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佐々宝砂さんのレビュー一覧

投稿者:佐々宝砂

43 件中 1 件~ 15 件を表示

だからドロシー帰っておいで

2002/04/23 05:35

ドロシーはここにいる。血まみれのこの世界に。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 まず、平凡な三十代の主婦伸江が主人公として登場する。伸江はいつもの街でいつものように買い物をしようとして、いつのまにか異世界に紛れこんでゆく。しかし現実の伸江はどうやら発狂してしまったらしい。狂った伸江の内的世界での興奮に満ちた冒険と、現実での猟奇的な出来事が並行して描かれてゆく。……と説明しておこう、一応は。ほんとはちょっと違うのだけど、まだ読んでないヒトには内緒。

 タイトルに「ドロシー」とあることからもわかるように、この小説は『オズの魔法使い』を下敷きにしている。オズの世界でドロシーが連れていたのはトトとカカシと臆病ライオンとブリキの木こりだが、伸江の道連れはもっとグロテスクで異様だ。コト(一応は犬)、ミロク(実は単なるホームレス)、クビツリ(実は首吊り死体からもぎとってきた腐った手首)、地蔵(実は<ブリキ人形>とあだ名されている痴呆老人)、この三人(?)とともに響子はオズノ王がいるという地をめざして進んでゆく。オズの世界に道標として黄色いレンガ道があったように、この異世界にも黄色い道しるべ(実は盲人用の黄色い点字ブロック)があって、そういう細かいお遊びもたのしい。

 しかし単に『オズの魔法使い』グロテスク・バージョンというわけではない。異世界そのものが非常に魅力的で、へんてこりんなものがたくさん出てくる。雄も雌も裸の女そっくりのヒトニウマ、そのヒトニウマと人間との混血で頭のかわりにすぼまったイソギンチャクのような口を持つ唾女(つばめ)、傷つけると血液でなく漆を分泌するウルシビト……しかし、異世界での冒険と現実での出来事とが同時進行で描かれているため、読者は単純に異世界の楽しさを満喫するのではなく、幻想の裏返しである流血の惨事をも見せられることになる。最初のうちはいちいち舞台裏を見せられているような気がするが、実はそうではない。本当は何が起きていたのか? ということは、最後まで読まなくてはわからないのだ。

 ラスト・シーンでは、サザエさんの主題歌にのって戦慄すべき血みどろの光景が繰り広げられる。今私は「戦慄すべき」と書いたが、正直なところ、戦慄しなくちゃいけないよねと思いながら私はちっとも戦慄なんかしなかったのだ。むしろとても愉しくてサワヤカで晴れ晴れ……してしまったのだった。あとがきで著者が言うには、「この物語を愉しいと感じるか恐ろしいと感じるかで、あなたのつらさの度合いが測れるような気がしないでもない」のだそうだ。もちろん、愉しいと感じるヒトのほうが人生つらいのだ。でも、私、そんなつらい生活送ってるわけじゃないけどなあ……すごくいい小説なんだけど、このあとがきだけは言わずもがなではないかしら。 

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ねぎ坊主畑の妖精たちの物語

2001/11/23 04:44

かなり怖い、かなり奇妙で上質な夢

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 かなり怖い、かなり奇妙な7編を収録。一応は児童文学に分類される本であり、童話集のような体裁をとってはいるが、この作品集は子供向けではない。子供にこんなものを読ませたら、性格がひん曲がりかねない。だが傑作短編集であることは保証しよう。この作者の物語にいつも特徴的なことだが、提示された謎は、そのほとんどが明かされないままに終わる。不条理な展開。説明がない。不安が募る。構成と叙述にはいたるところに作者の仕掛けかあり、純な読者でなくとも翻弄される。だが慣れればそれが快感となる。

 私は、30歳というけして若くない年にこの本を読んだのだが、「夜の道」と「土神の夢」のラストには全くホントに震え上がったね。平凡なホラーがアホに見えるほどだ。血飛沫が飛べば怖いというものではない。「夜の道」は、幽玄で、どこかノスタルジックで、泥臭い。血など一滴も飛ばない。そのくせ、非常に恐ろしい。

 この本の中で、私が最も偏愛するのは、「杉の梢に火がともるとき」という小説である。これは非常に謎めいた小説ではあるが、不条理ではない。この世界の条理とは違う、別な条理が存在している。そして描写は観念的ではなく、視覚的で的確で素晴らしく幻想的だ。たとえば、崖の下から積み上げられた何百枚のふわふわした敷きぶとん。主人公がそのふとんに飛び降りると、何百枚のふとんはみな崩れ落ちて主人公を崖の下に運ぶ。なんという光景。なんという躍動感。私はすっかりこの情景に魅せられ、夢にまで見てしまった。そうだ、天沢退二郎の書くものは、みな、上質の夢にそっくりなのである。そしてそれは、実にしばしば悪夢に変わるのだ。

