ゲイリーゲイリーさんのレビュー一覧
投稿者:ゲイリーゲイリー

三体 1
2020/08/05 23:49
圧倒的スケールで描かれるSFの原点。
12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
本作は、アメリカ最高のSF賞とも言えるヒューゴ賞を受賞している。
しかもアジア人初受賞であり、そもそも翻訳小説としてヒューゴ賞を受賞すること自体が初快挙なのである。
そんな大注目作品である本作、結論からいうと前評判に劣らない見事な作品だった。
本作のコンセプトは異星文明とのファーストコンタクトである。
これだけを聞くと今まで何度も使い古されてきた題材であると思われるかもしれないが、本作はそのシンプルさが強みとなっている。
最近のSF作品は身近な出来事や日常生活に焦点を当てた、こじんまりとした作品が多いと思われる。
そんな中、本作は圧倒的なスケールで話が展開されていく。
それはまるでSFの原点に立ち返ったかのようで、誰もが宇宙規模の「未知」の世界や科学技術に魅せられることだろう。
また、そのシンプルさに併せてSF要素以外のエンタメ要素をうまく取り入れているのも、本作の魅力の一つだ。
主人公であるワン・ミャオが撮影する写真に映る謎のカウントダウン。
科学者たちの相次ぐ自殺。
そして物語の中盤でワン・ミャオの身に起こる事件。
これらのミステリー要素やサスペンス要素を盛り込むことでページを繰る手が止まらない。
個人的に最も素晴らしいアイデアだと思ったのは、物語内で出てくるVRゲーム「三体」である。
これを用いることで三体世界の説明を登場人物に理解させつつ、読者にも物語の世界観を説明する構造が非常に上手いと思った。
またVRゲームのパートは世界観の説明ではあるのだが、このゲーム内の描写もとても面白い。
そしてもう一人の主人公である葉文潔の過去も本作の欠かせない要素である。
彼女が経験してきた辛い出来事の至る所に政治的問題が描かれており、彼女の下した決断について非常に考えさせられた。
彼女を通して人間に対する「絶望」を描き、ワン・ミャオや史強を通して人間に対する「希望」を描いている。
この人間に対するそれぞれの考え方や、三体協会の内部分裂などが物語に奥行を与えていた。
本作はSF好きな方は勿論のこと、今までSFを遠ざけていた方にも是非読んで頂きたい。
ジャンルに囚われることなく、ただひたすらに面白い小説として本作は素晴らしい作品なのである。
しかもこれがまだ三部作の一作目というのが恐ろしい・・。
二作目以降にも大いに期待したい。
2023/01/28 20:44
みつみの決断、志摩の葛藤。
13人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
明るくて実直な主人公・みつみ。
いつも真っすぐで失敗しようとも挫けず、勇気と自身に満ち溢れた彼女は、周囲の人々を笑顔にし励ます存在となっている。
しかし一方でみつみの屈託のなさに、嫉妬し疎ましいと感じる人物や、彼女のそうした言動に負い目を感じる人物も一定数存在する。
8巻では、上記のようなみつみの特性を手放しで褒めたたえるのではなく、そうした特性や価値観を持っていることは幸運だからではないか、と問いかける。
そもそも彼女が持っている特性に関しても彼女本人だけによるものではなく、むしろ家族や友人に愛されてきた環境のおかげでそうした言動が身についたのではないか、と。
もしそうだとしたら彼女の様に恵まれた環境下で育たなかった人たちの価値観や特性を糾弾するべきなのだろうか。
これまで周囲と壁を作ってきたことで、自身の想いに鈍感になってしまい、主義主張のない自分は中途半端だと思う志摩。
みつみの性格や価値観を恵まれていたからにすぎないと一蹴する八坂。
そんな八坂や志摩とのやり取りを通じて自分が如何に恵まれていたのか、本当に自分が優先すべきことは何なのかに気付いていくみつみ。
彼女たちを見ていると如何に人と人との分かり合えなさ、を痛感させられる。
しかし私たちはそれでもどうしても大切な人と分かりあいたいと強く想う。想ってしまう。
本作はそんな分かり合えないというもどかしさを直視し描きつつも、それでも分かり合いたいと想う気持ちは美しいと肯定してくれる。
みつみが志摩に放った言葉に心打たれたのは私だけではないはずだ。

チ。 第8集 地球の運動について (ビッグコミックス)
2022/09/03 01:36
「二者択一」ではなく、「迷い」の中にある希望。
