ざぼんさんのレビュー一覧
投稿者:ざぼん
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2001/08/10 23:51
もし、あの時、東京23区の図書館に司書制度が確立されていたとしたら?
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読んでいてだんだん空しくなってきた。
本文179ページより抜粋。
項目\年度 1967 1997 1997/1967
図書館数(館) 48 199 4.1
職員数(人) 614 2,452 4.0
司書数(人) 152 595 3.9
出典:『日本の図書館』1967年版,1997年版(日本図書館協会,1968,1998)
これが東京23特別区の区立図書館の状況である。司書有資格者は、職員中1/4でしかない。
日本の文化の中心地たる東京の、最も市民に近い役割を持つ区立図書館が、司書職の採用を行っていないと知ったのは、就職活動の時期か。既にその頃には図書館員になることを目指していなかったので、そういう事情には疎く、友人から聞いたときには耳を疑ったものだ。
なぜ、こういう状況なのか。
1967年東京都公立図書館館長協議会が提出した「都区立図書館の司書職制度確立に関する要望」と、これに対して起こった*現場の職員による*反対運動というのが、これがまあ。
「あとがき」はちょっとどうかと思ったけれども、それを差し引いて考えても、この運動が後々に及ぼしたかもしれない影響を考えると、ため息しか出ないのだった。ことの次第がどうであれ、責任の所在がどこにあったにせよ。
私は図書館のヘビーユーザーである。本を読んだり、借りたり、探したりするのに、物凄く便利な施設であると感じている。でも、周囲の本好きの間では、苦笑交じりに「図書館なんて」と語られることが多い(ような気がする)。それは職員の対応であったり、蔵書の問題であったり様々なんだけれども、もし、仮に1967年、ここで東京都特別区が躓かなかったら……。
もし、東京都23区が司書職制度を導入し、活用することが出来ていたとしたら。単純に考えて、そこだけで数千の司書有資格者の受け皿が生まれたのかもしれないのだ。また当然、影響は全国の公共図書館へ遍く広がったであろう。そうなれば司書資格自体にもフィードバックされ、現状の国家資格でありながら、何だか非常に中途半端な、はっきり言ってどうでもいい資格ではなくて、もっと別の形になっていたのではあるまいか。きっと出版そのものとの関わりも、今とは違うものであったろう。
既に歴史となってしまった事柄に対して、「もしも」なんて言うことに意味はないんだろうけれども、しかし、やっぱり感情の部分で悔しさが滲み出てくるのだ。こんな私ですらそうなんだから、図書館員志望の友人たちが読めば悶え苦しむんじゃないのか? 図書館好きの人や、(特に東京特別区の)図書館を嫌っている人にも読んでもらいたい。
死んだ子の年を数えるような気分になってしまうのだった。
2001/08/10 23:42
人類の知識が……
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画期的な科学的なアイディアを思いついた天体物理学者マリャーノフの周辺で、突然おかしなことが起こり始める。滅多に手に入らない高級食材が大量に送りつけられたり、妻の友人だと言う美人が突然尋ねて来たて泊まり込んだり、隣人をピストル自殺したかのように見せかけて殺したとして罪人のように詰問されたりと、マリャーノフは大混乱に陥る。ところが、身近な研究者たちも、それぞれ何らかのプレッシャーを受けているらしい。「人類にとって画期的な発見」を妨げようとする何物かの存在がちらつき始めるのだが……。
