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読ん太さんのレビュー一覧

投稿者:読ん太

238 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本

紙の本わたしのろばベンジャミン

2002/04/18 22:35

絵本であり写真集でもあるけれど、中途半端ではない

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 写真絵本。
 最初のページを開くと、『こんにちは。わたしのなまえは、スザンヌです。でも、まだちいさいので、みんなは、わたしのことをスージーといいます』の文とともに、丸々と太った愛嬌のある女の子が、右手をオーバーオールのポケットにキュッとつっこみ、左手は「ハ〜イ!」という風に高々とあげている写真が飛び込んでくる。顔も丸いし、手も丸い、丸々した足には丸くてかわいらしい靴をはいている。思わず、「おっ、なんだよ、おまえ」と笑いながら写真に話しかけてしまう。
 さらにページをめくると、スージーが、友達のろばのベンジャミンと並んで写った写真。自分の背丈ほどのろばの横に、スージーが寄り添っている。『わたしは、ベンを うちへつれてきたひのことを、よく おぼえています。それは、こんなふうでした −−−−』で、そのページの文が終わると、もうすでにスージーとベンの出会いの物語を聞く気満々の私が出来上がっていた。

 ベンがスージーの家にやってくることになった経緯や、家でのスージーとベンの様子、またある日に起こった小さな事件などが綴られていく。スージの表情の豊かさとベンの濡れたように真っ黒で愛らしい瞳がたまらなくかわいらしい。

 この絵本は、30年以上も前に出版されたそうだ。古いものであるというのは、写真の様子からも察せられる。写真はすべて白黒で、やや不鮮明な感じで、見るとすぐに大分昔の写真だなとわかる。しかし、このややセピアがかった写真が良いとも、不鮮明さが悪いとも思わない。ただただ、この物語には、この写真がぴったりだと感じるだけだ。

 『わたしたちが すんでいるむらは、ちちゅうかいの しまにあります』と、スージーが説明するように、スージーとベンがお散歩する先には海が広がり、ギリシャ風の真っ白でマッチ箱のように真四角な家が並んでいる。石で作ったアーチの下、石畳が敷き詰められた道の上を、クマのぬいぐるみをかかえたスージーと、ろばのベンジャミンが通る。スージーの家に入ってみると、こちらも床にはぎっしりと石が敷かれている。
 物語を読み終わってからも、今度は写真集を眺めるようにあちこちのページをパラパラとめくってみた。写真だけをじっと楽しんでいるつもりでも、自然に物語が乗っかってくるので楽しくて仕方がなかった。

 絵本や写真集などを、たまに手に取って楽しむスローな生活をしていきたいな。『わたしのろばベンジャミン』を読んで、このことを強く思った。
 そんなわけで、スージー、時々会いに行くからね。ベンの世話を頼むよ。

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紙の本

紙の本読書からはじまる

2002/03/17 10:44

本というメディアを考えてみよう

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 読んだ後に、何とも言えず幸せな気持ちになれる本だった。

 本が好きで、明けても暮れても本を読んでいる私だが、時々、「いったい何のために?」という漠然とした虚脱感に襲われる。記憶力がいいわけでもないので、読んだ端から忘れてしまう。「徒労」という二文字が悲しく頭をよぎっていく。
 長田さんは、『読んだら忘れてしまえるというのが、本のもっているもっとも優れたちからです。(中略)再読できるというのが、本のもっているちからです。』と、言う。えっ、そうなの?と、自分の顔がやや明るくなった。が、どうせ忘れてしまうのになぜ読むのだろう? 長田さんは言う、『もう一つの時間への入口を気づかせるということが、そもそも本のいちばん大事な仕事だからです。こちら側だけの考えでは計れないものが、そこにあるということを思いおこさせるのが、本のひそめているちからです。』。すなわち、本は記憶の目安を提示してくれるもの、そして、この記憶の目安を与えてもらうことによって、自分にとってのとりかえのきかない記憶が引きだされ、引きだされた確かな記憶によって自らの日々に必要な物語がつくられる。自分の人生を歩めるというわけだ。
 本はこのように読みなさい、とか、名作を読みなさいという類の事を、長田さんは一切言わない。ソフトウェアとしての本について良悪は言わない代わりに、唯一、ハードウェアとしての椅子、読書のための椅子については多くの紙面を割いている。『本を一冊読もうと思ったら、その本をどの椅子で読もうかと考えられるなら、いい時間をきっと手に入れられるだろうと思うのです。「その椅子でその本をぜんぶ読める」ような椅子を見つけられるかどうかで、人生の時間の景色は違ってきます。』と長田さんは言う。私もこの意見には大賛成で、すでに実行に移してもいる。数年前に清水の舞台から飛び降りたつもりで一人用ソファを購入した。何しろ、家中の家具の中で一番高価であり、身の丈以上の買い物であった。しかし、このソファは何時間座っていても疲れない。興に乗ったなら、飲まず食わずで一気に読んだとしても、体のどこも痛くもならない。読んでいる内に眠くなったなら、ピヨッと足をだして体を横たえることも出来る。この椅子によって、私の人生の時間の景色は違ってきたのだ。長田さんの言う、『自分にとって本を読みたくなるような生活を、自分からたくらんでゆくこと』が非常に大切なことを実感している。
 子どもの本についても長田さんは熱く語ってくれる。長田さんの言葉によって、私は、子どもの本に対する自分のスタンスの取り方への戸惑いを拭い去ってもらえた。私は今まで、絵本や童話といった、子どもの本を読む場合、子どもになったつもりで読むのがいいのか、子どもに与えるならを頭に置いて読めばいいのか、などとくだくだ考えていた。しかし、長田さんは、『自分がこの本を読んでおもしろいだろうかという新鮮な眼差しで、子どもの本と付きあう』ことが大切と言う。これ、当たり前のことなのだが、自分の中に「もう子どもではない。」という何か必死の思いがあって、子どもの本の前で歪んだ自分を演じてきてしまっていたようだ。子どもの本には、擬人法がよく使われている。木がしゃべったり、人形がしゃべったり踊ったり。私も子供の頃に、ぬいぐるみを片手に、「コンチワ!」と頭の上から声を出してはおしゃべりをさせていた。今でも、声にこそ出さないが、目にする動物や物におしゃべりをさせる癖は残っていて、これは、私にとってはちょっとはずかしいことであった。それで、子どもの本を選ぶ場合も、擬人法が多用されているものは、意識して避けていた。長田さんの言葉によって、吹っ切れるものがあった。嬉しかった。