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クラバート

2001/10/05 02:49

大人と子供のためのビルドゥングスロマン

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 チェコスロバキア生まれのドイツ人であるプロイスラーは、愉快な年少向き童話『大どろぼうホッツェンプロッツ』を書いたことで有名な人である。ホッツェンプロッツも悪くはないが、私は『小さい魔女』『小さいおばけ』などの小品が好きだ。プロイスラーの作品には、魔女やおばけなどのヘンテコなもの、ハズレモノに対する優しさがあふれている。その作品世界は底抜けに楽しく、明るい。多少のいざこざがあっても世界はおおむね平和に保たれ、楽しい大騒ぎに疲れて家に帰れば、ふかふかした寝床とあつあつのスープが待っている。プロイスラーの作品は、まあだいたいそんなものであると考えていい。

 しかし『クラバート』は違う。『クラバート』の世界は厳しい。そこに描かれるのは、プロイスラーの他の作品に見られる平和な暖かさではない。

 辻で物乞いをしていた14歳の少年クラバートが、粉ひきを生業とする水車場の見習いになる……というのが物語の発端である。クラバートは、暖かい寝床とまあまあの食事と引き替えに自由を失い、厳しい労働の日々を送るようになる。水車場の先輩たちは、きつい仕事に汗一滴かかず、指をパチンとならして一瞬で掃除を終わらせるような魔法にも精通している。なのに、誰もが不安に悩まされているような顔色をしている。クラバートにとってはわからないことばかり続き、誰もきちんとした説明をしてくれない。

 親方は厳しく、冷たい。水車場の生活に慣れるにしたがい、恐ろしい事実がわかってくる。たとえば、水車場のすみにある「死のうす」と呼ばれるうすが粉にひくのは、どうやら小麦ではなく人骨であるらしい。また、一年ごとに水車場の誰かが選ばれて死んできたということもわかってくる。恋も許されていない。親方に恋人の名を知られることは、その恋人の死を意味している。

 クラバートたちの生き死にさえ、親方の手にゆだねられている。しかし逃亡もできない。自殺さえできない。しかし、そんな状況であっても友情や信頼が育まれてゆく。クラバートは水車場に尊敬できる先輩を見出し、友人や後輩を持ち、一挙に成長してゆく。それは親方の魔法にかけられた結果でもある。クラバートは少年時代の楽しみを満喫する間もなく、無理矢理大人にさせられてゆくのだ。

 この物語は非常な緊張感に満ちている。しかし、同時に、プロイスラーの他の作品に見られるような、ほっとするような優しさに満ちてもいる。優しさだけではない。恋もある。友情もある。抵抗と解放がある。諷刺も自然描写もある。ドイツのスラヴ系少数民族ヴェンド人の間に伝わる伝説を元にしているそうだが、伝説のように断片的ではない。いわゆる教養小説(ビルドゥングス・ロマン)に分類されるべき長編小説である。児童文学ではあるけれど、大人の観賞に充分耐えうる作品である。装丁も子供っぽくないほうだから、カバーなしで読んでもそんなに恥ずかしくない(そういう児童書は案外珍しい)。ぜひ読むべし。

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エンガッツィオ司令塔

2002/06/07 00:47

過激にして、哀切。

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 断筆解除後初めて出た短編集…というと、どうしても読者の目は作品の過激さに目が向く。この短編集は、その期待を裏切るものではない。新薬実験を描く表題作をはじめ、罵詈雑言そのものを主題にした「乖離」、ドラッグについて書かれた「猫が来るものか」、とある国の二代目支配者を連想させる独裁者を主人公にした「首長ティンブクの尊厳」などなど、気持いいくらい過激な作品群が収められている。ことに、「乖離」のエスカレートぶりは読んでいて快感だ。作者も書いていて快感だったのではないか。

 しかし、「越天楽」「東天紅」「ご存知七福神」の三作品は、先にあげた作品のような一見してわかる過激さを持ち合わせていない。これらは神々と人間をからりと笑い飛ばした笑話集で、いかにも筒井が描きそうな神が、いかにも筒井の好みそうなちょっとしたいたずらに明け暮れる様が語られる。ブラック・ユーモア好きには楽しめるであろう、軽く読める面白い作品ではあるが、ただ、それだけだ。もっとも、ただそれだけの作品さえ、今の出版界には希有なのだが。

 この短編集の中で重要な作品は、「夢」と「魔境山水」だろうと私は考える。どちらも派手な作品ではない。「夢」は、藤枝静男の「一家団欒」と似た感触を持つ、やや私小説的な肌合いの作品である。しかし、「夢」には「一家団欒」の温かみがない。結末は、筒井康隆らしいといえばいえるものなのだが、もうひとつ何かが足りないような不満を読者に与える。

 だが、「魔境山水」は、文句のつけようのない本当にすばらしい幻想小説だ。短い作品ながら「魔境山水」は、『旅のロゴス』や『驚愕の廣野』の筒井が帰ってきた、と思わせる力を持っている。私が読みたいのは、「魔境山水」みたいな作品だ。「魔境山水」には、私が筒井康隆に期待するものが一通り揃っている。汚れていて、滑稽で、嗜虐的で、情欲丸出しで、まがまがしくて、幻想的で、過激にして、哀切。

