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  3. 濱本 昇さんのレビュー一覧

濱本 昇さんのレビュー一覧

投稿者:濱本 昇

219 件中 31 件~ 45 件を表示

総合力の大切さ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、今東京国立博物館で開催されている「ダ・ヴィンチ展」で購入した。ひょっとしたら、この展覧会を記念して書かれたものであるかも知れない。ダ・ヴィンチの生い立ちから、彼の中に見る天才性、そして天才論へと展開していく。ダ・ヴィンチは、所謂、教育と言うものを受けて居なかったらしい。普通の教育を受けていたら、あのダ・ヴィンチは無かったであろうとも述べている。20世紀の天才であるアインシュタインも教育は受けているものの学校の成績は泣かず飛ばずだったらしい。所謂、学校教育の秀才という人物からは、天才は出ないのかも知れない。
本書では、天才への秘訣と言うか、仕事への取り組み方と言っても良い素晴らしい解説があった。それは、「大事なことは、「総合的な知性」をたくわえたうえで、ある特定の分野に集中することです。」の一文である。この「総合的な知性」を一般人は、バカにする。必要なる知識を習得する事には熱心になるが、一端、必要性から逸れれば、全く関心を示さないのである。資格とか取るのに熱中する姿勢を見ても、それは良く分かる。湯川秀樹は、理論物理学者であるけれども、中学生の頃、漢文に熱中したそうである。その東洋思想がπ中間子という誰も思いつかなかった力の発見という事にたどり着いたというのは容易に想像出来る。これは、仕事にも通じる。芸術鑑賞のように一見、仕事に全く関係ないと思われる事が「総合的な知性」に繋がるのである。
もう一つ面白い文章があった。「「見る」ことは、自分の心のようすを、自ら外に立ったかのように眺めるという、不可思議で未解明な意識の働きによって成り立っているのです。」これは、心の状態に拠って、見える世界が違ってくる事を我々は良く経験する。この事を述べているのである。幸せとは、外からやってくるものでは無くて、心の状態が幸せだから、出来事を全てメジャーに捕らえる事が出来て、一層の幸福感に浸れるのである。
著者の茂木健一郎は、今、NHKの「プロフェッショナル」の司会をしている脳学者である。そのソフトな話し振りと同様、著書も非常に分かり易く、快適なテンポで読めた。また、別の著作を読みたいと思った次第である。

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思想家岡本太郎

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私が岡本太郎の何たるかを知ったのは、近年になってからである。昔から名前は、知っていた。しかし、その信念と行動力を知ったのは、近年になってからなのである。本書も、岡本太郎を知る上で、貴重な資料だが、益々、彼を好きになった。
本書は、岡本太郎の言葉に、養女の岡本敏子が、解説を加えた形で構成されている。岡本太郎の何たるか?を忠実に再現しているのである。岡本太郎の生命への尊厳、権力に対する反骨精神、自由の尊重、本当の意味で生きるという事、それらの思想が本書に凝縮されている。
 男と女は、違う生き物。男女同権では無く、男女一体だと言いたい。うわべだけの男女平等主義者とは違い。男女の違いの本質を見抜き、どちらか一方が欠けても完全では無いという自然の秩序を理解した発言であると思う。
 「孤独に生きる、というのは人間全体として生きることなんだ」分かっていない人は、孤独を忌み嫌う。しかし、人間本来の姿は、孤独であるのだ。いや、孤独で有らねばならないと言っている。私も、正しく同感である。自分がやると言った時に、引いていく廻りの態度。行動を起こせば、日本の社会では、孤独になる。しかし、あえて、孤独を望む姿勢こそ、本来有るべき姿なのである。
 「現在にないものは永久にない。逆に言えば、将来あるものならば必ず現在ある」普通の人は、「そのうちに」とお茶を濁す。しかし、それが愚の骨頂であると言う事を太郎は、端的に指摘する。その通りだと思う。
「誤解される人の姿は美しい」人は、誤解を恐れる。そうでは無いと弁解する。しかし、誤解の中にこそ、強く、真実な自分の姿を認識しなければならないと説く。私も他者からは、誤解されていると思う。親兄弟のような身近な人も私を理解していないと思う。私を本当に理解しているのは、世の中で、唯一人だと思っている。
 太郎の言葉は、いずれも気持ちいい響きを持っている。これは、太郎の言葉が、真実を語っているからだと思う。普遍性を持った真実の言葉は、響きも意味も美しいものである。

