pontoさんのレビュー一覧
投稿者:ponto
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精神現象学 上
2018/12/13 15:31
明晰流麗な邦訳
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
カント三批判書、存在と時間などの邦訳を次々に刊行してこられた熊野純彦氏による新訳。きわめて明晰で読みやすい。読みやすさの理由の一つは、アン・ジッヒ、ヒュール・ジッヒ等、文脈に応じてきめ細かく含意を変える用語について、単調に即自、対自等の訳語を割り当てるのではなく、その都度柔軟に訳し分けるとともに、ていねいに原語を指示するルビを振っていることにある。また訳注は原文を引用して訳者の読解を簡潔に示したものが多く、大いに参考になる(原文はウェブから無料でDLできるので、それと照らしあわしながら読む上でもこうした訳注は役立つ)。訳注は各節末尾に置かれており、本文を読み進める上で巻末に目を通す手間に煩わされることもない。そして何と言っても流麗な訳文が見事だ。原文を精確にたどり、安易な意訳に流れていないにもかかわらず、一読して著者が何を述べているか明確にわかるレベルの邦訳が、ようやくこの書物に登場したという感動を覚える。ぜひ手にとって見られることをお薦めする。初めて本書を読まれるかたは何と幸運なことだろう。しかし、すでに他の邦訳で本書を読まれたかた、原書を参照して読んでこられたかたにも多くの発見があるに違いない。間違いなく日本の今後のヘーゲル研究に甚大な影響をもたらす訳業だ。
精神現象学 下
2018/12/18 13:17
原文の明晰さを甦らせる翻訳
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
本下巻に収められた最後の2章(「宗教」「絶対知」)は、従来の邦訳で読んでも十分におもしろい。いっぽうこれまでとりわけ難解に感じられたのは「精神」章だった。しかし、熊野訳であらためて同章を読み、霧が晴れるようにその議論の全体像を見通すことができた。頻出するタームがコンテクストに応じてていねいに訳しわけられていること(むしろこれが原文を精確に再現する効果を高めている)、練り上げられた訳文、いくつかのパラグラフごとに置かれた端的な小見出しのおかげで、一気に読むことができたおかげだと思う。この新訳には訳者による本文解説は含まれておらず、読解に関してはこれを読者に委ねる方針を取っている。いっぽう、数パラグラフごとに入る小見出しが、簡単な要約の役割を果たす。巻末には小見出し一覧が索引として置かれているので、後から複数箇所に繰り返し現れる共通論旨(たとえば、カテゴリーやことがらそのものをめぐるそれら)をたどる際などに便利である。この翻訳によって新たに教えられたことがとても多く、今後も長く参照していくことになりそうである。
現代認識論入門 ゲティア問題から徳認識論まで
2020/09/19 07:38
ゲティア問題以降の認識論(知識論)
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
認識論の現状が、ていねいにわかりやすくフォローされている。著者は、チザム『知識の理論 第3版』の訳者でもある。現代認識論は、知識を「正当化された真の信念」とする標準分析(JTB説)から始まり、これを根本的に批判したゲティア論文以降、諸説入り乱れて今日に至る。たとえば正当化の理論については、ある信念がある人にとって認知的にアクセス可能である限りで正当化されるとする内在主義と、信念の正当化要因は必ずしも本人にアクセス可能でなくてもよいとし、当人の了解範囲外の正当化要因を認める外在主義の対立が代表的だ。2002年刊行の戸田山和久『知識の哲学』が外在主義推しだったのに対し、本書は認識論の現況をより包括的に描写している。文脈主義や徳認識論への目配りも本書の優れた点である。ゲティア問題以降、認識論はどうなっているのか、まず基本を押さえたいという読者、哲学は専門外だが、「知るとはどういうことか」という、あらゆる学問の基本をきちんと把握したい読者にお薦めする。高密度だが、たいへん読みやすい。
テラ・ノストラ
2017/01/30 17:33
待ちに待った邦訳刊行