同じ著者の『ストーカー』と同じく、何物か、人類には理解できない/接触できない存在から発せられる強烈な臭いの印象が、重ったるく全体に漂ってる。ゲル状の厚い膜の上から、ものすごく大きくて不気味なものに振れるような感覚が、ぞくぞくしてたまらない。宇宙がこんな風に崩壊する(かもしれない)のも、物凄く素敵だ。その癖、どうしようもなくやることがせこいのもいい。こういう不可視の存在のリアリティや重さを、登場人物の心の動きで描かれると、萌えるんだけどなあ。さらに、勝ち目のない存在に対する、絶望的な、まさしく人間の尊厳をかけた静かな挑戦もいい。敗北し、うなだれながらも、道を失うまいとする、したたかで悲しい決断もいい。
それにしても、ソビエトなのに舞台がいかにも蒸し暑そうな夏だったのも意外だった。
紙の本人類皆殺し
2001/05/08 01:20
“人類“皆”殺し”
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非常にインパクトのある邦題だけれども、原題は“THE GENOCIES”。CDAEによると、“genocide / the intentional killing of all of the people of a nation, religion, or racial group”だそうな。読み終えてから、やっぱりあまり巧くない邦題じゃないかな、と考えてみる。でも、あれやこれや考えていくうちに、これ以上ないくらい巧いタイトルに思えてきた。
謎の巨大植物が地上を覆い尽くしたことで、土地を追われ、食物を失い、文字通り人間(やその他もろもろ全ての生物)たちが「虫けらのように殺される」中で、一つの集落の愛憎劇が描かれる。結構今時普通のサイコサスペンス的。巨大植物が一体何なのか、誰が何の目的でこのような災害を地球にもたらしたのかについては、いくつかの推測が語られるのみで、地の文ではちらりと説明が入ったりもするが、殺されていく(「死んでいく」)人々に答えは提示されない。彼らにとっては、この災厄はまさに不条理そのもの。
その不条理をこの邦題が言い表していて、まさに言いえて妙というか何というか。この集落だけが「人類」であるかのような、また、他の生き物も全て絶滅に追いやられるのに、あくまでもタイトルは『人類皆殺し』になっちゃっているところとか、その自己中心的なのが良いです。みんな自己中心的視点しかないのですから。
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/madoka/
紙の本おとうさんがいっぱい
2001/01/20 01:57
大人が読んでも恐ろしい不条理ホラー。悪夢の再現。
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「ゆめであいましょう」「どこへもゆけない道」「ぼくは五階で」「おとうさんがいっぱい」「かべは知っていた」の5編からなる短篇集。内容は、全てホラー。しかも、同じパターンの不条理物。確かに子供の頃に読んでいたら、激しく心に焼き付いたでありましょう。二十歳を過ぎた今でも結構ぞっとする。
概ね、悪夢の再現といった感じか。古き良きジュブナイルの匂いがする。唯一無二だと思っていた存在が、それと全く同じ物の出現によって、世界ごと根底から壊れていく物語。それは、あるときは自分であったり、父であったり、家であったり、家族であったりする。
どこまで行っても辿り着けない我が家、同じ道を歩いていたはずなのに、あるべきところに家がない。やっと見つけた家の中には、台所にぶよぶよのゼリー状の生物。学校から帰ってきて、遊びにいこうとしてドアを開けると、ドアの向こうも自分が今出て来た部屋がある。隣の家に逃れても、ベランダから階下に降りても、外に出られない。土曜日家でくつろいでいると、お父さんが仕事から帰ってきた。お父さんは既にここにいるのに。ぼくの家には3人のお父さん。町は多すぎるお父さんで溢れかえっている。
表題作「おとうさんがいっぱい」が良い。行間から垣間見える、書かれていないところで行なわれているであろうことへの恐怖。よくできたホラーだ。
紙の本水に棲む猫
2001/01/20 01:50
《ぼくたちは退屈していたか、頭がおかしくなっていたかのどちらかだろう。》
