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玉造猫さんのレビュー一覧

投稿者:玉造猫

33 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ホームレス歌人のいた冬

2011/04/21 22:56

ホームレス歌人公田耕一を探す旅

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 2008年12月、東京に年越し派遣村ができた月。公田耕一氏の歌が「朝日歌壇」に載った。初投稿で初入選だった。住所を書くはずのところにはホームレスとあった。
 朝日新聞月曜日の短歌の投稿欄朝日歌壇は、毎週約2千5百乃至3千首の投稿歌から4人の選者がそれぞれ10首を選ぶ。この日は佐々木幸綱、永田和宏両選者が公田氏の次の歌を選んだ。重なって選ばれたので、歌の頭に星印がついた。

  柔らかい時計を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ

 公田耕一氏の歌は、翌2009年9月までに36首、ほぼ毎週、違例の頻度で入選を重ねた。

  パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる

  日産をリストラになり流れ来たるブラジル人と隣りて眠る

 朝日歌壇には、公田氏の歌に共感を寄せる歌、高齢であろう公田氏の身を案じる歌の投稿が毎週数十通届いた。
  炊き出しに並ぶ歌あり住所欄ホームレスとありて寒き日 武富純一
  生きていれば詠めるペンあれば書けることを教えてくれるホームレス公田氏 甲斐みどり
 わたしも毎週月曜はまず朝日歌壇の面を開き、公田氏の名を探した。ない日はがっかりして、なにかあったのではと気になった。公田氏の歌は清冽で、わたしに沁みた。
 朝日新聞は社会面に三段見出しの記事で公田さん連絡をと呼びかけ、天声人語でもとりあげた。ブログにも公田氏をめぐって気遣いやら憶測やらが数多く出た。ホームレス公田耕一は一つの社会現象になった。
 登場から九ヶ月後、公田氏からの朝日歌壇への投稿はなくなり、公田氏は消息を絶った。

 本書は、公田氏のその後を辿ろうと試みたルポルタージュである。元朝日新聞記者でフリージャーナリストの三山喬氏が書いた。著者は公田氏の歌に沿って、横浜市のドヤ街寿町に通い、公園の炊き出しを手伝い、キリスト教会の人がパンを配る現場に行く。ひかり湯を探し、図書館の地下読書室を見つけ、有隣堂書店や野毛山のドンキホーテに行ってみる。路上生活者に声をかける。生活館という市の施設ではもう少しで歌のなかのブラジル人をつきとめられそうだった。
 公田氏はどこにも見つからなかった。だれも公田耕一という人を知らなかった。

 著者は公田氏を見つけることができなかったが、道筋で出会った何人かの人を丁寧に書いていく。著者の筆遣いは細かく行き届き、そして暖かい。
 たとえば横浜不老町の地域ケアプラザにある識字学校に通う人々。識字学校の大沢先生。アメリカ・ロサンゼルスの獄中から朝日歌壇に投稿を続けている無期懲役囚郷隼人。大沢先生が郷隼人の短歌を識字学校で教材に使っていたという事実。著者からそれを手紙で知らせてもらった郷隼人の喜びよう。
 そういうことを通して、結果的に、今わたしたちが生きているこの社会のありようを描き出している。

 探索の終盤、著者は「もう、生身の公田がどんな人物であれ、それ自体はどうでもいいことのように」思い始める。
「公田耕一というひとりの投稿歌人が、なぜ過去に例のない空前の大反響を引き起こしたのか。その答えは、読者の心の内側にこそあるのではないか」
 たとえばこんな投稿歌が紙面に載った。
  カップ麺買わずに朝刊買ひしとふ歌にて我の投稿始まる 湯田摩耶
 この歌は公田氏の

  百均の「赤いきつね」と迷ひつつ月曜だけ買ふ朝日新聞

を下敷きにしている。著者によれば72歳の湯田さんは若いときに地方紙に歌を投稿していたが、公田氏の作品に出会って数十年ぶりに投稿をしたという。
 著者は書く。 
「彼はまだ生きている。そして、まだ心が折れていない。紙面にそれだけを確認して、読者は公田の置かれた状況に、さまざまに自分の物語を重ね合わせていたのではなかったか」
「あの冬、感情移入の対象を切望する、かつてない数の心が存在した。それこそが公田耕一現象であった。貧しさ、孤独、老い、絶望、生きていく支え、そういったテーマを、身近なこととして感じる心を、それだけ多くのひとが自らのうちに抱えていたのである。おそらく、その状況はいまも変わってはいない。そして私も、そのひとりである」
 
 わたしもそのひとりだ。 
   
       

  

  

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歴史の考え方を教えられた

14人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、神奈川県の私立の学園で、中学1年から高校2年までの歴史研究部のメンバー20人ほどを相手に、東大教授加藤陽子さんが行った授業をまとめたものである。まず感じたのは、中高生対象と聞いてふつう予想するのとは違う内容の濃さだった。歴史の知識を生徒に講義するのではない、ある事柄についてそれが何を意味するのかを自分で考えさせる。生徒さんたちがまたけっこうしっかり食いついていく様子が魅力いっぱいだ。

 序章から、こんな展開でいきなり戦争の本質に食い込んでいく。
 加藤 そもそも戦争に訴えるのは、相手国をどうしたいからですか。
 生徒 相手国に、こちら側のいうことを聞かせるため。  
加藤 いいですね。政治の方法、外交交渉などで相手を説得できなかったときに力で相手を自分のいいなりにさせる、ということですね。
生徒 相手国の軍隊を打ち破って、軍事力を無力化する。
加藤 これもなかなか鋭いです。――戦争についての最も古典的な定義は、クラウゼヴィッツが書いた「戦争は政治的手段とは異なる手段を持って継続される政治にほかならない」というものでしょうか。――では戦争というものは、敵対する相手国に対して、どういった作用をもたらすと思われますか。戦争で勝利した国は、敗北した国に対して、どのような要求を出すと思われますか。
 生徒 負けた国を搾取する。占領して、敗北した国の構造を変えて、自分の国に都合のよいような仕組みに変える。
加藤 イラクに侵攻したアメリカが、やろうとして、なかなか果たせなかった、そして今でも果たせない願望ですね。とてもいいポイントをついています。それでは、そろそろ答えをば。
 そこで長谷部恭男『憲法とは何か』から、ルソーの「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の、憲法に対する攻撃、というかたちをとる」との言葉が出てくる。頁の下にルソーの顔写真がまんが風の吹き出しで「戦争とは相手国の憲法を書きかえるもの」と言っている。
 ついで、アメリカが日本に勝利して日本の憲法を書きかえるとなった、では戦前の日本の憲法原理とはなんだったか、と加藤さんは問い、天皇制、国体と答えを引き出していく。
 序章をここまで読んで、わたしは、高校生の時こんな風に歴史を語る先生に出会いたかった、と思い、歴史とはこのようにして考えていくことなのだと思った。
 ここまでで45頁。こうした生徒とのビビッドな対話を挟みながら講義は約400頁、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争と続く。ほぼ10年おきに戦争を行ってきた日本近現代、そのときどきの戦争をなぜ、どのように、日本人はというより日本の指導者層は選んだか。つまりどのような国の経済、国際政治の条件で国が戦争を選んだか。

 正直に言って、わたしには本書は難しかった。難しい理由はこのマクロのところにあると思うのでやむを得ないと言うか、2度目読んだら次はもう少し理解できると思う。日中戦争、太平洋戦争の項に読み進むと、記述が細部に渡り具体的になって、わたしには分かりやすかった。
 ちなみに章の副題を見ると、日清戦争の項では「「侵略・被侵略」では見えてこないもの」、日中戦争では「日本切腹、中国介錯論」、太平洋戦争では「戦死者の死に場所を教えられなかった国」となっている。

