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T_Mizutaniさんのレビュー一覧

投稿者:T_Mizutani

9 件中 1 件~ 9 件を表示

よくわからないソーシャルメディアというものが必須になりつつあるこの時代のお供に

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近は、mixiだのtwitterだのFacebookだのGoogle+だのLinkedInだの、ソーシャルメディアなるものが乱立している。
お隣の中国では基本的に世界的なSNS(例えばFacebook)には接続できないことになっているが、ではこういうものが全くないかと言うとそういうことはなくて、
MSNメッセンジャーみたいなQQやtwitterみたいな微博、Facebookみたいな人人网など、代替的な国内産サービスが普及している。
東南アジアでもFacebookを使っている人は多くいると聞くし、世界的な規模で普及しているらしい、このソーシャルメディアとやらは。
で、そもそもソーシャルメディアってなんなんだ、というところから始まり、あわや日本の教育の問題にまで発展しかけたのがこの本である。

本書の大前提の知識として、共同体(コミュニティ)と社会(ソサエティ)の違いが最初に述べられる。
共同体(コミュニティ)は成り立ちに置いて生得的で、規模は一般的に小さく、メンバーは同質的で、全てのメンバーが同じ時間を共有する(地域共同体の祭りをイメージするとわかりやすい)という長期的な関係を結ぶ。
一方の社会(ソサエティ)はこの逆で、メンバーの契約によって成り立ち、規模は大きく、メンバーが多様で、メンバー同士が過ごす時間は短期的で流動的である。
これが社会学の基本的な認識らしい。
少し前までは「ネットコミュニティ」という言葉が一般的だったのが、現在は「ソーシャルメディア」という言葉が台頭してきたことからもわかるように、
インターネットの世界は共同体(コミュニティ)と社会(ソサエティ)の両方の性質を兼ねそろえている、というのが筆者の基本的な認識である。
この認識から始まり、なぜおじさんはソーシャルメディアを使いこなせないのか、なぜソーシャルメディアに疲れるのか、などの話に発展するが、詳しい内容は本書を読んでのお楽しみである。

この認識を応用することで、様々なインターネット上のコミュニティを分析できる。
例えば、Lang-8というSNSがある。
言語を勉強できるよう、書いた日記を添削し合うことのできるSNSである。
例えば英語を勉強している人が英語で日記を書くと、英語を母語とする外国人がその日記を見て誤りを訂正してくれる。
逆に、日本語を母語とする私が、日本語を勉強している外国人が日本語で書いた日記を見て添削することもできる。
このSNSを共同体(コミュニティ)と社会(ソサエティ)という観点から分析してみると面白いのではないかと思う。

Lang-8の特徴を挙げると、次のようになる。
1.ユーザーが全世界にいる
2.関係が比較的流動的
3.フレンドの性質が多様

これらの特徴は、社会(ソサエティ)の特徴と適合的である。
つまり、Lang-8は社会(ソサエティ)的な要素が強いということができる。
ここからさらに、次のように分析することもできる。
すなわち、色んな人に日記を見てもらえるのはLang-8の強みではあるのだが、逆に弱みであるのかもしれない、と。
もう少し共同体(コミュニティ)的な要素を強くしてもよいのではないかということである。
例えば、同じ興味を持った人同士が集まった方が、お互いの日記を添削しやすいことがある。
具体的には、スポーツや自然科学など専門用語が使われる記事を添削する際には、言語能力とともに、テーマに対する知識も必要である。
中国では野球はマイナースポーツなので、中国語で野球について書くと、なかなか添削がつかない。
しかし、野球の好きなフレンドを探しやすくする、あるいは野球が好きな人には野球の記事が表示されやすくなる、などのシステムがあれば、この問題は解決できる。
同質的なフレンドと出会いやすくする、つまり共同体(コミュニティ)的な要素を入れることで解決を図るのである。

これからの社会ではソーシャルメディアとの付き合いや、話題に上る機会がますます多くなるだろう。
本書はそんな社会を考察する足掛かりとして有用である。
本書の著者の一人、濱野智史氏の『アーキテクチャの生態系』を併せて読むと、ネットメディアについての理解がさらに深まるだろう。

