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  3. 稲葉振一郎さんのレビュー一覧

稲葉振一郎さんのレビュー一覧

投稿者:稲葉振一郎

18 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本契約の時代 日本社会と契約法

2001/05/15 13:08

「民法の内田」のもう一つの顔

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 期待に違わぬ好著である。10年前の『契約の再生』(弘文堂)は、「契約の死」——主として「意思説」に立脚した古典的契約モデルの機能不全——と新動向としての関係的契約理論をめぐる英米の研究動向をよく紹介してくれる勉強ノートという趣が強かったが、今回の著作は近年の規制緩和やグローバリゼーションの動向をも踏まえ、オリジナルな内田バージョンの関係的契約理論——実証社会科学的知見を十分に踏まえつつも決して法社会学ではなく、あくまでも解釈論としての——が積極的に展開され、現代日本の法状況のなかでその切れ味が試されていく。第6章での借地借家法・定期借家権をめぐる議論など、管見の限りではいまいち迫力を欠くものが多い反規制緩和論・慎重論のなかでは明晰さと説得力で飛び抜けている。また第7章で紹介されている契約法の国際化の話題については、私は不勉強にして今回が初耳であり、大変勉強になった。各種試験必携の内田『民法』(東京大学出版会)しか知らないという受験生の君、君は大勘違いプラス大損している。
 印象深かった今ひとつのポイントは、今更ながらではあるが実証社会科学的、あるいは政策志向の立場からの法律観と法解釈学的、あるいは司法の立場からの法律観の食い違いであった。この辺のギャップを埋めようとする努力はもちろん多々なされていて、たとえば「法と経済学」「法と社会」とかいった新領域が既に確立しているのだが、どちらかというと前者からの後者への越境、挑戦といった趣が強い。これに対して本書などは、逆の方向を目指しているめざましい例と言えるのではないか。
 著者の議論は私にはこう解釈できる。すなわち、政策志向の観点からは法は人や社会の振る舞いを事前的にコントロールする行為規範とみなされ、もっぱらその観点から評価されがちである。たとえば損害賠償や刑罰といった制度は、不法行為や犯罪を防止・抑止する機能において評価されるわけである。しかし司法的な観点にとっては法は主に裁判規範である。つまり紛争が現実に発生してしまったその後始末をする事後的な機能が重視されているのである。このリスク管理の二つの次元、あるいは政策・法を評価する二つの次元は、互いに還元できない関係にあるのではないだろうか。たとえば労働災害や製造物責任における無過失責任とか、あるいはそもそも過失責任まで含めて損害賠償のための保険というものが現に成立していることの意味をどう評価するのか? たとえばモラル・ハザード論は、保険は保険加入者の油断を呼び込み、事故発生率を上げてしまうという危険を指摘し、この観点から公的保険への批判がなされたりもするが、この論法で賠償責任保険の批判をする論者を寡聞にして知らない。この辺は一体どうなっているのだろう?
 例えば第6章で著者は以下のように書いている。
 「経済合理的な理由もなく立ち退きを迫る家主はいないはずだ、という議論がなされることがあるが、紛争の現実を知らないというほかない。借家法1条の2(更新拒絶や解約申し入れに「正当事由」を必要とするとした——引用者)自体、相当悪質な事例が目立って、立法に踏み切ったという事情がある。(中略)もちろん、そのような悪質な事例は現実には例外的事象であろう。しかし、例外現象こそが訴訟になり判決にまで至ることが多いのであり、事後的紛争解決の観点からは、まさにそのような病理的現象でこそ機能する規範が求められるのである。」(230-231頁)
 本書が提起している法の二重の機能というか二つの顔の問題は、社会科学全般にとっての重要テーマでもあろう。一人でも多くの方に読んでほしい好著だ。

