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hackerさんのレビュー一覧

投稿者:hacker

14 件中 1 件~ 14 件を表示

紙の本真夜中のちいさなようせい

2021/12/01 11:28

お隣の国のようせいたち=小人たちの絵本です。

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韓国のシン・ソンミが2016年に発表した絵本です。巻末の作者紹介によると、2006年から、「ようせいシリーズ」として絵を発表しているそうですが、ようせいを扱った絵本としては、本書が最初です。

お話は単純で、真夏の夜に、熱にうなされていた男の子の看病をしていたお母さんが寝込んだすきに、小さなようせいたちが現れて、薬を飲ませてくれたり、看病してくれたり、遊んでくれたりするというものです。そのうちに、お母さんも子どもの頃、このようせいたちとよく遊んでいたことが分り、本の最後では、子どもの姿に戻ったお母さんと、元気になった男の子と、ようせいたちが楽しく遊ぶのでした。

ただ、本書は、お話というよりも、やはり絵を楽しむ絵本です。特に、チマチョゴリを着たお母さんとようせいたち、そして猫の描写がとても素敵です。そして、余計な背景を一切描いていないのも、ようせいたちも含め、生きている者たちの生命を感じさせてくれます。素敵な絵というのは、何回見ても飽くことはありません。

ところで、読みながらふと思ったのですが、日本には、こういうようせい=小人の昔話というのは、あまりないようです。『親指太郎』や『一寸法師』の話とて、最後は普通の大きさに戻るわけですから、ある意味人間なのです。第一、彼らは一人きりであって、小さな者たちの集団=一族ではありません。アイヌには、もちろんコロポックルの話がありますが、日本昔話の範疇には入らないでしょう。これに対し、中国には小さな人間たちの昔話がたくさんあるそうですから、韓国にもあるのではないかと推測します。これには、やはり他民族、ことに自分たちより体格が小さな民族との接触の機会が、昔の日本人は少なかったこともあるのでしょうね。うろ覚えで、間違っていたらごめんなさいなのですが、イザベラ・バードの紀行文にも、当時の朝鮮民族やアイヌ民族や日本人の一般的な体格についての記述があったと思います。

まぁ、こういう余計なことを抜きにして、読んでというより、見て楽しい本であることは保証します。

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紙の本バタフライ・エフェクト

2015/09/05 08:19

「ぼくはこんなふうに生きるために生まれてきたんじゃない。そこまではわかっている。が、じゃあ代わりにどう生きればいいのかというと、さっぱり見当もつかない」(本書より)

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「長期的に見た場合、システム内でのごくわずかな変化が、どこか別の場所で、思いもよらない大きな影響を及ぼしていることがある」(本書冒頭に掲載されている「バタフライ・エフェクト」の説明)


最近の北欧ミステリーを読んでいると、例えば『ミレニアム』シリーズのヒロイン、リスベットの父親像が典型的なのですが、家父長制の崩壊若しくはその罪を語っている作品が少なくないように思います。本書の作者カーリン・アルヴテーゲンの過去の作品である『喪失』(2000年)『影』(2007年)でもそれは感じられましたし、この作者がほとんどすべての作品で取り上げている危機に瀕した夫婦関係というのも、そのヴァリエーションと見ることができます。2013年刊の、この最新作でも、その側面がかなり色濃く出ています。

本書の全体を通してのテーマは、人生におけるIF、あの時そうでなかったら、どんな人生だったのだろうか、というものです。また、冒頭で列車に突っこんで大惨事となった事故の記事が紹介されており、それに登場人物がどう関わっているのか、という興味で引っ張ってもくれます。そして本書は三人の登場人物が一人称で交互に語るという形式を採っています。

まず、ボーディル、次第に体が麻痺していく不治の病にかかり、「生き地獄」のようだった夫との生活を打ち切り、父親が秘かに買っていた部屋で一人暮らしを始めた55歳の女性です。次に、その娘のヴィクトリア、母親の人生の分岐点にその誕生が関わっていたために、母親が娘とうまく関係を築くことができず、また娘の方は傲慢な父親とはなおさら合わなくて、両親とは疎遠のままキャリア・ウーマン生活を送っている30歳の独身女性です。そして、順調なエリート生活を送っていたある日、宝石店強盗の場に居合わせて、頭に拳銃を突きつけられたことがきっかけで、精神のバランスを崩していくアンドレアスです。