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「知性」と「暴力」、「理性」と「衝動」、そして「信じること」と「疑うこと」。
これらと同様に「地動説」を信奉する者とそれを阻む者、という対立構造も一見二律背反に思えるが、実際は表裏一体であることを本作は提示する。
そしてそこからどちらが正しいのかという二者択一の「決断」ではなく、どちらなのかと「迷う」ことこそが重要であるとということが描かれていく。
ただそうは言っても、「迷う」ことは非常に苦しい。
本当にこれでいいのか、もし失敗してしまったら、間違えていたら、という不安が絶えず付き纏う。
そしてそんな不安から逃れるように、私たちは早急に「答え」を求め、「結果」に飛びつこうとする。
しかしその一方で、「迷う」からこそ得られる苦悩が懊悩が絶望が私たちの糧となり、反省と自立を促し「迷う」ことから目を逸らさない強さを授けてくれる。
作中でもドゥラカが述べたように、迷いの中にこそ倫理があり、希望があり、そして自分だけの幸福を見出せる可能性が存在するのだ。
また、不正解だとしても無意味ではないということが描かれている点も特筆に値する。
作中では「地動説」は異端とみなされ、それを信奉する者は排除される世界が舞台となっている。
つまり「地動説」を信奉することは、社会的には不正解なわけである。
しかしそれでも本作の主要人物たちは「地動説」に心動かされ、愛してしまう。
では、不正解だと見なされる選択をした彼らの人生は無意味だったのか。
そんなはずはない。
「地動説」に地動説に心動かされてしまった自らを受け入れ、愛してしまったものを愛しぬこうと覚悟を決めた彼らだからこそ得られた幸福。
自らの命を投げ出すことさえも厭わないほどに魅了され、愛するものを見つけた彼らの人生が無意味なわけがない。
そんな彼らの生き様には、むしろ憧憬の念さえ抱いてしまう。
何かに心動かされてしまったという事実。
感動してしまった自分。
それらを受け入れた先にこそ幸福というものが存在し得るのではないか。
作品や言葉に感動した自分の心を否定することなく、衝動的に誰かにこの感動を伝えたいと思えるほどの何かを受容し肯定すること。
もしそれが否定されてしまったら、もし間違っていたらと私たちは不安に苛まれるだろう。
しかし肯定と否定の間で、期待と不安の間で迷い続けた先には必ず救いが、希望があると信じたい。
理性を超越し心に直接訴えかける本作は、そうした思いを抱かせてくれる。
2023/10/09 17:13
人と人とは分かり合えないし、理解し合えない。それでも、、、。
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
人と人とは分かり合えないし、理解し合えない。
その事実を大前提としたうえで、「それでも」ともがく姿勢を本作は見事に描き切った作品だと言える。
槙生と朝の関係だけでなく、それぞれの友人との関係性も丁寧に描くことで、「人と人とは分かり合えないし、理解し合えない。それでも、、、」というテーマを多角的な視点で映し出すことに成功しているのだ。
私たちが抱える孤独、怒り、虚無などは本来、そのどれもが本人だけのものであり、他者に共有する必要もなければ理解してもらう必要もない。
それでも私たちはそれぞれが抱える孤独、怒り、虚無など私たちが抱え込んだものを、誰かに伝えたい、誰かに聞いて欲しいと思ってしまう。
そうした葛藤を抱きながらも、いや、抱いているからこそ私たちは他者に手を差し伸ばし続けたいと思ってしまうのではないか。
ただ一方で、そういった行為は決して容易でないことも本作は描いていく。
醍醐が槙生に言ったように、「そのしんどい努力をしなきゃいけない」し、「心を砕く」ことを伴う行為なのだ。
でも、だからこそ分かり合えないという事実に抗おうと手を伸ばし続ける行為はどこまでも尊く美しい。
そして、その瞬間を幾度となく描いてきた本作だからこそ、ここまで心震わされたのだろう。
誰かの言葉を鵜呑みにするのではなく、自分だけの言葉を探し続け、それを相手に伝えること。
その大切さ、尊さ、美しさを再確認したいと思うたび、私は本書を手に取るだろう。
2022/11/23 18:31
二項対立に囚われない、解釈。
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ひょんなことからノーマークスというアーティスト集団と関りを持つことになった八虎。