 この「日本切腹、中国介錯」は、わたしは初めて読むことで、衝撃を受けた。
 これは中国の駐米大使だった胡適が1935年の時点で言った言葉という。――中国は3年か4年、絶大な犠牲を覚悟しなければならない。日本に内陸部深くまで侵略され海岸線を封鎖されて初めて、英米とソ連が介入する。中国はアメリカとソ連の力を借りることで最終的に日本に勝利する。今日日本は切腹の道を歩いている。切腹の実行には介錯人が必要である。すなわち「日本切腹、中国介錯」の戦略である――。
 中国は実際に内陸の武漢を陥落させられ重慶を爆撃され、長江が封鎖され天津、上海も占領されたが、降伏しなかった。太平洋戦争が始まり、胡適の言葉通りになった。

 もうひとつ、目から鱗の歴史の発見があった。満州への開拓移民について。
 満州の開拓移民生活の実情がわかり、長野県で応募者が減ってくると、国や県が助成金を出して村ぐるみの分村移民政策を打ち出す。経営に苦しい村は分村移民に応じ、補助金獲得に狂奔する村が出始め、補助金をもらうための開拓民の争奪も起こる。だが中に見識のあった村長もいて、「助成金で村民の生命に関わる問題を容易に扱おうとする国や県のやり方を批判し、分村移民に反対した。」

 さらに、はっとした歴史。太平洋戦争末期、国民の摂取カロリーは1933年時点の6割に落ちていた。農民が国民の41%も占める国で、なぜこのようなことが起こったのか。工場の熟練労働者には徴兵猶予があったが、農民にはなかった。農業生産を支える農学校出身の農業技術者も国は全部兵隊にしてしまったので、44年、45年と農業生産は落ちる一方だった。

 歴史の読み方考え方を、わたしは本書で教えられた。それにしても、5日間でこれだけの授業を受けとめたみなさんがいるということは、日本の中学高校生も捨てたものじゃない。              

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一読おもしろく、再読熟読で考えを深めていく

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 〈戦争と日本人〉を軸にした、加藤陽子さんと佐高信氏の対談である。
 加藤さん「はじめに――多様な日本人イメージを近現代史に探る」と、佐高氏「おわりに――歴史と日本人」の両稿で、対談のねらいが次のように提示されている。
「(過去の)多様な日本人像を思いだし、見ていく必要がありはしないか」「過去の日本人はこうであって欲しいとの、生きている側の勝手な都合で歴史を見てはならないのではないか」「多様な日本人イメージを過去に探ることで、過去・現在・未来の日本と日本人のあり方について、語り合おうと思った」(加藤さん)
「この本で解き明かしたかった」のは「国家若しくは戦争に共通する底の部分だった。私は平和への闘いはアンチ・ナショナリズムの闘いだと思っているからである」「戦争と日本人を考えることは、そのまま歴史と日本人を考えることになる」(佐高氏)

 本文は一つの章を除いて「語りおろし」で、各章の題は「世の中をどう見るか」「政治と正義」「徴兵と不幸の均霑」「反戦・厭戦の系譜」「草の根ファシズム」「外交と国防の距離」「国家と私」などとなっている。(余談だが、語りおろしという言葉はわたしは初めて見た。広辞苑になくてネットにはあったので、最近できた言葉なのだろうか)対談の行われた年月日は不明だが、佐高氏の「おわりに」が2011年1月19日の日付であり、出版は2月10日。文中に「状況を支配できるか」が「リーダーの資質として、カギとなる条件」だが「鳩山由紀夫も菅直人も、状況に支配されっぱなし」、あるいは「昨年起こった尖閣諸島での中国漁船衝突事件に際しての世論を思いだしてみれば」などとあり、今現在を語っているところから、「語りおろし」の時期は直近と見てよいのだろう。
 二人が語る材料は、西南戦争から中国の領有権主張、沖縄密約と時代も事もじつに多岐にわたる。日本軍が志願兵でなく徴兵だったことの意味、論理ではない「戦争で殺し合うのは嫌だ」という姿勢の反戦、大企業の修養団や社宅というシステムの意味、今さらではない自衛隊田母神発言。「うたの言葉から読み解く歴史」の項では、女工哀史の世界を川柳から読みとったり、日中戦争・太平洋戦争期の昭和天皇の「御製」も取りあげている。

 新書1冊の分量のなかに、しかも論述ではない話し言葉の対談という形であってみれば、取りあげる事柄が多すぎるという感想をわたしは持った。多様な日本人像を掲げることが著者の目的だと理解した上で、なおそう思う。
 多種多様な歴史的人物や事柄が縦横に出現し、それがふいと現在の日本の政治社会状況に飛ぶ、その縦横無尽さが読んでいて面白く、生きのいい対話と相まって読書の楽しみが十二分に味わえるのだが、しかしそれだけの読み方では面白かったで終わってしまう、対談のねらいは何だったか、今一歩つかまないまま終わってしまう。そういう恐れがある。
 読者が、必ずしも論理的に書いてあるわけではないある事象を自分で整理して理解し、その事柄と他の事柄の関係を把握し、その歴史的意味を考え、その上で本1冊全体として二人の著者が対談を通じて読者に問いかけ語りかけようとしている「ねらい」につなげていくという作業をする。そのようにして初めて、過去の多様な日本人像から歴史と日本人を考え、戦争と日本人を考えていくという「対談のねらい」に応えることができる――。
 この作業は、よほどの読み手でないと難しいのではないか。そうわたしには思われた。
 逆に、そうした読み方ができれば、豊富な資料を贅沢に提供され、たくさんの問いをもらい、考えるきっかけをいくつも作ってもらった、そのどこからでも、ひとつでもふたつでも考えていけばよい、そうした至福の読書体験になると言える。そうも思われた。  
 あのできごとにはそういう意味があったのか、そういう考え方もできるのか、あの事件とあの事件は関連があったのか、と発見しながら進んでいく読書は楽しい。発見の段階から更に思考を深めたくなった人のために、該当する本をちゃんと載せてくれている。
 
 わたしの場合のそうした発見の例を挙げる。
 満州事変、日中戦争から太平洋戦争へ進む時代。国防婦人会に参加すれば、着物の上にかっぽう着を着ることで階級差が隠される。農村の女性も都市の芸者さんもカフェの女給さんも社会の同じ一員として居場所が与えられる、兵士の見送りやお茶の接待という晴れ舞台に行ける。「そのときに、戦争を人を殺しに行く暗くて重いものだと彼女らが捉えていただろうかと考えると、けっしてそうとは言えないと思う。日の丸を振って日本のために頑張ってきてくださいと見送ることを、前向きな明るいことと見るところがあったんじゃないか」「戦争というのは権力を持った一部の人たちが暴走してやったことで、一般の声なき人々は何も言えないまま戦争へと向かって行かざるを得なかったとよく言いますが、本当にそうだったのか」「じつは、善良な声なき人々の心理をうまくくすぐるような形で日本人全体の戦意が昂揚していくような仕掛けがあったわけです」「結果として戦争に加担していくことになっていったんですね」(加藤さん)この項には藤井忠俊『国防婦人会』(岩波新書1985)が挙げられている。
 もうひとつ、徴兵と「不幸の均霑」。
 「日本人が戦争責任を自分のこととして認識しにくい原因は、一つは敗戦に至る最後の1年半の悲惨な経験、もう一つは徴兵制のシステムによるところが大きい。自分の意志で参加した闘いではない、徴兵で行かされたのだという思いがある」「徴兵と召集で命を搾り取られた国民の割り切れなさ、不条理への歯がゆさ、自分たちは人を殺すために育ってきたわけではないぞと言う思い、父や兄や子どもや夫を戦争に取られ、殺された無念さ。そのあたりの強烈さが他の国とはかなりちがう部分ではないか」加藤さんはドイツと比較してなぜ日本は戦後責任をとらないかという問いに、ドイツと日本を単純に比較して日本を邪とする答えはしたくないとして、日本の徴兵制を掘り下げることで日本が謝罪できない気持ちを説明できるのではないか、と思った。文献は加藤さん『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館1996)。同書の結末に加藤さんの造語「不幸の均霑」が出てくる。「(徴兵という)一見公平に法を追求していくかのような国のやり方は、とても嫌らしいと思います。かなりの確率で死ななければならない人員を選抜するのに、公平さなどありうるのでしょうか。あるはずないのに、あたかも公平であるかのように装う。皆さん不幸です、というところで保っていた社会だ、「不幸の均霑」だと書きました。」
 一読しておもしろく、熟読して読み応えのある本だった。