この三つの物語は、いずれ交わるのですが、共通して語られているのは、家族そして夫婦関係の基盤のもろさであり、家父長制の罪悪です。例えば、アンドレアスは、自信をもって「演じていた」良き父であり、良き夫であり、社会的にも重要人物だという自負が、一瞬のうちに破壊され、自分の存在意義を見失ってしまいます。ボーディルは、将来の夫となる男と恋におちたばかりに、考古学者としてのキャリアを捨て、それのみならず、自分の肉親を見放す状況に、夫と義理の母に追い込まれます。そういう両親を見ている娘のヴィクトリアは、異性との人間関係がうまく築けず、心理カウンセラーの治療を受けているのです。

そして、こういう登場人物たちの危うい心理描写の巧みさには、作者自身が愛する兄の事故死をきっかけに精神のバランスを崩した経験の持ち主だけに、他の作品でもそうですが、読んでいる側が息苦しくなるほどです。こういう小説を書ける作家は、実はほとんどいないと思います。


しかし、これはミステリーなのでしょうか。もはや、そういうジャンルを逸脱しているような気がします。連想する作家はというと、内容は違いますし、こちらの方は作者の個人的な経験が多く反映されているとは思いますが、ミステリーも書きながら、その範疇に留まらない作品も書き、巧みな心理描写という共通点で、やはりシムノンになります。しかし、シムノンの小説の大半が、さわやかなエンディングを迎えないのに対し、アルヴテーゲンは必ず希望が見える形を用意します。

本書の最後、実は、とても好きです。

「私は、生きた。
それだけだ。
でも、そうちっぽけなことでもないのではないかしら」

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金子俊介監督『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』に登場するゴジラのような、白目の奥さん(正確には黒点のごとき瞳がありますが)が恐いです。

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本書の内容を、ひと言で言うと、犬派だと自覚していた作者が、猫派の女性と結婚したばかりに、猫の魅力に憑りつかれていくというコミックです。

本書で一番印象的なのは、やはり猫の絵のうまさです。表紙だけでそれが分かりますが、何を考えているのか分からない、あるいは何も考えていない表情だけでなく、甘えっ子をしている時、だらしなく寝込んでいる時、猫じゃらしに狂っている時、猫独特の表情の絵が実に巧みなのです。猫を飼っている方なら、よく分かるでしょう。

次に、白目の奥さん!結婚したて(みたいなのですが)の奥さんをこんな風に描いて、夫婦間で問題にならないのだろうかと心配になりますが、「猫はかすがい」でうまく(あるいは我慢して)夫婦生活が続くことを祈ります。

あと、絵のタッチというか、描写というか、その辺りは楳図かずおの歴史的傑作『まことちゃん』を連想しますね。当然ウンチも登場します。ウンチの話をすると、我が家の先代の猫フーニャンは、ある時某氏のフトンの上で下痢をして、それを知らずにそこに寝転んで「うぎゃ~~~」と叫んだ某氏がいますが...

楽しい一冊です。

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ルイユから遠く離れて』『人生の日曜日』とともに「知恵の三部作」と呼ばれる作品で、これらの作品に共通するのは、不器用で、野心も上昇志向も悪意もない、成り行き任せに生きる主人公です。

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私がレーモン・クノーに最初に接したのは、高校生の時です。昔のコピーで「若いころ聴いた音楽は忘れない」というのがありましたが、小説の世界も同じで、数十年経っても心に残る作品は、高校大学時代に読んだものが多いように思います。

現在出版中の「レーモン・クノー・コレクション」がきっかけで、彼の作品を再読していますが、あらためて感じるのは、登場人物たちが実に魅力的なことです。本書の主人公ピエロもそうですが、特に何をして生きたいということもなく、社会のためなど考えもせず、上昇志向も野心もなく、頼りないけれど、悪意などかけらもない人間に、若い時の私は憧れに似た感情を持ったのだと思います。振り返ってみれば、結果的に、成り行き任せ(良く言うと、流れに任せて)の人生でしたが、悪意に関してはコメントできません。


