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CURBさんのレビュー一覧

投稿者:CURB

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本

紙の本黒い家

2000/09/26 02:35

現代

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私たちは、シリアルキラーはトラウマに根差した心理的必然をもって犯行に及んでいることを知っている。であればこそ、プロファイリングが謎解きの手段として成立したりもするのだ。とすれば、「多額の借金から強盗を働いた」と「嫉妬が殺意を育てた」と「幼時の母親の虐待がもとで少年に対する嗜虐性をもつに至った」とは、どれも同じ論法でしかない。「快楽殺人」は必ずしも「必然性の欠如」と結びついていないのだ。また、一見必然性の無い殺人や遺体の損壊を可能にする「情緒の欠落」を描くのに、女の皮を剥いだり、少年の眼球を抉ったりすることは、不必要であるばかりか、不純物で意味を濁らせることになる。むしろ、例えば、「ただの物取り目当てではなさそうですね。」などという言われようをしてきた「ただ金品欲しさに人を殺すこと」の異常性をゆっくり考え直してみることで、現代の恐怖の本質は見えてくるだろう。そして、その純粋な標本として菰田幸子は存在していると言える。
 あれだけ心理学の援用が前面に出た作品の中で、しかし、「菰田幸子」という人格が如何に誕生したかの心理学的説明が無いのは、注目すべきことだ。このことが、心理学的能書きを必要としない強さ、もっと言えば、これまでの作品の、サイコパスをめぐるたくさんの言葉が心理学的能書きと見えてしまうような強さを、この(アンチ)ヒロインに与えている。これまでのモンスターは心理学的なモンスターだった。トラウマをもち知的で、トラウマをもち知的である者の弱さ・脆さをもっていたことが、今は強く意識される。菰田幸子は、生物学的モンスターだ。第一作中で「完璧な生命体」と表現された<エイリアン>のように。菰田幸子を完璧な捕食者と見れば、いろんな印象の説明が簡単につく。猟奇殺人者やその行為はいびつだ。これは、「殺人」や「遺体損壊」といった人間的タブーを踏み越えることに対応する歪みだが、逆に言えば、無理をして、歪みを生じなければ、タブーを越えられない人間らしさを、彼らのいびつさ・異常性は示しているのだ。これに対し、菰田幸子の行為には、カマキリがセセリチョウを食べるときの自然さがある、と言える。しかし、同時に、人間的タブーの圏外にいるかのような菰田幸子が、確かに人間であり、主人公の日常生活圏に人間として存在しているとき、この自然さは希有な異常さに反転して、四白眼の視線で私たちを射竦めることになるのだ。 
 もう一つ忘れてはならないのは、「菰田幸子が、確かに人間であり、主人公の日常生活圏に人間として存在している」と私たちに実感させたリアリティーの問題だ。作家はいろんな怪物を発明できるし、それにどんな能力でも付与することができる。しかし、そこにリアリティーが伴っていない、ウルトラマンの怪獣や『パラサイト・イヴ』の怪物みたいなのを私たちは恐いと思わない。リアリティー不要を公言して憚らない新本格系シンパの愚かな見解に抗して、しかも、リアリティーが大事だというような初歩的なことを説明するのは億劫だが、ホラー映画が徹底して映像のリアリティーを追い求めてきた事実に、言うべきことはすべて明瞭に表れている、と指摘しておけばじゅうぶんだろう。さて、菰田幸子がその怪物性と同時にもっている、中年女性としてのリアリティーは見事なもので、あの怪物性もオバサンの属性に含まれると錯覚してしまう程だった。

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紙の本

紙の本夏草の記憶

2001/01/27 04:45

「ミステリ」と思わなければ

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 途中までは悪口を言うつもりだった。
 大ざっぱに言えば「ミステリ」とかいう部類に入るものとして手に取ったし、アマゾン・コムの方でも「サイコ・サスペンス」と呼んでいるようだが、読み進むうちに私が思い出していたのは、マルケスの『予告された殺人の記録』だった。

 もう、十数年前のことで、記憶はいい加減だが、『予告された殺人の記録』は、一人の男が殺人を予告してそれを実行するという、タイトルどおりの話だった。しかし、込み入った人間関係や主人公の複雑な心理や入り組んだ事件の連鎖などで一巻ができているのではない。殺人は確か、祭りの日に実行される。その朝から殺人の実行までの一日にも満たない時間の主人公の行動が描かれるだけだ。ただ、特異なのは、同じ時間のできごとが、複数の異なる人間の目撃談として、複数の視点から開示されていることだ。この多少読みにくい技法が齎す効果は、しかし、覿面だった。異なる角度から発せられた光が中央で重なる。そしてそれぞれの光の位相が微妙にずれていることによって、その重なりの部分に、一人の男の立体的なホログラムが立ち上がる—まさにこのように、作品の最後を読む私は、陽炎のような一つの後ろ姿が、ゆらゆらと通りを下って行くのを、目の前に見る錯覚を体験したのだ。そして、これは、言語と私たちの脳との幸福な結婚によってのみ可能な「文学的」な効果で、私はこの作品を「文学」として愛した。

