三分法さんのレビュー一覧
投稿者:三分法
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内村鑑三 代表的日本人 永遠の今を生きる者たち
2020/10/09 18:09
時を超えて生きている、いわば永遠の人である五人との対話
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本書はいわゆる偉人伝ではない。主役は5人の人間ではなく、彼らの意志を超えた存在(超越、天、神、宇宙……)であると筆者は語る。それでは、人間と人間を超えた存在とがつながる場所はどこなのだろうか。それは、人間の霊であり、その場所の働きが霊性であるという。天という壮大で無限に大きなものと、「わたし」という最も小さなものが深く交わる場所が霊であり、わたしは「無私の私」へと変えられる。例えば、西郷隆盛(代表的日本人5人の一人)にとって、生きるとは、自分を超えた大いなる天を、霊において知ることであり、「無私の私」となって天の道具になることであった(敬天愛人)。自己実現というのは、やりたいことをやることではなくて、天の使命に従ってやらなければならないことをやることである。
2020/08/25 21:05
「無心ということ」は宗教的生涯の中心をなしている思想である。
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分別の世界、すなわち善悪、有無、自分と他人などの二元対立の世界が人間世界であるが、このほかにもう一つの世界、すなわち無分別の世界、無心の世界、大地のようなものがある、という。
本書において、「無心」とは何かは、いろいろと言い換えられて、説明されている。たとえば、受動性、無分別、無所得、無住、心身脱落・脱落心身、日々是好日、不死、他力三昧、自然法爾、御心のまま、……。
何故「無心無我」なのかと言えば、「我」の意識は人間だけにあるのであって、物質界や動物にはない。ここから人間特有の矛盾対立の世界が展開し、そこから常に悩みが生じてくるからである。しかし、「無心無我」の境地になると矛盾衝突がなくなる(克服される、超越される)といわれている。そしてこの「無我無心の世界」から、今度は改めて、二元対立の世界、善悪、有無の世界、「我」の世界、「他人」の世界が出てこなければならない、という。無我無心となるということは無責任になるとか、非倫理的になるということではないのである。
イエス伝
2020/10/15 09:26
イエスが示そうとしているのは、理性による思想の知解ではなく、霊性の働きによる存在の次元の転換。
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言語(「コトバ」の一形態)には多層性(多義性、多次元性)がある。例えば、福音書における神殿の意味は、建築物、祈りの家、イエスの体、人間の魂、教会、世界など、多層的、多義的、多次元的である。著者は、人間の魂(心、霊性)に関して、すべての人間は、不可視の「コトバ」が宿る、内なる「神殿」を有するとし、文字を追う理性の目とは別な、霊性というもう一つの目を見開くことを促している。また、著者は、イエスと出会ったものの心の内には、誰にも「私のイエス」の姿が刻まれているとし、本書は『わたしのイエス伝』であると語っている。また、本書においては、種々の分野の人の霊性に宿った「コトバ」が紹介されている。
2020/10/06 20:07
良心的知識人というイメージでは収まり切らないものがある。
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1930年代の後半において、矢内原は、預言者的ナショナリズムによる日本の変革を語った。それは、現状を肯定する国体論的ナショナリズムではなく、現状を批判する対抗するナショナリズムであった。このことから、時の政府から言論を抑圧され(矢内原事件)、東京帝国大学教授という職も辞すこととなった。戦後も絶対平和主義を訴え続け、近代国家に普遍性の次元を導入することを夢見ていた。新渡戸稲造に傾倒し、内村鑑三を生涯にわたって師事し、無教会キリスト者となったということが、矢内原の論理の基礎あるいは媒介となっている。学問的な知識よりも、人間への理解を深めることの重要性、信仰にもとづく「真理」を知ることの重要性を訴え続けた。彼は、戦前・戦中は預言者としての使命と自覚に生きた。戦後は良心的知識人と呼ばれているが、この一般的イメージには収まり切れないものがある。
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