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中村びわさんのレビュー一覧

投稿者:中村びわ

491 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本エデンの東 上

2005/10/30 16:58

魅力的な登場人物たち、印象強いエピソードの数々でどんどん読み進められる。娯楽として最高。しかし気がつけば、意外にも思索の高みに到達している。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 スタインベックといえば『怒りの葡萄』であり、『エデンの東』といえばジェームズ・ディーンなのだ。この秋、ディーン没後50周年でリバイバル公開される映画は素晴らしい作品だったが、「父親の愛情を得られずにすねてしまう若者、彼に母性的愛情を注いでいく娘」というプロットだけでは、正直、原作にまで誘導してくれる力は足りなかった。
 全4章に分かれている小説『エデンの東』の最終章だけが映画化されたということを今回初めて知る。小説『エデンの東』が、映画のような親子関係を描いた短い物語ではなく、スタインベックという作家が生地カリフォルニア州サリーナスを舞台に、自分の一族たちを元に書いた壮大な家族史、土地の年代記なのだということも初めて知った。
 翻訳者「土屋政雄」の名が目に留まった。数々の滋味深い文学を訳している大家が手がけているので手に取ったが、これは年代物のすわり心地の良いソファーのような小説。読むことの期待を裏切らない。ゆったり腰掛けて読むうち、心が静かに放たれていくようだ。作家の実験的試みに翻弄されるのではなく、作家の計略を裏読みするのでもなく、安心して語りに身をあずけることができる。文学とは何か、何ができるかに戸惑う現代ではなく、文学への信頼を承前のものとして、盛り込むにふさわしい内容をまとめた懐かしい時代からの贈り物なのである。
 今、ハリウッドでは「エデンの東」リメイクの話も出ているということだ。主演を誰にするかより、この大河小説にいかに忠実な脚本を書くべきかが議論されてほしい。原作の精神的支柱を成す人物を除いて撮影することが繰り返されるとすれば、米国の文化、並びにサブカルチャーにとって大きな損失なのではないかという気さえする。
 スタインベックがどれほど本作に入れ込んでいたかは、巻頭の友人への献辞で明らかだ。
——私の持っているほとんどのものがここに入っている。まだいっぱいとはいかないが、苦悩と興奮があり、快と不快があり、悪なる思いと善なる思いがある。工夫の楽しみがあり、いくばくかの絶望があり、言い表せない創造の喜びもある。
 自分にとって生涯の1冊は『エデンの東』だとした作者の、自意識過剰ではない「自信」がうかがえる。『怒りの葡萄』のような荒々しい生との挌闘に引き摺り込む筆致ではなく、同じ生との挌闘を描くにしても、良くも悪くも宗教的な安らぎへの到達がある。
 南北戦争から最初の世界大戦に至る時期が扱われているため、登場人物がアメリカ先住民との戦いに出征していく設定もある。したがってキリスト教至上主義にも捉えかねられない表現もないわけではないが、宗教的安らぎには東洋哲学への敬意も認められる。人間に普遍的な善と悪を見極める倫理へ向かおうとする作者の、性急ではなく着実な求心への衝動が全体を覆っている気がする。
 アダムとエバに、畑を耕すカインと羊を飼うアベルの息子がおり、神への供物が原因でカインはアベルを殺す。我々人類は、カインという殺人罪を負った者の末裔だというのが聖書の教えだが、この小説はカインとアベルの説話を2世代の兄弟にトレースしている。上巻では、サリーナスへ移り住んでいくアダム・トラスク、異母弟チャールズの確執、下巻ではアダムの双子の息子アロンとキャルの確執が描かれる。血による縦糸の宿業が如何ともし難いものとして広げられていくが、それを端から丁寧に畳んでいくかのような信頼と友情の物語が交錯する。アダムを支える中国人執事のリー、そしてアダムの良き相談相手がスタインベックの祖父に当たるサミュエル・ハミルトン。対話により事を切り拓いていこうとする3人の姿勢が、今だからこそ価値大きく響いてくる。

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紙の本移民たち 四つの長い物語

2005/10/23 11:52

当人の体に傷みだけを刻みつけ、もはや誰のものでもなくなった誰かの過去、記憶。書くこと、語ることの不確かさを引き受け、記憶とは切り離されたような「傷み」を抱える人びとに捧げられた文学の粋。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 誰にでもひとつやふたつ、機会さえあれば人に語って聞かせようかという経験がある。偶然の出会いに予期せぬ幸運、珍しい体験、胸ふたぐ不幸。そういった巡り合わせを人はまるで「映画的」「小説的」だと感じている。ただ単に「人生的」だというだけかもしれないのに……。
 たまさか語る行為や書く行為に抵抗なく取り組める場合には、半ば意識的な加減が加わる。幸運も不幸も、語り手の志向により幾分大げさに表現されたり、いささか控え目に提示されたりする可能性がある。極めてニュートラルに語る姿勢の人にしても、枝葉末節を省き、分かり易く状況説明することに一種の操作が加わっていると言える。
「本当に事はこれほど劇的だったのか」——遠い昔につけた日記を読み返してみると、不思議に感ずることがある。のちの読者たる未来の自分に見栄を張ったのか、あるいは、若いから興奮し易いたちだったのかが判然としない。確かめようにも、当時の自分はもうここにはいない。綴られた体験のなかには、すでに忘れてしまったこともあり、その内容をまるで他者が書いた随筆のようにして読むことすらある。つまり、事実にしても粉飾にしても、己が記憶の圏外に放たれた過去もある。
 ゼーバルト作品として初めて日本に紹介された『アウステルリッツ』は、ある人物による別の人物の「物語」ならぬ「人語り」であった。本書『移民たち』もまた、各作品に人の名が明示された連作短篇の体をなしており、固有名詞の人物と読み手とのあいだに、それぞれ語り手が介在する。たとえば小学校の担任パウル・ベライターを語る元教え子の「私」、さらに故パウルについて「私」に語ってくれる連れ合いだった女性。大叔父アンブロース・アーデルヴァルトについて「私」に語ってくれる伯母、アンブロースの最期を「私」に語ってくれる施設の職員。
 語られる人物たちは、まるで「奥の院」に鎮座しているようかのように読者から隔てられている。なぜ、このように込み入った層を成す装置が踏まえられたのか。それは、人の意思や記憶を通過する出来事の不確かさ、書くことや語ることのあやふやさを敢えて力強く引き受けた作家の1つの答えなのだろうか。
 むかしあったことを補強するかのように幾葉もの写真が添えられる。なかには、事実を伝えた新聞記事や、本人直筆の書きつけが残る手帳もある。印刷された文字、本人が覚書として書き残した文字ならば確かなものだろうと信じてしまう傾向が人にはあるだろうが、語りや執筆の過程で、単に「人生的」なものが「映画的」「人生的」にすり替えられていくことにも慎重に向かわなければならない。
 過去を甘美に思い描くとき、記憶が幻想的なものに転化していく。本書のあちこちに出没する「蝶男」はおそらく「記憶の文学」の作家と呼ばれるナボコフの象徴であり、そのナボコフは幻想的な記憶の力で虚構世界を打ち立てた。しかし、ゼーバルトの扱う「記憶」は、そのように虚実のあわいをゆらめく魅力というよりは、虚実を超えた何か別の世界へと放たれている感じがしないでもない。例えばそれは、もはや誰のものなのかさえ区別がつかなくなってしまった、あらゆる人々の記憶がプールされた沼のような場所。
 総体としての人語りに「脚色」や「虚飾」を嗅ぎ取ったにしても、根を下ろして暮らそうとしていた土地から移り住むことを余儀なくされ、その傷みの後遺症をそれぞれの形で抱える人びと。「奥の院」へ祀られたような移民たちなのに、彼らの痛がる魂の震えが生々しく伝わってくる。そのような痛みに自分が強く共鳴するのは、総体としての物語というより、部分的記述が断片として伝える真実に思い当たる節があるから。そして、記憶の沼に放たれた私の過去も、「傷み」そのものの記憶だけをこの身に刻み残して行ったから……。

