たびとさんのレビュー一覧
投稿者:たびと
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紙の本夜のピクニック
2004/11/11 20:53
一瞬だって同じ景色はない
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長い時間歩いているとわかるのだが、歩き続けている限り、目に入ってくる景色に一瞬とて同じ景色はない。そのことに気がついたのは実は最近のことだ。
高校生たちがただ長い時間歩いているだけの小説だ。要約するとそうなる。事件らしい事件も、謎らしい謎も、何も起こらない。こういう何も起こらない小説をずっと読ませていくのは難しいのだが、そこは恩田陸、一瞬も気を抜かせることなく、淡々と緊張感を保ち続ける。
異母兄弟のクラスメイト同士の感情の対立が物語の軸だ。みんなが彼らを気遣い、気にし、お互いをいたわりながら生きている。彼らが長い行軍の末に、「普通の関係」になるまでを、突き放しているくせにどこかやさしい視点で描いている。
しかし、登場人物がみんなどことなく知的過ぎるのが気になる。イヤなことだってたくさんあるはずなのになぁ。こんなに他人を慮れたりはしませんでしたよ…と思いながら、はたと思い当たった。この小説は、未来の自分から過去の自分に当てたラブレターなのだろう。だってあの頃は、一瞬だって同じ光景はなかったものな。
だけど、そのことに気がついたのは、実は最近のことだ。
高校生や中学生が読む本ではない。たぶん25よりも上の男や女が、仕事帰りの電車で読む本なのだろう。おれははまりましたよ。ええ、はまりました。
2004/01/07 00:10
街角はいつでも孤独なのだ
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会社に入ったばかりの頃、話す相手といえばぬいぐるみのクマだけという日々だった(いや嘘だ、ぬいぐるみのクマなんて持ってたこと一度もない)。大阪から東京へ上京してきたばかりで友達もいなかったし、インターネットなんてものは当時最先端の軍事技術だった。
その頃、何より嫌いだったのはキャッチセールスの類だった。心の弱い人間が自分の生活を守るためには、絶対にキャッチセールスや電話勧誘や宗教の類とは話をしてもいけないと思っていた。
「あなたの幸せを祈らせてください」という人間に対しては、
「おれがおまえの幸せ祈ったるわ、5万円で」と切りかえし、
「手相の勉強してるんです」と寄ってくれば、
「勉強するなら金払え」と切り返した。
…なんだか自分が守銭奴のように思えてきたのでこの辺にしておくが、キャッチセールスや宗教の勧誘をしている人間があんなに多いのは、ひっかかる人間がいるからだ。
多分、最初は好奇心で、そして多くは孤独から。
じゃあこれについていったらどうなってしまうんだ?というのがこの本だ。
怪しい宗教やセールスに飲み込まれそうになりながら、時には真剣に怒り、かわし、戦いながら書き上げた本書は、さながら街頭の戦記だ。ほとんどの人には群衆の中の光景でしかないキャッチセールスに、好奇心だけを武器に殴りこんでいく多田の文章は、生身の迫力に満ちている。街頭手相見の親玉(しかも実はこれが某宗教の尖兵)に会ったり、ムキになって議論してみたり、変なセミナーに潜入してみたり。だが、そのことごとくから彼は生還している。なんと言う心の強さだろう。僕なら300万は毟り取られているね(すいません嘘です、300万なんて持ってません)。
僕の古い友人で、ある宗教の構成員をやっていた人間がいる。彼に会うといつもその宗教がよくないものであることを僕に説いて、絶対に入らないほうがいいよ、と言う。だが、彼はその宗教から脱会することはないのだ。
他に居場所がないから。
全ての心弱き人間よ、この本を読んで、路上の勧誘から生き残れ。君の居場所はそんな利害の絡まないところにきっと見つかるはずだから。敵の正体を見破り、この戦いに勝つのだ。
ああ、今日も駅前で彼らが待っている。
紙の本南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史
2003/09/16 22:58
どこにでも、語られるべき物語がある
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水島新司の「あぶさん」という漫画の最初の頃に、あぶさんを野次る野次将軍のような爺さんが出てくる。僕の一番好きなエピソードだ(「酒しぶき」もなく「哀愁」もない今のあぶさんには何の魅力も感じない)。阪急の加藤選手を「アホの加藤!」とはやしたてた記憶がある。トランペットの騒音にかき消されてはいたが、そういう野球の愛しかたを時代が、確かにあった。
製麺工場の機械が止まる。一日の仕事を終え、父が粉だらけの服のまま僕たち兄弟を自転車に乗せた。後ろの荷台に兄が、前の籠に僕が乗り、父は通天閣の方角に自転車を漕いでいく。ネオンが近付いてくる。カクテル光線に囲まれた球場に手を引かれて入っていった。試合は終盤で、父はなぜか切符を持たずに入場していた。たしか、8時を過ぎると切符がなくても入場できたと記憶している。マウンドには江夏豊がいた。野村克也がキャッチャーマスクをかぶって内野に指示をだしていた。長嶋の引退でもなければ王の756号でもない。それが、最初の野球の記憶だ。
父は南海ホークス黄金期を知る世代だった。口を開けば「杉浦4連投」「黄金の内野」を語り、野村をたたえ、別所を引き抜いた「読売」(不思議なことに古い南海ファンは決して「巨人」とは言わないのだ)や約束を反故にした長嶋を罵った。幼少期の僕にとって野球とは南海ホークスであり、父の語る世界の中にあるものだった。
野村克也が解任され、父がナイターを見なくなり、麻雀に入れ込んで家業が傾くのと同時に、南海ホークスは低迷の時代を迎える。それでも周囲が阪神だ読売だと騒いでいる少年時代に、僕は緑色のユニフォームの地味な集団を愛しつづけた。南海ホークスの身売りは、高校の修学旅行の真っ最中で、あまりにもショックだったので未だに肝心の修学旅行の中身がまったく思い出せないでいる。
その大阪球場も今はない。本書でも触れられているが、今大阪球場のホームベースのあったところは場外馬券売り場になっている。先日そのことに気がつき愕然とした。大阪球場があったことを示すものは、今は何もない。おそらくこれから野球を知る世代は、誰もそれを知らないまま過ぎていく。ホークスは九州に行き強いチームになった。だが南海という球団を愛していたファンは、「みなが、大きな不幸を共有し」たまま今も生きているのだ。
本書は、決して日の当たることのない歴史の中で、南海ホークスと大阪球場という今は存在しないふたつの物語をつむぎながら、野球という文化がテレビを中心としたメディアによってのみ作り出されるのではないことを、丁寧に語っていく。
今、FAやドラフト制度の変更で、戦力がセリーグに集中する現在、パリーグの存在意義そのものが否定されようとしている。もしかしたらパリーグとは滅んでいく運命にある存在なのかもしれない。だが、どこにでも、語られるべき物語がある。それを蔑ろにしている今の野球に、「文化」はあるのか。決して郷愁ではなく、回顧ではなく、今だからこそ語られなければいけない物語がここにある。本書は、そういう1冊である。
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