在は「新都心」と呼ばれている地区の成り立ちについて検証している。
 米軍からの返還が決まり、行政と地主たちは「文化の薫り高き街」を目指したはずが、収益重視に走り、商業地区化に舵を切った。土地利用計画は立ち枯れ、遊興施設のイルミネーションが目抜き通りを彩る結果となった顛末を追っている。
 「まちづくりは百年の計でやるべきだった」。地主協議会会長の反省の弁だ。「まち」をそのまま「くに」に置き換えても通用するだろう。どこまで後戻りすれば、理想に近づけたのか。そんな考えを抱いている。

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スポーツ報道を疑え

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 スポーツ報道に、どこかしら違和感を抱いている人に、まずは薦めたい。報道する側の視点が、モヤっとした見えない場の空気に、いかに頼っているかを垣間見せてくれる。
 今年は冬季五輪にサッカーW杯と、ビッグイベントが相次ぐ。去った五輪報道では、同じ競技にもかかわらず、女性選手には可愛らしさや壮麗さ、男性選手には力強さに集約する切り口が見受けられた。
 間近に迫っているW杯では、「日本らしい戦術」をキックオフ直前まで模索していくのだろう。
 本当はそんなもの幻想なのに-。本書は、元NHK記者である著者が、ジェンダーやナショナルなどの観点から、自戒を込めつつ紋切り型報道が行き渡る現状を批判する。
 女性アスリートにまつわる周囲の支えやメンタル面の課題を、本人の能力より厚く扱う傾向があるという。テニスやバスケット中継でも、男子の場合は「強さ」を多く使い、一方で女子は「弱さ」にまつわる表現が頻出すると指摘している。
 岡田氏がオシム氏から、サッカー代表監督のバトンを受け取ったときは、「日本人らしいサッカー」に焦点が当たった。就任当初言われた「接近、展開、連続」。日本人の理にかなっているのか検証もないまま、キャッチフレーズとして一人歩きした事例を挙げ、「当時のメディアに語りたい欲求があった」と分析する。
 メディアとスポーツはタッグを組み、言葉を使って「われわれ国民」を作り上げる。国際大会に出場する選手の肉体が、イメージでしかない「国民」をリアルに表現する。それをメディアは、つぶさに語り続ける。
 著者はメディアスポーツには、権力性があると指摘している。あまりにもありふれているため、静かで無意識に浸透していくと。しかし、その方向性を決めているのは、メディアスポーツを享受する私たちだ。
 違和感なくスポーツ報道を受け入れている人たちこそ、本書を手に取るようになれば、メディアスポーツの新境地が開けてくる気がする。

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被虐意識の輪廻に決別を

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 記者会見で公然と語られる「相手憎し」に身を乗り出した。北朝鮮拉致被害者家族会の蓮池透さんの強制退会、時効を迎えた警察庁長官銃撃事件についての警視庁公安部長による「オウムの組織的テロ」断定発言だ。
 一見、関連の薄そうな2つのニュース。しかし、本書は、「北朝鮮」「オウム」に共通項を提示していた。日本人が両者に抱く被虐意識の根深さだ。森達也と姜尚中の正鵠を得た指摘に目が覚める。
 家族会が主張する「北朝鮮への圧力」、日本人に共有される「オウム憎し」。虐げられた者の痛みは、広く共感を呼ぶ。
 だが、報復感情は煽られる一方だ。相手を悪魔や邪悪に収れんする善悪二元論に陥る危険性を挙げ、「被虐の輪廻」では解決に近づけないと訴える。むしろ、加虐の視点を提案する。
 蓮池さんは最近になって、「圧力でなく対話」を標榜、まさに加虐の視点に立とうとした。そのために、家族会から弾き出された。「被虐の輪廻」が、対話という解決手段を追い落とした瞬間だ。同時に、多くの家族会会員がそうであるように、救われず虐げられている者が発想の転換に至る難しさも、あらためて露見した。
 公安部長の発言は、自らの過ちを棚上げし、「オウム憎し」の風潮にへつらう意図が透けて見えてしまう。
 本書は、森、姜がアウシュビッツや韓国など、戦争の傷跡をたどる。対話形式で記憶に身を寄せ、被虐意識を浮き彫りにし、その意識が新たな対立を生む構図を描く。
 「北朝鮮は外なるオウム。オウムは内なる北朝鮮」。姜は、日本人が両者を理解不能で、入れ替え自由な存在ととらえていると指摘した。
 一方、森は「社会が共有しているのは(中略)加害者への表層的な憎悪」で「第三者がどれだけ冷静に考えるかが重要」と訴える。
 被虐から加虐への転換は容易ではないだろうが、そこに人類の英知を見ることができるような気がするのは言い過ぎだろうか。