そこの長である不二桐生は、独特な人柄で数々の人々を魅了しており、八虎もまた彼女との交流を経てアートの楽しさを再認識していく。
しかしノーマークスには良くない噂が流れており、藝大の教師や学生からはいい顔をされない。
このままノーマークスや不二桐生との交流し続けていいのか、という葛藤する八虎だったが、その悶々とした思いが次第に「罪悪感」について描きなさいという課題と結びついていく。
ブルーピリオドの魅力の一つとして、登場人物たちの悩みや葛藤がアートという枠組みに留まらず、人生や哲学といったより普遍的なテーマを内包していることが挙げられるだろう。
前巻ではアートと学歴、アートと環境、といった藝大の存在意義を問うテーマが主題とされていたが、13巻ではそこから更に一歩踏み込んでいき、"正しいもの"と"正しくないもの"の境界線、良い悪いの判断基準、といったより抽象的な概念に対して疑問を突き付ける。
そうした哲学的な問いを「罪悪感」という課題のテーマに落とし込むことができたのは、人一倍他者からの視線に敏感な八虎だからこそ。
これまで以上に哲学的なコンセプトを扱った課題だったからこそ、八虎は新たな視点で物事を見るようになっていく。
誰かにとって忌み嫌う場所でも誰かにとっては守りたい場所になり得るし、誰かにとって肯定したいものが誰かにとっては否定の対象となり得る。
白か黒かという二項対立に囚われるのではなく、そのはざまで揺れ動くことでしか見えないものもあるのだと八虎と共に私たち読者も気付かされるはず。
そして後半ではついに八雲がフォーカスされる。
個人的に最も好きなキャラクターなので今後の展開が非常に楽しみ。

三体 2 黒暗森林 下
2020/08/12 16:32
副題に込められた意味。
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
フェルミのパラドックス
ーー物理学者エンリコ・フェルミが指摘した地球外生命体の文明の存在の可能性の
高さと、その様な文明との接触の証拠が皆無である事実間の矛盾を指す。
本作の副題である「黒暗森林」はフェルミのパラドックスに対する解釈となっている。
下巻では、上巻の冒頭で葉文潔がルオ・ジーに提案した「宇宙社会学」が物語の鍵となる。
「宇宙社会学」の二つの公理と概念を駆使して導き出される結論に驚きを禁じ得ないと同時に、とても納得できる内容となっていた。
下巻では上巻の伏線回収は勿論のこと、アッと思わず声を出してしまう驚きの展開の連続である。
ミステリーと言ってしまっても差し支えないのではと思ってしまうぐらいの、見事な伏線回収と展開なのだ。
第一部以上にハードSFとしてエンタメ小説としてパワーアップした本作は、もう非の打ち所がない。
難解な技術的描写でさえもエンタメに昇華してしまう著者の筆力に感服した。
そして「黒暗森林」や「猜疑心連鎖」といった学説は、現代社会のメタファーなのではないかと考えてしまう。
恐怖から相手への理解よりも攻撃を最優先してしまう姿勢は、未だに我々がとりうる行動である。
そういった目で本作を見るとただのエンタメ小説ではなく、危機に面した時に我々がどのような行動を取るべきかを記しているように解釈できるのではないだろうか。

三体 2 黒暗森林 上
2020/08/12 16:04
前作はプロローグに過ぎなかった。
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
前作の圧倒的スケールでさえもプロローグに過ぎなかった。
本作では、「智子(ソフォン)」というスーパー粒子によって三体人に情報が筒抜けの状況下で、どの様に三体人に対抗するかが舞台となっている。
そこで登場するのが「面壁計画(ウォールフェイサープロジェクト)」。
「智子」から唯一秘匿にできるのが人間の脳なのである。
「面壁者(ウォールフェイサー)」に選ばれた人間は自らの真の計画をだれにも明かさずに推進する必要がある。
この設定が非常に素晴らしい。
「面壁者」の真の意図が何なのか読者にも明かされず、その「面壁者」の計画を暴こうとする「破壁者」との頭脳戦が第二部である本作の見所の一つだ。
またそれら以外にも、三体人が侵攻してくるにあたって世界情勢の変化や逃亡主義等の思想の問題などの描写も圧巻である。
先進諸国に対して技術公開を求める技術公有化運動や、危機に陥ろうとも自国の安全を第一優先する国家の描写にとてもリアリティがあった。
「面壁者」達の本当の計画とは。
本作の主人公であるルオ・ジーは何故三体人に恐れられているのか。
そしてルオ・ジーの計画の真意とは。