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紙の本聞き書きダライ・ラマの言葉

2006/12/01 02:40

世界的精神指導者

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 チベット仏教の指導者であるダライ・ラマの影響力と同じ力をもった人物は世界中でカトリック教皇ぐらいであると本書で紹介されている。チベット仏教と言えば、チベットに限られた宗教であると考えがちだが、その影響力は、インド、ロシア、中央アジア諸国、そして世界中へ影響しているのである。本書は、著者のダライ・ラマ14世との交流において、印象に残った事象を纏めたものである。
 1989年ダライ・ラマは、ノーベル平和賞を受賞した。この受賞理由を私は知らなかったが、ガンジーの非暴力・不服従を実践しているという事に対する受賞であると言う事だった。私が、ダライ・ラマの存在を知ったのも、この時だった。
 ダライ・ラマは、「人生の意味と目的」を次のように考えている。「人間の可能性を信じること」「相互依存性を信じること」「人間の内面性を重視すること」。この「人生の意味と目的」を長々と説明している。私も同じ事に疑問を持ち、36歳の夏に結論を得た。それは、「感謝の心」である。私は、一言で言える言葉に真理は宿っていると思っている。その意味から言えば、ダライ・ラマの説明より私の結論の方が優れているのでは無いかと思う。
 次にダライ・ラマは、「死」について語っている。「死は人生の現実」。「死」を考えて生きると言う事は、「生」と真剣に対峙している事と理解しているが、ダライ・ラマも同じように考えているのであると思う。ダライ・ラマは、「死」について、チベット仏教に置ける「死観」を解説しない。自分が経験していないことを真実として話せないのであろう。私は、この姿勢は正しいと思う。
 「21世紀は、「いかに食べるか」ではなく「いかに生きるか」を問う世紀である。」私も、そう思う。「いかに食べるか」=物質文明至上主義、「いかに生きるか」=精神文明至上主義であると考える。「足るを知る」と言ってもよい。本当の幸福感は、後者が実践出来て初めて得られるものであると思う。
 ヨーロッパ文明=科学至上主義、アジア文明=精神至上主義。これらどちらが優れているという論議よりも、その融合が大切だとダライ・ラマは言う。私は、日本と言うアジアの片隅に生まれ、アジア文明でアジアの考え方を理解出来る。教育は、理系で科学教育を受けてきたので、ヨーロッパ文明も理解出来る。私は、ダライ・ラマの言う両者の融合が実践出来ているという自負が有る。
 ダライ・ラマは、今、チベットを追われ、インドのダラムサラに亡命している。亡命の理由は、複雑な中国とチベットの関係が有るのだが、世界中の人々の精神面に影響を与えているのは事実で有ると思う。ダライ・ラマが生を終えるまでにチベットに帰る事が出来るか否かは、疑問であるが、ダライ・ラマの居場所に相応しいチベットに帰れる日を願っている私を本書を読み終えて感じた。

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本書は、科学的か否か?