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時代を隔てて継承する

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 竹内浩三は一九四五年四月九日にフィリピンの「バギオ北方一〇五二高地」という場所で戦死した。二十三歳だった。戦死公報は「斬込戦闘に参加し未帰還にて生死不明なり」と記述し、行方不明のまま戦死が認定されたとしている。仲のよい姉が受けとった白木の箱には名前の書かれた紙が一枚入っていた。姉は墓に浩三の学生帽を納めた。
 伊勢市の裕福な呉服商の家に生まれた浩三は、東京へ出て日大芸術科に入り、映画監督になりたいと思っていた。映画館とレコード屋と喫茶店を愛して高円寺の街を徘徊し、レコード屋の女性に恋をして失恋した。漫画や詩を書いていた。入営する二ヶ月前に作った詩「骨のうたう」はのちに友人の手で世に出た。

  戦死やあはれ
  兵隊の死ぬるやあはれ
  とほい他国で ひょんと死ぬるや
  だまって だれもいないところで
  ひょんと死ぬるや 
  ふるさとの風や 
  こひびとの眼や
  ひょんと消ゆるや
  国のため
  大君のため
  死んでしまふや
  その心や

  (略)こらへきれないさびしさや
  なかず 吼えず ひたすら 銃を持つ
  白い箱にて 故国をながめる
  音もなく なにもない 骨
  (略)骨は骨として 勲章をもらひ
  高く崇められ ほまれは高し
  なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
  絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
  それはなかった
  (略)なんにもないところで
  骨は なんにもなしになった
 
著者稲泉連は一九七九年生まれ。竹内浩三の詩に初めて出会ったのは浩三が戦死した年齢と同じ二十三歳だった。戦争の時代を知らない著者が詩に惹かれ、伊勢の子ども時代や東京の学生時代の浩三の足跡を辿り、浩三の詩を発掘して世に出した数人の人びとを訪ねて丹念に取材し、浩三像を浮き彫りにしていく。若い人が、時代を遙か隔てて同じ若い人を追体験していく、その過程にわたしは感動した。継承というのはこういうことを言うのだと思った。
 稲泉が表題に置いた詩「ぼくもいくさに征くのだけれど」は次のようだ。

  (略)三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど
  だけど こうしてぼんやりしている
  ぼくがいくさに征ったなら
  一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな
  なんにもできず
  (略)うっかりしていて戦死するかしら
  そんなまぬけなぼくなので
  どうか人なみにいくさができますよう
  成田山に願かけた

 浩三はけっして勇ましい人ではない、明るい、そしてときどき憂鬱になるごくあたりまえの若者だった。国のため誰かのために戦うと決意するのではない、と言って戦争の不条理を大声で訴えるのでもない、不安や混沌を抱え葛藤し続けていた一人の若者。
 著者は浩三のそこに惹かれたのだと思うし、浩三のその葛藤が著者だけではない、現在の日本の若い世代に自分の問題として受けとめられるところだと思う。

 本を離れるが、わたしは近くの陸軍墓地の納骨堂で、骨壺調査の作業を手伝っている。日中戦争と太平洋戦争で戦死した大阪の兵の骨壺が八千ほどあるのを、名前その他の情報を書き出し、中の骨の状態を調べて記録を取る。骨の量を多い、半分、少ないと分けて記入する。骨のない壺も数多くあって、かわりに珊瑚のかけらが入っていたりする。写真が一枚入っている壺もある。学生服を着た青年がチェロを弾いている写真が出てきたこともあった。
 ――ひょんと死ぬるや だまって だれもいないところで ひょんと死ぬるや――浩三詩そのままの状況が、大阪の町なかのここに今も残されている。  

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紙の本餓死した英霊たち

2011/05/06 22:52

アジア太平洋戦争の戦没者の6割が餓死。「死者に代わって告発したい」と著者は言う。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 わたしの住む町に陸軍墓地がある。明治初期からの墓碑五千二百余のほか、日中戦争以降の戦没者の遺骨約八千人分を安置する納骨堂がある。昨年からNPO法人が納骨堂の悉皆調査を始めており、わたしも縁あって作業の末端のところをお手伝いさせてもらっている。骨壺に書かれたお名前や壺の中身を記録していくのだが、遺骨のかわりに珊瑚のかけらが入っていたり、壺さえなくて紙封筒から灰か砂かがほろほろこぼれ出すものもある。死因は、戦病死と書かれたものも多い。
 そんなこともあって、本書を手に取ることになった。
 
 アジア太平洋戦争で、日本軍の戦没者の過半数が餓死だった。
 「はじめに」から抜粋引用する。
 「この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の不足から、厖大な不完全飢餓(栄養の不足または失調による飢餓)を発生させたことである。完全飢餓による餓死だけでなく、栄養失調のために体力を消耗して病気に対する抵抗力をなくし、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出した。これらの病死者も広い意味で餓死といえる。」
 「戦死よりも戦病死の方が多い。それが戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、日本軍の特質を見ることができる。悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。大量餓死は人為的なもので、その責任は明瞭である。そのことを死者に代わって告発したい。」
 
 「餓死の実態」としてガダルカナル、ニューギニア、インパール作戦ほかと並んで、「孤島の置きざり部隊」の項目のなかでメレヨン島を取りあげている。
 ミクロネシア連邦に属するウォレアイ環礁はトラック島の西に位置する孤島で、大戦中はメレヨン島と呼ばれ、約6500人が守備していた。米軍はこの島の航空基地としての機能を空爆で封殺した後は、上陸することなく島を通り越してマリアナ諸島、パラオ諸島へ進む。敵から無視された守備隊に軍の補給は絶たれた。島は珊瑚礁のため耕地はほとんどない。守備隊長は、このまま餓死するよりもペリリュー作戦に増援上陸し玉砕したいと申し出るが、船がないため認められず、守備隊全員が島で飢餓と直面することになる。
防衛庁の戦史『戦史叢書』は、こうした中で食糧軍規の違反者に対して軍法会議によらない不法な処刑が行われたことを暗に示している。
 メレヨン島での死没者4800人のうち戦死307人,戦病死4493人。比率で見ると、戦病死者、広義の餓死者は兵82%、下士官64%、将校33%。幹部には食糧の増量があるため餓死には階級差があり、下級者ほど餓死者の比率が高い。
 
 大量餓死をもたらした原因を、著者は次のように分析する。日本陸軍では作戦を重視し、作戦遂行のための交通(軍隊と軍需品の輸送手段)と補給(弾薬、資材、食糧などを供給)を軽視した。
 たとえばガダルカナルの場合、制海・制空権を奪われて輸送船が使えないため小型舟艇で、弾薬糧食を十分持たない兵員を島へ上陸させ、部隊が全滅すると次から次へ増援部隊を派遣し続けた。その結果1万5千人の餓死者と1万人の栄養失調患者を出した。
 またインパール作戦では、補給の見通しがなく兵站主務者が反対しているのに、作戦担当者の牟田口、河辺両司令官が無謀な作戦を強行し、「靖国街道」「白骨街道」が出来するに至った。
 こうした作戦第一主義は、兵が飢えることを意に介さないばかりでなく、玉砕に結びついていく。

 これらの大元にあるものとして、著者は日本軍隊の絶対服従の強制をあげる。明治維新以後作られた日本の軍隊では、徴兵されてくる兵士は自営農民ではなく貧しい小作農や小農が大半であり、自律した国民としての愛国心や自発的な戦闘意識は期待できなかった。そこで兵士に対して上級者への絶対服従を習慣化した、というのである。当然兵士の地位は低く、人権は顧慮されない。