これからも本の友人として存在していきたいと思った。

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紙の本

切り貼りで、明治を描く職人技

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 「漱石狂す」の報とともに、留学期間半ばでイギリスから戻った漱石が、東京帝国大学文科大学講師及び第一高等学校英文学講師をしながら、小説『坊ちゃん』を執筆する頃の様子が描かれている。

 とにかく、錚々たるメンバーが、この一冊の中に次々と登場するのに魅了された。
 散歩に出た漱石と、目白台に向かう途中の森鴎外を出会わせる。二人は、樋口一葉がかつて住んでいたという家の前で感慨にふける。
 漱石の帰郷の陰には、小泉八雲の退官劇があった。
 ハイカラの先端をいっていたであろう「ビヤホール」では、苦虫を噛み潰したような顔をしてビールをちびちびやる漱石が、カメラをパーンすると小さな点となり、ホール全景の中には、石川啄木青年、国木田独歩、『破戒』を執筆中の島崎藤村、柳田國男、田山花袋などが同じようにビールを飲みながらあれこれと話をしている。泉鏡花が病中であることも伺われる。
 本書を物語性の強いものにしているのは、「新時代の女」平塚らいてうの存在である。竜巻のような女性である。まわりのものは、地面から足が数十センチも浮き上がったような状態になってしまう。
 登場するのは、文学者だけに限られてはいない。いつもうつむき加減に歩く漱石は、人にぶつかって手に持っていた書物類を道に落としてしまうのだが、そのぶつかった人というのが、後に伊藤博文を暗殺した安重根であり、落ちた書物を拾い集めてくれたのが若き日の東条英機といった具合である。

 私は漱石の作品がとても好きだ。しかし、『坊ちゃん』に出てくる赤シャツや山嵐、うらなり君、マドンナなどのことは、あれやこれやと感想が浮かぶが、漱石その人、あるいは、漱石が生きた明治という世についてはほとんど気にとめていなかったことに気付かされた。
 小説を読む上で、作家のプライベートなことを知る必要はない、もっと言えば、なるべく知らない方が良いとも思っていたが、現代小説なら自分の生きている時代と重なる部分なのでそれも良いだろうが、明治や大正といった一時代前の作品においてこの考えを持っていては、大損をしてしまうと思った。

 時代が変わろうとも変わらないものがあるから、半永久的に読み継がれる書物がある。変わらないものだけを受け止めて楽しむのも良いが、変わったものを踏まえて読めるなら、それにこしたことはないと思った。

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紙の本

「戦う哲学者」が戦えるようになった理由

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 久々に中島義道さんの著書を読んだ。相変わらずのズッパリ断言口調が、やはり私には心地いい。ズッパリ言ってくれなくて、「…だと思う。」あるいは、「…ではないだろうか。」という表現で書かれていたとしたら、だれも中島さんに付いて行きやしないだろう。と、言っても、中島さんは、読者に何の期待もしておらず、ただただ自分のために書いているとのことなので、付いて行く行かないを語る必要はないかもしれないが。

 今回は、中島さんの子供時代の苦しみと、その苦しみを取り除くためにどんな事をしてきたかが語られる。内容的には、『孤独について』(文藝春秋)と重なる部分が多くある。しかし、本書が、中島さんが長い年月かかって勝ち得た「強さ」について深く言及しているのに対して、『孤独について』は、子供時代の苦痛や大学になってからの引きこもりの状態について詳しく書かれているので、内容は重なっていても損をした気分は全くない。