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紙の本青い夕闇

2005/07/04 23:19

40年前のアイルランドの小説。男子ハイティーンは性衝動をどう処理しながら受験勉強に励んだか——厳格なカトリック社会で「性」を赤裸々に描いて発禁処分。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ちょうど1年前の奥付で、同じ作家による短篇集『男の事情女の事情』が出た。それから4ヶ月経って読んでみると、浮ついたところのない誠実な作風で、哀感のなかにも適度の希望と暖かみが宿っていることに惹かれた。
書評を投稿させてもらったとき、「どうせ当分は実現するはずない。と言うより出版の可能性はほとんどなかろうが」と思いながらも、適度の希望だけは明示しようと「教職追放の元になった発禁長篇も邦訳希望」と見出しに書き添えてみた。その発禁長篇というのが本書で、信じ難いことに、希望を書いてからこんなに短い時間で刊行が実現してしまったのである。
やはり何ゆえの発禁処分なのかが気になっていた。少し読み始めたところで、おぼろげにその理由は分かるような気がした。最初の挿話からして人倫にもとる気分の滅入るものだったのである。
第5章の終わりは次のような文で結ばれている。
——暖炉の火のそばに坐って、十六の自分の人生が空っぽだということを見つめることしか、ほとんど何もできなかった。(42P)
いや、実際ひどい家庭環境なのだ。主人公は、しつけのための理不尽な暴力を通り越した「虐待」と言えるものにさらされている。何年も前に母親が亡くなって、小作で生計を立てている父親が子どもたちの上にどっかと君臨し、逆らえば殺されるのではないかという権力を行使する。暮らしぶりはベッドのノミと外便所などの記述で推察できる。
身を助けるものは学問による立身出世しかないという、貧しい国の貧しい時代、その階級社会の底辺に舞台が取られている。上に抜き書きしたあたりにさしかかるまで、正直、生理的に受け付けられない話ではないだろうかという気もしてきた。どうなのだろうと思えてきたころ、今度は始めの方でも少し目に留めた別のことが気になってきた。
人称の表現が特異なのである。不注意に読み過ごすと「彼」「彼ら」が誰を指し示すのかが分かりにくい部分があったのだが、しばらく進むと、主人公が一人称、二人称、三人称で表現され入り乱れるようになってくる。これは、ここ数年で華人初のノーベル賞作家として注目されている高行健の作品で好んで使われる手法だが、今から40年前のこの小説ですでに試みられている。注目しないわけにはいかなかった。
「彼」が主人公その人を指す場合と、主人公の父親や本当は尊敬すべき存在であった神父を指す場合が出てきたりで若干の混乱に陥らないわけでもないが、落ち着いて読んでいくと、それが自分自身であれ他者であれ、対象との距離、対象への角度を微妙に表すための微妙な書き分けであることに気づく。この物語は、自分を客観視したり、他者との距離をどのように置くかを考慮するようになる青年期の成長物語なのである。
その対象との距離の見極めに大きな影響を与える要素が、ひとつには人間として将来何を成し得るかという進路に対する悩みや葛藤であり、いまひとつが頻繁に襲いかかってくる動物的な衝動に対する悩みや葛藤である。性的なものが精神に影響を及ぼすというのは、女性の場合、月ごとに少しずつ波として寄せて返すものだが、どうもこの男子ハイティーン独特の嵐のような衝動は想像しても分かりにくい。
権威者による性的虐待が書かれたことが発禁の理由であり、性的衝動の処理を赤裸々に書いたこともまた厳格なカトリック社会でのタブーだったらしい。しかし、発禁やタブーということを抜きにして、大志と肉欲のバランスをどう取るか、自己や他者とのバランスをどう取るかを軸に真っ向から書かれた小説として面白く読めた。

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紙の本暗いブティック通り

2005/07/03 21:20

彼は一体何者で、いかにして記憶を失ったのか——探偵による調査仕立てで進行する「私」の曖昧さを問う小説。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ポケットマネーを投じて文芸誌を刊行しつづけ、ロブ=グリエやクロード・シモンらヌーヴォー・ロマンの難物フランス文学を翻訳した。伯楽と謳われた訳者による改訳復刊である。
直訳すれば「暗い店街」の意の原題を「暗いブティック通り」としたこと1つ取っても、「翻訳の勝負あった」印象を受ける。シャンソンの題名を思わせるこの表題の持つ趣きは、日本人のフランスに対する一種固定的なイメージをすくいとり、巧みに日本語に置き換えたものとして、それだけでも、とりあえずの成功を収めている。そして「この題なのに、何でアルプスあたりのスキー場の表紙絵?」という、どこかミステリーめいた本の内容の趣きにもぴたり当てはまり成功している。
あるいは主題自体に「難物」の要素はあると言えるかもしれない。だが、文章はとても読み易い。章が細かく分かれているので、句読点もなくうねりねじくれていくような小説とは違って、息つぎが楽だ。主人公が次々に出会っていく人びととの対話を追っていくのだが、それは思弁的な会話ではない。過去の状態や出来事についての問いと答えである。対話以外の叙述部分もまた、凝りまくった比喩や薬でやられたような幻覚もなく、極めて明瞭である。
むしろ何やら親しい気分にさえさせられるのは、これが「私探し」の小説であり、書き出しも「私」で始まるから。尚且つ、「私は何者でもない」と口火が切られ内面の深みに降り、物語ならぬ私語りをしていこうかという方法が、今の日本文学を振り向けば馴染みあるものだからかもしれない。その点は、訳者あとがきで指摘されていることだ。
「私は何者か」の問いは、しかしここでは、日本的一人称小説によく見受けられるスタイルのように、確固とした日常を背景にする「私」が何かのきっかけで足場を失い自己の存在意味を問い始める、生真面目な「純」のつく文学とは性質を異にする。
ここしばらく私立探偵として他者の素行調査を行っていた男性が、自分の過去の素行調査を開始するという設定である。男には過去の自分を探らなければならない渇望があるから。なぜなら、彼は記憶をすっかり失った存在であるから。
次から次へ、彼と過去の時間を共有したとおぼしき人物を知る人たちを訪ね、写真や名前や電話番号など、その次に調べるべきかすかな手がかりを男は得ていく。
短く区切られた章のなかには、名前と住所だけのメモ、電話番号と住所だけのメモもあるし、調査書に記載された人物の略歴だけのものもある。主人公が記憶を失うきっかけは何だったのか、それまでにどのような暮らしぶりだったのかが少しずつ解き明かされるに従い、彼の回りには国際色豊かな人の輪、時代的な社会背景が広がっていたことが知らされる。
主人公の正体と、記憶喪失に至る事件にかなり肉迫した気配がするころ、しかし、いくつかの章に書かれた「取り戻された記憶」と読める内容は、果たして推察や想像ではなく本当に彼の記憶なのかどうかが判然としなくなる。「私は何者か」の最初に、解き明かしてきたはずの素性は揺り戻される。「過去に私は何者だったか」の探偵的でもある興味は、「私は何者かであり得たのか」という人間存在への根本的問いにすりかわって行く。
その場所で、誰も知るはずのないシャンソン「暗いブティック通り」のメロディーがなぜか響いてくる気にさせられる。

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紙の本ナターシャ

2005/05/13 21:20

ユダヤの民族や宗教が陥り易い「愚」から目をそらさず、内部から軽やかにユーモア味ある告発をしてみせる。成長期の「傷み」を琥珀に閉じこめた連作短篇。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

旧ソ連生まれのユダヤ人である作者ベズモーズギスは、6歳ぐらいでカナダに移民しており、この短篇集は作者自身の投影と見られる少年や青年が登場する。人格形成期を追った7篇の連作で成り立っている。
「子どもゆえの過ち」「若さゆえの挫折」といった成長期特有の忘れ難いごく私的な思い出、だがそれが誰もが通り過ぎる「傷み」であるということで獲得される普遍性。その思い出を凝結させながら同時に、カナダにおける1つのユダヤ人コミュニティの特殊性を表出させる。
読み始めは正直「またしてもユダヤか」と、「世界じゅうに散らばったユダヤ人が小説や映像で『民族』にこだわった表現をバトンリレーしていくのだな」という思いを抱かずにいられなかった。けれども…。
第二次大戦終結後、ことしはいよいよ節目の60年に当たる。ベルリンでは17年に及ぶ議論の末、ブランデンブルク門の南、ドイツ連邦議会の近くに大規模なホロコースト記念碑が完成した。ノーベル賞作家ギュンター・グラスも建設の必要性を訴えていた施設である。
少し古い話、本書の原書が出された2004年、カナダではユダヤ人問題が揺れていたようだ。近年になって当地ではユダヤ人の家や墓が破損され、ヘブライ学校への放火もあったらしい。毎年4月18日、ホロコースト記念日に連邦政府が催してきた記念式典をこの年ユダヤ人協会が初めて公式に認めたという流れのなかで、本小説の存在と反響は決して小さなものではなかったろうと察する。
この連作短篇集が衝撃的である点は、人類の歴史の「被害者」として常に弱者の立場に置かれるユダヤ民族、その場に甘んじることをよしとしていた印象のある民族の内部から、民族やユダヤ教に備わった「愚」の側面を覆い隠さず描いてしまったものが出てきたということだ。
「思い出を偲ぶ場でケダモノのように」という作品では、主人公が通うヘブライ学校の行事「ホロコースト記念日」に向け、何日も準備して学校が博物館化される。当日は学年ごと地下室に呼び出されスピーチにつづき祈りが捧げられるのだが、ホロコーストを疑似体験させる痛烈なイベントだけに泣き出す子もいる。
最後に収められた「ミニヤン」は、礼拝の人集めと格安アパートに入居するロビー活動が絡められた皮肉な話。ミニヤンと呼ばれるユダヤ教礼拝には10人の成人男子が必要なのだが、信者の高齢化などでアパートに設けられたシナゴーグには、それだけの人が集まらない。そこでシナゴーグの苦境に同情的な管理人やラビの元へ、入居希望者やその知人があの手この手のアプローチをするわけだ。
目的と手段の転倒は社会の至るところに見られる矛盾だが、いくら民族の悲劇を語り伝えようという意図であれ、子どもを怖がらせる真似まですべきか。戒律とはいえ、祈るための形式が必要以上に重んじられていないか…といった作者の厳しい指摘が見え隠れする。
平和のための語り伝え、その行為自体が話者には目的化する。宗教は本来、生活の支え、心のよりどころであるべきなのに、礼拝や宗教の存続自体が目的化される。物事の本来的意義が見失われることの愚、聖的であるべきものが俗世の垢にまみれることの愚をこの作者はきっちり指摘する。こうして民族と宗教の愚に切り込む小説は珍しかろう。しかも重苦しくなく、ふざけない軽みのうちに…。ユダヤ人としての特殊性を描きつつ、あらゆる人間の営為、政治でも経済でも恋愛でも芸術でも、それらが陥り易い愚について透視できる。
幸いにして、目的と手段が転倒するまでに至らなかったファム・ファタールへの恋を描いた表題作「ナターシャ」——恋する者の愚として我が身を振り返るタッチも自虐ではなく、ほの悲しさに救われる。