クノーの作品の基本はユーモア小説であると「訳者あとがき」でも述べられていますが、全くその通りで、かつ本書はそれが最も顕著に出た作品でしょう。

パリ近郊の遊園地ユニ・パークで、働くことになったピエロは、しかし失敗続きで、二日と同じ仕事に就くことができません。身体にピンを刺すのを見世物にする芸人の助手をした時など、その様子を見ていて、失神したりしてしまいます。ユニ・パークのボスの娘イヴォンヌに恋、しかもかなり本気の恋をしますが、鼻もひっかけてくれません。そうこうしているうちに、ユニ・パークに隣接する土地で、ポルデーヴ(架空の王国)の王子を祭る礼拝堂を管理している老人に気に入られたり、サーカスに動物を貸与する仕事に誘われたり、その関係で、テーブル・マナーはしっかりしていて、料理にも注文の多いサルとイノシシと旅をしたり、色々なことが起こります。

ただ、「知恵の三部作」(誰が命名したのか知りませんが、こういう登場人物たちの作品群へのものとしては素晴らしいですね)の他の2作品と違うのは、かなり苦い終わり方をすることで、ピエロは、恋も冒険も含めた、青春の一時期を、文字通り痕跡なく失うこととなり、これからも安住とはほど遠い人生を送るのが示されるのです。

このような苦い終わり方は、『きびしい冬』のそれを連想させますが、この社会において単純な善人でいることの難しさと、出版された1942年という時代背景を感じさせますし、クノー自身が現実に対しては、決して夢想家であったわけではないことをも示していると思います。


ところで、この題名ですが、「訳者あとがき」でも触れているように、原題を直訳すると「よぉ、ピエロ」ぐらいの意味です。ただ、mon ami わが友という呼びかけを使っているのは事実なので、主人公に対する作者のシンパシーが表れているのは間違いないでしょう。

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紙の本小犬を連れた男

2015/08/22 06:39

遊び好きの小さな犬の様子を、これほど生き生きと描写した小説は珍しいでしょう。

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私の好きなフランス人作家となると、セリーヌ、クノー、シムノンの名前が、まず思い浮かびます。 1964年に出版された、この作品は、シムノンの作品の中でも、珍しいスタイルで書かれています。

まず、小説全体が、48歳の主人公フェリックス・アラールの二冊のノートにつけられた日記、それも11月13日から25日までの間の8日間の日記という形をとっていて、それゆえ、厳密な意味では違うのでしょうが、一人称の作品になっています。シムノンの作品で、一人称で書かれているものは、私の狭い知識の範囲では、他に知りません。

次に、犬が非常に重要なキャラクターとして登場することです。この犬はプードルの雑種で、野犬収容所から、主人公の前で死んだ真似ととんぼ返りをしてみせたことがきっかけで、もらわれてきます。名前はビブ、フランス語でこの音は「聖書」「図書館」(主人公は若い頃読書家でした)「ぼく」の意味があり、ビビと言うと「坊や」の意味があります。

ビブは、基本的には、これらの意味の集合体だとは思いますが、やはり主人公の分身としての意味合いが強いのでしょう。例えば、主人公はビブのことを、次のように語ります。

「ぼくは彼を犬と呼ぶのが好きじゃない。彼と五年前から暮らしている。野良犬の収容施設から連れて来たとき、彼は三、四歳になっていた。従って、彼はいま九歳ほどになっている。ということは、プードル犬の寿命の半分を越えたことになる。
要するに、ぼくと彼とはおなじような年齢なのだ。彼の背中が硬くなり、体がずんぐりしだした。だが、それでもやはり小さなボールで遊びつづけるし、死んだふりをする。ごくまれにだが、とんぼ返りもする。」

この箇所は、犬に限らず、ペットを飼ったことのある人なら、うなずくはずです。そして、ある日突然、ペットが老いてしまったことに気付いたりするのです。

実は、主人公は殺人を犯して、5年の刑務所務めを終えた後、8年前から古本屋の店員をして生計をたてているのですが、昔日の面影がないほど太ってしまい、かつ医師からは余命2年と言われています。

本書は、そういう主人公が、死という破局を眼前にしつつ、殺人という破局に至った人生を、現在の破局と過去の破局を並行して、日記として語る構成となっているのです。

ビブは、いつも変わらぬその外観で、主人公の無垢な過去の象徴でもあり、主人公が内面はそうありたいと思っている、現在の希望でもあるのです。

そして、ビブと遊んでいる時の、主人公の楽しそうな雰囲気は、三人称で書くよりも一人称の方が、読者にははるかによく伝わるのです。

こういう風に考えてくると、本書の構成は、内容に合わせて、実によく考えられたものであることが分かります。

そして待ち受ける、何とも無常かつ非情なラストが、主人公の結果的に無為に終わったかのような人生に対する、深い感慨を残してくれます。


シムノンを読むと、いつも思うのですが、実に小説らしい小説を書いていた作家で、それがフィクション好きの私の感性によく合うのでしょう。本書も、シムノンの傑作の一つです。