 そういう筒井作品が好きなのは、たぶん私だけではないだろう。

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三つの小さな王国

2002/04/28 03:54

ゲージュツの三つの顔。

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 冒頭におかれている「J・フランクリン・ペインの小さな王国」は、1920年代アメリカの架空のマンガ家を主人公にしており、とっつきがよく読みやすい。「夢の国のリトル・ネモ」の作者を彷彿とさせるこのマンガ家は、大衆受けするマンガを新聞に連載する一方で、自宅の二階で凝りに凝ったアニメ映画を製作している。セルも使わず、一万枚を超えるドローイングをたったひとりの手作業で描きあげてゆく。

 作中、ペインのつくりあげるマンガとアニメ映画がとても面白そうで、なんとしても見てみたいような気にさせられる。メタ・フィクション的自由さでマンガのコマを飛び抜けてゆくサルが主人公の「いたずらフィガロ」、丹念に描いた都市の風景に謎の巨人が立つ「都市の怪人」、夢幻的な遠近法を駆使しているというアニメ「十セント博物館の日々」……タイトルだけでもすてきだ。

 仕事も妻も失うほどに丹精してつくりあげた最後の作品「月の裏側」の試写のシーンで、この小説は終わる。急転直下現実を離れるそのラスト・シーンは、幻想的なだけでなく、感動的でもある。

 三つめの小説「展覧会のカタログ」は、文字通り展覧会のカタログのスタイルをとって、架空の画家ムーラッシュの生涯をえがいたもの。小説としての表現方法は前衛的だけれども、表面的な内容はある意味古典的だ。芸術家の兄とその生活を支える妹の愛憎、そして破滅。画家の人生そのものは「ありがち」にさえ見える。

 しかし、ムーラッシュの絵のなんと魅力的なことか。実際には目にすることのできない彼の架空の絵が、文章そのものから浮かび上がってくる。美術的才能があるとはいえない私でさえ、ヴィジュアルに想像してしまうのだ。自分でも絵を描くようなひとがこれを読んだらどう思うのだろう、誰かそういうひとにこの小説を読ませて訊ねてみたい。案外、こんな絵は現実にはありえない、描けっこないと答えるかもしれない。

 たとえば「死のソナタ」と題された絵は、暗い絵の具のうえに黒い絵の具を厚く塗り重ねたもので、真っ黒なように見える画面をよくよく眺めると、死神のような人影とピアノと月が見えてくるのだという。「白の中の白」という抽象画は現実にあったけれども、「黒の中の黒」というべきこの「死のソナタ」、実際に描けるものなんだろうか。絵の技法には詳しくないのでなんとも言えないが、こんな絵を描くのは微妙にムリなんじゃないかという気がしないでもない。現実の絵では味わえない何か、しかしやはり絵であるとしかいえない何か、そういうかなり複雑なものをこの「展覧会のカタログ」は垣間見せてくれるのである。

 まんなかにおかれた作品「王妃・小人・土牢」で語られてゆくのは、古典的な恋愛と不信の物語だ。王は、王妃と辺境伯の関係を疑い、ふたりを追いつめ自分をも苦しめる。王妃は、辺境伯に恋している自分を自覚しないままやつれてゆく。小人は、王妃と王の双方にとりいって、土牢に囚われた辺境伯に穴掘りの道具を与える。そして辺境伯は穴を掘り続ける。

 この作品の語り手は、自分が住む平凡で実際的な街の描写と、城で繰り広げられるロマネスクな物語とを交互に語ってゆく。現実であるらしい街と、物語であるらしい城は、作品のはじめのほうでは対比されているのだが、最後には奇妙なかたちで融合する。しかも城の物語はいくつにも分岐して、四角関係が最終的にどんな結末を迎えたかは誰にもわからないのだ。いや、もしかしたら、城の物語はまだ終わっていないかもしれないのだ。

 この作品は、ちょっと見たところでは全く芸術に関係しない小説のようで、他の二作品と異質に思える。しかし、読み進んでゆくとわかる。この作品も芸術とその成立を主題においたものなのだとおもう。物語というものも、やはり、芸術の一形態だからである。

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じつは、わたくしこういうものです

2002/04/23 02:21

じつは、あなたはナニモノなの?

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 クラフト・エヴィング商會の本は、好きだなあ欲しいなあと思っても思うだけで買わないことが多かったんだけれども、この本はつい買ってしまった。新聞の書評欄に載ってたこの本の「シチュー当番」の写真が、あんまりにもかわいかったからである。写真に惹かれてつい本を買っちゃうなんて、いったい何年ぶりだろうか。

 クラフト・エヴィング商會は、あるようなないような、いや実際はないに決まっているけどあったらいいな的なモノを、製図用ペンで生真面目な昔の広告風に描くひとたちだった。今回も、「あるようなないような、いや実際はないに決まっているけどあったらいいな」というものを書いてるのは同じなんだけれども、これまで「物」を書いてたのに対し、今回は「者」=人間を書いている。簡単にいうと、ありそでなさそな職業人(?)たちを写真つきのインタビューで紹介してる本なのだ。

 まず登場するのは「月光密売人」で、これは名前といい内容といいすごくクラフト・エヴィング商會らしい。写真を見ると、一癖二癖ありそうなおっさんが、黒い服着て手の中に光を抱いている。うん、月光密売人はこうでなくっちゃねという感じ。そういう、「こういうことを職業にしてるひとはこうでなくっちゃね」というこの感じが全編にあって、しかもどのページを繰ってもすてき。

