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Mジマンキーさんのレビュー一覧

投稿者:Mジマンキー

5 件中 1 件~ 5 件を表示

紙の本シネマ坊主

2002/07/11 01:43

別に松本でなくてもいい

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

天才の名をホシイママにしている著者・松本人志ですが、本書における、つまり映画評論家としての松本は「凡人」です。そんなよく考えれば当たり前のことがクッキリしてしまうほど、本書は「ちゃんと、映画評」なのだとも言えますが、このレベルの仕事が続くと、一部で囁かれている「松本最近面白くない」という意見を増長させてしまいかねません。

松本人志の卓越したテレビ芸の一つ「お題で一言」式に表現していれば彼自身は消費されずにすみます。が、表現によって生み出されるのが本職の「笑い」ならともかく、「たいした笑いもないまま」綴られる映画評ならば、別に松本でなくてもいい。

面白さという点では、同じ門外漢映画評本でもリリー・フランキー『日本のみなさんさようなら』に軍配が上がります。リリー・フランキーの映画評にあって松本の映画評にないもの、それは「ファンタジー」だと思います。松本は決して「お笑い界のファンタジスタ」ではありません。徹底してリアルな視点が、彼のコントの可笑しさのキモになっているのです。対するリリー・フランキーは、リアルな人生にこそファンタジーがついて回ると知っています。

分かりやすい例を挙げましょう。リリー・フランキーは「優香と駆け落ちして、どこかの漁村で細々と暮らしたい」と夢みます。対する松本人志は、優香との恋人疑惑を写真誌にスッパ抜かれる。——芸能人長者番付の上位に名を連ねる松本人志は、ファンタジー抜きで幸福を得られているように見えます。

古今東西、「笑い」は弱者のものですが、お笑い、笑いという枠から外れた時の松本人志はすでに「強者の表現」をしてしまっていて、それが読者の笑いを妨げているのかもしれません。

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紙の本芸人失格

2002/07/17 22:28

「負け惜しみ」に身を窶した「勝ち誇り」

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

テレビという場がお笑い本来の「芸」を不要としている現状。

普段、何気なしにテレビを見ている人たちには何の苦にもならないことです。
現在のお笑いタレントたちはテレビのお笑いを見、売れたくて、「合格」したくて
養成所の門を叩き、素人参加オーディションのためのネタを練ります。
何の疑いもなく、「流れ」のままに。

本書では「流れ」に乗れず、「失格」のらく印を押された著者≒主人公の心情が
非常にシリアスに描かれています。しばしば「暴露本」的な扱われ方をされますが、
彼のこの告白は、決して「暴露」であってはならないと思う。テレビを見る人たち
は、本来、そのくらいの想像力を働かせなければならない。

ただ、作者は、そのような視聴者も含んだ「テレビ」に対する希望などは
捨ててしまったようです、多くの「識者」と同じように。
低俗バラエティが跋扈し、無芸が支えるテレビ界におんぶに抱っこの、
クダラナイ「芸人」は失格になったが、それよりも格上の「作家」に
合格できた、と、作者は誇っているようです、かつての相方に対して
ではないと思いますが。

「“私小説”を書き、発表できる身分」になれた作者に、かつてのファンとして
拍手を送りたいとは思いますが、「芸人」に合格することと「作家」に合格する
ことが全くの別物だとは思いません。ビートたけしは同じような状況からお笑い
の地軸をずらした。たけしほどの才能がないと悟ったからといって、何も変えず、
テレビを後ろ目に見ながら「流れ」に従う作者は本来の意味での「芸人」としても、
「作家」としても「失格」です。

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紙の本ジャニーズお笑い進化論

2002/07/11 02:27

タイトルの見た目以上に、勉強にはなる

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ジャニーズ」「お笑い」、一昔前ならともかく、今この二つのキーワードの結びつきを疑問に思う人はいないでしょう。テレビをつければ毎日、美形の青年たちが「笑い」を発しつづけています。そんな事態に対して「中居クン最高!」と無条件で受け入れる人から、「堂本剛つまんねー!」と、ジャニーズというだけで笑いの扉に鍵をかけてしまう人まで、それぞれいると思います。

本書では「お笑い」と「ジャニーズ」の単純でない結びつきが丁寧に紐解かれています。無条件で受け入れる人には「お笑い」の、アレルギー気味の人には「ジャニーズ」の、テレビを見ているだけでは分からない本質に触れることができます。

著者・西条昇は「お笑い評論家」を自称するだけあって、その知識と論理性は多くの素人お笑い評論家たちの指標となります。ただ、特にジャニーズに対する「批判精神」の欠如(回避とすら言えます)には辟易。お笑い評論界の淀川長治と呼ぶには、批判の欠如・回避を読者に忘れさせる芸がない。

無粋な肩書きにも表れている西条の「アナクロニズムが支える言説」に、読者は全幅の信頼を置くことはできません。

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いわゆる「吉本グローバリズム」への招待

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かつては底辺近くにあった「お笑いの身分」。
『花のれん』の主人公、吉本せいが、その身分向上に努めた。