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紙の本生殖の哲学

2003/05/18 16:08

怪物を歓待する

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一読して頭を抱える。相変わらずあちこちにアラやでたらめが目立つ。しかし今回は基本的に有意義なことを書いているような気がしてならない、というか、気分のレベルでは肯定するぞ私はとりあえず。
 前著『レヴィナス』ではしめくくりが「繁殖」論であり、次なる課題として肯定的思想としての「人間家畜論」が提起されていたのだが、その展開が早くもここに開始されている。それは『ドゥルーズの哲学』においてよりも明快かつ積極的に、ドゥルーズ継承のひとつのあり方をネグリ&ハートなどよりまっとうに提示するものになっている。
 時論的にいえば本書のテーマは優生思想批判の批判である。既存の左翼の生殖技術批判、生殖技術を悪しき生−権力と見て社会的にコントロールしようという志向を批判し、むしろ逆に「できることはなんでもやれ」と生殖技術の社会化、その肯定的な生−権力への奪還を主張するその論法は一昔前、科学批判以前の伝統的進歩主義左翼を思い起こさせる(生殖技術に女性解放の希望をかけたファイアーストーンなど旧ラディカルフェミニストも)。実際それだけなら旧左翼と、そしてネグリ&ハートと変わらないわけだが、一点重要な違いがある。解放された生殖技術の恩恵をこうむる・収穫を受け取る主体は、われわれではない——プロレタリアートでもなく、人間でもない。それは怪物たち、生殖技術によって出現するであろう怪物たち——つまり、ダナ・ハラウェイのいう意味でのサイボーグ——である、というのだ。ここにその思考はマルクス主義的左翼の臨界を越え、逆説的な形でヨナスやレヴィナスと通じていく(ヨナスやレヴィナスにとって来るべき次世代はなお「人間」であろうがしかしそれはやはり「他者」である)。あるいは『ナウシカ』を思い出されてもよい。これに比べればネグリ&ハートの「マルチチュード」なんてしょせん人間であるから、たかがしれている。
 もちろんこうした議論はある意味過度の楽観主義とも言える。そして本書には、それへの戒めにつながりうる議論も見られる。すなわち、生殖技術・優生思想とは人間家畜化であるわけだが、人間家畜化はすでに既定の事実であって否定してもしようがない。しかし人間家畜化が家畜化の一種である以上、しょせん優生思想にできることもせいぜいそんなところでたかが知れている。自然選択と人為選択は結局のところ連続しているのであり、生殖技術もダーウィン的進化の地平を越えられない——と。だとすれば、アホな優生思想家が夢見るような「神のごとき人々」も期待できないのと同じくらい、小泉が期待する「想像を絶する怪物」も望み薄ではないか、とぼくなどは思う。
 しかし一応この「怪物」について考えてみることは意味のあることではないか。時に「怪物」を生む生殖技術を、そして自然を肯定できないことには、何事も始まらないのではないか。この問題提起は至当であると思える。

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戦後思想としての手塚治虫

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書はある意味で小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)と同じテーマを探っている。すなわち、戦後思想の原点を、語りえぬものとしての戦争体験を語ろうとする試みと捉えている。しかしながら驚くべきことに、その思想的測定深度においてこの小著は小熊の大著をしのいでいる。それは必ずしも、小熊に比べて戦線を限定しているからというだけではあるまい。
 たとえば小熊は江藤淳や吉本隆明のフェイク性について語るとき、戦後民主主義の虚妄を告発する彼ら自身の言説が、自らは戦場を見ていないという事実から逃避するための虚妄であったことを指摘して、斬って捨てるだけである。しかしそのような告発に対して、吉本も、そしてもし生きていれば江藤もおそらく何らの痛痒をも感じなかったであろう。なんとなれば他ならぬ吉本と江藤自身、自らの言説の虚妄なることを承知の上だったろうからだ。そのうえで彼らならこう居直れる。「われわれは戦場には行かなかったが戦時下を生きた、しかしおまえは戦争はおろか安保すらみていないではないか」と。
 つまり江藤や吉本は空虚であるがゆえに戦後民主主義の虚妄を撃つ資格がないのではない。逆にその空虚さこそが戦後民主主義告発の彼らなりの武器なのだ。戦争体験の継承と思想化が「語りえぬものを語る」ことに他ならない以上、その困難さを回避して安易なお題目に堕したり、あるいは逆に戦後言説は、自らの虚妄に深いコンプレックスを抱くがゆえに自他の虚妄一般に敏感な彼らの格好の餌食なのである。
 「語りえぬものを語る」ということの困難さへの自覚が不足し、それにふさわしい作法を磨けなかった戦後思想は、結局世代の壁を越えられなかった、というのが小熊の結論なら、江藤や吉本の、戦後を自らの低みにまで引き摺り下ろすやり口が結局勝ったということになりかねない。
 それに対して大塚は、手塚治虫の「アトムの命題」、「記号的身体で死すべき身体を描く」という難題が戦後のマンガ表現のなかに明確に継承されていくことを指摘し、それを手塚の戦争体験と戦後思想として読みかえようとする。そうすることによって、世代の壁を越えて手塚の「語りえぬものを語る」という課題が今へと連なっていることが明らかにされていく。江藤や吉本の戦後批判に対抗するには、この道こそが本道ではないだろうか。