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紙の本ネザーランド

2011/09/28 22:49

大きな悲劇を、具体的日付や事件名を出さず、各人が心身に受けたダメージの痕跡として慎重に表現する――そういう姿勢が好ましい。この国が今年見舞われた大きすぎる不幸、いまだ出口の見当たらない被害の連続も、いつか『ネザーランド』のように静謐で繊細な小説として記録される日が来るだろうか。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 作家にどうしても書きたい思い出やイメージ、考えがあり、それに一番ふさわしい表現が探され見つけられ重ねられていったとき、作品は読者の耳に届く音を奏でる。脳裡には色や姿を露わにさせ、魂に生気を吹き込んでくれる。そのような成果がもたらされるものが「文芸」と呼ばれるに値すると私には思える。
 「文学」というジャンルでくくられるものを愛好するだけでなく、学問や批評対象にならなくとも「文芸」として抜けたものに触れ、支えられたいと感じる。これからは、より一層……。

 言葉は、扱いようによっては、空疎や虚脱しかもたらさない難しい生き物には違いない。
 あの9月11日から後のマンハッタンを主要な舞台にした小説『ネザーランド』は、3月11日からこっち、現実を現実の像として、説得力ある言葉で自分の脳裡に結べなくなってしまった私の意識の世界に、言葉によって獲得できる何物か、その力の存在を少し取り戻させてくれた。

 全体の三分の一ほどのところ、中年ビジネスマンとなった主人公ハンスが、亡母の存在感について考える場面がある。一人暮らしの母の急死で故郷オランダに戻った彼は、一人っ子だったため、自分だけが彼女を憶えていなくてはならない重荷を負った感じを持つものの、母の友人たちが開いてくれた追悼会のおかげで重さから解放される。
 しかし、それから数ヵ月間、母の存在感が、たまの電話や行き来しかしなかった以前と変わらないので、罪悪感に苛まれる。

 最初、自責の念から居心地の悪い思いをしているのだと思っていた。仕方がなかったとはいえ、親のそばにいなかった自分に罪があると思っていた。ところがそのうち、もっと物騒なことを考えるようになった。つまり、母はもうずっと前からいわば架空の存在になっていたのではないか、と。(P113)

 この部分、思い当たる状況、思い当たる心理描写だ。すぐ隣に母親が住んでいる私も、生活を別にしているため、彼女が生きているのか死んでいるのかが分からなくなることがたまにある。不謹慎極まりないけれど……。

 上の引用の後に書かれた「現実の母にはなんとなく満足できなかった」という表現にも思い当たる。昔から子どもへの期待過剰だった親は、今の私に一言こぼしたいのを常に抑えているようだ。けれども、人の個性を尊重しなくてはならないと分かっているつもりの私も、「母がほがらかに何にでも取り組んでくれればいい。例えば、あの人のように……」と考えるのを止められやしない。

 ハンスが亡母を考えるこの場面も他の場面同様、彼の意識を構成する断想の一つとして書かれている。そして、葬儀と遺産整理のための帰郷で確認した、子ども部屋からのなつかしい眺めを書いた美しい言葉が続く。さらに、子ども部屋での母親との幸福な思い出話がつづく。

 主人公の断想の積み重ね、意識の流れの丁寧な描写で語られていくのは、うまく運ばない私生活だ。ニューヨークに新たなテロの不安を抱いた妻と小さな息子がロンドンに移って始まった別居生活。海をはさんでの暮らしは、夫婦関係に深い溝をもたらす。
 もう一つ、断想の大きな部分を占めるのは、悩み深いハンスが、のめり込んで行く昔なじみのクリケットだ。米国のコート状態の悪さに落胆し、米国風プレースタイルに違和感を持つが、クリケット仲間チャックとの付き合いで開眼させられることもある。

 目の前に問題が生じても「傷つく力」「悩む力」が足りない人間は少なくない。「そこのところ、もっと繊細に感じ取れよ」と、肩を揺さぶりたくなることがままある。もしかすると、中には、自分の立場や生活を保守するために鈍いふりをしている人もいるのだろう。しかし、そういう人の意識に、もぐり込んで行くのは物悲しい。
 主人公ハンスの意識の断想から成る宇宙は、もぐり込んで行けば、神経質の少し手前までの繊細さで周囲を見回し、世界を見通していこうとする力があると分かる。
 9・11の扱いもまた、その日付や事件名を具体的に出さず、各人が心身に受けたダメージの痕跡として慎重に表現する姿勢が好ましい。失われた二つの建物を、個人や家族という小さな単位にとっての希望と結びつけた最後の場面は忘れ難い。

 『ネザーランド』という題名は、ハンスの祖国オランダを思わせながら、「低地」という意味合いで、グランドゼロや開拓地がゼロに等しい時代のことを響かせようとしたのか。
 予期せぬ悲劇に襲われて傷ついた人々の心を慰めてくれるものは、力強いエールや勇ましい言動ばかりではない。ささやくような声であったり、内面のたどたどしい伝え方であったりする。
 「復興」が掛け声だけでなく、具体的な制度や形として現れてくる何年かののち、私たちもこのような静謐でありつつ力強い文芸作品を持てたら、どんなにか嬉しいことであろう。
 

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紙の本怪奇小説という題名の怪奇小説

2011/01/26 10:46

まいったなあ。うかつにも買わされ、まんまと読まされ、すっかりおちょくられてしまいました(>_<)読後は、ぽーんと蹴飛ばされ、大気圏外に弾かれたかのような思ってもみなかった感があり、そこまで飛ばされてしまっていたのかと、自分にびっくり。これほど先の読めない展開って、めったあるもんじゃない。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本の宣伝広報は、どちらかというと派手なものは少なく、題名と著者名ぐらいで立ち向かって行かなければならないところも多い。だから、「それでも」の効果についてよく知る関係者は、寝ても覚めてもの入れ込みで、いっしょけんめいインパクトある題名をひねり出そうとする。そんな当たり前については、もう読者も十分に感じ取っている時代になってきているはず。
 「何なのだ、それは?」「何だか面白そう」「そう来たか、おまえは!」と、未来の読者に感じさせる題名をつけられたなら、第一関門は通過。

 この『怪奇小説という題名の怪奇小説』は、ありがちな題名でありながら「おやっ?」と誘ってくる。読まないと内容が分からないとワナを仕掛けるものだが、一行ぽっきりでのレイアウトなら、「へえ、どういう話かな」と気を引くぐらいである。だが、タイポグラフィー(文字のレイアウトデザイン)を許される余地ができると、表紙カバーでお分かりのように、より刺激的な表情を見せる。
 文字組みを含めた装丁は、クラフト・エヴィング商会のもの。
 これが新聞広告に躍っていたときに、何かウイルスのような強烈な誘引物が、脳の奥に入り込んでしまったようだ。となると、目につけば、やはり気になるので買ってしまう。第二関門も追加。

 「一筋縄ではいかない内容なのよ」と題名自体が警告を発しているわけだから、どこからどこまでが前振りか、どこからどこまでが仕掛けかなどと十分に警戒して慎重に読み進めていったつもりなのだ。けれども、どうも、どこまで読んでいっても構成が見えてこない。
 筋は少しなら書き出すこともできる。私という、都筑道夫氏本人とおぼしき語り手がいて、物語り出す。エッセイめいた語り口だ。
 「怪談、恐怖小説、怪奇小説――呼び名はなんでもかまわない。とにかく、超自然の恐怖をあつかった長篇小説を、私は書く約束をした。」と書き出され、200~300枚で7章から9章ぐらいの小説の原稿依頼があったので、さてどうしたものかと考える。
 いきなり、小説のアイデアについてはさて置かれ、怪奇やら恐怖小説というものについての洞察が始まり出す。「おばけ花火」についての思い出が語られ、恐怖小説の類型についてのウンチクが披露される流れで、スタインベックの短篇「蛇」の翻訳がのせられるというオマケ付き。

 オマケのあとにもエッセイらしく続いていく。頭に浮かんできた怖い絵のことが説明されるのだけれど、その絵についての確認を取りに出かけるというあたりから、どうもエッセイという形式からの逸脱が図られる。
 ここまでの内容が「第1章」に当たる。当たるけれど、「第1章 □□□□」というように、章扉には書かれていなくて、「*」で済まされている。割愛されたかのようなマーク。
 では次が第1章なのかと思うと、次は「第2章 盗作のすすめ」と明記されている。何かそれも仕掛けくさいぞと警戒して読んでいくと、出版社の依頼に応えるべく何を書いたらいいのかという作家の迷いはつづき、作家が行動し出し、作家をめぐる人々が登場して、にぎやかになってくる。どうやらエッセイではなく、語り手を中心にした小説の風である。

 とうに死んだ人によく似た姿の者を追う幽霊譚めいた様相を呈してくるのだが、語り手が読んだ本の内容と語り手の言動がオーパーラップしたり、幻想譚のようになったり、何が何だかもう……。
 フィクションの10種競技に巻き込まれた感じで、わけが分からなくなってくる。

 それ以上、こういう小説だと説明するにはあまりに字数が要りそうで野暮だし、説明がし切れそうな種類のものでもない。ただ、何が起こるのか常にスリリングで、読者としてのもてなされ方は最高のものであるということだけ言える。
 読んでいけは最終章には当然たどり着くのだけれど、そこがまた、これで最終章なのか、何でこういうところにたどり着いてしまったのかと不思議な場所である。数多く通ってきたはずの関門は、行く手にまだ大きな穴を広げて待ち構えているかのよう。