様々な謎を残したまま物語は下巻へと続く。
早く謎の答えを知りたい一方で、まだ読み終わりたくないという思いも強くなる。
現代小説の最高峰である本作。
まだ読んでいない方は是非手に取ってみてほしい。
2022/07/09 18:12
アートと学歴。
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
いつしか見切り発車で絵を描くことに恐れを抱くようになっていた八虎。
受験前は誰よりも枚数を描いていたにもかかわらず、手を動かす前に頭の中で練るようになってしまう。
そんな彼に助言を与える八雲は相変わらずカッコイイ。
飄々としており一見ガサツな印象を与える彼だが、非常に博識で自身で思考することを怠らない。
とここまではこれまでの「ブルーピリオド」でも見受けられるシーンだったが、後半は怒涛の展開を見せる。
アートに学歴は必要か。
そもそもアートとは人から教わるべきものなのか。
藝大は学生に何を教える場なのか。
といった藝大の存在意義を問うようなテーマで物語は進んでいき、八雲同様マイペースでありながらも圧倒的な知識量をもつ新キャラも登場する。
また、藝大だからこそ痛感するであろう挫折や違和感を描いているにもかかわらず、
人生における選択と責任といったテーマを内包させる著者の見事なストーリーテリングは圧巻。
今まで以上に次巻が気になるエンディングだった。
2022/05/22 19:42
無力感を否定した先に。
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
私には何にもない。
あの人には私と違って才能がある。
誰もが自分にないものばかりを見つめ、それを持っている他者を羨む。
その上私たちは、自身に欠けている要素を持っているから、という理由だけで他者が万事満たされていると判断する。
「顔立ちが綺麗だから悩みなんてない。」、「成績優秀だから将来に対する不安なんてない。」という風に。
そうした憶測だけで他者を知った気になってしまうことは、何と寂しく勿体ないことだろう。
確かに悩みや苦しみは人それぞれ千差万別だ。
しかしそれでも対話することによって、誰もがそれぞれの「苦しみ」や「満たされなさ」を抱いていることが分かるかもしれない。
似たような焦燥感や不安を抱いていることを共有できるかもしれない。
本作はそうした苦しみや無力感に理解を示しつつも、その無力感を肯定はしない。
たとえ今この瞬間には、途方もない不安と茫漠たる無力感しかなくとも、私たちは決して無力なんかじゃないと鼓舞するのだ。
無力感を否定することはそれを肯定する以上に、辛く苦しいかもしれないが、それでも本作は私たちに希望を見せる。
朝が槙生の言葉を「いつか理解できるようになる日が来るかもしれない」と言ったように、今理解できないことは必ずしも無意味であることと同義ではない。
私たちは何にだってなれて、どこへでも行けるかもしれないと信じてみようかなと思わされる作品だ。
2023/04/09 01:02
空虚さと向き合う恐怖。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「やりたいことをしなさい」、「なりたいものになりなさい」という呪縛。
誰しもが必ずしもそうした夢や目的を持ち合わせているわけではなく、朝もまた槙生やエミリなどの周囲の人間と比較し、自身の中に空虚さを見出してしまう。
そしてその空虚さと同時に脳裏によぎるのは亡き父の姿だった。
あの人は果たして私を愛していたのか、やりたいことや目的を持っていたのか。
答えが返ってこない問いを胸中に抱えた朝に一筋の光を見せた、とある友人のセリフが10巻のハイライトシーンと言っても過言ではないだろう。
あなたがあなたであるだけで価値はある、という一言に強く胸を打たれた。
大人になるというタイムリミットが迫りくる中、どう在るべきかとどうしたいかの間でもがき苦しむ朝。
漠然とした未来への不安と共に、槙生との生活がどう変貌してしまうのかという恐れとも向き合わざるを得なくなる彼女はどういった決断を下すのか。
どういった決断を下すにせよ、彼女と槙生の美しい関係はこのままずっと続いて欲しい。

ひゃくえむ ジョウ 新装版 (週刊少年マガジン)
2022/06/13 01:32
熱に浮かされた者たち。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
それに何の意味があるの?何かメリットがあるの?それで何が解決するの?無駄じゃないの?
