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黒塚さんのレビュー一覧

投稿者:黒塚

6 件中 1 件~ 6 件を表示

紙の本妖怪モノノケBOX

2007/11/16 14:35

不思議なお化けのお話

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私が子供だった頃、とてもたくさんの変な本がありました。お化けや魔法、UFO、世界の七不思議などなど、本当にあるのかどうかわからない、いつもの生活とは全然関係ない、奇妙な話や絵・写真ばかり載っている本を、いくらでも読むことができたのです。
 不思議なものが大好きだった私は、そんな本をいっぱい読みました。勉強には全然役に立たない本ばかりです。だけど、好きだから読みました。
 もし、「妖怪モノノケBOX」が私の子供の頃にあったら、きっと一番のお気に入りになっていたはずです。ここには、妖怪の仕業としか思えない、変な出来事が二十話掲載されています。これらのお話は、全て「新耳袋」という本に載っているものです。「新耳袋」は大人向けの本なので、小学生ぐらいの皆さんにも読みやすいような文章にしたのが、この本なのです。短いお話ばかりですから、いっそう読みやすいでしょう。
 この中で、私のお気に入りは「砂手」という話です。川で遊んでいた男の子は、突然何かに足をひっぱられ、太ももまで川砂に沈んでしまいます。逃げだそうとしても逃げ出すことができません。様子がおかしいことに気づいた友達が、二人がかりで引っ張り上げてくれて、やっと脱出することができました。そして、その時、みんなはおかしな手を見るのです。
 とにかく、不思議で、怖いお話ですが、一番怖いのは、最後に出てくる男の子のおじいさんの言葉です。どんな風に怖いかは、ぜひ自分で読んでみてください。
 世の中には、自分の常識では理解することができない謎がいくらでもあります。成長するにしたがって、そんなことはバカバカしいと無視するようになる人も多いのですが、いくら無視してもあるものはあるのです。もしかしたら、怖いけど、大人が怖いというのが恥ずかしいから、なかったことにしているだけなのかもしれません。そんな大人は、つまらない人になってしまいます。
 つまらない人にならないためにも、こんな本を読むのは大切なことなのです。

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近代怪談の鳥瞰図

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アンソロジスト 東雅夫氏の編著である。近代以降で「怪談会」や「百物語」をテーマとした小説・評論が集められている。
 巻頭には京極夏彦氏との対談が収録されており、「百物語」がいかなるものであったか、わかりやすく解題した後、いよいよ小説群が登場する。
 遠藤周作の「蜘蛛」は、現在主流になりつつある実話怪談系のはしりとも言える作品で、マニアには評価が高いらしい。私は今回が初読だったが、目新しさは感じず、むしろ妙な大げささをいただけなく感じた。しかし、現在の私の目で見た「目新しさのなさ」は、つまりそれだけこの作品以後に類似の怪談作品が多く作られたのだという事実を示す。初出は1959年であり、東氏がこれを冒頭に置いたことから忖度するに、この作品が後に繋がる現代怪談のパイオニアであったことがわかる。戦後怪談文学を語る上での金字塔的作品と理解した。
 泉鏡花「露萩」は、鏡花一流の怪異譚になるかと思いきや、妙な具合に話が進む。稀代の怪談者が「百物語」を題材にして書いた物語が、なぜ「こう」だったのか。東氏はそこに近代における百物語の衰退を透察されているが、私はむしろ「百物語」というものの本来的な滑稽性の表出であるように思った。
 その感をいっそう強くするのが、森鴎外の「百物語」だ。タイトルに「百物語」と銘打ちながら、鴎外は怪異を全く書いていない。百物語に集まってきた人物群像を書いている。これが、非常におもしろい。百年前の高才による、百年前の人々に対する観察だが、それが全く古びず、現在の我々に違和感なく重なる。これが文豪の文豪たる所以なのだろう。「人生の傍観者」というキーワードが、何より心に残る。
 そして、この鴎外作品を解説した森銑三の『森鴎外の「百物語」』は、紛れもない労作といえよう。さらりとした文章を読むだけでは看過しそうになるが、作品の成立の裏側をこれだけ綿密に考証するには、いったいどれだけの手間と情熱が注がれたのか。作品に対する愛情に感動するとともに、その姿勢に大いに共感した。
 「岡山は毎晩が百物語」は実に岩井志麻子らしい作品だが、ラスト数行の巧さは流石である。単純に「怖い怖くない」の話をするなら、私は全作品中でこれが一番怖かった。
 巻末は村上春樹「鏡」が飾る。一人称の体験談として語られる本作は、この世でもっとも恐ろしいものが何なのかを、嫌と言うほど思い知らせてくれた。この作品を最後に持ってきた東氏の卓見には感服するばかりだ。
 今回触れなかった作品を含めると、収録作品は19作にのぼり、そこに先述の対談と東氏のエッセイ、そして解説が入る。質量ともに満足のいくアンソロジーである。私的には久しぶりの五つ星本だ。

