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Bakhitinさんのレビュー一覧

投稿者:Bakhitin

14 件中 1 件~ 14 件を表示

名状しがたい星雲のような思念をいかに「言葉」で表現できるのか

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「私自身の苦しみを語ろうとすると、それはきっと「感情的」で、 理解しがたいものとなる。けれどもそれこそが私にとってはより『リアル』なのだ。」そういえば、三木さんにとっては、
真の意味での「哲学」はたったいま始まったばかりのようである。ということは、「哲学的思惟」に値するものは、レヴィナス老師が言っていたこういう「前-哲学的経験」、つまりこの名状しがたい、未定型な泡のような思念の運動からしか出てこないからだろう。

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言葉の展望台

2023/02/26 14:27

哲学者としての大事なマインドセット

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

三木那由他著『言葉の展望台』読了。

『「コミュニケーションの道具」という言語観には、この経験の居場所はなさそうだ。何か、大きな発想の転換が必要に思える。』(本文より) これは哲学者としてはほんとうに大事なマインドセットだと思う。

言葉はいつもゆらいでいることを見据え、織り込み、計算したうえで、「コミュニケーションの理論的なモデル」からずれたものとして言葉を使うのがよいと思う。現実は「理論的モデル」に適合するためにあるのではない。そうではなくて、
理論的モデルを無限に生み出す母胎として「いかなるモデルによっても汲み尽くせない」。現実が存在するのである。現実が「いかなる理論的モデルによっても汲み尽くせない」と思っている人間が現実に直面したときに、いちばんよく口にする言葉は何か。

それは、 「そういうことって、あるかもしれない」。つまり、理論は、つねに書き換えられなくてはならないという義務にさらされているのである。生身の人間の経験の居場所を探し続けることによってしか、新たな言語観は出てこないと思う。

そして、今まで「当たり前」になっていた会話の中で埋め込まれていたある種の「規範」を突き崩していくことがいかに大変なのかを三木さんは淡々と語る。そして、この論考は、

「会話」はいったい何なのかについて、大事なことを一つ教えてくれる。それは「会話分析」の発見した『規則』と経験的に確かめられた実証的『概念』というよりはむしろ、ルールに従ったり従わなかったりすることが、それに対応した間主観的理解や社会的結果を生み出していくという意味で、↓

アプリオリな性格を持ったものであるということ。つまり我々が普段の「会話」で従う『規則』とは経験的規則ではなく、私たちがある社会のメンバーとしてコミットしなければならない『規範的で』『道徳的』な秩序なのである。「規範的で」あるからこそ、そのルールの持つ拘束力は非常に大きい。

なので, そのルールに従わない場合は、必ず「差別」や「排除」のような社会的サンクションが与えられる。そういう側面を考えると、著者が言っているように「カミングアウトは、その成否に世界の命運がかかっているような気持ちになる」というのは過言ではないと思う。もう一つ、

今回の論考は「断絶」についてもいろいろ考えさせられる。つまり、断絶は「断絶以前」を自分のうちに抱え込んだまま「断絶以後」の時代を生き延びることを選んだ人間にとってしか存在しないということだ。

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街場の成熟論

2024/10/13 07:30

。非『極端』ほど、たどり着くのが困難な場所はないのである。

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内田樹先生の最新刊『街場の成熟論』(文藝春秋)をご恵投いただきました。改めて師匠の気の遠くなるような抜きん出たバランス感覚に思わず脱帽。そういえば、かつて高橋源一郎さんの至言を思い出す。「内田さんは、そんな世界に(救世主のように)現れた、非『極端』の人だ。非『極端』などというと、

生ぬるい感じがあうるけれど、そうではない。非『極端』ほど、たどり着くのが困難な場所はないのである。」 ものごとは「原理」より「程度」が大切だという指摘は、次数を一つ上げたもう一つの「知」ではないと思う。それは「知」と「生」がせめぎ合う境目で得られる「成熟」の体感であろう。

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コモンの再生

2024/10/13 07:29

こまめに驚こう。

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内田樹師匠の最新刊『コモンの再生』(文藝春秋)をご恵投いただきました。
『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる』
目に映る世界は明らかにまだ夏なのに、それでも風だけが秋の便りを伝えてくる。その便りを、↓

受け取った人間だけが得る秋の訪れへの驚きについて内田先生はさまざまなトピックから語っていらっしゃる。内田先生のご持論の『「いきなり驚かされない」ための最良の方法は「こまめに驚く」ことです。「驚かされる」は受動態ですが「驚く」は能動的な行為です。』の意味をたっぷり味わえる一冊である。