そうした言葉は常識や規範という看板を背負っており、耳を傾けない者は愚者の烙印を押される。
しかし本当に愚者なのだろうか?
損得勘定だけでは計り知れない胸の内に渦巻く苛立ち。
納得しようと自分に言い聞かせても決して消えない悔しさ。
そうした想いや感情を常識や規範で抑圧するのか、それとも自身の内なる声に耳を傾けるのか。
どちらが正しいとかではなく、どちらを選択したいのかこそが重要であり、そしてその選択権は常に自身の手中にある。
もちろん、内なる声に耳を傾けることには恐怖を伴う。
外部の声に従う方がはるかに楽で安全だからだ。
しかし本作を読めば、そんな甘い考えは吹き飛ぶだろう。
自分の人生の舵を環境や他人に委ねるのではなく、自身の手で掴み取ること。
そのことでしか得られない高揚感を、本作は圧倒的な熱量で表現することに成功している。
内なる声に耳を傾け、熱に浮かされたとしても何の意味もなければ何も解決しないかもしれない。
ましてや他人や環境が変わるわけでもないだろう。
しかしそれでも、自分だけは必ず変わる。
自分の役割、自分の人生に対する決定権を自らの手に取り戻せるはずだ。
「チ。」で名を馳せた魚豊氏は本作でも私たちに問いかける。
快適な自己否定に留まるか、内なる声に耳を傾け自己肯定へと一歩踏み出すか、と。

サバイバー 新版
2022/03/12 11:32
人生の所有者とは誰か。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
自分の人生は自分のもの。自分だけのもの。社会や他者によって支配されるものではない。
「ファイト・クラブ」の主人公の様に消費社会に支配されるのではなく、本作の主人公の様に他者評価に惑わされるのでもなく、
己の人生をその手に掴み決して手放すなとチャック・パラニュークは私たちに訴えかける。
何が欲しいのか、何を成し遂げたいのか、何のために生きているのか。
そうした自らの意志など皆無に等しい主人公は、社会の歯車として「生かされている」のであって自らの人生を「生きている」とは到底言い難い。
生きることへの虚無感、他者を媒介してのみ得られる生への実感、これらは「ファイト・クラブ」の主人公にも通ずる。
そしてそれは私たち現代人にもそっくりそのまま当てはまる。
いや、むしろ私たち現代人の方がより一層人生に虚無感を抱いているのかもしれない。
SNSの発達により他者評価が容易に可視化された結果、常に他者比較を行わずにはいられない人々。
他者からのイイねこそが全ての判断基準となり、自身の価値観などもはや誰も持ち得ていない。
自らの人生などそこには存在せず、あるのは他者への追従と世間と足並みを揃えることのみ。
まさに誰もが引用の引用の引用と成り果てている。
また、そのような人々を量産する社会構造そのものに対しても、著者は批判の手を緩めない。
夢や希望、愛情や友情、そして決して癒える事のない心の傷でさえも、金になるかどうかという判断基準でしか計れない拝金主義。
金になるためなら例えそれが嘘であろうと、人を傷つけることになろうと厭わない消費社会。
常に弱者が搾取され、富める者だけが更なる富にありつける。
しかし富める者でさえも金に支配されているに過ぎない。
そうした社会の現状を、皮肉とブラックユーモアを交えて描く著者の筆力には感服するばかり。
散文的な文章とユニークな語り口から紡がれる独自の文体も特筆に値する。
自由奔放なその文体は時にシニカルに、時にエモーショナルに私たちの心を揺さぶり続ける。
生の有限性を私たちの眼前に突き付け、生き方の是非を問うチャック・パラニューク。
どう生きるべきなのかという普遍的かつ深淵なテーマを描くからこそ、彼の作品は決して色褪せない。
そして彼が憂い批判した社会は、ますます悪化の一途を辿るばかりだ。
しかしだからこそ、本作から学べることは沢山ある。
「ファイト・クラブ」だけではない。
本作もまた人生の指標となり得る劇薬だ。
2023/11/06 01:57
実力だけではないからこそ。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