 中島さんは、子供の頃から優等生だった。優等生がどれだけ辛いかを筆を限りに綴っていく。勉強が出来て、東大法学部に入学、その後哲学を勉強し、ウィーン大学哲学課を出て博士号を取り、現在は大学の教授という華々しい経歴の人から、「私は不幸である。」と連発されても、普通はケッと笑ってすませるのがオチだと思うのだが、中島さんの言葉は息をしているのが伝わってくるのでとても笑えない。笑えないどころか、自分の過去について、無理やりに封印してしまっていたあれこれについて、面と向かわせられる結果となった。中島さんの著書は、読者にも血を流させるものである。本来人は、もっと血を流すべき事項をたくさん持っていると思う。だけれども、流れる血を見るのは恐いというのもあるし、血を流して貧血になって倒れてしまったならどうしようと思って、必死でケガをすることのないように気を付けて(自分を騙して)いる。中島さんの助けを得て、目出度く血を流すことができた。これで、また新たな血が私の体をめぐるであろう。

 自分の子供時代の頃を思い出した。私も優等生の部類に入る人間だった。いや、勉強はたいして出来なかったので模範生と言った方が正しいかもしれない。ある日、教室で行った視力測定の結果が、先生から手渡された。眼が悪い生徒は、別紙が添付されていて眼科に行くように申し渡された。数人の生徒に別紙添付があったのだが、先生は手渡す度に、「○○、テレビの見過ぎや。」と生徒の頭をポンと叩いた。そして、私の時。「○○さん、ちょっと本を読み過ぎたかな?」とやさしく用紙を手渡された。この思い出は、私の自慢でも何でもない。私は、先生に頭をポンと叩かれる生徒でありたかった。
 「また先生に怒られたよ。」とは、ある意味で大威張りで言えること。だけど、「また先生に贔屓されたよ。まったく、もう。」とは言えないのである。模範生は、担任が代わる毎にカメレオンのように変心する人間になる。人が好きで、同時に人を恐れる人間になる。
 「子供の頃はガキ大将でした。」「問題児でした。」と快活に笑いながら話す鈍感な人には、本書は不要である。苦痛を伴いながらも、「こんなイタズラをしたよ。」と、あることなら誇大して、もしくはないことまで言わなければならない経験をした人は、本書が救いになることだろう。

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紙の本

紙の本兎の眼

2001/11/09 11:51

壮大な世界は手の平にのっかるものだったりするのだ

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 食べ物には、甘い、辛い、酸っぱい、苦いなどなど色々な味がある。そして、これらの味が混ざり合って絶妙な味わいをかもし出す料理が作られる。
 人間も同じだ。食べ物以上に色々な味があって、それらが混ざり合わさってこそ味わいのある人間社会が形成される。しかし、この事はしばしば忘れ去られ、不幸な歴史が綴られることになる。代表的なものとしてはナチスによるユダヤ人排除だ。無表情で懐疑的な社会を生み出した。

 本書の舞台は、小学校である。
 小谷先生という大学を卒業したばかりの新米先生が勤務する姫松小学校でも、小さな岐路がいくつもやってくる。排除か否かの対称となるのは、処理所から通学してくる子供達、あるいは智恵遅れの子供。処理所というのはゴミ処理所のことで、そこに居を構えているのは処理所で身を粉にして働く労働者達だ。職業に卑賤なしと言われども、得てして蔑みの目で見られている人々である。

 小谷先生のクラスに鉄三という、処理所でおじいさんと二人暮しをしている子供がいた。鉄三は言葉を話さない。時にはクラスの子供に襲いかかってひどいケガを負わすこともある。
 毎日泣きべそをかいていた小谷先生だが、通称ヤクザ先生と呼ばれる風変わりな足立先生との交流によって解決の糸口をたどっていくようになる。
 放課後になると処理所を訪れる小谷先生。そして、小さな岐路に出会うととまどいながらも、「Yes」と言う。小谷学級の子供達もとまどいながら、「Yes」。
 「Yes」がトントンと積み上がっていくごとに、小谷学級の子供達の顔が輝いてくる。最後には迷いなんて全くない。全員そろって大きな声で、「YES!」と叫ぶ。

 『兎の眼』の世界は、舞台が小学校であるだけの話である。ここで言われていることは、私達の生活でも同じことが言えると思う。日本全体で見ても同じこと。世界全体でもやっぱり同じだ。

 足立先生の言葉、「いまの人はみんな人間の命を食べて生きている」というのを読んで、頭から冷水をかけられたような思いがした。そして、「人間の命を食べて生きている」自分というものを自覚しながら生きていきたいという強い思いを持ったのだった。