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紙の本小説・読書生活

2003/12/07 01:58

夢のまま

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「小説・読書生活」を読んだ。
ページを捲るごとに、そこに書かれている文字は正しく「夢」を綴っていた。
夢には斜め45度に傾いたようなリアリティがあるが、それをそのまま表現できている作品を、私は読んだことがなかった。
夢を模した作品ならいくらでもある。
また夢の不条理さを著そうとした作品もたくさんある。
しかし、この作品は「夢」そのものなのだ。
夢の次元は二次も三次も四次も混線した状態で存在する。
だから無茶苦茶な場面展開や時間の超越も、夢の中では大きな疑問にならない。
そして目が覚めた後に、「変な夢だったなぁ」と思うのだ。
その感覚を「読書生活」では味わえる。
脳内から生み出される喩えようのない感覚を、ここまで文字に写しきっている文学というのは、たぶん、本邦初、いや、世界初といっていいのではないだろうか。
グレゴール・ザムザの体験も、一千一秒の物語も、「小説・読書生活」に比べれば、はるかに現世の律に従っている。
寒天の様に頼りなく、そのくせ崩れない世界がここにはある。
この本が著者関戸克己氏の処女作にして、遺作だという。
最近、既成のジャンルに収まりきれない優れた幻想的作品を多く目にするようになった。
関戸克己氏は確実にその先駆者であり、やがて中心的存在になる才能だったと確信する。
そう思うと、真に哀惜の念に堪えない。
氏のご冥福を心からお祈りするとともに、この作品を私たちに届けてくださった関係者の方々に心からお礼を申し上げたいと思うのである。

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紙の本日本の名随筆 12 味

2007/11/15 13:32

食在文中

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 食は人間の本能であり、娯楽でもある。まずは生命を維持するだけの食物を確保することが第一課題だが、それが満たされると次は「味」の追求が始まり、これには果てがない。果てがないから、名随筆が生まれる恰好のファームになる。
 本書には、日本の文筆家たちが腕をふるった中でも、星三つが並ぶような食のエッセイばかり、三十編がならんでいる。どれも一読垂涎の名文ばかりだが、とりわけ素晴らしいのが吉田健一の『饗宴』である。有名な随筆であるし、「味」というジャンルに括らずとも、戦後の日本で発表されたエッセイの中で一、二を争う名作だと私は考えているが、こうして食に関するエッセイばかりを集めた中で並べてみると、その素晴らしさがさらに際立つのだ。
 病床にいて、とにかく、ひたすら驀進する食べ物妄想。頭の中にある、銀座から新橋界隈の旨い物地図を辿って、ひたすら食べたい料理を追い求め歩み続ける。動けないからこそ、よけいに引き立つ脳裏の味。
 また田辺聖子のエッセイもよい。近所のおばちゃんの食べ物談義を聞く気安さで、関西の食の本質を知ることができる。
 種村季弘の天どん談義は、食のエッセイが必ずしも美味佳肴を描く物でないことを教えてくれる。
 他のエッセイもそうだが、旨いと感じるものをひたすら描いているのに名文が多い。食を通して別のことを表現しようとしているものは、どうにも興ざめである。食とは五感の全てにプリミティブな感動を与えるもの。だからこそ、ストレートに勝負している文章ほど、光って見えるのだろう。
 とにかく、食いしん坊にとって、これほど楽しめるエッセイ集はない。ただし、一つだけ注意点がある。
 ゆめ、空腹時には手に取らぬよう。