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 飛行機は、何故飛ぶのか、本当の理論は、分かっていないと、最先端技術を大上段に切り捨てる事から書き始められる本書は、「全ての事象は、仮説にすぎない」という結論へと理論展開される。理路整然と説明出来るものが科学と言う思い込みは、全くの間違いである。また、科学以外の一般常識に至っても、それは仮説に過ぎない。仮説には、「白い仮説」(一般に常識と言われる仮説)と「黒い仮説」(一般に間違っていると考えられる仮説)、そして「グレーゾーンの仮説」(良く分かっていない仮説)とが有り、それを認識する柔軟な頭脳を持ってこそ、本当の世の中が理解出来ると解説する。この考えは、すなわち、「客観から主観へ」という意味である。客観とは、世間の誰もが白いと認める仮説に従うということ。主観とは、世間とは関係無しに自分だけが白だと考える仮説に従うということ。私は、常日頃、誰々の発言だから正しいという姿勢で無く、私が正しいと思うから正しいという姿勢で、仕事でも生活でも対応している。すなわち、私自身は、著者の言う「客観から主観へ」を実践しているという自負が有る。従って、本書の内容は、良く理解出来たし、楽しんで、あっと言う間に読み終えてしまった。
 「共訳不可能性」という話も記載されていた。すなわち、同じ言葉を話していても、各人のバックボーン相違の為に、お互いが同じ意味に理解して会話していない為に誤解を生じると言う事である。全てが仮設という事は、自分の立場でものを考えるので無く、相手の立場でも物を考える事の必要性を説く。即ち、これが実現出来れば、「共訳不可能性」は回避出来るのである。
 本書は、科学的な事象を多く取り上げていた。その中の一つに冥王星が惑星で無くなる時が来るというものである。惑星の定義からすれば、冥王星は、その他多くの小惑星にすぎぬというのである。これは、つい最近になって、国際学会で特異な小惑星という事に落ち着いて、本書の予言が的中したという事である。このように、科学が進めば、「仮説」は進化し、変動するものなのである。この世は、映画「マトリックス」の如く誰かのバーチャル世界であるという仮説も成り立つ。これを完全に否定出来る人は居ないし、その方法も分からないのである。
 全ては、仮説。こう考えると、楽に生きていけそうな気がする。最後に著者は読者に「「すべては仮説に始まり、仮説に終わる」という私の科学的な主張は、はたして反証可能でしょうか?」と問い掛けて、論を閉じている。この私の答えは、科学であるなら反証可能と著者の論を引用して答えたいと思う。
 「全ては、仮説」と考えると、世の中の見え方が、変わってくる気がする。

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紙の本ユートピア

2006/02/26 03:45

ユートピア=貨幣の無い社会

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ユートピア、理想郷。私は、私の考えるユートピアがあった。その件で、インターネットを通して議論した事もある。トマス・モアの考えるユートピアの中にその理想郷は、有った。
 私の考えるユートピア、それは、「お金の無い社会」である。つまり、自分の能力と希望に合った職業に就く事は可能だが、その報酬は、0.しかし、衣食住は保障され、適度な休日と、希望する趣味の世界が実現出来る。つまり、これである。私は、カード等キャシュレス時代の黎明期の現在が、正しく、このユートピアの黎明期であると思うのである。しかし、このユートピアには、前提条件が有る。即ち、人間性善説である。他者との報酬の区別無くとも、自己実現の為の職業に専心出来る。自分の能力を挙げて、自分の就いた職業に邁進出来るという姿勢である。本書に描かれたユートピアの住民は、それが出来ている。
 本書は、二部構成で、第二部において、旅行者が訪れたユートピアの話しを語り伝えるという形式で綴られている。ユートピアについては、「法律制度」「都市」「役人」「知識、技術、職業」「生活と交際」「旅行」「奴隷、病人、結婚」「戦争」「宗教」について、具体的に記載されている。
私の考えるユートピアと関連性がある記述は、最後に記載されている。「詐欺、窃盗、強盗、口論、喧嘩、激論、軋轢、譴責、抗争、殺人、毒殺、こういったものは、日毎に処罰しても復讐を企てこそすれ、決して防ぐことの出来ないものであるが、それこそ貨幣が死滅すればそれと同時に死滅するところのものである。」「貧乏ということ自体が、要するに貨幣をもたないことにすぎないように思われるが、これも貨幣がなくなるならば、次第に消えてなくなっていくだろう。」すなわち、こういう理想社会を、マルクスは、求めたのであろう。「何ものも私有でないこの国では、公共の利益が熱心に追求されるのである。」と本書に記載がある。20世紀の壮大な失敗に終わった大実験であるところのソビエト連邦の成立と崩壊は、この理想郷の実現の難しさを示していると思う。
 本書の最後にも、聞き手の感想として、「たとえユートピア共和国にあるものであっても、これをわれわれの国に移すとなると、ただ望むべくして期待出来ないものが沢山あることを、ここにはっきりと告白しておかなければならない。」として「ユートピア」という著を書き終えている。つまり、トマス・モア自身が、この理想郷を現実の国として実現出来る事は究極の困難が伴う事を理解しているのである。
 本書は、私の考えを具現化した国家の様子を伝えてくれ、私の理想郷が、私だけの考えで無く、トマス・モアという知識人の中で既に具現化されていた事を知らされ、私の考えの正当性を改めて実感しながら読み終えた、楽しい読書であった。

