ウロボロスさんのレビュー一覧
投稿者:ウロボロス
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心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー
2002/05/18 23:46
本書を読むと自分の頭をそっと撫でてみたくなるにちがいない。きっと。
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本書を読みながら床について眠ってしまった「私」は、翌朝「ピィーピィピィー」「ピィーピィピィー」という雀のような燕でもないような小鳥の囀りで目が醒めた。そして合点がいった。なるほどこれが本書でくりかえし語られる「クオリア」というやつだなと。しかし、本書を読み終わったいま「私」とは本当にわたしなんだろうか? という疑問には合点がいかない。
本書は<心>と<脳>の問題を別のものとして捉えるのではなく、関係するあるいは関係されあうシステムとして考え、これまで永遠の謎とされてきた「心脳問題」にひとつのシステム論的転回を迫る、画期的な啓蒙的教養書である。「クオリア」とはモダリティー(五感)によって知覚認識するさいのその質感をあらわす。そしてこの概念が本書の読みどころといってさしつかえない。図解や写真を巧みに使い、じつに手際よく構成されている。
「この絵の中には何が隠れているでしょう」には、解答を見てもしばらくピンとこなかった。私の志向的クオリアは普通のひとより劣っているのでしょう。
さて本書のサブタイトルにもある「私」というミステリーは、
永遠の謎として封印されてしまうのか? その謎を解く鍵がミラーニューロンであり、著者のいう「錬心術」なのかもしれない。
そしてその術を効果的に促すのが、文学的イマジネーションではないかと私はひそかに思っている。それにしても一千億のニューロンの働きぶりを考えると、側頭葉から頭頂葉にかけてそっと自分の頭を撫でてやりたくなるのは私だけだろうか。
富士
2002/05/11 18:14
戦後文学の傑作
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この作品は序章「神の餌」から十八章を間にはさみ終章「神の指」で終わる一五〇〇枚の長編小説である。
物語は、昭和十九年、富士山麓の国立精神病院が舞台となっている。この小説の幕開きは、主人公の「人類の滅亡」を黙示させる呟きによって語られる。
主人公は精神科の研修医としてこの病院に勤め、尊敬し敬愛する甘野院長とともに、患者たちの治療にあたる。
患者として登場するキャラクターがきわだっている。黙狂の哲学少年、元精神科医研修生で自分のことを「宮様」と思い込む躁鬱青年、食欲求で常に脳内が満たされている患者、伝書鳩のことしか考えない患者、処女懐胎によって主人公の子を身ごもったと訴える女性患者などなど。
まるでドストエフスキーの作中の登場人物たちを彷彿とさせ、物語は終章へと大団円をむかえる。
終章ちかくで独白する主人公の内面のモノローグは圧倒的なヴィジョンをもって読むものに迫ってくる。
この作品は、極限状況のなかで生きる人間を、その存在ごと描きつづけてきた作家・武田泰淳のもっとも好きだったという「諸行無常」の思想のうちによく表現された作品であり、自身の傑作であるとともに戦後文学を代表する作品でもあると思う。
自分を知るための哲学入門
2002/07/27 22:38
自分を知るためにはまずリンゴからはじめよう
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あまた出版されているこの手の本のなかにあって、この著者によるこの著書は、出色の内容となっている。哲学することのきっかけについて、まず竹田氏自身の体験から語りおこし、哲学とは何かについて、冒頭で簡明に3つに要約してみせる。1、ものごとを自分で考える技術である。2、困ったとき、苦しいときに役に立つ。3、世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。そしてそれぞれの側面を古代ギリシャのタレス(万物の原理は水であると説いた)から、ソクラテス、プラトン、アリストテレスへと移行しながら、中世をはぶいて近世、近代、現代、ポスト・モダンへとリレーするその手際のよさは見事である。