 わたしはこの文のはじめに書いた陸軍墓地でガイドをしている。墓地には戦争を体験した高齢者だけではなく、日本史のフィールドワークの大学生も来てくれる。墓地を案内しながらの会話のなかで「太平洋戦争で一番多い死因は餓死だったんですよね」「ぼくらと同じ年の人がね」などと若い人の方から言ってくれることもある。
 今まで、戦没者の過半数が餓死ということは知っていても、なんとなくその段階で止まっており、なぜかというところまで遡ることはなかった。本書を読んで、その原因が歴史の深いところから来ていることを知った。
 太平洋戦争の戦没者から考えはじめて、日本の近現代がどういう時代だったのかに考え至った本だった。

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従軍絵日記を資料に書いた、生きた歴史

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 まず扉口絵に惹きつけられた。「明治二拾七八年戦役日記」と題をつけたノートの写真に始まり、以下、軍夫丸木力蔵のスケッチで、広島宇品港を出港し、清国花園港に上陸、異国の町、兵士や軍夫仲間の様子、やがて広島に凱旋するまでを描いている。繊細なデッサンに淡い彩色。人物の生き生きした姿、表情。25枚のなかで表紙カバーにもなっている「金州城南門外橋 明治27年11月7日」と題した1枚は、石橋の上と下にころがる死体を、嫌そうな目つきで見下ろしながら通りすぎる日本兵を描いたもので、本文の丸木の日記では次のように書いている。
『南門外へいでると石橋、破裂弾に当たりしは五〇前後の支那人、倒れおり、その子もどこを撃たれる、あおむきに成りチンコを出して居る様、実になさけなく思ひ涙を目にためたり』(以下、丸木の日記引用は『』で、著者の文引用は「」で表記する)

 本書は上等兵関根房次郎の従軍日記と軍夫丸木力蔵の従軍絵日記という現物資料をもとに、若い研究者一ノ瀬俊也氏が日清戦争について書いたものである。「旅順と南京」という端的な表題からは、日清戦争のときの旅順虐殺と日中戦争の南京虐殺との類似とかつながりと言ったショッキングな印象を受けてしまうが、著者はけっして単純にそうしたことを言っているのではない。
 著者は本書で、日清戦争を「日中戦争の起源ととらえ、明治の日本の兵士達が中国大陸で何を目撃したのか、彼らの体験は昭和の戦争にいかに引き継がれ、あるいは引き継がれなかったかを問う」。上等兵関根と軍夫丸木は日記で「戦争の勝利に貢献し得たことを誇る」一方、「戦地の過酷な労働のあり方や凄惨な捕虜殺害の状況」も「中国民衆生活へのなにがしかの親近感・共感」も語る。丸木は『実に敗軍国の人民はあわれな物成り』と言っている。ただしそうした気持ちは「だからこそ対外戦争には負けてはならぬ。だからこそ大日本帝国はありがたいという文脈へと誘導されていった。」「当時における対外戦争とは勝利に終わっており、ゆえに正義以外の何ものでもなかったから」「彼らの語りは戦争を正当化する役割を果たしていた」「そして地域社会はその勲功をたたえた」。
 そして「このような老兵たちの語りに鼓舞されるかたちで」「日本は中国相手の全面戦争に突入し、それはやがて南京事件を引き起こし、しまいには世界を相手の大戦争へと発展していく。」
 こういう意味での「旅順と南京」という表題なのだとわたしは読んだ。

 旅順虐殺事件は英米の従軍記者が新聞紙上で非難したため、大本営も「市街の兵士人民を混一殺戮」した事実を認めた。陸奥宗光外相がアメリカの各新聞に自ら弁明書を掲載して以後、外国の日本非難の論調は沈静化した。
 こうして国際的にも国内的にも旅順虐殺事件が記憶の外に置かれていったのは、一つには、「清国が国際的に反駁するということがついになかったこと」もうひとつは「日本国内にそれを告発する市民勢力がなかった」からだと著者は言う。
 ここにわたしは共感する。戦争はくりかえされ、虐殺は再び行われた。明治の、国が戦争をし始めた最初のところでもし告発する市民勢力があり、それが育っていったならば、昭和の戦争に至る道は違っていたかも知れない。 

 関根と丸木はともに遼東半島制圧に当たった第二軍の一員であった。第一師団歩兵第二連隊上等兵関根房次郎は、きちんとした文語体で日記を記している。同じく第一師団の食糧輸送部隊第二糧食縦列に属した軍夫丸木力蔵は、口語体で書いているが漢字の知識も豊富で文章も書き慣れている。軍夫になる前はどういう人だったのだろうかと思いを巡らさずにいられないが、著者にも身元は分からない。
 日清戦争では兵士ではない軍夫が従軍し、主に輸送の仕事をした。第一師団では総兵力約3万5000人のうち軍夫が1万人以上含まれた。正規の戦闘員ではないが無抵抗の敵兵を殺害したり、あるいは略奪の事実もあったらしい。丸木の絵日記にもそうした記述が方々にある。虐殺略奪に手を下したのが果たして兵士だけだったか、丸木ら軍夫自身も加わったのか、どちらとも取れる場合もあり、明らかな場合もある。公刊市販した日記でないだけに、生々しい記述である。
 生け捕りにした捕虜を『水をくみ来たりあたまよりあびせる、11月の末寒風はげしく』『追々来る兵士この噺しを聞、我も我もと水を掛る、見る見る間に体は紫色に変じ氷死にしたり』
『残兵を捕え来り斬殺するにあたり、係りの人より百人長にドウダ斬てみんかといわれ、物は試しだやッて見ろと先最初斬方をおしえられ、夫れから縄付を引来たり、ひとり後ろに縄を持つ、チャン公はハアヨハアヨと泣き居り、用意よきゆえ刀抜きはなせば、チャン公にげかかる間に首切りおとしたり』百人長は軍夫の差配役。首を切った百人長はさすがに『顔色青ざめ、総身ふるえ』ているが、見物する丸木の感想はこういう人が神経症を起こすのだろうというものだった。前述の金州南門外の場面から日を経て、戦争に慣れ、「人の死というものに対する感覚が麻痺していたように思われる」と著者は書いている。
 また「『ドウダ斬てみんか』という軽い言葉で始まった捕虜の試し切りは、」昭和の南京戦での捕虜を使っての軍刀の試し切りを思い起こさせると著者は言う。
 
 著者は市民の目で戦争というものを解き明かしていく研究者である。今までわたしが読んだ本では、兵士が軍隊という社会の中でどんな日常生活を送ったか、戦死者はどのように処遇されたか、遺族への待遇はどうだったかなどを知ることができた。著者が用いる研究資料は戦場にまかれたビラであったり、市販された「軍隊生活心得」であったり、本書の場合は兵士の従軍日記と軍夫の絵日記である。
 軍夫については大谷正、原田敬一の著書で読むことができるが、実際の軍夫の一人が戦場で何を見たかどう思ったかを率直に書いた絵日記は実に貴重な資料と言えるのだろう。著者はこの資料を十二分に生かし、生きた歴史を、研究者ではない一般の人が読みやすい新書版の形で提示してくれた。

 わたしの住む町に明治4年に作られた日本最初の陸軍墓地がある。5091基の墓標が並ぶ中に、軍夫の墓碑934基の区画がある。墓碑銘は、例えば「明治28年8月9日清国旅順口兵站病院死」など。軍人と違って軍夫については公的記録がないため、この簡単な墓碑銘以外は一切不明という。