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読むべし。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は近代日本政治史の権威。まあ余計なことは言わない。以下の引用を見られれば、本書の重要性はおわかりだろう。

 「中途半端の国民が中途半端な改革をなぜ嫌うのであろうか。ここ10年くらい、私はこの「逆説」を抱え込んで、学問的に右往左往してきた。
 しかし、よく考えてみると、これを「逆説」と決めてかかったことが、間違いのもとであった。「中途半端な改革」とは、言い換えれば「実現可能な改革」である。これに反して「急進的な改革」とは、この世で実現しない、あるいは実現されては成らない改革である。かつての日本社会党の「非武装中立論」がそうであり、森前首相の「天皇を中心とした神の国」発言がそうである。(中略)
 そうだとすれば、「常情の国民」(「中途半端好みの国民」)が寛大なのは、実現するはずのない左右の極論に対してであり、実現の可能性の高い「常情の改革」に対しては冷淡であるということになる。」14-15頁

 「明治20年代の徳富蘇峰は10年前の福沢諭吉の思想から何も学ばず、大正3年の吉野作造は明治20年代の徳富の二大政党論を全く知らずに徳富を批判し、昭和33年の信夫清三郎氏は吉野作造の「民本主義」を徹頭徹尾曲解して批判した。(中略)それぞれの時点で日本の民主化につとめた人々が、自己に先行する民主主義者の努力に全く関心を払わなかったのである。彼らは「民主化」にはつとめたが「民主主義の伝統化」には全くつとめなかったのである。」38-39頁

 日本政治の可能性と限界を考える上での、必読の啓蒙書である。

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中流幻想の崩壊?

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 これは山形浩生も「完敗」と言うとおり掛け値なしの名著である。不動産、生命保険、社会保障、子供の教育、と要するに普通の個人(著者たちのいう「ゴミ投資家」)にとっての「資産」「財産」を、長期的な損得勘定を立ててきちんと運用し、「経済的独立」(身も蓋もなくいえば「安定した老後」なんだが)を達成するための基本スキルを指南する。本来こういうことを中学高校の「公民」ではまず教えるべきだし、大学教養課程の経済入門でやるべきなんだ。今の日本で学校で教えられる社会科学は(学者層の自己再生産という第一の目的を除けば)せいぜいが小役人(官民問わず組織内の「官僚」たち)のためのものでしかない。普通の市民、私人のための社会科学が必要なのだ。
 もちろんいろいろな欠点はある。基本的なことは山形氏が指摘しているが、たとえばインターネットトレーディングへの煽りとか、公共性の視点の欠如とか。著者たちは、「中流幻想」は崩壊した、これから日本社会は二極分解に向かう、と予測する。そして読者に、上手な生活設計、資産運用によってこの分解過程を勝ち抜け、とハッパをかけるわけだが、みんながみんなこういうサバイバルレースに狂奔する経済って、結果的には非常に景気が悪いものになるだろうし、治安も悪くなるだろう。厚い中流層が存在する社会の方がマクロ的に安定し、治安もよいはずだ。そういう視点(ケインズ的というか? あるいは金子勝的?)がすっぽり抜けていて、単純素朴な新自由主義、「小さい政府」路線で話が貫かれている。もちろん本書はあくまでも利己的な損得勘定の視点を基調としているからこそ価値があるのだから、総論的にはこれは無い物ねだりなんだが、各論的にはやっぱり「?」と思うところが多い。
 それからあくまでも利己的な損得勘定の視点に固執したとしても、なお本書には重大な欠落がある。それは(子供の教育の問題を除けば)ゴミ投資家にとって実は最大の最重要の資産、人的資産についての議論がほぼすっぽり抜け落ちているということだ。つまり本書全体が、人的資産の運用(つまり本業でしこしこ自分の体を動かして働くということ)については取り敢えずいろいろ考える必要なし、との前提で成り立っている。きちんと働いて当座の衣食住を満たした上で、さあいざというときのためあるいは老後のために備えましょう、というお話だ。しかし中流幻想の崩壊だの日本社会の二極分解だのを云々するなら、ここのところから疑ってかかる(たとえば、失業の可能性くらい誰にでもある、という前提から出発する)必要があるんではないだろうか。