竹田氏の考えを簡単に要約すると、それはつまりこういうことである。
哲学とは、世界認識の方法ではなく、自分認識の方法であると。そしてそれは、自分の外部に実体的根拠(永遠の真理や理想的な国家・社会など)をたてるのではなく、ひとりひとりが、生活の場で考え、体験したことを、世間のなかで他の多くの人々に試されながら了解し、あるいは了解されあうことのなかでエロス的(竹田氏の用語法)に積み上げてゆくものだ。とまあこんな解釈でよろしいのではないでしょうか。そして竹田氏の「真・善・美」なるソクラテス用語を何の衒いもなく使用するあたりの勇気と闊達さに心から拍手したい。それにしてもフッサールの現象学をこれくらい簡単に説明してくれると、私のような凡人にもおおよそ理解できるのです。いきなりノエシス・ノエマとこられるとちょっとおよび腰になるのです。テーブルの上のリンゴははじめからあったのではないのです。私が見つけたとき、それをリンゴだと認識したときにのみ、あるのです。
生きることの意味 ある少年のおいたち
2002/05/14 00:12
清く正しい凄絶な生の記録
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贖われざる罪の罰が「生きる」ことだとしたらその人にとって「生きることの意味」とはいったいどのようなものだろう。
この本は金天三(高史明の本名)という少年が戦中・戦後にかけて、日本と韓国という二つに引き裂かれた祖国で体験した実話を元に書かれた、自身の伝記であり、その父の伝記でもある。
われわれ日本人には想像もつかないような体験談は、「生きる」ということの価値を絶対零度の地点に引き戻し、相対化してしまうほどの迫力でせまってくる。
しかしこの家族は貧困と差別と偏見を、人間としての矜持を傷つけることなく、怨恨を笑いに、悲しさをやさしさに変え、誇りをもって生きぬいていく。
辛いときや、悲しいときに屋根に登って空を見つめる金少年。
彼のまなざしが、空と彼の頭のなかの思いに吸い込まれ、その彼の思いも空の彼方へ吸い込まれていく。美しい散文で書かれたこのような文章を読むと、素直に感動してしまう。
成人した高史明が亡くなった無名の父をが残してくれたものは、人間の歴史にあらわれた、多くの思想家や作家に等しいほどの重みをもっていると回想するシーンに、はからずも涙した。
これは、清く正しく生きた凄絶な生のドキュメントである。
時間の本性
2002/06/12 00:47
時間とは、この大地にしっかりと足を据えて立つことから始まる
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絶対的な真理を志向することへの抗いがたい欲望のうちに潜む意志の強靭さは、ときとして擬制の真理におきかえられるという陥穽にはまる。生活者としてのわれわれは、「時間」というものほど絶対的な真理はないと信じて疑わない。「今、何時? えーもうそんな時間」「約束の時間に間に合うだろうか?」われわれは時間に縛られているというより時計に動かされているといったほうが正しい。
さて、ところで哲学者が挑む「時間」とはなんぞや。著者・植村氏のその問いへのまなざしと思考は、直線でありながら、曲線でもあり、ところどころで交差し、平行し、けっして一本の大きな直線を描いていない。それはまるで「時間」というものが、アリストテレス的時間(自然の時間)の点と線とアウグスティヌス的時間(精神の時間)の点と線に分裂しているように……