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紙の本セカイのきんぴら

2011/10/25 11:25

毎日のごちそう、小さなおかず

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「セカイのきんぴら」とはなんとしゃれた題名、と思ったら、週刊誌「AERA」の人気連載だったのだそうで、納得です。きんぴらに限らない、きんぴらのような小さなおかずが72品、写真とレシピと小さいお話つきで並んでいます。おかずたちの出身地は「セカイ」で、日本のほかアジア・アフリカ・南米・ヨーロッパ・アメリカと全地球にわたります。
 たとえば、フィンランドで飯島さんが仕入れてきた「グリーンピースのスープ」は、乾燥または冷凍のグリーンピースを使って手軽に作る、ほんとうの家庭料理。長く厳しい冬に温かいスープを作らずにはいられない北欧の台所が想像できます。自分も作ってみたくなります。
 本を外れますが、台湾へ旅行に行ったとき、わざわざ台湾小菜と名付けたレストランがあるのに惹かれました。大ごちそうではない何気ないおかず、たとえば切り干し大根の卵焼きみたいなのが、ちょっと大げさに言うと数限りない種類あって、小皿に少しずつ載って出てくるのを幾種類も頼むとテーブルが一杯になる、けっして贅沢ではないがとても豊か。あの感じをセカイに広げて本にした、という感じの本だと思いました。
 だから、本として楽しめる。わたしは子どものときから母の料理本を愛読していました。寝る前、2歳上の兄といっしょにひとしきり読んで、黒白の料理写真を眺めて、満足して眠りについたものでした。今もその楽しみは続いていて、それには凝った大ごちそうよりも、こうした家庭料理が適っています。
 それと、飯島奈美さんと言えばもちろん「かもめ食堂」に始まって「めがね」「プール」「マザーウォーター」「トイレット」の映画の料理のスタイリストさんです。映画のなかの料理はどれもほんとうにおいしそうです。この本は映画の料理の延長線でも楽しめます。

 ひとつだけ本の作り方に注文があります。やはりレシピ本なので、台所で料理するとき横に置いて使います。そのためには、背がぱっと開けて安定して置ける方がいいです。レシピ本は、使い込んで汚れてなんぼ、というところがあります。  

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「飛光飛光 勧爾一杯酒――飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん 李賀」

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本を読むとは、ときに不思議な体験だ。いまさらわたしが書評を書くなどおこがましい『深夜特急』。でもやはり書きたい。
 著者は二十六歳のとき一年かけて、そのときしかできない旅をし、十年後に『深夜特急』を二巻書き、その六年後に三巻目を書いた。さらに十六年たってその旅とその三巻の本に関する本『深夜特急ノート』を書いた。わたしはどの本も出版後すぐ読んだ。
 最近「初の短編小説集!」と帯に書いた著者の新刊『あなたがいる場所』を読んだあと、思いだして『深夜特急ノート』を本棚から出してきた。当然のなりゆきと言おうか、そのまま引き続き『深夜特急』を初めから終わりまで読むことになった。前は図書館のハードカバーで三冊借りたのだったが、今度は文庫で六冊買って読んだ。
 前は読み過ごしていたところに目がとまった。付箋を貼り、行に線を引き、読み終わってからまたその頁に戻った。
  
 飛光飛光 勧爾一杯酒

 文庫で5「トルコ・ギリシャ・地中海」篇、第十五章「絹と酒」。書簡体で書かれた章の中で、二十六歳の「僕」がギリシャのパトラスという町から船に乗り、イタリアのブリンディジに渡ろうとしている。青い地中海、空も陸さえも青い。「僕」は旅で出会った若者たちのことを思いだし、「彼らがその道の途中で見たいものがあるとすれば、仏塔でもモスクでもなく、恐らくそれは自分自身であるはず」だと思う。そして「取り返しのつかない刻がすぎてしまったのではないかという痛切な思いが胸をかすめ」、「僕を空虚にし不安にさせている喪失感の実態が、初めて見えてきたような気が」する。甲板で酒を飲んでいた「僕」は「泡立つ海に黄金色の液体を注ぎ込んだ」。
 ここで李賀の詩が出てくる。「飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん。その時、僕もまた、過ぎ去っていく刻へ一杯の酒をすすめようとしていたのかもしれません」 
 
 五冊目まで読んでくる間、頭から抜け落ちていたが、李賀は実は一冊目、第一章でちゃんと登場していたのだった。Tシャツ三枚靴下三足といった持ち物のなかに本は三冊、西南アジアの歴史の本と星座の概説書と、読める本といえば中国詩人選集の李賀の巻だけ、として出てくる。
 李賀という詩人について、わたしは、昔『深夜特急』を読んだときはもちろん今回再読したときも、名前さえ知らなかった。それで読み落としていたのだ。
 ここへ来て初めて一行だけ李賀の詩に触れ、とりあえずネットで検索してこの詩を全部読んだ。詩集を読むのは改めてのことにしても、李賀がどういう詩人か、だいたいのところを知った。
 その目で読み直すと、『深夜特急ノート』には、持っていく本になぜ李賀を選んだかについての言及があった。 二十七歳で夭折に近い死に方をした、「長安に男児あり 二十にして心すでに朽ちたり」という詩がポール・ニザン「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」と共鳴しあって記憶に残った、と言っている。

 わたしは唸った。著者は最初に李賀の名前だけをさりげなく出しておき、終章近くで詩人の神髄に触れる一行を置く、しかしこれもさりげなく。
 しかも最初と最後が書かれた間には六年もの時間がたっていたのだ。  

 若いとき読んだ『深夜特急』はひたすらおもしろく、わたしはこんな風にしてひとり旅をしたいと思ったものだ、もちろんできはしなかったけれど。今老齢になっても、香港のところを読めば、もしかしたら香港だったら行けるかもしれないと思い、パリのところを読めば、それなりの旅行ならパリだって不可能ではないかも知れない、と性懲りもなく夢想している。
 だがそういうことと別のところで、年を取って再び読んだこの本は、わたしのお腹の深いところに響いた。

 飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん。

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紙の本あの路

2011/02/06 23:30

そぎ落とした言葉と、にじむ水彩画がつくる世界

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 言葉と絵は、これほどみごとに一つの作品になれるのか。
 山本けんぞうさんの文章は『きみは金色の雨になる』でもそうだったけれど、短く、余白が多い。
 余白は読者にゆだねられている、と思っていいのだろうか。
 読者は行間のすきまや行の終わった空間で、主人公の少年や三本足の犬について、それからそのほかについて、いろいろなことを考える。
 いせひでこさんの水ににじむような水彩画は、短い文章をなぞるのではなく、といって離れるのでもなく、冬のパリの石の道と雪と、少年と三本足を描き出していく。

 「友だちは、三本足だけだった。」
 「ぼくはぼくの足元しか見なかった。」
 この言葉の次の見開きは文章はなくて、絵だけ。学校帰りの五人の男の子と、ぼく。そして次の頁は「ぼくは学校に行かなくなった。」で始まる。いじめられた、などとは書いていない。
 言葉の省略と、ブルーとグレイの涙の色のような絵が、少年の心をあらわしている。

 少年はいつも紺色のダッフルコートを着ている。
 縛られていた三本足を助けたときの絵では、少年は灰色の雪の中でコートの前をひろげて、光を抱いている。
 「ぼくが助けに来ることを、知っていた。
 それで、ぼくを待っていた。
 そして、ぼくが助けに来た。
 それで、よかった。」

 冬が終わろうとするころ、公園の木はうす緑色になる。見開き一頁の大きな空に鳥が飛ぶ。少年と三本足の別れ。
 最後の絵でついにわたしは泣いた。少年は青年になり、デイパックを横に置いて汽車の窓から空を見ていた。

 三本足は、『きみは金色の雲になる』の読者はよく知っている犬だ。後ろ足をビニールの紐でくくられていたことも、そのまま。そのときからずっと山本さんが抱えていた物語なのだろう。

 本のカバー折り返しによれば、山本賢蔵さんは現在、カンボジアの地雷原で、綿花を栽培し、手紡ぎ手織りなどの伝統手工芸の復興を支援するプロジェクトを立ち上げ、活動中、とある。

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紙の本きみは金色の雨になる

2011/02/05 15:31

何と言ったらいいだろう、では書評にならないのだけれど

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 長いこと、この本について何かを書きたいと思っていた。でも書けなかった。どう書いたらいいのか、どう表現しても自分の思うところを表しきれない、と言ってありきたりの言葉を借りてきてももっと伝えられないと思ったから。
 今でも同じだが、本棚の目につくところにいつもあってどうしても見てしまう。やはり何か書きたい。