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これぐらいが、ちょうどいい。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アメリカ人は「不屈の精神」というのが大好きなようである。
開拓者の国なんだからそうなんだ、と言われたら、はぁそうですか、と納得してしまいそうになるが、住む場所を開拓してきたのは別にアメリカ人だけではない。わが日本の先祖だって、はるか太古の昔にアフリカのどことも知れぬ地を出発して以来、気の遠くなるような年月を経てこの東の辺境の島国にたどりついたのだ。その艱難辛苦はメイフラワー号どころの話ではなかったことだろう。
ただ、いかんせん、その苦難は余りにも長い世代にわたってしまったが故に、一つ一つの世代で区切るとその苦難も薄まってしまうし、第一余りにも昔の事過ぎて誰も覚えちゃいない、というのが、アメリカとの差なのかもしれない。
私たち歴史ある国の人間は、かの国の浅薄な歴史を揶揄して、国立の歴史博物館に開拓時代に使ったただの「鍋」を展示してある、などと嘲笑するが、そんなどこにでもある鍋の個々のエピソードが記憶されている程度に、アメリカ人とその建国の歴史は距離が近い。
たぶん、だからアメリカ人はいまだに「フロンティアスピリッツ」を自らのものとして標榜できるのだ。
フロンティアスピリッツの中核とはなにか。不屈の精神、である。
ゆえに、アメリカ人は不屈の精神が好きなのだろう。
本書の主人公、ビル・ポーターは、そんなアメリカ人が身近なヒーローとして感じるには打ってつけの人物である。
もちろん、実在の人物だ。職業は訪問販売のセールスマン。身近すぎる職業だ。とは言え、成績は常にトップクラスで、それぐらいでなければ流石にヒーローになるのも難しかろう。最高のセールスを獲得するセールスマンたちのみが所属する会の会員でもあるらしい。そして、彼を最も特徴付けているのは、彼が先天的に脳性まひという障害を負っている、という事実である。
こう書くと、いかにもお涙ちょうだいものの感動を強いるドキュメンタリーのようだが、本書はむしろ自己啓発系ビジネス書だ。
読んで一番印象に残るのは「セールスは粘りと信用だ」と言う事に尽きる。
当たり前のことである。この当たり前のことを、大抵の人間は出来なくて悩んだり困ったりしている。
ビル・ポーターのセールスにかける粘り強さは半端ではない。普通なら無理な販売も、顧客がうんと言うまで諦めない。ここまで行くと、もはや不屈の精神と言っても過言でないだろう。これが、いかに簡単なようで難しいことかは、平凡な人生を送っている私たちはイヤと言うほど知っている。
だが、彼の粘り強さは世紀の発見や大発明や人類未踏の偉業ではなく、「訪問販売」という実に身近な場面で発揮されているのだ。だから、私たちは彼の物語を遠い親類の叔父さんの話のように受け入れることができる。
本書の売り文句では「涙」がやたら強調されているが、さして泣ける要素はないように思う。
だからこそ、日々の生活に感じる疲労にちょうどよく効くサプリメントのような本として、働く人々にお勧めしたい。