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紙の本

紙の本三たびの海峡

2001/10/13 09:00

もつれた糸をほどいて真っ直ぐにしてくれるのが帚木蓬生だ

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 帚木蓬生の作品を初めて読んだ。人気があるのは知っていたが何となく敬遠していた。なぜか?それは私らしい単純な理由からだった。まず「帚木蓬生」と書いてどう読むのかがわからなかった。「ははきぎほうせい」と読むらしい。
 名前が難しいので内容も難しいだろうというムチャクチャな判断で押し通してきた。反対に名前にひらがなやカタカナが入っている作家は作品の中にも難しい言葉は出てこないだろうと思っている節がある。帚木蓬生が仮に山田太郎であったなら、あるいはもっと早くに手に取ってみていたかもしれない。

 前置きが長くなったが、とにかく帚木蓬生を読んだ。
 読み始めるとほどなく私は帚木蓬生という難しい名前の作家が紡ぎ出す世界に魅了された。

 話は河時根(ハーシグン)という朝鮮人が釜山からフェリーに乗り、3度目の海峡越えで日本にやってくるところから始まる。彼の頭に1度目の海峡越えの事がありありと浮かんできて、ここで一気に時代は第二次世界大戦の頃へと半世紀ほど逆戻りする。
 河の1度目の海峡超えは日本人による強制連行であった。ある日突然、罪人でも連行するように着の身着のままで船に乗せられ、着いた先は九州にある炭鉱現場。そこで彼は地獄の日々を送ることになるのだ。
 主従の関係は、日本人と日本人に取り入った少数の朝鮮人からなる労務、対、強制連行されてきた朝鮮人の関係で、それはまるで専制君主と奴隷の関係に他ならない。
 食べ物もろくに与えられず穴倉での死と紙一重の重労働の中、多くの同胞達が死んでいく。拷問で殺されたり、気がふれたり、辱めに耐え切れずに自殺する者もいた。
 過酷な状況下、寸での危機を何度も乗り越えて生き抜く河の姿が描かれる。千鶴という日本人女性との恋もある。
 終戦と同時に故国に向けて2度目の海峡超えをする河。しかし、そこに待っていたのは幸せとはほど遠い現実。強制連行が彼の人生を歪めてしまったのだ。
 日本に背を向けて必死で生き抜いてきた河が、その老いた体を三度海峡に向かわせた理由は?

 現代と過去が行き来する手法で書かれた本書は、「これから何が起こるのか?」と「何があったのか?」の疑問が忙しく頭をよぎり息もつかずに一気に読まされた。過去と現代の点と点が一つになった時、私の目の前には黒々としたボタ山が現れ、背後からは朗々としたアリランが聞こえてくるような気がした。涙があふれてきて、まだ見ぬ景色が霞んでいった。

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紙の本

紙の本もの食う人びと

2001/10/05 23:09

見えないものを見る目を持とう!

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 テレビを見ていると食に関する番組がとても多いことに気付く。時々、タレントが海外に行って、普段は日本人が口にしない食べ物(たとえば何かの幼虫だとか蛇の肉だとか)を大騒ぎしながら1mmほどかじってアホ面でワーワーキャーキャー叫ぶのを見ることもある。
 本書が話題になっているのは知っていた。しかし、「…ダッカの残飯からチェルノブイリの放射能汚染スープまで、食って、食って、食いまくる。…」という帯を読んで、テレビで見るワーワーキャーキャーのない開き直り版あるいはグルメが度を越した開高健食紀行版のようなものかと思い込んでいた。
 今、読み終わって本を前にして、「辺見さん、勘違いしてましてごめんなさい。」と頭を下げた。

 本書は「食」という人間の生命線を通して個を取材したものである。そして、個の取材によってその背景にある政治状況や世界が見えてくる。
 アジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、ロシアの様々な国を訪問する辺見さんに読者は二人三脚するように着いて行くことができる。ある時はデコボコ道をバスに揺られて、またある時は貨物輸送機に潜り込み旅を続ける。バナナ畑から満天の星空を仰ぎ、電気も水道もない村で珈琲の麗しい香りをかぐ。それぞれの地で様々な人々と出会い、言葉を交わす。
 辺見さんと共に行く旅は、最高に楽しく且つ辛い旅でもあった。
 バングラディッシュの難民キャンプでは、赤十字などの食糧援助という100%「善」から村民と難民間に起こった反駁を見た。
 ピナトゥボ山噴火で平地に下りたアエタ族は、食の変化により自己を失う寸前に陥っている。
 ミンダナオ島では、第二次世界大戦の残留日本兵が食した肉に衝撃を受けた。
 タイでは、日本の猫が食べるエサを加工する工場で働く女性がいた。日本で売られる猫缶1つの値段ぐらいの食費/(日)で、毎日せっせと日本の猫のエサ作りだ。
 東西ドイツ統一後に、民族排外主義のネオナチが動く様子は歪みから生じる危険を感じる。
 内戦の続くソマリアでは、人々の窺い知らぬところで物事が進み、わけもわからず頭上を飛び交う砲弾を避け家を破壊され飢餓に陥る様子にこちらの目も虚ろになる。
 大阪の高校を卒業後、韓国の三星に入団した男の子が、「…ぼく、完全な韓国人にはなれんと思う。」「日本に十八年おった自分を変えたくないから。」と語る時、日本人にとっても韓国人にとってもいとおしい在日という存在を改めて知る。
 日本語の歌が次々と出てくる元従軍慰安婦達。50年経とうとも日本語の歌が記憶に焼きついているように、彼女らの心の傷は忘れようにも忘れることができるものではない。