実力だけが、藝大に入学できるか否かの要因ではない。
藝大試験に関する情報が手に入りやすいのは地方ではなく東京であるという情報格差や、学費のみならず予備校等の受験勉強にどれほどのお金を割けるかという財力も大いに関係してくる。
しかしだからといって、藝大に受かった人が全員恵まれていたかというともちろんそうではない。
自らの境遇を恨み、自己憐憫に陥りかけていた当時の八雲は、同じ予備校に通う真田の存在によって考えを改める。
自身と似通った境遇であるにも関わらず、淡々と作品を世に送り出すことだけに没頭する彼女に憧憬の念を抱き、自らの力だけでコントロールできることにだけフォーカスしはじめるのだ。
だからこそ八雲は、自身の経緯を知った矢虎に「作品で苦労自慢大会するわけではない」とまで言い切れるようになったに違いない。
その道のりは非常に厳しいものだったに違いないが、彼はもう自らの境遇を呪ったりしない。
どんなスペックで生まれたとしても、どれほど恵まれていようと自責の念に駆られる必要などないと矢虎を救う彼は、真田の言う通り「いい絵描き」なのだ。

ひゃくえむ ゲ 新装版 (週刊少年マガジン)
2022/06/15 22:43
陸上に人生を捧げた者たちの生き様。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
承認欲求を満たすため、他者評価のために走るトガシ。
記録だけに執着し、自己評価のために走る小宮。
彼らは対極であると同時に表裏一体の存在でもある。
そんな彼らの「何のために走るのか」という問いは、「何のために生きるのか」という問いへと形を変え、私たち読者の心を揺さぶる。
そう、本作は陸上競技を描いた作品ではない。
陸上競技に人生を捧げた者たちの生き様を描いた作品なのだ。
だからこそ本作の持つ熱量に私たちは感化され、一つ一つのセリフに私たちの心は射貫かれるのだろう。
これまで他者評価のために走ってきたトガシは、初めて自分のために走る。
一方の小宮は、初めて対戦相手という他者の存在を認識して走る。
勝利と敗北、希望と絶望、そして自己と他者。
そうした二項対立から解放された先に待ち受ける景色を、私たちは生きている間に何度味わうことができるだろう。
「チ。」でもそうだが、著者は真剣になることができる一瞬を、命を懸けることができる人生を肯定してくれる。
死や現実を恐れる余り身動きが取れなくなってしまった人生ではなく、人生なんぞくれてやると言わんばかりの大胆さと信念を持った人生を。
そんな著者の作品を読むと、避けられない死を前にしても怯むことはないのだと思えてくる。
幸福さとは、死なんかには奪えやしない。
だったらどこまでも真剣に自らの人生を歩んでみようじゃないかと、そう思わせてくれる作品だ。

チ。 第7集 地球の運動について (ビッグコミックス)
2022/04/13 00:09
信念を手放した先に。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
金を稼ぐこと、死を受け入れること、亡き友人の本を出版すること、そして地動説を打ち砕くこと。
それぞれの信念が交錯する中で、信念を貫くことの意義が問われる。
信念を優先することが全てなのか。
信念は呪いにもなりうるのではないか。
信念を手放し、迷うことから得られるものもあるのではないか、と。
更に本作は、信念や想いというものは必ずしも死と共に消え去るものでないということを強く訴えかける。
先人たちの想いを引き継ぐ者がいる限り、その想いは無くならない。
決して途絶えることはないのだ。
今この瞬間だけに意味を見出し、過去など関係ないという生き方は、どうしたって自分の人生という尺度だけで物事を見てしまう。
つまり、自分の死が終わりを意味するのだ。
しかし先述したように、死は必ずしも終わりを意味しない。
歴史を引き継ぐ者が想いを受け取り、そしてそれをまた次の者へと渡す。
その繰り返しの中にこそ希望は宿る。
遅々としているかもしれないが、しかし確実に善き方へと私たちは進んでいる。