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逆説かつ順接

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 いろいろ毀誉褒貶あるようですが、やっぱり素直にすごいとか思ってしまうわけですよ。これにせよ続編『キャラクター小説』にせよ、物語を批判し物語に抵抗する力を養い、物語の向こうにある(かもしれない)文学を憧憬する、という逆説のために書かれつつ、順接的に正面からの小説マニュアルとしても通用する、というものになっている、というのは。
 ま、こういうマニュアルで小説の書き方覚えるやつがぞろぞろ出てくるのは気味悪いし、むしろこういうマニュアルは本来の物語への欲望とか文学とかを抑圧する力をもってしまうのではないか、という疑問も根拠ありですが、現状はそういう抑圧されるべき「本来」の「天然」の力自体が衰弱しているのかもしれないし。著者のマニュアルは、たしかに元気いっぱい「天然」の「野生児」には抑圧的にはたらくかもしれないが、著者の想定している読者は彼らではなく、かといってマニュアルを器用に使いこなすことにだけは長けた優等生でもなく、気力体力もなく器用さもない最低の子供たちに、とりあえずマニュアル練習を通じて最低の体力と技術だけをつけさせよう、というのが趣旨なわけで。

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不毛な批判はやめよう。

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 評判もよいが、他方で何かとてつもなく見当違いの批判のされ方をしている。典型的なのはたとえば「『家庭から夫をリストラせよ』という岡田のご託宣は、単なる夫の責任回避の言い訳に転じがちなのではないか」というものである。その危惧自体はもっともだ。しかし、ではどうすればといいというのか? そもそも、普通に考えれば家事・育児を模範的にこなしてきた「理想的夫・父親」の部類に属するはずの岡田がこのような提言を行うことの意味を、こうした批判はまじめに考えているのだろうか? 
 そもそも「夫リストラ」云々は、本書の趣旨からすれば枝葉末節とは言わないまでも系論に過ぎない。では本論は何かと言えば、まず第一に「家庭とは子供、老人、障害者その他要保護者をサポートするという機能を負ったシステムである」(その系論として「子供のいない夫婦は法的に「結婚」していようと「同棲」に過ぎず、「家庭」を構成しない」という主張が出てくる)。そして第二に、「上記の機能にあわせて、家庭を効率的にマネジメントしていかねばならない」、この二点に尽きる。この二点を踏まえずに本書にあれこれコメントする論者はすべて外しているというか、問題外である。
 例の「夫リストラ」提言は言うまでもなく、家庭経営の効率化の要請から出てくる。家庭も経営体である以上、意思決定系統を統合して、責任の所在をはっきりさせねばならない。つまり「誰がボスか」をはっきりさせておかねばならないのだ。もちろん、日常生活の雑事をこなすにおいては、機械的な分業よりも弾力的な対応が望ましいだろう。しかしクリティカルな局面における決断や、全体のトーンを決めるグランドデザインの策定においては、その主体は一元化しておくことが望ましい。もしそれを夫婦で完全に対等に話し合って決めようというのであれば、夫婦の間で十分な意思統一、意見の一致が見られなければならない。しかしそのコストたるや、並大抵のものではない。
 先に挙げたような批判は、言ってみれば資本主義的な企業に対して「経営が民主的ではない」と文句をつけるようなものだ。しかしながら、資本主義社会においてほとんどの労働者自主管理企業がうまくいかなかったか、あるいは「普通の会社」になっていったこと、あるいは旧ユーゴスラヴィアのいわゆる「自主管理」の末路の持つ意味を考えれば、そのはらむ問題性というか甘さは明らかだろう。別に子供(あるいは要介護老人・障害者等)を抱える家庭は、直接には、誰と競争しているわけでもない。しかしこのような家庭の多くは、日々サバイバルをかけた苦闘のさなかにあり、大きなストレスにあえいでいる。マネジメントを効率化しなければ、精神的にも物質的にもやっていけないのだ。
 「夫婦は対等であるべきだ」なんてのは、理念としては、いまさら言うまでもなくあたりまえのことである。問題はその要件をクリアした上で、なおかつ効率的に、ストレスの少ない形で家庭を運営していくにはどうすればよいか、である。その問題を考慮に入れない『フロン』批判を、私は認めない。そしてその課題は、実は社会主義崩壊後の資本主義批判と同程度に困難な代物なのだ。