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紙の本大仏男

2010/06/10 04:51

上昇志向だって悪くない

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 参院選が近づいてきた。各党そろって、人寄せパンダとして有名人候補の擁立を表明。アピール合戦を繰り広げる。恒例行事とはいえ、毎回滑稽だ。担ぐ政党と担がれる人物は、“純粋でひたむきな上昇志向”をてこに、使い、使われ、果てていく。そんな哀愁漂う現実のひとコマを、本書から、つい連想してしまう。

 売れないお笑いコンビ「カナ&タクロウ」の成功物語。持ちネタのつもりの霊視相談が、ネットで評判となる。大仏然としたタクロウの風貌に、カナの巧みなリーディング術をミックスした霊視相談「大仏卓郎プロジェクト」で再出発。政官財へ食い込んだまでは良かったが、次第に肥大化していく。

 プロジェクトに群がる人物は、まるで上昇志向の見本市さながら。名声、出世、事業拡大。プロジェクトに協力しながらも、ひと皮向けば、欲望を前面に「勝つため」の利用に飢えている。

 一方、カナ&タクロウも上昇志向が原動力。しかし、出発点は「生きるため」。干し上がりそうな生活に直面したことから、反転攻勢に出る行動は一概に責められない。

 霊性、占い、談合、癒着と、怪しさを存分にたたえつつ、物語は進行する。だが怪しい行為にも、「存在理由」は必ずあると、タクロウはつぶやく。著者が時代に向ける真摯な眼差しを見た。
 
 翻って参院選。有名人候補の立候補に胡散臭さを感じても、出馬理由に生活上ののっぴきならない状況を見出せば、十分検討に値するかもしれない。探し出すのは難しいだろうけれど。

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問われる「鎮魂」に至る過程

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 沖縄では毎年、4月から6月にかけて歴史と向き合う日々が続く。「米軍本島上陸」(1945年4月1日)、「日本から切り離すサンランシスコ講和条約発効」(1952年4月28日)、「本土復帰」(1972年5月15日)。いずれも沖縄を知る上で外せない。最後は、「沖縄戦の組織的戦闘終了」(いわゆる慰霊の日、1945年6月23日)。ニュースは「沖縄県内は島中で鎮魂の祈りに包まれた」と、「歴史」を取りあえず締めくくる。
 
 慰霊の日は、戦没者の名が刻まれた平和の礎を涙ぐんでさする老婆がマスコミに大写しにされる。しかし、本当に焦点化されなければならないのは、「老婆の背景に」いて、「思いを共有しつつも、なんともいえぬ困惑の表情を浮かべている息子/娘たち」なのではないか。戦後64年が経過し、薄れていく記憶。戦争体験者が抱く「鎮魂」の中身を、未体験者が如何にして獲得するか。本書は問い掛ける。
 
 沖縄戦体験者を親に持つ子どもたちでさえ、当事者性の獲得は容易ではない。世代が違ってしまえば、そこに生まれ育つだけでは芽吹かないようだ。ましてや、沖縄県民以外には想像すら難そうに思えてしまう。

 看護従軍した女学生の足跡を残す「ひめゆり平和祈念資料館」。同館を訪れ、凄惨な手記を見た県外学生は違和感をあらわにした。「同窓生たちの怨念が嫌だった。(中略)。今私が泣いたら(中略)私にとってのカタルシスにすぎない」と。

 この感想文が世に出た1992年当時、沖縄の学生から「認識不足」と批判する声が上がった。だが、沖縄出身の著者は「感想文の率直な語り口に、むしろ共感」したという。県外学生が自然と抱いた「違和感」は継承の入り口で、どのような出口を見出すかが大切だととらえているからだ。

 著者はむしろ、一方的に批判する沖縄の学生に違和感を感じたという。彼らは、県外学生と沖縄戦体験者を両端とすると、その真ん中に位置し、「沖縄戦の理解度において県外も県内も学生は五十歩百歩と思った」と述懐する。

 戦争体験を継承する問いの立て方は多様で当たり前。紋切り型になってしまうことが恐ろしい。だが、県外学生が抱いた違和感は、深く議論されることなく、一つの騒動として終息してしまった。