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ソーシャルゲームのデザイン

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本についての情報を見かけたとき、書名に良書臭を感じ、紹介を読んで良書臭を感じ、書店に買いに走った。
果たして良書であり、将来とはこうやって描くものなのだと思わず膝を打ちたくなった。
筆者のデザインに対する考えの深さに感銘を受ける。
『デザインのデザイン』など以前に書かれた本にも手を伸ばしてみたくなった。

「デザインとは何か」というものを記述した部分が本書にはいくつか出てくるが、そのうちでも代表的なものが「デザインとは「欲望のエデュケーション」である」(まえがき2ページ)という部分だろう。

「製品や環境は、人々の欲望という「土壌」からの「収穫物」である。よい製品や環境を生み出すにはよく肥えた土壌、すなわち高い欲望の水準を実現しなくてはならない。デザインとは、そのような欲望の根底に影響をあたえるものである。」(まえがき2ページ)

未来をデザインすることで人間の欲望を喚起し、あるいは変化させ、その未来を実現させる、というのが筆者の考えるデザインの役割のようである。
具体的には、筆者が「仮想と構想、そしてその可視化こそデザインの本領だと考える」(40ページ)というように、
ある製品や新技術を使うことでどんな生活ができるか、何ができるのか、ということを提案することがデザインの仕事だと考えているようだ。
私たちが「デザイン」と聞いて思い浮かべる、配色がどうだとかいう話よりも数段深いところを考えていることがわかる。

筆者の考えにそって、今をときめく日本の産業であるソーシャルゲームの「デザイン」について考えてみたいと思う。
ソーシャルゲームを嫌悪する人は多いが、その嫌悪の原因はおそらく、デザインが「お金をとること」に特化しているからなのだろう。
任天堂は、家族みんながゲームを遊ぶ未来をデザインすることでWii人気を作った。
KinectやPS Moveも、それで何が実現できるのか、ということを表現することに腐心したはずである。
それ以前にさかのぼっても、テレビゲームの歴史にはいくつもの「こんなことができるのか」があった。
それらと比べると、ソーシャルゲームは未来に対する指向性が薄いように思う。
ソーシャルゲームが収穫物であるとするならば、その土壌は、人よりいいものをコレクションし、優位に立ちたい、人からよりよく見られたい、という欲望である。
そのデザインはゲームよりもブランド品に近い。
ブランド品を否定しているわけではありません。
ブランド品のような欲望の喚起の仕方をしながらもゲームを装っているところに問題があると言えそうだということである。

さて、筆者はいい生活を提案することがデザインの役目だというが、次のような言い方もできるかもしれない。
つまり、いい生活とはデザインがしっかりしてこそ生まれるものなのではないか、ということである。
そして、描いたデザインは一つずつ実現しなければならない。
「漆器が艶やかな漆黒をたたえて、陰影を礼賛する準備ができていたとしても、リモコンが散乱していたり、ものが溢れかえっているダイニングではその風情を味わうことは難しい」(104ページ)。
豊かな生活への第一歩はひびの入った食器を取り換えたり、ラップを半分かけたまま食事をとったりすることをやめることなのかもしれない。

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普通の就活、普通ではない就活

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

世の中には、普通の就活生と、普通ではない就活生がいるかと思う。
普通の就活生とは、リクナビやマイナビに登録して粛々と企業の情報を集めたり、スーツをビシッと決めて合同説明会に参加したり、志望動機と自己PRを磨きあげて面接に臨んだりする就活生のことである。
普通ではない就活生とは、以上の「王道」を避ける方向に進んでしまう就活生のことだ。
程度の差はあれど、大抵の就活生は「普通」の方に軸足を置いて就職活動をするのではないかと思う。
あるいは、大学3年生の秋に生まれる大量の「普通の就活生」の一部が「普通ではない就活生」というダークサイドに堕ちるということもできる。
私はダークサイドに堕ちたクチで、何の縁だか、中国へ来て働くことになってしまった。
午前は語学の勉強のため学校に通い、半日だけ会社で働くというモラトリアムの延長みたいな生活をしている。
私がちょうどダークサイドに堕ちたあたりで読んだのがこの本である。