ですね。確かに夏の風と秋の風は違う気がします。音だけでそれに気づく、本当に小さな気づきなんですね。

きちんと変化をモニターしていれば、地殻変動的な危機であっても、それに少しは先んじて徴候を感じ取り、それに対処する手立てを講ずることができる。いつも申し上げているように「いきなり驚かされない」ための最良の方法は「こまめに驚く」ことです。「驚かされる」は受動態ですが「驚く」は能動的な行為です。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」という歌があります。人が気がつかない微細な変化を「驚く」ことができる人は早めに厚着したり、暖房をチェックしたりして、風邪をひくリスクを軽減できる。まあ、そんな実利的な歌じゃないんですけれども、人が驚かないところで驚くというのは変化を予測するためにとても大事なことだと僕は思います。

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バフチンの宛先という概念が思い浮ぶ

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内田樹師匠の最新刊『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス)をご恵投いただきました。このタイトルを見て、ロシアの哲学者のミハイルバフチン(Mikhail Bakhtin)の「宛名性(addressivity)」という概念についていろいろ考えさせられる。バフチンが「宛名性」に関心を持つのは、「どんな発話も言語コミュニケーションの連鎖の一環なのである」という一般的な観察が背景にあり、この観察を基にして彼はさらに「発話同士はいかに無関心ではありえず、どれも己れに満足しておらず、たがいに知り合い、たがいに映し出す」という主張を導きだしているのである。ということは、

「だからあれほど言ったのに」という「発話」(Utterance)は実にさまざまな「宛名」に向かって発せられていると思う。その宛先は、時には「日本の政府」だったり、時には「学者」だったり、時には「読者」だったり、さらに時には「編集者」だったりする。ということは、発話はそれを生み出す「声」ばかりではなく、その発話の宛先の声も反映している。発話を作り上げていく場合、声は先行する発話に対するなんらかの応答なのであり、また、その後に続いて出てくる他人の反応をも予想している。発話が理解されるときには、そのことを聞いている一の「対抗のことば」に出会うことになるのである。

発話がある聞き手に向けたものである、ということをBakhtinは「宛名性(addressivity)」と呼んでいます。

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勇気論

2024/10/13 07:25

具体的なことからはじめましょう。

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内田樹著『勇気論』(光文社)をご恵投いただきました。具体的で、限定的で、断片的なものの方がある概念(ここでは「勇気」)をしっかりとかたちにしてくれるということに改めて気づく。その方が「腑に落ちる」。観念を弄んでもどこにもたどりつけない。それより具体的なものから始める方がいい。

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街場の米中論

2024/10/13 07:22

同じ話の繰り返しの理由について

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「同じ話」を繰り返す「執拗さ」についていろいろ考えさせられる。『僕が同じ話を繰り返すのは、僕に代わってその「同じ話」を広めてくれる人がほとんどいないからなんです』(本文より)。本書にも採録されている、

グレゴリー・ベイトソンの 『That reminds me of a story』の話を私はかれこれ十回あちこちの内田先生のご本や記事などで読んだ覚えがある。僕の考えでは、それは、そ のエピソードがある命題を語るときに「使い勝手がよい」からだけではないと思う(ご本人は今回のご本でそうおしゃっている)。

むしろ、「同じ話」を何度持ち出して、何度解釈しても、いつも「気持ちが片づかないまま」、何か大切なことを言い残したような気がしたまま終わるからではないかと思われる。「同じ話」を読み比べていただければわかるけれど、

Aで語った「同じ話」とBで語った「同じ話」は一見同じに見えて、実は微妙にずれている。話は同じだが、 そこから内田先生が引き出す知見は少しずつ変わってきている。そのおかげで我々読者が享受する愉悦は色彩を添えていく。

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レヴィナスと愛の現象学

2023/04/21 08:56

哲学ってなんだろう。

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哲学にとって重要なのは、みずからが見出した新たな思考の事柄を、当の事柄にふさわしい固有の言葉で語り出すことである。正確に言い直せば、新たな思考の事柄とそれにふさわしい固有の言葉は切り離すことができない。逆説的に響くかもしれないが、そのような思考のみが、まったく異なる仕方で思考する他の思考に対して開かれうるのだ。思考は、おのれにないものをこそ、他の思考から学びうるのであり、そのことは必ずしもそのおのれにないものを我がものとすることとはかぎらないのである。いや、思考が真に学びうるのは、決して我がものとはなしえないものに、それを我がものとなしえないまま対峙しつづけることを通してのみ、なのだ。

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「リアルリスト」って誰のこと

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私たちの生きる現実の世界はどのようにつくられ、そしてつくられつつあるのかを丁寧に記述した本だと思います。民主主義をはじめ、政治や憲法など、こうした世界の成り立ちに関する著者の精緻な記述は、

とりもなおさず、世界のリアリティーのデザインの記述であり、なおかつ再デザインの可能性の表明でもあります。自分たちで作った世界なのだから、自分たちで作り替えられるはずであり、そして実際、韓国をはじめ、世界のあちこちでこの現実を再デザインするプロセスは今も動いていると思います。