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紙の本インカ帝国 砂漠と高山の文明

2004/11/14 10:59

フォロクローレの流れる国

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インカ帝国と言って私が思い浮かべるのは、その民族音楽であるフォロクローレである。その郷愁に満ちたケーナの音、リズミカルなチャランゴの音は何故かくも私の心を揺さぶるのであろう。その答えを求めて本書を手にした。インカは、謎の帝国である。何故なら文字が無かったためその記録が残っていないからである。そういう困難を克服して本書はインカ帝国が成立し、スペインのピサロに滅亡させられるまでBC8000〜AD1532までを見事に再現する。インカ帝国の成立には、旧大陸と同じような歴史を経ているのである。歴史的記述はさておき、私が興味を持ったもは、インカの人々の生活である。ほとんどの人は農民。毎日、同じ事を繰り返し、年に何回かの祭りに楽しみを求める。こういう生活の中にフォロクロローレ生まれたのであろう。ピサロによる虐殺の描写はあまりに残酷であった。何千年かけて築き上げた南米の歴史的遺産をわずか数年で消滅させてしまう。この人間の悪魔性に改めて驚くのである。
南米、ペルー、ボリビアという未知の国。いつかは訪れ、生のフォロクローレを聞きながらインカの歴史に思いを馳せてみたい。

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本当の意味の戦争責任

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ドイツは、ちゃんと戦争責任を取り、戦後処理もきちんとやっているのに日本は、全くなってない」というのが一般的な見方であり、私もそう思うところがあった。しかし、事実は、そうとは言い切れないという事が本書を読んで理解出来た。
ドイツ人は、ナチスというスケープゴードを巧みに用い、戦争責任を全てナチスに押し付け、国防軍の犯罪については、そちらを省みなかったのである。戦争責任についても、A級:平和に対する罪、B級:通例の戦争犯罪については、国民は意識もせず、C級:人道に対する罪でナチスのユダヤ迫害についてのみ言及しているのである。
こういう状況にも関わらず、日本とドイツの戦争責任に対する対処の仕方の国際評価はドイツの方が断然高い。何故だろうと考える。本書には書いていないが、それは、欧米人と東洋人の性格の違いによるのではないかと思う。欧米人は、物事の白黒をはっきりとつけるのに対し、東洋人は曖昧にする面がある。自分が悪いと思っても、欧米人は、はっきりと自分の非を否定する。東洋人は自分に非がある場合、はっきりと非を否定出来ない。本書でいろいろ解説していたが、本質はここにあると思う。従軍慰安婦問題にしても、この問題を最初に取り上げたのは、被害を受けた韓国人でなく、日本人からだそうである。日本人から問題を大きくしなかったら当時の韓国大統領は、処置済みの問題として見過ごすつもりだったらしい。ドイツにおいても同様な犯罪を犯していたが、これを正面きって取り上げるドイツ人は皆無だったそうである。
侵略戦争に絡む数々の犯罪を正当化する事は出来ない。ドイツのようにナチスをスケープゴードにしてドイツ自身を正当化するのも間違っているであろう。しかし、戦争自体が犯罪的行為であり、それに伴う行為の責任は、ある一線を引かねばならないと思う。日本の在る一線とは、サンフランシスコ講和条約だと思う。政治的責任は、これで完結しているのである。人道的責任は、難しい面も残るが、戦争という非人道的状態も考慮されなければならないと思う。そこを自虐的に責める事は、周辺諸国に対して卑屈になるという事ではないだろうか?