 タイミング良く、直木賞作家になったばかりの道尾秀介氏の推薦のことばが帯に付されての今回の文庫新装復刊である。
 道尾氏による、本物語を中国神話の怪物「渾沌」にたとえての説明、作家になったらこういうものを書きたいという目標を得たから、音を借りてペンネームをつけたというエピソードなど、読み物として力の入った充実の解説も楽しい。

 技巧が才気走って卓越しているというだけでなく、物語から物語を次から次へと脱皮させていく想像力・創造力のみなぎり方、ふっ切り方も圧巻なら、濃厚でなく程良いかげんのエロス、と言うよりは「艶気」のありようもしっとりなまめかしく全篇にえも言われぬ潤いを加えている。






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紙の本おおきなかぶ ロシアの昔話

2010/12/14 14:10

【読みきかせ・就園前~小低】よく考えないで読んでも面白いのだけれど、よく分析して読むと、より面白い。大かぶを抜くのに、何でこう、だんだんちっこいの、力のないのを呼んでくるかなあ……。数え切れないほど読者がいる、うんとこしょどっこいしょなロングセラー絵本だけど、そういうことを考えた人はどれぐらいいるだろうか。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『おおきなかぶ』のどこがすごいのかについて、じっくり考えてみた。

 先日、大型サイズの本を使って読みきかせをしたばかりである。
 どう読めば盛り上がっていくのか、自分なりの演出について事前に「これだ」という答えは出さないで臨んだ。信頼する絵本の常で、読み方は現場で子どもたちが教えてくれるものだからである。

 「教えてくれる」というのは、何も「こう読んでね」とアドバイスをもらうわけではない。お話が進んでいくにつれ、子どもたちの反応が変化していく。それを観察していると、早くさっと読み過ぎてほしいのか、時間をかけて間をたっぷり取って読んでほしいのか、腹の底からの地声で迫力を出してほしいのか、ささやくように聞かせてほしいのか、場の要求が感じ取れるような気がすることがある。
 その空気を察して微妙に調子を変えていけば、きちんと着地すべきところに着地できる。

 そういう特別な(思い込み過多な)コミュニケーションをしながら読んでいくうち、「やはりこの本は面白い!」と実感した。それがなぜなのか、一つのポイントについては、読んでいるうちに気づいた。それは、この話が非常に非合理的に構成されているということである。

 大きく育ったかぶを地面から抜こうとして、おじいさんひとりでは、どうにもならない。そこで、おじいさんはおばあさんを呼んでくる。おばあさんは、かぶを引っ張るおじいさんを引っ張るのである。それでも、かぶは抜けない。
 そこで、おばあさんは孫を呼んでくる。孫は女の子だ。かぶを引っ張るおじいさんをおばあさんが引っ張り、それをさらに孫が引っ張るけれども、まだまだ抜けない。
 それで、孫は犬を呼んでくる。以下、犬はネコを呼んできて、ネコははねずみを呼んでくるというように繰り返される。

 まっこと、非合理的なことである。この非合理性は二重のものだ。
 だって、現実的なことを考えれば、大変な作業をするのに、普通ならば力になってくれそうな存在を呼んでくる。それなのに、ここの登場人物たちは、自分より力のなさそうな引っ張り手を呼んでくる。それじゃあ、なかなか抜けっこない。
 加えて、どうして呼ばれた人が直接かぶの茎を引っ張るのではなくて、洋服のすそやリボンやしっぽを引っ張るのだろう。これでは、力がかぶに直接かからないではないか。

 実は、この非合理性が大きな魅力だ。
 「より早く、より効率的に、より良く」というのは近代化が進んだ社会での大人感覚だ。しかし、そこには合理性で切り捨ててならないものもたくさんある。愛情や信頼関係、福祉や医療、教育といったものなど。
 子どもが暮らす世界も合理主義に支配されないように守る必要がある。徐々に「早く、効率的に、うまく」やっていけるようにならなくてはならない部分も出てくるが、子ども個々のペースに合わせ、時間をかけてできるようにしていくことが養育や教育である。
 待つことを無駄と思わず、見守っていくことが成長には欠かせない。「おおきなかぶ」はそういう世界のお話なのである。

 読んでいるうちに、「何でこう、だんだんちっこいの、力のないのを呼んでくるかなあ」と呆れていたが、どうでもいいような小さな存在であるねずみが加わったところで、やっとかぶは抜ける。これが非合理性につづく、この本の魅力の2点めである。
 自分たちに似たような小さな存在が加わったことで、物語が劇的に動く。それが見ている子どもたちには、どれだけ嬉しく、愉快なことであろう。

 第3のポイントとして挙げたいのは、物語のぶっきらぼうさである。荒唐無稽なところもある。物語の発端からして、なかなかにシュールだ。
 かぶは、おじいさんが種をまいて育てようとしたわけではない。おじいさんが植えるのは、普通サイズのかぶである。これを地面に植え、勝手に「あまい あまい かぶになれ。おおきな おおきな かぶになれ」などと唱えている。それって、あまりに都合の良すぎる、まじないではないか。
 それなのに、次の見開きでは、もうどどどーんと、「あまい げんきのよい とてつもなく おおきい かぶが できました」ということになってしまっている。
 世界各地の民話はどれでも、こういうように「何で、どうして」がきかない不思議なものであるが、突然、目の前に大きなかぶは出現するのだ。「そりゃ、ないだろう」と突っ込みたくなる様子で……。

 結末も、「ぶったぎり」と言いたくなるような豪快さだ。
「やっと、かぶは ぬけました。」
――「そんだけ~」と文句を言いたくなってしまう簡潔さだ。
 みんなで運んで帰って、かぶのスープを作ってあったまったとか何とか、今の童話作家、絵本作家ならば付け足したくなるところだろう。しかし、この物語は大きなかぶが出現し、それをみんなで抜く。それでおしまい。
 「抜けて良かった」という最高潮の満足のところで潔く引いてしまう。ストレートだ。後のことは、読者が勝手に想像すればいいだけの話である。

 もちろん、この絵本が佐藤忠良という芸術家によって描かれたという大きな特徴は見逃せない。何というデッサン力、何という大胆な構図、何という印象的な色遣いと感じ入ってしまう。そういう芸術性の高さと、人物の愉快なポーズのように子どもの目を引き付ける親しみやすさが共存する。
 翻訳も巧みで、「かぶは ぬけせん」という繰り返しを単調にしないよう、「ところが」「それでも」「まだまだ」のように変化をつけ、ボキャブラリー獲得に貢献する。

 こういった面白いポイントをすべて積み重ねた上に、ちょこんと金の王冠が燦然と輝きを放っている。
「うんとこしょ どっこいしょ」――どうやら原話にはないらしい、この掛け声が、物語に天駆けるかのような躍動感を与えているのである。



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紙の本ラウィーニア

2010/01/05 14:35

この先、大切なものをいくつか失っていくことになろうとも、若い年代で『影との戦い』を読ませてもらえたこと、いくらか読解力のついたこの年で『ラウィーニア』を読ませてもらえたことは、私にとって失われることのない大切な宝だ。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 聖なるものをあがめる気持ち、有史前の出来事、そして宇宙との共鳴など、物語が生まれ出る根源――もはや小説で何か思想をうったえていこうという意図を超克したル=グウィンの新しいファンタジーは、そうした根源へと迷いなく、しなやかに向かっていく。
「女たちは……」「男というものは……」といった表現はところどころ目に入る。けれども、かつてのようなフェミニズム意識の強いあらわれには感じられない。性差のみならず人種や身分差を元にした偏見への弾劾という姿勢がなりをひそめ、いまだ差別意識にとらわれている不自由な人びとの鼻先を、さっとなでるかのように軽やかに書かれている。

 作家に限らずベテランや大家のことをほめる際は、「円熟」「枯淡」「いぶし銀」などと言う。考えてみればどれも水分や濃度が適度ではないということだろう。ところが、『ラウィーニア』のル=グウィンは、丹地陽子氏が描いた表紙のラウィーニアのように、若い雌鹿を思わせる。今あるこの場所から、あちらの世界へとすばやくリズミカルに駆け抜けていく。今が旬とばかり、いきのいい、みずみずしい物語を展開させる。「語ることが楽しくって楽しくって仕方ないのよ」という笑い声が聞こえてきそうなぐらい。
 その語りっぷりはラウィーニアという女性に、いかにもふさわしい。思慮深く、しかし明るい。柔軟性があり、しかも揺るぎない頑固さも持ち併せている。とりわけ若い娘時代のラウィーニアの魅力はどうだろう。
 自分の見栄えや血筋に対するプライドを持ちながら、控えめで清楚。真摯さと情熱に不足なしの内面表現たるや、80歳目前の女性が、どのようにしてこうも素敵な娘を描き切れるものなのか疑問だ。還暦で年齢がリセットされた作家は、もう一度幼年時代をくぐり、自分の将来への夢に胸をふくらます娘時代を迎え直したとでもいうのであろうか。

――アエネーアスに従ってこんなに遠くまで来た屈強な戦士たちは、気がつけばイタリアの家庭の主(あるじ)として、ほかのイタリアの家庭の間で暮らし、地元の農民たちの傍らで農業を営んでいた。彼らの偉大な都市は伝説となり、彼らの高貴な血筋は無意味なものになった。すべての戦闘や冒険、嵐と航海は、異国の小さな都市の小さな家の炉辺の日常生活の中に埋没した。
 彼らの中にはそれを受け入れがたいと思う者もいた。とりわけ、若い者にその傾向が強かった。(P250)

