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ゴンスさんのレビュー一覧

投稿者:ゴンス

20 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本父の肖像

2004/12/06 23:22

文芸愛好家からビジネスマンまで

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今から七年ほど前のブライダルシーズン。慣れない背広を身にまとった僕は赤坂プリンスの建物を飽きずに眺めていた。「飽きずに」というからには理由がある。高級感が漂うその眩い建物の傍らには、ひっそりと、それでいて近代的な趣を残す鹿鳴館のような建物があたかも混入物のごとき目の前に現れたからである。いったいどのようなコンセプトでこのような建物になったのか。一瞬そんな問いが脳裏をよぎったが、従兄弟の結婚披露宴会場で気持ちよくワインを煽っているうちにやがてその疑問も風化していった——。
 ところが、本書『父の肖像』は僕のその疑問を記憶の底からたぐり寄せた。著者の辻井喬は夜な夜な筆をふるう小説家・詩人であるが、浅目覚めるとカフカの『変身』の主人公、グレーゴル・ザムザが巨大な毒虫に変身したように、彼もまた巨大な企業、西武王国の後継者、堤清二に変身する。だからといって本書を西武王国の軌跡と捉えるのは早計であるが、いずれにしても私小説的なスタイルをとっているのは間違いない。
 戦後、西武王国の創始者、堤康次郎は旧皇族の土地を買い漁っていた。敗戦の余波で世間離れした旧皇族の多くも否応なく社会人にならざるを得ない。そこに目をつけた康次郎は旧皇族の土地を買い、更にはその建物を日本の「ブランド」だと位置づけることによって、やがて次々と建てるプリンスホテルのいくつかにその建物の一部を原型のまま残したのである。いわば西武ブランドの原型は旧皇族という日本最古の伝統ブランドでもあるのだ。七年前、従兄弟の結婚式で赤坂プリンスを訪れた際の僕の疑問もこうして氷解していく。
 だが、本書の魅力はそうした堤康次郎にまつわる話だけではない。嫡出子である辻井喬がその父に対して、俺は本当に西武の後継者なのか、それとも作家こそが真の姿なのか、そもそも俺は誰の子供なんだ、と問い続け、自分の中に同居するいくつかの異質な人格と闘う力強さである。
 かたちはどうであれ、人間は親の影響を受けて育つ。わけても、潜在的なものは環境を変えても変わることはないだろう。本書はそうした逃れられない血脈に対する恐怖と畏怖の見本であり、我々の体内に流れる「血」にも一瞬の揺さぶりをかけるだろう。
 ただし、本書はあくまでも小説であるから、西武王国の軌跡や堤康次郎(と思われる)登場人物の言動は注意深く読まねばならないことを最後に付記してきたい。いずれにしても文芸愛好家からビジネスマンまで幅広い読者層に期待される作品であろう。

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紙の本太陽の季節 改版

2002/04/21 00:07

今も昔も

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昭和31年、事件が起こった。それは、石原慎太郎というストイシズムを醸し出す、かつ世の中を達観する姿勢を示す青年の出現という事件であった。
 『太陽の季節』は文壇だけでなく社会にも大きな一石を投じ、更に石原はそれを楽しんでいたのだから今の都知事としての暴れぶりには納得できるし、同時に物足りなさも感じる。と言えば都庁の職員に怒られるだろうか。
 ともあれ、この作品には石原慎太郎の原点がある。モラルを打破し、自己肯定を貫く主人公。ボクシングを通して肉体的肯定に快楽を見出す主人公。この両者がシンクロした形で、主人公の生き生きとした息吹を伝えている。石原自身と共に。

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ゲームの始まり…

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 あのセンセーショナル事件から、何年が経っただろう。日本中を震撼させ、「うちの子も隣の子ももしかして……」と疑念を抱かせた神戸連続児童殺傷事件から、何年が経っただろうか。
 本書の著者、高山文彦氏は知る人ぞ知る気鋭のノンフィクションライターである。連続児童殺傷事件の記憶がまだ生々しい頃、フリーランスの物書きはこぞってこの事件のおぞましさ、異常さを謳った。が、しかし、今でもそのとき書いた文章に責任を持っているライターがはたして何人いるだろうか。高山文彦氏と社会学者の宮台真司氏だけであろう。
 高山氏は「想像力」と「自分の足」でこの事件の解明にあった。とりわけ事件そのもの対するアプローチではなく、「背景」に迫った点は類型の作品の中でも群を抜いている。
 少年Aの家族の実家を訪ね、その地域の歴史から少年Aが起こした事件の「動機」に迫るという短絡的な方法ではなく、脈々と受け継がれている家族の「歴史」から事件の本質を浮かび上がらせた方法は見事である。関係者の方はさぞかし嫌な思いをしただろう。だが、そこまで執拗に「背景」にこだわった点にこそ高山氏のライターたる所以があることもまた事実である。結局、少年Aに会うことは出来ない。だから距離を遠ざけるしかない、そのボーダレスの苛々は実は高山氏にとってのものではなく、少年Aにとってのものだといういうことを本書は示唆しているのである。