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大人たちが東京オリンピックに熱狂していた年。少年たちは町中の猫を川に流す《儀式》に熱中していた。「猫は再び水の国に生きる」という教義のもと、8人の少年たちは、さながら秘密結社のように結集して、川を目指して行進する。
《儀式》はすべて、《祭司》と呼ばれる少年の指示で行なわれた。無口で偏屈で、いつも不機嫌そうな顔をした《祭司》は、あらゆる猫の祟りに通じていたが、自ら猫を捕まえることはしない。常に仲間を指示して猫を捕まえさせ、行進の時は猫を持ちながら先頭に立つ。
猫を川に流すという行為は半年にわたって繰り返され、やがてオリンピックの開幕に時を同じくして静かに終焉を迎える。川が海に流れるように、自然に少年たちの心は《儀式》から離れていく。猫と共に過ごした時間に、《祭司》の少年を独り残して。
子供がまだ世界にとって異人であったころ、世界は不思議に溢れていた。世界は限りなく広く、深く、不可解で、不気味で、霧のかかった、わからないものだった。大人たちは理解できない、別の世界に住む生き物だった。そんな世界の象徴が「猫」であり、《儀式》は少年たちが世界を見通すために作り上げた、自分たちの「方法」ではないだろうか。
だが、ひとたび大人の方法で世界を見ることを学んでしまっては、また再びかつての「方法」で世界を見ることは不可能だ。淀んだ水から、水面に顔を上げた時のように、世界は色を変えてしまう。心地よい、羊水の中のような子供時代にはもう戻れない。世界の不思議を感じることができなくなり、自らの視野の広さも、見えない広がりの存在も知ってしまった後では。
紙の本フィアサム・エンジン
2001/01/20 01:41
とにかく読み進むこと。カバー見返しにある粗筋さえ掴んでおけば、楽しく読めるはず。但し後書は読まないこと。
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現実とバーチャルな空間を行き来しながら、全く無関係と見える4人の登場人物の姿を追い、最後には収斂していく構成。サイバーパンクなのかもしれないが、雰囲気とストーリーは至ってファンタジー的。でも、落ちは○○SF。
後書きなどでも触れられているが、何しろこの話は「難しい」らしい。なるほど、Web上を検索してみても、発行当時はそのような取り上げられ方をしていたということがわかる。私は幸運なことに、そういった事前の情報を知ることもなく読み始めることが出来た。読んでみればわかることだが、別に難しくはないのだ、話自体は。単に用語の説明、細かい説明が全然ないだけで。
というわけで、表紙カバー見返しの粗筋を先に読んでいたことが、非常に役立った(注:間違っても、わけが分からないからといって「あとがき」を先に読まないこと)。"地球離脱"のことも、断片的に書かれているだけで、本文中から意味を掴むのは結構大変ではないかと思うし、私は未だに“ベース現実”(これもよく分からない)でどうして人間が8回の生を与えられているのかが、さっぱりわかっていない。“クリプト”内でのことならわかるけど。“ベース現実”の肉体と“クリプト”内の構成体の位置関係とか、チャーミングな“キメリック”たちのことも。
それは、私の読解力がこの小説についていっていないからなのか、この作品がそもそもそういう説明をしていないのか、それとも訳文のせいなのか。でも、とりあえず、わからないことをわからないなりにキャンセルしながら読んでも、非常に面白かった。推奨される読み方なのかどうかはわからないが、なんとか推測しながら読み進めることは出来るし、展開はとても楽しい。特にバスキュールの章は、向こう見ずな少年の冒険談として、非常に楽しめるものだと思う(原文は相当曲者らしいが)。
とにかく最後まで読みきって、このカタルシスを味わってもらいたい。
2001/01/20 02:13
痛みも悲しみも死もない理想的な世界で、ただ一人、それを感じることを義務付けられた少年の物語