 物語の半ば過ぎ、上のような記述がある。ル=グウィンは『闇の左手』「ゲド戦記」シリーズ、「西のはての年代記」三部作などの作品群で世界中のSF/ファンタジーファンを熱狂させた自分を重ね合わせ、この部分を書いていやないか。主義主張を盛り込み、想像力の限界を越えて行くための闘いを挑む筆で仕上げられたのは、緊張感に満ちた作品だった。そのあとに、穏やかな炉辺の日常生活にあって悠々と書いたような『ラウィーニア』からは、素晴らしい物語を気持ちよく語りたいだけなのだという余裕が伝わってくる。
 それでいて仕上げられたのは、現代小説としての実験性も十分、古典の魅力を現代の人びとや西欧の教養圏外にいる人びとにも伝えていこうという意欲作だ。モダンで風雅に満ちた堂々のファンタジーは、最後の最後まで読者を退屈させない。「この辺は飛ばし読みしておいてもよさそう」という隙を与えない。

 最初の20ページほどは、辛抱強く物語に慣れていく必要がある。しかし28ページ、イタリアのラティウムの地の王女ラウィーニアが15歳になったところで、イタリア一の美男子と誉れ高いトゥルヌス王が、どうやら求婚目当てで現れたあたりから俄然読みやすくなってくる。自分の親せき筋ということもあり、ラウィーニアの母が熱心にトゥルヌスとの結婚話を進めていこうとする。だが、ラウィーニアは一族の祭壇がある森で、「自分は生き霊だ」という男に出会い、結婚についての運命を告げられるのである。

 西欧人の教養の一つ、ウェルギリウスの叙事詩『アエネーアス』が下敷きにされている。そのことについては作者本人による解説が巻末にある。トロイア戦争を戦った英雄アエネーアスがアフリカを経て、イタリアに渡りローマ建国に関わったという詩人の推測をル・グウィンがふくらませる。伝えられていない歴史を、ラウィーニアという女性の生涯を書くことでファンタジックに埋める試みなのだ。
 ローマ建国前夜のイタリア、ラティウムにいたラウィーニアについては、『アエネーアス』でちらり触れられているだけという。それなのに、詩人の生き霊をはるかな昔へさまよわせ、詩人が作った物語の登場人物に会わせる趣向なのである。詩人ははるか後代の人間であったから、ラウィーニアの運命がどう展開していくのか、彼女の結婚相手がどういう運命を経てイタリアを訪れるのかを語ってやれるというわけだ。
 運命を毅然として受け入れつつ自分の意思を尊重し、幾度かの戦乱に見舞われながらも異邦人と連れ添い、子を育て、親たちを見取っていくラウィーニアの姿は、人として生きる苦悩や困難を抱えるすべての者に、とても近しい。ファンタジーの中で誰もがラウィーニアを生きることができる。

 しかし結末、冒頭の方で匂わせていたことだが、ル=グウィンは物語というものの聖性を見せつける。読者に物語の中で人物の生を生きさせるという俗性をかなえさせたあと、ファンタジーの階層をひとつ上へ押し上げ、物語を読者から切り離す。
 聖なるものをあがめる気持ち、有史前の出来事、そして宇宙との共鳴など、物語が生まれ出る根源――そうした聖性の支配するところへ、もう一度、物語そのものを還す。そこに至って降りかかってくるル=グウィンという作家のオーラに、「あなたの肉体には、いったいいくつの霊が宿っているのか」と叫びたくなってしまった。

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紙の本おねえちゃんは、どこ?

2009/12/08 20:50

大きな見開き画面に、幻想的キャラクターや建物、植物や動物、虫、景観などがごちょごちょ細密に描かれていて、「こんなものがある」「ここは、こうなっている」という発見が堪能できる。構想25年、実制作に1年半かけられた驚異的な絵本。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 奇妙なもの、不思議なもの、妖しいもの――だからこそ美しいものが好きな人が手にすれば、なめるようにして日がな一日過ごせる絵本です。表紙は中身の絵からすると実におとなしく、のどかにまとめられていますが、それでもここにある書影ではなく実物を手にすれば、実に細かく、風変わりなものがいくつも描き込まれていることに嬉々としてしまうことでしょう。
 西洋美術で言えば、ヒエロニムス・ボス、ギーガー、ブリューゲルなどのファン、アルチンボルドはじめマニエリスムやバロックの愛好家、アニメで言えば、ラピュタ帝国の城がある天空島、千尋が迷い込んだ湯屋、動く城の主ハウルの寝室などが好きな人は、ぐっとくることと思います。
 bk1的には、「幻妖ブックブログ」読者ならば見逃せないという感じでしょうか。

 物語は実に素直なものです。黄色い毛が頭に生えていて緑のパンツをはいたねずみの男の子が、おじいちゃんの居室を訪ねるところから始まります。いっしょに遊ぼうと思っていたおねえちゃんが、その日もまた、どこかへいなくなってしまったので、おじいちゃんにさがすのを手伝ってもらおうというのです。
 おねえちゃんの方は、やはり黄色い毛が頭にあり、赤いパンツをはいています。それで弟ねずみとおじいちゃんは、さっそく庭に出て行くのですが、実はここからの各見開きページが、ずっと続いていく景色となっているのです。つまり絵巻物のように連続する長い長い絵を、絵本の体裁にして、そこをキャラクターに旅させるという具合になっています。
 大型の絵本で、見開きページにするとタテ275ミリ×ヨコ675ミリほどあります。そこにユニークなキャラクターや建物、植物や動物、虫、景観などがごちょごちょ細密に描かれていて、あちこちに「こんなものがある」「ここは、こうなっている」という発見があります。
 小説の世界で「細部に神が宿る」ということが言われますが、この絵本も同じことが言えます。10ミリ四方、いや5ミリ四方のスペースにでさえ、何かしらアイデアを盛り込もうとした画家の創造力や執着心に頭が下がります。神の祝福を引き寄せていると思います。

 この緻密で楽しい絵のなか、見開きのどこかしらに豆粒大、米粒大のおねえちゃんの姿があります。おねえちゃんというのは、どうもかなりの幻視者でありファンタジスタであることが、弟とおじいちゃんの会話で分かってきます。

――ときどき おねえちゃんは すごく へんなんだ。
いつものように しゃべったり あそんだりしてて、
おねえちゃんは そこに いるのに、そこに いないの。
(P23部分/ただし、ノンブルという野暮なものは振られていません)

 おかしな植物や虫でいっぱいの庭を抜けたふたりは、庭先の滑走台から洋ナシ型気球に乗り込み、製麺機のような機械でカエルが空に虹を架けた平原を渡って行きます。マチュピチュのような岩山、その間の峡谷をながめ、楼閣のような家が林立する町を通り、神殿跡の青空博物館を越え、滑稽な浮島がいくつか見える湖を眼下にします。そこに展開していく画面が、はたしてふたりが本当に旅している場所なのか、弟ねずみがおねえちゃんに聞かされた話なのかがはっきりしなくなるような語りになっていきます。

 1946年スウェーデン生まれの画家ノルドクヴィストは、構想25年ののち、実制作に1年半かけて、この作品を完成させたということです。建築学の大学教員を経てイラストや絵本の仕事をしてきたということですが、古代から現代に至るさまざまな建築、美術、意匠などのエッセンスが込められ、人間がものを作ることと造化の妙への深い敬愛が全体を覆っています。
 そして、ページをめくる者は、そのような力と愛が込められた絵本を手にし、人間がものを作ることと、ものを作る人間を大いに刺激する造化の妙とにやはり深い敬愛を感じずにはいられません。

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紙の本通訳ダニエル・シュタイン 下

2009/12/07 20:38

作家は直接、ファシズムやパレスチナ等の政治的問題に立ち入らない。それらに関わった人びとの内面で、「民族」「土地」「宗教」がどうせめぎ合ったかを描く。「宗教」も「文学」も政治と結びつき、いくつもの悲劇を引き起こしてきたが、人の魂の問題を扱う「文学」で、それまた人の魂の問題を扱う「宗教」への理解を深めていくことが今後の課題であろう。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

(上巻からのつづき)
 ドイツ軍のポーランド侵攻で難民となったダニエルの一家は、老いた両親が子どもたちの足手まといになることを恐れ、親子で別れを告げる。やがて弟とも別れたダニエルは、何とかユダヤ人狩りを逃れ、ポーランド人の身分証を手に入れる。そして、ドイツ軍の通訳としてベラルーシで士官するようになる。ナチの部隊と同じ制服を着たユダヤ人のダニエルは官憲のために働く嫌悪を切り替え、情報をいち早く得られる立場を利用し、ゲットーのユダヤ人たちの逃亡を助ける。
 すでにここでも、殺人を犯しながら教会へ告解に出かけるドイツ軍の警察署員たちや、誠実に職務をこなしながらもユダヤ人撲滅には関わろうとしなかった将校の話が書かれている。他者には容易に理解できない、個人単位の複雑な内面や精神性、複雑なヴィジョンがある。やがてダニエルの秘密がばれることになったとき、その将校がダニエルの逃亡に手を貸してくれるのである。
 ドイツ軍から身を隠すため、ダニエルは一時的に修道院に身を寄せ、そこでキリストの教えに触れて洗礼を希望し、生涯の方向性を感じ取る。シスターたちに迷惑はかけられないと修道院を出た彼はパルチザンに合流する。当時のパルチザンは純粋な義賊だったわけではなく、強盗でもあったという書かれ方がされている。
 ナチといい、パルチザンといい、1つの集団の中に、価値観の異なる複数の個人がいるということをウリツカヤは見過ごさない。軍隊やパルチザンのような抵抗勢力の構成員のなかに、さまざまな考えの者がいるという見方は、『戦争と平和』でのトルストイの視点とも重なる。