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紙の本幸福論

2008/05/14 22:01

幸福論(実践編)

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私は、世に有る「幸福論」ヒルティ、アラン、ラッセルを読んだ事が有る。それぞれに、納得出来る内容が叙述されていたが、本ダライ・ラマの「幸福論」を読み終えた今、これらは、「幸福論(理論編)」と呼べると感じている。これに対し、本書は、「幸福論(実践編)」と言えるのでは無いだろうか?前者は、幸福の定義の理論展開が中心であったが、本書は、幸福を感じる為に何を為すべきか?が論理の中心であった。著者は、この問いに対し、ごく単純なる答えを用意していた。それは、「人の為に生きよ」である。これを実践するだけで、幸福は自分のものになると訴える。私は、ここで引っ掛るものが有った。「人の為に生きる」とは、この事に気持ち良さを感じる事であり、すなわち、「人の為に生きる事は、自分を気持ち良くする」が、本当の姿なのでは無いか?と思う。これは、決して利己的な表現では無く、「人は自分の為に生きてこそ幸福である」という自論に基づく反論である。私の反論が、ダライ・ラマの主張に対して、どれだけ効果有る反論になっているかは不明だが、私の思っている「幸福論」とは、こういう事だ。更に言えば、「自分の深層心理を直接表現出来ること」。これが、幸福の条件だと思っている。
本書に戻ると、ダライ・ラマは、チベット仏教の教祖であるから、仏教的思想の展開の元に「幸福論」を展開していると思われるかも知れないが、仏教の僧侶を離れたというよりは、宗教家の立場を離れて論理展開をしていたと私は読んだ。ごく、普通の感情からの幸福、冥想や修行を離れた一般的生活の中の幸福論を展開していた。
本書の最後に、ダライ・ラマが、こういう人間になりたいという印象的な散文詩で結ばれているので、それを紹介して、感想としたい。

こういうものになれますように、今も、これからもずっと
保護をもたない人の保護役に
道を迷った人の案内役に
海を渡る人の船に
川を渡る人の橋に
危機に瀕している人の避難所に
明かりを持たない人の松明に
逃げ場を持たない人の隠れ家に
そして、困っているすべての人のしもべに

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崇高なる良書

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、ダライ・ラマ自身が、北米の大学、世界教会、仏教センター等で講演した言葉を纏めた講演集である。欧米人は、東洋人に比べて、直接的で具体的な説明でないと納得しない。ダライ・ラマは、この特性を良く理解して、難解な仏教を分かり易く、具体的に説明している。チベット仏教が、あらゆる仏教を集大成したものであるという事も、彼からの言葉であるからと言うのでは無く、意味を持って語られていた。
本書を読んで、仏教とは「慈悲」の心、他人を理解しようとする姿勢が教えの中心であることを学んだ。多く語りたい事は、ある。しかし、この書評を読んでいる人には、是非、本書を手にとって欲しいという感想に代える。私のような者の言葉で、高尚な本書を汚すには、おこがましいと思ったからである。
世界平和の実現とチベットの自由な解放を願って、本書のIMPRESSIONとしたい。

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紙の本「いい人」が損をしない人生術

2006/12/26 01:45

「孤独を知ってこそ、人の情けのありがたさを知るのです」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 斉藤茂太氏の著作は、PHP文庫で10冊以上読んだ。人生君、恋愛論、旅、酒、人付き合い諸々の事項での人生の達人振りを遺憾なく感じてしまうのである。本書は、その集大成とも言える本であると思う。「いい人」が損をしない人生術。正しく、私の為に書かれた書のような気がしてならない。本当の意味で世渡りの上手い人と言うのは、常に相手を持ち上げる事と私は読んだ。この持ち上げるという意味が難しいと思う。本気で、相手から吸収するものを探すように接するのである。そして、何も吸収するものが無くても、それで当たり前という考えを持つのである。決して、自分を相手より卑下した姿勢では、こんな芸当は出来ないであろう。外には出さなくても、自分に自信を持ち、常に相手を持ち上げて、自由に語らせる。その上で、自分の考えと相手の考えを吟味し、受け入れるべきは受け入れ、反発すべきは、反発する。但し、一旦は、相手の立場を尊重する姿勢が大切である。
 新しい知識も得た。相撲の手刀は、造化の三神(天地開闢のおり、万物を創造した天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)に感謝を表す動作であるということ。
 アメリカのジェームスとランゲという学者は、「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言ったという。これを応用すれば、「人は、楽しいから笑うのでなく、笑うから楽しいのだ」という事になる。笑顔を作るのに、何もお金は掛からないし、苦労も要らない。どうせ、同じ人生なら笑顔を振り撒いて生きたいものである。
「孤独を知ってこそ、人の情けのありがたさを知るのです」奥の深い言葉である。
 本書を読み終えて、私の人生、生き方が間違っていない事を改めて認識出来た。是非、斉藤茂太氏に会ってみたいものだと痛感している。