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紙の本旅芝居怪談双六

2004/05/11 23:39

静かな共感を呼ぶ「大人の怪談物語」

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 目次を見る。サブタイトルが並んでいる。
 「ふりだし」から始まり、「あがり」で終る。「満州遺憾江戸菊」と書いて、「まんしゅうはこころのこりのえどのはな」と読み、「大川恋妬杭」と書いて、「すみだがわこいのやけぼくい」と読む。
 なるほど、タイトル通りに「双六」と「旅芝居」の見立てだ。
 では、肝心の「怪談」の部分はどうなのか。早速ページを進めてみると、「ふりだし」、つまり導入部分は「実話怪談」系のつかみになっている。
 なぜか重文級の古い芝居小屋に泊まることになった若者が、天井からぶら下がる恐ろしい「あらざるモノ」を見てしまう。旅先の怪しげな場所で、怪しいものと遭遇する、というのは実話怪談のひとつのパターンだ。
 ゆえに「この小説はそっち系の小説だな」との心積もりで読み続けると、あにはからんや、そうでもないらしい。
 語り手は、冒頭で怪異にあう若者ではなく、自ら「元さん」と名乗る、今時珍な生粋の江戸っ子らしい老爺だ。若者は実は聞き手で、レゲエ頭のダンサー、しかも現在放浪中という。この設定、イメージとしてはいかにも現代的な若者っぽく、戦前の文化から断絶された現在の私たちを代表しているのだろう。
 元さんの伝法な口調で語られる話は、舞台を「満州」——今は亡き国に得て、その辺りから物語は様相をいわゆる「現代民話」に変えていく。
 やがて物語は元さんの身の上話になり、舞台も一葉の「たけくらべ」の世界、江戸情緒を色濃く残した吉原の花街に移る。子供時代の元さんが体験した幻想は、その舞台設定を反映してか、黄表紙にも出てきそうな因縁譚に仕上がっている。青年になった元さんは好いた女を追って満州に渡り、そこで怪談以上に恐ろしい無残な現実に遭遇する。そして、戦後の元さんの人生が語られる段になり、私たちもいずれと知れぬ山村に誘われ、そこで歌舞伎の台本も真っ青な、ケレンに満ちた大仕掛けの怪談を聞かされることになるのだ。
 この辺りまでくると、作者の持つ「怪談」カードの多彩さに脱帽、という気分になってくる。一つ一つのサブタイトルが歌舞伎仕立てなのは共通しているのだが、怪談としての趣向は章毎に異なるのだ。
 正に双六の駒が進むように、元さんという語り部の人生そのままに、江戸の花町から戦中の満州、そして戦後の荒廃した街中から何事も変わらぬ様子の山村へと舞台は変わり、その場所々々に相応しい手法を以って様々な種類の怪談が繰り広げられていく。そんな中、時代背景を際立たせるための挿話と思っていたエピソードが実は最後の大どんでん返しの伏線であったり、うかうか読んでいると見過ごしてしまうようなちょっとした小道具が、情(じょう)ある結末への布石であったり、と、この辺り、中々巧みだ。
 何より、登場人物たちが、時代や環境に翻弄されながらも、己の「実」を通そうと懸命に生きる姿は、今では失われた古き良き日本の美意識——正に歌舞伎に織り込まれている「粋」や「心意気」−が強く表われており、その潔さが、ともすれば血腥くなりそうな本書の物語を、かつて「美しき人々」が住まう国だった「日本」の怪談として昇華している。
 本来、日本の怪談には「やりきれない哀しさ」が不可欠のものだった。現代民話の中の怪談には、まだその心は残っているが、実話怪談にはそれはもう感じられない。その結果、「怪談」として発表される中の多くのものが、単なる「気持ち悪い話」に堕してしまっているのは憂うべき状況であるように思う。そのような中で、本作が単行本として登場したのは大変喜ばしい。
 「ムー伝奇ノベル大賞」という出身や、やたらとエクスクラメーションマークが飛び交う帯に、おどろおどろしいだけの小説と勘違いしてしまいそうになるが、むしろ、静かな共感を呼ぶ「大人の怪談物語」として読むことができる、貴重な作品だと言えるだろう。

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