 ベールをかけたような日本から外を見ていた自分が、ベールをはがされた日本を外から眺めるような経験をした。滑稽を感じた。
 国内ニュース、海外ニュースを詳細にチェックしても感じることができないものがこの本にはあった。
 世界がぐっと近づいた。

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紙の本

紙の本悪童日記

2001/09/28 23:05

「悪童」が文字通りに襲いかかるショック

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 タイトルを見た時は、悪ガキ達が暴れ回る冒険小説のようなものかな? と思っていた。「悪童」という響きには一種のご愛嬌が含まれていると感じているからだ。だが読んでみると内容は想像していたものとは全く違うものであるというのがわかった。
 主人公は双子の男の子二人。そして、文章は「ぼくら」という二人称を使った彼らの日記形式で進められていく。
 大きな町で戦火が激しくなり、双子はおばあちゃんが住む小さな町へ連れられてくる。母親と別れておばあちゃんの家にあずけられた二人は、お互いの体を傷つけ合って体を鍛えたり、お互いにひどい言葉や反対にやさしい言葉を投げ合って言葉に動じない心を作り上げる。この他「残酷なことの練習」「断食の練習」「盲と聾の練習」「乞食の練習」など二人で考え出した練習によって、戦争によって激しく移り変わる社会に対応する術を身につける。
 双子がたくましく生きていく様を描いた物語かと言えば、「それは少し違う。」と言うしかない。彼らは「作文の練習」によって、「感情を定義する言葉は非常に漠然としている」という理由から「事実の忠実な描写」だけを綴ることに専念する。だから彼らの日記形式である本書には、彼らの感情は元より、登場する人々の感情というものはすべて省かれている。だから、読者は、戦争に巻き込まれた憐れな双子に感情移入することは赦されず、戦争の核心部分あるいは人間の核心部分にいやでも向き合わされることになる。
 本書には地名や国名は一切出てこない。しかし、訳注を読んでもわかる通り、ナチスドイツが横行した時代のハンガリーが舞台となっている。双子が目撃した「牽かれて行く人間たちの群れ」とは、ユダヤ人が強制収容所に連れて行かれる様子だろう。そして、次にソ連の赤軍に陥落された時双子が見たものは、ドイツ兵が去ってもぬけのからになった収容所に残った黒焦げになった死体の山だ。
 著者のアゴタ・クリストフは1935年ハンガリー生まれの人で、1956年のハンガリー動乱の折に西側に亡命している。
 『悪童日記』で著者はなぜ双子を登場させなければならなかったのか? それは、凄惨な状況下で自分の内にある様々なものを無理にも一つに寄せ集めることでのみ生き抜くことができるということを二人前で一つという双子によって表したのではないだろうか。また、この物語の最後で双子の取った行動は、そのまま著者の亡命によって一生引きずっていく気持ちを表現しているのではないかと思った。
 感情の混じらない文章によって、私は感情の昂ぶりを覚えるのだった。

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紙の本

紙の本智恵子抄 改版

2001/08/02 15:37

『智恵子抄』は飛躍していない。全くの自然体だ。

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 高村光太郎の詩集。光太郎の智恵子への愛がつまっている。

 自堕落な過去を負い目に感じながらも、智恵子がお嫁に行ってしまうかもしれないと知り、どうしようもない心を吐き出す『人に』。
 愛する気持ちを、ようやっとそのままの形で表現した『人類の泉』。
 心穏やかに生まれた詩『樹下の二人』などがそれに続いていく。
 そして、智恵子の精神が壊れていく様子を詩にしたものへと変わっていく。『人生遠視』『風にのる智恵子』など。
 『山麓の二人』では、微かに残った智恵子の正気が「わたしもうぢき駄目になる」と慟哭させる。詩全体には幸太郎の慟哭がある。すさまじい。
 ついに智恵子の死が訪れる。『レモン哀歌』。智恵子のいないこの世で、光太郎は哀歌をうたいつづける。
 そして、『元素智恵子』。死んでもなお、自分の内に智恵子を感じること、そのことで生き始めようとする光太郎がいた。
 やがて、智恵子との思い出の引き出しを開く勇気を持つに至る。『あの頃』。

 完結していることにこの上のない喜びを感じて、同時に新たな勇気も与えられるのです。

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紙の本

紙の本色っぽい人々 同色対談

2001/06/27 19:33

色っぽい人と言われたい

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 松岡正剛が、10年に渡って、日本ペイントのPR誌「可視光」に掲載するために行なった対談をまとめたもの。毎回「色」をテーマに様々な人が登場する。タイトルの通り「色っぽい人々」の目白押し。