本書は、就職が決まったと思ってマレーシアに飛んだら会社がなくなった人や、地名がかっこいいからという理由でラオスのビエンチャンにカフェを開いてしまった人など、「普通ではない」人の話がオムニバス形式でまとめられている。
本書から得られる教訓は、書名からわかる通り、「たいていのことはなんとかなる」である。

就職面接に臨む上で重要だとされているものに、「自己PR」とともに「志望動機」というものがある。
私が就職活動でつまずいたのはこの「志望動機」であった。
自己PRは、自分の過去を基に売り込むためのエピソードである。
その意味で、過去指向で構成されているということができる。
質はともかく、過去を洗えば何かしらのものは出てくるものだ。
一方、志望動機は未来指向である。
人、環境、自身の興味、やりたいことなど、志望動機を構成し得るものは様々ですが、入社後のことを考えなければならないという点で、未来を指向している。
私はこの未来指向がとことんできなかった。
未だに苦手である。

そんな私にとって、「たいていのことはなんとかなる」を地で行くこの本は、バイブルのようなものだ。
読むと良い就活本は何かと聞かれたら、真っ先に本書を挙げる。
確かにこの本には、ESの書き方や面接に通る秘訣は載っていない。
それでも、最良の就活本だと思う。
「普通ではない就活生」にとっては、普通ではないぶっ飛んだ行動を後押ししてくれるかもしれない。
「普通の就活生」にとっては、辛い就活戦線を生き抜く上での一服の清涼剤に必ずやなってくれることであろう。
○○しなければならない/してはいけない、という思考を越えたところに人生の楽しみがあるのではないかと、このように考えている。

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日本海の橋とならんことを期待して

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

自称「中国で最も有名な日本人」、加藤嘉一氏の著書である。
中国ではかなり有名だそうで、「年間300本以上の取材を受け、200本以上のコラムを執筆し、100回以上の講演を行い、毎年2~3冊のペースで書籍を出版している」(7ページ)そうだ。
日本ではまだ最近活動が増えてきたばかりであるためか、彼のことを知っているのはもとから中国に興味があった人に限られているという印象である。

その彼の、日本での評判をネットで見てみると、いまいち芳しくないようだ。
主な批判は、彼が二枚舌であるとか、日本社会を知らないとかいうものだ。
そもそも「中国で最も有名な日本人」という肩書を自分で名乗ってしまうくらいビッグマウスなので、叩かれる素養は元から充分にある。
加えて、日本のネット空間では中国の話題はあまり歓迎されない。
中国と聞いて、条件反射で叩いている人も少なからずいるのだろう。
彼に対する批判の中でも最もクリティカルなものは、「中国共産党にいいように使われている」というものである。
彼の中国での活動を見ている人が、よくこのような批判をしている。
「中国において、個々の政策を批判することはタブーでもなんでもない」(21、22ページ)という記述が出てくるが、やはりかなりの程度の制限があると考えた方がよさそうである。

彼に関して評価すべき点は、日本と中国の間に立ち、1.中国で、2.中国語で、3.中国人に向けて、4.日本人として、発信していることである。
そして、最近では、日本で、日本語で、日本人に向けて発信する機会も増えてきた。
このポジションで活動できる日本人は、過去にいたかどうかは寡聞にして知らないが、少なくとも現在ではいない。
彼がまさに「日本海の橋とならん」として活動していることがうかがえる。
彼の主張や活動を精査することは必要であるが(そして現在それをできる立場の人間がいないのは問題だが)、この立場を確立したことは称賛すべきである。
思えば、これまでは、中国に関することは、中国マニアが、中国マニアに向けて、マニアックに発言していたという状況ではなかったか。
私は現代中国の状況を概観できる本を探したことがあるが、なかなか手ごろな難易度のものが見つからなかった経験がある。
もしその時にこの本を見つけたら、迷わず手に取っていた事であろう。

