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先月(2017年8月)

多川 至さんのレビュー一覧

投稿者:多川 至

2 件中 1 件~ 2 件を表示

紙の本超訳『資本論』

2010/11/16 21:02

『資本論』の今

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『資本論』とは何の本か。それは、資本主義のメカニズムのマニュアルであろう。レーニンはこのマニュアルを活用して共産主義革命実現へのプログラムを開発し、実行した。しかし、それは一つの活用法ではあっても、唯一ではなく、ソ連崩壊によって、『資本論』も、やっとレーニン等の独占から解放された、と言える。つまり、もう、いわゆるマルクス主義云々等と言うことを前提にする必要はない。どう活用するかは、読み手が自由に決めれば良い。
 当然かもしれないが、マニュアルというのは専門用語が使われている。ここでは、マルクス語、だが、専門用語は、違う言い回しを考えるよりも、そのままで使い方を覚える方が効率的だと思う。外国語の習得、と思えば良いのだ。『超訳』は、まず、マルクス語に馴染むためのトレーニング教材、として考えて良い。その意義は、決して小さなものではないのだ。
 例えば、労働力の支出、という言葉が出てくる。私には、これを平易な現在の言葉に言い直す学力はない。だが、見慣れてくるにつれて、意外にイメージ出来る。すわわち、働けば疲れるし腹も減る、それは体力を消耗したからで、使って減らした体力エネルギーは、収入を得るための仕入れ費用、と考えてゆくと、労働力の支出、というのは、なじみ難い言葉だが、なかなか正確な表現、ということが、わかってくる。
 単純に考えれば、経済学とは、今の自分に何が出来るか、を教えてくれるものではないだろう。対して、『資本論』は、階級闘争ということを提示ている。なぜなら、実は、働く人が資本主義経済社会の主役であり得る、ということを証明しようとした試みだからである。自分の権利は自分で守る、と言うだけでは教訓の域を出ないが、階級闘争、という言葉に置き換えてみると、常に変化している社会、という次元が見えてくる。いきなり階級闘争と言うと、アレルギーを起こすかも知れないが、ようは、社会経済の統計数字ではなく、資本主義社会の中での、働く、生きる、そのあり方がテーマ、ということなのである。その試みは、資本(今風に言えば会社)の利益ではなく、労働、を基点にする姿勢から察することが出来るだろう。
 そもそも、『資本論』は、一気に読み通せるような本ではないし、研究が目的でないときは、3巻の最後まで読み通す事にこだわらなくてもよい。例えば、(内心では自慢していても)俺はこの分厚いパソコンマニュアルを最後まで読み通した、と公言する人はいないだろう。マニュアルは、読むこと自体に価値はない。どう使うか、なのである。むしろ、必要なとき必要なところだけ読む、というのは、マニュアルの使い方としては普通である。ただし、どこが必要か、自分に役立つのかは、やはり読んでみないとわからないという泣き所がある。いわば、マニュアルのマニュアルが必要、というケースだ。『超訳』の意義は、そこにもある。
 そして、使える、思わぬヒントになるかも、と思われる言葉が見つけられれば、それでよい。一例を挙げれば、いわゆるサービス残業。やらざるを得ないとしても、もとより当然ではない。では、断れるか。そのとき、労働力商品、という言葉が、断ろうという強い気持ちの支えになり得る。商品ならば、当然対価を必要とする。つまり、残業手当をフルに、である。そういう使い方は、労働力商品、という言葉に込められたマルクスの意図を読み違えているとしても、サービス残業への疑問、歯止めとして役に立てば、マニュアルの活用事例としては申し分ないのである。そういう使い方(読み方)で十分なのである。
 では、最終的に、レーニンとは違うプログラムを開発できるか。これは難問だが、べつに出来なくても良い。もちろん、いわゆるマルクス主義哲学、マルクス経済学(さらには、歴史学、社会学)を目指す義務もない。もっと言えば、『資本論』に書かれていたと言うことを忘れても、かまわない。必要性を感じた時、改めて、最初から最後まで読めば良いのである。いずれにしろ、個人の指針のためのマニュアルとしての価値は、資本主義が続く限り、拾い読みでも損なわれない。なぜなら、『資本論』は、資本主義を前提にした本だからだ。したがって、例えば、共産主義革命が成し遂げられれば、『資本論』の意味は見えなくなる(マルクスではなく、レーニンやスターリンの言が基準になった)。
 すなわち、既成概念や先入観にとらわれずに、自由に『資本論』が読めるときがやっと来た、ともう一度言っておきたい。資本主義経済が続くことは、じつは『資本論』の真価の証明なのである。いわゆるグローバル化にしても、まだまだ『資本論』の掌の上のことに過ぎない。『超訳』という試みは、そのことを、改めて明らかにしている。

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国家とは何か

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 国家について論じることは、そもそも何について論じることなのか。国家論は出発点が曖昧だと、考えているうちに方向を見失う可能性があるだろう。つまり、国家がテーマであるときは、論じ方も問題になると思う。そのことを含めて、問題をわかりやすい言葉で論じているのが本書である。
 それでは、田原、姜、中島の三論客はなんと言っているのか。国家とは夢だ、と言っている。つまり、国家を論じることは、夢を論じることだ、である。実際にそういう言葉を使ってるわけではないが、そのように読める奥行きが三人の論客の論の本質である。
 したがって、国家を論じることが不可欠、という言葉は、夢を論じることが不可欠、と言い換えてよい。ただし、それは、夢を論じねばならぬ時がきた、と考えるか、タブーから解放されて夢を論じられるときがやっと来た、と考えるかによって、趣は逆になるかもしれないが、その二つの面があることも忘れてはならないことだ。

 人間にとって、実現可能とおもわれている最高の夢、それが国家であることは、じつは自明のことである。最高権力者、国家の支配者を目指すというのは、夢の実現を目指すことに他ならない。すべての政治思想、宗教も、夢の正当化の道具、と言っては身も蓋もないが、政治家、政治の役割は夢の実現をめざすことだ、と言えば、ほとんどの人は納得できると思う。
 人は、誰でも夢を見る、という意味では、人間は平等である。また、夢に優劣などもあり得ない。したがって、違いが出てくるのは、どの夢の実現を目指すかという選択の違いと、実現を目指す道の歩み方だけだと思う。
 そして、一見自明ながら、夢、という指摘がきわめて重要なのは、人は他人の夢に従う義務はない、ということを忘れてはならないからである。タブーからの解放、というのは、他人の夢からの解放であり、解放される権利を持つ、ということなのだ。いわゆる国家論の出発点はそこであって、ギリシャ・ローマ以来の西洋哲学ではない。

 私は、やはり、タブーから解放されて夢を論じられるときがやっと来た、という感慨を禁じ得ないが、そうだからこそ、国家について考えねばならない、という指摘が納得できる。夢は誰でも見る。だから、だれでも、国家について論じることができる。それこそが、いま、大事なことなのだと思う。
 誰もが抱くような、ささやかな自分の夢、じつは、国家という夢も、その延長でなければならないのは、もう言うまでもないだろう。国家論こそ、等身大でなければならない。国家とは夢、と誰もが自覚するとき、あるべき国の描き方と論じ方の道筋がみえてくる。本書のその結論に、異論はない。

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