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要するに「管理社会物」だ。テーマにも設定にも特に目新しい点はないのだが、読ませます。
12歳の〈職業任命〉の儀式で〈記憶を受けつぐ者〉に選ばれたジョーナス。コミュニティでただ一人、一子相伝のこの職業を先代から引き継ぐべくトレーニングに入った彼を待ち受けていたのは、人々が捨て去っていった悲しみや苦しみ、痛みと恐怖だった。
コミュニティーでは邪魔な丘を削り、すべての地面が平らにならされており、「丘」という概念そのものが存在しない。気候も全て制御されている。ありとあらゆる苦痛はなくなり、悲しみも死も感じることはない。それは理想的な社会だ。しかしそこには、本当の愛情も慈しみも存在しなかった。
読者はジョーナスと共に次第にコミュニティー異様さに気づき、戦慄することになる。これが結構センス・オブ・ワンダーだった。内容に新味はないが、とにかく上手い。
ジョーナスは記憶とともにそれらの感情を取り戻すが、次第に孤独感を募らせていく。ジョーナスは周囲の人間に限りない愛情を抱いているにもかかわらず、他の人々とその思いを共有することはできないといのだ。
ついにある真実を知る(あれはちょっとしたホラー並に怖いシーン)に至り、ジョーナスは先代と共にあることを計画する。悲しみに満ち満ちた二人の決断、そして痛みに満ちた結末—。
他にも文字媒体ならではの仕掛けがなされていて、ちょっとそこは驚くとともに、語りの巧妙さに感動した。とても美しい。
良い本だ。読んでください。
紙の本風車祭
2001/08/12 00:00
沖縄妖怪ラブコメディ
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純朴で素直な高校生武志と、異常にパワフルな老婆フジ、案外まともに見えて妖怪であるという自覚に乏しい分ハタ迷惑なピシャーマ、豚でありながら一途で健気で頑張りやさんのギーギーが巻き起こす超ドタバタ活劇。
舞台は『バガージマヌパナス』に引き続き、沖縄。私が知っている「日本」とは明らかに違う風習、伝統が息づいているその土地は、まるで異世界だ。でも、地続きだという感覚が確かにある。異世界のように見えて、異世界ではない、この世界の続きに確かに存在する「沖縄」。私は沖縄には行ったことがないが、そういう感覚が、池上永一や目取真俊の作品の魅力だと思う。
このお話は言ってしまえば武志をめぐる切ないラブストーリーである。武志とピシャーマの報われぬ恋にからんで、豚妖怪ギーギーの武志に対する一方的な片思いの切なさ(ピシャーマよりもこっちの方がハイライトである)、武志の魂が勝手にアプローチしてしまった睦子の悲劇(?)、これら人間×魂の恋愛談は、想像通り思わず笑ってしまうような無茶苦茶なものばかりなのだが、ラストには思わずホロリ。超一流のラブコメディであると言えよう。
そして当然、破天荒おばぁフジを筆頭とする老婆たちの活躍も見逃せない。私的にはトミにももうちょっと活躍してほしかったような気がするが、ツカサやユタ達がそれを補ってあまりあるので、婆萌えな方には必読だ。
536ページ全編に、愉快で明るくさわやかな沖縄の空と大気が溢れた一編。読み応えありまくりのエンターテインメント巨編(ちょっと高橋留美子を思わせる)。お薦めである。
紙の本風車祭
2000/09/27 12:42
沖縄妖怪スラプスティックラブコメディ
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純朴で素直な高校生武志と、オージャガンマー以上にパワフルな老婆フジ、案外まともに見えて妖怪であるという自覚に乏しい分ハタ迷惑なピシャーマ、豚でありながら一途で健気で頑張りやさんのギーギーが巻き起こす超ドタバタ活劇。