 とりあえず、20名の「色っぽい人々」の名前を紹介させてもらおう。

○山口小夜子 ○藤原新也 ○辻村ジュサブロー ○ワダエミ
○今井俊満 ○樂吉左衞門 ○ツトム・ヤマシタ ○安藤忠雄
○柳町光男 ○奥村靫正 ○石岡瑛子 ○杉浦康平
○阿木燿子 ○安寿ミラ ○萩尾望都 ○島田雅彦
○中東吉次 ○中村吉右衛門 ○茂山千作 ○美輪明宏

 どうです?ざっと名前を見て何かイメージされるものがありますか? えっ? 色っぽいというより濃いぃ〜って感じですって!?
 はい、確かに薄くはないです。これだけ個性が強く、究め者揃いなので一章ごとにかなり独立した感じを受けます。だけど、「色」をテーマに対談がすすむので、読んでいても「ぶつ切り感」を持つことはありません。たとえて言うなら、ビデオに録画して貯めておいた「徹子の部屋」を続けて20本見るよりもスムーズに流れます。

 私がこの本を買った当初の目的は、安藤忠雄と茂山千作の大ファンだったからで、失礼な言い方をすればその他の人は、私にとってはオマケのようなものだった。しかしながら、このオマケ達は素晴らしかった。私の無知から「オマケ」呼ばわりしてしまって申しわけない気持ちになった。
 特に印象に残っているのは、陶芸家の樂吉左衞門さんとの対談。私は陶芸の知識はないし、興味もあまりないのだが、樂さんの次の言葉で陶芸の醍醐味を少し理解できたように思った。
 樂さんは、火について(ここでは、窯の火)語る。『ありがたいことに、火っていうのは個を消してくれる。たしかにつくっているときには自分の個の意識でぎりぎり刻みつけながら進むんだけど、やきものは最後のところでまったく変形する。火の洗礼を受けるんです。』
 楽焼茶碗の写真も何点かあり、私の好奇心の虫が活発に動き回った。

 松岡正剛は、この色とりどりの20人の究め者を前にして、決して「聞き手」になることはない。限定された分野ならいざ知らず、ファッション・写真・絵画・陶芸・音楽・古典芸能・演出・文学・料理・建築など多分野に渡る人を相手に、文字通りの「対談」をやってのけている。すごい人だ。

 「色っぽい人々」を知って、「私も歳を重ねるごとに色っぽくなるぞ!」と鼻息を荒くした。まずは、この好奇心の虫のウズウズをどうにかしてみよう、っと。

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紙の本

紙の本光の教会 安藤忠雄の現場

2001/05/06 13:11

愛しいと思うものが増える喜び

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 時はバブルの真っ只中。大阪府茨木市にある茨木春日丘教会が、新しく建てる教会堂の設計を安藤忠雄に依頼する場面で話は始まる。
 本書は安藤忠雄が設計した、コンクリート打設の茨木春日丘教会(光の教会)が出来上がるまでを細かく追ったノンフィクションである。
 光の教会の語源は、その建物の構造にあった。南面の壁が、縦横に棒状に切り取った形で設計されている。これは採光の為であるのだが、同時に、十字架から光が溢れるように見える効果を狙ったものだ。

 私は建築にはほとんど興味もなく、知識も全くなかった。しかし、光の教会が紙に描かれたスケッチから、小さな模型になり、そして鉄骨剥き出しの無骨なものから、最後に完成を見るまでの様子を読むのはとても楽しいことだった。
 わかり易く書いてくれているのも原因しているのだろうが、なぜ興味のない分野の読み物をこれほど興味深く読めたのか?と考えてみると、いくつかの要因を見つけることができた。
 ひとつには、人は大なり小なり、モノをつくる(創る)のが好きだからということ。何もない所に何かが出来上がる、あるいは雑多な物から1つのものが出来上がる快感を知っているからだろう。古くは、子供の頃の砂場遊びや学校での工作など、夢中になって遊んだ記憶はこの快感と通じていると思う。
 これにプラスアルファーの要因として、施主(茨木春日丘教会)側に「お金がない」ということ。設計者の安藤忠雄と建築を請け負った竜巳建設が、限られた予算でより良いもの作ろうと四苦八苦する様子、また、限られた予算ではあるが「これだけは譲れない」と主張する安藤忠雄の要求に、まだ見ぬ夢を託すように食らいついていく竜巳建設の様子に、ある種のゲーム性を感じて引き込まれてしまう。

 根っこを辿れば「遊び」が出てきた。そして、その「遊び」は私もよく知っているものだった。プロが遊ぶと、「遊び」が「芸術」に変化する。人が「芸術」を愛する意味がわかったような気がした。「芸術」を愛する心に嘘はないわけである。

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紙の本

紙の本白夜を旅する人々

2001/03/27 23:44

「人の定め」を読み、「我の定め」に思いを馳せる

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 春まだ遅い青森でのお話。
 『忍ぶ川』で第44回芥川賞を受賞した著者が、その二十数年後に発表した作品である。本作『白夜を旅する人々』は、『忍ぶ川』に関連の深いものとなっている。時間軸で話をするなら、『白夜を旅する人々』の次に『忍ぶ川』がくるかっこうになっており、従って、どちらもまだ未読の方は、先に『白夜を旅する人々』を読まれるのがよいかと思います。かく言う私も三浦哲郎作品は初めて手にするものでして、『白夜を旅する人々』を読了後、現在は『忍ぶ川』を読了中です。