本書には、加藤氏についての批判によくあるように、考察が浅いと感じる部分が確かにある。
しかし、あるテーマについて深掘りするタイプの本ではない以上、その点についてはあまり批判できない。
むしろ、現代中国をとりまく状況を広範にカバーしながら、「日本人よ、外を向け!」というメッセージに帰着させている点を評価すべきである。
中国社会を考える第一歩として有用であるが、日本の社会もしくは個々の日本人の在り方を考えるきっかけにもなるだろう。
例えば、

 選挙制度があり、投票することさえできれば、それで自由なのか?
 あなたは自由を行使していると、胸を張って断言できるだろうか?
 少なくとも中国には、自由な空気がある。いくつかの明確なタブーにされ触れなければ…能力のある人間が登用されていく。(24ページ)

との記述は、無言の圧力の中で日々を生きる日本人に痛く響くのではないだろうか。

今後筆者に望むことは、彼に寄せられる批判を、あるものはスルーし、あるものには反論し、クリティカルなものについては改めることである。
彼がまさに日本海の橋とならんことを期待している。

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芸術のパトロンたち

2011/12/19 22:23

新しい創作の形

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

芸術家を金銭の面で支援する人を、パトロンと呼ぶ。
お金の話はとかく下世話になりがちだが、しかしたとえ芸術といえども金銭と無縁では成り立ちえない。
本書の内容をざっと要約すると、
「芸術、特に絵画におけるパトロンは、かつては職業組合や教会組織、そして大富豪一族や宮廷であった。しかし、芸術が大衆化するにつれ、一般市民もパトロンの役割を果たすようになった。そして現在ではさらに多様化している」
という流れである。

面白いのは、芸術が大衆化する前の、主にお金のある組織がパトロンをやっていた時代には、絵画は権力誇示などのために描かれていたということである。
そこには当然、依頼主の意向が入るわけで、生計を立てるためには自分の好きなものだけ描いてたらいいというわけではなかった。
純粋に表現を追求する画家が現れたのは、芸術が大衆化してからで、印象派と呼ばれるような人に多いそうだ。
例えば、マネ、セザンヌ、ゴッホなどである。
ただし、描きたいもの描くということは自分の生活の安定とのトレードオフである。
芸術家は自由を求めれば、お金を失う。
苦労人としての芸術家のイメージはこのあたりに起源があるのだと思う。

現代では、かつて芸術家と呼ばれてきたような人々は役割によって細分化していていると言えるだろう。
例えば、クライアント=パトロンの要望を聞いて創作するような人たちの集まりが広告代理店と呼ばれている。
デザイナーにしろ映像編集者にしろ、自分の好きなものを作ってお金がもらえる人はごく少数である。
少数であるが、創作をする上でパトロンからお金を集められるだけの力を持つ創作者もいる。
一方、自分の創作を追究するクリエイターもいるけれども、生活が不安定であることに変わりはなくて、サラリーマンやアルバイトを掛け持ちしている人もいたりする。

ただし、大昔なら絶対に成り立たなかった創作者の形態がある。
趣味的に創作に携わるという形態である。
ニコニコ動画で動画を投稿したりしている人たちがそれに当たる。
彼らはただそれが面白いからやっているのであって、収入源は他にある。
パトロンという観点から考えると、現状ではパトロンなしで創作が成り立っているということになる。
新しく台頭してきた、この趣味的な創作形態にもパトロンが必要だということになれば、なんらかの制度を整えるべきである。
例えば、インターネットを通じて100円単位の少額な決済制度を整える、などである。

幸か不幸かパトロンなしでもそれなりに本格的な創作が成り立つようになってしまった。
創作への参入障壁が下がったと考えれば幸いなことであるし、取るに足らないどうしようもない作品が大量に世の中に生みだされるようになってしまったと考えれば不幸なことである。
もっとも、芸術において玉と石の区別は曖昧であるし、石を生みだしたからといって非難されるいわれもない。
インターネットで作品を発表することで生活が成り立つようになれば、それはなかなか夢のある話ではないか。
それとも、扇情的な作品が蔓延するうんざりするような世界だろうか。