 なかでもいちばんすてきなのは、すでにちょっと触れた「シチュー当番」だ。あとがきによれば、雑誌連載当時もやっぱり「シチュー当番」が一番人気だったそうな。この「シチュー当番」さん(女性)は、春と夏は働いて冬は読書にふける人たちのための冬眠図書館の司書さんである。夜八時に開館して朝八時まで開いているこの図書館は、訪れる人のためにブランケットとコッペパンとコーヒーとシチューを用意していて、「シチュー当番」さんは司書であると同時にシチューをつくる係でもあるわけ。もうこの設定だけですてきでたまらんのだけど(笑)、「シチュー当番」さんの写真がまたよいの。大きな目にメガネかけて髪はひっつめで地味な服着てスカートは長くていかにも司書らしいんだけど、すごくかわいいの。こういう司書さんやこういう図書館、なんで現実にはないのかしら。もしもあったら絶対常連になるのにいっ。

 「シチュー当番」さん以外にもすてきな職業人(?)がたくさん登場する。「秒針音楽師」「時間管理人」「地暦測量士」「冷水塔守」……名前をこうやって並べてゆくだけですてきでしょう? 写真に撮られた彼らは、現実にはコピーライターさんだったり事務屋さんだったり大家さんだったりするのだけれど、その現実の職業こそがいつわりで、『じつは、わたくしこういうものです』に語られた職業のほうこそがホントなんじゃないかなって思えてくる。かくいう私も、あなたも、じつは、自分で思っているような職業についてるのじゃなくて、この本に語られたようなフシギななにものか、なのかもしれない。

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夜の姉妹団 とびきりの現代英米小説14篇

2001/12/30 07:14

読書だけが与えてくれる奇妙で不思議な体験

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 日本で言うところの純文学ではない。幻想的ではあるが、純然たるファンタジーではない。昔懐かしいジャンル名「奇妙な味」が近いのかもしれないけれど、その切れ味は昔の「奇妙な味」など足元にも及ばない鋭さだ。個人的に好きなものをとりあげるなら、やはり表題作の「夜の姉妹団(ミルハウザー)」。夜な夜な家を出て森に入り、そこでなにごとかをしている少女たち。何をしているかと問われても少女たちは答えない。偶然、彼女たちの集会を目撃した大人は、ただ坐って沈黙を守り続けている姿に不安を感じて集会を最後まで見届けない。大人たちは想像する。少女たちは夜の森でいったい何をしているのか? 何かみだらなこと? 古代の宗教に関わるようなこと? 犯罪? それとも……。ここにはサスペンスがある。しかしそれはサスペンスドラマのサスペンスなんかじゃない。前衛的で、自制的で、リアルで、空想的で、律儀で、伸びやかなサスペンスだ。夏の夜の森の匂いと、アイスキャンディーの甘ったるい匂いを漂わせて『夜の姉妹団』と名づけられたこの短い報告書は終わる、秘密の内奥を明かさないままに。
 レベッカ・ブラウンとレベッカ・ゴールドスタイン、2人のレベッカが書いた小説は、どちらも非常に美味だ。ブラウンの「結婚の悦び」は幻想的新婚小説(?)、大爆笑できて、しかも哀しいという滅多にない傑作。ゴールドスタインの「シャボン玉の幾何学と叶わぬ恋」は、三人のユダヤ人女性(祖母と母と娘)で構成される家族を描いたもの。こちらには幻想味はない。個性的な3人の女性たちは、お互いわかりあってるようで実は違う言語で喋りあっている。3人はそれを知っている。血がつながっていても違う人間なのだと知っている。3人とも違っていて、3人とも美しい。
 男性におすすめはスチュアート・ダイベック「僕たちはしなかった」、ナニをしなかったの? なんて野暮なことを聞いてはいけない。こういう小説こそが切ない失恋小説なんだ。きっとそうなんだ。ゲイ作家ジェームズ・パーディの「いつかそのうち」もとても切ない失恋小説。薄汚いポルノ映画館で探し求めるのはかつての恋人「家主」の姿。「家主」の呼び名はいつしか主人公の心のうちでは「我が主」に変わり……皮肉な結末がこれまた切ない絶品。もうひとつ、ラッセル・ホーバン「匕首(あいくち)をもった男」が男性向き。。書斎にこもって「ボルヘスがどーたら」と言っている青白い男どもは、ぜひともこれを読むべし。とびきり美人な骸骨が、あなたを未知の世界に案内する。未知の世界は危険な世界だ。照りつける南部の太陽、地面に投げつけられるナイフ……。
 それから、ドナルド・バーセルミの小品が三つ載っている。まず最初の「アート・オブ・ベースボール」が死ぬほど笑える。遊撃手T・S・エリオットに一塁手スーザン・ソンタグだぞ。これが笑わずにどうする。次の「ドナルド・バーセルミの美味しいホームメード・スープ」もおかしい。ああおかしい。微妙にはずしたギャグが愛しい(どういう趣味だ)。バーセルミって実はアメリカの清水義範だったのである。そうとしか思えない。そう思いつつ三つめの「コーネル」を読む。と、とたんにバーセルミは清水義範でなくなる。バーセルミはバーセルミなのである。
 懐かしく苦いのは「境界線の向こう側」という小品。1955年レニングラードに生まれ、1986年アメリカに渡り、英語の小説を書き続ける作家ミハイル・ヨッセルの作品。今はもうレニングラードと呼ばれる土地はないのだと奇妙な感傷を抱きながら、旧ソビエト時代のがんじがらめの檻の中から透かしみた、遠いアメリカの姿をみる。それは不思議な体験だ。こういう体験は、読書だけが与えてくれるものなのだ。