舞台は『バガージマヌパナス』に引き続き、沖縄。私が知っている「日本」とは明らかに違う風習、伝統が息づいているその土地は、まるで異世界だ。でも、地続きだという感覚が確かにある。異世界のように見えて、異世界ではない、この世界の続きに確かに存在する「沖縄」。私は沖縄には行ったことがないが、そういう感覚が、池上永一や目取真俊の作品の魅力だと思う。
このお話は言ってしまえば武志をめぐる切ないラブストーリーである。武志とピシャーマの報われぬ恋にからんで、豚妖怪ギーギーの武志に対する一方的な片思いの切なさ(ピシャーマよりもこっちの方がハイライトである)、武志の魂が勝手にアプローチしてしまった睦子の悲劇(?)、これら人間×魂の恋愛談は、想像通り思わず笑ってしまうような無茶苦茶なものばかりなのだが、ラストには思わずホロリ。超一流のラブコメディであると言えよう。
そして当然、破天荒おばぁフジを筆頭とする老婆たちの活躍も見逃せない。私的にはトミにももうちょっと活躍してほしかったような気がするが、ツカサやユタ達がそれを補ってあまりあるので、婆萌えな方には必読だ。
536ページ全編に、愉快で明るくさわやかな沖縄の空と大気が溢れた一編。読み応えありまくりのエンターテインメント巨編(ちょっと高橋留美子を思わせる)。お薦めである。
2002/04/22 23:28
初恋から暗黒へ。恐怖の名アンソロジー。
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できれば予備知識なしに読んでもらいたい。きっとすさまじい衝撃を受けるに違いないから。
収録作はどれも上質であり、大人が読むに堪えるものばかりではあるが、「だれかを好きになった日に」この本を手に取った子供たちは、これらの作品に一体何を感じるのだろう。編者は一体何を感じさせたかったのだろう。グロテスクな不可思議さが漂う1冊である。
「きょうはこの本読みたいな」という結構ポピュラーな児童文学アンソロジーの第1巻。テーマは「初恋」。表紙も、黄色い猫とおぼしき物体が、背中に4羽の小鳥縦にを乗せて、うっとりとしている、という図案のもので、なんとなくファンシーだ。
が、この表紙に騙されてはいけない。
収録作は、以下の通り。
「詩・たかしくん」谷川俊太郎
「リボンをつけて」森忠明
「吉沢くん」河野貴美子
「初恋」三木卓
「詩・練習問題」阪田寛夫
「夜」松谷みよこ
「観音だんご」長崎源之助
「恋狐」渡辺茂男
「そり」神沢利子
「詩・燈台」大久保テイ子
「草原」加藤多一
「電話がなっている」川島誠
「TheEndoftheWorld」那須正幹
執筆陣の面子だけを見ると、確かに錚々たるものではある。が、個別の作品を知っていれば、「なぜこれが?」と思う人もいるかもしれない。収録作は、初恋などという心ときめくメルヘンチックなイメージからは程遠い暗さと重さに満ちているものが多いのだ。それも生半可ではない、底無しの暗黒。
前半では可愛らしいほのかな恋心の芽生えを描いた作品を収録しながら、読み進むにしたがい、戦争、貧困、労働、飢え、滅亡、死等、救いのない物語に突入していく構成。さらに、かなり大胆な性描写まで描かれている作品もある。内容と装丁のアンバランスが、強烈な違和感をかもし出す。
とにかく凄い本としか言いようがない、隠れた名(迷)アンソロジーである。お勧め。
紙の本ぬかるんでから
2001/06/09 00:56
剥き出しの言葉の力
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13篇の短篇。どれもこれもが凄すぎる。
剥き出しの言葉の力。粗筋を説明するのは無意味だ。これは物語の頚木から開放された純粋な、言葉の塊だから。考える前に、文字が直接脳味噌に響いてきて、鮮やかな情景を、まるでそこにあるかのように、自分自身がその場にいるかのように、描き出す。
その光景は、理不尽で不条理で滑稽で禍禍しいものばかりなのだが、とてつもなくリアルだ。この小説群に書かれているのは、「そこに、そういうものがあるのだ。」ということ、それだけのことだから。その現実にはありえないからこそ強烈に臭う「事実」の前には、人の論理などあまりに無力だ。ただ翻弄され、飲みこまれるしかない。悪夢そのもののような物どもが存在するそこは、まさしく悪夢の中であるのだから、そこにいる限りは悪夢こそが現実なのだ。語られる言葉だけがこの世界の現実であり、紡ぎ出される景色に、読んでいる自分の足場がめくり取られていく感覚。