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民法改正のコスト

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

内田貴先生と言えば、民法書で家が建ったといううわさがあるくらいに有名な民法学者である。
民法に関しては学説≒内田説くらいの勢いである。
その内田先生が、ご自身も関わっている現在進行中の民法(契約法)改正作業に関して新書で出していたのを本屋で見かけて初めて知り、衝動買いしてしまった。

内田先生が挙げる、民法を改正しなければならない理由は、民法が古いことと、一般国民にとってわかりづらいことである。
現在の民法典の下地は、不平等条約を改正するための前提をつくるべく突貫工事で1890年に制定された旧民法にあるわけであるが(日本史でボワソナードとかが出てくるあれ)、
その後、1896年に新民法が施行されて以来、契約法に関しては大きな改正がされていない。
財産法部分の改正や、法人に関する部分を抜き出した会社法の制定、民法の口語化などはあったが、契約の部分も同様に改正する余地があるということである。
明治時代のドタバタの中でエリート精鋭集団が急ピッチで作業を進めたため、もとより国民にわかりやすくという視点はなかったことであろう。

民法が古くなると、当然、民法が想定していない契約の類型が登場する。
例えば、民法が想定している契約は、AさんとBさんが物を売買する契約を結ぶ、というような、登場人物が2人しかいない契約なので、
Cというクレジットカード会社が介在するのは想定外である。
現在は、カード払いに関して民法に記載がないことによって問題になった例はないようだが、近い将来問題になる例が出てくる可能性はある。
また、判例や解釈の比重が大きくなるので、国民にとってどんどんわかりにくくなっていく、という問題がある。
英米のような、判例に法的拘束力を認める国ならともかく、建前上は制定法が主体であるべき日本において、肝心の制定法の文面からの根拠がどんどん薄くなっていく、というのはまずくないだろうか。

古くなったものを改めるということについて、憲法という国家を縛る法律の改正については賛否両論あるだろうが、
民法のように国民の生活に関わる法律を改正するということについてはコンセンサスが得られやすいかと思う。
問題は、民法を改正するコストとリターンが見合うかということである。
内田先生が弁護士からの反論として書いているように、「解釈でうまく回っていて別に何も困っていないのに、何をわざわざ改正する必要があるのだ」(13ページ)という問題である。
この点に関して、内田先生は国際取引においてわかりやすい法典を準備しておくことの重要性や、グローバルスタンダードとなる法律を持ち、
特に法整備がこれから進むであろう東南アジアの発展途上国に規範を示すことの意義を挙げている。
これらの点に関しては、抽象的な話になるので説得力に欠くという印象である。
もっとも、民法学者である内田先生にこの分野の話を期待するわけにはいかない。
民間レベルでの議論が盛り上がり、『民法改正のコスト』みたいなタイトルの新書が出て、数字を含めた議論が展開されれば本書の試みは成功と言えるのではないだろうか。

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海賊に学ぶマネジメント

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

海賊と聞くと、現在ソマリア沖あたりで猛威をふるっている荒くれ者集団か、そうでなければワンピースとかピーターパンとかパイレーツ・オブ・カリビアンみたいなファンタジーを想起しがちである。
が、本書が扱っているのは、歴とした海賊、つまり17、18世紀あたりに欧米で活動していた「正統な」海賊である。
一般的なイメージでは、彼らは狂人で、独裁的な船長の下で、苛烈な拷問や強制労働も辞さない恐ろしい存在である。
そして、そのイメージはある部分では正しい。
しかし、経済学のフィルターを通すと、彼らの見え方はまた違ったものになる。
本書は、難しい数式を使わずに、合理的に彼らの行動を解説している点が面白い。