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カルロス・フエンテスの畢生の大作にして20世紀文学の金字塔。エル・エスコリアルの地下廟に死者を集めたハプスブルク家のフェリペが、自己の血統的始原へ遡り、誕生と死を統合した不動の世界を築こうとして挫折する(周囲には王に反対して生成変化を説いたり実践したりする者たちが蝟集し、ついに新大陸発見の知らせが届く)。多数の登場人物のナラティブが交錯し、異なる世界が対峙する中、物語はフェリペの目論見を離れて旧世界から新世界へと進み、過去と未来の交錯を経てどこでもない時空に至る。これこそフィクションの最高の愉悦にして危険極まりない体験だ。
人権の彼方に 政治哲学ノート
2015/11/02 13:48
“Mezzi senza Fine”(目的なき手段)
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90年代のジョルジョ・アガンベンが、フーコー晩年の二つの生政治研究の系列の、暗がりにおかれた交差点を取り上げたことはよく知られているーー国家が個人の自然的生への配慮を引き受ける政治的技術(全体化)と、個人が自分を自己同一性の意識と権力行使に結びつける技術(主体化)の研究という(フーコーにおいては)別個の系列の交差点である。アガンベンによれば、主体化の技術と全体化の技術が触れ合う不分明な地帯を明るみに出すことは、フーコーの死によって妨げられてしまった。アガンベンが遂行しようとしたのは、まさにこのフーコーの未解決の課題の探究である(「権力の法的―制度的範型と生政治的範型のあいだの隠れた交点」に関わる探究)。
いまあげた課題への解答が『ホモ・サケル』に他ならない。ところでこの彼の最初の主著が書かれた時期のエッセイを集めた “Mezzi senza Fine”(1996、邦訳『人権のかなたに――政治哲学ノート』以文社;「ギー・ドゥボールの思い出に」捧げられている)は素晴らしい著作である。アガンベンはフーコー晩年の生政治研究の先駆としてハンナ・アーレントをあげる。ところがフーコーはアーレントに言及することはなかった。この空隙を縫うように、アガンベンは同書の最初の二章で晩年のフーコーと、アーレントの研究を取り上げる。これが先にあげた『ホモ・サケル』の課題と密接に結びついていることは明らかである(アガンベンは同書の序文でフーコーとアーレントの間の不可解な乖離を指摘している)。
“Mezzi senza Fine”(目的なき手段)というタイトルの趣旨は、「収容所とは何か?」「身振りについての覚え書き」「この流謫にあって――イタリア日誌 1992-1994」などをお読みになるとわかる。
「手段のない目的性は、これこれの目的との関連でのみ意味をもつしかじかの手段性と同等に、道を踏み外している。舞踏が身振りであるのは、逆に、舞踏がまるごと、身体運動の手段的な性格を負担しさらしだすということだからである。身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段としての手段を目に見えるものにするということである。身振りは、人間の〈間にあること〉をあらわにし、人間に倫理的次元を開く。しかし、ポルノ映画において、たんに他の者たち(あるいは自分)に快楽を与えるという目的に向けられた手段である身振りを遂行している人が、撮影され自らの手段性の内にさらけだされている、というだけの事実に不意をつかれる時、この人は手段性によって宙吊りにされ、観者にとっては、新たな快楽の手段になる、ということがある。」(「身振りについての覚え書き」pp.63-64)
また著者は「この流謫にあって」で次のように述べている。
「収容所とはまさしく、近代の端緒をなす場である。すなわちそれは、公的な出来事と私的な出来事、政治的な生と生物学的な生とが厳密な意味で不分明になる空間である。政治的な共同性から切り離され、剥き出しの生へと(さらには「生きられるに値しない」生へと)還元されてしまったために、収容所の住人は、実のところ、絶対的に私的な人なのである。しかし、この住人は一瞬たりと、私的なものの中に逃げ場を見出すことができない。まさしくこの不分明の様相が、収容所に特有の不安を構成する。」(p.126)
フーコー亡き後の生政治研究の優れた成果である。
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