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紙の本人間失格 改版

2002/05/09 21:20

自己の発見

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人間失格。文学に興味のない者とて、このタイトルを目にすればたじろがずにはいられないだろう。
 今日にして太宰の小説、とくに『人間失格』は時代の隔たりを感じさせずに圧倒的な存在感を放っている。が、それはおそらく「暗さ」に何らかのインスピレーションを感じてのことだろう。もちろん、それはそれでいい。事実、太宰の小説はそういう読み方をされ、またある者は滑稽でユーモラスがあって面白いとも云うだろう。
 しかしながら、太宰の文学で大事なことは自己の発見である。自虐的な自己の中でこそ、突然新たな自己は発見される、つまりその自虐的な自己こそが本来の自分ではないか、太宰は我々にそう問いかけているのである。

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紙の本風の歌を聴け

2002/05/09 21:18

三無主義の予感

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 生きる気力がない。目標もない。何もない。空っぽだ。それでもビールはあった、友達もいた、だから、ピンボールを打ちに行こう。これが、村上春樹の小説である。
 この空虚さは、まさしく全共闘終焉当時のものである。村上はそれを表現した、つまり、何もないという空っぽのものを表現したのである。
 さすがに、こんなものを書かれては誰も何も云えない。事実、今日でも村上の小説は多くの論者を戸惑わせている。
 結局、作者の意図は別として、評価しにくいアバンギャルドなものを書けば、しかも村上の小説に至っては中身がはっきりとしないのだから、これには大きな評価を下すか、全く無視するかのどちらしかないのである。
 もっとも、そんなものは滅多に生まれないが。

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紙の本焼跡のイエス・処女懐胎

2002/04/16 21:33

ペダンティック

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 衒学的な文章を書く作家である。と同時に、小説の枠組み、その在り方についても意識的な作家である。
 そしてそれはおそらく、自身が漢学者の祖父から論語や形而上学を学んできたゆえのことだろう。
 『焼跡のイエス』、『処女懐胎』、特にこの2作にはそれらが顕著に示されている。石川の小説にはキリスト教関連の事柄が頻出するが、それらは形而上学の思想によって超越され、結局のところ、宗教や天皇制ではない他の形なき「神」へと読者を誘っているのである。約50年前に書かれた小説だが、現代の、しかも日本の未来をも予見させる、つまり相対主義のなれの果てが訪れたときに必要な「神」を、石川は怖いぐらいに描ききっている。狂人かあるいは変態だろう。

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紙の本蜘蛛の糸・杜子春 改版

2002/04/16 21:29

かくも鮮やかな純文学

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 はたして、純文学とは何か。その答えを知りたければ、芥川龍之介の作品を読まなければなるまい。
 純文学とは家族や恋愛、その他諸々の「悩みと葛藤」をモチーフにしたものだ、と云う輩が数多くいるが、それらは純文学ではなく、あくまでも純文学に数多ある「道具仕立て」に過ぎないのだ。
 では、純文学とは何か。端的に云えば、例えば『蜘蛛の糸』における糸が切れる瞬間、あるいは『トロッコ』における暗い過去のフラッシュバックである。つまり純文学とは、小説の設定に関係なく読者に不安や恐怖を投げかけることである。その意味で、芥川の小説こそ紛れもなく純文学であり、本来、芥川賞とはそういった作品でなければならないのだ。

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紙の本三四郎 改版

2002/04/16 21:26

文学かくあるべし

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 『三四郎』は、田舎から上京した青年の、恋愛や友情や学問に対する不安と戸惑いを、きわめてポピュラーに、しかし屈託なく描ききった小説である。
 『三四郎』は、田舎から都会へ。
 『坊っちゃん』は、都会から田舎へ。
 今日、この手の小説が数少ないのは、漱石がたった2冊の中で確固たる意匠を築いてしまったからだろう。それとも昨今では村上春樹的な「もののあはれ」がうけるゆえ、この手の小説は売れ筋ではないと睨んでいるのか。
 どちらにせよ、『三四郎』は上京物語の古典であり、そこにはどんなに面白いエンターテイメントとて適わぬ本物のリアリティーと人間の息吹があることは確かである。