例えば、彼らは裏社会の存在なんだから目立たないように活動するのが筋なのに、なぜド派手なドクロの旗を掲げているのか、を説明した章はそれなりに面白い。
しかし、本書のメインは、なぜ同時代の商船と比べて船員の労働環境はよかったのか、なぜ(人種差別がいまより激しい時代だったにもかかわらず)黒人船員も他の船員と平等に扱ったのか、などを解説した章だろう。
要約してしまえば簡単な話で、船員を不当な待遇で働かせるよりは、彼らが納得できる形で働いてもらった方が種々のリスクやコストが抑えられるから、だそうだ。
つまり、彼らが己の利潤を最大化する方法をとった結果、みんなが幸せになったというわけだ。
アダム・スミスの「神の見えざる手」ならぬ、「海賊の見えざるフック」である。

そもそも彼らはイリーガルな存在である。
であるからして、常に政府当局に訴えられるリスクを抱えている。
不当に働かされた船員が反乱でも起こしたらたまったものではない。
訴えられるまではいかなくても、強制徴用された船員が商船の掠奪に際して上手く手を抜けば、海賊団全体の稼ぎに影響がある。
一方、商船は船の往き来さえできれば儲けになるし、海に出てしまえば政府の監督もない。
そのため、船員の虐待を禁じる法律があったにもかかわらず、商船の船長は船員に好き放題できたわけである。
「海賊の規制は、私的に作られ自発的に採用されたが、私的で自発的だったが故に成功した」(235ページ)のだ。

さて、このような海賊のマネジメントに関する話は、現代でも通用するのだろうか。
17世紀の商船並みに過酷な労働環境下で社員を働かせている会社はいくらでもあるし、もっと大きな視点で見れば、国民の様々な権利を奪うことで社会の安定を保っている国がある。
もし経営者や指導者が利潤を追求しさえすれば、見えざるフックに導かれてみんなが幸せになるのであれば、これらの企業や国家は早晩に潰れるか、海賊のような民主的な管理形態に移行するはずである。
しかし、潰れるどころか、いつまで経ってもなくならないように思える。
それはなぜなら経済学の理論が間違っているからだ、というよりは、他の要因があるからだ、と考えた方がよいように思う。
例えば、統治主体が国家の場合には、いくら国民に対して圧政を敷いても、国民は簡単に国を離れるわけにはいかないというのっぴきならない事情がある。
ブラックな会社に努める会社員の場合は、辛ければ辞める、という選択肢はあるのだが、往々にしてそのような会社の管理職は「簡単にあきらめる人間はクズだ」と人間性を否定することでその選択肢を奪おうとする。
有名居酒屋チェーン、ワタミの会長は常々「社員の幸せが第一」と言っているし、おそらく本気である。
それでも彼の会社から自殺という選択を以て会社による支配からの離脱を選ぶ社員が現れてしまったというのは、簡単に辞められない環境にあったからではないかと推測する。
このあたりに、組織全体の利潤追究と、結果としての成員の幸せという単純なシナリオ通りにことが運ばない難しさがある。

ところで訳者の山形浩生さんは、あとがきで次のような注意書きをしている。
「本書で描かれる、自由、平等、非暴力といった海賊の特徴は、すべての海賊についてあてはまるものとは思わない方がいい。むしろ、なかにはそういう先進的な制度を実現していたやつらもいる、という程度に思っておいたほうがいい」(276ページ)
あるいは、組織の長期的な利潤を考えたら成員が幸せである方がよいと知っていても(あるいは知らないで)、指導者というものは短期的な利潤を求めて独裁的な環境を作ってしまうものだ、という単純な話なのかもしれない。

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紙の本独裁者の教養

2011/12/05 00:09

日本という独裁国家

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中国の掲示板を2ちゃんねる風に翻訳するというブログ「大陸浪人のススメ」をやっておられる安田峰俊さんの著書である。
独裁者と呼ばれる世界史上の登場人物8人の若いころをまとめた伝記的パートと、中国とミャンマーの国境にあるミニ独裁政権「ワ州特区」への潜入記パート、そして日本(!)と大きく分けて3部構成になっている。