そのまま成長し、本書タイトルのイメージが表すような
「一流企業」となった吉本興業が目指すのは、紛れもなく、
いい意味でも、問題視されている意味でも、
「グローバリズム」です。

芸人=商品、客=消費者と呼び換えてもギャグにすらならない
空恐ろしい現状が今まさに「お笑い界」のメジャーになっています。

別に深い意味はないのですが、笑いというのはそもそも、
どちらかというと「テロリズム」の味わいがあったはずです。
世界を変えることができる可能性を、笑いは持っていた。

本書で触れられる、吉本グローバリズムにおける「笑いの可能性」
は、人間の深いところに根ざしているがゆえ、需要が枯れることは
ない「笑い」には、まだまだ開発の余地があるのだ、ウハハ、という
意味になっちゃっています。

幸か不幸か、現在まだ芸人レベルにまで本書の「経済学」は行き渡って
いません(松本人志なんかは、体で感じ取ってるような気がしないでも
ありませんが、もう)。このような現状を破壊する「笑いのテロリスト」が、
吉本興業から出てこないとも限らない(可能性は低いですが)ことに、
希望を持つことも、できるというわけですけど…ねぇ?

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この本の「突拍子のなさ」が通用する国だから、沈没寸前なのである。

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 本書と村上龍氏のベストセラー『あの金で何が買えたか』は比較して論じられるべきであろう。そしてその時のキーワードは「パクリ」などではなく「想像力」である。「想像を越える」レベルで嵩んでいた山一證券の簿外債務に代表されるような、とてつもない額のお金の価値を「知る」ために書いたという『あの金で〜』。この本には村上氏のお家芸とも言える、既成のものを打ち破る力としての「想像力」が溢れている。

 対して本書『日本経済 これができなきゃ〜』はどうだろうか。低予算の中で、諦めずに、「ただでは起きない」の精神で仕事をしている著者が「お金」という目に見えるものに「縛られて」いる姿が目の奥に浮かんでくる。所詮「お笑い」なのだ、芥川賞の選考委員の仕事と比べられてはかなわない、と「諦める」ことは可能だ。それしか方法はないようにも思える。しかし『あの金で〜』を一貫して漂う村上氏のユーモアを感じ取るにつけ、本書が背負う「お笑い」の不可能性を悲観せざるを得ない。80年代の日本は「ホンモノ」の「ウソ」を笑った時代だった。ビートたけしはその中で確実に「何か」を破壊した。しかし、———

 「失われた10年」を経て、村上氏の言う「巨悪」はなお存在する。そして「ヒステリックに駄々をこねているだけ、という印象しかないこの国のメディアは、結果的にカタルシスだけを提供し、巨悪に対する冷静で社会科学的な追及を逆に阻害している」(『あの金で〜』)。おち氏がそのような日本の「メディア」の中で仕事をこなしている以上、氏を覆っているものを破壊し、突破することはできないだろう。そして忘れてはならないのが、彼のメディアにおける立ち位置は「お笑い」———「カタルシス」という「結果」を生み出す仕事———という、まさにその最前線なのだということである。これは「お笑い」の可能性を否定するものである。少なくとも現在の形で在り続ける限り「お笑い」に今以上の進歩・発展はない。むしろ、「知る」ことが「巨悪」に対する「力」となると考えると、「お笑い」がその力の放棄と言える「非・人間的な笑い」の生産活動となってしまった時、社会にとってそれは排除すべきものとなる。

 本書の「あとがき」でおち氏は「たぶん、今の日本に評論家は必要ない」といっている。「一億総評論家時代はもう古い、これからは一億総評論され時代だ」と。…「お父さん方」のレベルでそれは通用するかもしれないが、私は言おう、「そういう問題じゃねーんだよ」。大宅壮一の「一億総評論家」説は、今おち氏が活躍しているような地盤において「評論家」が「番組の数だけ」存在する、極言すれば「放送作家がビジネス本書いてお金儲けするようなおかしな時代」に対する危惧であったのだ。それを「古い」と言ってしまうおち氏の「センスの良さ」には恐れ入る。

 本書を読む際の注意点を一つ挙げておきたい。「芸の部分」と「地の部分」の見極めである。「芸」についておち氏の持つセオリーはさすがプロフェッショナルで、尊敬に値する。その「芸」の部分を真面目に解釈すると「そんなことはできるはずがない、不真面目な!」というナンセンスに陥ってしまう。もっとも、そんな頭の固いお父さん方はもうリストラされて、ビジネス書を買って読むという生活動線から解放されているだろうが。

 具体的に言うと、彼が「あとがき」で「アフリカのある種族の人たちには…」といった時、それは「お笑い」の一つの鋳型であるので、我々は「ねーよ、そんな種族!(笑)」と突っ込み、笑う。それが「芸」の見極めである。

(全文→http://members.tripod.co.jp/Mshuu/chinbotsu.html)

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