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紙の本東京物語

2007/03/14 20:05

青春の適齢期は

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

世に年齢別の名言は多いが、だいたいが20歳までのもので占められている。「僕は20歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」というポール・ニザンの言葉に代表されるように。
20歳前後には煌めきがある。誰もが思う。これから自分は何者にでもなれるのだと。あふれんばかりの性欲があって、精神も体力も強いから、いくら傷ついても明日を生きる活力は衰えを知らない。そんな時期であるがゆえに名言もまた、生まれやすい。
ところが、30歳前後に関する名言はあまりに聞かない。30歳前後というのは身の回りの環境が変化し出す時期でもある。結婚して子供が出来たり、親が病床に伏したり、社内では責任のある仕事を任されるようになる。だから、「僕は私はこうありたい」という思いは遥か忘却の彼方へ過ぎ去り、嫌でも青春と決別しなくてはならない。
直木賞作家となった奥田英朗の自伝的小説、『東京物語』(集英社文庫)は、30歳前後の男たちの心象風景を、ときに真面目に、ときにユーモアラスに描いた青春小説だ。
主人公は言う。
「たぶん自分は、29歳にもなって、将来は何になろうなどと考えているのだ」。
この言葉。30歳を目前に控えた独身男女の胸に迫ってくるかも。

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四畳半の頃…

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 昨今の大学生の代名詞と言えば何だろう。コンパ、バイト、麻雀、パチンコといったとこだろうか。しかし飽食な世の中にあってそれはむしろ当たり前なことなのかもしれない。
 ところが、だ。前述した大学生の代名詞に「学生運動」という言葉が加えられる時代があった。今から約三〇年ほど前のこと。人はそれを政治の季節と呼んだ。学生運動とも全共闘運動とも呼んだ。一部の学生達がゲバ棒と火炎ビンを手に、ヘルメットとマスクといういでたちでイデオロギーを振り下ろしたのである。結局は内ゲバ(仲間同士の争い、リンチ、なれの果ては殺し合い)という一般市民の論理を越える悲惨きわまりない行為へと突っ走ったが、しかし軽率ながらもある意味魅力的な時代であったといえるだろう。
 さて、その六〇年代後半の最大の山場といえば『東大安田講堂事件』である。本書はそれを焦点にしたノンフィクションだ。著者の佐々淳行氏は、当時、この事件の警視庁の責任者だった人。七二年の『浅間山荘』の際にかの有名な鉄球使用を発案した人でもある。
 したがって、本書は「警察側」の視点のものゆえに、学生運動経験者の作家や評論家が書いたものとは一線を画している。そこがいい。経験者が書いたこの手の本はあまりに感傷に浸りすぎていてつまらないのだ。色あせて見えるのだ。そういった意味で本書は警察という「権力」が、「反乱者」とどう対峙していたかが分かる貴重な一冊である。

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写真が語るとき

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 一枚の写真が、時には饒舌に何かを物語ることもある。それは例えば原稿用紙一〇〇〇枚にも勝るほどの勢いで。本書はまさしくその一枚の写真からすべての物語が始まる、手に汗を握るミステリー小説仕立てのノンフィクションである。
 では、その一枚の写真とは何か。エジプトのスフィンクスを背景に、江戸時代末期のサムライ達が写っているのである。現代人の目からはとても奇妙に見える。珍妙と言ってもいいかもしれない。なかにはパソコンを使って加工しているのでは、と疑う人もいるかもしれないが、その写真は新聞でも大々的に取り上げられているし、撮影日の一八六四年四月四日以来、資料館できちんと保管されているものなのである。
 写真は本書の表紙にもなっている。撮影日も明らかにされている。そのサムライ達一行の、三十四人の経歴も、そこを訪れた理由も多くが明らかにされている。政治家、医者、科学者、兵学者などそれぞれの立場の人がいた。なかには英語もフランス語も話せる人がいたという。「明治維新」の四年前のことである。
 一枚の写真は時には皮肉なものへと変貌する。知らなくていいことを知ってしまう。幸か不幸か歴史に埋もれた事実をも発掘してしまう。そして、勝者が作ってきた歴史を覆す力さえ持っているのだ。
 本書にノンフィクションという概念は関係ない。歴史に埋もれた真実の声なのである。