 沖縄の格言、「命こそ宝(ヌチドゥタカラ)」は有名だが、沖縄戦の経験から生まれた。時代や人により、戦争を理解する切り口が様々に変わる証左だ。そのしなやかさこそが、戦争未体験世代に身体化され、継承される推進力になる。
 
 沖縄県民は、米軍への抗議を表すため、度重なる県民大会を開いてきた。平和志向が、県民性に生来、根付いているというより、現在も模索しながら獲得に向けて学んでいるという表現がふさわしいのではないか。いわば、不完全な状態で、沖縄の中で完結していない。だからこそ、世代や住む地域を越えて、非戦の思いが普遍的に広がる余地がある。本書の至る所に、ヒントが示されている。

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プロ野球 もう一つの成功秘話

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 プロ野球キャンプたけなわ。ひいきの球団を見に行くと、堂々とした主力やキラめく期待の新人に混じり、一人3ケタの背番号を付けた2年目の選手がいた。育成枠入団の彼は、いわば現代版の「ドラフト外」。本書に登場する11人の名選手と同じ土壌にある。
 育成枠入団は、2軍の試合でアピールし、球団と新たな契約を結ばないと、1軍に出られない。いわば、試用期間。しかし、彼は1軍選手のキャンプで始動するあたり、大抜擢に等しい。ランニングやキャッチボールなど、練習は隅っこでこなしつつも、必死さが漂う。ファンとしては、何年も1軍でチャンスをもらいながら脱皮できない「1軍半」の選手より、はるかに期待してしまう。
 1991年までは、今の育成枠の前身ともいえる「ドラフト外」という入団制度があった。ドラフト指名に掛からないまでも、スカウトから可能性を見出された選手たちの受け皿だった。
 本書は、どん底から悲喜こもごもを経て、成功を収めていくストーリーに迫る。ロッカーの名札の名前が間違われていようと、ケガをしたところで監督から何ら気に留めてもらえなくとも、「とにかく入団した」チャンスを最大限に生かし、記憶に残る活躍を球史に刻んだ。
 生き残りを賭け、慣れ親しんだスタイルを変えるには、決心に加えて冷静な判断がいる。広島東洋カープの80年代黄金時代に飛び込んだ清川栄治は、上手投げから、変則的なサイドスローに転向した。そうそうたる投手陣を目の当たりにし、「中継ぎで左打者を完璧に抑える」ことに活路を見出したからだ。「チャンスは平等じゃない」との当時の三村敏之コーチの言葉が原動力だった。ブルペン練習は誰も注目しない。左投手が苦手な主力打者の打撃投手を買って出て、アピールを重ねた。途中登板を重ねながら、27人の打者を完璧に抑える「パーフェクト」を遂げ、中継ぎのエースと呼ばれるまでに成長した。
 通算2425安打を放ち、現在もカープで現役を続ける23年目の石井琢朗。大洋ホエールズ(現横浜DeNA)に入ったときは投手だった。しかし、打者としての可能性に目覚め、3年目で投手に見切りを付けた。手薄な投手陣を支えてほしかった首脳陣を説き伏せ、練習好きでならし、自らの生きる道をひたすら精進する姿は、修業そのもの。悩み多き若手が信奉するのもうなずける。
 中日ドラゴンズへ82年に入団した上川誠二は、「結果を恐れず」前へ進み、ミート打法を会得した。レギュラー獲得後、落合博満との「世紀のトレード」でロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)へ行っても、「新たな競争」に闘志を燃やした。常に自らに足りないものを探す心意気は健在。引退後は三塁コーチとして、本塁突入へ、腕を回すか回さないか、瞬時の判断を追究している。
 2009年の新人王を獲得した読売ジャイアンツの松本哲也は、育成入団の星だ。身長は168センチ。プロのパワーに圧倒されながらも、走力と守備力を磨いた。強打者ぞろいの中、粘りを身上に2番打者の役割を徹底、日本一へと勢いを付けた。
 プロ入団時の期待値は、選手まちまちだ。しかし、だれが活躍するかは分からない。実力に加え、人との巡り合せが左右する。そんな状況下で、自分の武器をコツコツと磨き続けた生き様に、そこはかとなく熱いものを感じた。
どんなわずかな輝きでも、いったん球場で放たれれば、不特定多数のファンの心をつかむ。いつまでも残像を結び、語り草となる。淡々と振り返る選手と著者の共同作業が、新たな選手像を掘り起こした。人間として惹きつける魅力は、ひいきチームの枠を越えて訴えかけてくる。