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紙の本孤独を生ききる

2006/12/24 10:10

人生とは「孤独」と悟ること

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人間、生まれるも一人、死ぬのも一人、元来孤独な動物である。それを癒す為に恋愛をし、結婚をし、家庭を設ける。しかし、結局は、一人なのである。だったら、人間孤独である事を自覚し、その覚悟で生きていく方が建設的な生き方である。私は、生涯独身を決めた。家庭も子供も持たない。平日に会社に出ている時は、仕事仲間に囲まれ、仕事に追われ、孤独を感じる余裕は無い。だが、時には、自分の仕事の姿勢が受け入れられなくて孤独を感じる時もある。休日は、いつも一人である。ほとんど会話の無い休日も有る。定年退職後の生活は、こういうものかと思うと寂しくなる時もある。旅に出るのも一人だ。だが、孤独を積極的に受け入れると、これほど良いものは無い。何が良いか、それは、「自由」が有るという事である。子供を持ち、家庭を持って孤独を避けるという事は、それだけ「自由」を削る事である。
 人間、本当に孤独を忘れる瞬間がある。それは、セックスにおけるエクスタシーの瞬間だ。この瞬間こそが、全く孤独の悪魔から解放された瞬間である。人間誰でも、この瞬間の快楽を追求する。しかし、これは、正に瞬間であり、また、飽きという悪魔も垣間見る事が出来る。
 本書では、結婚しても孤独、離婚しても孤独、愛人が居ても孤独、死に別れても孤独、生別でも孤独、兎に角、人間、孤独の悪魔からから逃れる事は出来ないという主張を展開している。特に、「老い」に対する孤独は、大きな問題として挙げている。この悪魔から逃れるには、「孤独」を避けるのでは無く、積極的に取り込んだ生しか無いと私は思った。
 私の人生は「孤独」である。しかし、「自由」である。人間、一人で生まれ、一人で死ぬ事を考えると、それで良いのだと思う。これからも、肩を張った生き方で無く、いつまでも、孤独で生きていきたい。