百鬼の扉

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星踊る綺羅の鳴く川

2001/11/27 14:40

絢爛たる幻、静謐なる怪奇

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 横尾忠則描く表紙が美しい。火焔に巻かれて舞い立つ巨大な鯉に、満開の桜と花火が華を添える。しかし、遠景に見えるのは、川の中でもだえ苦しむ亡者の群だ。よく見れば、炎に灼かれる亡者の姿も見える…

 さて、本をひらけば、のっけからただならぬ気配。「色濃い闇が垂れ籠めている。/ なにも、見えない。なにも、動かない。ふだんは、ここは、物音ひとつしない、静謐(せいひつ)の大暗黒に領された死の国である。」 冒頭からこの緊迫感。そして、ねっとりと色濃い闇に、きらびやかな涼しい音色が響く。闇に浮かび上がる、銀の小花の花櫛。舞台の一角が照らされるように、そのまわりだけが明るくなって。

 そこまで読んで、私は気づく。普通の小説を読むようにするすると読んでは、いけないのだ。舞台監督になったつもりで、脳裏にくっきりと絵を浮かべて、読むべきなのだ。そのまま舞台にかけられそうな感じがするのに、ト書きのようなポキポキした描写ではない。恐ろしく詩的だ。そこに芝居めいた台詞で登場するのは、夜着に羽織をひっかけた若者と、姫姿に着飾った太夫(たゆう)。続いてていねいだが俗っぽい口調で現代の女優が現れる。三人の台詞から察するに、そこは、通常の世界ではないらしい。女人禁制の魔界なのである。そしてそこの住人は一種の精霊なのだ。肉体が亡びてもなお、消えることなく生きている、妖しい存在。彼等の暗黒の国は、江戸爛熟退廃期の楽屋そのもの。賑やかに騒ぐのは女形、床山、若衆、囃子方(はやしかた)、黒衣(くろご)…彼等は、桜の精気を吸い取って、芝居遊びに桜遊びとしゃれこむ。そんな魔界に、生身の、しかも女が侵入したのだから、無事にすむはずがない。太夫の一人はまなじり決して「いけしゃらくさい、帰れ!」と命ずるが、当の女優とて、伊達や酔狂でこの魔界を訪問したのではない。彼女には、彼女なりの、狂おしいまでの芝居への情熱があった…

 こんな要約は本当のところ無意味。贅を尽くした文章の綺羅を味わうべし。私の書評なんか読むのやめて、さっさと『星踊る綺羅の鳴く川』をお読みなさい。申しあげることは、これッきり。サァサ、お早く、お読みあれ。

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緑の幻影

2002/04/18 03:22

猟奇の果ての奇妙な安堵

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 著者は20世紀最後の怪奇小説家を自称していた人だが、この本はあまり正統的な怪奇物ではない。ひねりをくわえたクトゥルー・ホラー、キャッチャーのミットに入り損ねてどこか異次元にすっ飛んでいった変化球とでも言おうか。万人におすすめできる代物ではない。しかし、どぎつい緑と赤の装丁、不気味な蛇女がモノクロで描かれている表紙、そんなものを見て狂喜するような読者には気兼ねなくおすすめしていいだろう。

 倉阪鬼一郎お得意のいつもの手法だが、物語の随所に、仕掛けが施された思わせぶりな詩、奇妙なタイトルの歌などなど、アクロスティックとアナグラムがふんだんに散りばめられている。物語は、発端からホラーらしい不吉な予感とシンクロニシティーに彩られており、ホラー好きな読者を期待させずにはおかない。ホラー雑誌の編集を生業とする主人公白坂は、取材のために田舎町の温泉を訪ねる。その地は、白坂の知人である女編集者が行方を立った土地であり、謎めいた詩を投稿する読者が暮らす精神病院が建っている土地でもあり、クトゥルーを思い出させる奇妙な伝説が伝わっている土地でもある。そのうえ、その町には赤無(あかむ)という地名があり、屍が赤子を食い尽くしたという伝説が残っているのだ。言うまでもないことだが、この赤無なる地名を見てニヤニヤしない人にはこの本は不向きである。

 物語が半ばを過ぎたあたりから幻覚と現実が入り交じってゆき、現実と思っていたものが次々とひっくり返される。主人公同様に読者も翻弄されてしまう。今度こそ現実と思って目醒めても、まだ悪夢の中なのだ。そして悪夢から醒めることはなく、真っ赤な血が飛び散り惨劇のさなかに幕が下りる…しかし、全く怖くない。少なくとも私には怖くない。むしろ私は、このラスト・シーンに奇妙な安息を感じる。正統的な怪奇小説ではない、という印象は、もしかしたらそういう読後感のせいかもしれない。この奇妙な安らぎがあるから、私はこの本を好きになったのだけれども。