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紙の本現代霊性論

2010/10/02 03:35

スピリチュアルのたしなみ方

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人間の営みあるところには、必ず宗教性や霊性が潜んでいる。仏教、神道、キリスト教など古来からの宗教とともに、現代人の心をとらえるスピリチュアルブームは、霊性から離れられない宿命を表す証左なのかもしれない。だが物事に表裏があるのは、自明の理。いかにして毒にあたらず付き合えるか。ヒントが、本書に詰め込まれている。
 
 俗世間と通じ合うパイプを持つことが、宗教の怪しさを図る物差しだという。だから、スピリチュアルブームは、一つの処世術。独善的にならない限り、受け入れられて然るべき現象だろう。しかし、テレビからはパタリと姿を消して数年がたつ。
 
 江原啓之や細木数子は、一対一で成り立つ、占い的要素が強かったのだろう。本書は彼らを「民間宗教者」として位置づけ、個人の語りに合わせることで初めて道を示せる存在とした。不特定多数が相手では危険である一方、自ら手に取る「書籍」という形では依然、多くの支持を集めている事実もある。求める者は、彼らから、歩む道を得られるのだろう。
 
 本書のスタンスは、「前世や生まれ変わりは、エンターテインメントとして楽しむ限り、大いにアリ」。日常を軽視せず、傾斜しすぎない付き合い方が、たしなむ流儀だ。そのバランスの難しさを自覚するだけでも、十分にわきまえているといえるかもしれない。
 
 現代は、「再-呪術化」の時代という。土俗的宗教性が薄れ、いわば「儀礼枯れ」ているなか、「私だけの儀礼」が求められる。
 
 「スピリチュアル コンベンション(スピコン)」という、催しがある。アロマ、占い、ホメオパシー、気孔、波動、スローライフなど、スピリチュアルを扱うブースが一堂に会する。それらは、自らの変容や神秘体験といった身体的側面を重視し、医療・福祉・教育にも幅広く影響を及ぼしている。
 
 本書は内田樹と宗教学者の釈徹宗による、神戸女学院大学大学院で行われた掛け合い講義。釈は、スピリチュアルを、「あらゆる宗教の源流、共通基盤」と評している。「円卓会議のように対話できれば、『共有できる力』につながり、現代霊性論がうまく機能する」と提案する。そのためには、何より、「閉じない」ことだという。

 巻末にある聴講生からの質問コーナーは、他愛無いが聞かずにはいられない「?」が満載。「タロットで32歳まで結婚できないと言われた」「今年は大殺界らしい」「友人から新興宗教に誘われてます」「死後の世界は、どうなっているのか」。あなた自身なら、どう答えるか。考えてみるのも、スピリチュアルと末永く付き合う一手段なのかもしれない。

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勤めて気付く仕事観

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 鼻につく話かもしれない。1990年代後半から2000年代前半に就職活動した「ロストジェネレーション」たち8人の転職活動記。名だたる大学を出て、就職を果たした。「派遣」「臨時」と、厳しい立場に置かれる人たちからすれば、贅沢な悩みと映るだろう。しかし、だれもが抱く仕事観の変容ぶりをつぶさに記録している。
 
 著者は、自らの高校中退体験やニートの取材を発表した。一方で順調に歩んでいるように見える学歴エリートたちの姿を描くことも、また、実態を残す上で必要と感じたことが執筆動機と語っている。
 
 官僚、金融、商社、外資と華々しさに満ちた世界を勝ち取る。彼らを再び、「就活」へと駆り立てる要因は何か。「石の上にも3年」「無駄な経験はない」。一昔前ならば、耐え忍ぶ力不足で片付けられただろう。

 しかし、働くことによって、初めて気付く自らの適性は、あって然るべきだ。甘さを指摘されれば、返す言葉はない。ただ、「良い大学から良い就職へ」というレールが終着駅に到達している見方もできるのではないか。

 特定業界に固執し、仕事観があまりにも柔軟性を欠き、選択肢は豊富に見えて、実は窮しているケース。走り続けることでしか、不安を払拭できないケース。大企業が色褪せて見えるケース。はたまた、自分に何が向いてるのか、やっぱり見えないケースなど、各々の苦悶をあぶり出している。そして見出した人生観は。

 10年、20年先の彼らの姿をぜひ知りたい。点ではなく、線で結びつけてほしい。

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