なお、本書の「訳者あとがき」には、本文中では徐々に明らかになっていく、主人公の過去が全て書かれていますから、本文を終えてから読まれることをお勧めします。

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大作家であったにもかかわらず、いかにも大作家然とした作品(良い意味で)は書かないで、常に飄々とした雰囲気の作品を発表し続けたレーモン・クノーの最後の小説です。

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本書の内容はというと、19世紀末のパリを舞台に、ユベール・リュベールという作家が書き出したばかりの小説から、主人公のイカロスが脱走してしまい、作家は書き進めることができなくなって、私立探偵モルコルに捜索を依頼するのですが、これがトンチンカンな探偵だった上、小説の中でイカロスの婚約者になっている乙女まで、しびれを切らして、イカロスを探すために小説中の父親と一緒に脱走する始末。一方イカロスは大変な美男子だったため、娼婦のヒモになって自由を謳歌していましたが、別の作家から逃げ出した「登場人物」出会ったり、興味を持って働いていた自動車修理工場のオーナーの娘に見初められたり、結構いろいろなことが起こる、というものです。


本書は小説ですが、戯曲のように、登場人物の名前の下に、その人物の発言が続くという形式を採っています。ところで、クノーの小説には、会話だけが数ページ続くことが珍しくありません。ただ、同じスタイルが好きなローレンス・ブロックと違い、クノーの作品では時として誰の発言なのか混乱すること―絶対わざとやっています―があるのですが、本書に限っては、そういう問題(?)はありません。そして、クノーらしい登場人物と彼らの会話の楽しいこと!

自動車修理工場のオーナーのベルルリ氏が、自分の娘バルビーヌを、イカロスと結婚させようとする時の会話を引用しておきます。

「ベルルリエ氏 考えさせてくださいとは言わんでくれ。娘にはなんて言うか、持参金がある。タイヤや蓄電池のな、それにこの子はきれいじゃないかい?
イカロス というか、ぼくはもう婚約しているんです。
バルビーヌ 何ですって!(父親の腕のなかで気を失う)
イカロス でも、その婚約者とは結婚したくはないです。残念ですけれど。
バルビーヌ (失神からさめて)なんていう天のお恵み!
イカロス でも恋人がいます。」

あと、本書の特徴としては、作家が多く登場することもあって、ボリス・ヴィアンをして「古今東西の名作を、一点も余さず、すべて読み、すべて記憶している」(『サン・ジェルマン・デ・プレ入門』より)と言わしめたクノーが、己の博学のひけらかしを楽しんでいるがごとき、いろいろな作家への「目配せ」でしょう。

ビランデッロの『作者を探す六人の登場人物』は言うに及ばず、ボードレール、オスカー・ワイルド、コルネイユ、ガボリオ(フレンチ・ミステリーの祖)、ランボー、ラシーヌなどの著名作家から、ジョルジュ・オネという聞いたこともない作家まで登場します。

そして、例によって、寅さんの「緑は異なるもの」のようにトンチンカンな引用もありますし、駄洒落もたくさんでてきます。一例として、ユベール・リュベール(この音自体が反復で紛らわしいですが)がモルコルに依頼する時、捜索人の名前を聞かれ、「私のイカロスを早く Mon Icare vite モニカールヴィット」と答え、モルコルはそれを Nick Harwitt (英語の発音ではニック・ハーウィット、フランス語だとニカールヴィット)と思い、一生懸命捜索するという早トチリを挙げておきます。

また、イカロスに惚れこむ娼婦はエレーヌというのですが、表記上はLNとなっています。英語のメールで you are を UR と打つみたいなものです。


こういう楽しい言葉遊びと会話に彩られて、クノー独特の自由への憧れが展開されますが、題名が暗示しているように、ラストでは、そういう明るさや憧憬の背後にある、やはりクノー独特の無常観を痛感することになります。この作品も、クノーの傑作の一つですね。

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紙の本おわりの雪

2015/08/21 08:36

冬と雪と死が密接に結びついた、美しくて残酷な、言葉が作り出す小宇宙

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本のレビューを書いていると、時として、同じ言葉を使って、同じ言葉で書かれた作品を語る難しさ、あるいは自分の非力さを痛烈に感じることがあります。本書読後の、虚脱感にも似た感動を表現する術を、残念ながら、私は持たないようです。

「トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ。そう、ぼくは、その鳥がどうしてもほしかった。」

シンプルでありながら、そのまま小説の世界に引き込まれるような出だしから始まるこの物語は、家でずっと病床にある父を抱え、養老院でお年寄りの散歩を手伝う「仕事」をして、家計の手助けをしている少年の一人称で語られます。少年は何も語りませんが、父が助からないことは知っていますし、母が夜遅く家族が寝た頃を見計らって、おそらくは生活のために外出することも知っています。

本書には死がたくさん出てきます。捨てられた子猫たち、養老院の色鮮やかなスカーフをしているおばあさん、このおばさんが飼っていた犬、そして父親...自然死もありますし、強制された死もあります。そういう死を覆い隠すように、包み隠すように、美しい雪と冬の景色が描かれます。しかし、それは真っ白でありながら、残酷な色をまとっています。

そういう死の中で、どんな冬の寒さにも凍えないトビに、生そのものであるようなトビに、少年はどうしようもなく惹かれるです。少年と父が、ついに手に入れたトビが餌を食べる姿に一種の感動を覚える場面は、とても印象的です。しかし、このトビも鳥かごの中にいて、大空に羽ばたくことはありません。

本書は、誰でも知っていることを、語った小説です。美しくて、残酷で、悲しいです。これ以外に、いったい何を言えば良いのでしょうか。多くの人に知ってもらいたい作家です。

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紙の本でもすきだよ、おばあちゃん

2015/08/20 22:38

「自分が だれなのか わすれてしまった」おばあちゃんへの愛と、記憶という曖昧なものを語る絵本

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眠りから覚め、野辺から黄色い花を摘んで、おばあちゃんの家に行く少年の語りで進む、人物や物の輪郭が曖昧な水彩画で描かれた絵本です。

「ソフィーのおばあちゃんは、ショートケーキをつくるのがじょうずだ」
「でも、ぼくのおばあちゃんは、ケーキをつくれないんだ」

「マイケルのおばあちゃんは、ピエロの鼻みたいにまっかな口べにをぬっている」
「でも、ぼくのおばあちゃんは、自分で口べにをぬることはできないんだ」

こういう風に何人かの友達のおばあちゃんたちとの比較を続けた後、少年は語ります。

「ぼくのおばあちゃんは、まどの外をじいっと見つめているだけ。そして、そよ風にあわせてゆりいすでからだをゆらしている
ぼくのおばあちゃんは、みんなのおばあちゃんとはちょっとちがう
ぼくのおばあちゃんは、自分がだれなのかわすれてしまったんだ」

でも、おばあちゃんは少年が持ってきた花の匂いは嗅ぐのです。

「でも、それでもいいんだ。おばあちゃんは、おばあちゃんだから。ぼくはおばあちゃんをいつまでもわすれないから」


ある意味、たったこれだけの絵本です。ただ、人物や物の曖昧な輪郭は、そのまま記憶というものの不確かさを語っているようで、心に残ります。

また、表紙の花を持った主人公の少年が、まるで少女のようにも見えるように描かれていることにも気付きます。少年は、もしかしたら、昔の「おばあちゃん」なのかもしれません。主人公の「少年」は、その意味において、男でも女でもないのかもしれません。

実は、終わりの方に1ページだけ、少年とおばあちゃんの顔を一緒に描いている絵があります。少年は笑っています。おばちゃんの表情は読み取れません。でも、無表情ではないようです。そこは見る人によって、見方が変わるのかもしれません。ただ、二人の間にかって存在した「愛情」の残像は見ることができて、悲しくもあり、嬉しくもあります。どんな形でも人生の終焉を迎える時、もし過去の幻を見ることができるなら、そこに何を見るのだろうと考えさせられる終わり方の絵本です。

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紙の本砂の城 新版

2015/08/20 22:33

作者は、アイルランド文芸家協会会長も務めたこともありますが、何よりも短編小説の名手であったことが分かる作品集です。

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作者の両親はもともとアイルランドからアメリカへの移民でしたが、彼女が10歳の時に故国に戻る決心をしました。それには相応の経済事情なり家庭事情があったのだろうと推測しますが、実際のところは分かりません。そのせいもあるでしょうし、偶然かもしれませんが、日本編纂の本書に収められている七つの短編小説はすべて、普通の人々の家族若しくは人間関係の物語です。