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チャリング・クロス街84番地 書物を愛する人のための本

2002/03/26 01:10

偏屈にして、懐かしく。

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 とても有名な本だし、アン・バンクロフトとアンソニー・ホプキンスの主演で映画化されてもいるので、ご存じの方が多いだろう。筋書きはごくごく簡単。英国チャリング・クロス街にある古書店の店員と米国の女流脚本家が、書物と贈物と手紙のやりとりを1940年代末から60年代末にかけて20年間続ける。ただそれだけの往復書簡集。究極のプラトニック・ラブだとか、本を愛する人のための本だとか、よくそんな言葉で紹介される。

 突然こんな古式ゆかしい本を再読したくなったのには、わけがある。私は、昨日書いた文章が今日はもう古くなってしまうインターネットの速さと、ネット中にあふれかえる自己主張の大群にうんざりしてしまったのだ。もうすこし、ゆっくりした時間の流れがほしい。ありきたりな自己主張ではなく、抑制のきいた偏屈さがほしい。この本に描かれる脚本家と古書店員の交流はハタから見てるといらいらするほどのんびりしていて、しかも偏屈で紳士的で、私にはとても好ましいのだ。

 書簡中に言及された書物の名前を見る限り、脚本家ハンフの読書の趣味はかなり偏っている。英国の古めかしい説教集や随筆に感激したり、届けられた『ピープス氏の日記』が抄録であることに怒り狂ってどこが足りないかいちいち指摘したりするあたり、相当に気合の入った偏屈読書家だと言ってよい。私自身もまあどっちかというと偏屈読書家だけれど、ハンフとの共通点はアーサー・クィラ・クーチが好きだということぐらいだ。ハンフの好みでないらしいプレイクの詩が私は好きだ。また、事実を描いた文章を好むハンフと異なり、私は人工的で作為的な文章が大好きだ。

 しかし、それでもやっぱり私にはハンフの気持ちがよくわかる。本が大好きで、スジの通ったキッパリした読書傾向を持っている人ならば、誰だってハンフの気持ちが理解できるんじゃないかと思う。届けられた本を開封する嬉しさ。元の持ち主の愛読した箇所がパッと開く、そんな古書に出くわしたとき陥る、同志を見つけたかのような心地よい錯覚。自分の嗜好を誰よりも理解してくれる人を見つけた喜び。ときどきの贈り物。手紙の向こうにいるのが機械ではなく人間だと実感させてくれる、文末にわずか付け加えられた心情の吐露……

 いま巷で売れているらしい『インストール』と真っ向から対立する位置に、この本はある。セキララでありながら大切なことだけは言わないでいるチャットの世界に疲れてしまったら、ぜひチャリング・クロス街の84番地にどうぞ。店はもうないそうだし、書店員はハンフに逢うことなく亡くなってしまうのだけれど、彼等の偏屈にしてどこか懐かしい愛の記録は、こうして残っている。

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屍船

2002/06/13 03:26

哄笑と寂寥の右翼みみづく

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 十七編を収録する短編集。この本、装丁がえらく洒落ている。クラサカ氏の本の中で最もうつくしい本かもしれぬ。夜と月の匂いがするイラストがすてき。しかしカバーをとると、真っ赤な生地に白い髑髏がデンとあって、やっぱり怪奇なのである。お洒落なだけではつまんないもんね。

 異形コレクションに掲載された短編を中心に編まれているが、かなり玉石混淆な気がする。短いくせに効果的な入れ子構造を持つ「墓碑銘」のような傑作もあれば、どうかなーと首をひねるほかない「おじいさんの失敗」みたいな作品もある。初心者向き、ではないかもしれない。

 しかし、私は力入れてこの本をすすめたい。なんでかって、この本には倉阪鬼一郎の最高傑作短編(と私が勝手に思ってる)「みみづく」が掲載されている! いきなりやってきて「みみづく新聞である! づはすにてんてんではなく、つにてんてんと表記する」とのたまうみみづくは、なぜか右に偏った思想の持ち主で(左ではつまらん)、大いぱりで新聞の勧誘をする。どういう話だそりゃとお思いになったら、ぜひ読んでいただきたい。わずかに10ページしかないこの物語は、寂寥と、笑いと、幻想と、残酷さと、それから「救い」としか言いようのないものを読者にもたらすのである。

 これこそ、私の好きなクラサカなのです。ああ好きだわあ。……って、ラブレターじゃねえんだ、これは書評なんだった。あわてて付け加えておくと、他にも面白い小説載ってます。おすすめは「白い呪いの館」、「事件(ことくだん)」、恐ろしくも美味な「ラストディナーは私と」。

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わが青春の詩人たち

2002/05/29 05:08

なつかしい時代の詩人達の肖像。

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 詩の巨人たちの本である。当たり前だが、私ごときはこの本に登場できない。末席を汚すことすら難しいことのような気がする。詩人たちとの交流の追想の本だから、当然のことながら、いくつも詩が引用されている。最初に引用されているのは、難波律郎の「黒い祈りの夜」。絶望に満ちたその詩に酔いしれる私に、三木卓の文章は、その詩を書いた難波律郎がまだ二十代半ばであったことを告げる。はあ、さようでございますかと私は溜息をつく。二十代半ばにしてこの詩、見事なもの、絶対私には書けません。そのあとにおかれた大岡信の二十代半ばに書かれた詩も然りで、私は呆然と感嘆しているほかない。年譜の読後感と同じである。ただもう、羨望と賛嘆と畏怖なのである。