 本作は多分に私小説に近いものであり、以前に車谷長吉のものを読んだ時に感じたような、著者の「書かずにはおれない切羽詰った思い」をひしひしと感じ、同時に私小説の強味を見せつけられたような思いがした。
 物語は青森の田舎町の商家で、今まさに5人兄弟姉妹の次に生まれんとする子の出産であわただしい場面で始まる。5人の兄弟姉妹はそれぞれに思いをめぐらしてお産を見守っている。当たり前の光景ではあるのだが、この家族には当たり前でないことが1つあった。5人の兄弟姉妹の内、長女と三女は白い子として産声をあげていた。白い子というのは先天的に色素が剥奪しており、皮膚、頭髪、その他の毛が色を持たず(真っ白で)、眼は薄皮を張ったようになっており、そのため強度の弱視である。言ってみれば五体満足には生まれついていなかったのだ。
 6人目の子供は色がついていた。羊吉と名付けられた赤子はスクスクと育っていく。
「めでたし、めでたし」と終わることができればよいのだが、このことは、その後次々と起こる悲劇のちょっとした前触れのようなものでしかないことが、読み進めていく内にわかってくる。

 「遺伝」という言葉を、これほどまでに深刻に考えさせられることは今までなかったように思う。
 たとえば、若い頃の自分を、「今はこんなにスマートだが、両親があれだけ太っているんだから、私もその内太るだろうな」と危惧する気持ち、また、それよりやや深刻になって、「私の家系は皆一様に早死にだから、私もそう長生きはできないだろう」とか「癌にかかりやすい家系だから、自分も癌になる確率は高いだろうな」と恐れる気持ちなどというのは人それぞれにあるだろうと思う。
 私自身も「遺伝」の悪い意味を少なからず恐れる気持ちは持っている。
 だが、本書に出てくる家族が持つ「遺伝」に対する恐怖というのは、人並みの暮らしをも否定される厳しいものであった。
 最初に犠牲になったのが、白い姉と妹にはさまれた二女の「れん」であった。思春期になり、人を恋することも愛されることも拒絶しなければならないと感じた「れん」がとった行動とは?
「れん」を皮切りに、心やさしい長男「清吾」がつぶれた。間を置かずして、白い子として生まれた長女「るい」も安らぎを求めて…。

 一家がボロボロに崩れていく物語である。
 これほどに悲しい物語なのにグイグイとひき込まれるのは、そこここに愛が感じられるからだろうか?だが、本書は「愛」が万能でないということも教えてくれた。そう、人には「定め」というものがあるということを。

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紙の本

紙の本アルジャーノンに花束を

2001/02/06 18:42

チャーリーにも花束を

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 昔、学校の先生や親がよく私に言ったものだ。「人の気持ちになって考えなさい!」と。自分は自分であるのだから、その対象となる「人」になることなどできない、よって「人」の気持ちになることなど不可能なことなのだが…。
 本書にはこの不可能を可能にした主人公チャーリーが登場する。「白痴」と「天才」というある意味両極に存在する自分を実体験する。
 チャーリーは生まれながらに知能障害があった。本書に登場するのは彼が32歳の時からであるが、パン屋で雑用をしている。お金の計算もできないし、字も満足には読み書きできない。
 そんな彼がIQを飛躍的にアップできるという脳外科の手術を受けることになる。
 この治療法はマウスではかなりの実験成果をあげていた。チャーリーは人体実験第一号となったわけだ。「人体実験」などと穏やかならない表現を使ってしまったが、実際、この手術が「人体実験」以外の何ものでもないことは読み進めていくうちに判然としてくる。
 手術後に彼が見た世界は果たして素晴らしい世界であったか、また否か…。

 手の込んだ策略が待ち受けているわけではない。特別に悪人が登場するわけでもない。なのに胸がつまる思いをあちこちで味わった。「どうにかしなければ!」でも「どうにもならない!」という虚しさや歯がゆさも感じた。せめて、この胸の痛みを忘れずに覚えておきたいと思った。

 本書のタイトルに出ている「アルジャーノン」とは、IQアップの手術を受けて、複雑な迷路をくぐり抜けて餌にありつくことが出来るかしこいマウスのことだ。チャーリーはしばしば自分とアルジャーノンのことを「私達」という表現を使って話をする。天才になった後に書いた科学論文のタイトルも「アルジャーノン・ゴードン効果」だ。「ゴードン」とはチャーリーの姓である。この一匹と一人はあまりに孤独であまりに悲しい。