傑作。
紙の本クロ號 1
2001/05/15 00:44
ディスコミュニケーションのコミュニケーション
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1話2ページの短いエピソードの積み重ねで描かれるクロの日常は、不思議なコミュニケーションに溢れている。猫も人も一応吹き出しつきで喋るタイプの漫画だが、それは伝えるための台詞ではなく、言わば全てが独り言。でも、その伝わらない言葉も含めた身体全体の表情が、行動が、テンポが、画面が、漫画の中の充分なコミュニケーションとディスコミュニケーションを表現し、目に見える画面の奥に深みのあるドラマを生んでいる。
分かりやすいのが、不良中学生だけど実は猫好きのメラブーと、クロの絡み。この二人(一人と一匹)の間には、ちゃんとしたコミュニケーションが生まれた試しがない。でも、そのディスコミュニケーションぶりは、二人のキャラクターがそれぞれ「生きている」からこそ生まれるものなのだ。他のちらりとしか出てこないようなキャラクターにも、それぞれのドラマが見える。
でも逆に、結構重要な役柄であるはずのクロの飼い主・ヒゲについても、守るべきディスコミュニケーションの線引きがびっちり引かれていて、決してクロの目線以上に漫画が近寄ることはない。ストイックな筆致には唸らされる。
クロの身の回りで起きる猫たちの事件に対する視線も、ドライすぎず、ウェットすぎず、あるがまま、クロが感じるままを描き出す。交通事故、去勢、捨て猫、凍死、発情期。あ、誕生が描かれていないね(クロ自身の誕生を除く)。そのうち描かれるのだろうか。これからが楽しみだ。
筆で描かれているらしい絵もシンプルなのに可愛くて表情が豊か。お勧め。
ざぼん
紙の本青猫屋
2001/01/20 02:23
誰の耳にも届かない歌われない歌は、どこへ行くのだろう
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舞台は過去とも未来ともつかない時代。ここともどこともつかないどこか。要するに純然たるファンタジーの世界。世界に関する説明はほとんどない。ぽん、と読者は異世界に放り出される。<歌ぶり>の町へと。それを違和感なく「異世界」として受入れさせているのは、物語の中心となる<歌ぶり>の存在だ。歌というからには当然「音」を伴っているはずなのだが、これは小説、当然音は直接読者の耳に伝わってくることはない。与えられるのは純粋に無音の文字のみだ。だが、この小説に登場する<歌ぶり>の一つ一つの持つ味わいや雰囲気は、実際に音が聞こえなくても、それ以上のものを読者に伝えてくれる。耳には聞こえないが、心に伝わってくる音。その齟齬が居心地のいいこの異世界を、はっきりと存在感のあるものとして認識させてくれる。
物語は穏やかにコミカルに進行する。でも、そこはかとなく悲しみが漂う。川で拾った捨てられた歌を、ただ一つだけ続ける浮島渡しの猿丸。老境に入って初めて夫の美しさを見出したツバ老の妻。贋稲荷に住み着く山口とお時ばあさんの奇妙な関係。山羊ではない自称ヤギの孤独。父から継いだ写真館を潰してしまい、ただ甘いものづくりに専念するハイウェイのレストランのコック。その甘いものをひたすら食べ続ける女子中学生と、ちぐはぐな麺類を注文し続けるトラックの運転手。そして「青猫屋」にとって不要な少年・頓痴気と「青猫屋」の廉二郎、亡くなった三代目の父。それら全てに通じるのは、かすかな虚しさと、悲しみだ。
やがて、名曲<ムサ小間>に続きがあったことが判明し、<ムサ小間>の「秘密」が歌の教師朝比奈夫妻によって解かれる。長い長いこの部分は、歌に意味を求めることの無意味さだけを繰り返し語っているのだろうか?