しかしながら植村氏の思考と思索はついにその断裂を綜合する可能性を、この惑星の大地に二足で直立し、歩行し、運動する身体の内とその外部に見出す。そしてそれは時間様相としての「現在」とは何かという問いに収斂される。アリストテレスの「運動」における次のような文章を読むというのは、「いま・ここ」における私の脳内の運動体としての「現在」である。
「可能態においてあるものがその完全現実態においてあり現実的に活動しているとき、しかもそのあるものそのものとしてではなしに動かされうるものとしてそのように現実に活動しているとき、こうした可能態においてあるものの完全現実態が、すなわち運動である」(自然学)
日常生活者としてのわれわれこそが、「時間」を絶対化し、擬制の真理としてのの陥穽にはまる。そして絶えず運動し、思考し思索する身体としての思索者(哲学者)のみが陥穽の穴を飛び越え、飛翔する。
琥珀の望遠鏡
2002/05/22 23:56
ファンタジーの王道
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この本は、「ライラの冒険シリーズ」全3巻の完結篇に当る。
これは、単なる冒険ファンタジーではない。私は埴谷雄高の「未出現宇宙」について考えた。あり得たかもしれない、いやあり得るはずのもうひとつのパラレルワールド。この作品の骨子をなすキーワードにダスト(素粒子)というものがある。物語はこれをめぐっての二つの勢力の争いを縦軸として描きながら、アダムとイヴの原罪を根底に据え置いて、壮大なスケールで語られる。
世界を破滅に導く源である<ダスト>とはいったい何なのか。
さらにおよそ三万年前の人類の頭蓋骨に侵入し増殖をはじめたシャドウ粒子とは? めくるめくストーリーの展開には、それにふさわしいキャラクターが必要だ。それが、ライラでありダイモン(動物の守護精霊)であり、魔女たちであり、勇気と気高い誇りをもつ白熊(イオレクバーニソン)だ。とにかくジェットコースター式の面白さと、宇宙論的存在論が充溢した、正統的なファンタジーである。この作品では各章にパラグラフが使われているがウィリアム・ブレイクのつぎの言葉が、この作品全体を象徴している。
みんなで世界を生きかえらせろ、
ダストのすべての粒子が
そのよろこびの息を吐く世界を
メメント・モーリ
2002/07/21 02:35
異世界との往還によるタイムファンタジーの傑作
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「ほほ」という名の現実世界になじめない12歳の少女が、異界との往還によって成長してゆく、いわゆるタイムファンタジーである。タイムファンタジーといっても、タイムスリップして、過去や未来の世界にゆくのではなく、物語の舞台は、奇妙でちょとエレガントな不思議な鬼たちが住む「異世界」なのです。主要登場人物たちは、主人公のほほの他に、彼女をこの鬼の住む世界に連れてきたヨロイ、森の鬼たちと離れて、水の世界でしか生きられない鬼の異端児(というより、落ちこぼれ)フロー・ヒールそしてこの国の王子であるモーリ。
いまこの鬼の世界は、モーリのある決意の躊躇によって、時が止められてしまっている。時が止まると世界も止まるのではなく、世界は時によって支配され、時によって世界は繰り返されるという事態を招く。この作品は、時間と世界との関係を自己と非自己との関係においてあるいは、人間と自然との関係において、さらには、親と子の関係において深く捉えており、それぞれは対立するのではなく番うことによってペアになって存在していることを、教えてくれる。そしてわれわれ人類にとって最大の関係が「生」と「死」である。
現実世界に還ってきたほほは、そのことをよく学んだはずだ。
メメント・モーリ、
死を想えば、生が見え
生を想えば、死が見える
メメント・モーリ、
死を想えば、
誰のせいでも、誰のものでもない、
自分の生がそこにある。
メメント・モーリ、
振り返ることより、今を生き残ろう。
また出会うときのために。
(最終ページ抜粋)
なるほど地域通貨ナビ
2002/05/30 00:30
貨幣であってお金でないものってな〜んだ?