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紙の本井上靖全集 第17巻

2006/11/15 02:24

生きるという事を鋭く描いた名作-化石-

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 一鬼太冶平は、中堅建設会社の社長を務める平凡な人間であった。妻に先立たれ、二人の娘は結婚し、孫が一人居る。ヨーロッパ旅行中に体調を崩し、医者に診てもらう事になる。そこで、彼は、衝撃的な事実を知る。自分の十二指腸の特異な場所に悪性の腫瘍が巣づくっているのである。それもその特異性から手術も不可能な場所にで有る。医者は、診断書を持たせ、即刻の帰国を彼に伝える。此れにより、彼の人生は一変するのである。「死」という者が、突然に目の前に着き付けられたのである。彼は、「死」という同伴者と会話を始める。「死」という同伴者との会話は、執拗で、意地悪い。彼は、「死」という同伴者との会話の中で、遂に死を決意し、帰国の飛行機の中で、医者から貰った診断書を破ってしまう。この事実は、誰に話しても運命を変えようが無い。この事実は、自分の胸の中だけに納めておこう。彼は、悩む。後一年の命。残された一年をどう生きよう。彼は、須波という友人が、癌に犯され入院している見舞いに行った。須波は、彼に素直に言う。私は、余命幾許も無い。今私がしたいのは、禅である。彼は、思った。須波は立派である。自分の病気を受け入れ、素直な気持ちで「死」を待っている。その点、自分はどうだ。このあたふたした気持ち。しかし、彼は、有る面、須波は敗者のようにも見えた。彼は、今までの人生を悔いる。自分は、本当の意味で生きてきたのであろうか?何もかもが中と半端じゃ無かったか?一年後に死を着き付けられた彼は、残された人生は、本当の意味で行きようと決意する。しかし、何をやれば良いのか?子供と老人の為の公園を作ろう。建設会社の社長と言う地位を最大限利用して精一杯やって見よう。しかし、そうこうしている内に会社の危機が訪れる。不正と借金で倒産が危なくなったのである。会社の危機を押しつけられた時、彼は、会社に命を掛けようと思った。死んででも会社を残したいと思った。彼は、人生の中で会社人間だと思って来た。しかし、余命一年が着き付けられた時、本当にそうだったか?と自分に問うと、適当にやっていたという返事しか返って来ない。しかし、会社の危機の今は、本当に会社に命を掛けようと思った。会社の危機は去る。彼は、貧血で倒れ、入院する事になる。そこで、彼の病状が医者に知れる事になる。彼は、遂に死が訪れたか?と諦める。しかし、医者は、出来る限りの事はすると彼に約束する。徹底的な検査が行なわれ、幸運にも手術が可能であるという事が分かる。手術。そして成功。一年後に着き付けられた死は、去ったのである。「死」という同伴者は去り、「生」という同伴者が訪れる。しかし、「生」という同伴者は、「死」という同伴者のように気の効いた事は言わない。突然着き付けられた「生きれる」という事実。彼は戸惑う。これから如何に生きれば良いのか?彼は、かつて須波が言った事を思い出す。「いつも身辺が清潔なある生き方をしたいですね。他人のことを、もっと考える生き方をしたいですね。ひとを押しのけて、自分がのしあがろうするのは厭ですね。金、金、金と、金を追いかけるのも厭ですね。少しでも、えらくなろうと、あくせくするのも厭ですね。鳥の声を聞いて、ああ、鳥が鳴いていると思い、花が咲いているのを見て、ああ、花が咲いていると思う。そんな生き方がいいですね。」「死」を垣間見た一鬼のこれからの人生は、今までとは違ったものになるであろうが、どのように違うかは、一鬼には、まだ分からなかったのである。
 読み終えた感想は、面白く、興味有る内容であったという事である。人は、必ず死ぬ。但し、その時期を知らないだけである。「死」と向き合って生きる事は、真剣に生きる事と向き合って生きる事である。私は、この事を身体で理解出来ている。だからこそ、毎日が充実し、生き甲斐を感じ、幸福感を得られているのである。

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紙の本仏教 下 第2部;教理

2006/10/25 05:43

インド仏教原典を読む

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 本書は、上巻の「仏陀」その人の解説に続いて、仏教の教理について述べられた書である。西欧人の記述であるから、当然、キリスト教との比較宗教論になっているが、インド仏教原典に触れる機会の少ない我々日本人には、それを知る上で格好の入門書になっていると思う。
 仏教の教理として著者は、5段階に分類している。予備的段階では、信仰、第一段階では、戒律、第二段階では、瞑想、第三段階では、英知、第四段階では、解脱としている。仏教の原点を「ヨーガ」であるとし、多くのページを割いて解説している。
 第一段階:戒律では、「モーゼの十戒」に似た戒律を述べている。「生命を傷つけるな」「盗むな」「純潔」である。
 仏教で考える神々には、人間と同じような寿命があると考える。輪廻から完全に抜け出して解脱するためには、どうしても人間に生まれ変わらなければならないと考える。
 キリスト教では、「贖罪」という概念を問題とするが、仏教においては、「迷妄」又は「無知」を問題とする。仏教用語では、「無明」である。「無明」から「煩悩」が生まれ「苦」に繋がると考えるのである。従って、「苦」から逃れる手段は、「英知」による「明」のみであり、それに拠ってのみ、「解脱」又は「涅槃」に至る事が出来るのである。
 神々さえも解脱への認識を見出す為には、人間として生まれねばならない。「苦悩」から「信仰」が、「信仰」から「歓喜」が、「歓喜」から「喜悦」が、「喜悦」から「心の平安」が、「心の平安」から「安楽」が、「安楽」から「精神集中」が、「精神集中」から「真実なる洞察的認識」が生じる。そして、そこから更に、俗世のものの疎外、欲情の放棄、ついには、解脱と解脱の自覚が生じると仏教では、教えるのである。
本書は、日本人では、中村元氏の仏教原典の訳と同じ仕事として西欧で為された仏教原典の西欧への解説書である。中村元氏の訳本も多く読んでいる私に取っては、興味深く読めた書である。