 しかし、かれら詩人の群に入り交じった三木卓自身もまた、先輩詩人たちを畏怖し、おっかないと思い、とてもたちうちできないと感じていたのだと思う。そんなふうに読者に思わせる点で、三木卓はとてもやさしい。かれは謙虚であるというよりやさしいのだと私は思う。三木卓自身の詩業について、かれはこの本の中ではほとんど触れていない。かれの最初の詩集が出たときなんかものすごく嬉しかっただろうと思うのに(かれの最初の詩集『東京午前三時』はH氏賞を受賞)、かれはそのような自分の業績には触れず、詩人たちに対して感じた畏怖や自分の生活の不安や羞恥を、さらけだすでなく、隠すでなく、語ってゆく。

 登場してくる詩人たちは数多い。全部で何人いるのだろうと数えてみようとして、やめた。詩人を数にするなんて野暮だし失礼だ。そんな風に思わせる本だ。ほんのわずかしか登場しない詩人も、名前に過ぎないのではなく、詩の作者としてだけ登場するのでもなく、確かに血肉を持った人間なのだと感じられる。しかし、詩人たちが等身大に描かれているとは思わない。三木卓は、あくまで自分自身の目に触れた詩人たちの顔を描いている。たとえば、金子光晴は「恐ろしい」と書かれている(ついでに言うと、当たり前だが私にも金子光晴は恐ろしい)。

 文中には、詩人たちの印象的なエピソードがいくつも出てくる。ときどき気がちがう長谷川龍生、酒を飲むと目の色が変わる黒田三郎、九州の豪族のようだったという谷川雁……。とりわけ私に印象的だったのは、清岡卓行のエピソードである。清岡卓行の妻が病の床にあったとき、病気であることだけはみなが知っていたが、誰一人その病名を知らなかったという。清岡卓行は、たぶん、とても親しい人にも自分の苦悩を見せなかった、妻の病名さえ明かさなかった。しかしかれは、病んだ妻が亡くなった葬儀では、大粒の涙をこぼしてぬぐおうともしないのである。いかにも清岡卓行らしい話で、せつない。

 四十年以上も前のことを語っている本だから、故人の名が多く出てくる。生きてこの本を書いた三木卓が、まるで「生き残り」のような気さえしてくる。生き残りが語る青春の記録。アパートの煎餅布団と、安ウイスキーと、アルバイトと、共産党と、貸机ひとつの小さな会社と、失職と、それからもちろん詩と、議論と……。三木卓が「わが青春の」と語るその時代は同時に戦後現代詩の青春でもあったのだ、と誰にでも言えそうなことを訳知り顔に言ってこの書評を終わりにしてもいいのだけれど、なんとなくそうしてしまいたくない。

 それじゃここにいる私はなんなのよ? 三木卓の子どもの世代にあたる私が、ネットという新しい土俵で書いてる詩はなんなのよ? と私は考える。いずれ誰かが『わが青春のネット詩人たち』を書くとしても、それを書くのは私ではない。そしてその本は、三木卓の著書のようには人間くさくなく、優しくもないものになるだろう。

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ケルト民話集

2002/04/16 03:33

白熱の静謐

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 やや上級者向けのケルト本。著者曰く「ウェールズのケルトには余裕がある。アイルランドのケルトは楽天的だ。しかしスコットランドのケルトだけは昏く悲しい」。この『ケルト民話集』は、そんな荒涼とした北方的昏さを持つスコットランド妖精譚を集めたものである。民話と銘打ってはいるが、民俗学的な態度できちんと採集したものではなく、複雑な背景のもとに成立している文学作品であり、いわゆる普通の妖精物語とは全く違うものとなっている。

 フィオナ・マクラウドという筆名は女名前だが、実際の執筆者はウィリアム・シャープという男性。霊的なインスピレーションを持続させるために女名前を名乗ったのだとも言われているが、本当の理由は定かではない(話が脱線するが、尾崎翠は両性具有的なフィオナ/ウィリアムの存在に魅了されていたらしく、小説「こほろぎ嬢」でフィオナ/ウィリアムへの思いを告白している)。

 マクラウドの文章は、静謐なのに情熱的だ。彼の作品は、冷たく昏い鉱物的な印象を与えるのに、「白熱」という作品タイトルに象徴されるような不思議な熱を帯びている。子ども向きの妖精譚ではないのだ。ここにあるのは、罪と、罰と、惑わしと、彼岸に対する切ない憧れと、神秘的で幽幻な冥界からの便り。静かな絶叫とでも言うべき不可解な言葉…一度は読んでいただきたい。

 なお、フィオナ・マクラウドの作品は『かなしき女王』(沖積舎)にも収録されている(『ケルト民話集』とダブる作品あり)。この『かなしき女王』も神秘的で昏い短編集である。『ケルト民話集』がお気に召したら、ぜひこちらの方も読んでいただきたいと思う。