 人口の数だけある価値観の多様性は、戦後、カトリック神父となって渡ったイスラエルの地で暮らす人びとについて、より一層丁寧に書かれていく。
 ナチス党員だった祖先を持つことを知ったドイツ人女性は、神父の助手をするために教会があるハイファにやってくる。パレスチナのカトリック諸派のなかには親パレスチナ派もあれば親イスラエル派もいて、両方の信徒を抱える宗派もある。教会の信徒は、ポーランド人、ハンガリー人、ルーマニア人など、母語も風俗や習慣も異なっているため、ダニエルは何語で説教すべきかを考えなくてはならなかった。
 カルメル山の古いカトリック宗派には、ユダヤのトーラーと新約聖書、コーランの他、自分たちなりの聖典を信仰し、周囲に秘匿している派がある。
 そういったアラブの習慣とイスラエルの体制、「民族」「(生まれ育った)土地」「宗教」の組み合わせが、個人の中にその人なりに形成されているのが、イスラエル人やパレスチナ人なのである。独特な地域性の中で、カトリック本山の解釈や意図との相違の問題に直面しながら、ダニエルは助けを求めてやってくる人たちのために働き抜いていくのだ。
 ニュースや報道特集で耳にするイスラエルとパレスチナの紛争は、かくも複雑な事情を抱えた人びとの上に横たわってるのかと驚かされる。

【ウリツカヤの慎重さ・謙虚さ】
「反ユダヤをめぐる世界大戦のヨーロッパ戦線」から、戦後の「アラブとユダヤをめぐる戦争・紛争」を射程に入れたスケールの大きな『戦争と平和』を書こうとしたであろうウリツカヤは、自分の書簡を小説の結びにもってきて、次のようなことを書いている。

――私たちは知識それ自体や、知識を獲得する過程を、倫理的規範とは何の関わりもないものとして捉えることに慣れています。知識と倫理とは別世界の指標のように思われていますが、そこでは違いました――物や思想や現象についての知識の塊には、倫理的潜在力が込められているのです。(下巻P368-369)

 これは、ウリツカヤが自分のエージェント宛に夢の話を書いた書簡の一部ということになっている。
 ダニエルのモデルとなった人物に触れ、彼を知る人たちに触れ、残された資料の現物に触れて書いた作家が、自分の得た知識そのものをこのように冷徹に判断している。ロシア人としての立場、現代人としての視点、女性としての眼鏡、そういう立場だからこそ獲得されてきた知識と倫理について疑いのない自信を持つのではなく、「1つの見方に過ぎない」という確認をしている。それは同時に、この小説を読んで得た知識で物を語ろうとする読者たちへのささやかな警告にもなっていると言えよう。

 私たちは皆、「自分が受けてきた教育」「受けられなかった教育」から得た倫理で、身につける知識を選び取り、それを加工して、言論や行動のいしずえとしていく。「反ユダヤ」「アラブとパレスチナ」からは遠く離れていて、限られた知識しか持たないわけであるが、同時代人としてならば私たちもまた、少なくとも後者の問題の構成員ではあろう。そして、同時代人として限りなくある立場のうちの1つの立場でしかあり得ない。一立場でしかあり得ないけれども、次のようなダニエルの言葉が、何をどうすべきかのヒントになる。

「(前略)自分が選んだ、あるいは両親から受け継いだ信仰を全て無条件に受け入れている人々を別にしても、多くの人たちは何か高次の力、私たち信仰を持つ人間が『創造者』と呼ぶ、世界の原動力について自分なりのイメージを持っています。自分の持っている何らかの思想を崇拝し、それを神と標榜して、その思想にひれ伏して仕える者たちもいます。どんなものでもこうした『思想』になりえます。信念の固いコミュニストやファシストというのは、そういう種類の人々です。(中略)
 私にはお医者さんの友人がいました。彼は言葉の上では神がこの世にいるということを否定していましたが、病人たちに対してとても献身的に尽くして生きた人です。だから、彼が神を信じないと言っていたことには何の意味もありません。……」(下巻P309-310)

 宗教は政治の問題と結びついて紛争の火種となってきた。歴史上数限りなく繰り返されてきた悲劇である。文学はどうであろう。文学もまた政治と結びつき、政治への影響の大きさから悲劇の原因となってしまったこともある。
 だがしかし、宗教が人の魂の問題を扱うのと同様、文学もまた人の魂の問題を扱う。そこにこそ注目しなくてはならない。文学はどちらかというと、政治を直接に扱いながら問題に働きかけていくより、異文化や異宗教の人びとの魂に迫りながら、政治的解決では補えない問題の部分を扱っていくべきではないのか。読者もまた、それを求めていくべきではないのか。そのような意味で、ウリツカヤの本作品は、20世紀の『戦争と平和』であり、21世紀的な文学の可能性を狂いなく指し示している。

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紙の本ふしぎなおきゃく 第2版

2009/11/28 23:38

【読みきかせ・幼児~小中】お客は皆、つゆの最後のひとしずくまで飲み干すほど人気のラーメン店。そこに現れた不思議なお客が、ほんの少し食べただけで残して帰っていってしまうことを疑問に思った主人は、お客のあとをつけて……。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 初めて出たのが1981年で、もうかれこれ30年が経とうとしています。しかし、ミステリ仕立て、謎解き話の絵本というものがあまりない中、「早く、どういうわけなのかが知りたい」と先に期待を持たせるこのお話の魅力は古びることはありません。
 お話を書いた肥田美代子氏は、衆議院議員として国立子ども図書館の設立に貢献し、現在も読書推進活動のリーダーとして活躍中。しかし、国会議員になる前は、爆発的な明るさのある面白い童話をいくつも書いていた魅力ある作家でした。立場上なかなか難しいことなのかもしれませんが、社会的活動が一段落したら、ぜひまた、創作活動も本格化してほしいものです。

 謎解きというユニークさに加え、扱われている素材がラーメン。それをハフハフとおいしそうにすする顔がよく確認できない人物が、毛糸のポンポン付き帽子にマフラーを巻いて湯気の向こうにいるこの表紙絵――これがいろいろな食べ物の扱われた『こまったさん』シリーズ、そして『ふしぎなかぎばあさん』シリーズという童話の大ヒットを支えた岡本颯子さんの手になるものなのです。
 表紙絵で分かる通り、だいだい色と黄色を基調にした、見るも暖かな絵柄が本文でも一貫しています。普通の絵本より、少しだけ長めの36ページ、絵をその分楽しめる計算になっています。

 お話の始まりは「とんちんけん」です。若い主人がひとりで切り盛りする、おいしいと評判のラーメン店。老若男女問わず、「おいしい」と満足し、つゆの最後のひとしずくまで平らげていくような人気店です。
 ある日、お昼の混雑時が過ぎ、主人のけんさんがひと息ついていると、表紙絵の通り、帽子とマフラーで変装したお客が入ってきて、ラーメンを頼みます。ところが一口食べただけで、ラーメンを残して帰っていってしまいます。
 けんさんは味が悪かったのかと確かめてみますが、いつもと変わりはありません。次の日もやって来たので、張り切って気を配りながらラーメンを作りましたが、今度は二口食べ、やはり残して帰っていってしまいます。けんさんはその夜、なかなか眠れなくなってしまいます。
 ところが、その翌日も同じお客がやってきて、三口ばかり食べると帰ってしまいます。何が気に入らないのかと気になり、けんさんは思わず、お客のあとをつけて行くのでした。
 するとお客はどんどん、どんどん歩いていき、町はずれの林へ、そこから雪化粧した山へと入っていくのでした。

「お客の正体は……」そして「ラーメンを残した理由は……」がはっきりする結末は、ファンタジックで愛らしいものです。お客が帰っていく山の中の場所から、新たな物語がまたひとつできても良さそうな結びにも思えます。
 文字量はそこそこあるのですが、繰り返し話を含む分かりやすい筋運びになっているので、幼児から楽しめます。また、ほほえましい終わり方に「なるほどね」と思えるので大人も楽しめます。

 冬の日、子どもたちがお昼ごはんを食べ終わった午後のおはなし会で、
「きょうはお昼に何食べた?」「ラーメン食べた人はいるかな?」などと声をかけてから読み始めたい一冊です。読み出すと、暖かな空気を運んできてくれるような絵本です。

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紙の本すべての美しい馬

2009/10/07 17:24

自分の「根」を大切に思うがゆえに流れ行く者たち、境界を越えた掟破りに下される厳しい裁き――「青春の通過儀礼」と言うにはあまりに険しい恋と旅と闘いを突きつける硬質な小説。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 険しい小説であった。読んでいる途中に、読後、自分の人格が変わってしまうのではないかとさえ思えた。
 映画の方は前に見た。美しい場面に眼福を感じつつ、切々と伝わってくるものに感性を響かせていれば良かった。「あの原作がこんなだったか」と心得違いを思い知らされた。抒情的なカットで心の琴線に触れる。そういう「泣きどころ」作りを意図したのが映画なら、小説の方は、険しい展開がそこしかないという境地を作り出し、読む者の精神を鞭打っていくようだ。

