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ゆきさんのレビュー一覧

投稿者:ゆき

2 件中 1 件~ 2 件を表示

紙の本つくられた桂離宮神話

2002/06/20 03:30

その「あとがき」について

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本、サントリー学芸賞を受賞してるし、とりあえず買っておいてあったんだけど、なかなか読む機会がなかった。で、ちょっとした興味で読み始めてみたら、さすがにおもしろい。

いつもの井上さんの調子が最後までずーっと続いていって、ああおもしろかった、と学術文庫版の「あとがき」を前に、そんな感想。

で、その「あとがき」。

この「あとがき」は僕がここ最近(ひょっとしたら2,3年かもしれない)読んだ本の中で、もっとも刺激的且つ秀逸なあとがきだった。その全文を引用したいくらい。

あらましはこう。

『つくられた桂離宮神話』は、当初、1986年に弘文堂から出版された。井上さんの研究方法は他の多くの研究方法とちょっと変わってて、いうなれば、研究対象の本質(?)に迫らずにその周辺に散乱する言説を拾っていくというもの。で、当時、そうした研究方法に好感を持っていなかった建築史学会はこの本を黙殺する。というか、建築史学会は、桂離宮の「美」をみとめない研究を、学術的な観点からではなく、極めて感情的な観点から無視したのだ。井上さんは確かに桂離宮の「美」に関する「言説」を追っているが、桂離宮の「美そのもの」については一言も触れていない。

「桂離宮の美をみとめないものは、それだけつめたくあしらわれる。ほんらいなら、学術としての当否だけを問題にすべき組織からも、冷遇された。私は、そのことで絶望的な気分になったものである。こんなの、もう学術団体じゃあない。宗教団体か政治団体のふるまいだ。そう考えた私は、学会費の支払いを停止した。おかげで、この学会からは、会費未納の除名通知をいただくことになる。ありがたい話である」(p.272)

こうして以後、この「あとがき」では、建築史学会やら、ほかにこの本を批評した社会学者に対して延々と攻撃をする。

社会学者がいうには、本書はシェーラーやマンハイムによって定式化された一種の知識社会学的な様相を呈している、したがってその系譜にそって位置付ければより高い評価を得ることになる、と。

井上さんはそれに対してこう返す。

「ありがたいお言葉だが、大きなお世話だと、内心では思っている。私は、シェーラーもマンハイムも、そしてブルデューも、読んだことがない。…フーコーについては、耳学問で、仕事のあらましを聞きかじっていたと思う。…だが、彼の本に目をとおしたことは、一度もない。いわゆる知識社会学なるものの見取図など、えがきようがないのである。また、今後とも、こういった方面の読書をすることはないだろう。そんなヒマがあれば、資料をすこしでも多く読み込んで、考証用のデータをふやしたい」(p.279)

そして、最後にこう述べる。

「学術文庫のあとがきとしては、ずいぶん型やぶりな文章になってしまった。私としては、これを書きたかった」(p.282)

この本、内容は知的興奮を煽るものとして「おもしろい」が、それだけでなく「あとがき」までも違った意味でおもしろい、一粒で二度おいしい本である。「私としては、これを書きたかった」というだけあって、特に、建築史学会への怨念とまでいえる恨みつらみは、かなり詳細に描かれていてそれだけでも読む価値がある。

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紙の本ぼくんち 3巻セット

2002/06/20 03:27

ぼくんち、あるいは差別について

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 ぼくの大好きな人達の手は
 みんなびっくりするほど小さいことを、
 なんで今まで気づかなかったんだろうと、
 何度も何度も考えた。
  (『ぼくんち』2巻)

人は、平等では決してない。生まれによる、学歴による、職業による格差が明確に存在している。「平等を目指そう」なんていうクソみたいな幻想はもうやめよう。差別を差別として認識した上でものごとを考えていくこと。悲しい物語の背後にある権力の装置を感じ取ること。現実と理想の狭間にあるコトバの使用状況の差異に気付くこと。全ては表象を基盤とする。

「セックスというお仕事」に対する職業差別は、遠く江戸時代から存在する。「江戸期に性は解放されていた」などとほざく「江戸幻想」派の「セックス系バカ学者」たちの多くが、「近代」と「前近代」という二項対立的思考に陥っていることが暴かれたのは記憶に新しい(小谷野敦 『江戸幻想批判』、1999年、新曜社)。その江戸期から永続している性職業従事者差別はおそらく決してなくならないのであろう。

『ぼくんち』に登場する「姉ちゃん」は、「セックスというお仕事」をしながら、ただ生きている。彼女は日々の小さな変化に喜びを感じ、また悲しみに暮れる。悲しいときはいつも「笑い」、翳のない明るい笑みを浮かべている。

そして時々ふとした疑問が頭をよぎる。

 けどうち この仕事は いややないで。
 ちちしゃぶられんの、おやじみんな よろこんでくれるし。
 ただ、ようわからんのよ。
 この町にすんでるみんなは
 しあわせになりたいだけやのに、
 何があかんのやろう。
  (『ぼくんち』3巻)

この問いに答えるのは非常にむずかしい。その町にすんでいるものが「しあわせ」になれないのは、その人たちに落ち度がなかったかといえば、そうはいえないのかもしれない。だが、それと全く同じ論理で、なぜその町に住まない人々は自分たちの落ち度の可能性について考えることをしないのだろう。『ぼくんち』の住民は「しあわせ」になろうといつも懸命に努力する。いつも小さな喜びを見つけては「しあわせ」を感じ、笑っている。そんな彼らを我々はただ嗤うだけで、なぜ自分たちのことについて考えようとしないのだろうか。

差別は決してなくならない。こんなニヒリズムを受け入れるか拒否するかはどうでもいい。どちらを採るにしてもそれぞれの言い分があるであろう。問題はそのあとである。

「この町に住んでいるから新卒社員の採用はやめておこう」
「この職業に就いているから友達になるのはやめておこう」
「あいつ、中学まで男やったで(笑)」
「おい、お前女やろ。酒くらい注げ」
「これってセクハラじゃないよね。ははは」

こうした「普通」の言葉の数々に対してほんの少しだけ違和感をもつこと。私は職業差別を自らの考えをもってしている者に尊敬の念さえ感じる。だが「世間の常識」に従って「セックスというお仕事も大変なのよ」などとホザクような者とは、話もしたくない。

『ぼくんち』はあなたの家の隣にある。

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