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穴掘り公爵

2001/10/05 02:46

慎ましく、大胆、一生懸命でひたむきで、マヌケでトンチンカン。

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 どうでもいい話だが、この本を書いたミック・ジャクソンという人、本名をマイケル・ジャクソンと言うそうな。某有名歌手と同じ名前を筆名にするんではあんまりだというので、ミック・ジャクソンと名乗ることにしたらしい。

 そういえば『穴掘り公爵』なるタイトルも、何かに似ている。真っ先に思いつくのはイタロ・カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』や『木のぼり男爵』だろう。人の非難をものともせず、アホウな奇行を繰り返しひたすらにひたむきに我が道をゆく貴族……というテーマ自体も、カルヴィーノとやや似ている。しかし、カルヴィーノのような軽やかな攻撃性、前衛的な娯楽性を期待して読むと、肩すかしを食らう。私は読んでいる最中に二度は眠りこけそうになった。老人の繰り言でしかない部分があるので、ときどき退屈になるのだ。

 それでも、これはつまらぬ小説ではないし、笑える部分がかなりある。はずしているギャグもあるけれど、電車の中で読んだら笑いをこらえきれなくて恥をかきそうな秀逸なギャグもある。ミステリ的な要素さえあって、最後の最後にようやく明かされる謎は飄逸と悲哀というだけでは説明しきれない面白さを持っている。公爵自身の日記と近所の人の意見をパッチワークのように繋いだ語り口も、なかなかユニークだ。

 この小説のモデルは、19世紀に実在した第5代ポーランド公だという。広大な敷地を縦横無尽に走る巨大なトンネルを掘らせ、そのなかを徘徊したというその人物が具体的にどんな人間であったか、私は知らない。だから、この本の人物造形が実在のモデルからどれだけ離れているのか、私にはわからない。

 本の中の公爵は、確かな実在感を読者に感じさせる。モデルがあるせいなのかもしれないが、それだけが理由ではないと思う。ヘンなことを一生懸命続けている公爵は、革命的な人物ではない。形而上的な、あるいは芸術的な人物でもない。カリスマでもない。ただ単にヘンなことを続けているだけの人なのである。そして本人もそれを自覚している。

 公爵は、年をとって足腰が弱ってきたことを嘆いたり、へんてこりんな健康法をすすめられて閉口したり、知らない町で迷子になってあたふたしたりする。ある意味では実に普通の、愛すべき人なのである。もしかしたら私の町にもこんな人がいるかも知れない……と思わせるリアリティがある。

 しかし公爵は、物語が進むにつれて「普通」からかけ離れた人物と化してゆく。自らの頭蓋に穴をうがち、裸でトンネルを徘徊する公爵の心情を理解することは難しい。そのような公爵の姿をいきなり見せつけられたら、読者は公爵のことを「愛すべき」などとは認識できない。だが、物語の当初公爵はごく当たり前の姿で登場する。そして物語はゆっくりと進行してゆく。知らないうちにゆっくりと進行してゆく病のように、公爵の狂気は少しずつ少しずつ大きくなってゆく。

 この物語は悲劇に終わる。そうなるしかないだろうという終わり方である。公爵の最期はすこし可笑しい。かなり哀しい。公爵の言葉はマジメで、バカだ。その態度は慎ましく、大胆だ。その生涯は一生懸命でひたむきで、マヌケでトンチンカンだ。私は、このような人物とこのような小説がたいへんに好きである。

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風車祭

2002/06/13 03:29

瑞々しい青春小説、老人パワー炸裂奇ッ怪小説!

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 沖縄テイストのこの物語、とにかくとんでもない登場人物が多数登場する、とんでもない話なのだ。池上永一は『バガージマヌパナス』で第6回ファンタジーノベル大賞を受賞しデビューした人だが、『バガージマヌパナス』はファンタジーノベルという割にはファンタスティックな要素を少ししか持っていなかった。しかし、受賞第1作であるこの『風車祭』はすごいぞ。沖縄を舞台にしていることはデビュー作と同じだが、瑞々しい青春幻想小説で、しかも老人パワー炸裂の痛快奇ッ怪小説なのだ。

 主人公は、一応、武志という高校生である。この少年、なんかとてもいい子なのだけど、少し存在感が薄い。それもそのはず、彼のまわりにいるのは、変人奇人怪物ばかり。一番すごいのは仲村渠(なかんだかり)フジという96歳のオバァである。フジは若いときから「長生きする」ことだけを望み、そのためだけに生きてきた。その生に対する執着心、身勝手さ、お気楽さ、無責任さは、もう、呆れるのを通り越して小気味いいほどである。その他の登場人物も一人一人が強烈だ。二百五十年の間さまよっている魂だけの美少女ピシャーマ、そのお供の健気な六本足の妖豚ギーギー。神と交感して不思議な絵を描く浮浪者兄弟、炎天下に腐りかけた残飯をあさる残飯オバァ。こういう途方もない連中が、真夏日の沖縄で無責任に暴れ回るのだからたまらない。

 ストーリーは破天荒かつ複雑。ひとくちには説明できないので、ぜひ手にとってお読みいただきたい。できれば、何も考えられないくらい高温高湿の寝苦しい熱帯夜に、お気楽な気分で、能転気に、どうぞ。

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