 文体の難解さを読み解く、あるいは行間の意味に感づく必要があるというように、「読む厳しさ」があるから「険しい」のではない。むしろ読みやすい作品だ。人物がぞろぞろ出てきて複雑だというわけではないし、思わせぶりな謎解きもない。神話や聖書、古典などの知識がなくても大丈夫だし、出来事が時間軸をバラして並べられるわけでもなく、登場人物が理解し難い行動を取るでもない。険しさはひとえに、テーマを貫き、それをしかと読み手に伝えようとする書き手の意志の強さがもたらすものなのではないか。

 16歳の若者が牧場の仕事を続けたいがために、親友と共にメキシコに渡り、身分違いの恋を知り、思いもよらない事件に巻き込まれ、痛烈な体験をして戻ってくる話だ。大人のための「行きて還りし物語」なのである。
 青春の放浪と恋という、実にベタな、陳腐とも言いたくなる筋書きである。小説としては、その辺に転がっている段ボール箱のような、ありふれた容れ物であろう。けれども、1回目を通しただけでは通過できない言葉がいくつも埋め込まれている。言葉だけでなく、再び読み直してから先に進んだ方が納得できる場面もいくつか埋め込まれている。やがて、読み直した部分で非常に大事なものを突きつけられていたのだということが分かってくる。

 テーマは何なのか。思うにそれは「根」と「流」という2つに関わることだ。「根」は「根を下ろす」と同義の「定住」や「留まる」ではなく、「根源」という言葉が近そうだ。どこで誰から生まれたのか、何を尊重して生きるよう育ってきたか、何に価値を感じるよう育ってきたか。そう、「育てられたか」ではなく、「育ってきたか」とした方が、「人と人の関わり」より「個人と世界との関わり」にこだわっている、この小説にフィットする。
「流」は「定住」「留まる」に対応する「流浪」「漂流」ではなく、自分が意識できる「根源」をどこまで別の方向へ伸ばしていくことができるのか、目的を持つ「流着」である。

 牧場に生まれ、豊富な知識を持つ祖父に育てられたジョン・グレイディ・コールは、アメリカの馬を愛して育った。彼が生きるのは西部開拓時代ではなく、20世紀半ば。祖父の死で牧場という生活の場を失ったため、「アメリカ人」と「牧童」という根を失くさずに済むよう、馬と共に生きる仕事を求めてメキシコに旅立つ。彼と同じ根を持つ親友ロリンズが道連れである。
 2人はヒッチハイクやバスではなく、鞍をつけた馬にまたがって、橋のない川を渡り、荒れ野や山道を越えて行く。出会った旅人や住人に、食べ物や飲み物の厚意を受け、野営を重ねて流れ着くべき新天地を目指して行く。
 祈りもしないし、日曜に休息もしない。しかし、彼らの根を一番奥で支えているのは、大いなる存在への信心だ。焚き火のほとり、「神様は人間をじっと見守ってくれていると思うか?」と尋ねる親友に「ああ。きっとそうだと思うな」とジョン・グレイディは答える。「一寸先は闇で何が起こるかわからない。けどきっと神様にはわかってるはずだ。でなきゃおれたちは一日だって生きちゃいけない」と言う親友に、彼はうなずく(P154)。
 ひとまず流着した牧場で、2人は野生馬を飼い馴らす仕事を得、ジョン・グレイディは馬の血統に関する知識を生かせるようになる。自分の根を認められ、さらに、その根を愛してくれるメキシコ人の娘に惹かれて行く。
 この職探しの筋に絡むのが、正体不明の年下の家出少年で、彼もまた馬に乗っているが、持ち馬なのかどうかがはっきりしない。その少年のトラブルに関わることで、ジョンたちの運命は急転する。少年を始めとした「根」の判然としない存在、「根」を手放しているような存在に、かき乱されていくのが象徴的なのである。

 冒頭に書いた「険しさ」が感じられたのは、作者がこの物語に課した「国境」の掟である。ジョン・グレイディとロリンズは何頭もの馬と関わる。彼らの「流」の旅に関わる馬も何頭かいる。物語全体を振り返ると、作者は、アメリカの馬はアメリカへ、メキシコの馬はメキシコに、その生きるべき場所へときちんと還す筋立てをしていたように思う。それは人間たちの運命もまた同様、アメリカの人間はアメリカへ、メキシコの人間はメキシコに還しているように取れる。これは「国際化」「ボーダーレス化」「多国籍化」が加速した20世紀後半の流れとは反対にある決着のつけ方だ。
「国境」は越えても構わないものだというのが、この物語の設定だ。国境を越えて進んでも構わないが、世界には越えてはならない「境」がある。「境」は「掟」という形に転化され、越えてはならない境を越えた者に必ず罰を与える。その必罰の展開が神話的であり、西部劇的なのだ。
 メキシコに入ってしばらくして、ジョン・グレイディとロリンズが次のように交わす言葉が実に象徴的だ。
 いつか陽の昇ってこない日がくると思うか?
 ああ、とジョン・グレイディがいった。裁きの日だ。
 そいつはいつだと思う?
 主がこの日と決めた日だ。
 裁きの日か、とロリンズはいった。そういうのを全部信じてるのか?
 さあな。いや、たぶん信じてるよ。おまえはどうだ?
 ロリンズは煙草を口の端にくわえ火をつけてマッチを捨てた。さあな。ひょっとしたらな。(P101-102)

 その先、2人は、メキシコで罪を犯して裁きを受ける人物何人かと関わる。そして、主人公であるジョン・グレイディも越えてはならない境を越えたがために、元の自分には戻れなくなる大きな代償を払うことになる。
 残り40ページ弱というところ、2人に不利益をもたらした者に、ジョン自ら制裁を加えようとする場面がある。それは神に代わっての制裁であり、ボーダーを犯す行為とも言える。そこへメキシコ人3人組が現れ、ジョンの行為に割り込む。うち1人が口にする台詞がとても好きだ。原書はスペイン語のようだが、ジョンの誰何に対し、男は「この国の人間だ」と言う。ここにもボーダーにまつわる掟が表されている。この国の人間の不始末はこの国の人間たちに委ねられるべきだという道理と、他国人の手を汚させないという厚意が含まれた言葉なのだろう。

『すべての美しい馬』は「国境三部作」の皮切りだという。2巻目『越境』も読んだが、「境界三部作」と言うべき広がりのなか、「境」「掟」、「根」と「流」が険しくも大切に書かれていた。これが3作を通して、一体どのような境地へと達するのか。3巻目に当たる『平原の町』のepi文庫シリーズへの所収を楽しみに待ちたい。

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紙の本アンダルシアの肩かけ

2009/09/02 11:27

社会性に染まらず、現実と幻の境をよく認識していなかったために物語を解していなかった幼い子の目線。それを獲得しながら人間関係や人間存在を見ることで、現実は神話性を帯びる。須賀敦子の敬愛した女性作家の短編集。

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 いい本だ。いい本でないはずはない。かの須賀敦子が「尊敬してやまない作家」とモランテを称えたという。そして、訳者・北代美和子氏のあとがき、結び部分を引いてみれば十分に伝わる。
――完璧に作りあげられたモランテの短編の数々を日本語にすることは心躍る楽しみであり、訳者の翻訳人生で得た最大の歓びと言っても過言ではない。訳者はこの作品を、著者エルサ・モランテへの大いなる賞賛と敬愛のなかで、一語一語心をこめて翻訳した。

「完璧に作りあげられた」とはどういうことなのか。「いかにも小説の傑作として、あざとい技術を駆使してまとめられた」「感動のツボにはまるよう意図的、作為的な工夫がされた」など、マイナスの印象として、この表現が捉えられたなら誤解である。そこが、もう少し語られる必要はある。

 小説が語られるとき、玄人受けする上手い小説か、荒削りだが読み手を圧倒する勢いや感性の豊かさがあるか、つまり「技術か、感性か」という2つの指標が評価に用いられる場合が多い。しかし、感性もまた「感じる技術」があってこそ獲得され、豊かになってくるものなのではないか。
 そう考えたとき、モランテの「完璧さ」というのは、物事を極めて繊細に深く感じ取れる技術の高さであり、感じ取ったものを考えられ得る限り効果的に表現し切れる技術の高さなのではないかと思い当たる。
 では、モランテが「深く感じ取る」対象としたものは何かと言うと、ここに並べられた短編で、好んで書かれているのは「子どもからの目線」や「子どもが置かれた環境」である。
 まだまだ夢の中に生きる幼い子どもの目線を借りるということは、幻視も取り入れて書くことになる。時代の特定もせず、明らかな幻想性を伴ったり、どこか幻想的なムードを伴わせたりして書く方法は、リアルに書く方法よりも、かえって物事の皮肉な側面や悲劇的要素を際立たせる。
 そういった抽象性が、現実的な人間関係や人間存在を「いつかの時代の物語的なものへ」「はるかな時代の神話的なものへ」と読み手の意識を遡行させる。そのような効果を小説という器で巧みに引き出して行くのがモランテの特徴だと言えよう。

「灯火(ともしび)を盗んだ男」は、幼児が窓から毎夜、聖堂の灯火の守り人を眺め、彼の秘密、聖堂の秘密を目にしてしまった話。少女はそのせいで――そのせいと彼女が受け止めたということなのだが、ある時、とんでもない不幸に見舞われる。その「とんでもない」もまた少女なりの受け止め方だ。自分はひどい罪を犯したと思い込んだ少女は、聖堂近くに身をうずめ、守り人や死者たちの幻を見る。
 本の初めに置かれたこの物語は、安定感のある場所へ着地することを拒み、幻と思念のさなか断たれる。腕を引っ張られ、引っ張られた腕の先が異次元に入り込んで見えなくなってしまったかのような感覚に襲われる。