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紙の本心はどこにあるのか

2001/05/22 15:52

現代哲学入門

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 20世紀半ばまでの哲学のもっとも中心的なテーマは「言語」だった。人間がものを考えるためには、言語がなければいけない。言語がなくてもものを考えられないわけではないかもしれないけど、そういう言語なしの思考を他人が外側から観察することはできない。だから人間の思考が何であり、どのようにはたらくかを考えるためには、まず言語とは何かを考えなければならない——大ざっぱに言うとこんな感じだ。
 現代哲学の中心テーマはそれに対して「心」である。言語哲学全盛の時代には、外側から観察不能なブラックボックスとして敬遠されがちだった「心」だが、コンピュータ技術とコンピュータ科学の発展、脳神経科学の発展、更にそれらを承けての心理学の変貌によって事情は変わってきた。神経科学の発展は話され書かれた言葉以外のルートから人間の心を観察し、更にそれを他の動物と比較する可能性を開き、コンピュータの発達は、コンピュータの行う「計算」と人間の思考はどこがどう違ってどこがどう似ているのか、という問題を提出した。
 我々は自分で考え自分で判断するロボットを作れるのだろうか。いやそもそも、そのロボットが何ができたときに、我々はそれが「自分で考え自分で判断している」と判定できるのだろうか、いったいその規準は何か? 現代哲学の中心問題の一つは、たとえばこういうものだ。そういう事情について学ぶには、たとえばこの本からはいるといい。

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紙の本進化的意思決定

2002/06/27 11:17

進化ゲーム理論の格好の入門書

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 本書は進化ゲーム理論研究会最初の成果、と言ってよいか? 若手数理社会学者による、格好の進化ゲーム理論のテキスト。経済学・ゲーム理論プロパー外の、数理的な理論展開になれていない読者にとっては、かゆいところに手がとどく構成。と言っても、数学を使わないわけではない。伝統的なゲーム理論の基礎知識も、ないよりはあった方がいい。要するに、普通のゲーム理論の研究者があまりこだわらないところ、初歩的かつ原理的な疑問に丁寧に答えているのだ。「合理性」と「進化」の概念を明確に定義して区別したり、伝統的ゲーム理論を「先読み型ゲーム理論」と名づけて進化ゲーム理論との区別を明快にしたり、といった細かい仕事を評価したい。
 ところで、かつて著者の片割れ石原氏に「『進化的意思決定』なんて言葉あるの?」と聞いたら、「いやーないでしょう」とのお答えでした。ハイ。

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紙の本太陽の簒奪者

2002/06/27 11:11

「王道」

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 私は個人的にはハードSFなんか別にぜんぜん好きではないつもりなのだが、本書を読むと、やはりSFの本道と言うか王道はハードSFなのだといまさらながら強く思わされる。
 もともと日本のSFの第一世代は小松左京がはっきりそうであったように、戦後文学の鬼子というか落ちこぼれで、主流文学に対するルサンチマンがすごく強かったが、結局ルサンチマンだけではだめだった、ということか。いまや主流文学がかつてはSFにおいてしか許されなかった道具立てを自由に駆使できる時代になったので、かつての文学的SFにおけるような「重く困難なテーマをSF設定という裏技で玩具化して軽く探ってみる」というやり方が、正攻法の前に完全に失効したわけだ。ある意味、ジャンル全体で現代文学の前線を広げるための露払いをさせられて割を食ったわけで、気の毒と言えば気の毒なことだ。
 しかしハードSFという、小説あるいは文学としては「奇形」に近い代物は、おそらく主流文学によって追い越されたり取り込まれたりすることはないだろう。それは「SF」にしか扱えないテーマを扱う「SF」でありつづけるだろう。SFの王道たるハードSFのそのまた王道である、異種知性体とのファーストコンタクトを直球勝負で描いた本書を読み、そういう感慨を覚えた。
 また「ハードSF」という狭いジャンルの中の尺度で測っても、本書はある意味歴史的な意味を持つのではないか。古い話だが、ある意味本書の大先達に当たるだろう、ハル・クレメントやロバート・フォワードの描く異種知性体が「ものすげー変なかっこしてても所詮頭の中はアメリカ人」とよく揶揄されたのに対して、本書の描くエーリアンはスタニスワフ・レムばりの、まさに人間とは異質の何かである。しかもどちらかというと思弁的で文学志向のレム(しかし読み返すと意外とハードSFしているところもあってちょっと感動するが)に対し、徹底して具体的なハードサイエンスの成果の延長線上でそれを描こうとしているところが新しい。もちろんこの辺は、近年の認知科学や心の哲学の急速な発展を踏まえてこそのものではあろうが……。
 それにしても、やはり近作『ふわふわの泉』(ファミ通文庫)でも語られていたが、野尻の考える「非適応的知性」とはどのようなものなのだろうか? もっとこのテーマを彼が突き詰めるのを見てみたい。