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哲学者と一般向けの本のあわいで

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レトリックのレベルでは、「内田樹」は哲学書を書く時も、一般読者にでも読めるようにかみ砕いて書いている。そう言って誤解があるならこう言い換えてもいい。つまり、レヴィナスやカミュの難解な文章を「内田樹」は十二分に咀嚼したために、それがわかりやすい言葉でかけるのだと、逆から考えれば、「内田樹」は、この「疲れすぎて眠れぬ夜のために」のような一般人向けの本を書く時も、レヴィナスやカミュを読むことによって得たものをその礎にしていることだ。

つまり私たち読者がこの二冊を読んで目にするのは、哲学と実生活が大切な部分で重なり合い、繋がっている姿であり、あるいは、レヴィナスやカミュという書物が生きられている、その姿である。

つまり哲学にとって重要なのは、みずから見出した新たな思考の事柄を、当の事柄にふさわしい固有の言葉で語りだすことである。正確に言い直せば、新たな思考の事柄とそれにふさわしい固有の言葉は切り離すことができない。

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内田樹による内田樹

2023/03/31 06:57

「 対立するものを両立させる」名人

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かつて、加藤典羊が言っていたように、内田樹の思想の特徴は、これまで対立的に考えられたきた二つの要素、「難しい」 「重い」と「やさしい」 「軽い」の対立を消してしまったことである。「公共的なこと」を語る批評と「私的なことを」語る思想の境の壁を取り外してしまったことである。

内田樹は「対立するものを対立させたまま両立させる」名人である。彼は二つの相反するものをを同時的に開花させるためには、それらを葛藤させるのがもっとも効果的であることを直感的に知っているに違いない。

内田樹の思想は重いと言えば重いし、軽いと言えば軽い。というよりそれは、「軽い/重い」というあり方を消した思考の言葉の身体みたいでもある。

僕の見るところ、内田樹の致命的な魅力は先端的な知をアカデミズムという伽藍から引きずり出して、世俗に通用するツールに変えて思想を物語るその誰にもマネできない話芸に拠ると思う。そして彼は「誰もが感じていて、誰も言わなかったことを、誰にでも分かるように語る」名人芸を思想を語るときに披露する。

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レヴィナスの時間論 『時間と他者』を読む

2023/03/17 12:16

思想に「応答」するということは

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「レヴィナスの時間論」の著者が試みたように、僕はここでロシアの心理学者のヴィゴッキーの同時代人であるミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin)の洞察を補助線として採用したいと思う。

バフチンは、私たちが最後の言葉を発することができないと述べる。私たちは自らの発話に自ら終止符を打つことができない。 〈我いえり exi> という符合は、むしろ他者によってもたらされる。 バフチンはこのように述べるの ある。 つまり、私たちは終わりなき対話の過程にいると。

肉体の死からすれば当然最後のことばというものはある。 しかし、ときを経てそのことばに返答しようとする他者があらわれるとき、どんなに間延びしたものであれ、 対話は続いてしまっているのである。

どのようなことばも、それ自身では完結する力を持たない。 モノローグには完結 の力がないのである。 力は、他者から与えられるのである。 たとえどのような 「完壁な」 レヴィナスのテクストが発掘されようとも、彼の最終的なことばにはなりえないだろう。 パフチンの教えに従って、 テクストはどこまでも未完のことばであり、 廃墟でありつづける、と述べなくてはならない。


私たちに可能なのは、レヴィナスのテクストに返答することで、彼の思想を「復原」することだけである。 しかも、この「復原の行為」は帰還すべき過去あるいは起源をもてない行為である。 むしろ、現在の問題性へのアクチュアリティーだけが、 復原 のフィデリティー (忠実度)を保証するだろう。

増田聡さんは、かつて『ためらいの倫理学』の解説で、内田樹師匠のことを「思想の整体師」と呼んだことがある。僕は、こういう議論を踏まえて、内田師匠のことを「思想の復原士」と呼びたいと思う。

なるほど。この「レビュー」を書くことによって「世界の成り立ち方、人間の在り方について、賢い人はだいたい誰も同じようなことを言っている」という揺るがない確信を貫いた。

『アンナ・カレーニナ』の有名な一節を借りて言えば、「愚かしさの様態には限りがないが、賢さはどれも似ている」のである。

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他者と死者 ラカンによるレヴィナス

2023/03/17 12:10

ユニックさ」と「サスティナビリティ」のダイナミックについて

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この「レヴィナス論第2部」は、ユニックさ」と「サスティナビリティ」のダイナミックについて
いろいろ考えさせてくれる。一つの哲学はいかにして伝統になり、一つの「思惟」はいかにしてサスティナビリティを獲得するのか。思惟はまず伝統との連続性を確保することによってはじめて伝統になりうる。トートロジーに近いこの言明が意味することは、

