中村びわ(JPIC読書これらアドバイザー)さんのレビュー一覧
投稿者:中村びわ(JPIC読書これらアドバイザー)
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まちんと 改訂 大型版
2002/08/21 16:18
「9・11」だけでなく「8・6」「8・9」「8・15」を風化させないために…。小さな子にもわかるよう作られた原爆の絵本。死の淵でトマトを口に入れてもらった少女が発するのが「まちんと」という言葉。
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ことしの8月6日。小学1年の息子と緑豊かな羽根木公園内のプールに行くと、彼と同級生の女の子ふたりが遊びに来ていた。股くぐりをさせてやったり、ビーチボールを顔にぶつけられるたび奇声を上げてやったりと、子どもサービスは大変だ。私をさんざん弄んだ彼女たちは「夜は花火大会に行くんだ」と意気揚々チャリで帰っていった。
活発なふたりの背中を見送りつつ、「原爆投下の日に花火?」と、私は大きな違和感を感じていた。「灯籠流しやら精霊流しならわかるけれど、花火とはねえ」と友人にもらしたところ、「そういえばそうねえ」と彼女は私ほどの違和感をもたない様子であった。
確かに花火というのは、パンパン威勢良く打ち上げられるだけの派手なものではなく、心慰めるものであり、刹那の美に無常を思う日本的陰翳に満ちている。だが、60年近く前の同じ日きのこ雲が上がった日本の空に、花火を打ち上げるというのは「どうかな?」と思わせる何かがあったのである。しかし、これを書くに先立ち、その日付と花火大会という項でネットの検索をかけると、少なくない花火大会がヒットした。言葉を失った。
本書のカバー袖に作者・松谷みよ子氏の言葉が添えられている。「戦争の話をきいてくる宿題が出たというので、小学生のむすめに、指が痛くなったよというまで書き取らせました。それなのに不満そうなのです。じれているのです」。
食べ物がなかったことや、爆弾が落ちてこわかったことなど、みんなおんなじ話をするが、なんだかちがう…というお嬢さんのつまづきを前に、松谷氏は気づく。戦争を語りつぐということは説明することではない。実感の重みこそが求められているのだ…と。
ずいぶん前に深い感銘を受けたこの本を手に取り、例の活動的な女の子たちの姿を重ねながら再読した。文章は「これほどまでに」とうならせられるほど削がれている。ここに全部書き写してしまおうかというほどに短い。
もうじき三つになる女の子が原子爆弾に遭う。たった一発だったが街がくずれ落ち、人も燃え、生き残った人びとは焼けただれてさまよう。黒い雨の注ぐなか、苦しみつつ横になる女の子は口にトマトを入れられ、「まちんと まちんと」とほしがる。おかあさんが「ちょっとまってねえ」とさがしに出たが、ようやく見つけて帰ると、その子は死んでいた。鳥になったその子は、今も「まちんと」と泣きながら飛んでいる。
「平板」のそしりを覚悟で要約すると、お話の流れはそんなところである。
赤ちゃん絵本や民話再話をはじめとする卓越した業績で、松谷みよ子氏の名前を知らないという人は少ない。その業績の大きな柱のひとつに、戦争を語り継ぐことがある。『ふたりのイーダ』『死の国からのバトン』などロングセラーとなった中長篇童話に加えて、『ぼうさまになったからす』や本書などの絵本がある。これら絵本が特徴的なのは、原点となる話があり、それを聞いた松谷氏が現代の民話だという意識をもって、語りのように文章を起こしていることだ。戦争を民話のように語り継ぐという強い意志の力を感じる。
無駄話をしているから、絵の迫力について述べる紙幅が尽きた。建築家・安藤忠雄氏のように独学で画家となり圧倒的な画業で見る者を魅了する司氏の、出版美術としての代表作に数えられるこの絵は、見ていると自分も火に包み込まれそうになる。現代の民話は、この絵を得てより一層、一度触れたら二度と忘れられない記憶への刻印を重ねた。
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