独裁者パートでは、それぞれの独裁政権ができるまでの過程が上手くまとめられている。
一口に独裁と言っても、それぞれに異なる背景を持つし、必ずしも住民が不幸になるわけでもない。
本書では独立して取り上げられていないが、ベトナムのホー・チ・ミンやキューバのカストロなど、英雄視されている独裁者もいる。
また、トルクメニスタンのニヤゾフやイラクのフセインなどが豊富な資源から得られる収益を国民に分配するシステムを作りあげたことで独裁者としての地位を確保したことから、
場合によっては独裁とはアメとムチの使い分けであることがわかる。
独裁者というと恐怖政治の側面ばかりが注目されがちであるが、独裁者が独裁者となれるにはそれ相応の理由がある。

ワ州密航記は、非現実的な体験記がまるで村上春樹の小説を読んでいるような気分になった。
密航記の最後で筆者がワ州の独裁者・鮑有祥の是非について現地の人に尋ねたときの返答が印象的である。
「どこの国でも、そんなに変わらないはずだと思うんだけど」(256ページ)
民主主義という考え方が自明のものではないということを改めて確認させられる。

さて、しかし最後の日本について述べたパートではかなり論理が飛躍してしまった印象である。
筆者は日本のことを、「空気」に支配された「世界でもっとも発達した独裁体制の国」(314ページ)だという。
福島原発事故のあとに筆者の友人が独自に測定した放射線量が異常な値を示すことを行政にかけあっても無視されたこと、
そして代替手段としてYouTubeに投稿しても「不謹慎だ」などと否定的なコメントばかりがついたことを例に挙げ、
日本人は自発的に空気を読んで統制状態を作り出すと指摘する。
また、プライドだけが高く、外部の権威を盾に威張り散らすという、魯迅の小説『阿Q正伝』の主人公・阿Qを引き合いに出し、
日本人は「場の空気」という権威を盾に他人へ同調圧力をかける阿Qであり、世界史上最悪の独裁者なのだと喝破する。

しかし、この結論はやや勇み足である。
元来硬直的な組織である行政が、たとえ普段から行政とのかかわりが深い人間の話であっても、有事に際しては相手にしないというのは特に不思議な話ではない。
また、インターネットの世界においては雪崩を打ったかのように意見が偏るように見える現象(サイバーカスケードと言われたりする)が起こりやすいことで知られている。
福島は危険だと言ってはいけないという空気が醸成されたから動画に否定的なコメントばかりがついたのだ、と言い切るには早計だと思う。
筆者がことさらに嫌う阿Q的行動様式にしても、多かれ少なかれ全ての人間が持つものである。
実はアメリカの企業では日本以上に上司に気にいられることが大事で、apple-polishment(リンゴ磨き=ごますり)として上司をホームパーティに招く、などという話はよく聞く。
権威を持つ人間に気にいられようとするアメリカ人の行動様式だってまさに阿Qである。
むしろ阿Q的行動様式をとらない人間を探す方が難しい。

もっともこの最後のパートは、筆者のブログに載っているインタビューによれば、情熱先攻で書きあげた部分のようである。
しかし、その割には後ろ向きな印象を受けるのが気になった。
逆に、筆者が本書中で攻撃する「中国でもっとも有名な日本人」(加藤嘉一その人と強く思われる)が称賛されるのは、どうしても批判が前面に出がちな中国に関する話題をポジティブに書けるからなのだろう。

日本と独裁の関連で挙げるならば、55年体制である。
55年体制とは、1955年以来長期にわたって自民党が与党の座を占め続けた体制のことである。
55年体制によって、日本には独裁政権がなかったにもかかわらず、独裁政権があったのと似たような問題が生まれた。
政財官の鉄のトライアングルと呼ばれる癒着や、世界的にも稀な記者クラブ制度などである。
地方選挙において、与野党相乗りの出来レースのような選挙が続いたことで、住民が政治的に無関心に陥ったことも害の1つである。
55年体制が、高度経済成長を背景に安定した体制を維持していたことも、一部の独裁政権に似ている。