 『Breakheart Hill(夏草の記憶)』にも事件は1つしかない。その事件にまつわる記憶が語られる。その一部にリンクがはられていて、そこから別の記憶へ飛ぶ。すると、またリンクがはられていて、また別の記憶へ、ときにトップに戻って、今度は別のリンクから、という手法で履歴も階層構造もでたらめになった中に、ただ、記憶だけが羅列されていく。
 なにかの不思議な工程を見せられるかのようだった。例えば真っ白なパソコンの画面を思い浮かべてもいい。そこを一本の走査線のようなものが走る。画面に淡く薄い色がかけられたのである。しかし色はあまりに淡く薄く、先ほどの真っ白の画面から何が変わったのかもわからない。そして、また走査線が走り、また色がかけられる。ページを繰るごとに、同じ作業が繰り返されるだけの退屈さは、アマゾンの読者書評が「だるい、だるい、ダブルだるい」と言うのも頷けるものだ。ただ、文章のぬるま湯のような読みやすさに乗せられて、本を投げ捨てるのだけは免れて、三百ページ弱(ペーパーバックで)の終わり近くまで来てみれば、驚くべき効果が待っていた。
 気がついて見れば、画面には一枚の絵ができている。二百数十回塗り重ねられて、消そうにも消せない深い陰影を備えて。いつのまにか、私の心には Choctaw の町とその中で生きられた十代の恋が、私自身の思い出として残っていて、何やらそこはかとなくせつない気分になったのである。これからすれば、最後部に提示されることなどは何ほどのことはない、と思った。大体、『シックス・センス』のような、結末を知ったら台無しになるような作品は、もともと台無しの作品だ、ということだ。

 芸能人の誰々に似ていると聞かされると、人は期待して、そしてがっかりする。挙句に文句を言ったりする。私は、似ているじゃないか、と思う。「似ている」と「美しさの程度が同じ」とは無関係だということ知らないお前が悪いんだ、と。『夏草の記憶』もマルケスと比べてはいけない。しかし、ここで行われていることは正に「文学」であって、「ミステリ」や「サイコサスペンス」に分類するのは間違っていると思う。

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紙の本

紙の本ホワイトアウト

2000/10/18 23:03

傑作とまではいかない

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 『奪取』を先に読んだ私は、真保裕一を好もしい作家として、その作品を欠点はあるが大変「読める」ものとして認めていた。文庫版の解説は、「なによりまず文章がいい」などと言っているが、文章は、彼の弱点である。彼の真価は、その弱点を補って余りある入念な取材と、何よりそれを自己に課す厳しいプロ意識だ。『ホワイトアウト』がこれを超えて作家随一の作品ならば、なるほど『不夜城』を凌ぐ傑作だというのもあり得ぬことではないかな、と期待したのだった。しかし、一読、2回目の『ダイハード』を見るかのごとき印象に、作家に対してはため息を、書評家連には嘲笑を送った次第である。
 『ダイハード』は傑作であった。もとよりよくできた映画のこと、二度目ではあっても、そこそこ面白い−『ホワイトアウト』はちょうどそんな感じだ。それは、二つの作品の筋立てが同じであることは誰にも見やすいことだ、ということのほかに、『ダイハード』を知っているいないにかかわらず、この作品の面白さは、それくらいの見当だ、ということである。
 「いいか、丸山では金子があとを追ったが逃げられ、裏のホテルでは戸塚も振り切られた。ゲームでも訓練でもいい、おまえは、この二人から逃げおおせる自身があるか。」(文庫版183ページ)
 テロリストのリーダが主人公の存在を認識したばかりの頃の発言だが、私が、「え、もうそういうことなの?」と思った場面だ。『ダイハード』において、ハンス・グルーバーはジョン・マクレーンを最初、「紛れ込んだネズミ」として認識する。グルーバーがマクレーンをただならぬ天敵として認めたとき、「やっと気がついたか」と私たちは思う。そのときまでに、マクレーンのヒーロー性を十分、見せつけられていたからだ。だが、引用の場面では、私たちは、金子と戸塚がすごいヤツだと強引に認めさせられ、したがって二人から逃げた主人公はただ者ではないと思え、と押しつられているだけなのだ。これは、この作品の失敗の原因を象徴的に示す場面である。
 この作品が、圧倒的なインパクトで私たちに迫る可能性を、その設定に有していながら、結局できずに終わっているのは、作者に「描写」ができないことにつきる。テロリスト・冬山・凍りついたダムがつくりだす困難な状況を、作者は「描写」しなければならない、だが、引用したような言葉やダムの高さが何メートルとか日本最大だとかいった説明では何の役にも立たないし、修飾語をいくら積み重ねても「描写」にはならない。
 もちろん、主人公に迫る困難を表現しようとして、作者はある特別の手法をとっている。困難に遭うと主人公は決まってくじけそうになり、ときに幻覚を見るほどに追い詰められ、しかしその中で、死者への思い、失敗への後悔、死者との約束などに励まされ、何とか窮地を脱出する。「何とか」というのは私が省略したのではなく、原文は、その前の主人公の心理の移り変わりに終始して、肝心の「困難の描写」はほとんど何もなされていない。こんな馬鹿の一つ覚えの子供だましに、何で立派な大人が騙されなければならないのか。困難が描けていないから、困難からの脱出のカタルシスもきちんと描けない。
 我々の現前に示された状況において、私たちでは機転が利かずに思いつかないだろうことを思いつき、私たちの能力ではできそうにないことをやってのけて、初めて感動は生まれる。実はここに現場の人間しか知らぬ抜け道がある、みたいなことを言われて切り抜けられても、少なくとも2回目からは「へえ」と思うだけだ。
 細かいことを言えば、笠原の人物設定がムダである点など、本書は懸賞応募作のような未熟さをもった作品で、次回作に期待を抱かせても、とても絶賛するような出来ではない。