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紙の本仮面ライダー 誕生1971

2002/06/27 11:08

仮面ライダーという「神話」

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 去年がライダー30周年ということで、記念企画として村枝賢一『仮面ライダーSPIRITS』(講談社)が始まったのは記憶に新しいところだが、本書もそれに続くものととりあえずは考えてよかろう。
 ただし現代を舞台に、1号2号からスーパー1、ZXと総登場の『SPIRITS』とは対照的に、こちらは1970年代初頭の1号ライダー本郷猛に物語を絞り込んでいる。はっきり言えば、この世界にはおそらく永遠に2号以下のライダーたちが登場することはないだろう。
 コンセプトとしてはbk1のアオリに、また赤星政尚の解説にあるとおり「藤岡弘の不慮の事故によって佐々木剛がキャスティングされ2号ライダーが誕生、仮面ライダーは複数化を余儀なくされた。事故を起こさなかった可能性に基づいて書かれたオリジナル小説」というわけだ。
 実は本書にも2号ライダーになるはずだった一文字隼人らしき人物が登場するが、本書きりで退場してしまう。どういうことかというと、本書では本郷と一文字(?)の役割関係が、ちょうど原作版、というより石ノ森章太郎によるコミカライゼーションのそれを逆転した形になっているのだ。1号2号の同伴者であった普通人の滝和也を主人公に据え、出だしは好調だった『SPRITS』が、滝をうまく狂言回しに使えなくなった最近は少しくたびれてきているように見えることを思えば、これはなかなかいい工夫である。ライダー軍団総登場では、やはりどうしても物語は一貫性を保てないだろう。
 しかしそれ以上に注目すべきは中味である。ちょうど古典たる『水滸伝』を現代人にとって読むに耐えるものへと徹底的に脱構築している北方謙三『水滸伝』(集英社)と同じように、本書は大人になったライダー世代が、現代に生きる大人として、仮面ライダーという神話を解体再編する作業なのだ。いったい「悪の秘密結社」ショッカーとはなんだったのか、そして仮面ライダーの「正義」とはなんなのか、を改めてきちんと考え抜き、現代的なテーマとして再生している。物語はまだ入り口に差し掛かったばかりであるが、まずまずの切れ味を示している。
 なお「地獄大使」(の和智バージョン)のキャラ造型は見事の一語に尽きる。

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紙の本開発の政治経済学

2001/07/05 11:22

開発経済学の特色ある入門書

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 本書は雑誌『経済セミナー』の連載を改めてまとめたものであり、同じ著者の91年の教科書『開発経済学——形成と展開』(法政大学出版局)をフォローアップする書物である。開発経済学の教科書は日本語でもいくつかあるが、その中で氏の2冊の特徴は学説史を主題とするところにある。それはトピックスや分析手法を体系的に紹介していくのではなく、開発経済学という実践的な政策科学の歴史を、現実の開発政策の歴史との相互作用の中で「アイディアの発展史」として描き出していく。
 前著は開発経済学における構造主義、積極的介入論の衰退と新古典派の興隆、市場指向の高まりを、「「インドモデル」から「韓国モデル」への転換」というわかりやすいフレーズで押さえ、IMF・世界銀行公認の理論としての新古典派開発経済学の覇権への、政治経済学的立場からの疑義、とりわけアマルティア・センの潜在能力アプローチへの共感の表明をもって締めくくられていた。それに対して本書では、前著以降の歴史的展開が踏まえられているだけではなく、ページ数も増えたせいか前著と重複する主題についてもよりつっこんだ議論がなされている。とりわけノーベル賞受賞者T・W・シュルツを主に取り上げつつ、「新古典派開発経済学」が単なる「新古典派経済学」ではないことを説得的に論じるあたりは大変に興味深い。
 しかしやはり本書のキャッチフレーズがあるとすれば、まさに題名通り「開発の政治経済学の興隆」といったところであろう。前著ではまだ予感、期待にとどまるところが大きかった開発経済学の政治経済学化が、今や力強いうねりとなっていることを、本書は説得的に示してくれる。本書で指摘されているとおり、93年の有名な世界銀行『東アジアの奇跡 経済成長と政府の役割』(白鳥正喜監訳、東洋経済新報社)などはIMFや世銀の立場、あるいは新古典派開発経済学自体が、従来の構造調整政策を見直し、政治経済学的アプローチへと転換していっていることを示している。またセンの潜在能力アプローチは、UNDP(国連開発計画)のキーコンセプト「人間開発」のバックボーンを提供している。(90年以降毎年発行されているUNDP『人間開発報告書』(日本語版、古今書院)を参照のこと。) そして何より、本書刊行後程なく、他ならぬセン自身が98年度にノーベル賞を受賞したことは記憶に新しい。
 ただ、まさに絵所氏が本書で指摘しているとおり、その着地点はなお明らかではない。広義の功利主義から抜けることはなく、その点でまさに「経済学」である新制度派と、新たな倫理学をも切り開きつつあるセンのアプローチは基本的なところですれ違っているし、また「経済学」の一分野としての開発経済学と、「開発研究」の一環としての開発経済学、という二通りのありようの間の緊張関係については、原氏も『アジア・ダイナミズム』(NTT出版)の後書きで語っているとおりだ。その辺の未来の不分明さをも含めて、開発経済学の現状を素人にわかりやすく教えてくれる好著である。ただ前著に比べて論点が盛りだくさんであり、数式も少しあるので経済学の素養が全くない人にはちょっとつらいかも知れない。経済学のど素人にはむしろ前著をすすめる。