また作者自身が最初の夫と死別し、彼との間に三人の娘を授かっていたことは、本書収録の『幸福』と『砂の城』に三人の兄弟姉妹が登場することや、『幸福』『ブリジット』『一軒家』『大いなる波』には未亡人が登場すること、そして全作品で死が重要な要素として扱われていることなどに反映されているようです。

そういう作者自身の経験と人間観察力が、彼女の作品からは感じ取ることができ、そこがこの作家の最大の魅力なのだろうと思います。普通の人々の普通の生活における感情を、奇をてらうことなく描くというのは、近代文学の、特に女流作家に多く見られる傾向だと感じていますが、ラヴィンもそういう一人だと判断して良いでしょう。


本書収録作品は、いずれも印象的なものばかりですが、私の好みとして、とてつもなくやさしくて残酷な物語『新しい庭師』、表面上仲良くやっている老嬢と彼女に雇われている茶飲み友達の心の深淵が恐ろしい『ささやかな遺贈金』、知的障害者の妹ブリジットの面倒を見続ける夫と妻の関係、そして夫の急死の後で妻がブリジットにとる行動を語る『ブリジット』、三人の子供たちが遊ぶ様子がいきいきと描かれている『砂の城』を挙げておきます。

そして、もし一つだけ選ぶなら、『新しい庭師』です。私が今まで読んだ万の単位になるだろう短編の数々の中でも、ベストの部類だと思います。物語が始まる前に起こったことを直接何も語っていないのも素晴らしいと思います。

また、全体を通して、この作家が人間というものに希望をいだき続けていることが、とても印象的です。単純ですが、普通の人々の生活では大切なことだと思います。

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紙の本モレル谷の奇蹟

2015/08/20 22:30

20世紀を代表する文学者の一人であり、画家でもあったディーノ・ブッツァーティの遺作です。

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私のの好きなイタリア文学者というと、最近知ったステルンの他には、パヴェーゼとブッツァーティの名前がまず思い浮かびます。1906年生まれで、1972年に没したブッツァーティは、画家としても知られ、1970年に開いた「ある男女の知られざる奇蹟」と題された展覧会のために書かれた絵をベースに組み立てた物語が本書であり、遺作にもなりました。

本書は、父親の蔵書を整理していた作者ブッツァーティが偶然発見したメモを元に、モレル谷に昔からある「聖女リータの素晴らしいご加護の例」「未だ知られざる奇蹟を描いた」数々の奉納画が飾られてある「聖所」を第2次大戦前に一度だけ訪問することができたものの、大戦後のその場所が分からなくなってしまい、想像力を働かして、その奉納画を再現したという建前で作られています。

もちろん、こういう建前は嘘っぱちもいいところで、ブッツァーティ最後の「絵で描かれた物語」と解釈して楽しめば良いのだと思います。

扱われている題材は、聖女リータが鎮めた(もちろん嘘八百)とされるものばかりで、『空飛ぶクジラ』『化け猫』(表紙の絵です)『ヤマアラシの悪魔』『頭脳アリ』(脳に棲みつくアリ)のようなモンスター・妖怪ものから、『さらわれた女性』『ムーア人の女奴隷』のようなエロティックもの、『空飛ぶ円盤』のようなSFもの、『迷路』『サイ』のようなホラーもの、『アッシャー家からの墜落』『大アリ』(ピエール・クロソウスキーの『ロベルトは今夜』がベース)のようなオマージュもの、要するに、ブッツァーティの本領である短編小説の世界に、やはり嘘八百のもっともらしい解説がついている楽しい本です。例えば、こんな具合です。

「エウガネイ丘陵から、いかなる種の噴出も報告されなくなって久しい。最後のものとなったのが、まさしく奉納画が記録に残す、狂猫の噴出である。持続時間こそ非常に短かったが(五分に満たず、噴出した猫の総数は973匹、すべて地元の人によって処分された)、これは土地の人々をいたく怖がらせた。そのとき、この厄介な現象を鎮めたのは聖女リータであった」(『火山猫』より)