 仲のよい幼い兄弟がふたりだけの国を作りあげる。トントコランド略してトコラン。二人だけに通じるトコラン語には、第一人称と第二人称がない。「「ぼく」も「きみ」も一緒だから、区別する必要性はなかった。」
 音楽に才能がある弟は、会話の途中で黙ってしまうことがよくあった。そのとき弟の言葉は金色の雨になって降り出していて、他の人には聞こえないのだった。ピアノを弾いているときは、雨ではなくて金の粉に包まれている、と弟は言った。弟が弾いたハイドンのピアノソナタがあまりによかったので、ハイドンはふたりに特別のものになり、その後他の演奏者のハイドンを聞くことはなかった。

 やがて兄は報道記者になり、弟は音楽の道に進む。
 「ふたりのトコラン人は、いくつになっても、とても仲がよかった。
 けれども、同時に、とても憎しみ合っていた。
 なぜなら、トコラン人は、ふたりでひとりだったから。
 それは、シンプルな鏡の法則だった。」
 パリ特派員になった兄に弟は、「けんちゃんは魂の庭に、くだらない奴らを入れて、取引をしてしまったんだ! 魂を売ってしまったんだ!」と言った。
 弟は音楽をやめていた。
 兄は不文律を破りハイドンのCD――ピアノソナタ集を買った。弟は何も言わなかった。兄は自分がなぜCDを買ったか、わからない。
「けれども、僕の分からない僕の気持ちを、きみは一瞬にしてわかってしまった。そして、きみがわかってしまったことを、ぼくは一瞬にしてわかってしまった。」

 弟は自死する。
「片方が死んで、どうやって片方が生きられるのか?」

 兄は、自分が弟を死に至らしめたという意識のなかにいる。弟の生前の痕跡を尋ねてカンボジアへ行った。弟はカンボジアで「人生において最も重要な最後の挑戦」をしたらしかった。弟はメコン川の上流でイルカに会って、イルカに演奏を聞かせたらしかった。
 「いったい、ぼくはなにをしているんだろう? 
 生き死にの場にいながら、ぼくは記者という名の傍観者だ。
 目の前の若い命ひとつを救うわけでもない。
 自分の手を汚さずに、戦争の悲惨さを伝えるという大義を振りかざすのか?
 さっさと安全なところに戻って、すました顔で戦況について論じるのか?」
 兄はメコン川を上流へさかのぼる。イルカには会えなかった。
 「きみは正しかった。
 いたずらにプロなんかになってはいけない。
 魂の領分をなくしてはいけない。」
 兄は報道記者の仕事を辞める。
 「やっと、ぼくは気づいたよ。
 きみはみつからない。
 だから、きみはどこにでもいるんだ。
 何かを見れば、それがきみだ。
 きみは全てだ。
 だから、きみをみつけようとしてもしかたがない。
 きみは、いない。
 だから、ぼくはいつもきみといる。
 だから、どこに行っても、そこがトコランだ。」

 濃密な、甘やかな、男の子の兄弟の世界。やがてそれぞれの旅に出る。本来の読み方とは違うだろうが、わたしはその世界にもとより介入できない母親の立ち位置からこの本を読み、ひたすら胸の底にこたえた。 

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紙の本もういちど読む山川世界史

2010/10/05 00:36

辞書のように使う

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 歴史は現在のためにあると正面切って言うと、なんか大げさなことになってしまいますが、そういうことではなくて、具体的に、世界史の本を手元に1冊置いておくという話です。新聞や本を読んだりテレビを見ていて、ん? と思ったとき辞書のように使います。この使い方には、わたしの場合は高校教科書がちょうど使い勝手がよかったので、ずっと山川の『詳説世界史』を使ってきました。
 山川から社会人のための世界史が出たと新聞で見て、よさそうだと思ったので買ってみました。
 まず「ふたたび世界史を学ぶ読者へ」として、「(生徒・学生よりも)むしろ、仕事に全力を尽くした日々が一段落した人、いま現実の社会に立ち向かっている人、これから新しい道を歩もうとする人のほうが、問題意識をもち、鋭い思索の切り口をもっているはずです。」「本書が歴史のみちすじの理解と、将来像の構築の一助となることを願っています。」とあります。
 言われるとおりです。
 内容は、今まで使っていた『詳説世界史』と比べて、それほど違いがあるとは思えませんでした。現代とイスラム世界の分量は少し増えて、詳しくなっているかも知れないですが。
 変わったのは内容より記述のレイアウト、表記の方です。高校教科書では当然ですが受験を意識して文中に太字や年号が多いので、ふつうにどんどん読んでいくには向きません。『もういちど』の方は横書きであることを除けば一般の本のつくりだから、読み物として通して読むことができます。コラムの入れ方も適切で読みやすいし、写真や地図も多くて、理解を助けます。
 通史だから、読んで面白いということはありません。これを読んで何かに関心を持ったら、より詳しい歴史書を読みたくなるから、この本の目的は十分果たされたことになるでしょう。年表も、わたしの場合ふつう使うにはこれだけあれば足ります。それと、はじめに書いた辞書的使い方との両方で、わたしには役に立っています。
 いっしょに『もういちど読む山川日本史』も買って、同じように役に立っています。

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「ここはお国を何百里」の「戦友」はアジア・太平洋戦争下では禁止されていた

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 徹底検証という題名の通り、日本の軍歌に関して、発生から、次々続く戦争の時代に応じてどのように変遷していったか、戦後はどのように扱われたか、その筋みちを社会全体のなかで詳しく書いている。軍歌が公の使命をになって発信され、巧みな仕組みによって人々に受けとられ、戦争遂行に役割を果たしていったことがよくわかる。
 さらに日本の場合軍歌は西洋近代音楽受容の歴史と切り離せないこと、山田耕筰ら戦時下の音楽家にかかわる問題など、興味深い内容が豊富に詰まっている。
 
 わたしが日本の軍歌について以前から知りたかったのは、日本の軍歌にはなぜ歌詞も曲も悲しい歌が多いのかということだった。たとえば「戦友」のような悲しい歌を歌いながら戦争ができるものだろうかと不思議に思っていた。「雪の進軍」「婦人従軍歌」「露営の歌」「同期の桜」「麦と兵隊」、みな悲しい。
 そのことで言えば本書には「なぜ哀調の軍歌なのか――統制と抵抗のはざまで」という1章がちゃんと用意されてあり、わたしは満足することができた。
 
 もちろん一方に「愛国行進曲」「軍艦マーチ」そのほかたくさんの元気のよい歌があって、心を沸き立たせる効果は抜群に優れている。今でも街宣車が大音声で軍歌を流してくると、わたしは言いにくいが一瞬ピピピッと反応し、聞き惚れてしまう。大きな効力を持った音楽だと思う。

 両方の関係はどうなのだろうか。
 本書から引用する。
「軍歌が氾濫した戦時下にあって、人びとは熱狂的に軍歌や軍国歌謡を歌っていたのだろうか。調べてみると必ずしもそうではなかったように思われる。」 
「ラジオやレコードから流れてくる音楽が軍歌や軍国歌謡一色に塗りつぶされたときでも、戦意昂揚とは異なる哀調の歌が好まれ、広く歌われていた。」
「太平洋戦争が次第に敗戦の色を濃くしていくなか、政府や軍部は人びとの間に厭戦気分が広がることを恐れていた。」
「哀調の歌は警戒の対象となったばかりか、検閲によって歌詞の改変やタイトルの変更が命じられ、レコードが発売禁止になった。」
 たとえば「戦友」は「アジア・太平洋戦争下では歌うこと自体が禁じられた。」
 政府は哀調の歌を禁じる代わりに「国民の気持ちを明るく引き立て、明朗闊達な気持ちを盛り上げる」歌をラジオで放送するように指導する。たとえば「お山の杉の子」など。また戦意昂揚の国策映画がたくさん作られ、主題歌「暁に祈る」「燃ゆる大空」「若鷲の歌」「加藤隼戦闘隊」などが大ヒットした。