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一本のビデオテープがきっかけだったとみな口を揃えて言う。衝撃的だった。とにかくやってみようと。一本のビデオテープ、それは1999年5月4日にNHK−BSで放映された番組「エンデの遺言-根源からお金を問うこと」である。
本書はその番組の制作にかかわった森野氏とはやくから地域通貨に取り組んでいた丸山氏の編著(後半部は二人の対談)による地域通貨についての入門書、いやナビゲーションである。
私が初めて「地域通貨」という言葉を知ったのは、文芸批評家の柄谷行人氏らが立ち上げたNAM原理によってだった。その時はよくわからなかったが「エンデの遺言」のビデオと本書を読むと柄谷氏らの意図するものとはいささか違うにせよ、経済構造のシステム論的転回が必要であり、「いま行動に移さなければ、日本はいや世界は破滅の道を歩むであろう」と思っている人たちが今この日本に確実にいて、その数が徐々に増えていることが理解できる。
北海道の交換リング「ガル」、千葉県の「ピーナッツ」、山梨県の「八ヶ岳大福帳」大分県の「yufu」などこれらは、それぞれの地域で実際に使われて流通している貨幣または通帳の名称である。本書を読めばそれぞれの地域で「地域通貨」を立ち上げた時の苦労話や、今後の問題点がわかる。そして「yufu」の通帳方式の表紙に記してあるつぎの言葉からはめざすべきヴィジョンが見えてくる。
「このシステムは、わたしたちの技術や熟練、時間、森、川、土、水、空気そして人々の相互の信頼と協力という、本当の資本によって支えられている」。
悪いうさぎ
2002/06/28 22:14
読者よ!「うさぎ」にだまされてはいけない。
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フリーの女性調査員・葉村晶(女性)が活躍するミステリーである。しかも、謎の部分(ミステリー、特にタイトルの意味)を取り除いても、ユーモア風俗小説として充分楽しく読めた。主人公が住むアパートの大家であるオカマの光浦功ちゃん(たんにお姉ことばを使うだけかもしれないが……)なんかは、事件の進展とはまったく関係ないのであるが、彼が登場するとほっとするのである。ただ主人公の友人である相場みのりの描き方が不充分であり、中途半端である気がしないでもない。失踪した美和の友人であるミチルの生い立ちは不幸であるが、彼女なりに精一杯頑張って生きろとエールをおくりたい。
さて本筋のミステリーのほうであるが、導入と筋立ては面白いが、動機と事件の結末にはやや納得しかねる。つまり、リアリティーが感じられないのである。この作者とメジャーな三人女性ミステリー作家(高村薫・宮部みゆき・桐野夏生)との決定的な差異は、この一点に尽きると思う。おそらくこの作者を支持する熱心な読者たちは、女性とティーンエイジャー層だと思われるが、おじさんであるこの筆者もまずまず楽しめました。
世界の終わり、あるいは始まり
2002/05/12 17:32
妄想の終わりあるいは始まり
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本格ミステリーならば周到な仕掛と言えるのだろうが、この作品はちょっと違う。つまりすかっとした「どんでん返し」などを期待してはいけない。
ストーリー自体は単純明快。埼玉県の郊外の住宅街で、小学生がつぎつぎと誘拐され身代金を強奪されたうえ、被害者は全員殺害されるという事件が起こる。
ただし腑に落ちない点がひとつ。身代金の額がやけに少額であるということだ。100万から200万。2、30万という要求額もあったりする。この時点で読者の興味はひとつだけ。
犯人は何者で、どういう動機と目的でこのようなおぞましい事件を引き起こしたのか?という。やがて意外なところから容疑者が浮かぶ。
この小説の主人公は、あらゆる状況から考えて小学6年生の自分の息子が犯人ではないかと思い悩む父親である。もしも自分がこの主人公の父親と同じ立場にたたされたとしたらどう行動すべきか?と考えるとたしかにリアリティーを感じさせ面白い。
しかしこれは、1000億のニューロンがシナプスでネットワークを結んだ結果の非在の現前化による脳内の妄想とも言えなくもない。この小説の真の面白さは、その妄想がひとりの人間の脳内でいかにして生み出されていくかというそのプロセスの読みにあるのかもしれない。
最後の場面でこの父親と息子がキャチボールをするシーンがある。「ラスト一球」これが終わりではなく、ここからまた始まるのである。父親の妄想が。
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