そして、唐突に訪れる終局。
紙の本しろいくまとくすのき
2000/09/27 12:57
差別と戦争の火種は、私たちの中に今もあるということ。
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世に、戦争児童文学というジャンルが存在する。『おこりじぞう』『ちいちゃんのかげおくり』『ふたりのイーダ』『対馬丸』『ひろしまのピカ』『火垂の墓』『象のいない動物園』などなど。怖いねぇ、戦争って。何の罪もない子どもたちが空襲や原爆や飢餓で殺されていくんだよ。悲しいねぇ、愚かだねぇ、むごいねぇ。
……だから、何?
これらの戦争児童文学は子どもたちに何も教えてくれない。ただ壊れたレコードのように戦争の悲惨さを繰り返すだけだ。なぜ人はいがみ合い、傷付け合い、殺し合うのか? なぜ人は無意味だと知りながら戦争をやめないのか、繰り返すのか? なぜ? どうして? この「あたりまえの疑問」に答えてくれる児童文学がかつて存在しただろうか。これまでの戦争児童文学と呼ばれるものは、ただ「死の恐怖」を見せ付けることで子どもたちの疑問に蓋をしているだけではないのか。
しろいくまはコミュニティから隔絶されて育った無垢な子どもとして、くまたちが暮らす森に登場する。そこで自らが被る理不尽な差別と、繰り返される闘いに「なぜ?」と疑問をなげかける。なぜ、仲間外れにするのか、なぜ、いがみあうのか、なぜ、憎しみ合うのか、なぜ、差別するのか、なぜ、戦うのか、なぜ、殺し合うのか、……なぜ?
答えは用意されていない。一つあるとすればはいいろオオカミが口にする「わからない」という言葉だけだ。でも、この物語は子どもたちに問い掛ける。ほうら、戦争の火種は今だって君たちの身体と心にくすぶっているんだ……。気が付いたかい?
ついに、しろかった毛皮も自らが殺したオオカミの血で汚れ、しろいくまは呆然と、かつて仲間として共に戦ったはいいろオオカミと、今度は敵として対峙する。それでも問い掛けることやめはしない。どうしてこんなことになってしまったのだろう、と。
終盤、差し伸べられた手を振り払い、しろいくまは恐らく児童文学では決して言ってはいけない言葉をつぶやいて、森を去る。深い深い悲しみと、重い重い痛みを抱きながら。
でも、私たちは生きていかねばならないのだ。この、世界で。
紙の本カカシの夏休み
2000/09/27 12:53
死なない限り人は生きていかなければならないということ。生きている限り、未来はある。
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収録短編『未来』について
いじめによる自殺の増加に世は戦々恐々としていて、恐らくそれについて書かれた本も沢山あるのだと思う。が、重松清のこの方面への真摯なまなざしというのは秀逸。
重松清は別にいじめをテーマに書くわけではないのだと思う。いじめというのは単純に白黒付けられるようなものではない(干刈あがた『黄色い髪』のように理由がはっきりしている例というのは実際には希では?)。いじめの要因というのは、いじめる側よりもむしろいじめられる側にあると私は思っている(原因、元凶ではなくて)。いじめられっ子というのは、恐らくあの年頃の人間であれば誰もが持っている鬱憤などを、引き入れ易い「質」を持っているのだと思うのだ。
重松清の場合は、たまたま書こうとする人間がこのような「質」を持つ人間に重なるだけなのではないだろうか。だから「いじめ」ということに関しても、視点を固めることなく、実に柔軟に繊細に、物怖じすることなく、徹底的に書いてみせる。
だから、重い。
でもね、加害とか被害とか抜きにして、要するに死者よりも生者なのだ、ということ。死なない限り人は生きていかなければならないということ。生きている限り、未来はある。単純で当たり前のことだけれど、でも、これは大切なことだと思う。
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