社会主義が過度に理想的な考え方だとするならば、民主主義も同様に過度な理想を持つ制度だということができる。
結局のところ一国の制度は、どの程度民主主義的な要素を重視し、どの程度社会主義的=独裁的な要素を入れるかというバランスの問題である。
55年体制が残した、既得権益という負の遺産を打破する独裁者的な指導者の誕生を望むのは1つの選択肢である。
先ごろ誕生した大阪市長は選挙戦中に独裁者と批判されつつも当選した。
有権者も独裁者の利点に気付いているのかもしれない。

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紙の本葬式は、要らない

2011/11/19 22:19

儀式は市場経済に任せてはいけないか

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

話題の本なので手に取ってみた。
島田氏の本だけだと公平性に書くかと思ったので、『葬式は必要』(一条真也著)というアンサー本みたいなのも一緒に読んでみた。

『葬式は、要らない』の方は、要約すると「葬式は挙げること自体が贅沢なもので、必ずしも豪華にする必要はない」となるのではないかと思う。
特に批判の対象になっているのが戒名である。
現在は、葬儀を挙げる際に、寺の坊主が死者に戒名をつけるということに、慣習的になっている。
この戒名、本来ならば出家するものが頂くものだったそうだ。

なぜ、それが一般人にもつけられるようになったのか。
島田氏によれば次のとおりである
日本の仏教式の葬式は、禅宗が元になっている。
禅宗の葬式の作法には、悟りを開いた僧侶に行うものと、修行が終わる前に死んだ僧侶に行うものの2種類がある。
在家(つまり出家前)の一般人は、後者の僧侶の立場に近い。
したがって、死んだときに出家したということにして、後者の僧侶に行うのと同じ方式で葬式を挙げる、ということがおこなわれることになった。
ある種の擬制である。
こうして、在家の人間に対する葬儀の方法が確立された。
あくまでも擬制で、確たる仏教的な根拠もないのに、戒名をつけるだけで何万、何十万、何百万ものお金を坊主にとられることが、島田さんの主な批判の理由である。

ある過程をブラックボックスにすることによって利益を得ている業界というのがある。
保険業界と、冠婚葬祭を執り行う業界である。
保険業界では、ライフネット生命という会社が出てきて地殻変動を起こした。
冠婚葬祭の「婚」の分野では、スマ婚というプランが登場し、平均330万かかる挙式・披露宴が、16.8万円からでできるようになった(という触れ込みである)。
「葬」の分野では、小売業大手のイオンがお布施の相場を開示したが、仏教界からの反発にあって削除された。
ある部分をブラックボックスにすることは、それだけ消費者が不利益を被る、とまではいかなくとも、少なくとも納得できない部分ができる。
その部分を明らかにしようという企業が登場することは、市場経済では当然のことである。
儀式に何らかの意味があると消費者が感じれば、どのような制度の下でもその儀式は残り続けるはずである。
競争の結果、儀式にかかる費用が下がるということは当然起こり得るが、だから儀式のありがたみが薄れる、ということでは決してないはずだ。

という文脈で私は島田氏の本を読んだのだが、その流れで一条氏の本を読むとがっかりする。
曰く、「費用という数値を越えた世界に葬式という儀礼の本質があることを忘れてはいけません」(p.175)と。
それはそうかもしれないが、でも削るところは削ろうよ・・・というツッコミができそうである。
一条氏はもちろん、島田氏も、葬式そのものには反対していない。
『葬式は、要らない』というタイトルは昨今の新書にありがちなスタンドプレイだ。
2人とも、総論賛成、各論反対、という立場の違いを感じ取ることができる。
しかし、結局どの点に大きな違いがあるのかが最後までよくわからなかった。
一条氏は島田氏の「葬式は贅沢である―これが、本書の基本的な考え方であり、メッセージである」(p.15)という記述に対し、
「贅沢、大いに結構じゃありませんか」(p.156)と書いている。
この部分だけ切りとったら、大手冠婚葬祭互助会取締役社長たる筆者のポジショントークと考えてしまうのは仕方がないことであろう。

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