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統治の再編成としての大正デモクラシー

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 本書はフーコー権力論を日本近代史、具体的には大正デモクラシーに適用した成果である。こういう仕事は初めてではない(今では入手不可能となった榎並重行・三橋俊明『別冊宝島 思想の測量術』『細民窟と博覧会』他は、主に開化期を対象としていた)が、刑事政策、社会事業、精神医療、と「ミクロ政治学」をやるときのおきまりのコースの他、「天皇機関説」論争や吉野作造の民本主義論など「マクロ(普通の)政治学」の話もあり、と比較的目配りよくまとまりもよいので、お勉強になるよい本。
 ただし、大正期を「近代」から「現代」への転換期とみなしていろいろほじくる研究は政治史に限らず、労働史とか農業史とかこれまでもたくさんあり、それなりの成果も上がっているはずなんだが、そうした先行研究とのつながりが門外漢たる私にはいまいちよくわからない。
 「大正デモクラシー」に潜在するやばさ=統治の対象としての「民衆」の発見、それが昭和ファシズム=「民衆」の動員への準備をなしていた、という指摘自体はそんなに独創的なものではないし、逆に昭和期をそう片づけること自体への批判(動員の中に潜在したオルタナティヴや抵抗の契機の存在の指摘)がたとえば米谷匡史「戦時期日本の社会思想」(『思想』97年10月号)とか、あるいは坂野潤治『日本政治「失敗」の研究』(光芒社)によって提起されていたのでは、とかいろいろ考える。

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紙の本雇用と失業の経済学

2001/12/18 16:31

必読書ではあるのだが……

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 本書は論点網羅的で目配りもよく、丹念な実証の膨大な積み重ねの上に書かれた好著ではある。現下の日本の雇用と失業の動向について、個別企業・家計・個人レベルのマイクロデータを万単位集めた計量分析で、雇う側雇われる側双方の事情をきっちり浮かび上がらせているし、グローバル化や情報化の雇用へのインパクトも視野に収め、包括的な政策提言でまとめている。日本の雇用問題に関心のある人はとりあえず必見、であろう。しかしながらその一方で、隔靴掻痒の感もまぬかれない。この本からは日本経済の全体像が見えてこないのだ。
 この本にはマクロ経済の影が薄い。マクロ変数としての雇用−失業は、ミクロ的な企業と家計の行動の結果として定まってくるものとしてのみ扱われている。雇用政策の分析においても、伝統的なケインズ政策としての公共事業による雇用創出の弱さが指摘され、ミクロ的な発想に基づく積極的労働市場政策——職業紹介、教育訓練、起業支援が三本柱である——の構想が展開される。しかしケインズ政策が死んだというわけわけでもなかろう。まず、現下の不況についてはクルーグマンらの「流動性の罠」説、つまりケインズ的不況との理解が有力な見解となっている。そしてケインズ政策は公共事業などの財政出動がすべてではない。近年ではむしろ金融政策のほうが重視されているのであり、クルーグマンの「調整インフレ」戦略はその典型である。ここに描かれている構想はマクロ変数としてのマネーサプライ、利子率、物価が原因となってミクロレベルの経済主体の行動を変えていく、というまさにケインズ的な、固有の意味でのマクロ経済学的なヴィジョンである。
 マクロ経済の視点イコール全体経済の視点というわけではないにしても、ミクロとマクロの両レベルを視野に収め、なおかつ両者の整合性に配慮した、今日的に洗練された(ニューケインジアンの)マクロ経済学の分析を念頭におくと、ミクロに徹した——マクロをミクロの積み上げ、ミクロの結果としてのみ見る本書の分析はどうしても平板な印象を与える。
 こうした現代マクロ的なヴィジョンに——賛成するにせよ反対するにせよ——とりわけ到達しやすいのは金融論という研究視角からであることは「流動性の罠」論争を見てもばわかるが、労働経済学からこのようなマクロ的ヴィジョンにいたることはできないのか? そう考えると、奇妙なことに気づく。かつての古典的な——ミクロ積み上げ的マクロではなく、ミクロ棚上げ的マクロ、つまりオールドケインジアンの経済学では、労働サイドはある重要な役割を担っていたではないか、と。つまり昔懐かしいフィリップス曲線、失業率と賃金上昇率、更にインフレ率との相反関係である。そこでは労働組合と企業の交渉が雇用と、そして何よりも賃金を決める。そして賃金がマクロ的な物価を決め、マクロ経済環境を左右して、それがひいてはミクロ的な企業行動を制約する。昔風の言い方をすれば階級闘争である。
 更にこの労働組合と企業の関係、労使関係自体が実はマクロ的なものであった。日本の春闘体制は言うに及ばず、合衆国のパターンバーゲニングやヨーロッパの産業別交渉、更にはコーポラティズム体制において労働サイドは労働組合の全国組織という形をとってマクロ経済レベルでの主体としてはっきりした形をもっていた。
 こう考えてみると、まさに樋口の本書には、マクロの影が薄いだけではなく、それ以上に労働組合の影が薄い——というより皆無である。本書で言う労働者はまさに労働者個人とその家計であって労働組合ではない。労使の関係は労使関係というより雇用関係である。
 しかしそれは本書の欠点なのか。著者の責任なのか。そうではあるまい。まさに今の日本の状況が、そういうものなのだ。