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紙の本

紙の本希望の国のエクソダス

2000/10/14 04:28

経済白書として一級、小説としては失敗作

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 日本を取り巻く経済情勢のシミュレーションとしては目を見張る正確さがあり、同じ要素をもつ『愛と幻想のファシズム』からの作者の進歩も窺える。しかし、この作品は2つの点から、失敗していると言わねばならない。
 本書の主題は、たとえ作者の意識の上では教育問題にあったとしても、『愛と幻想のファシズム』や『5分後の世界』と同じであり、それを載せるプロットは『愛と幻想のファシズム』のものと同一である。経済白書は毎年出ても文句は言われないが、同じネタを同じ手法で書いた小説は、芸術としても娯楽としても駄作と言わねばならないだろう。
 では、『愛と幻想のファシズム』を読んでない者にとっては、駄作でないかというと、そうではない。作品中、台湾の元テクノクラートの言葉として、日本はもうダメで、これを救うには、国際勢力に対抗しうる力をもった、ある独立した集団が登場し、支配的な影響力をもつようになるしかない、というのがある。これは正しい予言であり、これが、この作品の、そして『愛と幻想のファシズム』の主題だ。しかし、これは、実際にはあり得ぬ夢物語でしかない。例えば『ジュラシックパーク』は夢物語ではないのだ。あそこには作家の想像力が正しく働いたリアリィテイがあり、恐竜たちは、私たちの目前で、正に「科学的に」誕生したのだ。だからこそ、作家本人を含んでそれに追随しようという動きが絶えなかったのだ。
 『愛と幻想のファシズム』においては、集団が小規模で、リアリティの破綻が見えにくかったのもあるが、あの作品は、クリストファ・ーリーブ版『スーパーマン』の第一作がそうであったように、まさに夢物語としてあり、夢物語としてのカタルシスを我々に与えた。ところが、今回、作者は、不登校児のネットワークが支配的集団となる、という決してリアリティをもち得ないことを、真面目にシミュレートしようとしている。日本人が国際的に見て、甘えたダメな人間なのは確かだろうが、日本の子供は、その甘えた日本社会に甘やかされていて、これが日本を救うわけがなく、作品は、大変ご都合主義で上滑りに見えてしまう。作者の真面目さは痛ましく滑稽なのだった。
 村上龍は不登校児にもだいぶ肩入れしているようだ。不登校が増えているのは、世の実情と教育システムの矛盾がそれだけ大きくなっているからだ、と言う。教育システムが機能していないという指摘自体は、これまた鋭く、どこまでも正しい。だが、それを不登校増加の原因の第一に数えるのは、子の苦情を真に受けて教師をなじる愚かな母親の行為に等しい。おそらく彼がインタビューしたりホームページを覗いたりしたであろう不登校児は、かつての文学少年・少女のように、周囲に対する違和感と軽蔑が育む屈折を示しているのだろうし、かつて文学少年・少女が何か高級なもののように錯覚されたように、この子たちが何か特別な力をもつと思いこみやすいのかもしれないが、それはお人よしのすることだ。まして、彼らを不登校児の全体と見て、教育システムを批判して終わるのはまちがいだ。繰り返す。学校や全体として見た教師は昔からクソッタレだったし、教育システムは批判されなければならない。だが、不登校が増えていること、現在、学校教育そのものがうまくいっていないことの最大の原因は、ストレスに過敏になった社会が、子供の愚痴を先回りして甘やかすことを繰り返してきたせいで、極端にストレスに弱い子供が増えているからだ。キレやすい子供が増えたのも同じ原因からだ。言い換えれば、これは、駐車場の線をまたいで駐めて平気なヤツやどこにでも座り、どこででも飲み食いし、どこでも化粧するヤツらが増え、携帯で常に人とつながっていようとし、ひとつも頑張らない先から、頑張らなくていいんだよ、と癒し合おうとする、だらしなくなった世の中の問題なのだ。

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