もちろん、収められている40枚の画も素晴らしいものばかりで、嘘っぱちの物語と合わせて、ブッツァーティ独特の世界を醸し出しています。

お勧めの一冊です。

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紙の本紺碧海岸のメグレ

2015/08/20 22:27

シムノンの特徴である、弱者あるいは不幸な者への温かいまなざしが色濃く出た初期のメグレものです。

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本書の舞台は紺碧海岸(コート・ダジュール)、パリから殺人事件の捜査のために派遣されたメグレは、映画『アニー・ホール』でダイアン・キートンを追いかけてNYから西海岸に行き、そこの強い陽射しにうんざりしたウディ・アレンのごとく、紺碧海岸の暑さと陽射しに頭がボーっとして、「仕事」になりません。事件はというと、オーストラリア人で、昔の大物スパイのウィリアム・ブラウンが住んでいる別荘から死体で見つかったというものですが、同居していた愛人とその母親の言によると、三日前に家に戻ってきた時に、背中をナイフで刺された致命傷があり、そのまま死んでしまったのを三日間ほうっておいてから、逃げ出そうとしたというもので、まったくつじつまが合いません。彼女たちによると、この男は時々数日間の「お籠り」に出かける時があって、そこから帰ってきた時の出来事だというのです。

メグレは、紺碧海岸を犬が歩くごとく、ふらふらしているうちに、ブラウンが「お籠り」の時に通っていた酒場、『リバティ・バー(自由酒場)』を見つけます。そこは、かってパリの娼婦だった肥った中年女と、若い娼婦が住んでいて、妙に居心地の良い場所でした。やがて、メグレは、ブラウンは現在の生活からの逃げ場所としてここを使っていただけでなく、そもそもオーストラリアから妻子を置いてフランスに逃げてきた男であることを知るのです。

失踪や逃避は、シムノンがしばしば扱う題材ですが、本書(1932年)に登場するウィリアム・ブラウンも、後年の傑作『ブーベ氏の埋葬』(1950年)の主人公のように、次々と自分を変えながら、逃避を繰り返す男です。ただ、こちらの方は大ブルジョアでもあり、周囲に迷惑をかけるのが生き甲斐のような、あまり好感の持てない人物で、結果として自らの死をまねくのですが、しかし刺されながらもある行動を採り、結局それがメグレの心を動かして、警察官らしからぬ決断をさせることになったのだろうと思います。

シムノンとしても、メグレものとしても、比較的軽い仕上がりですが、十分楽しめる出来です。パリに戻ったメグレが、夫人と食事をしながら「色恋沙汰だよ」と、事件についてさっぱり要領を得ない説明をして、夫人を困惑させるラストは、とても良いですね。


ただ、この邦題には疑問符です。旧題『自由酒場』あるいは原題の『リバティ・バー』の方がずっと良いです。メグレという名前を出したかったのでしょうが、それなら『コート・ダジュールのメグレ』の方が良かったと思います。

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紙の本死のドレスを花婿に

2015/08/14 17:30

う~ん、ちょっと無理じゃないでしょうかねぇ~

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『その女アレックス』が話題になっていますが、元来が天邪鬼なもので、評判が良ければよいほど、読む気を失ってしまい、いまだに未読のままです。ただ、同じ作者の本書のほうは、知り合いの方が、映画『ガス燈』との類似を指摘していたので、興味をひかれて、手に取ってみました。

まず、『ガス燈』についてですが、元々は戯曲で、二回映画化されており、1944年に製作された二回目の作品のほうが、イングリッド・バーグマンがアカデミー主演女優賞を取ったこともあり、監督が名匠ジョージ・キューカーだったこともあり、はるかに有名です。物語を簡単に触れると、バーグマンが夫(シャルル・ボワイエ)からたびたび物忘れや自分では覚えのない盗み癖を指摘され、精神的に追い詰められていくというものです。

実は、本書はこの映画のストーリーラインをほぼ踏襲しているのです。ただし、大きな違いは、ヒロインを追いつめる人物が夫ではないという点です。そして、これが本書の最大の弱点です。つまり、その人物はヒロインと同居していないわけです。そういう人間が、こういうことをやるには、あまりにもリスクが多すぎますし、それに対する準備等もいろいろ説明はしてありますが、首をかしげてしまいます。言い換えると、そういう疑問がわかないよう、あるいは気づかせないよう、私をうまく騙してくれない筆力が不満なのです。

次の不満は、なぜヒロインが選ばれたのか、途中で説明がないことです。もちろん、最後の方で明かされるのですが、それがないために、ヒロインを追いつめる人物の行動の動機が見えず、その行動があまりにも突飛な印象を与えてしまうのです。少し違う例なのですが、アルヴテーゲンの『裏切り』では、男がヒロインをつけねらう理由が、彼女に遭遇した最初から提示されていて、彼の奇妙な行動もそれなりの説得力を与えていることと比較すれば、本書のやり方のまずさが分かるというものです。