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紙の本人権宣言集

2006/09/01 01:21

人類の高らかなる勝利

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 「人権」=「自由」この天賦の権利の獲得の為に、人類は、権力と戦ってきた。そして、人類史上初めてイギリスに登場した人権宣言が「マグナ・カルタ」である。これは、1215年のことである。市民革命の起こる17世紀より400年も前に成立していることは、驚きに値する。市民革命の時代になると各国で人権宣言が行なわれる。イギリスの「権利請願」「権利章典」、アメリカの「独立宣言」、フランスの「人および市民の権利宣言」と次々に成立していく。
 そして20世紀。今までの社会システムと異なる国家が誕生する。ソビエト連邦に代表される社会主義国家である。社会主義国家の経済システムの良し悪しは、ともかく、社会主義国家は、「人権」に対する認識が薄いと言われた。その原因が憲法にあるのか?運用に有るのか?そこを自分なりに理解するのも本書を手にした大きな理由である。その結果、憲法に問題が有ったという認識に至った。第二次世界大戦後に成立したドイツ民主共和国憲法にその問題点は見出せた。第九条:すべての市民は、すべての者に適用される法律の制限内において、その意見を自由に、かつ公然と発表し、云々。即ち、時の権力者に拠って制定される法律の範囲内で言論の自由が保証されている。この憲法内容では、時の権力者の裁量によって、言論の自由が保証されているだけであって、これでは、自由は無い。我が国の明治憲法:大日本帝国憲法も多くの条項で法律に定めるとあった。すなわち、時の権力者に自由に扱われる憲法であったのである。これが、日本が泥沼の16年戦争に突入せしめた大きな理由であったのではないかと思う。
 1948年、国際連合において、「世界人権宣言」が成立した。この内容は、どのような解釈にも耐え得る素晴らしい宣言であると思った。13世紀にマグナ・カルタが宣言されてから733年、遂に人類は、普遍的に通用する人権宣言を手にしたのである。
 人類の歴史は、権力から「人権」を勝ち取る為の歴史であったと一面では言えると思う。21世紀の現在、世界中において、本当に人権が高らかに謳歌されているかと問われれば、疑問を持つ人も多いと思う。世界人権宣言が採択されて58年、何が問題であるのか?各人に付きつけられた疑問であると思った。

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紙の本生かされて、生きる

2006/08/31 01:20

芸術家の共通性

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 私は、絵を見る事が好きだ。勿論、著者の作品も見に行った事がある。そして好きな絵の一つである。岡本太郎の作品は、著者と対極にある作品だと思う。しかし、両方共に好きなのである。岡本の著作「自分の中に毒を持て」と本書を比較して芸術表現の両極の関係にある両者が、実は内面においては似ているだと感じた。一流の芸術家に全て共通の性質かも知れない。芸術は、技術では無い。自らの内面からほとばしるものをキャンバスに叩きつけるような心境で絵を書かないと絵が痩せて見える。そういう意味で、作品は、作者の内面の吐露なのである。
 平山郁夫は、中学生の時に広島で被爆し、地獄を目にしている。その時の学友、市民の地獄死を垣間見て、本書の題名「生かされて生きる」という言葉が出て来ているのである。平山は、玄奘三蔵を尊敬し、その足跡をなどるようにシルクロードに80回以上旅している。アトリエで砂漠を描く事は出来るが、現場に行かなければ本質は描けないという信念からである。現場に行き、その空気を感じ、音、臭い、五感が感じる事全てが作品に繋がると言うのである。これは、私が山の写真を見て美しいと感じるのと、実際に苦労して山へ出かけ、その場で山の良さを感じるのと似ていると思う。
 平山郁夫は、私の故郷、因島の隣の島、生口島が故郷である。故郷を瀬戸内という穏やかな海を共有していることに、嬉しさと誇らしさを感じた次第である。

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