 チャーリーは「アルジャーノンに花束を」と言った。それならば、私は、私に勇気を与えてくれたチャーリーに一抱えもあるバラの花束を贈りたいと思う。きっと彼はニコニコと笑いながら受けとってくれるだろう。彼の手が傷つかないように棘はきれいにナイフで切り取っておこうと思う。

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紙の本

紙の本ぼっけえ、きょうてえ

2000/12/14 23:29

方言ホラー短編集

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 「ぼっけえ、きょうてえ」とは岡山弁で「とても怖い(恐ろしい)」と言う意味。分解すると、「ぼっけえ」が「とても」で「きょうてえ」が「怖い(恐ろしい)」となる。
 私の祖父母は岡山に住んでいる。昔、祖父が「歯があんまりうずくけん、ペンチでぬいちゃった」と言うと、隣のおばさんが「きょうていなぁ」と言っていた。
 本書『ぼっけえ、きょうてえ』は他3編を含むホラー短編集である。全編が岡山弁で綴られていて、時代としては明治の頃を扱っている。この独特の方言と時代背景によって閉鎖感が際立ち、ゆえに恐怖感が増していく。
 第六回日本ホラー小説大賞受賞作で、短編での受賞はとても異例なことらしい。
 私はホラー小説を好んで読むタイプではないのだが、これはいける!と思った。今までホラー小説をファンタジー小説の怖い版のように捉えていた私だが、これが全くの思い違いであることもわかった。
 物事にはすべてに明暗があると思う。のどかな田園風景を描いた作品や絵画に触れて心穏やかになるが、これは「明」の作用。反対に、田舎固有の村意識、先祖代々からの掟のようなもの、変えようのない立場から湧いてくる恨みなどに触れて恐怖心を抱くが、これは「暗」の作用。
 田舎に限らず、都会での「明」「暗」も同じことである。もう一つ言えば、人間の持つ「明」「暗」も変わりはない。いつもニコニコと明るい人でも、時には歯ぎしりするほど人を恨み、この世からいなくなれとまで呪い目を吊り上げることもあるのだ。
 この皆が見知っている「暗」を見事に書き上げた作品を読むと、人は恐怖を抱く。真のホラー小説とはこういうものではないだろうか。

 本書は「暗」のみをうまい筆で書き上げている。結果としてホラー小説という形をとっただけという印象だ。おかしなことを言うようではあるが、恐怖心を和らげてくれるのはそこここに登場する幽霊の類い達なのだった。

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紙の本

紙の本建築探偵東奔西走

2002/06/16 11:11

ぼっ、ぼっ、ぼくらは建築探偵団!

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 街をテクテクと目的もなく歩くのが好き、建築にもちょっぴり興味があるという私にぴったりの本を見つけてしまった。こういう本を待ってたのよ。って言っても出版されてからはかれこれ5年以上経っている。知らなかったのね〜、知らなかっただけなのね〜、私バカよね〜、おバカ〜っ、カバ!

 洋館好きな建築探偵 藤森照信さんが、全国の洋館を求めて東奔西走する。藤森さんが見た洋館たちは、プロのカメラマン増田彰久さんの手によって撮影されていく。藤森さんの文章と、増田さんの写真で本が出来上がっていく。
 藤森さんの軽快な文章が心地いい。「この建物は非常に価値のあるものです」とか「この建築は○○様式で…」などということは一切言わない。全編が、「ほら見て、この建物おもしろいでしょ」ってスタンスで書かれている。「ほんと、おもしろいねぇ」と藤森さんペースに巻きこまれて、「中はどうなってるの?」と思うと、本になるだけあるわ、ちゃんと中も見せてくれる。全国の洋館をお散歩感覚で楽しんじゃいました。
 小難しい事を言わず、街をいっしょに歩いていて、あっちこっちを指さしてワハハと楽しんでいるような思いにさせてくれた藤森照信さんであるが、この人小難しいことを言おうと思えばいくらでも言える人なのである。東京大学の教授で建築のプロである。ちょっとびっくりしたが、『路上観察学会』で、南伸坊や赤瀬川原平と並ぶ古くからの会員でもある事を知ると、教授というガチガチのイメージが崩れて、「なるほど。こんなに楽しい本を作れる人なわけだ。」と納得できた。

 建築探偵が訪れる建物は様々である。刑務所、大学、豪邸、銭湯、工場、なんでもありである。そして、建築探偵の興味は、あくまでも建物にある。用途については頓着しない。生活臭がシャットアウトされているので、刑務所を見たとて、「ここに囚人が…」って考えは浮かばずに、「おもしろい」という目で見ることが出来る。かつて北海道を旅した時、網走まで行って網走刑務所を見るのがためらわれて迂回した時のことを思い出し、「見方は一つではなかったのに」と悔やまれた。

 建物の歴史、見るべき箇所、はたまたその建物を見るのに一番適した時期、時間、角度、などの薀蓄はもうたくさんなのである。そんなことより、藤森さんの建築探偵事務所に弟子入りしてみようと思った。ポケットに小銭を入れて、取りあえず家の周りでも歩いてみるかな。「捜査はまず足元から」って言うものね。

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