最後に、ヒロインの復讐ですが、いただけません。ヒロインの苦しみに比較して、こんなにあっさり(?)していて良いものなのでしょうか。特に「風が吹けば桶屋が儲かる」式のやり方は、苦笑ものでした。


というわけで、やっぱり、しばらくは『その女アレックス』は読まないことになりそうです。

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書きたいものが書けなくなった作家の、それでも何か書かずにはいられない物書きの性

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ローベルト・ヴァルザー(1878-1956)は、スイスのドイツ語圏ベルン州出身の作家です。本書の訳者あとがきによると、作者は1909年に最後の長編小説『ヤーコプ・フォン・グンテン』を発表して以来、長い作品が書けなくなってしまい、それからはスケッチ風の散文小品を35年の間書き続けたそうです。本書はそれらの中から、テーマ別に抜粋した日本独自の編纂です。

また、英文のWikipediaには、1929年より精神を病むようになったとされ、自分の作品が評価されなくなったことへの失望と不安が、その要因ではないかとの記述があります。実際に、本書に収められている『最後の散文作品』の中にも次のような記述があります。

「この10年間わたしは何をしていたのか?この問いに答えるためには、まずため息をつき、それからすすり泣き、そしておもむろに新たなる一章を、あるいは、次の段落を書き起こさなければならない。
この10年間わたしはひたすら、およそ役に立ちそうもない、ちっぽけな散文小品を書き続けてきた。どれほどの根気が必要だったことか!もう百回も叫んだものだ、『もう書かないぞ、もう送らないぞ』、けれどもその度にその日のうちに、そうでなければその翌日には、わたしは次の商品を制作をしては発送していた、今ではほとんど理解しがたい振舞いである」


本書は、書きたいものが書けなくなった作家の、それでも何か書かなければいられない物書きの性の結実と言えそうです。したがって、内容も辛い作品が多いです。直接辛さを語っていなくても、登場人物を語っているだけで、その人間の生の辛さが分かるようになっていて、それは作者自身の生の裏返しなのでしょう。

そして、皮肉なことに、と言うべきか、当然の結果、と言うべきなのか、本書で最も印象的なものは、スイスの美しい自然と四季と、それに抱かれる作者自身を語った「路上にて」と分類された作品群です。これらの作品には「生きる歓び」があふれていて、作者が本当に書きたかったのは、こういう世界ではなかったのかという印象を持ちます。作者が実際に送った生と、書きたかった生との落差に複雑な思いを抱かざるをえません。そういう意味で、ちょっと不思議な読後感を与えてくれる一冊です。


四つの公用語があり、地理的にはヨーロッパの中心にあって、ヨーロッパではない国という特殊事情が災いしているのかもしれませんが、スイスの作家というと、デュレンマットが少し有名なぐらいで、日本ではあまり知られていないように思われます。他の作家も機会があれば紹介していきたいものです。

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紙の本冷たい晩餐

2015/08/13 15:02

この晩餐の後味の悪さは天下一品です。そういう意味では評価しても良いのかもしれませんが...

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訳者あとがきによると、作者のヘルマン・コッホは、オランダ生まれで、俳優兼小説家として活躍しており、2009年刊の本書は六作目の長編小説となるそうです。

内容は、一人称の主人公パウルが妻クレアと一緒に、兄で著名な政治家セルジュ・ローマンとその妻バベットと、とある高級レストランでディナーを取るために出かけるところから始まります。ディナーは、一見何事もなく始まりますが、読者は主人公の語り口が妙に攻撃的なことに気付きます。そして、次第に、テーブルについている4人、主人公たちの息子、兄夫婦の実の息子とアフリカから連れてきた養子、彼らが共有する深刻な問題が徐々に明らかになっていくのです。

本書の後味は最悪です。その理由は、人種と階級と遺伝を中心とした差別感情を物語の中心に据えているからで、しかも、主人公自らが率先してその感情に拍車をかけているような展開だからです。ですので、読んでいて不快なこと、おびただしいです。ただ、そういう悪しき感情を悪しき側から語った作品でもありますので、その点は酌量してよいと思います。

ただ、私が腹が立つのは、作者は仮にも俳優を職業にしているにもかかわらず、二本の映画を混同したり、いい加減な映画の解釈を、とくとくと(?)述べたりしていることで、したがって、この分★一つ減点してあります。あしからず。

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