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江戸幻想

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 江戸時代にはなぜ革命が起きなかったのか。年貢の減免を要求する農民一揆は度々起きていたが、もっと根本的な革命、すなわち「士農工商」に対する下剋上はなぜ起きなかったのか……。
 磯田道史の『武士の家計簿「加賀藩御算用者」幕末維新』は数多ある江戸時代研究所の中でも出色である。見てはならない物を木陰からそっと眺めているような感覚すら味合う。なぜなら本書は、我々が江戸時代に対して抱くイメージを根底から覆しているからだ。
 『江時代は『圧倒的な勝ち組』をつくらないような社会であった。武士は威張っているけれど、しばしば自分の召使いよりも金を持っていない。武士は、身分のために支払う代償(身分費用)が大きく、江戸時代も終わりになると、それほど『お得な身分』ではなくなってきていた。』
 武士の多くは借金を背負い、身分ならではの多額の出費も強いられ、年収も多くはその一家の先祖がいかなる人物だったかによって決められていたという。時代劇では威張っているばかりの武士も、実は窮屈な生活を送っていたというのである。農民が革命を起こして武士の身分を奪取しようとしなかった理由の一つは、このためであろう。
 本書はその実情を、加賀藩の御算用者、今日では言えばさしずめ会計士の家系の家計簿から解き明かしたものだ。会計士が残した家計簿を基に分析・取材しているだけに、論文や調査報道の域に留まらない臨場感あふれる物語にもなっている。

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紙の本原色の街・驟雨

2002/04/21 00:00

ファインダー

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 吉行は、今で言う風俗雑誌の仕事を経て作家になった人であり、その影響の下に出発した作家である。
 吉行が徹底的に描いたことは娼婦である。が、単に娼婦の人間模様、あるいはその行為を描いたのではなく、娼婦というフィルターを通して「女性」を描いたのである。
 更に、吉行の小説は一見すると思わせぶりで、数多くの娼婦が頻出するにも関わらず、性描写はほとんどない。そこが吉行の巧さであり、それこそが本物のエロティシズムなのである。簡単に云おう。女性の躰に「触れる」行為と、女性を眺める行為、後者が吉行の小説である。
 そしてそれは、「美」や「耽美」なる大袈裟なものに繋がらないからこそ、逆に吉行の小説は輝きを放つのである。
 

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時代の渦中へ

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 戦争は時として人の運命をあらぬ方へといざなう。だが、それが仕組まれた罠であったらどうだろう。そうとは知らずに死んでいった者以上に、残された家族の心中ははかりきれないだろう。戦争がもたらすそんな悲劇を痛感させられる西木正明の『夢顔さんによろしく』の主人公、近衛文隆は、近衛文麿の嫡男にして細川護熙の伯父という、名門中の名門の跡取りである。
 戦前、プリンストン大学に留学し、その後、上海でも女性スパイと恋に陥るなどして奔放な生活を送っていた文隆。しかし一方で彼には政治的な先見性、交渉力、知識もあった。人脈も豊富だった。それゆえに彼のとりまきの中には、リヒャルト・ゾルゲや尾崎秀美もいた——というところから彼の運命のベクトルは時代のうねりに巻き込まれていく。
 奔放な生活を送っていただけに、文隆は異例の招集となる。そして旧満州で終戦を迎えるが、新妻を日本に残したまま抑留、シベリア各地の収容所を十一年間ものあいだ転々と移されるのである。その間、彼は家族に宛てて検閲に引っかからないよう細工を施し手紙を送る。それが本書のタイトルにもなっている「夢顔さんによろしく」である。家族はその意味不明な言葉が記された手紙を何度も何度も受け取る。それが文隆にとって、獄中から願いを込めた言葉であるとは知らぬままに。はたして「夢顔さんによろしく」とはどんな意味なのか。本書は史実を材にとった、手に汗握るミステリー仕立てのノンフィクション・ノベルである。

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紙の本砂の女

2002/05/11 23:26

シュールな絵画

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『砂の女』というタイトルにはどこか蠱惑的な響きがある。コケティッシュな匂いがする。シュールな香りが漂っている。見てはならないものを木陰からそっと眺めているような気がする。それは例えば全裸の女性が砂にまみれている姿。それは例えば夜な夜な誰もいない公園で砂を口しているグロテスクな女性。それは例えば砂場に埋もれた女性の死体。それは例えば砂場に全裸のまま仰向けになって「ああ、冷たい」と小声漏らす傷を負った女性——そのどれもがあまり日本的な情景とは言えない。そう、言うなれば『砂の女』はシュールレアリスムの絵画なのである。読んではならないのである。
確かに、多くの識者が言うように『砂の女』にはある種の回帰願望もあるのかもしれない。奇しくも本書が刊行されて間もなく、江藤淳が『成熟と喪失』で母の崩壊を謳い、以来、それはあらゆるジャンルで一人歩きするようになった。従って時代意識としても本書はその象徴であったのかもしれない。砂の穴は母という自然への回帰であった、と。
 しかし、繰り返すが本書は読み物ではない。鑑賞するものなのである。
 昔、小学生の頃だったか、かの有名なルネ・マグリットの『恋人たち』を観たことがある。怖かった。迫ってきた。二人の顔は布で覆われているが、まるで僕を見ているようでもあった。『砂の女』もそれと同様に、読者と書物が相互に向き合う一種の絵画なのである。

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