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紙の本世界経済論の構図

2001/07/05 11:35

市民社会派の最後の遺産

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 国際労働力移動研究の日本における草分けであった著者の遺した最後の本である。弟子の室井義雄氏が、遺されたメモに従って遺稿を編集してなった1冊。
 「市民社会派」とか「構造改革派」とかいった言葉が辛うじて意味を持って響いてくる最後の世代くらいに評者などは位置するのではないかと思うが、氏はまさにこの「市民社会派」「構造改革派」の論客として古くから活躍されていた。大学闘争前後の時代に、マルクスのテクストの読み直しによる社会主義ヴィジョンの再構築、市民社会としての社会主義社会の構想が、故内田義彦氏の播いた種(『経済学の生誕』未来社、『資本論の世界』岩波新書)を故平田清明氏が中心になって(『市民社会と社会主義』『経済学と歴史認識』、ともに岩波書店)収穫していくという形で行われていったが、氏もまた望月清司氏との共著『講座マルクス経済学1 社会認識と歴史理論』(日本評論社)や『マルクス・コンメンタール』(現代の理論社)の編集への参加などによってその一翼を担っていた。しかしながら、その後の氏と平田氏たちの行く道は大きく分かれたように見える。平田氏を中心とする学説史家たちは80年代半ば以降、雪崩を打ってフランスのレギュラシオン学派の輸入に血道を挙げ始めた。それまでの文献学的に精度の高い思想史研究と、「何でもアリ」の折衷主義を強みとも弱みともするレギュラシオン学派の現代資本主義の実証分析とが、一体どのような理屈でつながっているのかは、外野からはついにわからないままだった。
 それに対して森田氏は、欧米ラディカル社会科学の新理論潮流、南北問題研究における従属理論や、とりわけウォーラーステインの世界システム論、あるいはラディカル地理学やフェミニスト開発研究、多国籍企業研究における「新しい国際分業」論などに早くから注目し、それらをきちんと消化しながら、なおかつ輸入業者となることはなく、自前の理論構築を心がけ、若手を組織して国際労働力移動の実証的研究グループを作り上げた。私も生前の森田氏に接する機会が何度かあったが、病躯をおしてつねに精力的に語るその姿は、コミットする左翼知識人のそれであったと同時に、同じことを何度も何度も語ることに満足せず、日々休むことなく、わずかづつでも自力で先に進もうとする研究者のそれでもあった。
 要するに、本書には「市民社会派」の最後の遺産が詰まっている。私が言いたいのはこれである。95年には氏を編著者として教科書『世界経済論 《世界システム》アプローチ』(ミネルヴァ書房)が出ているが、それと本書を見比べてみれば、何とまあ構成がそっくりなことか! 結局氏の手のひらからまだみんな出られていないのであろうか、と思うとちょっとむなしくなる。

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