 そうした時代をとおって、戦後なお、軍歌の中のいくつかは生き残る。 
 本書の「軍歌の戦後」という章では、宮本輝の『泥の河』のなかで「戦友」が歌われるところに触れている。わたしは小説より小栗康平の映画のほうが印象深くて、うどん屋の土間で少年が「戦友」を歌う場面は忘れられない。少年は傷痍軍人のおっちゃんに教えてもらったと言い、14番まである長い長い歌を全部歌えると言う。「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下」から始まり、「しっかりせよと抱き起こし」「時計ばかりがコチコチと」と、少年が直立不動の姿勢で懸命に歌うのを、うどん屋の主人田村高広がじっと聞きいる。うどん屋の主人は、「戦地で亡くなった戦友」や大勢の人の死を思い、「「わしかていっぺん死んだ体や」という「体がきゅうっと絞り上げられるような気持ち」につつまれる」。
 ここで著者は「軍歌は英霊への鎮魂歌なのだろうか」と問いを発し、軍歌イコール英霊の魂の叫び、鎮魂歌というとらえ方には、巧妙なすり替えがあると言う。
 たとえば「戦友」など、「哀調の軍歌は戦争への抵抗を歌うものではなかったが、戦争の冷厳な実態と向き合い、そのなかで精一杯の人間らしい感情の発露を歌うものだった。そして死が避けられないものとしてあったからこそ、鎮魂の響きとして歌われたのだった。
 そのことを無視して英霊への鎮魂歌というわけにはいかない」
 そして著者は「一方的に歌わされたのではなく、その時代の民衆の屈折した心情と共鳴するものがあったからこそ、軍歌は広く歌われていった」(「はじめに」)と言う。

 この言葉を読んで、思いだすことがある。敗戦の年のたしか前年、国民学校生のわたしは、ある日「海ゆかば」を歌っていた。とくにこの歌が歌いたかったのではない、日常聞いて刷り込まれている歌をなんとなく口に出していただけだと思う。歌の内容の「死」「かばね」は、わたしから遠いところにあり、わたしが何かを考えていたわけではなかった。母が台所の土間からわざわざ上がってきて、「その歌はやめてちょうだい」と言った。そのとき母には死が近いところにあったのだ。
 母は家の外で、いや家の中でもわたし以外の人に、「海ゆかば」を歌わないでと言えなかったはずだった。

 本書の「おわりに」の言葉が味わい深い。
「人びとを戦争へと動員するために、おびただしい軍歌が作られるのである。軍歌を必要としない時代と社会のために、このことを直視する必要があるだろう」

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「地図で戦争の時代を読む 戦争の時代の地図を読む」(「はじめに」から)

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「地形図を作り始めたのは、どの国でもたいてい陸軍である。――国を守るためには正確な地図が必要であることは当然である。一方で、他国を侵略するにも、先立つものは地図であった」(「はじめに」)
 世評によれば著者は地図読みの第一人者だそうで、厖大な地図のコレクションを下敷きにした鉄道や地名に関する著書がある。その著者が「世界を見れば戦争のない時代はなかった。今も戦争は続いている」という気持ちから、本書を書いた。

 戦争への著者の視点は、次のようだと見てよいだろうか。
「東京大空襲で10万人以上が犠牲になったという記述ではなく、いつも買い物をしていた本所区亀沢町の乾物屋さん一家が一人残らず亡くなったという視点」
「原爆ドーム界隈にはかつて家が建て込んだ市街地があり、一発の爆弾によって住民の生活は一瞬にして消え去った、それが具体的に何を指すのか、戦争を知らない世代の一員であっても、少なくとも想像する力を持ちたい」(「あとがき」)
 
 そうした視点で著者が地図の上に見る戦争は、空襲のほかに建物疎開、植民地の地図、戦時改描つまり軍事施設や工場・貯水池などを秘匿するため空白にしたり代わりに住宅地などを描いたもの、軍事施設がその後どうなったかなどの内容で本書に展開される。

 どれも興味深いが、なかで日本領だった台湾の地図ははじめて見るものだった。
 1927年大日本帝国陸地測量部発行の5万分の1地形図「嘉義」。駅前の東洋製糖工場を目指して線路網が集まっている。まわりは水田記号は少なく、畑地になっている。自給自足的な米作地帯に単一作物の砂糖の大規模農業を大資本の力ですすめたことが見てとれる。もう一枚は1936年発行の雑誌『キング』付録「日本遊覧旅行地図」で鉄道路線図だが、台湾西側の海岸線にぎっしり敷き巡らされた鉄道は新高製糖、台湾製糖など7つの製糖会社の鉄道である。地域がそれぞれ製糖会社に分割され、地域のサトウキビ農家が決められた会社に納入したと著者は書いている。

 東京練馬区赤羽の戦中から戦後への変遷は、4枚の地図で移り変わりがまざまざと見て取れる。
 1枚目、1928年の赤羽は東京近郊の農村地帯だった。1942年ドゥリットル空襲を受けてここに成増飛行場を突貫工事で急造した。2枚目の地図は集落や農地をつぶして幅広いL字型の地面にならしているが、当然だが飛行場の表示はなくて畑地のマークになっている。敗戦により飛行場を米軍が接収し、米軍の家族宿舎「グラントハイツ」になった。アメリカ第18代大統領グラントに因む名という。3枚目の地図では広い基地内にゆったり配置された住宅や学校などの様子がわかり、隣接する練馬区の住宅密集地帯との差が一目でわかる。池袋から進駐軍専用列車が直通したが記載されていない。その後1973年に基地は全面返還された。4枚目の地図ではグラントハイツの場所は光が丘と名が変わり、公園や団地を配置した広いニュータウンになっている。
 
 現在の東京ドームが、かつては東京砲兵工廠だったことも地図から読みとれる。
 それにつけても、大阪、それも大阪城のすぐそばに住むわたしとしてはやはりもうひとつ、この本で書いてほしかったことがある。
 大阪城と大阪砲兵工廠の変遷を書いてほしかった。かつての軍都大阪の戦前戦後を地図の上で見せてほしかった。師団司令部その他の施設が大阪城と周辺に密集し、まわりに砲兵工廠が連なっていた。敗戦前日の大空襲で廃墟と化した後、工廠跡は長いあいだ鉄の残骸の山であったのが、大阪万博を機に公園に変身した。今、梅や桜のきれいなこの公園が東洋一の軍需工場だったことを思いだす人はあまりいない。この変遷は地図の上ではどう描かれていたのだろうか。
 本書は、ウェブに発表された短篇を編集されたものということなので、大阪の地図上の戦争の時代については、本書の続きとして、またいつかの機会にウェブででも読ませてください。お願いしておきます。

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紙の本海炭市叙景

2011/01/16 23:13

海と炭坑の北の町で

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 著者の名前も本の題名も聞いたことがなくて、先に映画を見た。加瀬亮が出ている映画ということだけで封切りを待ち遠しく見に行ったのだが、見た翌日すぐ原作の本を買って読むことになった。本を一日で読み終えて今、もう一度映画を見に行こうと思っている。

 「両側から海にせばめられて細くくびれた女の腰のような街」である「海炭市」は、函館をモデルにした北の町だ。「元々、海と炭坑しかない街だ。それに造船所と国鉄だった。」1980年代、時代はバブル景気だが海炭市は繁栄から取り残されている。季節は冬とまだ寒い春、そこに暮らす男や女、老人や子どもの細かい日常を、作者は丁寧に丁寧に描いていく。十八の短篇がそれぞれの主人公をもって独立しているが、脇役の人物やできごとでゆるく繋がっていったりもする。人々のうしろにはいつも町はずれの小さい山がある、というか登場しなくても山の存在が感じられる。海炭市ぜんたいが主人公という読み方もできるかもしれない。