 そのような状態で「眼鏡の男」という第2話が始まる。これもまた、話の全貌を理解し切って読み終えたいという自然体を裏切る話である。
 男がふらふら部屋を出て、楽しみにしている場所へと向かう。学校である。彼は特定の少女に行き会うよう、いつも待ち伏せをする様子なのだ。ところがその日、男は少女の友達に「あの子は死んだ」と聞かされる。
 そこで、物語は男を離れ、マリーアという死んだ少女と、マリーアの死を告げたクラーラを追う。マリーアの亡霊にクラーラが会いに行くと、マリーアが自分を殺したのはあの男だと告白する。少女たちの会話はしばらく進んでいくのだが、過去に何があったのか、本当に殺人事件があったのか、2人が話をしている設定がどういうものなのかが、はっきりとはつかめない。
 ともすると、眼鏡の男も霊的な存在であるかのようだ。マリーアが死の床で見ていた亡霊が男であり、彼は最初から存在していなかったとも取れる。死んだ少女と話ができるクラーラも何者なのかと思えてくる。
 子どもが出来事について話をすると整理がされてておらず、時間の流れが認識されていない。その上、自分の印象に残ったことから語るがために脈絡がないということかよくある。この話は、そのような調子で、「物語るにはまだ早い」段階で書かれている。

 モランテ作品を読んでいると、小説における技術の高さは「物語の完成度」とイコールではないように思えてくる。技術の高さとは「この世ならぬもの」へ人を結びつけていく力なのかもしれないと思えてくる。
 ファンタジー世界を見えるようにするのではなく、五感では認識し切れないものを感じさせる力である。第六感とは微妙に異なる。大気の中に降るようにして湧き出てくるものの存在を身近にしてくれる、そういう力の大きさとでも言えば良いのか。

 収められた12編について逐一説明をしていくのは手に余る。強烈だった、あと2編について記しておく。
「灯火を盗んだ男」「眼鏡の男」につづく「祖母」。これは母と息子が互いに崇拝し合い、崇拝から覚めた後に苦い落胆を感じ合う皮肉を書いた表題作「アンダルシアの肩かけ」につづき、この短編集では長い作品である。
 エレーナという女性が寡婦となったところから始まる。それからの運命は意外性の連続で、結末は、はるかな時代の神話的なところへ至る。神話的というのは、この場合、神から直接下された天罰のような非日常的悲劇の極みがあったり、出てくる人物に「大蛇」や「預言師」のような象徴的雰囲気があったりするという意味で使っている。
 最初の結婚で子を持てなかったエレーナだが、夫の資産の一つの田舎家を訪ね、そこで借家人と出会って結婚することになる。しかし、義母は息子をエレーナに奪われたと感じており、その恨みをストレートにぶつけてくる。義母が抱く不穏な気持ちが家庭に影を落とし、さらには高齢で授かった子どもの運命にも影を落とす。運命的、しかしあまりにも圧倒的な結末が待つ。
 簡潔に書かれ、しかし決して慌ただしく書き急ぐことなく、的確な言葉を捉えて綴られていく文章が、「ああ」と洩らすしかない境地へと心を運び去る。その感嘆は「驚き」とも「悲しみ」とも「切なさ」とも言えはしない。

「同級生」はわずか4ページだけの短編だ。ここでは同級生に起きた運命的悲劇が二重、三重に広がって語り手に見えてくる。親を失った不幸、彼がついていた嘘がばれてしまう不幸、彼が暮らしに対して抱えていた不満が明らかになった不幸。
 この悲劇を知り、同級生に軽蔑を抱くようになり、さらには縁がなくなってからも尚、語り手が彼に対して抱いていた強い思いが最後の2行で示される。突拍子もない思いではあるが、そのように得体知れなくどこからか湧いてくる思い込みには自分にも覚えがある。
 そういうわけの分からないものこそが「物語を解する以前の自分」「現実と幻の境がよく分かっていなかった自分」「社会性に染まっていなかったがゆえに『この世ならぬもの』の近くにいた自分」に引き戻してくれるような気がしてならなくなる。つまり幼児だった自分へ、と。

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河島英昭編訳の岩波文庫上下2巻と『みどりの小鳥』には所収されていない2編を含む、イタロ・カルヴィーノ蒐集『イタリア民話集』から7編をチョイス。イタリア昔ばなしのエッセンスを手軽に楽しめる一冊。

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 寓話的小説、SFジャンルも含めた幻想小説のユニークな諸作品により、イタリア文学だけでなく世界文学の巨匠に連なったイタロ・カルヴィーノは、『グリム童話集』に匹敵するイタリア民話の蒐集を行いたいということで、1956年にその野心の結実『イタリア民話集』を世に出した。
 それまでイタリアで蒐集されてきた民話には地方により数のばらつきがあったという。かつていくつかの公国に分かれていて別の国であったイタリアの地域性というものを尊重するため、数的バランスを図りながら、地域による民話の内容対比を際立たせた。それでいながら、共通イタリア語という1つの言語によって、イタリア民衆文学の伝統的流れのなかに「民話」の位置づけを行おうとしたというのである。
 ここまでのところは、河島英昭編訳『イタリア民話集(上)(下)』(岩波文庫)の下巻解説を解釈しながら書かせていただいた。カルヴィーノ流のナショナリズム、祖国愛の発露。彼がここで何をしようとしていたのかということに胸をじんわり熱くするのは私だけではなかろうと思える。
 カルヴィーノはグリムの向こうを張って200編という数の民話を編纂したが、北イタリア編の岩波文庫上巻と、南イタリア編の同文庫下巻を合わせて邦訳されているものが75編。イタリア文学者である河島氏は、他に『みどりの小鳥』という児童書体裁で、同じく岩波書店から31編を選んでカルヴィーノ民話の本を出している。そこには文庫本と重複するものもあるので、河島訳で読めるものは合計101編となっている。

 一方、この安藤美紀夫編訳の『カナリア王子』には7編が収められていて、表題作「カナリア王子」と「とりごやの中の王子さま」「金のたまごをうむカニ」「ナシといっしょに売られた子」「サルの宮殿」の5編は河島訳もあるが、「太陽のむすめ」「リオンブルーノ」は河島訳では出版物はないようである。
 本書『カナリア王子』は児童書の文庫として出たが、以前は上製本で出されていた。
 書誌的なことばかりになってしまったが、購入の判断には必要な情報だと思われたので、整理してみた。

 こちらの訳者である安藤美紀夫氏は、どちらかというと児童文学者として創作で名が知れた人である。私が不勉強であったのかもしれないが、かつて子どもの本の仕事をしていたときは「童話作家」という認識で、カルヴィーノとは結びついていなかった。同僚が隣の席で童話作品の依頼をしていた。「イタリア文学の翻訳も手がける童話作家」と受け止めていた。
 だからというわけではないが、7編の選び方はやはり、小学生でも面白さのツボが十分に受け止められ、興味が惹かれる要素が多いものが基準になっている気がする。そして、奇妙な味のものよりは、親子やきょうだいといった家族が出てくる話、不思議さや幻想性を特徴に持つ話が中心に集められているのである。民話らしい「ぞくり」とくる要素も中には含まれているけれども……。

「カナリア王子」は、まま母によって森の城の塔に閉じ込められた姫と、姫を通りがかりに見染めた王子の話。隔たった2人を見かねた魔法使いが、魔力を持つ古本を与え、2人の仲を取り持つ。王子がカナリアに姿を変え、好きな場所に飛んで行けるようにしたのだ。しかし、姫のまま母がピンを使って悪だくみを考え、王子の身に危険が及ぶ……。

「太陽のむすめ」では、長い間子を待ち望んだ王と王女が姫を持つことになるのだが、その姫が20才で「太陽のむすめ」を生むことになると星占い師に予言され、心配になる。両親の知らないうちに姫は太陽のむすめを身ごもり、父王の怒りを恐れ、むすめを畑に置き去りにしてしまう。
 その小さな赤ん坊は、通りがかった他国の王が見つけて育てる。彼女は太陽のむすめにふさわしく不思議な力を持ち、熱や輝きに関して超人的な業を発揮する。

「リオンブルーノ」は、漁でなかなか獲物が揚げられない不幸な漁師が海の悪魔ネミーコと契約する話。これから生まれてくる子どもが13才になったとき、その子をネミーコに渡すならば、これから先ずっと網いっぱいの魚を保証するというのだ。
 その子どもがリオンブルーノという名であるが、子どもが育つにつれ辛い思いをするようになった漁師は、自らの手でネミーコに子どもを渡せない。リオンブルーノは、イタリアらしいあるものの力によってネミーコからは逃れるものの、目の前に姿を現した別のものとその場を去り、家を離れることになる。

 海上ルートでも陸上ルートでも様々な民族の通り道であったイタリア、そして、南北に長く気候も風土も異なったイタリア――正直、カルヴィーノの意図を十分に汲み取るには7編では心もとない。しかし、大作家が刺激を受けた民話のダイナミズム、精髄には7編でも十分に触れられ、大いに楽しめる。これを入口に、物語という広大な宇宙に入り込んでいけば、人生の喜びのいくつもが保証されることだろう。

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