思惟は、伝統を単に踏襲してはいけないのだが、とはいえ、伝統と無縁になっても伝統にはなり得ないことだ。哲学は哲学の伝統の中で伝統と立ち向かうことによって初めて「ユニックさ」と「サスティナビリティ」を同時に獲得する。そういう哲学のみが伝統を革新しながら、その伝統の一部になりうる。
この本は何よりも、レヴィナスの思想の核心を解明するために「自由に、果敢に、発明の才を発揮」している。 しかし、 今述べたように、それが素朴にテクストに与えられているとは考えない。むしろ、 「他者と死者」という概念を軸にポテンシャリティーとしての思想の核心を明らかにしているような感じがする。その際、ラカン、フッサールとハイデガー、さらにはカミュや村上春樹のように、幾人かの他者の思想を補助線として導入して、レヴィナスの思想との対話的な接合を図ることにしている。 与えられたレヴィナスのテクストはいわば「遺跡の痕跡」であり、その痕跡を手掛りにしてレヴィナスのポテンシャリティーを回復する、という読解の方針を採用する。 比喩的にいえば、レヴィナスの思想の可能性を「復原」するのである。
かつてロシアの天才心理学者ヴィゴツキーは「心理」を復原行為の対象とみなし、 心理研究を「復原する間接科学」とみなしていた。 1925年までに書かれた『芸術心理学』 には、すでに、間接的な方法による「対象の再現」が言及されている。


「たしかに作品はそれ自体としては決して心理学の対象ではないし、心理もそれ自体としてはそこにはふくまれていない。 だが、研究の対象そのものは与えられてもいないし、 ふくまれてもいない素材を通して、 たとえばフランス革命を正確に研究する歴史学者、あるいは地質学者の立場をおもいおこしてみるならば、多くの科学が必要にせまられれば。 間接的な、ということは分析的な方法を用いて、その研究対象を再現するものであるということがわかる。 このような科学における真理の探究は、何らかの犯罪の法廷審理における真実確定の過程に似ている。」(『芸術』 p.43)

「歴史家や地質学者はすでに存在しない事実を間接的な方法によって復原する。 彼らは、それでも、 最終的な分析においては、残され保存された痕跡や文書ではなくて、かつて存在した事実を明らか にする。 心理学者も、おなじように、しばしば歴史家や地質学者の立場にいるのである。そのとき、 心理学者は、探偵のように、犯行の場で見てはいない犯罪を暴き出すのである。」 (『心理学の危機』, p.62 )

すでに失われたものが歴史家によって間接的に描出されるように、 復原によって はじめて心理はその全体像をあらわす。 つまり、ヴィゴツキーにとって、 心理は歴史の流れのなかですでに失われた廃墟であった。 しかし、ただ経験的に与えられた 「廃墟」の特徴を羅列すればすむものではない。 心理はむしろ間接的に再構成されるべきものである、そのような意味で歴史的研究の対象である。 しかも、心理の歴史を貫く中心点を再構成することが心理の復原であり、 心理学は歴史的な間接科学であ る、ヴィゴツキーはこのように考えていた。著者は、レヴィナスの読解においてくこの「復原」の方法をとっていると思う。

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数学の贈り物

2023/03/31 07:02

問題は「情報量」ではなく、「存在量」である

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森田真生さんのような人に共通することは、一言でいって、「存在へのおののき」がある。すべてのものごとの存在(“ある”ということ)が、単に、「Aというものがあります」というオハナシではなく、「そこにあるもの」が、あふれんばかりの「存在性」を発散させ、目に入る刺激の情報量をはるかに超えて、「存在量」とでもいうべきものをもっているかのごとくに感じ取られている。

「存在量」は、目に入る刺激の情報量を何千倍も超えている。だから、同じものでも何度も見直し、そのたびに存在量が増えていくし、見るべき対象は同一なのに、見る視点の方は、何万あったとしても、その「存在量」のすべてをくみ尽くすことはできない。

「情報量」は、片目をつむれば半分になる。両目をつむればゼロになる。しかし、「存在量」は、片目をつむろうが両目をつむろうが、よそ見しようが、まったく変わらずに、現に、そこに、あるものとして、泉のように無限にあふれ出しつづけている。

存在するものに対する、このような「存在量感覚」をもっている場合、わたしたちは常にその「存在量」をくみ尽くそうとして、色々な吟味を試みつづけている。それが、“Trying to make sense of the world” すなわち、「世界をつじつまのあうものとしてつかもうとすること」に導く。

「なんとなくおかしい」、「どうもヘンダ」という直感は、この「存在量」の減少に対する鋭い直感である。まずそこへ直感が働き、理屈はあとからつけられる。

ちなみに、この「数学の贈り物」という本は、「存在量」に溢れている。

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