 叙景とは、風景を目にうつった通りに書き記すこと、と辞書にある。この小説を読んでいて、文章が文字通りの叙景であることを感じた。形容詞が少ない、簡潔にひきしまった文体だ。次に引用するのは「ネコを抱いた婆さん」の一節。
 「五年たって、彼女はやっと夫の死んだときの年齢になった。朝、起きてみたら、夫は障子にもたれて首をたれていた。この寒いのに、いったいなぜそんなところで眠っているのかと思い、肩に手を触れて、あっと息をのんだ。」
 正確な描写によって、婆さんの立ち居ふるまいから早朝の障子のひんやりした手触りまで伝わってくる。婆さんの狭い家うちのたたずまいから冬の海炭市まで寒さの感触が広がっていく。感情を形容する言葉はないのに、婆さんの心のなかがすっと読み手に入ってくる。すぐれた文章だと思う。
 第一話の炭坑(映画では造船所)を失業した兄妹の話はきわだって哀切だが、これでさえけっして主人公たちの感情に踏み込まず、たんたんと物語を進めていって、すとんと語り終わる。

 このすとんとした終わり方は十八話全部に共通している(たぶん)。独特な表現で、え、と思うが、実は堀江敏幸の作品で知っていた終わり方ではなかったか。ちょうど頁の終わりだったりすると、当然のように頁をめくって、え、終わりだったのか、と思う、あの終わり方だ。
 実際の人生の終わり方に都合のいい予定調和なんてものはない、すとんと終わり、え、終わったのか、と思う。そういうものだと思う。実人生であろうと小説の人生であろうと本人が解説することではない、終わった後をどう読みどう感じるかは、他者に引き継がれることだろう。実人生なら残された人に、小説なら読者に。
 よい小説というのがあるかどうか分からないが、そうやって作者から読者へ手渡された内容の多い小説、引き継がれた重さの重い小説はそのひとつかもしれない。
 「海炭市叙景」はそういう小説だと思う。

 著者佐藤泰志氏は作家を志して東京に住み芥川賞候補になった後、1981年函館に帰郷した。「海炭市叙景」はその時期81年から82年の函館を舞台として、書かれている。そういう事情を知ると、作品中にしばしば出てくる「首都」と海炭市の位置づけがよくわかる。90年に41歳で自死したのち函館の同級生や知人が追悼集を出すなどして、作品集が出版されるに至る。
 さらに函館市民が「海炭市叙景」の映画化を計画し、一口1万円で制作費用を集め、市民映画として実現した。撮影に当たっても町の人たちが全面的に協力した。ネコを飼うお婆さん役は素人さんとは思えない絶品。加瀬亮役の息子の小学生も、小林薫役の息子の中学生も函館の子どもたちだそうだ。
 この作品が、なぜこれほどまでに函館の人々に愛されたのか。小説を読んでわたしは納得した。   

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紙の本『クオーレ』の時代

2010/09/30 15:03

イタリアで国民が創られた時代――日本との比較の視点で

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 今、児童書『クオーレ』はそれほどなじみがないかも知れないが、アニメ「母をたずねて三千里」の原作と言ったらうなずかれるだろうか。
 1886年にイタリアのデ・アミーチスが書いた『クオーレ』(イタリア語で心の意味)は、日本では最初「クオレ愛の学校」として翻訳されたので、「クオレ」の方が通っているかもしれない。
 本書は、「『クオーレ』を資料として19世紀イタリアの国民国家形成を検討してみたい」として書かれた。テーマはイタリアのことだが、著者の視点には日本との共通点とか比較が置かれている。
 『クオーレ』は1861年に成立したイタリア王国(統一イタリア)で、小学校の副読本として出版された。北イタリアトリーノの小学校生活を舞台に、3年生エンリコの日記と先生のお話の形で、あるべき国家と社会の姿、創られるべきイタリア国民の姿を展開した物語である。新国家の理念そのものと言えるこの本はイタリア国内でベストセラーになっただけでなく、各国語にも翻訳された。
 1940年代、東京のわたしの家の子どもの本箱にも『クオレ愛の学校』はあった。兄に確かめたところ、本当にあった。夫や同年配の友だちにも聞いたがみな子どものときに読んだと言う。面白くて夢中になって読んだおぼえがあると言う。今ほど児童書の種類は多くなかったこともあって、日中戦争の前から太平洋戦争にかけての時代の日本で、少なくとも都会の小学生で『クオレ愛の学校』を読んだ子どもは多かったのではないだろうか。うろおぼえだが、わたしには外国の物語という違和感はなかったように思う。むしろ本の中のことはそのまま、自分が日々学校で教えられ命じられることだった。
 記憶の中のその違和感のなさには意味があったことに、本書『クオーレの時代』を読んで気づいた。
 本書を読んでよく分かったことだが、『クオーレ』時代のイタリアはすでに帝国主義の時代にさしかかっていた。君主制原理を強化し、学校と軍隊という装置を通じて人々に国家への帰属意識を注入することが、先進諸国から遅れをとった国イタリアとして緊急の要請であった。統一イタリアとなって25年、人々は自分はイタリア人イタリア国民であるという意識をまだ持っていなかった。サヴォイア王家とイタリア王国に対する帰属意識を持たせ、アオスタからシチリア島までの地域に住むすべての人間が「イタリア人」であるという連帯意識を持たせる。国王はすべてのイタリア人が構成する唯一の家族の父、「祖国の父」であるという位置づけで、国王を頂点とする家族国家イタリアの統一イデオロギーが作られる。そういう時代であった。
 著者は、こうしたイタリア王国の状況と課題が、後進資本主義国として早急に国家体制を確立しなければならなかった明治以後の日本に類似すると言う。日本は日清戦争を通じて国民国家を形成していった。それで著者は、この本に日本近代史との比較の視点を意識的に導入したと書いている。
 著者はその視点から、『クオーレ』の時代のイタリアの家族国家、国王への忠誠、義務教育制度、軍隊制度などを書いていく。
 たとえば徴兵に対する意識についても、日本のそれと比較する。両国とも、年を追い民衆が国家の中に組み込まれていく過程で、民衆の側から徴兵制度を支える意識が形成され、徴兵検査が成人式的意味を持つようになる。不合格は不名誉であるという認識、ひいては不合格者への蔑視が社会に定着する。とうぜん徴兵忌避者や脱走兵は民衆自身によって排除され、対照的に兵役や戦死への美化が強化されていく。『クオーレ』には少年から見た兵士の兄への賛美が描かれる一方で、兵士になれない弱者として、くる病の少年が描かれている。日本でもその時代、身体障害者や知的障害者、ハンセン病患者などは、民衆自身の意識のレベルで社会的劣者であった。
 国民形成とは、上からの制度による強制とともに、このように下からその制度を支える意識ができてきたとき初めて、達成され機能するのであろう。この本では、歴史的現象が、すぐれて人々の意識のところで考察されている。
 本書に取りあげられた『クオーレ』のエピソードを読むと、『クオーレ』の小学生たちの生活がひとつひとつの事象でわたし自身の国民学校時代の生活と酷似していることをあらためて痛感する。ランドセルは軍隊の背嚢と同じであること。軍隊の予備軍を作りあげるものとしての体育の授業。ブルジョア階級に主導権を固定した上で、貧者や労働者に慈善として思いやりを与える、そういう美徳。国王は立派なお父さま。
 そしていちばん強く感じるのは、これらの規範道徳が、甘く感傷的に、すぐれて読者の情念に訴えかけるやり方で語られ行われることである。ことがらが似ているだけでなく、世の中の呼吸する空気がきわめて似ているのだ。日本の子どもも、理性を働かす前に情緒の部分でまず権威を受けいれ、服従するようにたたきこまれた。つまりこれが、同じような創られ方をした両国民の、意識のあり方のレベルでの類似なのであろう。
 考えてみれば、国民学校生の兄やわたしが『クオーレ』を読んだのは、イタリアでの出版後半世紀もたった時期であった。イタリアと日本はファシズム、全体主義の時代にすっぽりと入っていた。イタリアで『クオーレ』を読んで愛国少年に育った子どもたちが大人になり、ファシズムを支えていたことになる。一世代前の『クオーレ』は、その時代もなお、愛国主義称揚の武器として機能したと著者は言う。遠く日本でも、少国民育成に十分役立ったわけだった。
 本書の方法で日本の近現代を考えることが、わたしには新鮮で説得力ある体験であった。

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